美術博士 純丘曜彰教授のドイツ大学講義日誌

マインツ大学 メディア学部 映画学科 客員教授

今日がほんとうのファスナハト

カッペンツーク

 今日は火曜。じつは、今日こそがほんとうのファスナハトの祭日。だから、街中が休み。まあ、クリスマスと同じで、休みの祭日の前の日の方がお祭りになってしまったというわけ。朝になって奇声を挙げながら帰って行く仮装連中も少なくない。

 しかし、清掃関係は、朝から総出。とにかくとんでもないゴミの量だ。そのうえ、路上は一面のガラスの破片。これじゃ、車も走れたものではない。回転ブラシのついた吸引掃除車が隅々まで走り回っているが、生け垣だの、植え込みだのの中まで、食い散らかしや割れた瓶が入り込んでしまっている。

 こうして、よその連中が帰って、ゴミもなんとか片付いたところで、じつはまだ終わらない。15時11分から、カッペン・ファールト(帽子組のお通り)だ。昨日のローゼン・モンタークでは、結社の幹部たちは、広場の中心の雛壇に並んで座って、各結社の行進と挨拶を交わさなければならなかった。今日は、その幹部たちがオープンカーで、街の人々に、お騒がせしました、と、御礼回りをする。

 だから、マインツの地元の市民たちは、今日の方が楽しい。昨日と違って、田舎の悪ガキたちもいないから、お年寄りや小さな子供を連れた家族も出てきて、路上に並ぶ。そこを低いオープンカーで、各結社の幹部たちが、昨日と同様、御菓子を投げていく。いや、投げるというより、同じ高さで、ゆっくりなので、ほとんど手渡しだ。だから、子供でも受け取れる。

 車が60台くらい。ツークが長さ7キロ、5時間かかるのに、カッペン・ファールトは、せいぜい30分で通過。ところが、驚くなかれ、幹部はやはり太っ腹。どかっと投げるし、ばんばん手渡しでくれるから、わずかその30分で、昨日と同じくらい、大袋いっぱいの御菓子その他がもらえてしまった。

 スポンサーは、ベンツやポルシェ、ヒュンダイなど、自動車会社が多い。とくに宣伝をするわけでもないところが、えらい。だが、効果ははっきりしている。ドイツでは、オペルには同情的だ。一方、高給取りでカネを貯め込んで、それをアメリカのサブプライムですったくせに、政府救済を求める銀行は、山車でもけちょんけちょんにけなされている。日本じゃ、地球を救おう、なって言ってるチャリティイベントですら、マスコミがあれこれカネを巻き上げているが、それこそ頭がおかしいじゃないかと思う。

 どこのスポンサーも、もう来年は、こんなことはできないだろう。だが、蕩尽とはそんなものだ。日本は貯蓄率が高いというが、みんなで溜め込めば、いずれ通貨価値が下がって、ただの紙切れになる。金儲けをたくらんで、人に貸して貸し倒れるくらいなら、自分でみんなにばらまいて、みんなに喜ばれ、みんなで楽しく過ごす方がどれだけ意味があることか。

 人は、生きている。なにかが終わってっても、生きているかぎり、恩も恨みも忘れない。良くしてくれた人、なにもしてくれなかった人、ばれないと思って裏で自分に嫌がらせをした人、そういうことは、やがてわかる。そして、それこそ時間とともに利息が付いて、恩も恨みもふくれあがる。だから、ムリに溜め込んでムダにするより、余裕があるときには、パっと人のために使って、みんなに分け与えてしまう。知恵というのは、そういうことを理解できることだと思う。

さあ、ローゼン・モンタークのパレードだ!

ローゼンモンターク1

 今日がファスナハト最大の山場、ローゼン・モンターク(薔薇の月曜)。1時間以上前から場所取りをしないといけない。とにかく、どんどん、どんどん人が集まってくる。住民20万人の中都市なのに、出る人だけでも1万人、観客は50万人。それもケルンよりもはるかに狭い中心部に集中する。熱気だけでもものすごい。

ローゼンモンターク2

 よく知っている人は、いいポイントを知っている。大きな袋を持っている人が多いところが、いいポイントだ。なにがいいって、これがファスナハトだから。春の到来を祝って、冬の備蓄をすべて蕩尽する。昨年のものを溜め込んでいるようなやつは、今年の春は迎えられない。というわけで、騎馬や楽団に続いて、各団体は巨大な山車の上から、御菓子その他をばら撒きまくる。その時のかけ声が、「へらう!」。投げてもらう方も、こっちへ投げてもらおうと、大声で叫ぶ、「へらう!」

ローゼンモンターク3

 古いカーニヴァルだと、冬鬼たちが通りの人々にいたずら(雪をかける、袋詰めにする、空に放り上げる、等々)をしていくのだが、マインツのファスナハトは、頭の上から、ポップコーンだの、アメ玉だの、ワッフルだのが、数限りなく降ってくる。ときには板チョコが飛んできたり、おもちゃがあったり、パンやペットボトルも投げられる。みんなで両手を挙げて掴み取るのだが、みんなが取り損ねて落ちたのを拾った方が早い。なんにしても、見ている間、食べ物には困らない。というか、見ている間もなく、次々と掴まないといけない。まさにみんなでバカ騒ぎ。

ローゼンモンターク4

 どれくらいの量になるか、というと、大きな買い物袋いっぱい。宅急便の段ボールひとつ分くらいだ。最後までいれば、もっと多いかもしれない。が、後の方がだんだん荒れてくる。騒ぎが目的の、近隣の田舎町の悪ガキどもが集まってくるからだ。ガキのくせして、スピリッツの小瓶や、イェーガ−マイスターの中瓶の一気飲みとかやっている。(イェーガ−マイスターというのは、養命酒のような薬草酒で、毎度、お笑いネタになるような、まさに田舎者の象徴。)

