美術博士 純丘曜彰教授のドイツ大学講義日誌

マインツ大学 メディア学部 映画学科 客員教授

リューデスハイムのツグミ横丁

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観光客みたいに観光しちゃおーぜ、というわけで、マインツから船に乗ってリューデスハイム。まあ、ふつうは、フランクフルトから観光バスでこの街に来て、ここからライン下りに乗るもんで、マインツから片道28オイロも払って、こんな近くの街まで船で来るバカは多くはあるまい。とはいえ、観光ごっこをしてみたかったのだから、まあいいか。

昔からライン下りは、マインツ発ケルン着なのだが、あまりに船がとろいために、日本などの弾丸観光ツアーは、マインツからリューデスハイムまではしょって、渓谷部だけ見て、ゴアールあたりで、またバスに戻ってどこかへ消える。連中のせいで、船の中はドタバタ。ケルンまで、一日がかりでゆっくり船旅を楽しむ、なーんていうのは、蹴散らされてしまった。だから、連中が乗り込む前に降りる、というのも、ひとつの選択。

そもそもリューデスハイムが、なんで人気観光地なのか、さっぱりわからない。日本人はもちろん、韓国、中国、その他のヨーロッパ人も、いっぱいくる。だが、ここ、対岸のビンゲンからフランクフルトへ攻め込むための渡河の拠点なので、第二次世界大戦で完全焼失しており、ローテンブルクやフランクフルトと同様、ぜんぶ戦後に再建された疑似中世街だ。城や教会があるわけでもなく、みやげ屋以外に見るものなんか、別にない。戦前から船員や税関職員相手に夜遅くまで飲食店をやっているので、それが日本人観光客用に、フランクフルトからの最初の宿泊地として時差ボケ調整に使われた、ということかもしれない。

とはいえ、悪いところでもない。素顔は、よくある葡萄畑の田舎町だ。観光客はツグミ横丁だけを駆け抜けていくが、本来の街の中心はもっと東側にあり、そのあたりは落ち着いた雰囲気を残している。観光が街の一大産業であることを理解しているから、どこもこぎれいだし、だれも愛想がいい。ラインを通る船で、昔からいろいろなものが手に入るので、物も豊かだ。

昼は、ロカールのローゼンベルガーに寄った。毎年、あれこれの賞を取るこの店は、味もすばらしい。私が頼んだのは、店のおすすめ、という、鯛。とはいえ、中にレモンやハーブを摘めてオリーブオイルとニンニクで焼き上げてあるもので、日本では、まずやらんな、という調理法。これが、うまい!

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クロイツナッハでイチゴティラミス

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バートクロイツナッハまで電車に乗って行ってみた。週末で、うらうらと散歩している人もいっぱい。ここは保養地だものね。

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知人のお宅で食事。デザートは、お手製のイチゴティラミス。これは、すばらしい! ごちそうさまでしたっ!

特売のイチゴ!

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 ヨーロッパのイチゴは、足が速い。パッケージの中に痛んだのが入っていて当たり前。でも、むちゃくちゃ安い。これで、1.99ユーロ。

 味は大ぶりで、すっぱい。でも、たまらん。日本のは甘すぎるし、柔らかすぎる。あれじゃ、作り物だ。しゃきっと噛んだ感じが、ホンモノの果物! と実感させてくれる。

イタリアの警察はややこしい

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 イタリアのパトカーのミニカーを買ってきてほしい、と頼まれている。とはいえ、イタリアの警察は、いろいろややこしい。こんな大学の周辺みたいなところは、静かなもんだ。だから、ふつうの警察の、こういう水色のパトカーしかいない。ベースもせいぜいフィアットのプントだ。

 ところが、イタリアは、おっそろしいほどの車大好き社会。真っ赤なフェラーリやガルウィングのランボルギーニを買うのが、社会的な成功者の象徴。そんな国ともなると、高速道路のパトカーは、それより速くないといけない。というわけで、同じマヌケな水色塗装のフェラーリ458だの、ランボルギーニガヤルトだのが、時速100キロまでわずか3秒そこそこという驚異的な加速エンジンを吹かし、時速300キロで追撃してくる。これは、恐い。

 別の意味でおっかないのが、真っ黒いカラビニエリ(騎兵隊)。これ、警察というより、どうみても軍隊。ふつうの警察の緊急電話が113なのに、こっちは112。ローマとかだと、テロ対策なのか、完全重武装で街中にいたりする。だいいち、おっそろしく体格がでかいやつらばかり。雄牛が防弾チョッキ着て立って歩いているんじゃないか、と思うくらいでかい。そのパトカーは、ふつうの警察と同じフィアット・プントなんだけど、真っ黒い塗装だと、えらい迫力がある。そのほか、アルファロメオのパトカーがあるかと思えば、ジープがあったり、ベンツの兵員輸送車があったりで、どうみても、やっぱり軍隊。

