美術博士 純丘曜彰教授のドイツ大学講義日誌

マインツ大学 メディア学部 映画学科 客員教授

レモンの季節

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 もうレモンの季節だ。知人の家の庭にいっぱいなっていた。ちょっともらおうと近づいたら、長いトゲだらけで、実を採れたものではない。さすがレモンだけに、甘くはないな。

 というわけで、いっぱい採ってもらって、いっぱいもらってきた。とってもありがたい。半切りにして、レモン搾り皿でギュッっとつぶすと、コップ半分ほども汁が搾れる。当然、ものすっごくすっぱい。この黄色い色のまんまのすっぱさだ。でも、それがいい。

 これをコップに入れてハチミツをたっぷり。お湯でとかす。もしくはちょっとお湯でとかして、冷やしてもいいだろう。なんにしても、しぼりたてはすっぱい。ハチミツに入れてしばらく寝かすと、まろやかになる。まあ、好みの問題だ。

 イタリアのナポリの南、歴史ある港湾都市アマルフィでは、レモンで作るリキュール、レモンチェッロが有名だ。見た目もあざやかなレモンイエロー。レモンらしい爽やかなすっぱさ、か、と言うと、まったく違う。ドロドロに甘い砂糖漬け。それでいて、かなりアルコールがきつい。

 なにしろ五月にもなったら、もうすでに猛烈に暑いところなので、その暑さにやられそうになったら、これをグィっとのどに流し込む。すると、カッと目が開く。レモンシロップ風味の薬用酒、気付薬に近い感覚だ。そういう町のものだから、そう暑くもないところでふつうに飲むと、グラっとくる。立ってられたものではない。それでも、おみやげに買って帰りたくなるような魅力的な小瓶が、あの町にはいっぱい並んでいる。今年の夏もまたあの町へ行きたいものだ。

Susan Boyle とタレント発掘番組

http://talent.itv.com/videos/playlist/id_12.htm

 英国の才能発掘番組『BRITAIN'S GOT TALENT』は、昨年の第二シーズンは、結局、George Sampsonというガキンチョが優勝したのだが、なんともぱっとしなかった。しかし、この春に始まった第三シーズンは、2007年の第一シーズンを感動させたポール鱆ポッツ同様、予選から大騒ぎだ。というのも、Susan Boyle という、ポール・ポッツ同様にさえない女性がとんでもない美声を響かせたからだ。選曲もいい。英国で知らない人のいないミュージカル『レ・ミゼラブル』から「夢やぶれて」を歌い上げた。

 この種のタレント発掘番組は、2002年の秋に始まった『DSDS(Deutschland sucht den Superstar)』というドイツの番組がブームの火付け役だ。これが、『America's Got Talent』として、2006年夏から米国NBC系に移植され、2007年春には英国にも移植された。スタイルはどこも同じで、タイタンと呼ばれるような、だれもが認める有名実力派芸能人を審査員に迎え、その3人が毒舌の限りをつくして、勘違い出場者を罵しりまくる。結果だけ見ると、3人が絶賛しているように見えるが、そういう本物は例外中の例外で、数ヶ月に渡る番組の大半が審査員の罵倒だ。

 しかし、それもしかたない。実際、予選段階で採り上げられている、自称タレントの連中ときたら、ほんとうに勘違いだらけ。つまり、タレント発掘番組、と称しながら、じつは、自称タレントのシロウトをからかっておもしろがる番組なのだ。作り手の方も、その仕掛けをよく知っているから、とんでもない連中ばかりを予選の予選で通過させており、その勘違いブリを取材してある。ステージに上がる前から変、というところのビデオを見せておいて、盛り上げる。

 とはいえ、そういうとんでもない連中の中に、ほんとうにとんでもない才能の持ち主が紛れ込んでいるから、またおもしろい。今回のスーザン鱆ボイルにしたって、その前には、ひそかな悪意に満ちたビデオとともに紹介されている。そんなことを気にせず、はねのけてみせるところに、彼女のすごさがある。

 今回の予選でおもしろかったのは、ほかに、フローレスというダンサーチームと、ブリブリ親子。フローレスの方は、もともとプロ指向でいつでも、これでカネを稼げるだろう。ブリブリ親子の方も、じつはすごかった。だれがどうみたってかっこ悪い小太りのおっちゃんが踊り出したかと思ったら、まったく同じ体型の少年も走り出てきて、いっしょに踊る。これがとにかくうまい。人に笑われようとなにしようと、本人たちが楽しそうなのだ。その楽しそうな様子に、だれもが魅了される。

 なんにしても、すごい時代になった。昨日、ある国で放送したテレビが、数時間後には全世界でもう見られるようになっている。おもしろい、というウワサは、数分で全世界をかけめぐる。免許という鉄の壁によって放送権益を守られ、事務所の縁故で作っているような生ぬるいテレビ番組など、とうてい太刀打ちできまい。

書籍のカバーと表紙の作り方

 表紙、と言えば、本体の束の表紙のこと。いわゆる表紙は、カバーと言う。まず、背幅の出し方。使う紙によって違うが、標準は1枚0.13ミリ。したがって、ページ数の半分に1枚の紙厚をかけたものが束厚になる。並製(束が表紙に直接に糊付け)の場合、これに見返しが前と後につくので、その+1ミリが表紙の背幅。+2ミリがカバーの背幅。上製(堅い表紙)の場合、表紙で+3ミリ、カバーも+3ミリ(背と袖の巻き込みがあるので)。表紙幅も+3ミリになる。

 作るべきものは、カバー、帯、本体表紙(いずれも中心トンボ、裁断トンボ、折りトンボがあること)。カバーと帯については、それを付けた状態と取った状態の見本(折り線入り)を別に作ること。

 本体紙面同様、裁ち切りは標準で周囲3ミリ。したがって、四六版並製の場合、袖80ミリ+表紙幅128ミリ+背幅+裏表紙幅128ミリ+裏袖80ミリで、周囲に3ミリがつく形になる。背幅が何ミリにせよ、4ミリグリッドを下に敷いておくと、諸般の計算が楽。

 カバーの場合、裏に白地バーコードが入ることを前提にデザインを考えること。並べ方は自由だが、わかりやすいことが大切。また、帯の有る無しで、印象が変わるので、うまく調整する。とくに帯に何色使うか、で、デザインは大きく制約される。

 どうせカバーに隠れて本体表紙は見えない、などと、あなどってはいけない。図書館では、カバーは捨てられる。多くの人にカバーで売るだけがデザインではない。図書館を含め、末永く読んでもらえるよう、本体表紙まで手を抜いてはならない。また、本体表紙の背は、本として整理しやすいよう、読みやすい書名、著者名、出版社名を入れる。ただでさえ薄くて読みにくく、すぐに褪せてしまう蛍光色インキの本体表紙など、あまり好ましい色遣いではない。

 帯幅も自由だが、裏(右)袖端隅に書籍タイトルを入れておくこと。そうでないと、その印刷物が何の本の帯だかわからなくなる。

 折り線トンボは、難しくない。まずインデザインないしイラストレーター上で版下を作ったら、新規レイヤーで、裁ち切りまで白地を敷いておく。これを、PDFX1aのトンボ付で出力。版下に周囲30ミリを足した新しいドキュメントに先のPDFを配置(読み込み)。新規レイヤーを下に引いて、これに線幅0.1ミリで、表紙幅と裏表紙幅の四角を作る。すると、裁ち切りの外だけ、線が引ける。

 印刷する人、製本する人は、ほかにも多くの本を同時に同じ場所で創っている。作っている本人は、それだけを扱っているので、自明であっても、現場の分業ではバラバラになってしまうことが多い。人にわかるように作るように心がけること。また、出版社や印刷所ごとに、シリーズとしての慣例がある。あまり厳格に規定せず、細部は出版社側、印刷所側が調整できる余地を残しておくこと。

クリキンとオペラクリーム

 読む側からすればどうでもいいのかも知れないが、出版社や書店にとって紙質は、価格や送料、配置にかかわる重大な問題だ。

 戦国時代(十六世紀末)、伊予(愛媛)に兵頭太郎右衛門という武士がいたが、主家滅亡のため、隠居して仏門に入り、泉貨居士と名乗り、経文修復から「泉貨紙(せんかし)」を作った。これは、もともと、破れ経文に裏紙を貼ったことから、それなら最初から破れにくいように裏紙を貼ってしまえ、ということで、二枚を貼り重ねてあるもの。それまでの美濃紙などでは、繊維が細かければ細かな字も書けるが、紙としては弱く、また、繊維が粗ければ紙としては強いが、細かな字は書けない、という矛盾を抱えていた。これに対し、泉貨紙は、目の細かい表紙と粗い裏紙を合わせることにより、繊細さと強靱さを兼ね備えるようにし、経文だけでなく、帳簿など、細かな字が書け、かつ、保存がきくようにしたことに大きな特徴がある。

 まぎらわしいことに、戦中戦後の物資不足の折り、廃紙や裁断クズなどのカスをとり集めて再生カストリ紙が作られ、これもまた仙花紙(せんかし)と呼ばれ、通俗雑誌に用いられた。しかし、これは、和紙の泉貨紙とはまったく別のものだ。その後、再生品位は悪化する一方で、マンガ雑誌などでは適当に色をつけてインク色とのコントラストをかろじて保っている。(白度の低い灰色の紙に黒インクよりは、色地に黒インクの方が、まだ読みやすい。)

 一方、書籍となると、圧倒的な人気を誇っているのが、北越製紙のクリキン、淡クリームキンマリ。もともとは「金毬」と言う。金菱、金藤などと並んで、製紙業界は金が好きらしい。そうそう、サテキンは、王子製紙、サテン金藤(きんふじ)の略。カードその他に用いられる高級ダルマットのアート紙。グロス・マット・ダルというのは、75度光源での白紙光沢度で決まるが、ダルの方が文字は読みやすく、また、印刷光沢度が高く、写真に立体感が出るので、効果的。

 一般に、紙は、千枚で「連」と言い、四六版千枚の重さ、「連量」で繊維密度がわかる。しかし、連量は必ずしも紙厚とは比例していない。クリキンの場合、標準の90kgだと0.13mm。つまり、208頁だと、本体束で13.5mmになり、本体表紙の背幅は14mm、カバーの背幅は15mmで作ることになる。やたら細かな計算をしても、どうせ糊付け裁ち切りをするから、意味がない。

 で、いま仕上げにとりかかっている本だが、688頁ある。クリキンの標準だと、本体背幅45mmになってしまう。こんなの、重くて厚くて、輸送手間ばっかりかかる。本屋棚に置いてもらえない。そこで、今回、日本製紙の「オペラクリームHO」を使ってもらうことにした。紙厚0.09mm。これだと背は32mmだ。オペラは、クリーム系でも色がちょっと独特だが、この商品は裏抜けしないのがウリだ。同趣旨のものとしては、王子のOKライトクリームがあるが、オペラの方がさらに軽い。

 今回のものは、文字だけ。その文字も、超定番のモリサワの太ミンA101。シロウトじゃあるまいに、やたら新奇なフォントを使うのは、読みやすさという点からも、デザイナーの越権だと思う。四六版で文庫並みの頁42字18行だから、贅沢な使い方ではある。が、行42字以上詰め込んだり、二段に組んだりしたら、本として読めたものではない。カバーも、四六版や文庫のような小さなもので絵を入れるのは嫌なんだよね。うまく文字だけでまとめられるといいのだけれど。

淡青と懐徳 

 というのは、東大の雑誌なのだが、数年来、やたらしばしば来る。最初はぱらぱらと見たが、いったい何がしたい雑誌なのか、さっぱりわからん。『淡青』なんか、「小宮山ディレクション」とか言って、総長の写真ばっか。ファッションモデルかなにかと勘違いしているらしい。一方、『懐徳』っていうのは、赤門学友会(東大同窓会)の雑誌だが、安田講堂で中曽根じいちゃんによるニッポンの進路という基調講演があるから来い、それと、総長主催のパーティに招待して特別名誉会員の「称号」をやるからカネを寄付しろ、って。うーん、なんかやっぱり思いっきり勘違いしているなぁ。で、こういうクレクレ詐欺みたいな雑誌は、ゴミ箱へ直行便。

 成城の方もやたら近頃、同窓会に力を入れて雑誌が来るのだけれど、べつにいま自分の子供が通っているわけでなし、あっちこっちに新しい建物がたちましたっていう話と、おじいちゃんやおばあちゃんたちのクラス会の写真と、やっぱり、カネを寄付してくれ、という振込用紙で、いったいどこまで自己中心なのだか。

 まあ、組織というのは、どこでも自己中心的にならざるをえないもの。しかし、それは、あくまで組織の内部の論理で、対外広報部門は、相手の立場で話ができないといけない、くらい社会の常識だと思うのだが。うちの社長さまは、いまいらっしゃいません、みたいな敬語の初歩的なまちがいと同じことを繰り広げているようでは、学校として恥ずかしくないのだろうか。

 根は、若者人口が減ってしまったから、卒業生たちをリサイクルしてまたカネを稼ごうという魂胆なのだろうけれど、若者だって、「おいこら、おまえら、学生ども」なんて話し方では学校に来てくれない時代なのに、いくら卒業生ったって、いまさら出身学校に、こんな自慢たらたらの雑誌を送りつけられても、バカだなぁ、の一言で終わってしまう。まあ、それがわからないから、こうやってムダなことを続けているのだろうが。連中には、「いまなら同窓生限定で校章付きプレミアム・エコバッグが1000円で!」っていうくらいの、時代にあった客集め、カネ集めの智恵すらもないのか。

