姉ちゃんに彼氏(おとこ)ができた。
 洟をすする。
 別にそれはどうだっていい。
 嗚咽が漏れる。
 どうだっていいはずだった。
 泣き続けたせいで瞼が腫れる。
 ……言っておくけど、俺はシスコン野郎なんかじゃない。
 断じて違う。
 あんなクソババアを選ぶなんて、本当に物好きもいたもんだと思う。
 どこがいいっていうんだ、あの暴力女の。
 じゃあ、ここ――俺の部屋のベッドの上で体育すわりでずっと泣いているのは誰なのかというと。
「ゆずこー、いい加減泣き止めよ。ただでさえブサイクな顔が、すっげえことになってるぞ」
 ベッドと俺を挟んで向かいの床に寝っ転がっていた諸悪の根源が口を開いた。
「う、うるさい、裏切り者ー。け、ケンタロウの、」(ひっく)「顔だけは」(ずずっ)「見たく」(ごほっごほっ)「なかったのに」
 一言喋るごとに、しゃくりあげたり、洟をすすったり咳き込んだりで上手く話せないみたいだった。
柚木(ゆぎ)先輩、ティッシュ」
 ティッシュペーパーを箱さら手渡す。
 柚木先輩――柚木えりこ先輩は涙を手の甲で拭い、少しだけ顔を上げた。
 笑おうとして無理しているのが分かる、眉間にしわが寄ったままのくしゃくしゃの顔だった。
(りょう)ちゃん、ありがと」
 鼻水がつーっと垂れたままだっていうのに、あたりに花が咲き乱れて見えるんだから、重症だと思う。
 柚木先輩は思い切り音をたてて洟をかんだ。
「お前さー、ちょっとは恥じらい持てよな」
 呆れた顔で、井原(いはら)――井原健太郎は柚木先輩を見る。
 井原は俺と同学年だが、柚木先輩とは幼馴染で、彼女に対する物言いは男友達に対するようにつっつけどんだ。
「井原こそ、黙れ。お前がいるとややこしくなるんだよ」
良一(りょういち)はオレに冷たいよなあ」
「お前に優しくする理由なんてこれっぽっちもない」
 井原は柚木先輩を見て、俺を見て、にやりと人の悪い笑みを浮かべた。
 嫌な予感がする。
「んー、それともゆずこに甘いっていうべきか」
 馬鹿野郎!
 何てこと言うんだ。
 声にならずにぱくぱくと口が動く。
 すかさず睨み付けると、小さく両手を上げて首を振ってみせた。
 幸い……と言っていいのか分からないが、柚木先輩の耳には届いていないようだ。
(なつめ)ちゃんは、棗ちゃんだけは取らないでって言ったのにー」
 ハンカチで目頭を押さえながら、ケンタロウに怒鳴り散らす。
「しょうがないじゃん。棗サンはオレを選んだんだから」
「にくたらしいー、口惜しいー。……棗ちゃん、男の趣味最悪」
「何とでも言え。負け犬の遠吠えなんて、痛くも痒くもないわ」
「負け犬って言ったー。ケンタロウのくせに生意気ー」
 がなり散らしてはいるものの、少しは元気が出たみたいだ。
 涙はなんとか止まったようだ。
 用意しておいたアイスノンを手渡す。 
 少し融けてしまったけれど、まだひんやりと冷たい。
 泣き腫らした目には心地いいだろう。
「ほんと、良ちゃんは優しいね。ごめんね。ありがとね」
 柚木先輩はまっすぐにこちらを見て微笑んだ。
「棗ちゃんは幸せだなあ。良ちゃんみたいな弟がいて」
 なんでか分からないけれど、胸の奥がひりひり痛んだ。

