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宇治陵の続き。
陵墓編に記してある通り、宇治陵自体が37ヵ所に点在しており、また埋葬者も20名と多いため、陵墓編と人物編に分けてあります。

陵墓編はこちらから。

ということで埋葬されている人物について。


【皇后】

藤原温子(オンシ/ヨシコ)
・生没年:貞観14(872)年~延喜7(907)年
・異  称:東七条后
・続  柄:宇多天皇中宮/(父)藤原基経、(母)操子女王
16歳で宇多天皇の更衣として入内し、女御宣下を受けた。宇多天皇はこれ以前に藤原胤子等他の女御が娶っていたが、阿衡事件(基経の参内拒否事件)で冷え切っていた基経との関係改善のために温子を女御とした背景があった。
天皇との間には均子内親王をもうけたが皇子は生まれなかったため、胤子出生の敦仁親王(後の醍醐天皇)を養子とした(このころ胤子は既に薨去している)。
醍醐天皇即位に伴い皇太夫人に立てられた。この時代の皇太夫人は中宮と同意義であったため、宇多天皇の中宮とされる。
享年35歳。


藤原穏子(オンシ/ヤスコ)
・生没年:仁和元(885)年~天暦8(954)年
・異  称:五条后
・続  柄:醍醐天皇皇后/(父)藤原基経、(母)人康親王の王女
16歳で醍醐天皇に入内し、女御宣下を受けた。保明親王、寛明親王(後の朱雀天皇)、成明親王(後の村上天皇)等三男一女をもうけた。
39歳で中宮となり、醍醐天皇が朱雀天皇にしたことに伴い皇太后に立てられた。
享年70歳。


藤原安子(アンシ/ヤスコ)
・生没年:延長5(927)年~応和4(964)年
・続  柄:村上天皇皇后/(父)藤原師輔、(母)藤原盛子
13歳で成明親王(後の村上天皇)に入内。夫の即位に伴い女御宣下を受けた。為平親王(後の冷泉天皇)や守平親王(後の円融天皇)等3男4女を儲けた。
かなり嫉妬深く気性の激しい性格だったらしく、他の女御の美しさに嫉妬し壁の穴から女御に土器を投げつけるという行為にでた。これに怒った天皇は安子の兄弟等に謹慎を命じたが、天皇に詰め寄ってこれを撤回させたという。
31歳で中宮に立てられたが、四女の選子内親王を出生した際に体調芳しくなく間もなく薨去した。
享年38歳。
薨去後、冷泉天皇即位に伴い皇太后号を贈られ、円融天皇即位に伴い太皇太后号を追贈された。


藤原懐子(カイシ/チカコ)
・生没年:天慶8(945)年~天延3(975)年
・続  柄:冷泉天皇女御(贈皇太后)/(父)藤原伊尹、(母)恵子女王
18歳で為仁親王(後の冷泉天皇)に入内、夫の即位に伴い女御宣下を受けた。天皇との間には師貞親王(後の花山天皇)等1男2女を儲けた。
夫帝が円融天皇に譲位すると、師貞親王が立太子。しかし、我が子の即位を見ることなく薨去した。
享年31歳。
花山天皇即位に伴い生母であることを以て皇太后号を追贈された。


藤原超子(チョウシ/トオコ)
・生没年:天暦8(954)年~天元5(982)年
・続  柄:冷泉天皇女御(贈皇太后)/(父)藤原兼家、(母)藤原時姫
14歳で冷泉天皇に入内、同年に女御宣下を受けた。この時父兼家は蔵人頭で公卿ではなかったため、非公卿の娘が女御宣下を受けた初例となった。
夫帝上位後に、居貞親王(後の三条天皇)、敦道親王等3男1女を儲けた。
しかし天元5年に急逝。眠るようにいつの間にか息絶えていたという。
享年28歳。
三条天皇即位に伴い生母であることを以て皇太后号を追号された。


藤原媓子(コウシ/テルコ)
・生没年:天暦元(947)年~天元2(979)年
・異  称:堀川中宮
・続  柄:円融天皇皇后/(父)藤原兼通、(母)昭子女王
26歳で円融天皇に入内し、同年の内に女御宣下、中宮に立てられた。
優れた人柄であり12歳年下の夫円融天皇とも仲睦まじかったが、子女には恵まれなかった。
享年33歳。


