所在地:和歌山県和歌山市一番町
城 主:豊臣氏、桑山氏、浅野氏、徳川氏
遺 構:門、塀、石垣、櫓台、堀
文化財:国史跡、重要文化財(岡口門、続塀)、市文化財(追廻門)
探訪日:平成22年(2010年)3月21日、29年(2017年)3月19日、5月4日
概要
豊臣政権下で豊臣秀長(秀吉の弟)が築いた若山城が始まり。この際の普請は藤堂高虎が担当し、完成と同時期に地名も「若山」から「和歌山」に改められた。関ヶ原後は桑山氏が一時城主になった後に浅野氏が城主となり、土塁を石垣に改める等大規模な改修を行った。
浅野氏が広島へ転封になった後は徳川家康の10男頼宣が入城し、以後明治まで紀伊徳川家の居城となった。
明治以降は建物の多くは破却されたものの、和歌山公園として開放され天守等主要な建物は現存していた。
しかし、太平洋戦争中の和歌山空襲により天守群は焼失。戦後になってから天守群や門が復元されている。
(平成29年5月25日編集)
和歌山城といえば紀伊徳川家の居城として有名なんですが、上記の通り様々な城主がいてそれぞれ改修していたために、石垣だけみても各時代の造りでかなり面白い城です。とはいえ、これだけ城域が残っているのは、徳川家の居城であったためでしょうね。
縄張り図
本丸は天守郭と本丸御殿郭の実質的な連郭式となっており、そのまわりを二の丸等が囲む連郭・輪郭併用式の縄張り。
また北側から東側に懸けては水堀で防御を固め、西側から南側にかけては横矢を多用て防御を固めているのも特徴的。
この他、江戸時代には城下町を取り囲んだ総構えの造りだったそうです。
かなり広大な城なので順おをって。
まずは本丸。
天守・渡櫓・天守郭門(鉄筋コンクリート製・外観復元)
姫路城や、松山城と同じく連立式の天守群。
すべて外観復元ではありますが、再現度がきわめて高い外観復元だそうです。
たしかに外観復元とはいえ、所々少しずつ変えている天守はありますからね。
天守郭門、渡櫓、二ノ門櫓、乾櫓(鉄筋コンクリート製・外観復元)
天守群の北側には埋門もあり。
また、この天守周辺の石垣はかなり古い時代のもので、所々に墓石が使われています。
奈良の大和郡山城でも観られることから、秀長さん時代の遺構でしょうか。
本丸御殿跡
天守郭から谷間を挟んで東側にある本丸。
丘陵上にあるため、早い時期からあまり使われなくなり、藩主は専ら二の丸御殿に住んでいたそうです。
現在は水道施設となっており、立入禁止なのが残念なところ。
本丸北門跡
二の丸から本丸に入る北側の虎口。
続いて松の丸。
本丸御殿の直下にある郭で、高石垣が残っています。
松の丸櫓台
松の丸東端にある櫓台。
ちなみに、この城の凄いところの一つはこの本丸付近。
北側の二の丸から登ろうが、南側の松の丸経由で登ろうが、いずれにして天守郭と本丸御殿郭の間の谷間にたどり着く造りとなっているのです。
つまり基本的にはここを守っていればどこから攻められようと対処できるということ。
しかも、天守郭と本丸御殿郭とで挟み撃ちにもできる。
まさに、守りやすく攻めにくい!!