 柚木先輩と出会ったのは、同じ高校に通うより前のことだ。
 姉ちゃんが高校生に入って、新しい友人を連れてきた。
「柚木えりこです」
 凛とした澄んだ声だった。
「棗ちゃんとは同じ部活なの。宜しくね」
 首を傾げると、ふわふわと肩まである鳶色の髪が揺れる。
 まっすぐな瞳が、やわらかな空気を纏った雰囲気がとても印象的だった。
 それから何度も家に来るようになり、少しずつ、少しずつ会話を交わすようになった。
 最も、彼女は姉ちゃんの客人であって、話すことと言えばほんの挨拶程度の内容ばかりだったけれど。
 それでも嬉しかった。
 彼女と会えた日は、それからずっと幸せな気分に浸れた。
 高校は迷わずに彼女と同じところを選んだ。
 姉ちゃんと一緒というのは嫌だったけれど、彼女に会えるならそんなことは帳消しだ。
 まあ、実の所一番近所で無理せず入れるのがそこだったってこともあるのだけど。
 高校に入学してからは、柚木先輩と話す機会も増えた。
 姉ちゃんがいなくても、すれ違ったりすれば声をかけて貰えたし。
 何より井原と同じクラスになったこともあり、会う機会自体が増えた。
 ……俺と井原が友人になってしまったせいで、姉ちゃんと井原が知り合ったんだと考えれば、今のこの状況も全部俺のせいなのかもしれない。
 はじめは、柚木先輩は井原のことが好きなんだと思ってた。
 けれど違うんだってことはすぐに分かった。
 柚木先輩の目はいつだって、ただ一人を向いていた。
 彼女が姉ちゃんを見る目は、人一倍熱が籠もっている。
 一緒にいる時はそんな色は微塵も見せない。
 けれどいざ離れて、姉を遠くから見つめるその瞳は、愛しさを滲ませていた。

 帰りのバスで、井原は言っていた。

 オレさ、本当はゆずこのこと好きだったんだよ。中坊の時とかずっと。
 高校に入ってからあいつ好きな奴が出来たんだってすぐわかった。
 いつだってそわそわしてて、浮き足立ってて。
 年の差が憎くてたまらなかったな。
 相手はどんな男なんだろうって。
 で、いざ同じ学校に通うようになってみて、すぐに分かったよ。ゆずこが惚れたのが誰なのか。
 ちょっとだけ驚いたけどな。まさか女の人だったなんて。
 一体どこに惚れたんだろうって見ているうちに、気づいたら棗サンのことばかり考えてる自分に気づいた。
 ゆずこのことは抜きにしても、棗サンに惹かれてることに気づいた。
 ゆずこには恨まれることはわかってたんだけどな。
 躊躇してるうちに別の奴に盗られるのがたまらなく嫌で。
 気づいたら棗サンに想いを伝えてたんだ。
 
 わかってる。井原が悪いわけじゃない。
 あいつがどんなに姉ちゃんを思っているかは、嫌というほど分かった。
 誰が悪いわけでもない。
 ただ、人が人を好きになったそれだけだ。
 だけど俺は、柚木先輩が悲しんでいるところは見たくない。
 彼女が苦しんで居ても、ただ見ていることしかできない自分が嫌になる。

