
被葬者:皇后徳子(高倉天皇皇后)
陵 名:大原西陵(おおはらのにしのみささぎ)
陵 形:円丘
所在地:京都府京都市左京区大原勝林院町
最寄駅:大原バス停(京都バス)
探訪日:平成16年(2004年)7月1日、他数回
大原バス停から北西へ1.5kmほど、有名な寂光院の隣にあります。
ここの参道入り口の柵は閉まっていることが多いですが、施錠されているわけではないので、自由に入れます。
平徳子(トクコ)
・生没年:久寿2(1155)年~建保元(1214)年
・院 号:建礼門院
・続 柄:高倉天皇皇后/(父)平清盛、(母)平時子
16歳で高倉天皇に入内し、翌年には女御を経て皇后に立てられた。これは娘を天皇に入内させいずれは外祖父として権力を握りたい清盛と、政権基盤強化のために清盛の力を欲した高倉天皇の父後白河院の思惑が合致した結果であった。
入内後しばらくしても子女には恵まれず、高倉天皇は側室との間に内親王を儲けていたが、23歳で念願の皇子である言仁親王(後の安徳天皇)を出生した。言仁親王は間もなく立太子され皇位継承者となった。
翌年には清盛によるクーデター(治承三年の政変)により後白河院が幽閉され、それを受けて高倉天皇は言仁親王へ譲位し新たな院政を始めた。これに伴い徳子も国母となり、清盛も天皇の外祖父として権勢を極めた。
だが、数年もたたないうちに夫の高倉院は病にてわずか20歳で崩御し、徳子の父清盛も熱病によって世を去った。これに伴い建礼門院の院号宣下を受け女院となった。清盛がいなくなったことで後白河院が復権したが、平氏打倒を掲げる源氏の一派である義仲が京へ攻め上がり、平氏は都落ちを余儀なくされ安徳天皇と徳子も共に都を逃れた。
そして、ついに壇ノ浦の戦にて平氏は滅亡し安徳天皇も入水し崩御、徳子もこれに従って入水した。しかし徳子は源氏勢に助けられ京都へ戻った。生き残った徳子は安徳天皇と平氏の菩提を弔うために吉田に隠遁した。
しかし京都を大地震が襲い吉田の坊も被害を受けたため、洛中から遠く離れた大原寂光院に入った。寂光院に入ってからは後白河院の行幸を受けたりもしたが、菩提を弔う余生を送った。
享年59歳。
マップ
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陵 名:大原西陵(おおはらのにしのみささぎ)
陵 形:円丘
所在地:京都府京都市左京区大原勝林院町
最寄駅:大原バス停(京都バス)
探訪日:平成16年(2004年)7月1日、他数回
大原バス停から北西へ1.5kmほど、有名な寂光院の隣にあります。
ここの参道入り口の柵は閉まっていることが多いですが、施錠されているわけではないので、自由に入れます。
平徳子(トクコ)
・生没年:久寿2(1155)年~建保元(1214)年
・院 号:建礼門院
・続 柄:高倉天皇皇后/(父)平清盛、(母)平時子
16歳で高倉天皇に入内し、翌年には女御を経て皇后に立てられた。これは娘を天皇に入内させいずれは外祖父として権力を握りたい清盛と、政権基盤強化のために清盛の力を欲した高倉天皇の父後白河院の思惑が合致した結果であった。
入内後しばらくしても子女には恵まれず、高倉天皇は側室との間に内親王を儲けていたが、23歳で念願の皇子である言仁親王(後の安徳天皇)を出生した。言仁親王は間もなく立太子され皇位継承者となった。
翌年には清盛によるクーデター(治承三年の政変)により後白河院が幽閉され、それを受けて高倉天皇は言仁親王へ譲位し新たな院政を始めた。これに伴い徳子も国母となり、清盛も天皇の外祖父として権勢を極めた。
だが、数年もたたないうちに夫の高倉院は病にてわずか20歳で崩御し、徳子の父清盛も熱病によって世を去った。これに伴い建礼門院の院号宣下を受け女院となった。清盛がいなくなったことで後白河院が復権したが、平氏打倒を掲げる源氏の一派である義仲が京へ攻め上がり、平氏は都落ちを余儀なくされ安徳天皇と徳子も共に都を逃れた。
そして、ついに壇ノ浦の戦にて平氏は滅亡し安徳天皇も入水し崩御、徳子もこれに従って入水した。しかし徳子は源氏勢に助けられ京都へ戻った。生き残った徳子は安徳天皇と平氏の菩提を弔うために吉田に隠遁した。
しかし京都を大地震が襲い吉田の坊も被害を受けたため、洛中から遠く離れた大原寂光院に入った。寂光院に入ってからは後白河院の行幸を受けたりもしたが、菩提を弔う余生を送った。
享年59歳。
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