
被葬者:皇后定子(一条天皇皇后)
陵 名:鳥戸野陵(とりべののみささぎ)
陵 形:円墳
同 域:皇后穏子火葬塚(醍醐天皇皇后)
尊称皇太后詮子火葬塚(円融天皇女御)
皇后禎子内親王火葬塚(後朱雀天皇皇后)
皇后歓子火葬塚(後冷泉天皇皇后)
皇后賢子火葬塚(白河天皇皇后)
贈皇太后苡子火葬塚(堀河天皇女御)
所在地:
最寄駅:東福寺駅(JR奈良線、京阪本線)
探訪日:平成16年(2004年)1月18日、他数回
東福寺駅の東、月輪陵等がある泉山御陵地の北端にあります。
陵域自体は広いのですが、拝所は結構細い道を通っていくため少し迷うかもしれません。
遠回りになりますが、泉涌寺(月輪陵がある寺)の北隣にある観音寺から北に延びる通を通っていくのが分かりやすいと思います。
あと、ものすごく個人的なことですが、大学卒業してしばらく京都に住んでいたころ、この陵の真裏のアパートに住んでいました。
「アパートの隣が御陵!ならここしかない!」と思って決めたんですが、坂の上で車を持っていなかったため毎日帰るのにかなり疲れていた記憶があります・・・。
なお、同域の方々の本陵については宇治陵、禎子内親王陵をご覧ください。(皇后賢子陵はまだ記事がないためご了承ください。)
藤原定子(テイシ/サダコ)
・生没年:貞元2(977)年~長保2(1001)年
・続 柄:一条天皇皇后/(父)藤原隆道、(母)高階貴子
14歳で一条天皇に入内し、女御宣下を受け、まもなく中宮に立てられた。
ただ、この際律令の定める「三后(太皇太后、皇太后、皇后(中宮)」は全て占められていたため新たに「中宮」が入る隙がなかった。そこで定子の父道隆は「皇后」の別称であった「中宮」を「皇后と中宮は位は同じだが別のもの」として分離し、皇后宮と中宮を設立させた。一条天皇との間には敦康親王等1男2女を儲け、道隆一族は栄華を極めた。
しかし、20歳の時に父道隆が薨去したため、道隆の弟である道長が徐々に権勢を振るうようになる。またこのような最中、定子の兄である伊周等が花山上皇を勘違いで射る事件(花山上皇は無事)が発生したため、定子の宮中での立場は微妙なものになり、突如出家してしまった。
また、同年には道長の娘である彰子が一条天皇に入内したため、彰子が中宮に立てられ、定子は改めて皇后に立てられた。これは、道隆の考えた「皇后と中宮は別」ということを道長が利用したもので、史上初の「一代二后」が実現した。このことにより定子は実質的に還俗したことになる。
この後に第二皇女である媄子内親王を出産したが、これが難産であったことにより崩御した。
享年24歳。
女房には清少納言等がおり、彰子の女房紫式部等と競合しながら平安宮中文化を展開させたことは有名。
マップ
より大きな地図で 陵墓 を表示
陵 名:鳥戸野陵(とりべののみささぎ)
陵 形:円墳
同 域:皇后穏子火葬塚(醍醐天皇皇后)
尊称皇太后詮子火葬塚(円融天皇女御)
皇后禎子内親王火葬塚(後朱雀天皇皇后)
皇后歓子火葬塚(後冷泉天皇皇后)
皇后賢子火葬塚(白河天皇皇后)
贈皇太后苡子火葬塚(堀河天皇女御)
所在地:
最寄駅:東福寺駅(JR奈良線、京阪本線)
探訪日:平成16年(2004年)1月18日、他数回
東福寺駅の東、月輪陵等がある泉山御陵地の北端にあります。
陵域自体は広いのですが、拝所は結構細い道を通っていくため少し迷うかもしれません。
遠回りになりますが、泉涌寺(月輪陵がある寺)の北隣にある観音寺から北に延びる通を通っていくのが分かりやすいと思います。
あと、ものすごく個人的なことですが、大学卒業してしばらく京都に住んでいたころ、この陵の真裏のアパートに住んでいました。
「アパートの隣が御陵!ならここしかない!」と思って決めたんですが、坂の上で車を持っていなかったため毎日帰るのにかなり疲れていた記憶があります・・・。
なお、同域の方々の本陵については宇治陵、禎子内親王陵をご覧ください。(皇后賢子陵はまだ記事がないためご了承ください。)
藤原定子(テイシ/サダコ)
・生没年:貞元2(977)年~長保2(1001)年
・続 柄:一条天皇皇后/(父)藤原隆道、(母)高階貴子
14歳で一条天皇に入内し、女御宣下を受け、まもなく中宮に立てられた。
ただ、この際律令の定める「三后(太皇太后、皇太后、皇后(中宮)」は全て占められていたため新たに「中宮」が入る隙がなかった。そこで定子の父道隆は「皇后」の別称であった「中宮」を「皇后と中宮は位は同じだが別のもの」として分離し、皇后宮と中宮を設立させた。一条天皇との間には敦康親王等1男2女を儲け、道隆一族は栄華を極めた。
しかし、20歳の時に父道隆が薨去したため、道隆の弟である道長が徐々に権勢を振るうようになる。またこのような最中、定子の兄である伊周等が花山上皇を勘違いで射る事件(花山上皇は無事)が発生したため、定子の宮中での立場は微妙なものになり、突如出家してしまった。
また、同年には道長の娘である彰子が一条天皇に入内したため、彰子が中宮に立てられ、定子は改めて皇后に立てられた。これは、道隆の考えた「皇后と中宮は別」ということを道長が利用したもので、史上初の「一代二后」が実現した。このことにより定子は実質的に還俗したことになる。
この後に第二皇女である媄子内親王を出産したが、これが難産であったことにより崩御した。
享年24歳。
女房には清少納言等がおり、彰子の女房紫式部等と競合しながら平安宮中文化を展開させたことは有名。
マップ
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私も学生時代、こちらの御陵のすぐ近くに住んでおりました。
つい懐かしくなり…。コメントを残してゆきます。