「良一、良一や。ちょっとお兄ちゃんとこ来なさい」
 気づくと、井原がまじめくさった顔で手招きしていた。
「誰が兄だよ」
「ああ」ぽんと手を打ってみせる。「お義兄ちゃんとこ来なさい」
「言い直したってお前は義兄でも兄でもない。赤の他人だ!」
「つれないのぅ。棗と俺が結婚したら、本当に義兄になるってのに」
 結婚の二文字と姉ちゃんの名前とで、涙が止まりかけていた柚木先輩の表情が一気に曇る。
「……棗ちゃん、棗ちゃん」
 柚木先輩の大きな目から、大粒の涙がぼろぼろととめどなく溢れ出す。
 こうなったらもう何を言っても届かない。
 井原の傍へ行き、わき腹を思い切り肘鉄で打ち付け……ようとして避けられた。
「ばかやろう」
 小声で呟く。
「放っときゃいいって」
 小声で返ってきた。
「でもよかったじゃないか」
「何がだよ」
「わからないのか?」
「だから何が」
 井原が何を言っているのか分からず睨み付けると、やれやれと言った調子で嘆息してみせた。
「ゆずこな、昔から辛いことあると一人で籠もって泣くんだよ。こんな風に人前で泣くことなんて滅多にない」
「え?」
「だって、今は棗サンの顔見るのだって辛いだろうに、ゆずこは真っ先にお前んとこ来たんだぞ? 先に帰ってくるのが棗サンかもしれないのに。真っ先にお前に泣きついた」
 少し前のことを思い出す。
 ゲーム機を借りに着いてきた井原と共に家へ帰ると、柚木先輩が玄関の前に立っていた。
 俺の顔を見ると、ホッとした顔で笑って、すぐにぐしゃぐしゃに泣き崩れた。
「……ただ、弟みたいに思われてるだけだろ?」
「だとしても、憎き恋敵であるはずのオレの顔は全く目に入ってなかった」
 確かに。少しだけ落ち着いてから、井原に気づき、どうしてここに居るのと怒鳴りいっそう大きな声で泣きはじめた。
 近所のおばちゃんの何事かという視線が痛かったから、とりあえず自分の部屋へ招き入れ、泣き止むのを待っていたのだけど。
「……馬鹿馬鹿しい。そんなことあるわけない」
「そうかー。十分脈アリだと思うけど」
「……そんなことあるはずがない」
 柚木先輩がどんなに姉ちゃんのことを思っていたのかは、身を持って知っている。
 第一、彼女が待っていたのが俺だという確証はない。
 本当は姉ちゃんを待っていたのかもしれない。
 今からでも、気持ちを伝えるために。
 ……俺はまた、彼女の邪魔をしてしまっただけなのかもしれない。
「お前本当にマイナス思考なのな」
「井原みたいに悪いことすら良いことのように有頂天になることはできないよ」
「ま、どっちなのかはわかんねーけどさ、ゆずこにしか。……これからだろ、お前の勝負は」
 井原はぽんと俺の肩を叩いて立ち上がる。
「んじゃな。俺はこれから棗サンとデートなので、そろそろ行くな」
 わざとデートの部分を強調して大声で言った。
 ……余計なことを。
 言うだけ言ったらすぐにドアから出て行く。
 逃げたな、あいつ。
 いっそう強くなった彼女の泣き声をBGMに、俺はこれからどうすればいいんだろうと途方に暮れていた。
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久しぶりの小説更新。
半年ぶりくらいか?
……ごめんね。サボりすぎだね。
全く推敲してない一気書きですまんよ。
でも久々に書きたいという気分になれたので、気持ちのままに一気に書いたわ。
また推敲できたら本家HPの小説ページに移動するかもしれないけど……いつになることやら。
仕事中、最初の一文がぱっと浮かんで、それから一気にお話ができた。
歯医者行って家に帰ってから書いてたので、所要時間2時間。
今年中に1本は書きたいなと思っていたので、なんとか目標達成出来てよかったなあ。
……出来はともかく。
リハビリとして、これからも時々書けるといいのだけど。
なんともかんとも。
無理せず本当に書きたい時だけ書いていこうと思うよ。

★おまけの追記(23:49)

【彦坂良一(ひこさか・りょういち)】
書きやすいままに書いたらやっぱりうじうじした奴に。
こういう性格は短編だと書きやすいけど、長編だと疲れるんだよね。
名前だけは中学時代書いていた別作品から借りたものの、別人になった。
元のこの名前を持ったキャラクターは、猿のような奴でした。
実は棗の上にも二人姉がいる。
姉に虐げられながら育ってきたため、楚々としたタイプに惹かれる。
しかし、えりこは良一が思っているよりずっと図太いぞ。
女の子に夢を抱けるだけ、まだ現実が分かっていない。幸せだね☆(……)

【彦坂 棗 (ひこさか・なつめ)】
名前しか出て来ない姉。
女子高に行っていたらもてるタイプ。
女の子ハーレム作るの大好き。

【柚木えりこ(ゆぎ・えりこ)】
黙っていれば大人しく控えめな野の花のような人。
しかし野の花は逞しい。
思う存分泣きつくしたら、ちゃんと笑う強さを持ってるんじゃねーかと。
良一のことは今の所本当に「かわいい弟」のようにしか思っていない。
まあ、かわいい弟なんて実際存在しないんだから、ねー。

【井原健太郎(いはら・けんたろう)】
初稿はケンシロウでした。あんまりにもあんまりなので改名。
えりこを苛めるのは趣味であり、恋愛感情が残っているわけではない。
はじめの案では存在してなかった。(良一とえりこだけが登場する話だった)。
話の長さからすれば削った方がよかったんだろうけどねえ。
「お兄ちゃんとこきなさい」が書きたかったがためだけに加えられたキャラクターだってのは、秘密の方向で。