 奇妙なのが、灰色のパトカーで、ガーディア・ディ・フィナンツァ(財務警察)のもの。117と書かれている。乗っているのは、やっぱり灰色のおまわりさん。地味だけど、なんだか怪しげ。

 最近の人気は、森林警備隊。テレビドラマにもなっている。パトカーは緑色で、1515と書かれている。車種は、それこそ、スバルのフォレスターとか日産のテラノとか。やっぱ四駆じゃないとね。

 さて、ミニカーを探しているのだが、どうやらパトカー以前に、車種のパテント権の問題があるらしい。イタリアでミニカーとして出ているのは、フィアットやアルファロメオくらいらしい。というわけで、ふつうのフィアット・プントの水色のパトカーを探している。

ミラノ工科大学のバカ騒ぎ

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 この兄ちゃん、なにを興奮してるか、というと、やっと学位を取れたから。イタリアの大学は、2001年に制度がやさしく変わったとはいうものの、まともに卒業できるのは、あいかわらず、5%そこそこ。

 大学自体は高卒資格さえあれば全入可能なのだが、まず、トリエンナーレで3年間。つまり、従来の大学が4年から3年へ短縮され、日本で言う短大へと格下げされたのだが、実際は、いまでも5年くらいかかり、卒業できるのは、わずか17%。これで、とりあえず「ドットーレ」(準学士、日本だと最近は米国風に「短期大学士」)。ここから、日本の大学相当のマジストラーレ(2年、専修科)へ進学する。もらえる学位は、やはり「ドットーレ」(学士)。ここまでで、10%そこそこしかいないから、イタリア人は、トリエンナーレ(短大)やマジストラーレ(大学)をちゃんと卒業しているだけでも、英語の「ドクター」を自称したがる。(実際は準学士ないし学士ね。)

 しかし、イタリアの大学院水準は、入れば出られる日本の理系大学院などと較べて、むちゃくちゃ厳しい。トリエンナーレからマステルのレベル1、もしくは、マジストラーレからマステルのレベル2に入るが、これが日本の大学院修士相当。これを終えると、マステル(修士)となる。それから、ほんとうの大学院、ドットラートが4年以上かかる。30歳までに論文が通って、最終の「ドットラート・ディ・リチェルカ(博士)」の学位が取れれば、立派なもの。ここまでたどり着くのは、大学院進学者の3割のみ。大半は、途中で学位を諦めてドロップアウトしてしまう。

 だが、米国や英国のようにアカデミック・ガウンを羽織って厳粛に祝う、なんてことは、イタリアの学位授与式には無い。両親からなにからやってきて、大学の中や近くの店で、日が暮れるまで、ちょっとしたパーティを開く。友だちたちがかってに格好を指定する。文句を言わず、その格好で式に出るのがイタリアの伝統ってもんだ。どんな格好でもいいのだが、唯一の決まりは、赤い色が入っていること。良い友だちだと、昼間のタキシード、程度のマヌケさだが、悪い友だちだと、とんでもない格好を指定する。というわけで、この兄ちゃん、じつは、下はマッパだ。

防寒対策は必要なのか?

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ひさしぶりに仕事で出張。先々週までヨーロッパは大寒波で大騒ぎだったが、さて、大丈夫だろうか。というわけで、スタジアムコートに防寒靴。家を朝早く出てきたが、このかっこう、暑いよ。向こうでもいらない気がする。。。

マインツのシラー広場

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駅からアリス広場を抜けて東南へ15分。ここが旧市街の玄関。数百年前は、ここから山の方へ道が延びており、フランスへ通じていた。いまは谷を埋めて、カステルと呼ばれる高級住宅が山の手にそびえている。反対の河の方へ行くと、オペラ劇場や大聖堂があり、これがマインツのメインストリートだ。たいして大きくないが、ほとんど毎週末、なにかしらのイベントがある。

ドイツの切符の自動販売機

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なにやらややこしげだが、ドイツの切符の自動販売機は、どこでもたいていこの形。左側の表で行き先の地名を見つけ、その番号を打ち込む。そして、縦に並ぶボタンの左側、大人の列で、一回券、往復券、回数券など、適当なものを選ぶ。問題は、バス停などには路線図がないこと。あらかじめネットなどで、路線番号や、目的地に近いバス停の名前などを正確に調べておかないと、どうにもならない。でも、縦横無尽に張り巡らされた路線をうまく使いこなせるようになると、乗り継ぎ、乗り継ぎで、バスだけでドイツはどこまででも行けてしまう。とても楽しい。

教会の日常風景

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昨今、ヨーロッパの教会も難しい。年配者が増えれば増えるほど、中堅も若手も寄りつかない悪循環に陥っている。まあ、どこの国でも、年寄りの機嫌取りは疲れる。まして、偏屈ばかりのドイツの年寄りときたら、そりゃ大変だ。

