
被葬者:皇后賢子(白河天皇皇后)
尊称皇后媞子内親王(白河天皇皇女)
尊称皇后令子内親王(白河天皇皇女)
陵 名:上醍醐陵(かみだいごのみささぎ)
陵 形:円墳
同 域:禧子内親王墓(鳥羽天皇皇女)
所在地:京都府京都市伏見区醍醐醍醐山
最寄駅:醍醐駅(京都市営地下鉄東西線)
探訪日:平成17年(2005年)4月28日
醍醐駅の東方、大寺院醍醐寺の裏にある醍醐山の頂上にあります。
この御陵のある上醍醐という場所、醍醐寺発祥の地とのことですが、何しろ登るのに疲れる。
比高350mなので、すごく高いというわけではないんですが、山道(整備はされている)を1時間近く登って行かなければたどり着けません。
恐らく陵墓の中では淳和天皇陵の次に行くのに苦労する難関陵墓の一つでしょう。
実際、淳和天皇陵を登った後日に行ったんですが、こちらはこちらでキツかった記憶があります。
【陵埋葬者】
藤原賢子(ケンシ/カタイコ)
・生没年:天喜4(1057)年~応徳6(1084)年
・続 柄:白河天皇中宮/(父)源顕房、(母)源隆子
14歳で皇太子貞仁親王(後の白河天皇)に入内し、白河天皇即位に伴い女御に立てられた。
天皇との間には敦文親王、善仁親王、媞子内親王、令子内親王等2男3女を儲け、長男敦文親王出生時に中宮に立てられている。夫帝とは仲睦まじかったが、病により若年で崩御した。
享年28歳。
皇子の堀河天皇の即位に伴い、皇太后号を追贈されている。
媞子内親王(テイシ/ヤスコ)
・生没年:承保3(1076)年~嘉保3(1096)年
・院 号:郁芳門院
・続 柄:(父)白河天皇、(母)中宮藤原賢子
白河天皇の第一皇女として生まれ、3歳で斎宮となり伊勢神宮に入った。しかし、在宮6年にして母賢子が崩御したため斎宮を退下し、都に戻っている。
11歳で同母弟堀河天皇の准母として入内し、中宮号を尊称された。これは准母としての立場とはいえ、天皇の姉妹に中宮号や皇后号を授けることは前代未聞のことであったが、これ以後の「准母立后」の先駆けとなった。
容姿端麗で心優しい人物であり、母の賢子に似ていたことから、父白河天皇に非常に愛されていたという。
享年21歳。
母賢子と同じく上醍醐陵に合葬された。
令子内親王(レイシ)
・生没年:承暦2(1078)年~天養元(1144)年
・院 号:二条皇太后
・続 柄:(父)白河天皇、(母)中宮藤原賢子
白河天皇の第三皇女として生まれたが、幼少期に母賢子を亡くしたため藤原師実のもとで養育された。同母弟の堀河天皇が即位すると賀茂斎院となり、10年間斎院を務めた。
29歳で甥の鳥羽天皇の准母として入内し、皇后号を尊称された。この様な何者かが内親王の邸宅に落書を投げ込むという事件が発生した。しかもその内容は鳥羽天皇の暗殺計画について記してあったため、内親王はこれを父上皇に伝え、天皇の暗殺は未然に防がれた(永久の変)。
なお、内親王に出仕していた女房には和歌に優れたものが多く、『金葉和歌集』に女房達の歌が多く掲載されえ居る。このことから内親王は歌壇に大きな影響力があったとされている。
享年66歳。
母賢子、姉媞子内親王と同じく上醍醐陵に合葬された。
【墓埋葬者】
禧子内親王
・生没年:保安3(1122)年~長承2(1133)年
・続 柄:(父)鳥羽天皇、(母)中宮藤原璋子
鳥羽天皇の第一皇女として生まれ、准三后を叙された。
11歳で賀茂斎院となるも、翌年には病にて退下し同年の内に薨去した。
享年12歳。
さて、この御陵は、上記の通り白河天皇との縁者が多く埋葬されています。
天皇の皇后だった賢子さんは、天皇と非常に仲睦まじく、様々な女性関係で知られる白河天皇もこの御方が生きている内はほとんど他の女性には目もくれなかったそうです(女御と典侍はいたそうですが)。
しかし、その分この賢子さんが崩御されたときの悲しみは凄まじく、亡骸を抱いて号泣し、食事もろくに取らなかったほどでした。
これを見かねた中納言の源俊明が「天皇ともあろう御方が穢れに触れてはいけません。また、そのように崩御された后のそばにいた例もないですよ。」と御所への還行を促したところ、白河天皇は「ならば、例は今から始めよ!!」と一喝したと言われています。
白河天皇、カッコイイところあるじゃないですか!