ローゼンモンターク5

 タチが悪いのが、連中は、酒を飲み終わると、ガラス瓶を石の路上に投げつけてたたき割る。もっとも、これは、ほんとうはファスナハトの古き良き時代の伝統なのだが、50万人が押し合いへし合いしているところでやることではあるまい。だから、業者の方も、近頃は、スピリッツの小瓶も、ビールの中瓶も、みんなペットボトルにしてしまったのだが、悪ガキどもは、わざわざガラス瓶の酒を田舎の地元で買って持ってくる。どれくらいすごいか、というと、明日の朝には、路面すべてがガラスの破片で埋め尽くされるくらい。危なくて仕方ない。パレードの方は、16時過ぎまでやっているのだが、それ以後は、この小鬼たちの時間だ。なので、その前に退散。連中のバカ騒ぎは、明日の朝まで終わらない。

踊るルー通り

ルーダンス

 今日は日曜。朝11時11分に、MCVの制服組の騎馬行進と楽団に続いて、トーマス・ネーガーほかの音頭取りによる路上ダンス大会。午後には、明日のツークの山車も入ってきて、先行展示。

 とはいえ、日曜だから店はみんな閉まっている。それどころか、明日のバカ騒ぎに備えて、ガラスに分厚い合板を張ってガードしている。うらうらと多くの人が出てきてはいるが、どことなく嵐の前、という感じが漂っている。

子供仮装行進(ユーゲント・マスケン・ツーク)

ユーゲントツーク

 ケルンとマインツは、ほぼ同日程だが、その他の都市は、バッティングを避けて日程をずらしている。本当は最初の木曜が「女のファスナハト」で、その他の都市ではファスナハトのどこかで女性だけのパーティや路上ダンスをやったりする。マインツの場合、これは事実上、無くなってしまっている。

 一方、今日のユーゲント・マスケン・ツークは、すごい。子供の行進、と侮れない。というのも、来週の月曜のツークが本格的な結社団員だけによるものであるのに対して、土曜のは、実質的に、さまざまな子供団体の父母会がやっているからだ。つまり、学校単位はともかく、それ以外は、子供の行進、というより、子供を連れた家族の行進で、幼稚園から小学校、スポーツ団体、地域団体まで、ごちゃごちゃと出てくる。そのうえ、結社の連中も、当然、家族持ちが多いから、小さな子供まで完全な制服で盛装して出てくる。

 その数、60。やはり11時11分に始まるのだが、なかなか広場まで来やしない。なにしろ学校関係は1団体のやたら人数が多いし、歩くのが精一杯の小さな子供たちの幼稚園団体もある。途中で歩き疲れたとか、一人二人、どこかへ歩いていなくなってしまったとか、いろいろあるのだろう。うまい団体は、子供たちをドラゴンの仮装ということにして、一列につないでしまっていたりして。これだと安心だ。

 見に来ているのは、一般の人々も多いが、当然、応援に熱心なのが、ツークに出ている子供の親兄弟やおじいちゃん、おばあちゃん。もうカメラやビデオでたいへん。日本の運動会や学芸会と同じだ。そのうえ、マインツのは、テレビで全国に生中継。出る方も、準備の気合いが違う。

ファスナハト結社とハレ・ジッツンク

 で、昨日から始まったファスナハトだが、今日は街へ行っても、まったくふつう。仮装している人なんか、いやしない。今日、仮装していると、ほんとのバカに見えるだろう。だいいち、今日、出てきたって、屋台も、遊具も、セッティングは終わっているが、まだやっていない。

 クリマ(クリスマス・マーケット)の方は、ちかごろ観光客にも人気だが、ファスナハトは、1週間に渡る行事なので、外国人、それどころか街の外のドイツ人にさえ日程がわかりにくい。

 前にも書いたように、ファスナハトは、古い冬鬼払いのカーニヴァルから派生したもので、プロシアではなくフランスを支持した西ドイツ・ライン河流域のケルン・デュッセルドルフとマインツ、その他の大都市でナポレオン戦争後に誕生した。だから、プロシアそのものであるベルリンや、日よったバイエルンのミュンヘンではやらない。ファスナハトの特徴は、村一団のカーニヴァルと違って、革命メイソンリーの流れをくむ多くの軍隊式フェライン(結社)が中心となることで、これらが昼間のシュトラーセ・ツーク(通りの行進)と夜のハレ・ジッツンク(ホールの会合)を繰り広げる。

 ファスナハトが最初に始まったのはケルンだが、マインツは二〇万人都市にもかかわらず、百万人都市のケルンより盛大なファスナハトを祝う。こんなことができるのも、都会化してしまったケルンより、マインツは周辺町まで含めて地元フェラインが強力だからだ。全部で、およそ七〇団体がある。もっとも古く大きいのが、1838年結社のMCV(マインツァー・カーニヴァル・フェライン)で、ここが全体を取り仕切っている。これに対抗するのが、普仏戦争後にできた1899年結社のMCC(マインツァー・カーニヴァル・クラブ)で、ここは芸達者なメンバーが多い。そして、同じく普仏戦争後にできた1892年結社の隣町のGCV(ゴンゼンハイマー・カーニヴァル・フェライン)と、対岸の米軍基地周辺で戦後にできた1947結社のKCK(カーニヴァル・クラブ・カステル)が勢力を誇っている。この四大結社のほか、いくつもの新興結社があり、また、街中のさまざまな団体や同好会が独自に結社したり、その他の周辺町もそれぞれの結社を持っている。

 しかし、これらの結社は、ファスナハトを背後で支えているので、そう簡単には表に出てこない。昨日のシュトラーセ(通り)での開会式などは、音頭取りの連中が一般市民を引き込んでいるだけで、夜の20時にはお開きになった。一方、今日は、じつはハレ(ホール)の方で、「メーンツ・ブライブト・メーンツ(マインツはずっとマインツ)」が行われる。これは、先の「ナルハラ(ヴァルハラのしゃれ、おバカの宮殿)」と並ぶマインツ最大のファスナハト・ジッツンクだ。