お次は二の丸。
大手門(木造復元)
二の丸御殿跡
現在は建物は無く、広場に。
なお、二の丸御殿の一部は維新後、大坂城に移築され「紀州御殿」と称されていましたがが、残念ながら先の大戦で焼失。
中門跡
二の丸と御蔵丸を繋ぐ枡形虎口
次は御蔵丸。
岡中門跡
御蔵丸と南丸を繋ぐ枡形虎口。
松の丸櫓台付近から見下ろすと、見事な枡形が分かります。
次は南の丸。
岡口門(現存・重要文化財)
和歌山城で貴重な現存遺構の一つ。
浅野氏時代は大手門でしたが、後に搦手門に。
この門自体は櫓門であるものの平虎口となっていますが、南の丸の東の区画自体が巨大な枡形となっているのです。
続塀(現存・重要文化財)
岡口門の北側に残っている塀。
不明門跡
南の丸の中央にある門跡。
通常時は閉鎖されていたことから不明門と称されていますが、真横に巨大な櫓台もあり。
お次は砂の丸。
追廻門(現存・市指定文化財)
通称赤門。
藩主居館であった二の丸御殿から見て裏鬼門(南西)にあり、魔除けのために朱で塗られたとのこと。
鶴の門跡
砂の丸から西の丸、二の丸方面へつながる門跡。
この辺りは「鶴の渓」と呼ばれ、自然の窪地となっています。
勘定門跡
砂の丸と外郭(三の丸)を繋いでいた門跡。
お次は西の丸。
御橋廊下(復元・木造)
二の丸と西の丸を結んでいた橋状の建物。
内部はこんな感じ。
城の橋は通常屋根が有りませんが、ここは藩主のプライベート空間である御殿と庭園を結ぶものだったため、内部が見えないようにこの様な造りとなっています。
なお、トップの写真でも使っていますが、この西の丸跡から見上げる天守群が絶景。
堀(東側)
かなり広大な水堀が残っています。
この規模はさすが徳川の城といった感じ。
堀(南側)
南側も元々は水堀でしたが、現在は埋め立てられ公園に。
ただ、埋め立てられたお陰で南の丸の石垣を間近で見られるのは嬉しい。
様々な石垣
南の丸南西側
本丸丘陵北側
本丸北側登り道
岡中門付近
砂の丸東側
天守郭北側
こうみると秀長時代や浅野氏時代の野面積から徳川時代の打込みハギまで多様な石垣が多く残っています。
打込みハギの高石垣はよくみるけど、野面積の高石垣ってのも趣がありますよね。
最後に、御橋廊下越しの天守群。
敷地、石垣、堀、どれをとっても広大・巨大で、それでいて各所を枡形門で固めた緻密な造りは流石徳川家の城だけあります。
特に石垣は散策して横を歩いているだけで楽しい。
非常にオススメ!!
マップ
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城 主:豊臣氏、桑山氏、浅野氏、徳川氏
遺 構:門、塀、石垣、櫓台、堀
文化財:国史跡、重要文化財(岡口門、続塀)、市文化財(追廻門)
探訪日:平成22年(2010年)3月21日、29年(2017年)3月19日、5月4日
概要
豊臣政権下で豊臣秀長(秀吉の弟)が築いた若山城が始まり。この際の普請は藤堂高虎が担当し、完成と同時期に地名も「若山」から「和歌山」に改められた。関ヶ原後は桑山氏が一時城主になった後に浅野氏が城主となり、土塁を石垣に改める等大規模な改修を行った。
浅野氏が広島へ転封になった後は徳川家康の10男頼宣が入城し、以後明治まで紀伊徳川家の居城となった。
明治以降は建物の多くは破却されたものの、和歌山公園として開放され天守等主要な建物は現存していた。
しかし、太平洋戦争中の和歌山空襲により天守群は焼失。戦後になってから天守群や門が復元されている。
(平成29年5月25日編集)
和歌山城といえば紀伊徳川家の居城として有名なんですが、上記の通り様々な城主がいてそれぞれ改修していたために、石垣だけみても各時代の造りでかなり面白い城です。とはいえ、これだけ城域が残っているのは、徳川家の居城であったためでしょうね。
縄張り図
本丸は天守郭と本丸御殿郭の実質的な連郭式となっており、そのまわりを二の丸等が囲む連郭・輪郭併用式の縄張り。
また北側から東側に懸けては水堀で防御を固め、西側から南側にかけては横矢を多用て防御を固めているのも特徴的。