 ようするに、サブプライム投資の株屋に続き、今度は広告代理店にもだまされて、学校がそうとうに巻き上げられているのだろう。ほんとうに世間知らずの良いカモだ。代理店からすれば、学校がクライアントだから、目先の金儲けのために、クライアントの御大の方だけをヨイショするに決まっている。それでいい気になっていても、客は増えない。それどころか、逃げ出す。しつこく寄付をクレクレと言うのがわかっているのだから、いくら懐かしい同窓会だって、近寄りがたくなる一方だ。それにしても、東大で『懐徳』はないだろ。こういうまぎらわしい雑誌名をつけて平気なのも、自己中のなせるワザなのだろうが。

形見分けの万年筆

 セーラーのクロスポイントをもらった。たしかに良いペンだ。欧字の回転的な書き方とはまったく異なる、漢字の緩急、止め跳ね戻り流れにしっかりとついてきて、インクかすれやインクたまりを起こすことがない。

 それにしても、日本の万年筆は、他の技術職人同様、いまや病的だ。長原宣義氏が名工であることは論を待たない。が、その周囲の扱いはまったく異常としか言いようがない。だまって工場でペン先だけで勝負してこそ職人であろうに、いまやその息子まで表にしゃしゃり出てきた。いくら文具が売れない時代だとはいえ、恥というものを知らないのだろうか。

 1978年の梅田晴夫デザインの「ザ・万年筆」プラチナ#3776あたりからおかしくなった。能書きたれの級友が飛びついて買ったので良く覚えているが、あの極太軸はヘビーライターのもので、高校生ごときが持っていても意味がないということはすぐにわかった。とはいえ、あれ自体はまだしっかりとした実用品だった。ところが、昨今のプラチナPP700000に至っては、軸までプラチナ無垢削りだしで税抜70万円。バカとしか言いようがない。

 これまでロットリング・コアを使ってきた。ドイツの子供のためのお習字用の安物万年筆だ。しかし、ロットリング社だけあって、そこそこしっかりしている。ロットリングの特徴の小さなWカートリッジ・インクは、すぐになくなるのと、すぐに固まるのが難点だが。しかし、それで充分だ。ロットリング社のものは、堅めだが、亀甲筆記体っぽい止め戻りに強く、それでいてインクたまりしにくいのだ。また、ペリカン社のペリカーノ・ジュニアも、安っぽいカラフルなプラスチック軸にステンレスのペン先で、わずか数オイロだが、やはりあなどれない書き味がある。インクの色を変えて、何本か持っていても楽しい。

 おそらく江戸時代の刀剣マニアというのもそうだったのだろうが、昨今の万年筆マニアというのはほんとうに物書きなのだろうか、と疑問に思う。物書きなら、ペンなど次々と遣い潰してきているから、自分の手で自分に合ったペンくらい見つけられる。こうなるとプランドも価格も関係ない。そもそも人によって筆圧も違えば、縦書きや横書き、使い方、漢字やかなの遣い癖が異なるのだから、いくら有名なブランド品でも合わないとなったら絶対に合わないはずだ。たとえば、私は絶対に3776系のものは使わない。あれはインチキ略字だらけの口語売文を書き散らす人のためのもので、学者として細かな正字を一字、一字、書いていくのには、まったく向かない。また、ビジネスマンが、どばどばとインクが出る和紙用のエンペラー系を持っていたら変だろう。

 人に特定のペンを勧める気もないし、ましてペンを自慢する気などまったくない。ペンはしょせん道具で、そんなことにはなんの意味がない。知っての通り、万年筆は、その名と違って消耗品だ。もちろん修理することはできるが、ペン先がダメになる以上、同じ書き味には二度と戻らない。せいぜい別のモノに生まれ変わるだけ。だいいち、使っている間にも、ペンの方はもちろん、手の方もそのペンになじんでいくから、文字の風合いは、どんどん変わっていく。

 万年筆についてごちゃごちゃと語る暇があったら、そのペンの先で語るべきだろう。大切に取っておくのではなく、どんどんペン先をすりへらして、人に思いを伝えるべきだろう。形見としていただいた万年筆は、まだ相当に寿命がある。伝え残した思いがまだそこにある。だから、ただ無闇に文字を書き散らすのではなく、誠実な言葉を選んで書きたい。

ヨーロッパの夏時間・冬時間

 今朝から夏時間だ。3月の最終週末日曜早朝の2時が3時にすっとぶ。パソコンなどは自動でかってに調整してくれるので問題はないが、人間はそうはいかない。日曜の朝、教会のミサに遅れる人が続出する。

 そうでなくても、1時間がすっとんだわけだから、夜中の予定ががたがたになる。夜行列車とか、時間通りに着くわけがない。とはいえ、ヨーロッパは、日本のような24時間都市ではないし、朝の列車が遅れるなどというのはいつものことなので、騒ぐほどではない。

 ちなみに、冬時間は、10月の最終週末日曜早朝の3時が2時に戻る。途中で1時間、たらたらしてればいいのだから、列車なども、こっちの方が影響が少ない。ややこしいのは、米国の方は2週間の前倒しで夏時間になり、1週間の後ろ押しで冬時間になること。だから、ヨーロッパとアメリカの間は、この春の2週間と秋の1週間は、夏時間と冬時間にずれを生じる。

 実際に生活してみてどうか、というと、これはやはり高緯度国のものだ、と思う。節約どうこう以前に、北緯50度にもなると(マインツのドームはぴったり北緯50度線の上にある)、夏と冬とはまったく別の生活形態にならざるをえない。夏は、やたら早く日が昇るし、夏時間であっても21時過ぎまで暗くならない。一方、冬は、天気が悪いせいもあって午前中はずっと夕方のようだし、午後もすぐに真っ暗になる。

 季節があるのは日本だけだ、などと言うが、たしかに「四季」という発想は日本のものだろう。ヨーロッパの場合、春と秋があまりに不安定で、春らしい春とか、秋らしい秋は存在せず、日ごとに夏と冬のせめぎあいが交錯するだけ。しかし、季節がないのかというと、そうではなく、はっきり夏と冬は別ものとして存在している。

 夏時間も冬時間もなく、だらだらと季節がつながったまま1年が過ぎ、夜なか中、コンビニが開いていて、日曜でもスーパーがやっている日本と、夏は夏、冬は冬、夜は夜、昼は昼、平日は平日、週末は週末、と、時間がきっちりしているヨーロッパとでは、1年1日の時間観も大いに異なるように思う。ドライなのは気持ちの割り切りとしてさっぱりしていいのだが、春や秋、「かはたれ」や「たそがれ」のような時間の隙間の、切ない美しさは、モネのような繊細な人物にしかヨーロッパでは見つけられないだろうな。

ドイツ人は風呂が大好き

マインツプール

 フランス人は知らないが、ドイツ人は、じつは風呂が好きだ。ただ、アメリカ人のように自宅でゆっくり入るということは少ないだろう。アメリカの場合、時間も自由だが、ドイツは集合住宅で、配水管が露出していることも多いために、22時まで、というのが建前の常識となっている。もちろん守らない人、守れない場合も多いが、夜中にゆっくり、ということはなかなかむずかしい。日曜だって、昼間は静かに過ごすことになっているから、洗濯もダメ。平日も、午後1時から3時は、やはり洗濯もダメだ。そもそも、自宅には風呂がない、トイレの横に小さなシャワーコーナーがあるだけ、という家も多い。独身用の1−2室の住居の場合は、ほとんどがそうだ。

 では、いつ、どこで風呂に入るのか、というと、プール。プール、と言っても、日本のスーパー銭湯のイメージだ。それも、おそらく日本の温泉より多いだろう。たいていの街にはプールがある。ましてバートと名のつく街なら、それは天然温泉の保養地だ。サービス次第でピンキリだが、スポーツプールなら数百円、温水プールで千円前後、サウナやマッサージ付きだと五千円くらい、という感じ。家族で年会員になっていると、破格に安くなる。

 マインツの場合、駅のすぐ裏にプールがある。コースは、スポーツプール、テルメ(温水プール、というより水着着用の風呂)、サウナの3つからなり、上のランクなら下のランクのものも使える。当然、更衣室も、上のランクのものの方がよい。

 スポーツプールの場合、更衣室は男女別。受付でトークンをもらい、これを更衣室内のロッカーの鍵の方に横からさすと、これが回るようになり、ロッカーがあく。日本と感覚的に違うのは、足下。土足でここまで入って来てしまうから、じゃりじゃりしている。それでビーチサンダルを持ってきている人も多い。ちゃちゃっと着替えたら、タオルやゴーグルを持って反対側から出る。そうするとシャワールームがある。これも男女別。素っ裸でシャワーを浴びる人もいるからねぇ。タオルなどを置く棚もある。

 スポーツプールの中のプールは3つ。1つは水泳用。25メートルだが、深さは180センチ。奥の方のコースは、ひたすら泳ぎ続けている。手前の方は休み休み。とはいえ、足がつかないから、すくなくとも25メートルは一気に泳ぐ。水質は悪くないが、日本の浄化式と比べるとやたら塩素くさい。水泳キャップは不要。2つめは、深さ60センチ。これは子供用ないし水浴用で、泳いではいけない。3つめは深さ4メートル。素潜り用だ。ここに飛び込み台もあるが、素潜りと飛び込みと同時にやったら危ないので、時間が決められている。

 テルメの方は2階。ここの更衣室は個人通り抜け型。通路から左右にドアがいっぱい並んでおり、白になっているところが空室。中で着替えて反対のドアを開けて出る。そこがロッカールーム。その向こうに男女別シャワールームがあり、テルメに抜ける。テルメの水温はいろいろ。日本のスーパー銭湯などと同様、一番高いところにはけっこう熱めのジャグジーがあり、広いところはちょっと泳げるくらい。でも、泳いでいる人はいないが。グルグルまわる水流ドーナッツやエアマッサージもある。そのほか、子供用の浅い浴槽もある。コイン式の日焼けマシンも置かれている。

 広い方のプールから外の露天プールにも抜けられる。打たせ湯その他があり、日本の露天風呂そのままだ。夏は、ここから外の広い芝生の方にも出ることができ、そこにも大きなプールやウォーターチューブがある。しかし、いずれにせよ、テルメは泳ぐところではなく、水浴するところで、あちこちにビーチベットがあり、湯に浸かったら、飲み物その他を頼んで、ベッドやテーブルでだらだら雑談をして過ごすところ。夏場は、芝生で日光浴している。ビアホールのようなイベントも多い。ベッドを湿らすのを嫌うので、大きなバスタオルか、バスローブを持って行くとよい。そもそも、テルメに行くなら、ロッカーから飲み物を買える程度の小銭を持って行くのを忘れずに。

 サウナは更衣室は男女別だが、なかはいっしょ。当然、水着も着ない。やはり汗を垂らすのを嫌うので、タオルは下に敷く。ふつうの高温サウナのほか、岩塩サウナや、マッサージコーナーなどがある。日本よりはるかに安いとはいえ、ふつうの人は時間的にもテルメまでで十分だろう。

 保養地の場合、プール、テルメ、サウナのほかに、さらに療養施設がある。これになると、運動療法士の指導のもと、プールの中で患部を動かして治療。とにかく、ドイツは足が悪い老人が多いので、長期滞在の湯治客も多い。

 わざわざ観光に来て博物館で小難しいお勉強というのもいいが、そんな死んだ古道具の倉庫より、プールの方がいまのドイツの生活が見えるというもの。それにチャプチャプやっている方が楽しいし。老若男女、太っている人も、やせている人も、ここではぜんぜん体型なんか気にせず、ダラダラと自由に過ごしている。

また雪が降っている

 すこし春めいたと思ったら、ここ数日、ものすごく寒い。昨日なんかバチバチとヒョウが降っていた。今日は雪だ。

 しかし、天候が不安定なのは、春が近づいた証拠だ。冬の間なんか、ずーーーーっと安定して曇りっぱなしで寒かった。たまに晴れて暖かい日もあるだけ、季節が変わったのだと思う。

 こっちでは子供にビタミンDが処方されるが、それでもこの日射量の少なさでは、骨や精神に異常をきたすことは少なくあるまい。実際、子供はともかく、年寄で足を悪くしている人はあまりに多く見かけるし、鬱に陥ったりしている人の話もよく聞く。それで、イタリアやフロリダは、いまやドイツ人だらけ。ハワイの日本語なみに、これらの観光地ではドイツ語が通用するのだとか。

 フランスの方は大西洋の海流の影響を受けるので、まだマシらしい。また、アルプスの方も、ドカ雪が降るかと思えば、ピーカンにもなり、紫外線も強い。だが、ドイツ中部の低山地から北部の低地のあたりは、冬の天気はどうしようもない。天気が悪い、というより、まったく動かない。寒くて曇ったまま、変わりもしない。

 そのうえ、今年は不景気になった。ドイツ便の飛行機もガラガラで、ルフトハンザもビジネスクラスの落ち込みがひどいとか。こんな天気では、いくら航空運賃が下がっても、ドイツなど観光にくるものではあるまい。昨年の夏までやたら多かった中国人や韓国人も、こっちではめっきり見かけなくなった。一方、日本では桜が咲いて20度を越えた地方もあるとか。それなら、そっちで春を満喫している、というのが自然というものだろう。