 各結社の幹部が勢揃いして壇上に控えているが、近年は、団員は来週のツーク(行進)の準備に忙しく、各結社のスターやその一部が交代でステージに上がるだけ。むしろ、マインツの場合、ハレ・ジッツンクは一般市民に開放され、結社の資金集めとして、ファスナハト前からやたら何回も公演されるようになってきた。アリーナで40オイロくらい。オクトバー・フェストなどと違うのは、食事なしで、ほとんどだれも飲みもしない。それでいて、19時開場、20時開演、すごいところでは3時終演、さらには実際は翌朝まで、笑って、歌って、バカ騒ぎを続ける。

 テレビでも、こういう各地のハレ・ジッツングが中継される。言ってみれば、ドイツ西部全域を巻き込んだ一大学芸会。町のふつうの人が、一年かけて練習をしてきて、お笑いをやったり、オペラや流行曲を歌ったり、バレエやダンス、手品や曲芸、なんでもあり。そりゃ数時間では終わらない。 

へらう! カーニヴァルが始まった!

ファスナハトステージ

例のごとく、11時11分にファスナハトが始まる。ったって、まだ露店などの準備もできていないうちから、持参のシャンパンで騒ぎ始める。だって、バカなんだもん。だけどさ、ガラス瓶のかけらが散乱しているから、見物は安全靴でないと危ないよ。

スーパーの中でもこのとおり。
ファスナハト1

ちょっとイノシシ狩りに行くらしい。
ファスナハト2

この御夫婦ははるばる宇宙からいらっしゃいました。
ファスナハト3

目がチカチカする方々がいっぱい。
ファスナハト4

無線機まで持っているけれど、スコットランドヤードのニセ警官さんたち。
ファスナハト6

すでに昼から酔っぱらって、目つきがおかしいお姉さんたち。
ファスナハト7

中が腐って持ち去られたグーテンベルクの銅像も、こんな姿で御復活!
ファスナハトグーテンベルク

物語工学とニーベルンゲンの歌

 ニーベルンゲン、という名前くらいは聞いたことがあるだろう。音楽好きなら、ワグナーの楽劇で知っているにちがいない。しかし、どういう話か、となると、はなはだ怪しいのではないか。ひどいのになると、おおまじめに、北欧神話だ、などと言うやつまでいる。

 オーストリアから北欧まで知れわたって、さまざまに改変されているが、この話、もとはゲルマン族ブルグンド(ブルゴーニュ)王国の物語だ。ただし、いまのフランスのブルゴーニュではなく、当時はライン河畔のウォルムスに、その宮廷はあった。

 古い形では、この宮廷で2つの事件があったらしい。ひとつは、四三七年の話。王妹は、フン族の王と政略結婚させられた。フン王は、王妹に、兄王をウィーンの東、エッツエルベルクまで呼び寄せさせた。兄王はとらえられ、財宝を要求されたが、これに応じないまま、殺された。王妹は、フン王との間の二人の王子を焼いて晩餐に出し、城に火を放って、みずからも果てた。

 もうひとつは、それから百年後、五四〇年頃の出来事。鍛冶屋の男(もしくは王の部下)が王妹に恋した。兄王は、北欧の王女との自分の結婚を手伝うことを条件にした。男は、兄王の姿で北欧に行き、王女に求愛し、王女を連れ帰った。兄王は王女と婚礼を挙げ、男ももまた王妹と結婚した。ところが、王女は、王妹を、身分の低い夫を持っている、と言って罵った。すると、王妹は、王女に、そういう夫にそそのかされたのはおまえだ、と、秘密を暴露してしまった。王女は、王に王妹の夫を殺させた。

 紆余曲折の後、二人の王妹が同一視され、二つの話の前後が逆転し、夫を殺された王妹がフン王と再婚させられて、兄王に復讐する話になっている。こうして、千二百年ころ、ラインではなくドナウ河畔のパッサウあたりで、『ニーベルンゲンの歌』が確立される。それが、あちこちに広まって、ごちゃごちゃとした外伝や異聞を引き寄せ、それから数百年後に創られたワグナーの物語は、アーサー王伝説だのまで取り込んで、まったくオリジナルなパスティーシュ(ガラクタの寄せ集め)になっている。

 こういう物語の構造を分析したり、その組み合わせや組み換えの変遷を考察するのが、物語工学。ややこしいのは、古い物語より、新しい物語の方が古いエピソードを取り込んでいたりすること。しかし、組み合わせや組み換えにおいては、人物の同一視や、愛憎の一貫性の整理が行われ、ひとつの物語へと収斂していく。もっとも、無理につじつま合わせがなされた物語よりも、古い生の物語の方が、ダイナミックで、情念深かったりするところがおもしろい。

景気回復はない

 景気が回復するのはいつか、などというのは、愚問だ。景気はもう回復しない。すくなくとも我々が生きている間には無理だ。文明には大きな波がある。戦争を含め、やたら国際交流したがる時期と、地域にこもる時期とが交互に、数百年単位でやってくる。そして、こうして近代が終わったのだから、当分は中世になる。

 この現実を受け入れず、V字回復、などと言っているトップを見ると、うさんくさい、もしくは、たんなるバカ、としか思えない。世界を制覇したスペインでも、オランダでも、その後は見ての通りだ。バカの音頭取りで、本気で回復させようとしたって、ムダな努力というもの。それより、新しい時代にうまく不時着させる方が大切だ、と思うが、この場に及んで、国債で国力をかき集め、金融だの、自動車だのを支援すれば、いずれナポレオンやソ連のような大破綻、大崩壊に行き着く。しかし、それも文明の繁栄の最期として避けがたいのだろう。