藤原遵子(ジュンシ/ノブコ)
・生没年:天徳元(957)年~寛仁元(1017)年
・異  称:四条宮
・続  柄:円融天皇皇后/(父)藤原頼忠、(母)厳子女王
21歳で円融天皇に入内、女御宣下を受けた。後に円融天皇の初后媓子が薨去したため、中宮の座が空位となり遵子ともう一人の女御であった藤原詮子が候補に挙がった。詮子は懐仁親王(後の一条天皇)を出生したため有力視されていたが、関白頼忠の娘である遵子が中宮に立てられた。
しかし結局遵子が天皇との間に子女を儲けることはなかった。40歳で出家し、3年後には皇太后に、15年後には太皇太后に立てられた。
享年61歳。


藤原詮子(センシ/アキコ)
・生没年:応和2(962)年~長保3(1002)年
・院  号:東三条院
・続  柄:円融天皇女御(贈皇太后)/(父)藤原兼家、(母)藤原時姫
16歳で円融天皇に入内し、女御宣下を受けた。天皇との間には懐仁親王(後の一条天皇)の一男を儲けた。
円融天皇の初后媓子が薨去したため、中宮の座をめぐって遵子と共に候補に挙がるが、父が関白であった遵子が中宮に立てられた。

しかし詮子出生の一条天皇が即位すると立場は逆転し、詮子は皇太后に立てられた。天皇の実母(国母)であるゆえに強い発言力を持ち、しばしば政に介入していたため「国母専朝」と非難された。
また、弟の道長をかわいがっており、兄の道隆没後には執政者に道長を推したため兄の一族は没落していった。その一方で真如堂、慈徳寺を建立する等、強い信仰心も持っていた。
夫の円融法皇が崩御すると出家し、皇太后宮を停止、上皇と同じく院号宣下を受けて東三条院の院号を奉られた。これは女院の先駆けとなった。
享年40歳。


藤原彰子(ショウシ/アキコ)
・生没年:永延2(988)年~承保元(1074)年
・院  号:上東門院
・続  柄:一条天皇皇后/(父)藤原道長、(母)源倫子
11歳で一条天皇に入内、女御宣下を受けた。翌年には立后され中宮となった。
このとき同じ后として皇后の藤原定子がいたが、難産で薨去したため、彰子が唯一の后となった。
中宮となってからも中々御子に恵まれなかったが、20歳で敦成親王(後の後一条天皇)、さらに翌年には敦良親王(後の後朱雀天皇)を出生し、父の道長は狂喜したという。
夫帝が三条天皇に譲位したことに伴い皇太后に立てられ、さらに彰子出生の後一条天皇即位に伴い太皇太后に立てられた。
父道長の政界引退後は弟の頼通とともに摂関政治を支えた。38歳で落飾し上東門院の院号宣下を受けた。
その後一時重篤になるも治癒し、我が子後一条天皇、後朱雀天皇、そして孫の後冷泉天皇、後三条天皇の崩御を見届け、さらに曾孫の白河天皇の即位を観るという長寿を全うした。
享年87歳。
女房に紫式部、和泉式部、赤染衛門等がおり、華やかな平安宮中文化を形成していたことは有名。


藤原媙子
(セイシ/スケコ)
・生没年:天禄3(972)年~万寿2(1025)年
・院  号:
・続  柄:三条天皇皇后/(父)藤原済時、(母)源延光の娘
19歳で皇太子居貞親王(後の三条天皇)に入内、夫の即位に伴い女御宣下を受けた。美麗な人物であったらしく、夫帝の寵愛も篤く、敦明親王等4男2女を儲けている。
20歳のときに藤原道長の娘の妍子が中宮に立てられたが、媙子はすでに父が逝去しており後見が弱かったため、対抗策として夫三条天皇の意思により皇后に立てられた。しかし、立后の当日も道長の妨害にあい儀式に参加したのは公卿4人という侘しさであったという。
夫帝が後一条天皇に譲位したことに伴い、媙子出生の敦明親王が後一条天皇の皇太子となるが、これも道長の圧力により翌年には皇太子を辞退した。なお、この際敦明親王に配慮した道長の計らいで敦明親王は「小一条院」の准太上天皇号を送られている。
このように皇后でありながら不遇であった媙子は46歳で出家した。
享年53歳。