 しかし、こっちでは、朝、鳥の声が増えた。木々には新しい芽がついている。気温はともかく、春は近い。今年の復活祭は、4月12日。復活祭休暇あたりから、いいレジャーシーズンになる。

 

ドイツの光熱費事情

 ドイツは光熱費が高い、というのは、これも外国伝説の一つだと思う。はっきり言えることは、ドイツ人は自分の住居の光熱機器には関わりたがらない、ということ。

 これには大きな理由がある。完全な持ち家の場合は、自分が使った料金が明確だから問題ないのだが、過半数の世帯は、数十戸から二戸の集合住宅だ。それも、個人の屋主からの賃借が多い。この場合、光熱費の支払責任は、直接的には屋主にあり、したがって、賃借人は屋主に光熱費相当のネーベンコステン(副次費)を払うことになる。ところが、この屋主の請求してくるネーベンコステンがまったく不明朗なのだ。

 ドイツの家は、分割して賃借することが多いので、水道や暖房は基本的には部屋ごとに個別にメーターが付いている。電気はブレイカー単位だ。しかし、建物の内部で改築を繰り返しているために、どこがどこにつながっているのか、ひどく曖昧。もしドイツで家を借りることがあるなら、最初にこれらすべてのメーターの場所と数字、スイッチや蛇口との関係を屋主と確認しておくべきだろう。というのも、検針が年に1回しかないから。ヘタをすると、自分以前の賃借人が使った分まで請求されたり、その後もずっと別の部屋(屋主)の料金まで合算されたりする危険性がある。

 光熱費の基本は、水道代、暖房代、電気代の3つ。湯沸かしや調理機器は、集合住宅の場合、安全のため、ガスではなく、200Vの電気による瞬間湯沸かし器を使っていることが多い。水道料金は、日本でも、ドイツでも地域格差が大きく、マインツのように高くても1リューベ2オイロなので、東京とほぼ同じ。他の街では、むしろ東京より安いくらいだ。ドイツの水道料金が高い、と思う人は、おそらく日本の郊外の住宅地からドイツの都市中心部に移ることが多いからではないか。日本同様、ドイツでも地方や郊外は水が安い。むしろ日本は、水道料金に比例して下水料金も追加でかかってくるので、合算すれば、日本の方がドイツよりはるかに水が高くつく。

 電気代は、ドイツでは電気会社を選ぶことができ、自分の使い方によって、基本料金無しや段階料金などの最適プランにする。しかし、これは賃貸の場合は、実際の使用者ではなく屋主に選択権があるため、面倒が生じる。

 さらにややこしいのは暖房代。温水交換式の暖房機器が一般的だが、ボイラーは地下にあって、管理会社が請け負っており、実際の経費は、まさに地下の闇の中。個々の住宅には暖房機器ごとに表面にくっついているだけの熱量メーターがあり、これを基準に費用を算出する。しかし、これは単純加算ではない。暖房機器の大きさが異なることと、生活衛星環境の配慮から、費用加重が違うのだ。すなわち、風呂場や廊下は、熱量の約半分、寝室は約1、その他の部屋は約2倍にして合計合算し、使用負担額が算出される。それにしても、この熱量メーターがちゃちで、あまり信用ならない。

 屋主の方にも言い分はある。光熱費は年一回の検針に応じて、前年の過不足を精算し、翌年度の料金を十二分割で、毎月、払っていくことになる。したがって、ある年度に前年度より増えると、追加請求されるだけでなく、その年度が終わって実際に精算してみるまで高い料金を払い続けなければならない。そのため、一般には実際の費用より確実に高い光熱費を、賃借人にも、あらかじめ毎月、請求しておく。本来は、次の検針時に屋主の精算に応じて賃借人とも精算すべきなのだが、よほど誠実な屋主でないと、翌年度への繰り越しを口実にカネは返さない。一方、増えた場合は、絶対にすぐ追加請求してくる。

 これが嫌だから、賃借人の方は、家の水道や暖房、電気はできるだけ使わない、ということになる。ロウソクやランプが人気で、暖房もエタノール暖炉に切り替えてしまうのはそのせいだ。それなら、いくら自分が使ったか、自分自身で把握でき、制御もできる。固定で取られているネーベンコステンは、光熱費、というより、家賃の内、と割り切る。

 当然、家の水も使わない。しかし、ドイツ人が水を使わないのか、というと、じつはそうでもない。屋主がうるさい家の水、でなければいい。それで、ドイツには、プールやスポーツ施設が多い。そして、年間家族会員になっている。そこに行けば、シャワーが使いたい放題。サウナだってある。連中は、けっしてカラスの行水ではない。一定料金となれば、ガンガンお湯を流しっぱなしにして、シャンプーや石けんを持ってきて全身をゆっくり洗っている。どれだけシャンプーを使ったのか、というくらい、シャワー室の床は泡だらけ。

 ようするに、賃借人では自分の住居の光熱費が自分で管理できず、個人屋主の不明朗なボッタクリ会計に不満だから、こうなった。べつにエコロジーだから、節約をしているわけではない。それで、蛍光灯も普及しないし、節電機能もはやらない。節約なのではなく、とにかく家の光熱機器にはできるだけ関わりたくないだけ。つまり、宿泊客がホテルの冷蔵庫の中のビールには手を出さないのと同じ理屈だ。喉が渇いていないから、アルコールが嫌いだから、ではなく、冷蔵庫の中のビールはバカ高いし、後が面倒になるからイヤなのだ。ほしければ、外で自分で買ってきた方がいい。

花の街マインツ朝市の晴れの週末

晴れのマーケット

 秋からひたすら曇りの日ばかりだったが、ようやく春めいてきた。とはいえ、朝の気温はマイナス5度。昼間だって日陰は寒い。が、日なたはとても気持ちが良い。

 みんなも考えることは同じで、今日の朝市は、たいへんな人出だ。クリスマスマーケット並み。周辺の町や村からつぎつぎと車でやってくる。カメラを提げているトラハトのひとも多いから、まだ雪の残るバイエルンあたりからの観光客なのだろう。河でも、人気のライン下りの船がもうすぐ始まる。

 昨年から大規模な修理をしていた建物もようやく中までできあがり、その日当たりのいい二階のテラスでは、大勢がカフェを飲んでいる。まだ暖かい飲み物がうれしい季節だ。この建物にウェブカメラがついたので、24時間、世界中から、マインツのマルクト広場の様子を見ることもできるぞ。

 それにしても、こっちは暮らしやすい。物価も安いし、治安もいいし、食べ物はおいしいし、人間関係もドライで親切だし。そのうえ、マスコミの押しつけではないホンモノの楽しみがいくらでもある。カーニヴァルが終わったとはいえ、いまやこの街はドーム千年祭に、マインツメッセ、そして復活祭と、またまたお祭り続き。

カヤ・ヤナールの中東ギャグ



 Kaya Yanar の『Was guckst Du !?(なに見てんだよ)』は、SAT1系の人気テレビ番組で、8年目。しかし、ドイツのテレビ番組の中でも、かなり毛色が変わっている。というのも、ウリが中東ギャグだから。

 この人、トルコ系ドイツ人。だが、ピーター・セラーズ並みに、オランダ人になったり、中国人になったり、国籍不明で変幻自在。もちろんトルコネタ、アラビアネタは、得意だ。トルコやエジプト、さらにはイラクのテレビから、オバカな素材を拾ってきたりもする。もともとフランクフルト大学(ゲーテ大学)の中退で、かなりのインテリだ。

 トルコ系も、もはやドイツに定住して、第二世代、第三世代。移民街は治安が悪い、などというのは、もはやはるか昔の話で、いまや移民街の方がきちんとした家族持ちが多く、食い詰めて流れてきた旧東ドイツ地域の連中よりまじめだ。とにかく宗教的な縛りがしっかりしているので、彼らは無茶をすれば、移民コミュニティから放逐される。そうなったら、ドイツで生きていく場所も方法もなくなる。そのうえ、いまや苦労してドイツの学校に学んだ第二世代がボランティアで第三世代の世話をしているから、自由放任のドイツ人の子供たちなどよりはるかに教育状況もいい。

 もちろんまだそれほど豊かではないし、トンチンカンなことも多い。しかし、働き者だ。信用もある。だから、最近は、移民街を離れて、一般的な住宅地に暮らす家族も増えている。中には、商売に成功して、ドイツ人を雇っている会社の社長になっている人も出てきた。隣のトルコ系ドイツ人、などというのも、実際、珍しいことではなくなった。

 それで、ARD(公共放送系)では、『TfA(Türkisch für Anfänger、初心者のためのトルコ語)』という連ドラも人気になっている。これも、すでに3年目。まさに、隣にトルコ人がやってきた、というもので、恋愛絡みであれやこれや。なんていうことのない話だが、設定や出来事に現実味がある。

 日本ではあいかわらず英語一辺倒だが、世界全体の趨勢からすれば、急速にスペイン語やアラビア語、スワヒリ語の方が重要になりつつある。なにしろカバーできる領域が面積的に広大なのだ。これらの地域に入り込んで、まともに英語が通じる人を探すのは、太平洋に浮かぶペットボトルを探すようなものだろう。だいいち、英語をむりに通そうとするよりこっちが現地語を話せた方が、好感度も高いに決まっている。

 いまや世界中にバイリンガル、トリリンガルがいる。そして、文化の橋渡しとして重要なのは、日米どっちつかずの半端な帰国子女の英語バイリンガルなどではなく、きちんとした文化背景を持ってきている外国系の人々だ。日本が在日韓国朝鮮人の問題すらいまだに解消できないようでは、「国際化」など、まったくおぼつかない。

ドイツのテレビ番組の魅力!

 ドイツのテレビはつまらない、だから見ない、なんて書いているドイツ在住者が少なくないが、見ないのに、つまらない、なんてよく言うよ、と思う。ようするに、それって、たんに、あんたが見てもわからなかっただけだろう、と思う。ほんとうにつまらなければ、こんなに、大量の熱狂的なファンがいるわけがない。たいていの人気番組は、DSDSとか、GZSZとか、略語で通用しているほどだ。

 ドイツのテレビは、ドイツ料理に似ている。レストランなんかで、ドイツ料理を食べてもうまいわけがない。ドイツ人は、ドイツ料理をレストランでは食べないから。旅行者がホテルでドイツのテレビなんか見たって、わかるわけがない。在住者だろうと、ちょっとテレビをつけただけでわかるほど、ドイツのテレビ番組は、日本の単発サスペンス劇場や1クール13回の連ドラのように薄っぺらではない。というのも、ドイツのテレビ番組は、やたらものすごい続きものが多いのだ。GZSZなんか、1992年から始まって、いま4000回だ。『タートオルト(犯行現場)』は、ARD系の競作で、1970年から、まったく異なる場所の刑事シリーズが入れ替わり立ち替わり同時進行して、700本を越えている。その中の1回だけ見て話がわかる、おもしろい、と思える方がどうかしている。

 だいたいテレビなんか、見ただけでわかるものではない。日本のテレビでも、だれだかわからない連中がスタジオでゲームをしているだけなら、おもしろくもなんともない。おもしろいのは、その人が普段は硬派な評論キャスターだったり、それと対決しているのが、そういう硬派のキャスターをちゃかしているコメディアンの、それも冗談キャラとしての出場だったりするところ。ディーター・ボーレンが審査員をしているのは見ればわかっても、そのディーター・ボーレンがとんでもないヒットメーカーで、女たらしで、大金持ちなのを知らないと、彼の発言や、別の審査員のツッコミのどこが笑いどころかわからない。つまり、テレビがおもしろい、と思えるためには、その番組以外の、長年の背景を知っていないとならないのだ。

 ドイツの場合、俳優はプロばかりで、ポッと出のアイドルが抜擢されることなど、まずありえない。(例外が昨年から始まった『アンナとその愛』で主役になった、ロック歌手の大根娘くらいか。)また、その舞台の街も、田舎のどこか、ではなく、具体的に、ハンブルクだったり、バート・テルツだったり、ウィーンだったり、行ったことがあれば、よくわかる場所がよく出てくる。さらに、先述のように、話も続きものなので、これまでのいきさつや人間関係を知っていてこそ、楽しめるというもの。

 お笑いも、日本のような、ただのバカがかってに騒いでいるだけのようなガキのコメディアンではない。カバレティストと言えば、楽器がなんでも弾けて、歌って、踊って、シリアスな長編の小説や映画の台本が書けるような超インテリの趣味人でなければならない。だから、笑いのネタも、子供受けする早口言葉のようなものの合間に、政治や社会の風刺を挟み込む。つまり、ただのバカではなく、向う側まで行ってしまっている連中の冗談なのだ。それで、子供はもちろん、大人も笑える。もっとも、政治や社会のドイツの常識や習慣を知らないと、なんの風刺かわからず、ぜんぜんおもしろくないだろうが。(たとえば、キンダーパラディース(子供天国)、と聞いただけで、それが家具屋のイケアの話とわからなければ、ぜんぜん笑えないだろう。シャウママルというセリフだけで、ベッケンバウアーの口癖と知らなければ、オチがわからないだろう。)

 テレビは、テレビの外の日常世界の鏡だ。だから、ドイツに限らず、日常に溶け込んでいるテレビは、エンターテイメントとして、個別に完結している映画などよりはるかに奥が深い。自分がわからない、だからくだらない、つまらない、というのは、その人が、つまらないだけ。それにしても、大学の研究者も、そういうつまらない連中ばかりだから、こういうテレビのドラマやショーのようなものに対する専門的な研究は、どうでもいい(当時だってほとんど読まれなかったような)古い小説の研究などに比べて、ひどく遅れている。テレビほど、その国の人々に影響が強いモノはないのに、日本の大学の中の奇妙な研究者たちの力関係で、どうでもいい研究にばかり予算配分され、肝心の通俗的(もっとも一般国民に近い)な文化に対する研究が放置されてしまっている現状は、とても不幸だ。

耄碌教皇はスクラップに?