 だから、いまは、せいぜい混乱に巻き込まれないようにするしかあるまい。とはいえ、無理をして一部の現状維持を図る国、アメリカや日本では、現状維持組と船から突き落とされた組とで、救いがたい貧富差が広がっている。しかし、国民全体が豊かになっていくことが、金融や自動車、電器産業の経済基盤だったのだから、ますます回復の可能性は遠のくだけ。

 それにしても、日本の地方は、荒れ果てたものだ。川はきれいにコンクリで固められ、舗装やガードレールのない山道はないくらいだ。しかし、これらは保守をしなければ、遠からず瓦解する。瓦解したときに、こういう人造物は、同じだけの再投資を必要とする。人力では復興不能だ。自然のままほっておけば、自然のまま、てきとうに川でも道でも回復するが、いったん人造物で固めてしまった山河は、その瓦解した人造物がじゃまになってどうしようもなくなる。地方は、遠からず寸断されるだろう。

 都市部でも同じだ。東京や大阪のような世界でも希有な巨大都市は、地方からの物資によってのみ生活を支えている。まったく自立不能だ。そのうえ、その中枢部が高齢化していけば、巨大なゴミ屋敷となる。昔のように、ほっておいても人々は旧市街地には近寄らなくなり、近郊に自然に新都ができる。そして、すぐに廃墟となった旧市街地に新世代が潜り込む。つまり、旧市街もダメだが、新都もダメだ。

 歴史から学ぶ、ということは、こういうことだ。過去のことは未来にも繰り返す。人間は、それぞれの世代が死んでいくので、経験は引き継がれない。進歩することなく、愚行を繰り返す。とくにこういう時代変革の津波が押し寄せてくるときは、高台に避難することが大切だ。まちがっても、改革の旗手などと自称して、その波に乗ろう、などとしたりするものではない。

泥酔映像は世界を巡る

 ドイツのテレビニュースでも流れているよ。世界に恥をさらした、とか、さらさない、とかいう以前に、恥を国会議員だの、大臣だのにするなよ。悪い人ではない、と言うけれど、べつに仲良しごっこじゃないんだから、多少、性格が悪くったって有能だったらいいよ。逆に、人が良くたって、無能で無責任なのなんか、いらないよ。

 しかし、こういうの、政治だけじゃないものなぁ。あちこちの組織が、団塊世代以降、全学連ノリのまんま、「平等」な年功序列人事をやってきてしまった。だれでも順番で総理になれる、なんて、なんて良い国なんだろう。それで、組織の生き残りをかけて有能な人材を抜擢する、なんていうことはほとんど無かった(日産のカルロス・ゴーンくらいか)から、いまさら自分たちの同年代のお友達のだれかを辞めさせて入れ替えをするなんてこともできず、どこも膠着状態に陥っている。

 状況の悪いアメリカの方が、オサル顔のバカ息子から実力派のオバマ政権になって、未来への希望がある、というのに、日本は、あの世代が辞めるまで、身動きがとれない。なんだかんだ言って、75歳くらいまで、あの世代は辞めないだろうし。だって、辞めたら、誰とも遊んでもらえないもの。もともと人望があって、年下がくっついているわけではないからねぇ。

 ヨーロッパだから、食事でワインが出る、って、だいたいいつの話をしているのだか。実情からすると、こっちは急激にタバコや酒に対して拒絶反応が強くなっている。食事でも、まず水!、もしくは、せいぜいコーラ。夜のバーも、酒ではなく、レッドブル。フランスやイタリアですら、ワインの消費量が激減している。タバコも同様で、屋内で吸えるところは、もはやほとんどない。いまやキャメルとかが提供する空港内の喫煙ボックスの中くらいか。

 アメリカはもっと厳しい。肥満も、自己管理能力の欠如、として、経営者としての欠格条項になっている。まあ、組織の命運、数千人の人生を預かるのだから、それくらいの厳しさは当然だろうし、それくらいの自分に対する厳しさがある人物でないと、人も信頼してついてはいかないだろう。

 この意味で、あの泥酔映像は、あの人物一人の問題ではなく、日本の組織全般の人事構造や責任能力の信頼性を失わせた。言ってみれば、飛行機のパイロットがあの状態で、キャプテンスピーキング、とやったら、その飛行機会社全体が客を失うようなものだ。もしくは、ファーストフード店の店長が、フケだらけの頭で、ボロを着て、店内に寝そべっているようなものだ。その人物一人が辞めて収まる状況ではない。ここまで組織としての人事原理や危機管理に欠けると、そりゃ、むしろそれが早く外にさらされた方が良いかもしれない。ウミは切開しないと、中で雑菌を増殖させるだけだ。 

旅行の意義と読書の意義

 ときおり、ヨーロッパのどこへ行った、アメリカのどこへ行った、と、自慢げに語っている人を見かけるが、なんと言ったものか。まあ、彼らの話を感心して聞く連中が、彼らの勘違いを助長しているのだろうが、どこかへ行ったことがある、そこを知っている、というのは、なにか偉いのだろうか。

 ヨーロッパにいると、どこの街にも、じつはけっこう日本人が静かに住んでいるのがわかる。まったく日本人が住んでいない街の方が珍しいくらいだ。どこそこの街へ行った、などといっても、そこに住んでいる人と較べれば、話にならない。そもそも、旅行で街中のホテルに数日いたくらいで、なにがわかるものか。住んでいる側からすれば、バカも長期休暇を取って出直してから口を開け、と思う。

 日本でもそうだが、東京の人間が東京タワーになんか行かないように、ヨーロッパの人間も、自分の街でも観光地になんか行かない。私も、昔、ハイデルベルクに少しの間、住んでいたが、当時、結局、一度も城には行かなかった。あんなぶっ壊れた廃墟など、わざわざカネを払って入るようなところではない。それよりも、むしろ郊外の野っぱらとか、河っぺりとか、景色を眺めて気持ちのよいところは、もっといくらでもある。