マインツのアリス広場

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厳めしい内務省を正面にして、昔は軍事演説集会がたびたび行われたのだが、今はその忌まわしい歴史を抹消すべく、道路を拡張し、名前しか残っていない。

マインツ駅前のラヴェンダー

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マインツは花の街だ。この季節、駅前はラヴェンダーの花に埋め尽くされる。実際、気候的にも日本の北海道あたりと同じような感じ。

リンゴ酒電車

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これがウワサのフランクフルト名物、酔っぱらい電車。乗って飲んで酔っぱらいながら、ひたすら街をぐるぐる回り続ける。アップルワイン、ったって、甘くない。薄めたリンゴ酢みたいな味。しかし、ヨーロッパでは、ブドウ酒の安物代用品として、フランスのブルターニュなど、あちこちでよく飲まれている。日本で言えば、純米酒に対する芋焼酎のようなものか。がたがた揺られて、車内をうろうろしていると酔いもよく廻る。で、電車のデザインもサイケデリックだ。飲んで乗ったら風景もこんな風に見える。

ウィスバーデン

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マインツとウィスバーデンは、ラインを挟んだ双子都市だ。交通網も一体化している。住民の交流も深い。ところが、両都市の支配者、進歩的なライン宮廷伯と、守旧的なヘッセン方伯とは、昔から仲が悪い。ただマインツは、大司教がいたので、ヘッセン方伯もやたらと手を出すことはできなかった。そのせいで、いまでも行政はライン宮廷州とヘッセン州に分かれており、いまでも、ウィスバーデンの方が高級感があり、マインツの方が自由な気風に溢れている。

マインツ05のクロッポが辞めた日

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雨のキューケンホーフ

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春の川辺

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オッペンハイムの中世祭

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お気に入りの写真会

 で、日本に帰ってきてしまったので、このブログも放棄しようか、と思っていたのだけれど、そこそこコンスタントに見に来てくれている人もいるようだし、ドイツに留学したり、旅行したりする人の役に立てば、ということで、残すことにした。
 どのみち、けっこう未整理の写真があるので、ぱらぱらと季節に合わせて、みなさんに公開しようか、と思う。場所や行き方など、質問があれば、いつでもどうぞ。

引っ越しに次ぐ引っ越し

Justblogから勝手に移管されたTypepadは、新たな追加サービスもないのに有料化の話ばかりしてくるので、さらにFC2に引っ越しました。新しいURLは以下のとおり。

http://sumiokateruaki.blog2.fc2.com/

マインツ大聖堂

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しかし、じつは聖ボニファティウスが来る前から、ライン河の要衝マインツは、ローマ帝国によって軍事拠点とされていた。ここには、西の大地から小川が流れていた。そこに聖なる泉があった。これを地下に組み込んで、大聖堂が建てられた。そして、現在は埋め立てられてしまったが、大聖堂まで入り込む、大きな港があった。

聖ボニファティウス

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マインツは745年、聖ボニファティウスが開いた。全ゲルマニア布教の拠点として、フランスとドイツ、南部丘陵地帯と北部低地地帯の中心であるこの地を選んだ。だが、当時、ヨーロッパは野蛮の地だった。彼は、襲いかかる盗賊たちの剣に対し、聖書を盾として身を守った、と言う。

引っ越した先が引っ越しました

JUSTブログが消滅し、これに伴い、私のブログデータも自動でTYPEPADに移管されました。新しいURLは以下の通りです。でも、9月末で有料になるとのことなので、さらに他に引っ越すつもりです。その際には、またここでお知らせいたします。

http://sumioka.typepad.jp/

ブログを引っ越しました

新しいURLはこちら。

http://sumioka.justblog.jp/blog/

物語の基本構造

先に、物語は挫屈していなければならない、と書いた。この説明を物語学の原理から説明しよう。


最小限の物語は、2つの文、すなわち2つの出来事からなる。2つの出来事は、時間順序を持ち、共通の人物または場所が含まれることで繋がっている。しかし、たとえば、これはどうだろうか。

A1 先週、ハワイへ行ったんだ。

A2 やっぱりハワイはよかったよ。

これは話にならない。つまり、どうでもいい。とはいえ、この、どうでもよさ、は、どこからくるのか。このどうでもよさ、は、話し手のものではなく、聞き手のものだ。つまり、物語が物語であるところでは、無言の聞き手もまた重要な役割を果たしている。これが、T型グランドストラクチャ−におけるエロキューションの問題。

話し手が話し始めた時点で、聞き手は、出来事1だけでなく、早くもまだ語られていない出来事2を含む、一つの物語の全体を期待する。この期待は、あえて言葉に出せば、こうなる。

A1 先週、ハワイへ行ったんだ。

B1 へぇ、やっぱりハワイはよかっただろ。


この例は、先の例が話にならない理由を示している。つまり、先の例は、本来、対話であるべきものを独話しただけなのだ。話にならない、というのは、対話であるべきものを独話してしまっており、聞き手の存在を無視してしまっているからであり、それは人に語る行為になっていない。