藤原妍子(ケンシ/キヨコ)
・生没年:正暦5(994)年~万寿4(1027)年
・異  称:枇杷殿皇太后
・続  柄:三条天皇皇后/(父)藤原道長、(母)源倫子
16歳で皇太子居貞親王(三条天皇)に入内、夫の即位に伴い中宮に立てられた。これは父道長が既に一条天皇との結びつきは彰子を入内させることにより繋がりを造っていたが、万が一のために三条天皇ともつながりを強くしておこうという意によるものであった。
この様に父に期待されて入内した妍子であったが、三条天皇との間に儲けた子女は禎子内親王のみであったため道長は大変不機嫌であったという。
夫帝の崩御に伴い皇太后に立てられた。
享年33歳。


藤原威子(イシ/タケコ)
・生没年:長保元(1000)年~長元9(1036)年
・異  称:大中宮
・続  柄:後一条天皇皇后/(父)藤原道長、(母)源倫子
20歳で後一条天皇に入内、同年に女御宣下を受け、さらに中宮に立てられた。後一条天皇は一条天皇と威子の姉彰子の子であるため、威子にとっては甥にあたる存在であり9歳年下であった。
この威子の入内により、太皇太后(彰子)、皇太后(妍子)、皇后(威子)の三后を道長の娘が占めるという前代未聞の状態となり、道長はここに絶頂を極めた。
しかし、後一条天皇との間には章子内親王、馨子内親王の二女のみで皇子は生まれなかったため摂関家は絶望した。この際天皇は「古来、皇女が天皇に即位した例もあるから」といい威子を庇ったという。
夫帝が29歳の若さで崩御すると、威子も後を追うように疱瘡で崩御した。
享年36歳。


藤原嬉子(キシ/キヨコ)
・生没年:寛弘4(1007)年~万寿2(1025)年
・続  柄:後朱雀天皇尚侍(贈皇太后)/(父)藤原道長、(母)源倫子
14歳で皇太子敦良親王(後の後朱雀天皇)に尚侍として入内。親王との間に親仁親王(後の後冷泉天皇)をもうけた。
しかし、親仁親王出生の二日後に疱瘡により薨去した。天皇家に入内した道長の娘姉妹の中では末妹であったが、姉妹の中では最も早い薨去であった。
道長は嬉子が国母となり、外祖父としての権力の増加に期待していたが、あまりにも若い薨去であったため動揺し陰陽師に蘇生の儀式をさせたほどだった。
享年18歳。
後冷泉天皇即位に伴い生母であることを以て皇太后号を追贈された。


藤原寛子(カンシ/ヒロコ)
・生没年:長元9(1036)年~大治2(1127)年
・異  称:四条宮
・続  柄:後冷泉天皇皇后/(父)藤原頼通、(母)藤原祇子
14歳で後冷泉天皇に入内し、翌年には皇后に立てられた。この時、後冷泉天皇の第一の皇后は章子内親王であり、また天皇の異母弟尊仁親王(後の後三条天皇)は三条天皇皇女禎子内親王の子であった。そのため藤原氏が外祖父とならない天皇の誕生を危惧した頼通に万感の期待をかけられた入内であった。
しかし父の期待虚しく結局子女に恵まれることはなかった。治暦4年には従姉妹の歓子が皇后に立てられたため中宮に立てられた。だが、間もなく夫後冷泉天皇が崩御、寛子は出家し翌年には皇太后に立てられた。
後三条天皇即位に伴い太皇太后に立てられ、この後は後三条天皇、白河天皇、堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇の即位まで見届け、当時としては異例の長寿を全うした。
享年92歳。
なお、92歳という享年は昭和天皇皇后の香淳皇后(97歳)に次ぎ歴代2番目の長寿である。