風刺雑誌

 今週、こんな表紙の雑誌がドイツ中の書店やスーパーの棚に並んでいる。ドイツの通俗雑誌というと、バウアー・グループのものが圧倒的で、百ページ程度のザラ紙にカラー、タレントや生活、貴族、ファッション、等々が出ていて、それぞれ数オイロ以内、というのがふつうだ。もっとも売れているのが、テレビ番組表の雑誌で、バウアーのTV14をはじめとして8種類くらいある。つぎに売れているのが、女性総合雑誌で、これも8種類くらい。その他、タレント・ゴシップなどなど。日本でありがたがっている政治誌(シュピーゲルやヴェルト)なんか、スーパーにおいてあるわけがない。駅なら、まああるが。エロっぽい男性雑誌のようなものも、スーパーには置いてはいない。

 で、風刺雑誌、というのも、ドイツの雑誌群の中では異質だ。しかし、このタイタニックは、けっこうどこでも置かれている。中味は、マンガやバカ話。あまり長い記事はない。しかし、それにしても、この表紙、かなり刺激的ではないか。2006年にデンマークの日刊紙が爆弾を頭に乗せた、ムハマッドの絵を掲載して大騒ぎになったが、こっちの雑誌は、国民の三分の一が自称カトリックというドイツで、ドイツ人自身がやっていることだ。それで批判が巻き起こるか、カトリックが雑誌社に抗議するか、というと、そういう話はまったく聞かない。というのも、この表紙は、もはやドイツでは風刺にも皮肉にもなっていない本音だからだ。

 ドイツ以上の旧教国フランスでも、もはや露骨に教皇をあなどる発言が相次いでいる。前の教皇の評価が高かっただけに、落差が大きい。もとはと言えば、教皇がイメージ回復のためにアフリカへ行ったのに、そこでわざわざ自分でエイズ絡みのいらない失言をしたりするからだ。まあ、言いたいことはわかるのだが、わざわざ教皇が言わなくてもいいことだし、いまのタイミングで言うのは政治的に最悪だ。

 17世紀ならともかく、近代に入って、こんなに急速に軽んじられ、威厳を失ってしまった教皇も珍しい。まるで昨今の日本の総理大臣のようだ。組織改編で政治的に復古主義の確信犯、というのならわかるが、わざわざアフリカに行って失言するとなると、単純に政治手腕の有無を疑われるのは当然だろう。この状況で、もともと弱体で、教皇をありがたがっている日本のカトリックなどはどうするのだろう。

聖ヨハネの首

ブログネタ
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 ネットでヨタねたを拾ってテレビや雑誌で商売ににしている連中がちかごろ目立つが、なんで自分で調べて考える能力もないのに、そういう仕事をしたがるのだろうと思う。パリ大学に留学したとか自称している文庫屋の桐X操なんか、澁澤龍彦のまんまのパクりがあったりして、あれでよく絶版にもならないものだと感心している。(「だが」が「しかし」に書き直されていたりして、子供のいたずら並みだ。)もう少し手の込んだのになると、洋書からのネタのパクリというのがあって、渋種あたりはすれすれの文章もないではない。(一方、荒俣は、それこそ元翻訳家だが、そういうのを見かけない。)

 しかし、驚いたことに、どこの大学でも、学生たちに言わせると、どこかの本やネットから引き写しをしないで、どうやってレポートを書いたらいいんですか、と、逆に聞いてくる。彼らの考えからすれば、すべての本は、なにかの引き写しでできている。そうでなければ、新しい文章なんか生まれるわけがない、というわけだ。この考えは、日本の学者の世界でも珍しくない。日本の学者に新しいアイディアなんか創れるわけがない、きっと洋書のパクリだろう、という発想。実際、上述のように、ちょっと洋書も知っていると、けっこう有名な研究者や文筆家でも、ああ、盗ったな、と思うものを見かけることは珍しくない。しかし、そういうのは、同業のプロ仲間にはわかるもので、恥と思う気持ちがないのなら、研究者や文筆家など辞めてしまった方がいい。

 腹立たしいのは、私までその一種と思われること。そりゃ洋書も読むし、文章の書き方として、学者だから三人称主語で書く。それをシロウトのバカが読むと、ああ、これって洋書のどこかに書いてあるのを寄せ集めたのだろう、と思うらしい。黄色いサングラスを掛けていると、世界が黄色く見えるように、自分がバカだと、人までバカに見えるものだ。そこまで言うなら、元ネタを探して指摘してから言えよ、と思う。

 研究者の世界まで、とにかく学問の基礎方法の教育が欠けている。とくに研究者でもない出版現場をリタイアしたシロウトを大学が採るようになってから、ひどくなった。ようするに、連中の方法は、どこかにある原稿の編集なのだ。あちこちから文章を引き写してきて、そのまとめを論文と称している。もちろんシロウトではないから、パクったりせず、むしろ仰々しいスコラ的な出典注を大量に羅列して権威付けするが、オリジナリティがなければ研究者として意味がない。

 編集と研究とは、決定的に違う。編集は足し算、ないし、引き算だ。寄せ集めか、要約でしかない。一方、研究は、複数の資料の掛け算や割り算で、どの資料にもなかった真実を割り出す。たとえば、2008年のヨーロッパは猛暑だった、という気象資料と、2008年のワインは豊作だった、という農業資料から、2008年は猛暑によりワインは豊作だったのではないか、とひらめく。ここから、猛暑はワインを豊作にする、という仮説を立て、過去や別の地域の気象資料や農業資料を調べ、これが単なる仮説以上の真実を含んでいることを発見する。この真実は、どの気象資料にも農業資料にもこれまで書かれていなかったことだ。

 だから、出典の使い方を見ると、プロの研究者かどうか、すぐにわかる。資料が生で使われているのなら、それはニセ研究者。資料に対してつねにクロスやインテグレーションなどの研究手法が使われていればほんもの。阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男』など、やはり出色だ。

 で、話は、聖ヨハネの首。ハーメルン事件は、聖ヨハネの日、つまり、クリスマスに対向する夏至祭に起こった。阿部氏はハーメルンの街と当時の十字軍を中心にクロスで調べているが、この事件を理解するには、膨大なヨーロッパの夏至祭の習慣についても当たるべきだろう。というのも、この日は、シルヴェスター(大晦日)とファストナハト(カーニヴァル)、ヴァルプルギスの夜(4月30日深夜)と並んで、東洋の土用の同様、暦の隙間とされているからだ。悪魔崇拝、というより、これらの日々は、合わせ鏡の向こうのように、春でも夏でも秋でも冬でもない日で、ここにはキリスト教的な社会秩序が成り立たない。

 ところで、ローマは、聖パウロの処刑地として、権威を持っているが、しかし、当時の状況からすれば、五司教座の一つにすぎなかった。一方、マインツは奇妙だ。ここは「聖座」と称されている。つまり、名称だけからすれば、ローマと同格で、こんな大司教座は、ヨーロッパでも他にない。歴史と規模からすれば、ケルンの方が古く大きい。大ヤコブを祭るサンティアーゴですら、こんな名称は持っていない。たんに交通の立地がよかった、とか、アルプス以北のローマの出先機関、とかいうだけで、こんなに偉そうにできた、とは思えない。

 このために、マインツには、いろいろな古いウワサがある。ドームの至宝だ。ドームの近くには、巨大な聖堂騎士団館と救院騎士団館がへばりついている。二大組織が、この街でなにを守っていたのか。なぜライン式と呼ばれる重交差式の逆向き祭壇が生まれたのか。その逆向き(西向き)祭壇の大塔の下になにがあるのか。しかし、この大聖堂は、ケルンなどと違って、昔はもちろん、現代の観光資源開発においても、公開されていない。そしてまた、マインツは、ライン河の水運の街でありながら、船ではなく、二つ車輪を紋章にしている。初期の大司教の車輪職人としての出自を表す、とも言われるが、しかし、車輪は中世ではむしろ業罰刑の印だ。まして二つ車輪となれば、車裂き(車輪の上に張り付け、その手足を別の車輪で轢く)というかなり神がかった処刑方法を連想させずにはおかない。また、その二つの車輪は、大聖堂の特殊な東西二塔とも呼応している。

 ドーム建設以前の古地図によれば、じつは、あの塔の場所には、4世紀、ゲルマン時代のローマ・キリスト教による洗礼所があった。つまり、植民市としてのケルンやアウグスタ(トリアー)と前後して、ここに、ケスリッヒの丘からの聖なる湧き水による洗礼の聖所として作られた。この意味で、聖ボニファティウスが開市し、街ができる前から、ここはゲルマン教化のための聖別された中心拠点だった。そして、その洗礼所の前に教会が作られ、ちょうど千年前、1009年、洗礼所の四隅をまたぐ形で、その上に祭壇ができ、教会も西へと延長され、ついにはつながってしまった。つまり、もともとは教会による洗礼所への祝福だったのだが、両者がつながってしまったため、教会のミサが西向きになってしまったのだ。そして、その祭壇の上に塔が建てられ、もともとの教会と洗礼所祭壇の塔とで、いわゆるライン式重交差伽藍ができあがる。

 しかし、もともとのローマの洗礼所は地下へ。そこになにがあったかは、いまとなってはまったくわからない。しかし、ウワサでは、そこに、あの洗礼者聖ヨハネの首があり、ギュスタフ・モローの絵のごとく、まさに宙に浮いて輝いていたいう。先駆者聖ヨハネとなれば、夢でしかイエスに会ったことがない聖パウロの名を掲げるローマも一目置かざるをえなかっただろう。

 ケルンで地下鉄工事による崩壊事故があったが、マインツには地下鉄なんか絶対に通せない。というのも、マインツの地下は、すでにいまでも穴だらけ、トンネルだらけだからだ。どこがどうなっているのか、だれにもわからない。そもそも、なんでこれほど掘りまくったのか、も不明だ。もちろん、軍事要塞や地下倉庫という意味もあっただろうが、これほど網の目のように掘ったとなると、なにか財宝を探していた、のかもしれない。

 同じものを見ても、聞いても、読んでも、シロウトとプロではそこに見えるものが違う。見えるものを見ているのではなく、そこに見えているものを支えている膨大な歴史や文化を知っているからだ。そのひらめきの先は、シロウトにもわかるように、実際に掘ってたしかめてみせることだが、学問でなければ、ウワサをウワサとして楽しむ余裕というのも、いいものだ。わからない人には永遠にわからない楽しみだが。

ベタの字組で10メガ!

 数年来の懸案の仕事が一段落。といっても、終わったわけではないし、なんども一段落して、ここまでだんだんに仕上がってきたものだから、なかなかたいへん。

 インデザインで、まったく図表無しなのに、10メガ、688ページ。それも、ちまちま、あちこち飛びながら直していくから、先週来、ファイルのどこかが壊れて、白い行が出てきたり、全行長になったり。こうなると、コピーもなにもできないし、やたらいじるとさらに壊れてしまうので、別ファイルを作って、そこに少しずつ移動して、破損部分を特定。そこだけ手作業で打ち直して修復。これは、かなりはらはらした。

 私の場合、だいたい半年でパソコンが壊れる。そりゃ、オフィスと一太郎、アドビのCSにプレミア、3D関連、MIDI関連を載せてカリカリやっていれば、どこかおかしくなるに決まっている。フォーマットしてリブートするしかないのだが、ヴィスタはほんとうにうっとおしい。リカバリーディスクで初期状態に戻しても、その後、ごちゃごちゃと追加のパッチをネットで読みに行くので、1日では終わらない。そのうえ、アプリケーションも、カスタマイズファイルがうまく載らない部分があって、結局、これまた手作業。というより、どこをどうカスタマイズしたかなんて、覚えているわけがない。

 それにしても、パソコンは、なんでこんなに面倒くさいのか。TK−80コンパチからいじっているが、どんどん面倒になっていく。セキュリティなんかどうでもいいから、おかしくなったら、すぐ簡単にリブートできる方がいい。ライセンスだってインチキしているわけでもないのに、いちいち認証がどうのこうの、うるさいよ。それも、理系のバカがライセンスシステムを考えるから、同じマシンでディスク交換しただけでも、インストールの規定回数がエクスパイアしたとか言い出す。それで、いちいち電話をかけて、事情を説明しなければならない。

 これだけヤワな機械なのがわかっているくせに、いまだにデータのバックアップ以上のフェールセーフの発想がないのが不思議だ。でも、データが壊れてくるのは、たいていそれ以前に、アプリケーションの方が壊れてきているからだ。重ね書きしたところで、OSとあちこちがかんでいるから、そんなことで直ったためしはない。だいいち、肝心のHDDがへたれの消耗品なのだから、どうしようもない。むしろアプリケーション部分は、書き換えなしのDVDかなにかからつねに読み出して動いてくれたなら、もっと安全だろうに。

 ヴァージョンアップも高いし、インク代も高いし、機械が安くなっても、ランニングコストはぜんぜん下がらない。毎年、新しくなるソフトに限って、ほとんどいらない機能がふえるだけ。それどころか、オフィスの2007は、リボンとか言うへんなメニューになって、どうにも使いにくい。ふつうのプルダウンでいいよ。

