2008年04月27日

タイトル未定

プロローグ
 二月初めの夜、僕はいつも以上の疲労感を伴って自宅に帰った。
 というのも、いつも通り塾での講義を終え電車に乗って帰宅しようとしたのだが、知り合いの家を訪ねたために時間が遅くなり、終電が出てしまっていて、結果歩いて帰ることになったからだ。
 最近多発している通り魔事件を考えると、できれば夜道を一人で歩いたりはしない方がいいのだろうが、自分は男なのだからということもあったし、命を失うことになったとしても、それはそれで構わないと思っていた。だから結局、誰かに送ってもらったりはせず、一人で帰ることにした。
 僕の家は最寄りの駅から十分ほどのところ、人通りのそれほど多くない道路沿いに建てられたマンションの一室だ。そこで、父が出した条件と引き換えに一人暮らしをしている。
 着ていた黒のロングコートを脱ぐ。扉を閉めて中に入り、足の大きさに見合わない大き目の靴を乱暴に脱ぎ捨てた。それから一メートルもない廊下を抜け、寝室と居間を兼用した部屋に入る。
 留守電があることを示すボタンが点滅する電話機を無視し、電気を点けて暖房を入れる。高校から持ち帰った教材が入れてある肩掛け鞄と、手にしていたコートを床に放り投げ、壁際のベッドに飛び込むようにして倒れた。
 仰向けになって疲れきった身体から鉛のように重い不快感を取り除こうと大きく伸びをする。僅かに閉じられた目をゆっくり開けると、圧迫感を覚える真っ白な天井の壁が視界に入った。……ひどく、寒い。
 瞬間、僕は自分の中のあらゆる感情が消失していくのを感じた。
 家に帰る前には確かに存在していたはずの感情が、自分というものが消失していく感覚。
 そしてその現象が終息した後には、自分という存在を主観で捉えることができなくなり、決して抗うことのできない脱力感に見回れる。
 ここ最近ずっとそんな感覚に襲われている。
 そうなってしまった僕は、もう何も感じることがない。
 もちろん五感は正常に機能している。何も感じないというのはつまり、その状態では周囲で起こった出来事に何の感慨も抱くことがないということだ。
 例えば目の前で自分にとって大切な人が殺されたとする。けれど今の僕はきっと、そんなことには何の興味も示さないだろうし、起こった出来事をただただ受け止めるだけで、驚くことも、憤怒することもないだろう。
 しかし次の日になれば、自分の感情を認識できる。
 なぜそんな現象が起こるのか。感情が消えたままではない以上、離人症というわけではない。だから当然僕はこのことを疑問に思うのだが、不思議と恐怖心はわいてこなかった。いつか完全に感情を失い機械のようになったとしても、むしろそれは僕の望むところだと考えているからかもしれない。
 仰向けのまま、何をするでもなく天井を見続ける。それはどこまでも無機質で――
 ふと思う。ラプラスの悪魔もまたこんな奇妙な感覚に襲われているのかと。
 世界に存在する全ての原子の位置と運動量を把握するという無限の知覚能力を持ち、それらの原子の動きを予測できる無限の演算能力を持つ彼は、過去や現在を知ることと同様に未来さえも知ることができるという。
 ならばラプラスの悪魔はこれから先に起こることを全て知っていることになる。
 だとすれば彼もまた今の自分と同じ無機質な一個の物体に過ぎないと思う。未来を知ることの出来る存在にとって世界から受ける感慨などないに等しいだろうから。
 もちろん、ラプラスの悪魔などという概念存在はどこを探してもいるはずがない。量子力学研究、確立の雲と不確定性原理いう理論がその能力を持つという仮定を否定している。
 だが、もしもそんな存在がいるとすればそれは……もはや人間ではないのだろう。
 ――感じていた寒さが増した気がした。