 そうでなくても、ヨーロッパの街は、奥が深い。街の中心など、きわめて特殊なところで、一般の人々は新市街の住宅地か、郊外の一戸建て新興住宅地に住んでいる。また、その周辺には村が点在し、村の外れには農家がある。これら数十キロ四方で一つの街だ。広場だの教会だのだけを見て、ヨーロッパの街がわかった気になるのは、東京タワーだけを見て、東京を語るくらい無茶だ。

 そもそも、人は、旅行に行かなくても、一生の同じ時間を、別のどこかの場所で過ごしている。みんな、だれもが、ほかの人の知らない場所を知っているのだ。むしろ、旅行先など、むしろみんなが知っている場所で、みんなが知っていることを知っているからといって、知らない人より偉い、というほどのことではあるまい。

 この話、旅行のことが言いたいのではない。旅行の話は、学者で、私はハイデッガーを読んだ、とか、カントに精通している、とか、いうのと、変わらない。学者が本を読んでいる間に、ほかの人は、ほかのことをやっている。どちらが偉い、というような話ではない。そして、旅行同様、本を読んだくらいで、いったいなにがわかるものか。本などというのは、それを書いた人の人生の時間のごく一部分の言葉で、その背景に膨大な生活がある。そして、そんなものを知り尽くしたところで、なんの意味があるだろうか。

 たしかに旅行はおもしろい。人の生活を見て、自分の生活を省みることができるから。読書もそうだ。しかし、人の生活や思想を知っているから、ということ自体は、何の意味もない。まして、それを知り尽くしたところで、どうだ、というのか。人の生活、人の思想、人の言葉を知っていても、自分の生活、自分の思想、自分の言葉を失ったのでは、その人自身は偉いどころか空っぽだ。だいいち、人の生活や思想、言葉だったら、旅行した人や読書した人に聞かずに、自分で直接に見に行く、聞きに行くから、そんなやつは、この世にいらないよ。

ファスナハトという素人演芸大会

 前にも書いたが、カーニヴァル、と言っても、このあたりのものは、ナポレオン戦争以前のカーニヴァルとはまったく異なる。伝統的なカーニヴァルというのは、冬の終りを告げるもので、キリスト教の復活祭につながる断食前に、残りの冬の備蓄を食べ尽くすバカ騒ぎの祭りだ。それがスペインでは火祭りになり、また、ヴェネツィアの仮面舞踏会になる。

 しかし、ヨーロッパ、とくにスイスやドイツ、オーストリアでは、キリスト教より古い起源を持ち、むしろ日本や中国の節分(鬼やらい)に似ている。聖ニコラオスの日(12月5日)に冬の到来として登場した鬼たちが、カーニヴァルに暴れて、バラの月曜に行進して去っていく。だから、彼らは、恐ろしい仮面をかぶって、沿道の人々にいたずらをする。

 ところが、西ドイツ(ケルン、デッセルドルフ、マインツ、そして、フランクフルトやアウグスブルク)やフランスのアルザスでは、ナポレオン戦争以後、まったく違うカーニヴァル、「ファスナハト」(ファストナハトとも、ファッシンクとも言う)を始めた。その中心になるのが、ナ−ル・ジッツンク(オバカ会議)と呼ばれる素人演芸大会だ。ステージでは、オバカ議長を中心に、次々と街の素人たちが出てきて、玄人はだしの芸を披露する。漫談はもちろん、コント、ダンス、バレエ、手品、なんでもあり。とにかくよく練習してきている。衣装なども本格的だ。フルのブラスバンドがオチを強調し、みんなで笑って歌って、およそ3時間、これがファスナハトの3週間前くらいから、あちこちの街のホールで繰り広げられる。子供の大会もある。バイエルンのビアフェストに似ているが、酒は無し。

 この時期ばかりは、床屋が音頭取りになったり、靴屋が喜劇役者になったり、とにかくみんな楽しそうだ。ただし、昔から地元に住んでいる名士が中心で、周辺新興住宅地の人々は入り込みにくい。それでも、あちこちのオバカ団が、1月から団員を新規に募集しているので、ラッパなどができれば、すぐに仲間になることができる。ただし、彼らがこのお祭りにかける気合いは半端ではないので、制服など、かなり物いりになるだろう。

 なんにしても、ニュルンベルクのマイスタージンガ−のように、ドイツの一般市民の演芸志向は根強い。この国では、音楽も、絵画も、ダンスも、ふつうに本業を持つ一般の人々が自分でやって楽しむべきもので、無理やりテレビや新聞雑誌が売り出したヘタなアイドル・タレントなど成り立つ余地はない。 

ドイツのヴァレンタインデー

 これ、この国の習慣じゃないよね。母の日やハローウィンなどと同様、十年くらい前にテレビドラマとともにアメリカから入ってきた。ドイツのデパートは熱心だが、スーパーその他はまったく乗る気がない。だいいち時期が悪い。気分はバカ騒ぎのカーニヴァルで、しっとり告白するヴァレンタインなんか知ったこっちゃない。

 あんのじょう、デパートは、売れ残りだらけ。こっちでは、告白チョコだけでは市場が小さいと見て、夫婦でも、男から女へでも、なんでもありにした。だから、一階
のヴァレンタイン。コーナーは、チョコだけでなく、コフレ(香水などの化粧品セット)やチューリップなど、いろいろ並べられている。しかし、結局、売れ残り。午後になったら、50%オフで投げ売りを始めた。それだって、足を止める人は少ない。というより、半値だったから買ってきた、って、贈り物をもらってもねぇ。