逆に言うと、物語は、独話、一人語りのように見えて、むしろ対話なのだ。ただし、そこでは、話し手が主導権を握っていることにより、聞き手のリアクションとしての言葉が自明であり、省略されている。つまり、こういうこと。このB1が省略されているのが、物語。

A1 先週、ハワイへ行ったんだ。

(B1 へぇ、やっぱりハワイはよかっただろ。)

A2 ところが、サメが出たっていうんで、そりゃ大騒ぎでさ。 



なぜこんな省略が可能であるか、というと、最初に語られた出来事が、同時に1つの話題(語られる内容、または、語るテーマ)をすでに含んでいるから。ハワイへ行った、と言えば、混んでいた、とか、暑かった、とか、そこから先に語られそうなことは、ふつうは知れている。したがって、聞き手は、最初の出だしの出来事を聞いて、それを前提として先を聞く。

ところが、先述のように、語られそうなことが語られるのでは、対話を独話していることにしかならない。だから、うまい話し手は、次の出来事とは違う、あえてミスリードをするようなイメージを次々と作っていく。たとえば、こう。

A1 先週、ハワイに行ったんだよ、芸能人みたいだろ。

A2 ところが、サメが出たっていうんで、そりゃ大騒ぎでさ。

A3 地元の連中は、むしろみんな海に押しかけ行ってね、

A4 中国バブルで、フカヒレがものすごい高値で売れるんだと。

つまり、物語がつねに挫屈しているのは、本来なら対話として挿入されているはずの聞き手のセリフに対して答えていっているから。これを、順接、逆接で振り回していってこそ、話し手は聞き手を物語に引き込んでいくことができる。

娯楽小説における人称

 私だって、たまには小説も読む。けっこうディープな娯楽ものだ。ところが、とにかく語り方が気になってしかたない。せっかくおもしろい話なのに、なんでこんなに語り方が下手なのだろう、と思う。

 ダメな小説の理由は明解だ。多くの場合、人称の切り換えに失敗している。いまどき一人称だけで物語を貫き通すのは、実験小説くらいのものだろう。だいいち、セリフが出てくれば、それは、地の文に織り込むのでもない限り、その発言者の視点に切り換えざるをえない。

 このことは、たんに人の呼称が切り替わるということではない。人が変われば知っていることも変わり、同じことでも見方が変わる。ところが、下手な語り方だと、つねにみんな同じことを知っていて、みんな同じ見方をしている。ようするに、書き手が声色を代えているだけで、人称が切り替わっていない。

 しかし、その人がそのことを知っているのはおかしい、ということは、書き手も気づくのだろう。となると、そこで、突然、話が過去に遡って、じつは、となる。ところが、ここでさらにおかしくなる。ここで、過去に遡ったところに出てくる人物たちは、じつは、と語っている人物の思いこみであるはずなのに、それぞれ地の文のようになってしまう。これは、ようするに、伏線を張り損ねて、あとで書き足したというだけで、回想にもなんにもなっていない、たんなる書き手自身による事後説明だ。

 同一の読者に対し、異なる視点を同時に提供し続けるためには、いま、この行がだれの視点(に共感したもの)なのか、書き手が自覚して書き分ける必要がある。というより、読者を、そのときどきで、別の視点に憑依させるように押しやる必要がある。映画なら、カメラに背中しか見えない人物が、そのカメラの視点だ。それに相当するレトリックを、文章の行の中に織り込む。

 もちろん、その数行後で、別の人が発言し始めれば、セリフ以上に、読者をその視点に切り換えさせてやる必要がある。このことを自覚的に行えば、それがおのずから段落になる。ところが、とくに日本語で、昔ながらに原稿用紙で書いているヤツは、たいていダメだ。行替えだらけで、どこまでが視点の段落なのだか、さっぱりわからない。というか、そのことが自覚されていない。だから、やたら行替えをするのだろう。書いている本人はいいだろうが、読んでいる方は、思考が細切れに寸断され、流れがさっぱりわからない。

 たとえば、こういうこと。

 A 「ずいぶん待ったぜ」 そう言って男はイスから立ち上がり、銃を女に向けた。

 B 「ずいぶん待ったぜ」 そう言って男はイスから立ち上がった。そして、彼は女に銃を向けた。


 Aが正しい。読者は男のセリフを聞いて、イスから立ち上がる男に目を向け、その後、この男の目とともに、その銃が狙う女を見ることになる。これが、この男の視点に沿った流れだ。ところが、Bでは、後半の文の視点が泳いでしまっている。読者はまた男の方、その男の手元の方をズームアップで見せられてしまい、呆然としてしまう。いったい、いま、自分はだれの視点に依拠しているのだろう、と。

 切り替えと連続、このリズムがないと、物語など読めたものではない。こういうのは、文学的センス以前の話だ。基本的な物語の語り方なんかこそ、小学校できちんと教えるべきなのではないだろうか。

ナチス・ラウス!