 ようするに、開発に哲学が欠けている、と思う。便利とはなにか、考えれば、いらない機能だらけなものはいらないんで、コンビニ並みに、ふつうに使うものだけあればいい。特殊な設定なんか、いらないものの典型。まして、閉じ括弧や連番の自動挿入なんて、よけいなお世話もいいところ。いちいち外すカスタマイズをしなければならないなんて、発想がまったく逆だ。だいいち、そんな機能に引かれて買う客なんか、どうせそんな機能まで使わないって。

 データがやたらでかいのも、こういういらない機能のせいで、変数項目がやたら増え、フォーマットが膨張しているから。そして、そのためにデータが壊れやすくなる。画像の白黒と同様、ベタ組指定したら、よけいな変数を含むフォーマットではなく、最小限のフォーマットでガンガン使えるといいのだが。ドシロウトじゃあるまいに、ごちゃごちゃとした文字飾りなんて、いらないよ。やりたければ、イラストレーターで自由に作って貼り付けるから。

電球が切れるときの爆発音

 また電球が切れた。とにかくよく切れる。それも日本のようにじわっと暗くなるのではない。ばん! と爆発音を立てて閃光を散らす。そして、真っ暗になる。あの事件があった昨日の今日のことで、思わず頭をすくめてしまう。こういうときの、こういう爆発音は、なんでもないにせよ、精神的にきつい。

 ドイツは蛍光灯が少ない。どうもあの青白い色は嫌いらしい。日本と同じような電球(洋ナシ、という)か、スポットライトの四連が一般的だ。環境大国なんていうが、蛍光灯型の電球は、あるにはあるが、ほとんど普及していない。むしろ蛍光灯を吹っ飛ばして、LEDが5個入った電球やスポットライトがスーパーの特売で売られていることがある。いずれにせよ、人気がない。

 電球どころか、ドイツ人はロウソクが大好きだ。日本でもよくあるテー・ケルツェンが数百個詰めで売られている。電球は消して、これを部屋のあちこちに置く。庭石のように巨大なロウソクもある。いったい、これが燃え切るのに何年かかるのだろうと思う。さらに、芳香剤もロウソクだ。これは安いのから、高くて見た目もきれいなもの(水に浮かべたり、皿にとけて広がったり)までいろいろ。いちばんいいのは、ホンモノの蜂蜜からつくる黄色い蜜蝋のロウソク。

 しかし、ロウソクの難点は、スス。天井が黒くなる。それで、引っ越しの前に天井までペンキ塗りをしなければならなくなる。それを知っているから、私などはロウソクはほとんど使わないが、それを知っていても、ロウソクが大好き、というのが、こっちの人々。

 それで、近年は、エタノールの暖炉やテーブルランプが流行ってきた。これはススが出ない。火も派手だ。壁掛け暖炉とか、かなりかっこいい。値段も1万円程度で買えるし、重いたきぎをくべる必要もない。しかし、これだって、火傷だの火事だのが心配だ。そんなのを使う度胸はない。で、最近のお気に入りは、DVD。これ、暖炉の火が延々と1時間も録画されている。録画用の空DVD25枚を買ったら、おまけで入っていた。これで、テレビが暖炉になる。なんとなく暖かい気がするから不思議だ。

 天気の方は、小鳥たちがさえずって、だいぶ春めいてきたものの、気温はまだ7度くらいで、寒い。とくにここのところ、冷たい雨が降っている。東北の山脈の方はまた雪らしい。向かいの教会では、今日、雨の夕方、中学生たちが集められて臨時礼拝が行われていた。当事者たちだけでなく、ドイツ全体、とくに同年代や低学年の子供たちにとって、かなりショックだったようだ。学校という自分たちの居場所に、いきなり暴漢が入り込んでくるかも知れない、と思っただけで、小さな物音にも神経質にならざるをえないだろう。事件のあった中学校も、その回りが数限りないロウソクで埋めつくされている。ドイツの人々が電球よりロウソクを好むのも、なにかすこしわかった気がした。

Winnenden高校の銃乱射事件

 テレビが特番体制になった。ストゥットガルト近郊の街の実業中学校で、そこを退学した17歳の青年が10数人を撃ち殺し、駆けつけた警官2人のヒザを撃ち抜き、人質を連れ、アウトバーンに乗って車で市内へ向かったからだ。

 昨日もアメリカで似た事件があったそうだが、ドイツの事件が似ていないのは、これが少年の犯罪というよりプロのテロリストに近いこと。家に残っていただけでも18丁もの銃があったとか。手持ちで長短3丁は持って逃げているだろう。そのうえ完全装甲の黒の戦闘服だ。なんでこんな武装を持っていたかというと、こいつが戦争マニアだったかららしい。たんなる武器マニアではなく、射撃訓練もやっていたようだ。乱射ではなく、女子中学生ばかり、それも正確に冷静に一発ずつ頭を狙って撃っていった。

 このため、警官隊の方も、通常の少年犯相手ではなく、やはり完全装甲で小機関銃を持ち出してきている。実際、犯人に射撃の腕がある以上、見つけ次第、撃ち殺すことになるだろう。しかし、現時点で情報は錯綜しており、自殺した、という話もあれば、まだ逃げている、という噂もある。

 コメンテーターは、おきまりの、コンピューターゲームの影響を語る。しかし、これも、ドイツではリアリティがある。ゲームの年齢制限が厳しい分、大人向けゲームの中には相当に過激な襲撃ものがあり、それは敵兵を小銃でバンバン撃ち殺しながら目的地へ突き進むものだ。相手に当たると、その頭が血しぶきをあげて吹き飛び、首のない死体が跳ね飛ぶ。日本では考えられないが、かなりリアルで、ものすごい緊迫感がある。

 銃砲店も珍しいものではない。マインツくらいの街でも数店もあり、店頭には猟銃のほか、小銃や大型の戦闘用ナイフなど、ドイツ国内でも絶対に使う場所のないものを売っている。2002年のエアフルトの高校での事件の後、21歳以上に銃は規制強化されたが、それでも、ドイツは、銃に関してはまったく行政管理がいいかげんな国のひとつだ。その背景には、数百年来の狩猟の伝統によって、アメリカのような護身自衛用としてではなく、狩猟用としてすでに数限りなく普及してしまっている事情がある。とはいえ、きょうび、バイエルンの山の中だって、危なくてそうそう狩猟なんかできるわけがないのだが、いまだに角付きのシカの頭を壁に飾り、床にクマの毛皮を敷いて喜んでいる連中が地元名士なのだから、そう簡単に禁止できないままになってきた。

 自動車のアウトバーンの最高速度ですら、自動車メーカーとの関係があっていまだに制限するのが困難だ。もちろん徐々に速度規制区間が増えてはいるが、無制限区間も残っている。それが残っている以上、自動車メーカーは絶対に使う場所のない性能を追求するだろう。ジュ−ザーで砂利を砕いてみせたり、包丁で鉄ハンマーを切ってみせたりして自社製品の性能を自慢するのが、ドイツ人の気質。当然、銃でも、どれくらいの速度で乱射できるか、スペックを語りたがる。

 言うまでもないが、車だの、銃だの、モノの性能を語るやつに、人間としての性能があったためしがない。だから、よけい車や銃で武装するのだろう。まして、そんなのをガキに買い与える親も親だ。友達と楽しくチャリンコに乗って、ダーツで遊んでいればいいものを、車や銃の自慢をしたところで、よけい友達を失い、孤立し、ゲームにはまり、最後は凶行。

 日本の高校生は、いまどき腐ってみたって、アルバイトではバイクも買えないし、ゲームさえもムリだ。ヒッキーなんて、団塊世代の金満な親を持った子供だけの特権だった。マンガだって、けっこう高い。携帯の通信料もバカにならない。まして銃なんかどこにも売っていない。あんまり暇だから、勉強でもしていたりして。数独のパズル本なんか買わなくたって、教科書の因数分解とか、けっこうおもしろいぞ。

オリーブの栄光とローマびとペテロ

 先週、2日(月)から5日(木)にかけて、ドイツ司教協議会(ビショッフ・コンファレンツ)がハンブルクで開かれた。話題の中心は、ピウス兄弟会司教の破門を勝手に解いた現教皇の問題だ。ドイツ・カトリックは、新教ルター派、東方教会、さらにはユダヤ教とのエキュメニズム(宗教対話)を推進している。それゆえ、それを否定するピウス兄弟会は、ましてホロコースト問題に触れる同会のリチャード・ウィリアムソン司教は、認めがたい。

 ところが、ややこしいことに、先月末、ピウス兄弟会の方がドイツ司教協議会に対話を求めてきた。協議会議長のフライブルク大司教ロベルト・ツォリッチは、これを、ヴァティカンの問題として一蹴。さすが知恵者だ。前議長のマインツ聖座司教枢機卿カール・レーマンとともに、協議会の結束は固い。公会議でもないところで裏取引を持ちかけるやり方自体が不愉快であろう。

 神は人に神の似姿として理性を与えた。兄弟会のように、伝統だ、不合理だから信仰だ、などと言われても、もとより理性的な対話にはなりようがない。だいいち、ムハマッドを借りて神が語ったというコーランならともかく、聖書そのものですらラテン語ではないキリスト教において、神がラテン語の典礼を命じた、とか、プロテスタント的だからダメだ、とかいうローマ中心主義の方が、どうやってもムリがある。これでは、根本のところで話にならないのは自明のことだ。そこまで言うなら、聖書どおりのコイネー(古代国際ギリシア語)でやれよ、ということになるだろう。また、教会としての伝統うんぬんに関しても、歴史を越える神の遍在からすれば、教会はその過去の歴史を介してのみイエスにつながるのではなく、過去はもちろん、いまこの現在においても、つねに教会は直接にイエスの前にある、そして、むしろ神が現在の教会をあらしめたもうたことにおいて、神はいまや過去の教会の姿をあえて退けられた、とでもいう方が神学的にも妥当だろう。

 むしろ問題は、ヴァティカンだ。教皇の方がなんらかの正しい対応をしない限り、ヴァティカンとドイツ・カトリックとの関係は、修復不可能なところへ突き進んでいっている。フランスやポーランド、そして、これらの国々を派遣拠点とする世界の修道会系列。ヴァティカン側には、せいぜいイエズス会くらいしか残らないかもしれない。それにしても、カトリックの内部で、この信仰低迷の現代にもなって、またシスマ(分裂)を引き起こすほど不毛なことはない。いや、信仰が低迷しているから、教会が迷走するのかもしれないが。

 十六世紀末の『マラキ書』は、歴代法皇に関する予言偽書としてよく知られる。しかし、偽書とはいえ、あまりによく知られているがゆえに、その後のコンクラーベにおいて影響がなかったとは言えまい。それによれば、先のヨハネ・パウロ二世が「太陽の労働で」、今のベネディクト十六世が「オリーブの栄光」、そして次が「ローマびとペテロ」。問題は、これで予言がおしまいであること。それも、極限の迫害と最後の審判が言及されている。現教皇はもちろん、次の教皇になる可能性のある現枢機卿、その他、カトリック教会関係者で、この予言を知らない人はいないだろう。

 ヴァティカンがこのままこの問題を放置した場合、フランス、ドイツ、ポーランドなどのカトリック教会は、シドニス・システムに基づき、ヴァティカンそのものの存在意義を認めなくなる。南イタリアの教会ですら、ローマよりもフランスとの関係が深いので、ヴァティカンに従うかどうかわからない。実際、歴史上からしても、べつにヴァティカンで教皇が選ばれなければならない理由はない。小アジアからヨーロッパまで布教して歩いた使徒ペトロの継承者という意味で言えば、むしろローマ中心主義を採る狭隘なヴァティカンを切り捨て、ルター派や東方教会、カルヴァン派、聖公会、再洗礼派その他と大合同して、イェルサレムかどこかで新しい意味でのキリスト教の代表者を選出した方がいい、ということになる。

 そうなると、ヴァティカンは、ヴァティカンだけで、古くさい次の教皇を選出しなければならなくなる。まさにローマびとだ。しかし、大合同キリスト教会は、そんな教皇を破門するかもしれない。カトリックにおいて、一見、教皇の下に教会があるように思われるが、しかし、教皇は、しょせん教会に選ばれてこそ教皇になれるのであって、教会に選ばれていない教皇はホンモノの教皇ではありえないからだ。

 予言の奇妙なところは、それが人々によく知られることにより、その予言が実現する方向に物事が動いていってしまう、ということ。よほどのことが無い限り、逆には動かない。初代教皇ペテロ以後、ペテロを名乗った教皇は一人もおらず、次の教皇がみずから予言に従うなら、ペテロ二世を名乗ることになる、とされるが、そんなにバカでもあるまい。しかし、実質的に、ヴァティカンのペテロ二世と、エキュメニズムのペテロ二世の二人の対立教皇が出てくる可能性はゼロではない。

ほんとうのタレントが見たい

 ドイツでは、DSDSが佳境に入った。スーパースターを発掘する半年がかりのRTLのキャンペーン番組だ。今日で第16回。審査員からして、あのポップの巨人、ディーター・ボーレンだし。才能のないやつには容赦ない。だから、このあたりまで残っている候補者となると、ものすごい。ハープの弾き語りでシャウトロックを歌ってしまう、など、半端ではない。タレントはこういうものか、と見せつけられる。