 二月半ば、テレビのすぐ脇にある、普段はかかってくることのない固定電話のコールが部屋に響いた。
 緩慢な動きで体を起こす。布団に包まったままベッドから起き上がる。倦怠感を抱えたまま電話機に表示された番号を見て……溜息を吐いた。――やっぱり椎名さんだった。
 高校の知り合いは携帯にかけてくるので、このほとんど無意味に設置されている固定電話にしてくる人間は限られている。
 椎名さんは父、隆哉が経営する佐神コンツェルンの母体会社で働いている三十代前半ほどの女性で、父の補佐役、会長秘書という立場にある人物だ。
 以前父の指示で会社を見学したときに案内してくれたのが彼女で、僕はそのときに彼女と知り合っていた。
 父の紹介によれば、どんな仕事も完璧にこなし、自分にも厳しい彼女は多くの人が思い描く理想の人間像そのもの。優秀だからといってそれを鼻にかけず、会長である父を含めた特定の誰かに媚を売るようなことはなく、万人に平等に接し、だからこそ人を惹きつける抜群の才能を持っていた。故に父は彼女を気に入り、秘書に迎えたのだという。
 なるほど、その通りだと思った。
 美人というわけではないけれど、素朴な感じのする人当たりの良さそうな容姿から受ける印象は好ましいものだったし、相手が子供だからといって決して見下した態度を取ることはなかった。だから僕には彼女を嫌う理由などない――はずだった。
 しかし、いつも峻厳な態度で他人に接するあの男がそこまで彼女を賞したことが、そして笑顔を向けたことが、何か変な感覚を僕に抱かせていた。
 あの男がどう振舞おうと気にすることではないはずだ。だのに笑顔を向ける父と、楽しそうに笑う彼女に、苦労して掃除した部屋をひどく汚されたような、そんな奇妙な不快感を覚えた。
 だから……決して受け入れることができない存在、それが彼女に対する僕の印象だった。
 電話にでることを躊躇している間にコールは五回ほど続き、やがて留守番電話サービスに切り替わった。
「おはようございます柊一さん、椎名です」
 柊一というのは僕の名前だ。佐神柊一、それが父から与えられた僕の名であり、役割だ。
「先日もご連絡致しましたが、お父様は一度柊一さんとお話がしたいとおっしゃっています。もし宜しければ、お父様とご実家でお会いになっては頂けないでしょうか。一週間後の日曜日、午後二時ごろにお待ちしているとのことです……」
 何かを躊躇うような沈黙の後、「では、失礼致します」という言葉とともに電話はきれた。

第一章 理想と呼ばれるモノ
「貴方にもあれが見えるの?」
 耳にスッと入ってくる可愛らしい声でそう言うと、その少女は血の色に似たワインレッドの瞳で僕を見た。
 等間隔にモダンな感じのする電灯が立ち並ぶ閑静な住宅街。家屋も道路も全て雪で被われ、視界一面に銀世界が広がる。周囲に二人以外に人の気配はない。
 僅かだが痛みすら感じるほど冷たい風が、彼女の腰まで伸びた銀色の髪を撫ぜ、前髪を微かに揺らす。
 僕はこんな状況だというのに、思ってしまっていた。とてつもなく綺麗だ、と。
 儚いという単語をそのまま具現化したような、新雪などよりもずっと白く透明感のある肌。鮮やかな朱色の唇をした、端正な顔立ちの少女。
 髪の色、目の色、肌の色。どれも日本人のそれではない。
 外国人などそう珍しくはないが、しかしそれとは別に彼女はどこか異質な感じがする。
 研ぎ澄まされた日本刀のような、彼女の周囲を覆う張り詰めた空気。しかしそれとは逆にヴィーナスと名付けられた彫刻作品を思わせる容貌からは、一切感情を窺うことはできない。なんというか……そう、端的に表現するならば幻想的なのだ、彼女の存在そのものが。――まるで人間じゃないみたいに。
「あれはね、生命の思い……彼らの願う幻想のかけら。それを内包した情報集合体よ」
 流暢な日本語で彼女はそう言うと、受け入れられる許容量をあまりにも逸脱した出来事に、呆然と立ち竦んでいる僕のすぐ横を颯爽と通り過ぎていった。はっとして、その姿を追う。振り返ると……やはりそいつは消せない事実として、確かにそこに存在していた。
 全身を覆う黒い体毛。大きく開いた口には二本の鋭く尖った牙が見える。地鳴りのように身体の奥底まで響く低い唸り声を時折漏らし、その物体は真紅の目で僕を、いや、僕の前に立つ少女を睨んでいる。
「邪魔になるから、そこを動かないで」
「……え?」
 気づけば、そんな馬鹿みたいな声が出ていた。――邪魔になる?
「……邪魔になるって、いったい君は――」
 僕が言葉を言い終える前に彼女はその歩を進めていた。
 ……まさか、あんなモノに立ち向かおうとでもいうのだろうか。いや、それはないだろう。あんな化け物に立ち向かうとか、戦うとか、そんな考え普通の人間ならば思いつくわけがない。
 しかしどうやら彼女はその思考も普通の人間とは違うらしい。
「おい、待て!」
 反射的に出ていた僕の静止の声を完全に無視し、淡い雪がうっすらとコンクリートの灰色の見える程度に積もった地面を躊躇なく蹴り、化け物に向かっていった――。