 今日、ネオナチ(イニシャティヴ・ズートヴェスト)がマインツで集会を開く、というので、大騒ぎのようだ。ケルンはともかく、マインツは、もともとリベラルな街で、すくなくとも地元にネオナチはほとんどいない。なのに、なぜか。
 しかし、ドイツの中でも特にリベラルな街だからこそ連中が狙ってきた、とも言える。たしかに新市街を含めてトルコ系住民も多い。とくに連中が標的としているのは、マインツと言っても、むしろフランクフルトに近いオペル工場関連の外国人だ。ここには、インド人なども大勢住んでいる。また、ネオナチは、反資本主義で、オペルの処理案にも強く抵抗している。連中のスローガンは、「国家主義なしに社会主義なし!」ほかにも、ハノーファーとウルムで騒ぎを起こす計画だそうだ。
 それにしても、よりによって五月一日にマインツなんかへ。さすがネオナチのバカさ加減が現れている。五月一日、メイデーは、たんに労働者の日ではなく、マインツにとっては、フランス革命に先行するマインツ共和国の自由独立を象徴する日であり、こんな日にこの街に乗り込んで来ようなどというのは、ネコの祭りにやってきたネズミのようなものだ。
 果たして、前日から気勢を上げている赤い旗のアンティファ(反ファシズム・アクション)、フランクフルトのシャープ(人種差別反対スキンヘッズ)、虹の旗(紫が上、ゲイの虹旗と逆)の平和運動、これまた赤い旗のサーヴィス業労働組合、その他、種々雑多のマインツ大学学生を中心に、近隣諸都市からも、大勢の文化人や一般市民が駅前に詰めかけ、広場を占拠。当然に例のドイツリンゴ戦線なども、あの出で立ちで参加。警官隊も武装して、サッカーのフーリガンどころではない厳重警戒態勢に。ヘリコプターもぶんぶん飛び交う。
 案の定、ネオナチは、電車から降りてきても、駅の北側のすきまから、警官隊にガードされて、新市街の方へ誘導される。そっちへ行ったって、あちこち、「ナチ野郎は出てけ!」とか、「おまえらには一歩も引かないぞ」とか、ふだん連中が外国人に向かってわめいているようなセリフが、今日は、そこら中の建物のベランダにかけられていて、居場所なんか、ありゃしない。あっちへこそこそ、こっちへこそこそするだけで、デモ以前に、一ヶ所に集結さえできない始末。
 結局、かっこだけで卑弱なネオナチのにいちゃんねいちゃんたちは、夕方になるまえに、早々におとなしく、おうちに帰っていった。反ナチの方が、連中を差し違えても殺しかねないくらいのテンションだもの。

『トロピック・サンダー』の笑いの毒



 この映画、ここ数年でめずらしく、世界で当たった。『メリーに首ったけ』以来、ベン・スティラーのコメディーでの評価は高い。お笑いのビッグ・スター、ジャック・ブラック。おまけに、コーエン兄弟もかんで、ロバート・ダウニーJrだの、トム・クルーズまで、オバカをやっている。

 基本的な物語は、かつての名作『サボテン・ブラザース』と同じ。映画俳優が現実の戦地に放り込まれているのに、なかなか気づかず、あいかわらずバカをやっている、というもの。シリアスな状況であるほど、バカが引き立つ、というしかけだ。

 しかし、ぜんぜん笑えない、という人も多い。そりゃそうだ。コーエン兄弟の映画なんだから、簡単に笑えるわけがない。それでも当たったのには理由がある。ただのオバカ映画で、ロバート・ダウニーJrやトム・クルーズが、あそこまでオバカをやるものか。

 この映画のすごいのは、まさに、まったく中身がない、というところ。全部が寄せ集め。まさに、キーファー博士の言うところのポスト・モダニズム的な作り。パロディなのでなく、見せ場も、セリフも、パクリだらけ。というか、パクリしかない。しかし、それこそが、この映画のテーマだからだ。

 さまざまなヴェトナム戦争の映画が引用されているが、とくにベースになっているのは、『地獄の黙示録』だ。そして、骨太そうに見えるヴェトナム戦争映画の闇の奥にあるのは、アメリカの象徴としてのハリウッド。そう、ハリウッドこそが、ヴェトナムの奥にあるものだ。その奥地に突っ込んでいったら、簡単に向こう側に突き抜けてしまう。じつに薄っぺらな現実感。

 あの生首やパンダを見てみろ。あれは、あえて作り物っぽくしている。この映画の技術力をすれば、生きているかのようなものは、特殊メイクでも、CGでも簡単に作れる。なのに、やらない。冒頭の戦闘場面のリアルな作り込みと比較すれば、その差は歴然だ。つまり、この映画では、あえて、映画の物語として中で作り物とされているものの方がリアルで、物語として本物とされているものの方が作り物っぽくなっている。それは、それはニセモノを本物と思い、ホンモノを作り物っぽくしか見えない観客の現実感を代弁しているから。

