黄金塚陵墓参考地
名  称:黄金塚陵墓参考地(こがねづか)
候補者:崇道尽敬皇帝(追尊天皇)
等  級:一級
形  状:円墳
所在地:奈良県奈良市田中町
最寄駅:帯解駅(JR桜井線)
探訪日:平成15年(2003年)12月18日

帯解駅の南東にありますが、さほど大きな参考地ではなく周りも住宅や竹林のためかなり見つけにくいかもしれません。
治定当時は一級、つまり「陵墓の疑いの濃いもの」とのことでしたが、最近の調査では被葬候補者の崇道尽敬皇帝(舎人親王)の時代より少々古い時代の古墳と判明したそうです。
まぁあくまでも「参考地」ですからね。

なお、崇道尽敬皇帝の陵墓は確定しておらず、宮内庁治定の「崇道尽敬皇帝陵」というものが存在しないため、人物についてはここで記します。


崇道尽敬皇帝
崇道尽敬皇帝
・追尊天皇
・御  名:舎人親王(トネリ)
・生没年:天武天皇5(676)年~天平7(735)年
・続  柄:(父)天武天皇、(母)皇妃新田部皇女
姪の元正天皇が即位すると皇太子首親王(後の聖武天皇)の補佐に任じられた。養老4年には親王自身が編纂を総裁していた『日本書紀』が完成し、天皇に奏上している。
聖武天皇が即位すると封500戸を加増された。このころから親王は次第に藤原氏に傾倒していき、長屋王の変では新田部親王等と共に糾問し、長屋王等を自害に追い込んだ。その後も藤原光明子の立后を宣言する等、藤原四兄弟の政権に協力した。
『万葉集』に3首の歌を残す等、歌人としても優れていた。
享年60歳。
薨去後すぐに太政大臣を追贈され、子の淳仁天皇が即位すると天皇の父であることを以て「崇道尽敬皇帝」と追尊された。

この御方、即位せずに薨去後に天皇号を追尊された追尊天皇の一人なんですが、追尊名が「崇道尽敬皇帝」という中国風の変わった追尊名なんです。
これは、淳仁天皇の御世に政治を行っていた藤原仲麻呂の趣味によるもの。仲麻呂は当時の中国大陸の覇者であった唐帝国の制度を積極的に取り入れていき、官職名や官省名を悉く中国風に変えていったんです。
当然、天皇の諡号も然りでした。「勝宝感神聖武皇帝(聖武天皇)」、「天平応神仁正皇后(仁正皇后)」、「宝字称徳孝謙皇帝(孝謙・称徳天皇)」等です。そんな中追尊されたのが舎人親王であり「崇道尽敬皇帝」とされたのです。
もっとも、仲麻呂が乱で逝去すると全て日本風に戻されたんですがね。
ただ即位していない舎人親王の追尊名はそのままだったようです。また、当の淳仁天皇は「廃帝」とされたため、そもそも諡号自体が贈られなかったわけです。



マップ

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