そりゃ大切な方を亡くしたのだから、一時でも長く一緒にいたいというのが人情ですからね。
そして、最愛の皇后賢子さんを亡くし悲しみに暮れていた白河天皇でしたが、それでもまだ最愛の皇女である媞子内親王がいました。しかし、この内親王も21歳という若さで薨去してしまったために、遂に悲しみ極まり出家し法皇となってしまったのです。
この様に最愛の后や皇女をを亡くし、つらい経験をした反動で、上皇(法皇)時代のように数多くの女性を侍らすようになっていってしまったのかもしれませんね。
マップ
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尊称皇后媞子内親王(白河天皇皇女)
尊称皇后令子内親王(白河天皇皇女)
陵 名:上醍醐陵(かみだいごのみささぎ)
陵 形:円墳
同 域:禧子内親王墓(鳥羽天皇皇女)
所在地:京都府京都市伏見区醍醐醍醐山
最寄駅:醍醐駅(京都市営地下鉄東西線)
探訪日:平成17年(2005年)4月28日
醍醐駅の東方、大寺院醍醐寺の裏にある醍醐山の頂上にあります。
この御陵のある上醍醐という場所、醍醐寺発祥の地とのことですが、何しろ登るのに疲れる。
比高350mなので、すごく高いというわけではないんですが、山道(整備はされている)を1時間近く登って行かなければたどり着けません。
恐らく陵墓の中では淳和天皇陵の次に行くのに苦労する難関陵墓の一つでしょう。
実際、淳和天皇陵を登った後日に行ったんですが、こちらはこちらでキツかった記憶があります。
【陵埋葬者】
藤原賢子(ケンシ/カタイコ)
・生没年:天喜4(1057)年~応徳6(1084)年
・続 柄:白河天皇中宮/(父)源顕房、(母)源隆子
14歳で皇太子貞仁親王(後の白河天皇)に入内し、白河天皇即位に伴い女御に立てられた。
天皇との間には敦文親王、善仁親王、媞子内親王、令子内親王等2男3女を儲け、長男敦文親王出生時に中宮に立てられている。夫帝とは仲睦まじかったが、病により若年で崩御した。
享年28歳。
皇子の堀河天皇の即位に伴い、皇太后号を追贈されている。
媞子内親王(テイシ/ヤスコ)
・生没年:承保3(1076)年~嘉保3(1096)年
・院 号:郁芳門院
・続 柄:(父)白河天皇、(母)中宮藤原賢子
白河天皇の第一皇女として生まれ、3歳で斎宮となり伊勢神宮に入った。しかし、在宮6年にして母賢子が崩御したため斎宮を退下し、都に戻っている。
11歳で同母弟堀河天皇の准母として入内し、中宮号を尊称された。これは准母としての立場とはいえ、天皇の姉妹に中宮号や皇后号を授けることは前代未聞のことであったが、これ以後の「准母立后」の先駆けとなった。
容姿端麗で心優しい人物であり、母の賢子に似ていたことから、父白河天皇に非常に愛されていたという。
享年21歳。
母賢子と同じく上醍醐陵に合葬された。
令子内親王(レイシ)
・生没年:承暦2(1078)年~天養元(1144)年
・院 号:二条皇太后
・続 柄:(父)白河天皇、(母)中宮藤原賢子
白河天皇の第三皇女として生まれたが、幼少期に母賢子を亡くしたため藤原師実のもとで養育された。同母弟の堀河天皇が即位すると賀茂斎院となり、10年間斎院を務めた。
29歳で甥の鳥羽天皇の准母として入内し、皇后号を尊称された。この様な何者かが内親王の邸宅に落書を投げ込むという事件が発生した。しかもその内容は鳥羽天皇の暗殺計画について記してあったため、内親王はこれを父上皇に伝え、天皇の暗殺は未然に防がれた(永久の変)。
なお、内親王に出仕していた女房には和歌に優れたものが多く、『金葉和歌集』に女房達の歌が多く掲載されえ居る。このことから内親王は歌壇に大きな影響力があったとされている。
享年66歳。
母賢子、姉媞子内親王と同じく上醍醐陵に合葬された。
【墓埋葬者】
禧子内親王
・生没年:保安3(1122)年~長承2(1133)年
・続 柄:(父)鳥羽天皇、(母)中宮藤原璋子
鳥羽天皇の第一皇女として生まれ、准三后を叙された。
11歳で賀茂斎院となるも、翌年には病にて退下し同年の内に薨去した。
享年12歳。
さて、この御陵は、上記の通り白河天皇との縁者が多く埋葬されています。
天皇の皇后だった賢子さんは、天皇と非常に仲睦まじく、様々な女性関係で知られる白河天皇もこの御方が生きている内はほとんど他の女性には目もくれなかったそうです(女御と典侍はいたそうですが)。
しかし、その分この賢子さんが崩御されたときの悲しみは凄まじく、亡骸を抱いて号泣し、食事もろくに取らなかったほどでした。
これを見かねた中納言の源俊明が「天皇ともあろう御方が穢れに触れてはいけません。また、そのように崩御された后のそばにいた例もないですよ。」と御所への還行を促したところ、白河天皇は「ならば、例は今から始めよ!!」と一喝したと言われています。
白河天皇、カッコイイところあるじゃないですか!
そりゃ大切な方を亡くしたのだから、一時でも長く一緒にいたいというのが人情ですからね。
そして、最愛の皇后賢子さんを亡くし悲しみに暮れていた白河天皇でしたが、それでもまだ最愛の皇女である媞子内親王がいました。しかし、この内親王も21歳という若さで薨去してしまったために、遂に悲しみ極まり出家し法皇となってしまったのです。
この様に最愛の后や皇女をを亡くし、つらい経験をした反動で、上皇(法皇)時代のように数多くの女性を侍らすようになっていってしまったのかもしれませんね。
マップ
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