 ひるがえって、日本のテレビも、雑誌も、新聞も、大学もぬるい、と思う。かつては、スカウト・システムがしっかりしていた。というより、タレント事務所やプロデューサーは、スカウトが命だった。予算が限られていたから、どれだけ才能のある無名のやつを発掘してこられるかに、存亡がかかっていた。その目利きであることを、事務所やディレクターは、自分の才能として誇っていた。こういうのが機能していたのは、岩崎宏美やタモリ、せいぜい竹中直人あたりが最後だろう。

 その後、予算がジャボジャボになって、キックバックが当たり前になって、事務所も縁故だらけになった。それこそ岩崎良美あたりからか。もちろん当時は、本人にしても恥ずかしいことだと自覚されており、彼女の場合、わざわざ事務所も別のところにしている。しかし、その後は恥ずかしげもなく、よくもまあ次々と弟だの、妹だの、息子だの、娘だのが次々出てくるものだ、と思う。正義を気取る評論家ですら、その娘は、いまやテレビ局の縁故採用だらけだ。それでも、予算が減るわけでなし、番組が無くなるわけでなし、むしろ有名人を回してもらって、その抱き合わせで使う方がふつうになった。雑誌や新聞や大学も同じだ。実際、その方が売れたし。

 結果、いまやテレビはガキばっかり。雑誌は有名人のやっつけ仕事ばっかり。新聞は記者の友人ばっかり。大学は派閥系列の子分筋ばっかり。クラシック音楽の業界では、以前から家元制みたいになっていて、XX先生に師事、なんていうのが、無理やりチケットをさばく手段になっていたが、その他の分野まで、もうそんなのだらけ。先生がだれだろうと、事務所がどこだろうと、つまんないのはつまんないよ。

 事務所やプロデューサーがスカウト業務を放棄してしまったうえに、シロウトの方がネットその他の情報で目利きになってしまった。自分もそうだ。テレビや雑誌に教えてもらわなくても、世界中からおもしろいもの、才能のある人を自分で見つけてこられる。テレビや雑誌に出ている話など、そのディレクターや編集者の「有名」なシロウトのお友だちの話で、自分には関係がないし、興味もない。これじゃ、テレビや雑誌がダメになるのも当たり前だ。でも、スポンサーの広告部もお友だちだから、まだしばらくは安泰だね。政治までお友だち内閣だっていうんだから、仕方ないな。

 有名でも、無名でもいいし、若くても、年配でもいい。演歌でも、クラシックでもいい。人気があろうと、なかろうと、ほんとうに感動できる実力派が見たい。才能のないバカが自分の名前を連呼して売り込みをしているだけのテレビや雑誌はいらない。でも、いまさら、べつに日本のテレビや雑誌に変わってもらわなくてもいい。自分で自分の好きなものを探すから。

ニュースも直販時代

 新聞社の印刷工場も暇らしい。設備投資しすぎだよ。いったいどれだけ紙の新聞が売れると思ったのだろうか。それで、最近は、自分のところの新聞以外も引き受けているそうだが、それだって売れるわけがない。

 テレビ雑誌は買うが、新聞は買わんなぁ。特売チラシだけほしい。ニュースなら、ネットで十分。それも新聞社のサイトなんか絶対に行かない。AP、ロイター、AFP、CNN、せいぜい時事と共同。新聞は、自分で取材もせずに、机上でそれらの記事を足したりひいたりしているだけの場合が多い。まして、政治ネタになると、ちかごろの新聞は、ライブドア・ニュースなみの釣り見出し。内容までまるっきりのガセで、確信犯的に世論をミスリードしようとする。なんでそんなの、カネを払ってまで、つきあわなければならんのだ?

 以前、論説委員の給与を聞いて驚いたが、そんなのがごちゃまんと本社にいる。いや、取材と称して、出勤もあまりしなくていいらしい。会議以外は、出勤してもすることもないしね。それで、家でネットでも見ながら、適当に社説の草稿とか、犬声塵語だかを書き散らして、メール送信するだけ。高い月給が保証されている以外は、やっていることは2ちゃんねらーと同じだ。それもあまりに論説委員の人数が多いから、月に1回、書くか書かないかだとか。さすが、そこがネット中毒の2ちゃんねらーとは違う。それにしても、原稿用紙の単価からすれば、400字数十万円。すばらしい。一流作家以上だ。しかし、最近は、さすがに新聞社も論説委員だらけなものだから、地方のテレビ局に天下って、テレビは見ずに新聞読んでお茶飲んで温泉三昧、ゴルフ三昧というのもある。なんにしても、幸せな毎日、幸せな一生だ。

 新聞も、大学やテレビ局と同じで、箱だの紙だの電波だのにカネをかけすぎだ。現業部門に対し、一般企業同様に、ピラミッド型の管理部門が乗っている。それどころか、いまや薄い2階建てのプレハブの現場小屋のうえに、30階の管理棟ビルがそびえ建っているようなもの。下は日当たり悪いし、上からの騒音はすごいし、記事を上げても、かってに書き換えられるし、もう、やってられない、というのが本音だろう。まして配達販売営業する店舗の方はたまらない。本社から毎日、大量の腐った牛乳がガラス瓶で届けられてくるようなものだ。売ろうにも売れないし、捨てるにも重いし、そのくせ、カネだけは請求される。かといって、転業もままならない。

 ドイツでは、スーパーの店頭で、シXXバンクの偉そうな人が勧誘をさせられていた。ぱりっとした高級スーツをきて、作り笑いして、買い物のおばちゃんたちだの、工場帰りのおっちゃんたちだのにパンフレットを手渡そうとしている。むりだよ。なんで、ふつうのおばちゃんやおっちゃんが、あなたの銀行に口座を作るの。高い金利つけたって、利殖する余裕なんかないって。あなたの給与の10分の1くらいで、みんな生活しているんだよ。でもなぁ、なんとかしないと、銀行、つぶれちゃうものなぁ。たいへんだな。

ヨーロッパの語学を勉強するなら

 こっちへ来てつくづく思うのは、英語を基準とした教育システムでドイツ語やフランス語その他のヨーロッパ系言語を勉強するのはまったくのまちがいだ、ということ。文法の構造が違う。これは、慣用句としての言葉の連結力がやたら強いからで、特定の動詞、特定の形容詞、特定の前置詞は、特定の名詞ににしか着かず、むしろこれら全体で一種の大活用体をなしている。

 たとえば、カッツェ・フリスト(ネコが喰う)かフント・フリスト(イヌが喰う)はあっても、イッヒ・フレッセ(私が喰う)やジー・フレッセン(あなたが喰う)などという活用は、あえて文法的にひねり出した場合でもなければ、通常はありえない。同様に、ツー・ハウゼ(家で)、アン・ディー・シューレ(学校で)、アウフ・デム・バンホーフ(駅で)、等々も、前置詞と名詞の組み合わせが固定固有で、組み換わることはないから、実質的に一語だ。つまり、これらは、名詞に前置詞がついているのではなく、実質的にその名詞そのものの格変化の1つとして位置づけられる。

 SVOなんていう文型も、もともとが英語の発想だ。ヨーロッパ系言語の日常会話のほとんどが、副詞句でできており、そのまま語尾を上げれば疑問文、強めれば命令文。アレス・クラー、カイン・プロブレム、アウフ!、ダリン!、等々。もともと主語も動詞も無い。ムリに書くなら、esのような非人称主語や形式動詞を立てるが、これは文語だ。たとえば、シルブプレ、なんていうのも、これで、一言、一単語なんで、これを、もしそれがあなたを喜ばせるなら、なんていうのは、語原の問題で、文法の問題ではない。ブの部分が、他の単語に置き換わることは、まずありえない。それどころか、もっと長い文全体が完全パッケージの1語の慣用副詞句で、その中の部分が置換されることのないものが相当にある。日常会話はこんなのばっかりだ。

 じつは日本語だってそうだ。たとえば、日曜日はちょっと、というとき、日曜日は主語でも目的語でもないし、ちょっとは、副詞でも間投詞でもあるまい。まして、日曜日が少ない、という意味などではなく、これ全体で、日曜日は都合が悪い、という意味だ。「やむをえない」などというのも、実質1語だろう。

 もちろん英語にも、日常会話では慣用表現は多いのだが、三単現のsくらいしか活用連係が無いことからわかるように、単語間の連結力が著しく弱い。つまり、英語は、ヨーロッパ系言語ではない、と言えるくらい、特殊なローマ字言語だ。そして、このために、SVOを初めとする語順文法が重要になる。

 一方、古代ギリシア語やラテン語、ロマン語等々を引き継いでいる本来のヨーロッパ系言語は、活用連係が強い。これは、動詞が主語によって大きく活用する、などという英語文法的な言い方よりも、動詞が主語の役割も兼ねている、だからもともと主語は不要で、活用した動詞そのものが文の機能を担っている、と言う方がふさわしい。同様に、名詞そのものが格(前置詞による大活用を含め)を持っているので、語順なんかどうでもいい。どこに来ても、それだけで副詞的に文をなすことができる。(フランス語は「文法」上は名詞の格変化がないが、前述のような前置詞との連係が実質的な格変化として機能しており、これがやたら強い。また、動詞の格変化も著しい。)

 いやしかしドイツ語には分離動詞などによる枠構造が、などと言うかも知れない。が、たとえば、mit heim nehmen (持って帰る)なんていう三語の「分離動詞」もあるぞ。こういうのを見ると、これは動詞が分離したりするのではなくて、強力な慣用副詞連係がもともとあって、両者が近づきすぎると、それが直結して書かれてしまう、ということがわかる。フランス語なんか、慣用的な連係語が近づくと、すぐ、もっとべたべたに綴りも発音もつながってしまう。

 つまり、単語や文法、という発想が、根本において英語的だ。ヨーロッパ系言語は、言葉は単独の中立的な単語では使われえず、つねにその大活用的な連係を含んでいる。そして、この連係の背景に、膨大な歴史的文化背景がある。英語が単語と文法で、やたら軽いのは、それが、ゲルマン人やノルマン人、そしてアメリカ移民という外国人たちによる合成的な人工言語だからだろう。そして、こういう人工言語からだと、ヨーロッパ系言語には入り込みにくい。人工言語の構造に似た部分だけ学んでも、それは日常会話からはほど遠いからだ。

 この意味で、語学者が頭で作った語学教材は、あまり訳に立たない。それよりも、実際の慣用文を丸ごと覚えた方が早い。活用だの、語彙だの、慣用文に出てこないものは、日常生活にも必要がない。逆に、日常生活では単語帳に出てこないようなものがあまりに多い。たとえば、ふつうは車を auto だの wagen だの言わない。PKWがLKWだ。やたら綴りが長いので、日本語と同様、短縮語も多い。たとえば、svpとかzzglとかaboとかkloとか。こっちの人たちですら、語源がわからなくなってしまっているものも少なくない。

 というわけで、語学教材よりも有効なのが、お笑いだ。スケッチ、シネコミクと呼ばれるショートコント。テレビでいっぱいやっている。いろいろなシチュエイションで、なまっている田舎者だの、都会の慇懃無礼な銀行員だの、コントだと、その口調や抑揚までマネしてくれている。その慣用句による建前と、実際の本音との使い分けも教えてくれる。こういうのは、1シーズンDVD4枚組み500分くらいで、18オイロもしない。amazon.deやamason.fr、E-bayなどでかんたんに買える。ドイツ語ならAnke Engelkeの『Ladykracher』全4シーズン、フランス語なら『Caméra Café』全3シーズン(DVDボックスセットで全12枚)あたりがお勧め。

アメリカのニュー・ジャンク・ストック

 リーマン・ショックで、AXXが傾いた。サブプライムを喰らった、という。しかし、内情からすれば、FRB議長が激怒するのも当然だ。この会社、保険名目でカネを集め、裏でヘッジ博打をやっていた。保険なんだから、個々の加入者より、さらに安定性が生まれる運用をするのが当然のモラルだったはずだ。加入者は、運用益で利殖をしようと思って保険に入ったわけではないし、実際、運用益が出たところで、加入者には配当されえない。つまり、最初から加入者は損出リスクだけを負わされていたというわけだ。GMもどうしようもないが、あれはまだ自動車を作って傾いたわけで、経営者がたんに無能だった、というだけの話だが、AXXの方は、もうほとんど最初から詐欺だろう。

 もうひとつでかくて、そのうえどうしようもないのが、CiXX。遠からず株価も1ドルを割り込むだろう。このグループ、銀行、といっても、大企業相手ではなく、個人の金持ちに多重的に金融商品を売りつけるクロスセリングの先駆けとして、この数十年で急成長した。しかし、金持ちがそんなに増えたりしないのに、会社が急成長した、ということは、この会社は金持ち以外にまで手を出して金融商品を売りつけた、というわけで、それは要するにサブプライムな階層だ。金持ちより、サブプライムの方がバルクが大きくなっており、そこが崩れたら、こんな大所帯の会社、持つわけがない。そんなことは、最初からわかっていたことだ。

 ビジネス・モデルがどうこう言う以前に、これらの会社は、経済学の初歩からして、ダメダメなことをやってきた。バカというより、確信犯だろう。驚くべきことは、それを監督官庁も止めることができなかった、ということだ。CiXXの場合、その合併は非合法だったのだが、政治的に法律の方を変えて、結果、黙認させてしまった。そこからタガがはずれておかしくなった。しかし、ツケを払わされるのは、納税者、加入者、現従業員。ダーティな経営をした連中は、とっくに高額の退職金というゴールデン・パラシュートを背負って脱出してしまっている。背任で刑事訴追、民事訴訟でもしない限り、どうにもならない。どのみち後の祭りだ。