 役者たちにしても、映画の中で、映画の役作りの話ばかりしている。しかし、おまえは誰だ、と、問われると、その役以上の実体が無い。それは、まさに、アメリカという国のアイデンティティに関わる。黒人ですら、黒人のフリをしているだけ。かつて差別を受けた、という役を演じているだけ。色は黒くても、中身はやはり無い。まして、その他になると、役作りをしている役者としてのアイデンティティも怪しくなる。それは、国際社会におけるアメリカ、そしてまた、アメリカ社会におけるアメリカ人一般、さらには、日本を含め、世界のアメリカ風の国際人にも共通するいかがわしさだ。

 英語をしゃべり、トーストやシリアルを食べ、アメリカ映画で笑えると思っている人々。しかし、それはすべて演じているだけの生活。かといって、いまさらスパニッシュや、日本人としての歴史的なアイデンティティも持ち合わせていない。そのとき、そのとき、そのフリをしている間に、自分がだれだかわからなくなってしまった連中。この映画でまさに笑えないのは、そのアイデンティティの隙間を明らかにしてしまうからだ。

 どっぷり生粋のハリウッド人なら、ナポレオン・ダイナマイト・ダンスを踊るプロデューサーのように、だれだかわからない相手に怒鳴り散らし、どんな小ネタにも大笑いして、たった一人で朝まで踊れるだろう。しかし、彼に距離を感じるなら、あなたは彼ではない。それなら、誰なんだ? いつも映画ファンのフリをしていて、知ったかぶりで映画館に入ってしまった、どこの誰でもない人。

 強いアメリカのフリ。そのアメリカをよく知っているフリ。厳しい現代社会の現実に放り込まれていながら、その薄っぺらな強がり、知ったかぶりの演技を続け、それで貫き通そうとするバカさ加減。それは、彼らの話ではなく、この映画を見ている人のことだ。

 しかし、この映画は、このブラックな笑いの先に、君がだれであれ、君は、いまここにともにいる友だちだ、という新しい中身のアイデンティティを見つける。それこそが、断片化され、表面は引用だらけになってしまったポスト・モダニズムにおける新しいアイデンティティだろう。そして、それが、移民の、その何世代も後の、寄せ集めの国、アメリカのアイデンティティだろう。

 こういう映画を見て、笑えない、と言っている人こそ、この映画の笑いの的だ。笑う、ということは、直観的なものだから、難しい顔をして考え込むより、じつは難しい。その直観が働かない向う側との距離にこそ、重い、深い笑いがある。

アイルランドのブル・マーケット(CNNニュースから)



 ちかごろCNNがあなどれない。この世界的なリセッションの中、アイルランドのマーケットだけは、まさにブルだそうだ。すばらしい。このニュースに感動した。大いに力づけられた。この即効性のある政策が各国で行われれば、国際経済の回復は意外に早そうだ。でも、これは、一般ニュースの中に紛れ込んでいた。

 そうでなくても、近ごろのCNNのお気に入りは、『デイリーショウ The Daily Show』。もともとMTVでやっている番組で、CNNの海外放送でのみ、そのグローバル版が、デイリーではなくウィークリー(週1)で流れている。しかし、これ、MTVではなく、CNNの中に紛れ込んでいるからこそおもしろい。この 司会者の Jon Stewart(JohnではなくJon)も、スタジオも、通常のCNNのものと大差ない。が、司会も、レポートも、中味はすべてでたらめ。そもそも話している言い回しからして、まったくのでたらめだ。これで10年以上もやっているのだから、すごい。

 ドイツでも、『TV Total』という10年来のパロディ番組があるのだが、テレビのさまざまな番組のパロディで、それも本物のセットでやっているから、元ネタを知らないと、どこがどういうパロディなのかわかりにくい。パロディをやる以上、吹っ切れている方がおもしろい。『地獄の黙示録』が『トロピック・サンダー』くらいまでぶっちぎれてこそ、パロディらしい。(ヴェトナムよりハリウッドの方がおっかない、というテーマ性もはっきりしているしね。)
 
 それにしても、CNNって、ニュースより、CNN自体のCMが多すぎやしないか。どうせ人の不幸で大金を稼いでいるくせに、司会者だのコメンテーターだのが偉そうにタレントづらしているのって、うっとうしくないか。ドイツにも、英語のCNNそのものだけでなく、ドイツ語で、CNNパートナーのRTL系N−TVや、プロ7系のN24があるが、ドキュメンタリーが多く、CNNみたいなしつこい自己宣伝は入っていない。というわけで、先の週刊『デイリーショウ』以外は、N−TVやN24の方が好きだ。だいいち、CNN系って、じつは、おそろしいくらいヨーロッパのニュースが欠落しているんだよね。