 時間は少し遡る。
 椎名さんから最後に電話があった日から丁度一週間後。その日僕は雪景色の街道を歩いていた。ニュースによれば五年ぶりの大雪とのことだった。……そういえばあの日もこんな風に雪が積もっていたっけ。 
 目指す目的地は僕の住むマンションから九つほど駅を通過した先のとある住宅街。詰まるところ、僕は約束どおり自分の実家に向かおうとしていた。
 もちろん、そんなことは無視すればいいという考えがなかったわけではない。僕は父の命令に従うつもりなんかない。だからもし理由を誰かに尋ねられてもきっと、「ただ、なんとなく」としか答えられない。
 それでも足は、自然と駅に向かっていた。

 規則正しいリズムを刻んで電車は揺れる。
 アナウンスの、次が降車駅であることを告げる声で夢現だった意識が覚醒する。
 数秒後、誰かに横へ引っ張られるような感覚が起こり、しばらくして電車は停まった。
 電車を降り改札を抜けると、相変わらず殺風景な景色が広がっていた。
 家屋が僅かに点在している以外は、ここには他に何もない。人気はないし、周辺一帯が全て白に染め上げられていることが、余計にこの地域を寂しいものにしている。
 五分ほど街道を歩いて……よくやくあの男の城の壁が見えてきた。そう、あれは城と形容するのが相応しい。
 明治の中頃、古い歴史を持つらしい佐神家の力を示すように、それまでの武家屋敷を壊してまで当時の当主によって建てられたらしい洋館。――煌く雪で覆われた広大な敷地に悠然と佇むその姿を想像する。それは近世のフランス国王が建てた、かの優美な宮殿を連想させた。
 ……なるほど。確かに一枚の風景画として見るならばあれは評価できるものなのだろう。しかし、やはり僕にはあんなモノ、支配の象徴、もしくは牢獄としか思えなかった。
 屋敷は周囲を赤茶色の煉瓦の壁で囲まれ、檻を思わせる黒い鉄製の門でその入り口を塞がれている。言うなれば、確かにあれは雅やかな城だが、同時に王の奴隷を閉じ込めるための牢獄でもあるのだ。
 ……とりあえず敷地の中に入ろうと、門のすぐ横、黒石に白で佐神隆也と書かれた表札、その脇についているインターホンを鳴らす。
「お待ちしておりました。少々お待ちください」
 すると久しく聞いていなかった穏やかで深みのある男性の声がスピーカーから響いた。
 しばらくして、黒いスーツ着た初老の男性が屋敷の本館から出てくるのが目に映った。ゆっくりとした足取りで彼はこちらに近づいてくる。顔が見えるくらいの位置まで彼が来たところで、僕は声をかけた。
「久しぶりだな、須藤」
 そう言うと門を開けてくれた目の前の老紳士は軽く笑って、
「はい、お久しぶりです坊ちゃん」
「……須藤、僕ももう十六歳だ。そろそろ坊ちゃんは止めてくれないか」
 しかし須藤は動じた様子もなく、
「申し訳ありません」
 まったく……。中学卒業と同時にこの家を出て一年経つというのに、佐神家に仕えてくれているこの執事は全く変わっていないらしい。そんなことを考えつつ、僕は門をくぐった。
 須藤を先導に、躑躅の植え込みと外灯が三メートルおきに交互に並んだ、車二台が通れるほどの幅の石畳の通路を渡る。
 僕の住むマンションの近くにある河川公園の豪快なそれに近い、今の時期は止められている噴水が、左右対称に設置された広場を越える。
 ふと横を見ると、植え込みを隔てた先の白石の地面に積もった雪が溶けて石畳の溝に流れ込み、それが回りより少し低めになっている外灯を囲む排水溝に達していた。
 目線を上にあげ、正面を向く。
 左手には父の趣味が高じて建てられた小さい植物園と、この城にはどう考えてもそぐわない景観をした剣道場がある――。二つの建物の手前には花壇があり、五年前まではオランダから取り寄せたらしい鮮明な青のチューリップの花が咲いていた。
 右手には……佐神家の家系図や何百年単位の古書を貯蔵した書物庫と、今は使われていない、室内プールを完備した真新しい離れがあって、離れと道場からは三角屋根がついた通路が伸びている。それを追うように視線を移す。――本館の姿が写る。
 玄関まで続く段差の小さい十数段の階段に、テーブルと椅子が置かれた敷地の様子を一望できるバルコニー。カーテンが閉ったままの指の本数ほどある窓。通う高校と比べても大差ない大きさをした、無駄に絢爛豪華な外観。そして、いったい誰が乗るというのか、階段の右下に五台ほど車が停まっていた。近づくにつれその中の様子も見えてくる。赤や黒など色や縦横の幅は違っていたが、ハンドルはどれも左側についている。車体には汚れ一つない。