藤原歓子(カンシ/ヨシコ)
・生没年:治安元(1021)年~康和4(1102)年
・異  称:小野皇太后
・続  柄:後冷泉天皇皇后/(父)藤原教通、(母)藤原公任の娘
27歳で後冷泉天皇に入内、翌年には女御宣下を受けた。藤原摂関家の外孫を生むことを期待され父教通(道長の子で、頼通の弟)の期待を受けての入内であり、期待通り皇子を生んだ。しかしこの皇子は生後間もなく夭折してしまう。
歓子より後に入内した寛子が先に立后し皇后となったが、父教通の関白就任に伴い寛子の立后より遅れること17年、歓子も中宮となった。このことにより、一人の天皇に三人の后が並立するという史上稀にみる「三后並立」が実現した。
しかし、立后の二日後には夫後冷泉天皇が崩御、天皇の異母弟後三条天皇が即位した。後三条天皇は摂関家を外祖父に持たない天皇であったため摂関政治を終わらせ親政を開始、その子白河天皇は院政を始めたため摂関家の栄華はここに終わることになる。
歓子はこれとは無関係に小野に隠居して仏教に深く帰依し念仏三昧の日々を送った。白河天皇即位に伴い皇太后に立てられ、3年後には出家し、長い余生を送った。
小柄で淑やかな人物であり、世人から「賢女」の誉をうけたという。
享年82歳。


藤原茂子(モシ/シゲコ)
・生没年:生年不詳~康平5(1062)年
・異  称:滋野井御息所
・続  柄:後三条天皇女御(贈皇太后)/(父)藤原公成、(母)藤原知光の娘
藤原能信の養女となり、永承元年に皇太子尊仁親王(後の後三条天皇)に入内。親王との間に貞仁親王(後の白河天皇)等1男4女を儲けた。これは尊仁親王の異母兄後冷泉天皇に子女がいなかったのとは対照的であった。
また、尊仁親王の正妃馨子内親王にも子女がいなかったため、貞仁親王が皇太子となればいずれ国母となるはずだったが、夫の即位前に薨去した。
生年不明のため享年も不詳であるが若くしての薨去であったという。
白河天皇即位に伴い生母であることを以て皇太后号を追贈された。


藤原苡子(イシ)
・生没年:承保3(1076)年~康和5(1103)年
・院  号:
・続  柄:堀河天皇女御(贈皇太后)/(父)藤原実季、(母)藤原睦子
22歳で堀河天皇に入内、女御宣下を受けた。天皇との間に宗仁親王(後の鳥羽天皇)を儲けたが、難産であり間もなく薨去した。
享年28歳。
鳥羽天皇即位に伴い生母であることを以て皇太后号を追贈された。



【皇族】

敦実親王(アツザネ)
・生没年:寛平5(893)年~康保4(967)年
・続  柄:(父)宇多天皇、(母)女御藤原胤子
14歳で親王宣下を受け三品に叙された。中務卿、式部卿等を歴任し57歳で出家、覚真と称した。
早世が多い宇多天皇皇子の中では珍しく長寿であった。
享年75歳。


敦道親王(アツミチ)
・生没年:天元4(981)年~寛弘4(1007)年
・続  柄:(父)冷泉天皇、(母)女御藤原超子
12歳で元服し、藤原道隆の三女頼子と結婚した。しかし道隆が逝去すると離婚した。
この後、藤原済時の次女を正妃としたが、和泉式部と恋愛関係となり召人として邸宅に住まわせたため、これを知った済時は激怒、親王と次女を離縁させた。なお和泉式部との間には王子(岩蔵宮)をもうけている。
享年26歳。


藤原生子(セイシ・イクコ)
・生没年:長和3(1014)年~治暦4(1068)年
・続  柄:後朱雀天皇女御/(父)藤原教通、(母)藤原公任の娘
26歳で後朱雀天皇に入内、女御宣下を受けた。天皇に寵愛されていたものの、子女はいなかった上、父教通と叔父の頼通の軋轢により立后は実現しなかった。39歳で出家した。
享年54歳。



いやぁこれだけの被葬者がいると書くのが結構大変ですね・・・。



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