後鳥羽・順徳天皇陵
被葬者:後鳥羽天皇(第82代天皇)
陵  名:大原陵(おおはらのみささぎ)
陵  形:十三重石塔
被葬者:順徳天皇(第84代天皇)
陵  名:大原陵(おおはらのみささぎ)
陵  形:円丘
所在地:京都府京都市左京区大原勝林院町
最寄駅:大原バス停(京都バス)
探訪日:平成16年(2004年)7月1日、他数回


京都駅から京都バス(大原行)に乗り終点の大原バス停下車、北東へ1km、有名な三千院の北隣にあります。
後鳥羽天皇陵、順徳天皇陵ともに「大原陵」で陵域も同じなのですが、陵自体は別々に造営されています。

なお、後鳥羽天皇は隠岐、順徳天皇は佐渡で崩御し、各所で火葬された後に、御遺骨が京都に運ばれて大原の「法華堂」に埋葬されたとされています。
この「大原法華堂」は現在でも御陵の西隣にあります。
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元々は現在の御陵の治定れている場所にあったんですが、江戸後期に焼失し現在の地に場所を移して再建されたそうです。
その後、文久の修陵の際に後鳥羽天皇陵が現在の十三重塔に、明治に入ってから順徳天皇陵が現在の円丘に治定された経緯があります。
つまり、現御陵は法華堂旧址に治定されているということになります。(なぜこの法華堂が御陵として治定されなかったのかというのが謎ではありますが。)


後鳥羽天皇
後鳥羽天皇
・第82代天皇
・御  名:尊成親王(タカナリ)
・異  称:隠岐院、顕徳院
・生没年:治承4(1180)年~延応元(1239)年
・在  位:寿永2(1183)年~建久9(1198)年
・続  柄:(父)高倉天皇、(母)典侍坊院(藤原)殖子
高倉天皇の側室の皇子として生まれたが、平氏が安徳天皇(尊成親王の異母兄)と神器を奉じて西国へ逃れていたため、都の皇位は空位となっていた。そのため祖父後白河院の意向により皇位継承者として尊成親王が立てられ、神器がないまま即位した。(このため安徳天皇と在位が2年重複している。)
即位後間もなくは、祖父院が院政を敷いており、院が崩御しても関白九条兼実が朝廷を動かしていた。しかし兼実が建久七年の政変で失脚すると、親政を開始し、2年後には皇子の為仁親王(土御門天皇)に譲位し、院政を敷いた。
院政を開始すると、殿上人の整理等院政機構の改革や公事・故事の再興等積極的な朝廷改革を行い、鎌倉将軍源頼朝が逝去すると名実共に「治天の君」となり幕府に対しても強硬路線を取るようになった。さらにこれまで院の警護は北面の武士を置いていたが、これに加え西面の武士を置き軍事力強化にも努めた。
この様な中、鎌倉三代将軍実朝が暗殺されたことから源氏の血統が途絶えたため、幕府から宮将軍擁立の要請を受けた。これに対し後鳥羽院は難儀な条件を提示したため、幕府も要請を撤回、結局摂家から将軍を迎えることとなった。
こうして院と幕府の関係は悪化していき、遂に執権北条義時討伐の院宣を発し皇子の順徳院と共に畿内の兵を招集し挙兵に到った。しかし、幕府軍の圧倒的戦力にはかなわず、開戦2ヶ月で大敗した。この結果、首謀者であった後鳥羽院は隠岐に、乱に協力した順徳院は隠岐、雅成親王は但馬、頼仁親王は備前にそれぞれ配流となった。また乱に反対し関与しなかった土御門院も自ら望んで土佐へ配流となった(後に阿波へ移っている。)。
配流後に九条道家が配流の撤回を幕府に要請したが、受け入れられず後鳥羽院は配流先の隠岐で人生を全うした。
なお、歌人としては中世屈指の歌人であり、『新古今和歌集』を勅撰する等、後世に多大な影響を与えている。
在位15年、院政23年、宝算59歳。

この御方、承久の乱を起こした上皇として教科書にも載るくらい有名な方ですね。
ちなみに、今でこそ「後鳥羽天皇(後鳥羽院)」ですが、崩御後間もなく贈られた院号は「顕徳院」だったんです。この「徳」という諡号(院号)が贈られる天皇は「孝徳天皇」、「崇徳天皇」、「安徳天皇」、「順徳天皇」等不遇な生涯を送っている天皇が怨霊化するのを防ぐために送られているとされています。(古代天皇は除きます。)
実際後鳥羽天皇も配流されてから「万が一魔物となることあれば、この世に災いをもたらすだろう。我が子孫が世を執ることがあればそれは我の力によるものだ」と言い、怨霊化の懸念がありました。
ただ、一時的に天皇の甥である後堀河天皇の皇統になりますが、その皇統が途絶えたため、結局天皇の直系の孫である後嵯峨天皇(土御門天皇の皇子)が即位しました。そのため結果的に「後鳥羽天皇の子孫が世を執る」こととなっため怨霊化の懸念はなくなったということ、また「徳という字を諡号に含めるのはかえって怨霊と認めてしまうため相応しくない」という経緯で、改めて「後鳥羽院」の院号が奉られたのです。


順徳天皇
順徳天皇
・第84代天皇
・御  名:守成親王(モリナリ)
・異  称:佐渡院
・生没年:建久8(1197)年~仁治3(1242)年
・在  位:承元4(1210)年~承久3(1221)年
・続  柄:(父)後鳥羽天皇、(母)皇妃藤原重子
3歳で異母兄土御門天皇の皇太弟となり、10歳で兄帝の譲位を受けて天皇に即位した。これは鎌倉幕府に対し強硬路線ととっていた父後鳥羽院が、性格が温和な土御門天皇では心もとないと感じ、正反対に気性の激しかった順徳天皇に即位させたいという意向があったからだという。
ただ、父院が院政を敷いており、天皇に即位しても直接政務に関わることはなかったため、和歌や有職故事の研究に打ち込み『禁秘抄』を著した。
この様な中、父院が討幕計画を打ち出すとこれに同意、自らも皇子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して自由な上皇の身となり積極的に討幕計画に関与した。
そして、父院と共に承久の乱を起こすが幕府軍に大敗し、順徳院は佐渡へ配流となった。配流先の佐渡では数人の子女を儲ける等したが、配流後21年目にして病を得て崩御した。病は重くはなかったものの帰京の望みがなければ存命も無益とし、断食を行い最期は自らの頭に焼石を置いて崩御したとされる。
父院と同じく和歌に秀でており、歌集『順徳院御集』や論評『八雲御抄』が伝わっている。
在位21年、宝算45歳。



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