昨日(7月4日)、プロレスラー・三沢光晴選手のお別れ会がディファ有明で行われ、2万6千人のファンが参列されたそうです。

 今週の週刊プロレスには、アントニオ猪木のインタビューが掲載されており、その中で三沢選手の死について言及しています。

 三沢選手の事故をきっかけに、選手の安全管理問題についていろいろ取りざたされていることと思います。
 それについて猪木は次のように述べています。
 非常に興味深いので長いですが引用しておきます。

「そんなのありえないって。旅立って行った人にはなむけの言葉を送らなけりゃいけないんだろうけど、プロレスやっている以上、危なくないなんてことはありえないんですよ。だったら辞めたほうがいい。いままで、どれだけの人がスープレックスを受けているんだよ。いろんなものがたまたま重なった結果であって。コンディションが悪かったとか。(プロレスは)命かけて闘うものなんだから。こんな事故が二度と起きないようになんて・・・誰が見るんだ、そんなもの。」

 ようは猪木は「安全な闘いなんてありえない。レスラーはリングの上で死ねるなら本望」と言っているのです。

 一方で、武藤敬司選手は三沢選手が亡くなった直後のインタビューにおいて「オレも“リングで死ねたら本望 ”とか言ってたが、ノアの社員や家族の悲しみが想像できる。そう軽々しく言った自分を改めようと思う」と語っていました。
 ようは武藤選手は「死んだら終わり」だと言っているのです。

 一般社会の論理で考えれば、武藤選手の発言が正しく、こういう事故が起こると、再発を防ぐために何がしかの規制を求める声が上がってくることでしょう。
 確かに「死んだら終わり」ですし、規制が必要という意見も理解できます。
 
 しかし、猪木の言っていることも非常によくわかります。
 プロレスは殺し合いではありませんし、いたずらに相手にケガを負わせてしまうことはレスラーとしての技量の欠如を問われる問題です。
 でも、一皮向けば危険と隣り合わせのリスクを背負ってリングの上でレスラーは闘っている、であればこそ、そこにロマンや魅力が生じるのです。
 全く安全で予定調和なものなど、誰がみたいと思うでしょうか。

 三沢選手の事故は防げたかもしれません。
 しかし、三沢選手こそは最も危険で激しい技を仕掛け、また受けまくって体を張ったプロレスを繰り返してきた人です。
 こういうリスクがあることは本人が織り込み済みで、リングに上がり続けていたはずです。

 それを一概に例えば統一コミッションを設けて選手のライセンスを作るとか、危険な技を規制するとか、そういう対症療法を施すことはプロレスそのものの存在意義を崩す行為だと思います。

 しかし、武藤選手の言っていることは全く正しいと思います。
 武藤選手の考える「死んだら終わり」を回避するためには、プロレスラーはそれぞれ個人が自己の責任とプライドを持って体を鍛え試合をする以外にはなく、統一的に規制をかけるようなことはできないでしょう。

 
 最後にもう一度、猪木の発言について触れたいと思います。

「(プロレスは)命かけて闘うものなんだから。こんな事故が二度と起きないようになんて・・・誰が見るんだ、そんなもの。」

 お前自身はそんなに体張ってたのかよ!と猪木にツッコミを入れたくなる方もおりましょう。
 しかし実際の猪木がリング上でどうだったかということはあまり重要ではありません。
 プロレスはリング上の行為だけがプロレスではありません。
 こういう事故が起こったとき、道徳的観点から言えば、上の猪木のような意見をはっきり言い切ることはなかなかできないと思います。
 こう発言すること自体が猪木のプロレスであり、プロレスラーとしての猪木流の三沢選手へのたむけなのです。