ディズニーの新作CG『アップ!(カールじいさん)』 


 いまさらディズニーのCG、ったって、ディズニーのほとんどすべてのセクションでCGが使われている。なかでもCGらしいCGを作るピクサーの新作がもうすぐ公開される。3DCGではなく、3Dでの、いわゆる飛び出す映画だ。

 この種の飛び出す3D映画は、実写の時代から、いくつも作られてきている。カメラ2台で撮影すればいいだけだから、原理的には簡単だ。再生方式として、緑赤のセロハンめがねを使うのから始まって、偏向スクリーンだの、めがねシャッター連動だの、さまざまな方式が工夫されてきた。今度のがどんなものだか、よく知らないが、ディズニーは、もともと大したアニメーションメーカーでもなかったのに、『白雪姫』のカラー化で成功して以来、技術志向が強い。もっとも、その次の『シンフォニア』のアホなサラウンドで大失敗して、以来、シロアリスタジオに追い抜かされてしまい、ABCと組んでテレビで盛り返してくるまで大変だった。

 今度の3Dも、どこかやばそうな臭いがする。これだと確かに3D映画館の入りは悪くないだろうが、そんな設備をすべての映画館が新規に設備投資できるわけがない。となると、映画館側が嫌がるのは目に見えている。また、ブルーレイにしたところで、3Dテレビなんか、まだほとんど出ていないのだから、けっこう厳しい状況だろう。とはいえ、昔の『トップガン』みたいに、電器屋で3Dテレビにオマケで付けてもらえばいい、というところなのだろうか。

 そもそも、3D映画がダメな理由は、3D、飛び出す映画、というだけで、話がひどいのばっかりだったからだ。『ジョーズ3D』とか、ジョーズの名を汚すものでしかなかった。ディズニーのここんところの作品も、CGはきれいなのに、話ががさつで、どうしようもない。『カーズ』なんか、キャラクターが車だ、っていうだけで、それだけ。いかにも、男の子にオモチャを売ろうという下心が見え見え。『モンスター・インク』もひどかった。

 で、今度の『アップ』だが、元風船販売員のひねくれじいさんが、先に亡くなってしまった奥さんとの旅行の約束を果たそうと、大量の風船で、家ごと離陸してしまう、というところから始まる。この切ない設定は悪くない。ここにボーイスカウトの少年が巻き込まれる。老人と少年、その心温まる交流、これも定番だ。で、行き先は、ベネズエラだと。おいおい、それって、マダガスカル、に似てるぞ。死んだ奥さんがベネズエラに行きたかった、なんて理由は、説得力が無いよ。

 なんにしても、停まった時間、失われた希望を取り戻す老人、って、わかりやすい。というか、わかりやすすぎる。今は亡き奥さんとの出会いと結婚、幸せな思い出の回想シーンで泣かせる気だろう。オチは、少年との世代を超える友情、終わりなき新たな冒険、というところか。『ハウル』のばあさんをじいさんに代えて、歩く城のかわりに空飛ぶ家にしたのも、バレバレ。どうして、ディズニーって、こう独創性が無いんだろう。ミッキーマウスの昔から、どこぞのありもののアイディアををパクってばっかり。アイディアだけなら著作権上はクリアだ、って言うのかもしれないが、クリエイターとしては恥ずかしい。『マダガスカル』の後に出た『ライアンを探せ』には驚いたが、それよりはマシか。(そういえば、ディズニーに勤めていた人が、ネットネタだの新聞ネタだのをパクったって、日本では騒ぎになっているそうだが、元ディズニーでは、驚くには値しない。)

 エンターテイメントというのなら、技術ではなく、物語そのものを売るのが筋だろう。世界のCGの傾向は、もはやCGなどという技術ではなく、それで表現する物語の感動にシフトしている。CG自体は、むしろ実写っぽくない、CGらしい、人形劇のようなデフォルメされた人間味のあるキャラクターが求められている。今度の主人公のカール・フレドリクセンの造形も、この路線に乗っている。でも、どうもそれ以上の深みを感じない。この明らかにドイツ系の名前の人物、78歳の経歴に、歴史的なリアリティが感じられない。すくなくとも、中西部、とか、ベネズエラ、とかに、ムリがある気がする。見る前から言うのは気が引けるが、あまり期待できそうにないなぁ。

カエルの王様

 ドイツでやたら見かけるのが、黄金の王冠を被った緑のカエル。これ、だれでも知っているカエルの王様だ。評判の洗剤の商標にもなっているから、日本でもよく知られていることだろう。(ただし、洗剤のマークだけは王冠がない。そのメーカーであるエルダル・グループの他の製品(靴磨きなど)には、本来、王冠が付いている。このエルダル・グループの本社がマインツにある。ここには工場だけでなく、店頭実演のための洗剤の使い方を学ぶ大きな研修センターがある。)