 身近で心配なのが、日本の大学。これも、もともとあきらかにビジネス・モデルとして破綻している。人口が減るのをわかっていて、どこも大学を拡張し続けてきた。大学というより、どこもまるで建設デベロッパーのようだった。キャンパスを広げ、研究施設を建てまくり、支払いはその後の三〇年。それも、学生が同率に増え続ける前提での返済だ。そんなことできるわけがなかろう。その一方、教員は、そんなに質の良いのが大量にいるわけがないから、そこらから適当に全学連縁故でかき集めてきた団塊世代の有象無象。それこそむしろ学生が呼べる品揃えではあるまい。本来ならむしろまったく逆に、環境変化への対応の障害となるストック(施設)の水ぶくれを早く切り詰め、学生を呼べる気鋭の教員たちをカネをかけて集め、柔軟なフロー体質、コンテンツ優先体質にすべきだったはずだ。

 そろそろあちこちの大学がほころびてきているが、これもやはり団塊世代の責任者たちは、すでにゴールデン・パラシュートで満額の退職金とともに定年退職。ツケは、在学生と中堅現教職員、地元自治体や周辺住民に回る。学生町なんて、大学がなくなって学生がいなくなれば、空室だらけのゴーストタウンだ。そうでなくても、大学が学生を集められなくなれば、ゴーストタウンだが。しかし、企業とちがって、理事会ないし教授会が過去の理事や学長、学部長に対し個別に経営責任を問い、損害賠償をできる法律もない。だいいち理事会なんて、学問の自立とか言って、法的にも、政治的にもアンタッチャブルの治外法権だ。そもそも、こんなモラリティのないことを教育者たる大学人がする、などということは、法律的に、まったくの想定外だったのだろう。しかし、大学人ったって、その偉いひとたちは、べつに研究者でも教育者でもない、むしろたんなる世襲か学内政治屋というのが一般的な実情のようだからねぇ。

 公的トップの犯罪的政治運営、ということに関して、近代は名誉革命とフランス大革命以後、議会制や三権分立などの制御装置を発明してきた。しかし、政府に代わって自由に活動するようになった戦後の私的な企業や団体となると、近代以前の封建支配が当たり前。株主総会や理事会など、ほとんど制御装置としては機能しなかった。そして、その私的な企業が団体が巨大化したとき、国家も傾けるほどの損害を出す。それが、あちこちの企業や団体で暴走し、自滅的に破綻してきている。それがわかってきたから、組織の中はもちろん、社会においても、まったく求心力がなくなっていた。株価が上がらない、学生が集まらない、というのがそれだ。

 しかし、こうなると、沈没寸前の船のように、お殿様や城代家老さんたちはさらに内弁慶になって組織の内部に当たり散らし、内情は悪化する。そして、それが外部に漏れ伝わって、さらにさらに内外の求心力が低下する。いったんこのスパイラルにはまると、どこの会社も、どこの組織も、救いがたいところまで、ずるずると事態は悪化していく。そして、そのころには責任者はみんなカネを持ち逃げしている。昔みたいに、落城したら、殿からまず切腹、というのが筋だと思うが。しかし、そんな道義心があるくらいなら、こんなことにはなっていないか。それだから、また最初から人望も求心力もないんだけどね。

天気がいいと歩きたい

モンバッハレアル

 久しぶりに天気がよくなった。気温も8度くらい。通りを見れば、人々がうらうらと街に出てきている。ここのところ家で仕事ばかりしているので、肩がこる。まあ、夜に急に冷え込むせいもあるのだが。なんにしても、これでは健康によくない。というわけで、自分も散歩に。

 新市街へ出て、関税港へ。そこから川沿いに北上。さらに北駅を越えて、その向こうへ。このへんは工業地区なので、あまり来たことがない。せいぜい車で走り抜けたくらいか。有名なガラスのショットや洗剤のフロッシュ、食品のネスレの工場などがある。このあたりに火力発電所を作るとか作らないとかでもめているが、実際、これだけ工場があるなら、電気も必要だろう。

 それにしても、こんなところ、歩いてくるものじゃない。横断歩道もないし、店も大型家具店くらいだ。それでもどんどん歩いて言ったら、モンバッハのレアルがあった。こんなところ、ほとんどマインツのへりっちょだ。それにもう夕方。あらら。

 しかし、せっかく来たので、レアルで買い物。それにしても、レアルはどこも大きい。無いものはない、と豪語するだけあって、大きい。実際、日本の大型スーパーくらいの建物が5つ直結された構造になっている。中を歩くだけで疲れる。マギーやクノールなどの粉スープの棚だけで百メートルある。

 外へ出たら、もう月が出ている。帰りは、バスに乗ることにした。こういうとき、バス路線を熟知していると便利だ。でも、乗ったら、あっという間にマインツ駅に着いた。あんなに歩いて遠かったのになぁ。


 

携帯電話の効用

 空港でアジア系の人を見かけて、日本人かどうか判断する方法。携帯を持っていないのが、中国人。大声で短い電話をあちこちにかけているのが、台湾人。小声で延々と電話をし続けているのが日本人。

 それにしても、よくまあ海外まできて、日本へ国際電話をかけ続けるものだと思う。安くはないのだろうし。せっかく目の前に世界が広がっているのに、なんで日本に電話しなければならないのだろう。電車などの中でもそうだ。そんなにメールばかり書いていて、メールに何を書くのだろう。いま、わたし、メール、書いてます、とか書くだろうか。

 思うに、あれはたんなる精神の病気だろう。仕事の電話、とか、言っているが、ほんとうに仕事の電話なら、もっと儲かっているし、日本経済も、もっと繁栄しているはずだ。これだけダメになっていく、ということは、携帯電話が、ほとんどビジネスに役立っていない、ということの証明だろう。

 実際、日本だと、携帯電話のせいで、やたらアポの変更を強いられる。もちろん連絡なしにすっぽかされるのは論外だが、電話をかければ、そんなに気軽に約束を変更していいのか。そりゃ、あんたはいいだろうが、こっちになんのメリットもない。いいわけされて、遅れると言われれば、ああ、そうですか、としか言いようがない。そういう約束のでたらめな変更のためだけに日本では携帯が使われているわけで、結果としては、時間にでたらめなイタリアの生産性と同じところまで落ちた、というわけだ。

 それにしても、日本は通信料が高いと思う。いいかげんアンテナも立て終わったしあとはせいぜい保守点検だけで、設備投資もなにもないはずだ。中途半端にカネがあまっているから、やたら次から次へ入りもしない機能をつけて売り込もうとするが、そんなの使わんだろ。いまどき携帯でゲームやっているバカなんて、中学生くらいだ。どうせごちゃごちゃつけるなら、いっそ出張携帯とか言って、携帯にヒゲソリとか、電動歯ブラシとか、つけてみたらどうだ。ビクトリノックスやウェンガーのブランドで、キャンプ携帯とか、キッチン携帯とかもいいぞ。その方が、電話よりずっと必要だ。

EU経済圏と英国の没落

 英国の没落が著しい。いまやEUにとって、英国はやっかいものでしかない。実質的な経済力としては、もはやチェコ以下だ。にもかかわらず、ポンド・ブロックで、EUの自由経済の理念には協力せず、そのくせ、入るとか、入らないとか、言を左右にしている。本音からすれば、もはやフランスやドイツからすれば、まったくいらない。入ってもらう必要もない。そんな余裕があれば、中欧や東欧を支援して組み込みたい、というところだ。

 これまで、英国は、ドルの代替通貨ポンドの国として、金融のみによって存在してきたようなものだ。しかし、すでにユーロがその地位を抜き、ジュネーヴやリヒテンシュタイン、ルクセンブルクがユーロの待避港として機能している。ロンドン・ポンドを使う理由がまったくない。だから、ポンドの下落は、ユーロの比ではない。円ベースで下がったユーロ比でさえ、さらに2割も下がった。

 にもかかわらず、大陸側で英国製のものはまったく見かけない。自動車はもちろん、食料品、日用品まで。日本でもそうだろう。あの国から買うものがまったくないのだ。工業製品ならチェコの方がはるかに品質がいい。ブランド品なら、フランス、イタリア、スペインの方がデザイン的にもあか抜けている。安物なら、中国やインドネシアから入ってくる。この意味で、もはやヨーロッパに英国が存在する余地がない。

 なんでこんなところまで追い込まれてしまったのか。一番の問題は、サッチャー政権以後の、経済政策の原理的な失敗だろう。国有化とブロック化でわずかに経済再建を実現したが、それは、実際の所、かつてのナチスがやった手だ。それの行き着くところは、超長期では経済的孤立と政治的対立だ。そして、いまさら英国をフランスやドイツが救済する義理もないし、だいいちあの高飛車では話にならない。せいぜい遠く中国とでも連係するしかないだろう。

 アメリカはバラク政権の下で住宅を中心とする生活ニューディールを行うらしい。あれだけガタが来ていても、未来の夢はあるから、移入人口があるのだろうし、それだからこそ、未来投資の再建方法が採れるのだろう。だが、英国や日本にはそれがない。人口は減る一方。それどころか、これからは有能な人材がどんどん海外に逃避して、残るのは、海外に莫大な隠し資産を持つ大金持ちか、荒れた自暴自棄の人々だけになってしまうだろう。それは、中南米の国々がたどった戦後の歴史と同じだ。そんなところでは、企業でも政府でも縮小均衡策を採るしかあるまい。しかし、そうなれば逆スパイラルで、加速度的に経済は悪化する。最後はインフレで国家破綻。

 しかし、それも、かつて古代ギリシアや古代ローマが経験したことだ。国家はプライドでは成り立たない。国際経済は商人の領域で、諸外国に頭を下げてナンボのものではないか。それができない横柄な政治家たちを抱えていれば、やがて孤立するのは当然だ。

オペル分離救済案

GM恐竜

 オペルは、シュトゥットガルトのメルツェデス、ミュンヘンのBMWに比して、国際的にはぱっとしない会社だが、ヨーロッパの大衆車としては、かつてのカデット以来、かなりのシェアを持つ。そして、フランクフルト・ウィスバーデン・マインツは、じつは、そのオペルの城下町だ。巨大なオペル工場を中心に、各地に自動車関連の産業がある。直接の従業員だけでも3万人、関連産業、そしてその家族、その生活を支える地元産業まで含めると、百万人近くになる、この地域の基幹会社だ。フランクフルトの新動物園まで、オペルのスポンサータイトル付きになっている。

 とはいえ、オペルは、1931年から早々と100%のGMの子会社になってしまってきた。GMとしては、大衆車オペルをワールドカー構想の中核に据え、実際、戦後のモータリゼイションとともに、この構想は大いに成功した。

 しかしいま、オペルが危機に瀕している。GMはもうダメだろう。崖から落ちる時代錯誤な恐竜を、非力な大衆車が救うのはムリだ。そこで出てきたのが、オペルの再買収案。GMとの関係を断ち切った方が、むしろオペルは存続できる可能性がある。

 ドイツでは、この案は支持されている。ほんとうは第二次世界大戦前に、ナチス・ドイツがオペルをGMからいったん分離したのだが、敗戦後、すぐに再び接収されてしまった。だから、そもそも今日までオペルがGMの傘下にあったこと自体が、実質的には敗戦賠償を延々と払わされてきたようなものだ、という強い不満が背景にある。マツダなどと違って、べつにGMによって資本投資されたわけでもなく、ただGMに搾取され続けてきただけだったからだ。だから、この自動車危機は、ある意味では、意外に歓迎だったりする。

 日本ではいまだに野球をやっているらしい。バカじゃなかろうか。あんなの、新聞社が結果速報で騒いで販売部数を伸ばすために始め、戦後はGHQに媚びて取り入り、新聞社、そしてNHKとNTVが、国民の人気とは関係なく、むりやりブームに仕立ててきたもので、もともとルールからして民主主義的なゲームでもないし、国民一般の体力向上とも関係がない。大リーグの中継だって、ハイビジョン絡みの裏があるし。プロレスや芸能界などより、はるかに政治的でダーディな業界だ。

 まあ、精神的に自立できないから、米国にいいように利用され続けるのだろう。自分自身で野球をやりたいやつがいるのはわかるが、自分で野球をやりもせず、ただテレビで見て騒いでいる連中は、南北戦争以前の黒人奴隷以下だが、そんなことに気づかないからこそ、そうなのだろう。野球が好きなら、テレビを消して、外へ出て、自分でやれよ。どうでもいい話題で騒がれると、うるさくて迷惑なんだよ。

 それにしても、まともに世論醸成機関として機能しているヨーロッパのマスコミと較べると、日本の新聞やテレビの愚民報道にはあきれてものも言えない。やたら政治に対立的なのもどうかとは思うが、現状は百年前のハーストのイェロー・ジャーナリズムに退化していっている。オペルのように子会社であっても、実体があれば救済もできるが、日本の新聞やテレビのように、中身が空洞化していってしまっているのでは、それらはいつか泡とはじけるだろう。
 

麻薬と乞食と治安のこと

 日本で麻薬ジャンキーなんていうのはテレビの中の話だが、ドイツでは珍しくもない。いや、落ち着いた住宅都市のマインツではそんなのはまず見かけないが、ハンブルクやケルン、ベルリン、フランクフルトのような大都会ではそうではない。