 日本でも、バブルのころ、4月23日に「サン・ジョルディの日」とか言って、恋人に本を送りましょう、とやったけれど、まったく定着しなかった。シェイクスピアの命日だ、って言われたって、もともとシェイクスピアは、本とは関係ないじゃん。スペインの猿マネだけして商売に利用しようとするから、無理が出る。いっそ、芝居の日にでもすればよかったのに。

 それにしても、どう考えてもドイツでヴァレンタインデーは無理だよな。チョコなんか、一年中、バリバリモグモグ大量に食べているし、トリュフチョコなんか、珍しくもない。高級チョコ専門店は、日本人観光客で賑わっているけれど、そんなところに行かなくても、スーパーに良いチョコがいくらでもある。

 それより、また引っ越しの季節だ。大学などの冬学期が終わって、復活祭明けまで長い春休みになる。スーパーでは、引っ越し前に塗るペンキなどがセールになっている。春になったら新しい生活を始めようと思うのは、世界共通だ。 
 

シャルル・ドゴール空港2G

 なんといっても、長年のライヴァル、ドイツとフランスだ。ドイツは、知ってのとおり、衛星を飛ばして、ドイツ語の放送で、どんどんドイツ語圏を拡大している。だから、フランス西部あたりは、またドイツ語に戻ってきてしまっている。RTLはもちろん、さまざまなドイツ語放送が流れている。

 一方、フランスは、ドイツと違って、ものすごい中央集権の国。ここは、物理的に交通の中心になろうと、TGVとCDG(シャルル・ドゴール空港)を拡大し続けている。もともと平らな農業国だから、建設工事の余地はいくらでもあるし。

 それにしても、ドゴール空港は、面倒だ。ヒースロー空港もタチが悪いが、近年のドゴール空港は、まったくでたらめで、どうしようもない。しかし、実際、ヨーロー−の中心的ハブ空港だから、乗り換え乗り継ぎとなると、ここがどうしても結節点になることが多い。

 もともとターミナル2自体が、ABCDとEFで、TGV駅を挟んで分断されている。そうでなくても、ACとBD、EとFのそれぞれだけも、成田のターミナル1、ターミナル2くらいの規模がある。で、巨大なA380のために、EFの先に総二階ゲートの新ターミナル2Eができた。これも名目上、E、と言っているが、従来のEやFより大きい。

 そして、昨年の秋にできた最新の2G。名目上は、ターミナル2に属しているが、ターミナル2ABCDEFからだと、ターミナル1や3よりも遠い。新Eのはるか東にある。滑走路は共通とはいえ、実質的にはまったく別の空港と考えた方がいい。団体客は、2ABCDEFから空港のワンボックスカーで滑走路内を直接移動しているが、個人客は、いったんターミナルを出る。歩いて行く道はない。歩いて行ける距離ではない。10キロくらい離れている。2CからN3バスに乗るか、2FからN2バスに乗るかしかない。それも、反時計回りの一方通行で、途中にタクシーだの、自家用車だのが、そこらに止まっているから、バスも簡単には進まない。そのうえ、Gでは、もう一度、セキュリティチェックの行列に並ばなければならない。そこから上に上がって、一番奥までいって、同じくらい長いピア(桟橋)を行ってやっとゲート。さらに滑走路内バスで駐機場へ。やっと飛行機に乗れても、滑走路が遠いから、タクシングでダラダラ行って、離陸までまたかなり時間がかかる。

 エア・フランスの検索だと離陸45分前着でもトランジット可になるが、そんな短時間では絶対に移動できない。離陸1時間前でも、ほとんど不可能だ。ちょっとでも、着が遅れたら、タイムアウトになる。実際は、ゆうに2時間はかかると思った方がいい。だいいち、無理に急いでトランジットしても、荷物は着いてこない。

 しかし、バカとしか言いようがない。こんなにでかい空港、EUバブルがはじけて、これから、どうするんだ。新Eだけでなく、まだ周辺をほっくりかえしている。いまの空港と同じくらいの面積を、新たにターミナル4として開発するつもりらしい。これだけでかい空港のくせに、買い物をするところはABCDの間の下の階か、EやFにしかない。食事するところは、ACの間か、BDの間、EFの隅っこにしかない。ホテルもシェラトンしかない。とにかく、すべてが飛行機中心で、人間の動線や直感に対する設計センスが悪すぎる。まともな感覚があるなら、あれを2Gとは呼ばないだろう。

 しかし、トランジットで2時間かかるなら、フランクフルト中央駅・パリ・モンパルナス駅なら、電車でも4時間だから、それでTGVに乗り換えた方が、こっちの方がアクセスがいいことになる。それに、いくらハブ空港って言っても、主力は軽量コミューターに代わってきているから、小空港のネットワークの方が乗り継ぎははるかに楽だ。たとえば、フランスからいったん対岸のイングランドのサザンプトンかどこかへ飛んで、ドイツに戻った方が安いし早い。

スペインのCGアニメ『ドンキー・ホーテ(Donkey Xote)』



 これ、原題は『ルシオ(RUCIO)』。昨年、作られたスペイン製のCGアニメだ。出来はかなりいい。目のつけどころがいい。話のもとはドン・キホーテなのだが、主人公は、サンチョの乗るロバのルシオ。ただの郷士のアロンソ・キハーナが騎士ドン・キホーテとしての叙任をめざして旅立ったように、ロバのルシオは、自分を馬だと言い張る。いつか立派な馬になって見せると言い張る。

 で、悪いやつらにそそのかされて、助けを求めるあこがれの君、ダルシネーアを探して冒険の旅に出る。が、ダルシネーアなんて、もともとが嘘っぱちの話。見つかるわけがない。

 当然、スペイン版なのだが、入手の都合でフランス版を買った。イングランド版も出ている。ドイツ版はないようだ。ましてアメリカ版(NTSC)は出ていない。こういうのを見ると、日本に入ってくる映画って、いまだに鎖国状態だな、と思う。細かく上映できるシネコンがあちこちにできたのはいいが、結局、全部のシネコンで、まったく同じ作品を同時上映しているだけ。多様性のかけらもない。