 ……抱いた感情を思いっきり地面に叩きつけ、須藤の背中に引っ張られるようにして階段を上って扉の前に立った。どうぞと須藤が扉を開け、僕は着ていたコートを脱いで屋敷に入る。
 マンション暮らしに慣れたせいか、家の中なのに靴を履いたままであるということに若干の違和感を覚えつつ、鮮やかな紅の絨毯が玄関から階段までの間に敷かれたホールにあがる。
 傍らに立つ須藤にコートを預け、屋敷の中を見渡してみる。
 ……。
 ――天井高く吊るされた華美な装飾の多いシャンデリア。手摺から足場まで、全てが純白に染められた二階へと続く階段。階段の上の壁に飾られた、冬のノイシュバンシュタインを描いた大きな絵画。階段下、その両脇の台座に飾られたどこに価値があるのか僕には全く理解できないアンティークの壷。
「本当に、何も変わってないんだな……」
 そんな言葉がため息とともに口から出ていた。 
「それで――」
「坊ちゃんのお部屋はそのまま残してあります。ただいま午後一時ですので、お会いになる時間までもうしばらくございますから、そちらでお寛ぎください」
 僕の言葉を先読みして須藤はそう言った。普段はそんなことしないのだろうが、そんな彼の対応に心の中で感謝する。そうだ、父の名を出さなかったのも、きっと……
「坊ちゃん?」
「――え? あ、いや、大丈夫だ」
 須藤の声で意識が現実に引き戻される。虚ろな表情でもしていたのだろうか、怪訝そうな顔をして彼は僕の顔を覗き込んでいた。
「それならばよろしいのですが……」
「本当に大丈夫だって。相変わらず須藤は心配性だな」
 言葉の端に案ずるような雰囲気を感じ、苦笑する。
 もっとも、須藤の反応も分からないでもない。僕と父の現状を知っているこの家の人間ならば、自然と口調がそうなってしまっても仕方がないことだ。
「部屋の場所は覚えているから、すまないが何か飲み物を持ってきてくれないか」
「畏まりました。後ほど氷川さんに運んで頂きましょう」
「……氷川?」
 予想していなかった名前に少し驚き、階段を登ろうとしていた足が止まる。
「氷川ってまさか、奏がまだこの家にいるのか?」
「はい。……坊ちゃんが屋敷を出られてからすぐ、ここを出たいかと尋ねられ迷われていたようでしたが、自分の役割を果たしたいとおっしゃいまして」
「役割?」
「?柊一さんの帰りを待つこと?だそうです」
「……」
 聞いているこっちが恥ずかしくなるような台詞に絶句する。それから徐々に、少しだけ後ろ暗い気持ちが沸き起こった。結局屋敷を出るとき、彼女には何も言わず仕舞いだったから。
「……そうか」
 しかし、そんな気持ちを抑えて、胸の中に何とも言えない、掌の温もりのような暖かいものが入り込んでくる感覚を覚えた。――僕という足枷が無くなった以上、あの行動的な女の子はすでにこの屋敷から飛び出しているだろうと思っていたのだが……ここに居てくれたのか。
「彼女が施設からこの家に来て、もう五年になるのか……」
 僕の相手をさせるために、施設から奏を引き取ったと父に聞かされたのが五年前。以来、彼女とは、まるで姉弟のように同じ時間を過ごした。ずっと塞ぎこんでいた僕を、この屋敷の後ろにある桜の木が植えられた森と表現できる程に広い庭に連れ出してくれたのも彼女だった。……あの時の彼女はひどく眩しいものに思えた。譬えるなら漆黒に塗り込められた暗澹たる夜空にあって、唯一煌々と光を放つ満月のようだと。だが――
「お会いになればきっと驚かれると思いますよ。私などはともかく、お若いうちはたった一年でも大きく変わるものですから。実際、私も坊ちゃんにお会いして随分と驚きました。成長されましたね」
 歳の離れた弟を相手にするようにそう言うと、須藤は徐に腕時計で時間を確認し、
「では、私はお迎えする準備がありますので。時間になりましたらお呼び致します」
 誰をとは口にせずそう言うと、彼はこの場を辞した。
「……成長なんてしていない」
 須藤の姿が見えなくなった後、僕は自嘲するようにそう呟いていた。奏との思い出は屋敷での数少ない楽しかった記憶だ。だが同時にそれは僕に、奥歯を噛締めたくなる衝動を抱かせる。
 母さんが死んだあの日から……僕は何も変わっていないんだよ、須藤。