この他、江戸時代には城下町を取り囲んだ総構えの造りだったそうです。
かなり広大な城なので順おをって。
まずは本丸。
天守・渡櫓・天守郭門(鉄筋コンクリート製・外観復元)
姫路城や、松山城と同じく連立式の天守群。
すべて外観復元ではありますが、再現度がきわめて高い外観復元だそうです。
たしかに外観復元とはいえ、所々少しずつ変えている天守はありますからね。
天守郭門、渡櫓、二ノ門櫓、乾櫓(鉄筋コンクリート製・外観復元)
天守群の北側には埋門もあり。
また、この天守周辺の石垣はかなり古い時代のもので、所々に墓石が使われています。
奈良の大和郡山城でも観られることから、秀長さん時代の遺構でしょうか。
本丸御殿跡
天守郭から谷間を挟んで東側にある本丸。
丘陵上にあるため、早い時期からあまり使われなくなり、藩主は専ら二の丸御殿に住んでいたそうです。
現在は水道施設となっており、立入禁止なのが残念なところ。
本丸北門跡
二の丸から本丸に入る北側の虎口。
続いて松の丸。
本丸御殿の直下にある郭で、高石垣が残っています。
松の丸櫓台
松の丸東端にある櫓台。
ちなみに、この城の凄いところの一つはこの本丸付近。
北側の二の丸から登ろうが、南側の松の丸経由で登ろうが、いずれにして天守郭と本丸御殿郭の間の谷間にたどり着く造りとなっているのです。
つまり基本的にはここを守っていればどこから攻められようと対処できるということ。
しかも、天守郭と本丸御殿郭とで挟み撃ちにもできる。
まさに、守りやすく攻めにくい!!
お次は二の丸。
大手門(木造復元)
二の丸御殿跡
現在は建物は無く、広場に。
なお、二の丸御殿の一部は維新後、大坂城に移築され「紀州御殿」と称されていましたがが、残念ながら先の大戦で焼失。
中門跡
二の丸と御蔵丸を繋ぐ枡形虎口
次は御蔵丸。
岡中門跡
御蔵丸と南丸を繋ぐ枡形虎口。
松の丸櫓台付近から見下ろすと、見事な枡形が分かります。
次は南の丸。
岡口門(現存・重要文化財)
和歌山城で貴重な現存遺構の一つ。
浅野氏時代は大手門でしたが、後に搦手門に。
この門自体は櫓門であるものの平虎口となっていますが、南の丸の東の区画自体が巨大な枡形となっているのです。
続塀(現存・重要文化財)
岡口門の北側に残っている塀。
不明門跡
南の丸の中央にある門跡。
通常時は閉鎖されていたことから不明門と称されていますが、真横に巨大な櫓台もあり。
お次は砂の丸。
追廻門(現存・市指定文化財)
通称赤門。
藩主居館であった二の丸御殿から見て裏鬼門(南西)にあり、魔除けのために朱で塗られたとのこと。
鶴の門跡
砂の丸から西の丸、二の丸方面へつながる門跡。
この辺りは「鶴の渓」と呼ばれ、自然の窪地となっています。
勘定門跡
砂の丸と外郭(三の丸)を繋いでいた門跡。
お次は西の丸。
御橋廊下(復元・木造)
二の丸と西の丸を結んでいた橋状の建物。
内部はこんな感じ。
城の橋は通常屋根が有りませんが、ここは藩主のプライベート空間である御殿と庭園を結ぶものだったため、内部が見えないようにこの様な造りとなっています。
なお、トップの写真でも使っていますが、この西の丸跡から見上げる天守群が絶景。
堀(東側)
かなり広大な水堀が残っています。
この規模はさすが徳川の城といった感じ。
堀(南側)
南側も元々は水堀でしたが、現在は埋め立てられ公園に。
ただ、埋め立てられたお陰で南の丸の石垣を間近で見られるのは嬉しい。
様々な石垣
南の丸南西側
本丸丘陵北側
本丸北側登り道
岡中門付近
砂の丸東側
天守郭北側
こうみると秀長時代や浅野氏時代の野面積から徳川時代の打込みハギまで多様な石垣が多く残っています。
打込みハギの高石垣はよくみるけど、野面積の高石垣ってのも趣がありますよね。
最後に、御橋廊下越しの天守群。
敷地、石垣、堀、どれをとっても広大・巨大で、それでいて各所を枡形門で固めた緻密な造りは流石徳川家の城だけあります。
特に石垣は散策して横を歩いているだけで楽しい。
非常にオススメ!!
マップ
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