 それにしても、カエルの王様は妙な話だ。世界の童話の中でも、こんな出来の悪い話もあるまい。しかし、それだけに謎めいていて多くの人々を魅了する。それは、こんな話。

 王女が泉に金の鞠を落とした。すると、カエルが出てきて、友達になってくれるなら鞠を拾ってあげると言う。王女様が承知したので、カエルは鞠を拾ってきたが、王女は約束を破って、鞠だけ持って、さっさと帰ってしまった。

 翌日、城にカエルがやってくる。王様も話を聞いて、王女に約束を守るべきだと言う。しかし、このカエルが食事のテ−ブルはもちろん、ベッドの中まで入り込んでくるものだから、この王女は怒ってこのカエルを壁に投げつけて叩き殺してしまう。

 すると、あら不思議。魔法が解けて、カエルが王子になって、王女と結婚しました。めでたし、めでたし。

 って、めでたいのか? どう考えても、こんな性悪な王女と結婚したカエル王子は不幸じゃないだろうか。だいいち、泉のカエルならともかく、もともとどこかの国の王子なのだから、なにもこんなひどい王女と結婚しなくても、自分の国に帰ればいいだろうし、もっと別の国の王女とも結婚できるのではないか。

 この話、さらに妙で、じつは、この後、いきなりハインリッヒという王子の家来が馬車でやってくる。この人、王子がカエルにされてしまったことを悲しんで、胸がはりさけそうだったので、3つの鉄のタガをはめていた。しかし、王子が人間に戻った喜びで、そのタガがはじけ飛びました。めでたし、めでたし。
 
 どうみても、蛇足だ。というより、物語分析からすれば、前半と後半で、もともと別の話だったのではないか、と思われる。つまり、王女とカエルの話と、カエル王子とハインリッヒの話。同じカエルというところで、2つがくっついてしまったのではないだろうか。

 知ってのとおり、近年の研究によれば、グリム童話というのは、その民俗学的な採話の経緯からして、まったくの捏造だ。ドイツの古い童話などではなく、その多くの元ネタが十八世紀のフランス宮廷での子女教育用に作られた新作寓話。そのフランス語の教育寓話をオランダ系ドイツ人が聞き伝えとウロ覚えで語るものだから、ぐちゃぐちゃなオリジナルになり、あたかも宮廷寓話より古いかのように錯覚された。

 このカエルの王様も、壁に投げつけられて叩き殺される前半までは、ラ・フォンテーヌの「ウシになろうとしたカエル」などと同様、身の程を弁えよ、という寓話だろう。後半の、カエルにされた王子と家来のハインリッヒの話は、捕虜にされていた王子と拘束具をつけられていた家来の、ドイツのどこかの歴史的な実話っぽい。

 編集者や審査員は、作品にケチをつけるとき、たいていツジツマのことを問題にするが、それはたいてい自分の方が賢いということをひけらかしたいがための自己満足であって、じつは、作品の良し悪し、売れる売れないとはまったく関係がない。

 というのも、歴史的に言えば、ツジツマの合わない話はいくらでもあるものだから。それどころか、オペラや歌舞伎なんか、まともにツジツマの合っている話の方がめっちゃ少ない。だいたい、メロドラマ、という概念自体が、メロディで情感に訴えるツジツマの無いドラマのことだ。そして、不思議なことに、きちんとツジツマが合って、こじんまりとまとまっている作品などより、どうかんがえても破綻している物語の方に人は魅了される。演劇でも、映画でも、古典的文芸作とか、カルト的人気作とかいうのは、たいていそういうものだ。

 とはいえ、破綻していればいい、というわけではなく、名作、傑作と呼ばれるものは、途中でざっくりと、救いがたい断面を持っている。それでいて、その全体を見返さないかぎり、途中ではだれもその断面に気づかない。この奇妙な腰折れの断面をつないでいるのは、我々の側にある強固な先入観だ。たとえば、カエルの王様で言えば、王女様と結婚=幸せ、というところで、断面がかき消されている。ちょっと待てよ、その王女様って、という風に立ち止まって、もう一度、話をさかのぼって振り返らない限り、この断面には気づかない仕掛けになっている。

 シェイクスピアでも、鶴屋南北でも、こういう無茶なつなぎあわせを、するっとやってみせる。昨今なら、有名大学を出ただけの小賢しい編集者に、前読み段階で投げ捨てられる典型ではあろうが。
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純丘 曜彰
すみおか てるあき 

美術博士(東京藝術大学/美学)、文学修士(東京大学/哲学)、東海大学准教授、ドイツ・ヨハンネス=グーテンベルク(マインツ)大学客員教授を経て、現在、大阪芸術大学教授。専門は哲学、メディア文化論。

東京生まれ。東京大学教養学部1組(横断インタークラス)、同文学部哲学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻修了。テレビ朝日報道局報道制作部ブレーンとして『朝まで生テレビ!』を手がけ、現職に至る。

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