2012年08月15日

終戦記念日と後期高齢者

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2012年8月15日午後東京。照りつける西日。最高気温34度。
67年前の1945年8月15日。同じく照りつける日。
数え5歳の少年の私は、静岡県の山村で野良遊びをしていた。

この日、日本が敗北を宣言して終結した太平洋戦争では、310万
人の国民が戦死、焼死、溺死、病死、餓死などで4年間の間に亡
くなった。
東日本大震災での死者2万人と比べると15倍。あの津波地震が
全国15か所で起こったと考えればよい。そして当時の被災者支援
は、ほぼ何もなかったと言ってよい。

6歳で上京して小学校に入り、行方不明で死亡通告をされた徴兵
だった父親の葬式をした。港区の小学校には撃ち落とされた米軍
の戦闘機の真っ赤に錆びた巨大なエンジンが屋上に突き刺さって
いた。

クラス中で靴を履いている子は居なかった。オール下駄か草履。先
生は若い復員兵が半数。給食は米国から送られたララ物資の缶詰
を食べた。クラスには、家族を亡くした子供が数人いて私はさびし
い思いはしないで済んだ。

祖父や父が運営していた町工場と住宅は3月10日の東京大空襲
で一夜にして焼失し、母親は、何年も三宅坂に設置された「行方
不明者相談所」に並んだ。
いつも数百人が並んでいたが、母と同じく誰もが「情報なし」の結
果を受けとるのだった。

政府から送られてきた父の骨箱には石ころが入っていた。一人息
子を亡くした祖母は十数年間死ぬまで「何時帰ってくるか」と泣き
暮らした。終戦の日は、東京中でお昼にサイレンが鳴り「黙とう」を
する。
終戦記念日には、ラジオ、新聞が「終戦特集報道」を組むから、家
の話題がそれになる。祖母が亡くなってからは、終戦記念日は、
母が代わって、その悲しみを語る日になった。
一瞬にして生死を分けた震災・津波被災者の気持ちは同じである
かもしれないと思っている。
文春1209号太平洋戦争証言特集2012年9月も文芸春秋誌
は「終戦記念日特集」を
組んだ。

人生の大半をもぎ取られ
た亡き、父、祖母、母を
墓参することだけが、
私にできることである。







終戦後、敗戦の混乱で様々な体験をして、思い忘れられずにいる
70代、80代の方々と話し合うことがある。
語り継ごう、あの混乱からも立ち直った経験を。という声がある。

日本の「後期高齢者」と言うのは、その時代の少年少女である。
語り継ぐ「役割りのある」人たちである。

sukoya2008 at 21:25コメント(4)トラックバック(0) 

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コメント一覧

1. Posted by 松本輝一です   2012年08月15日 23:18
スコヤさんへ

終戦のとき5歳でしたか。
大変な時代を生きてきたのですね。私は母のおなかの中にいたようです。昭和21年1月生まれですから。何もない中から這いずり回ってきたといった表現があっていると思います。最近戦争を風化する勢いが強く感じます。戦争で亡くなった人のおかげで今の平和があるわけです。何かをしなくてはいけないとやっと気が付いてきました。
2. Posted by すこや   2012年08月16日 03:52
日本では風化が進みますが、中国では全土の大学で新入学生は6カ月近くの軍事教練を受けています。大連で見てきましたが、教官は人民解放軍ですから、歴史教育も共産党の見解でしっかり行っているようです。共通の歴史見解を若者がもつ国と日本の違いは大きいなと感じました。
3. Posted by 昭和のマロ   2012年08月16日 06:43
 ぼくは小学校二年生で金沢に引っ越していて隣県富山が空襲で焼けるのを見ていました。
 戦後日本の教育は他人の善意を期待する教育を受けてきましたが、現実は依然として<力の論理>で動いています。
 竹島は日本の領土と言いながら事なかれ主義の結果は、獲った者が勝ちの現実にうろたえています。
 日本はこれからどう世界に対応していくべきなのでしょうか。
4. Posted by すこや   2012年08月16日 08:19
マロさん、歯ぎしりしたくなりますが、
力の論理は日本がちゃんとしなければならない課題ですね。多くの人が近隣国の現状を見たり知ったりが必要なことと、日常の小さなことしかできない私は、一人でも近隣の国の人と付き合いをしておくべきかと思っています。

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