 こうなってしまうのは、シネコンをアメリカ系の映画配給会社ないしそれとつるんでいる日本の映画配給会社が経営しているからだ。単館経営であれば、館主が気に入った映画を自分で掛けることができるが、チェーン店である以上、本社から流れてくるものをただ映すだけ。独立で映画輸入を試みる小会社もあるが、映画館としては、東京くらいしか上映するところがないのが実情だ。

 それに、日本は映画が高すぎる。映画を作りもしない連中が、ものすごい組織になって、作品にぶら下がっている。テレビもそうだが、上の方にカネを吸われてしまって、現場や俳優にカネが降りてこない。かといって、映画館やテレビ局を抑えられてしまっているから、作品を自主上映する場所もない。

 ネット配信が放送かどうかもめているが、その背景にあるのが、この映画配給網やテレビ局を独占してぶら下がっている連中の思惑だ。ネット配信で映画が売れるようになれば、つまり、スペインだの、チェコだのの映画でも、別データの字幕をいっしょに売れるようになれば、映画輸入の小会社でも十分に採算が合う。だから、映画配給会社やテレビ局は、ネット配信をさせたくない。電器業界やレコード店、書店もそうだ。でも、そういう、ぶらさがり中間業者なんて、みんなもういらない時代だと思うよ。

ホロコースト問題

 ドイツ出身の現教皇ベネディクトゥス16世の周辺が揉めている。去る1月21日に教皇が聖ピオ十世司祭兄弟会リチャード・ウィリアムソン司教ら四名の破門をひそかに解いていたからだ。そのことが知られるようになると、ドイツ中が大騒ぎになった。だが、この事件、背景がややこしい。

 そもそもウィリアムソン司教という個人が批判の焦点だ。ヒステリックな引用が多いが、本人の弁を正確に言うと、彼は数十万人のユダヤ人が虐殺されたホロコースト自体は否定してはいない。ガス室が無かった、とも言っていない。だが、今でも、ガス室で死んだ者はいなかった、と、言い張る。(BBCによる本人インタヴュー)そうでなくても、舌禍の多い人物で、彼のこういう主張が誇張されて、ガス室は無かった、ホロコーストを否定した、として吹聴されている。そして、本人の意図を離れ、そういう人物として、一部の人々の支持を集めている。だから、イスラエルのガザ侵略に呼応して、なぜこの時期に、そんな人物の破門を解いたのか、と、世界中のカトリック、そして、ドイツはもちろんフランスの知識人たちが騒ぎ始めた。

 だが、もともと前教皇ヨハネ・パウロ二世が1988年に聖ピオ十世司祭兄弟会の彼ら四名を破門にしたのは、彼らがホロコーストを否定したからではない。現教皇ベネディクトゥス16世だって、ホロコーストの否定は容認しない、と繰り返し明言してきている。問題は、聖職任命は教皇の承認を要するのに、聖ピオ十世司祭兄弟会が勝手に四名を司教に取り立ててしまったことにある。これは、カトリック教会の中では、明らかな越権だ。だから、本来であれば、当時、聖ピオ十世司祭兄弟会そのものを異端として破門にすべきだった。それができずに、四名だけを破門した。

 では、聖ピオ十世司祭兄弟会とは何なのか。普仏戦争直前の反プロシア=反ルター派の風潮が高まる中で、1868〜69年に第一ヴァティカン公会議が開かれ、当時の最新の話題だった進化論その他の近代科学思想を徹底的に否定し、教皇首位説および教皇不可謬説を強引に採決した。その結果、カトリック教会は、その後、多くの国々で蒙昧な妄信として多くのまともな支持者を失い続け、むしろファシズムとも怪しい関係を築かざるをえないようなことになってしまった。

 まして戦後においては、第一ヴァティカン公会議の路線「パストル・エテルヌス」が絶対的に存続不能、それどころかカトリック教会そのものが崩壊の危機に瀕していることは、もはやだれの目にも明らかだった。このため、1962〜65年に第二ヴァティカン公会議が開かれ、カトリック教会は、大胆な近代化に踏み出した。自国語でのミサを容認し、ミサの形式さえも教会に委ねられた。とくに大きな展開点だったのが、カトリックがまさに普遍教会として、ルター派やカルヴァン派はもちろん、ユダヤ教やイスラム教さえも、そして聖職者だけでなく、すべての人間の集団に対して、神の聖性への招命を認めたことだ。

 これは、第一ヴァティカン公会議の立場を固持する独善保守派からすれば、まったくの変節としか思われなかった。このため、アフリカを含むフランス語圏カトリックに権勢を誇るルフェーブル大司教を中心に、1970年、聖ピオ十世司祭兄弟会が結成された。聖ピオ十世っていうのは、第一次世界大戦直前の法皇で、ルルドの泉の調査で有名だが、スイス衛兵を廃止しようとしたような改革主義者で、いくらフランス・カトリックの大者とはいえ、なんで彼らがこの教皇の名を担いだのか、よくわけがわからない。

 いずれにせよ、カトリック側は、こういう独善保守派=原理主義者の対応に苦慮。その間にルフェーブル大司教は、第二ヴァチカン公会議で認められたシドニス(司教会議)主義を逆手にとって、1976年、勝手に司教を任命し始める。しかし、聖職そのものは秘蹟なので、いまさら取り消せない。あわてて翌日に、とりあえずルフェーブル大司教をSuspensio(聖職中止)にしたが、それは文字どおり中断であって、それ以上の処分ができず、その隙に聖ピオ十世司祭兄弟会は、第二ヴァティカン公会議をののしり続けて、日本を含め、世界に独自のカルト教団を形成してきた。この兄弟会は、明確な反共産主義で、ローマはソ連と共謀している、と批判する。そのうえ、この兄弟会は、反ユダヤ、反イスラム(反トルコ・反北アフリカ)なのだから、兄弟会の意図はともかく、そこに外国人排斥を暴力的に訴えるネオナチがすり寄ってこないわけがない。