 先日もフランクフルトの電車に乗ったら、ジャンキーだ。最初はカゼをひいて熱があって苦しいのかと思った。床をのたうちまわっている。目つきはうつろで、よだれがだらだら。麻薬なんて、どう見ても気持ちよさそうには見えんな。まともな乗客は逃げ回っている。しかし、ドイツの列車は、連結部分が遮断されていて、いったんホームに降りないと、隣の車両に移れない。以来、できるだけ先頭車両に乗ることにした。ここなら運転手がいるから、なにかあったら運転席のドアを叩けばいい。

 ベルリンなども、地下道など、昔はジャンキーのたまり場だったが、だいぶよくなったようだ。ハンブルクは港町なので、昔からどうしようもない。コペンハーゲンとかアムステルダムもひどい。エレベーターの中とかに注射器がよく落ちている。ケルンも、以前は地元住民の商業都市だったのだが、オランダの没落のせいで、近年、とみに荒れてきてしまった。フランクフルトはあいかわらずだが、むしろトルコ系移民が住み着いた地区は落ち着いてきている。宗教的な縛りがある方がまともだ。それでも、駅の近くではいまでも注射器を公的に配っている。使い回しによる感染症の流行がひどいらしい。

 フランクフルトの電車は、そんなこんなでちょっと恐い。シュタットバーン(近郊列車)って言っても、フランクフルト市内では、実質的には地下鉄だし。ホームを閉鎖して警察犬が走り回っていたこともある。もっと驚いたのは、列車に乗ったら、電車の床が血だらけだったとき。さすがにこれには事件慣れしたフランクフルトの市民も、ドアが開いて乗り込むときに、びびっていた。それでも、事件が終わっているなら、みんな平気でその車両に乗るけどね。

 マインツは事件はないが、乞食はいる。もしかすると、フランクフルトのような大都市より多いかもしれない。近年はいいかげんな即席乞食も多いが、まともな乞食も少なくない。それぞれ場所が決まっていて、犬をつれているのが定番。もっときちんとしている乞食は、石畳に正座。金物のコップは、床に置かず、両手で持って宙に浮かす。寝ていない証拠だ。コップが金物なのは、小銭が投げ入れられたときに、音でわかるように。顔は上げず、ずっと行き交う人々の足下を見ている。そして、小銭が入ったときだけ、その音を聞いて、黙って頭を下げる。入れてくれた人の顔は見ない。それは神がくださったものだから。そして、それ以外は、まったく動かない。いつ来て、いつ帰るのかしらないが、すごい。

 乞食というのは、本来は日本の托鉢僧に似て、もともと聖別された存在だ。なにもしない。まったく動かない。それがすごい。ものみの塔についてあれこれ言う人もいるが、私は彼らを尊敬している。映画の『ジョン・ブック 目撃者』にアーミッシュが出てくるが、あれもそうだ。善も、悪も、神の御業であるこの世界を見ること。人が見ている、神に代わって見ている、というほど、人を引き締めるものはないのだろう。監視カメラよりはるかに意味がある。

 そう、乞食がいるところは治安がいい。そもそも治安がよくない、悪ガキやジャンキーだらけのところでは乞食は成り立たないだろう。彼らは、老婆や障害者などの弱者だから、連中に絡まれたらひとたまりもない。だが逆に、乞食がいるところでは、彼らが黙ってじっと見ているので、だれも悪いことはできない。悪い連中からしても、乞食が見ているところは、居心地が悪い。

 それを知っているから、人々は乞食に喜捨する。喜捨というのは、彼らへの哀れみではなく、彼らへの、そして神への感謝だ。地下道のカナリアのように、絶対的な弱者が無事にその自分の仕事ををできている街は、我々にも安心を与えてくれる。

登場人物の重みについて

 登場人物の描き方については、大いに関心がある。黒澤の映画の人物がおそろく薄っぺらなのは、彼が人間に関心がなかった、もしくは、彼のインテリ・コンプレックスだろう。

 伊丹十三も、強いインテリ・コンプレックスの持ち主だが、大江健三郎なんかより人間にリアリティがある。ひどく戯画化されているのに、その戯画化のされ方が生々しい。一方、たとえば黒澤の『生きる』の渡辺勘治は、だれにでも共感できそうなリアリティのある息子とのエピソードがあるにもかかわらず、中世演劇のエブリマンと同様、かえってだれでもなくなってしまい、存在の重みが欠けてしまった。そのうえ、『イワン・イリイチ』だの、『ファウスト』だの、あちこちから引用をするのだが、いくら外側を重武装しても、人物像としての中身の無さは、補いえない。

 他方、同じように、『ファウスト』を好んだ、ホンモノのインテリの手塚治虫は余裕だ。手塚は、なんども『ファウスト』を作品化しているが、中でも『火の鳥・鳳凰編』が出色だろう。『ファウスト』という作品の表面ではなく、『きつねのライネッケ』を書くような生の不条理を問うゲーテをよく知っていればこそ、主人公の茜丸の変節は、まさにゲーテの『ファウスト』以上にファウストらしい作品になっている。

 ルカーチは、物語を、叙事詩(エポス)、ロマン、娯楽読物(ミステリーやライトノヴェル)の3つに分けている。ロマン、というのは、日本ではわかりにくいが、ヨーロッパには、いまでも多くある。600ページ以上の大河歴史小説だ。これは、ノヴェルではない。ノヴェルというのは、ロマンではない、新しいもの、という意味で、ロマンの方が形式的に古い。日本で言えば、ロマンは、山岡荘八とか司馬遼太郎とかが書くようなものを意味する。

 ルカーチによれば、叙事詩は、神々の物語であり、始めも終わりもない世界に安んじている。ギリシア時代のもののほか、『ニーベルンゲンの歌』などが典型だ。一方、『ドン・キホーテ』以降のロマンにおいては、主人公が自分の居場所としての故郷を追われてしまっており、たゆまぬ遍歴を強いられる。この意味で、映画の『タクシー・ドライヴァー』なども、一種のロマンだろう。

 そして、問題は、娯楽読物で、まったくの無意味だ。この無意味、というのは、ニーチェ的な意味の無意味であり、海岸に打ち寄せる波のように、いくつも作られるのだが、なにも残さない。ある意味ではたしかに叙事詩に似ているが、その世界も持たない。だじゃれのような物語。日本では、星新一だの、筒井康隆だのから、おかしくなった。当時も、今も、まともな文学者が彼らの作品をまともに評価しないのは当然のことだろう。しかし、その後の影響たるや膨大で、いまやその類が、文学の大半を占めるに至ってしまった。

 かといって、ハイデッガーのロマン批判は、まったくのアホとしか言いようがない。ニーチェの思想を引き継いで生の一回性を言いながら、『存在と時間』が、結局、どこのだれでもない世人一般の実存の話に堕したことにも、彼がニーチェの存在の重みの意味をまったく理解していなかったことが現れている。ようするに、彼は他人の人間としての存在には、黒澤同様、関心がなかったのだろう。人が世人であったのではなく、彼にとっての他人が、その死を前提としない限り、個性のない世人だった、ということにすぎない。

 一方、キルケゴールやニーチェの言う存在の重みは、ルカーチも気づいたように、自分の世界ではない、それゆえ、自分自身さえもまったく自分のものではないという呪いが科せられている。その呪いは、死を思うよりなにより、生まれた最初から、絶対的に他人とは違う。呪われた唯一無二の孤独であるがゆえに、世人との比較もなにもなく、他人から理解されることもありえず、自分が自分でどうにかしなければならない。つまり、ロマンの登場人物は、そこらによくいるような、だれでも共感できるような人物ではありえないのだ。それどころか、だれからの同情も理解も達しえない。デモーニッシュな狂気と紙一重のところで、自分という理念を内側から打ち立てることのみによって、自分を支えている。それがなければ、その主人公は、世界の大気圧以前に、自分自身があるという存在の重みそのものにつぶされてしまっているだろう。

 ロマンの主人公は、世界内存在ではない。世界は彼をアロンソ・キハーナと呼ぶが、彼自身はドン・キホーテとして、その世界には収まらず、自分の世界でない世界に槍を突き立てる。その存在そのものが槍であるから。だから、世界の中に一時でも座れる場所がない。立ち止まることさえも許されない彷徨をつねに強いられる。しかし、その彷徨の苦役さえも、彼からすれば、いつの日か彼岸に至るための試練であり遍歴であり、なんの苦役にもなりえない。それは、おそらくハイデッガーのような無神論者がもっとも嫌い、その存在を認めまいとしてアウシュビッツに送り込もうとした本来的な人間の存在の様態だろう。

 『マルサの女』でも、マルサの板倉亮子などより、権藤英樹や蜷川喜八郎、パチンコ屋店長の方が重みがあるのは、そこにむしろティパージュ(類型)ではありえない過剰を抱えているからだ。権藤は、あきらかにリチャード三世を意識して人物の内面が構築されている。彼は人に理解されようなどと思っていないし、彼のことをだれかが理解できるなどということも期待していない。彼は自分で存在している。この人物像の重みは、同じ山崎努が黒澤映画の『天国と地獄』で逆に攻める側になった同じ名前の権藤と比較してみるとよくわかる。こっちの権藤は、三船俊郎の出演作の中でももっとも薄っぺらい。現場の叩き上げだの、理想の靴を作りたい、だの、地位より息子だの、わかりやすすぎる。まさに世界内に存在しているが、これでは内側が空っぽだ。

 近年の小説やマンガは、まさにインテリ・コンプレックスの黒澤同様、あちこちから知的なひけらかしのように、容貌もプロットも、ごちゃまんとあちこちからパスティーシュしてくる。どこかで見たような人物、どこかで聞いたようなプロットばかりだ。コミケあたりの素人のオマージュか、ついでのおまけの冗談ならともかく、プロが売り物の主力作品でやることじゃないだろう。そのうえ、この手をやればやるほど、人物はわかりやすくなり、空洞化し、存在感が無くなる。

 一方、プロの小説家も、創造力が欠如しているらしく、死んだ義弟だの、昔の友達だの、実在の人物からのパクリが多すぎる。まして、自分自身の人生からぱくった私小説などというのは、論外だ。実在の人物を掘り下げれば、みんな唯一無二に決まっているし、そこには存在の重みがあるに決まっている。しかし、それなら、その人物そのものを直接に多面的に見た方がおもしろいのであって、小説の文章に押し込めてみたところで、出来の悪いコピー機のようなものだ。

 プロなら、ぺらぺらの白紙の原稿の中に、その原稿用紙を突き破って出てくるような人物を創造し、問題提起すべきだろう。そういう人物は、かのドン・キホーテのように、文章の中には収まらず、その外にまではみ出てくる。さらには、ジャン・ジュネや井上光晴のように、私小説風に綴り語った「自分」まで、まさにそういう異質な重さをもった虚構の人間であるくらいであってこそ、それが物書きだと思う。

灰の水曜(アッシュ・ミットヴォッホ)

ばかぼうし

 今日は、灰の水曜。今日から復活祭へ向けての四旬節が始まる。肉は食べないし、三食のうちの二食は減らすことになっている。それで、肉屋なんかは、昨日はやって、今日は休みというところもある。

 そうでなくても、なんとなくぱっとしない。ひさしぶりに、天気はいい。まさにファスナハトとともに冬が去って、春が来た、という感じだ。しかし、祭りが終わってしまった、さあ、働かなければ、というだけでも気が重い。

 実際、さっそくいくつもの仕事のメールがくる。おもしろそうだったのが、西部劇の世界的な広がりの研究プロジェクトをやらんか、というもの。日本の時代劇がなんで西部劇になるのか、とか、調べてほしい、というから、黒澤なんか、もともと時代劇じゃなくて、あれは西部劇だ、と、返事を書いた。時代劇、というのは、侍の義理と人情の葛藤があって成り立つんで、黒澤のは、もともとドライなコンゲームで、義理もなければ、人情もない。大げさな新劇のように、やたらよたよた天を仰いで歩くが、まるでヒモでつるされている人形劇で、生身の人間の人生の重みがない。たぶん黒澤という人自身が、他人に対する人間的な共感を欠いていたのだろう。いっそ、深作の『仁義なき戦い』の方が、容易に死ねず、泥をすすってでも生きざるをえない人間の悲哀があり、古い時代劇に通じるものがあるように思う。

 西部劇は、アメリカだけでなく、知っての通り、イタリアやドイツでも大量に作られている。日本でも、日活で、和製ウェスタンがいくつも作られた。国籍不明の藤村バンサ有弘とか出てきて、ヒーローがじつは刑事だったりして、ギャングを相手に拳銃をバンバン撃って、なぜか馬に乗って去っていく、というような、わけのわからんものだが、ノリがよくて、すっとんきょうにおもしろい。ルパン三世なんか、そのころの亜流で、当時はそんな映画はいっぱいあった。コンゲームのくせに説教くさい黒澤より、こういう脳天気な国産バカ映画を世界にも紹介したいものだ。
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純丘 曜彰
すみおか てるあき 

美術博士(東京藝術大学/美学)、文学修士(東京大学/哲学)、東海大学准教授、ドイツ・ヨハンネス=グーテンベルク(マインツ)大学客員教授を経て、現在、大阪芸術大学教授。専門は哲学、メディア文化論。

東京生まれ。東京大学教養学部1組(横断インタークラス)、同文学部哲学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻修了。テレビ朝日報道局報道制作部ブレーンとして『朝まで生テレビ!』を手がけ、現職に至る。

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