 絵画の飾られたフロアを左に曲がって二階に上がると、部屋の対面の窓から日の光が差し込んでいて、廊下のずっと奥の方までを照らしていた。
 左側の廊下の先、端から二番目が僕の部屋だった。一番端が世話係だった奏の部屋になる。
 ……それにしてもこの屋敷は広い。大小は別にして一階だけで十部屋、二階と地下、離れの建物群も加えると三十を越えたはずだ。
 そんな造りの屋敷だから、ここに滞在していた親戚を五年前に父が追い出してしまって以来、余計に広く感じるようになっていたのだが、どうやらその感覚に変化はないらしい。
 当時、何を思ってあの男が連中を追い出したのかは知らない。けれど、権力者に媚を売るしか能のない愚鈍なやつらだったとはいえ、この屋敷に活気を持たせるくらいはできたはずだ。
 もっともそんなこと今更言っても仕方がない。それに僕自身騒がしいのは嫌いだし、連中を鬱陶しいと感じていたから、それに関してあの男に不満があるわけではない。
 とはいえ、静まり返った空間に足音だけが響くというのは感覚的に寂しい。――或いはこの屋敷も五年前に死んでしまったのかもしれない。
 長い廊下を記憶の中の映像と照らし合わせつつ渡る。
 しばらく進んで自分の寝室だった部屋の扉の前に立った。少しだけ迷った後、埃の一切付いていないノブを回して、引いた。中に入る。
 光沢を放つフローリングの床に、鳶色を基調にした落ち着いた色彩の絨毯が敷かれ、扉と反対側にある窓際には飾り気のないシングルベッドと少し色褪せた木製の机があった。そして後ろを振り返って見れば、扉のすぐ横に英語の参考書や分厚い国語辞典、新品同様の哲学書や国籍すらばらばらな小説家達が書いた文学小説など、父が買い揃え、屋敷を出る際に置いていった大量の書物が本棚に整然と並べられていた。確かに須藤の言った通り、僕の部屋はそのまま残されたらしい。
 取り敢えず自分の部屋で立ち尽くしているというのも間抜けなので、本棚から一冊本を適当に選ぶ。題名に禁断の実を最初に食べた人間の名を冠するその小説を手に、皺一つないベッドに座った。
 大分前に読んだ小説だから、内容はあまり覚えていない。丁度いい暇つぶしになるだろう。
 ……そう思って読み始めてみたのだが、しばらくすると本の内容は一向に頭の中に入ってこなくなった。
 一年も会っていない幼馴染の女の子とこれから会うのだと考えると、それほど感情の起伏がない僕でも人並みに緊張してしまうものらしい。
 心臓が機能不全を起こしたように出鱈目なリズムを刻む。不安とも期待とも取れる浮き足立った感覚に心が支配されていくのを感じる。
 そうやって三十ページほど捲ったころ、扉が規則的に二回、乾いた音を立てた。反射的に「どうぞ」と言うと、やや間があって「失礼します」という張のある声が耳に入った。
 木製の扉が軋む音も立てずに静かに、ゆっくりと開かれる。
 最初に目に入ったのは、喫茶店で使われるような、黒のワンピースに白のエプロンドレスという、シンプルなデザインの給仕服だった。ついで花柄模様のティーカップを載せたトレイを抱える細くすらっとした腕が映る。
 肩までで切り揃えられ、ホワイトブリムで纏められた肌理細やかな黒髪。見ているだけで吸い込まれてしまいそうな深い闇を連想させる魅惑的な黒い瞳。――息を呑む。
「……」
 一年前より随分と伸びた身長。より女性らしくなった体。
 けれどちょっとした仕草、例えば後ろ手で扉を閉める姿、一挙手一投足に見られる柔らかな雰囲気だけは、一年前と変わっていなかった。
  
Posted by sumeragi3 at 21:30Comments(0)小説 

2007年04月27日

雑記

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Posted by sumeragi3 at 19:25Comments(1)