
被葬者:皇后得子(鳥羽天皇皇后)
陵 名:高野山陵(こうやさんのみささぎ)
陵 形:円墳
所在地:和歌山県伊都郡高野町
最寄駅:高野山駅(高野山ケーブル)
探訪日:平成18年(2006年)5月22日
金剛峯寺の南東、不動院という寺院の境内にあります。
高野山の陵墓の中では、山中にある覚法親王墓や、参道が閉じられている道助親王墓に比べて見つけやすい陵墓です。
藤原得子(ナリコ)

・生没年:永久5(1117)年~永暦元(1160)年
・院 号:美福門院
・続 柄:鳥羽天皇皇后/(父)藤原長実、(母)源方子
幼少期から父の寵愛を一身に受け、「この子を並の人に嫁がせるつもりはない」と言われたほどであった。その父の逝去後は鳥羽上皇の寵愛を受けるようになり叡子内親王、暲子内親王、そして待望の皇子である体仁親王(後の近衛天皇)を設けた。このことにより、女御となり、体仁親王も崇徳天皇の皇太子に立てられた。
こうして得子は鳥羽院の皇后璋子を凌ぐ勢いを付け、鳥羽院に働きかけて崇徳天皇から我が子近衛天皇への譲位を実現させた。この際天皇の母であることを以て皇后に立てられたため、二后並立となり、さらに璋子が出家に追い込まれると得子は院号宣下を受けて美福門院と称した。
しかし、元来病弱であった近衛天皇が17歳の若さで崩御すると、再び皇位継承問題が発生した。候補者は崇徳上皇皇子の重仁親王、崇徳上皇の弟雅仁親王の王子守仁親王がいたが、結局守仁親王が成長するまでの中継ぎとして雅仁親王が即位することとなった(後白河天皇)。この崇徳天皇系の排除には美福門院や、時の権力者信西の策謀があったとされる。この皇位継承は様々な禍根を残し、鳥羽上皇が崩御すると保元の乱が勃発して、崇徳上皇や藤原頼長等が敗れた。
この後、美福門院と信西の評定(俗にいう仏と仏の評定)により予定通り守仁親王が即位した(二条天皇)。しかし、これも後白河院政派、二条親政派、信西派の対立により平治の乱が勃発。この結果、全勢力とも疲弊し、結果的に平清盛を中心とする平氏政権が成立した。美福門院は乱には積極的に関与しなかったものの、全ての結末を見届け、白河の御所にて薨去した。
享年43歳。
薨去後、その御遺骨は高野山に納められたが、女人禁制の高野山では揉めたという。
マップ
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陵 名:高野山陵(こうやさんのみささぎ)
陵 形:円墳
所在地:和歌山県伊都郡高野町
最寄駅:高野山駅(高野山ケーブル)
探訪日:平成18年(2006年)5月22日
金剛峯寺の南東、不動院という寺院の境内にあります。
高野山の陵墓の中では、山中にある覚法親王墓や、参道が閉じられている道助親王墓に比べて見つけやすい陵墓です。
藤原得子(ナリコ)

・生没年:永久5(1117)年~永暦元(1160)年
・院 号:美福門院
・続 柄:鳥羽天皇皇后/(父)藤原長実、(母)源方子
幼少期から父の寵愛を一身に受け、「この子を並の人に嫁がせるつもりはない」と言われたほどであった。その父の逝去後は鳥羽上皇の寵愛を受けるようになり叡子内親王、暲子内親王、そして待望の皇子である体仁親王(後の近衛天皇)を設けた。このことにより、女御となり、体仁親王も崇徳天皇の皇太子に立てられた。
こうして得子は鳥羽院の皇后璋子を凌ぐ勢いを付け、鳥羽院に働きかけて崇徳天皇から我が子近衛天皇への譲位を実現させた。この際天皇の母であることを以て皇后に立てられたため、二后並立となり、さらに璋子が出家に追い込まれると得子は院号宣下を受けて美福門院と称した。
しかし、元来病弱であった近衛天皇が17歳の若さで崩御すると、再び皇位継承問題が発生した。候補者は崇徳上皇皇子の重仁親王、崇徳上皇の弟雅仁親王の王子守仁親王がいたが、結局守仁親王が成長するまでの中継ぎとして雅仁親王が即位することとなった(後白河天皇)。この崇徳天皇系の排除には美福門院や、時の権力者信西の策謀があったとされる。この皇位継承は様々な禍根を残し、鳥羽上皇が崩御すると保元の乱が勃発して、崇徳上皇や藤原頼長等が敗れた。
この後、美福門院と信西の評定(俗にいう仏と仏の評定)により予定通り守仁親王が即位した(二条天皇)。しかし、これも後白河院政派、二条親政派、信西派の対立により平治の乱が勃発。この結果、全勢力とも疲弊し、結果的に平清盛を中心とする平氏政権が成立した。美福門院は乱には積極的に関与しなかったものの、全ての結末を見届け、白河の御所にて薨去した。
享年43歳。
薨去後、その御遺骨は高野山に納められたが、女人禁制の高野山では揉めたという。
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