 ナチ、というと、ドイツを連想するかもしれないが、第二次世界大戦前、反共産主義のナチ連中は、フランスやイングランド、オーストリア、アメリカに大量にいた。そして、旧ドイツ・ナチの残党の影響もあって、ネオナチも、ドイツではなく、むしろイングランド、ポーランド、ベルギー、アルゼンチンなどで、いまや公然と活動している。だから、ドイツ、そして全ヨーロッパが、このキリスト教原理主義のカルト教団を恐れているのだ。

 ウィリアムソン司教本人や聖ピオ十世司祭兄弟会そのものについての神学的な議論は置くとしても、その周辺がキナクサイことは、ヨーロッパではもはや公然たる事実だ。自由主義を採用し、教皇批判を容認したカトリックとしては、教皇首位説および教皇不可謬説を唱えながら、執拗に教皇を攻撃し続け、勝手にカトリックとして活動する聖ピオ十世司祭兄弟会に対して、どう応じるべきか、たしかに難しい。ルターやカルヴァンのときのように、きちんと手切れをする決断力の無さが、こういう中途半端な状況を招いた。別の教会なら別の教会で、かってに主流を名乗っているだけで、お互いに問題はないのだが。

 それにしても、イスラエルのガザ侵攻が国際問題になっているこの時期に、かつてヒットラー・ユーゲントに属していた現教皇が、聖ピオ十世司祭兄弟会との関係回復を試みること自体、現代の政治状況を読み間違ったと言わざるをえない。ドイツ司教会議代表のロベルト・ツォリチュ大司教は、まさに第二ヴァティカン公会議の路線において、もはやはっきりと教皇を批判しているし、ただでさえ絶大な人気があった前教皇のカリスマ性と比較されやすい状況にあるのに、現教皇は、やらんでもいい余計なことに手を出したこの始末を、いったいどうつけるつもりなのか。

 聖ピオ十世司祭兄弟会の方も、ウィリアムソン司教のような、会のイメージダウンになるだけの任命に不備があった人物を無理に抱え込んで、いま、その破門撤回を教皇と交渉することに、いったいなんの意義があったのか。それ自体、真意を疑われかねないではないか。ガス室が使われたかどうか、なんて、使われたかどうかもよくわかならければ、使われなかったかどうかももよくわかない。わからないことを断言すること自体、神に対する越権だと思うが。神に対して越権をすることは、教皇に対して越権すること以上に罪は重いはずだが。

 しかし、ドイツのカトリックの専門家たちのコメントでは、ベネディクトゥス16世はもともと完全な「確信犯」だ、と分析されている。実際、この一件、かつてヒットラーが合法的に独裁者に成り上がり、ナチを独裁政党にした経緯をまさしく思い起こさせる。しかし、そうなると、ルター派との和解を進めるエキュメニズムに熱心なドイツ・カトリックそのものが、教皇から離反する可能性がある。また、フランス・カトリックも、兄弟会のような独善保守派は、教会組織の中枢にはいるが、一般信徒は、知識人や政財界の重要人物を含めてリベラル派で、実際の教区基盤を失うだろう。もとはと言えば、第二ヴァティカン公会議の回勅「フマーネ・ヴィテ」に含まれていたシドニス(司教会議)主義自体が、こうなる結果を含んでいたのだが。

春は近いか遠いのか

 マインツは、朝から雪。街はまた真っ白。うーん、ちょっと暖かくなったように思ったのだけれど、そんなに甘くはないな。

 ニュースだと、先月末来、世界のあちこちの天候が大変らしい。南半球の夏のオーストリアは、熱波で、連日の43度だとか。乾燥による山火事も、あちこちで起こっているらしいなぁ。レイ・ブラッド・ベリ言う『華氏451度』ほどの気温ではないだろうが。

 一方、ヨーロッパでは、フランスが大変だ。やはり先月末来、強風が吹き荒れ、ほとんど全土の空港が閉鎖になっている。ドゴール空港が完全閉鎖になるのは、1974年以来のことらしい。電柱が折れたり、ガラスが割れたり、大騒ぎだ。

 しかし、だからと言って、異常気象だ、地球温暖化のせいだ、とか騒ぐのは、どうかと思う。砂漠の国オーストリアが猛暑になってしまうのは毎度のことだし、早春のフランスが強風に襲われるのも例年のことだ。だいたい、一年の数日くらい、すごい天気の日があるのは、むしろ当然だろう。一年中、ずっと穏やかな晴ればっかりだったら、それこそ異常気象だ。まして、百年単位、千年単位、万年単位で言えば、地球は温暖化したり、寒冷化したりするに決まっている。

 人は、白黒の映画を見ても、女の子の服は赤く、男の子の服は青く見える。「記憶色」というやつだ。記憶というより、「先見色」と言った方がいいかもしれない。勝手にそう思い込んでいる。天気も同じで、秋や春はかくあるはずだ、と思い込んでいる。そして、それに合わないと大騒ぎしたくなる。

 ヨーロッパにいると、男も女も、みんな自由に勝手なかっこうをしている。男が赤い服を着たからって、大騒ぎするようなことではない。異常気象だ、地球の危機だ、なんて騒いでいるのは、先入観に凝り固まって、ちょっと頭のおかしい人々と、そういう人々を相手に商売をしている人々ではないかと思う。

 CO2がどうこうというのも、ちまちまと個人が省エネなんかしたって、規模的に、どうなるものでもあるまい。そんなことをしなくても、20世紀というエンジン・バブルが終われば、終わる。そんなにいつまでも世界の文明がこんなに繁栄し続けるわけがない。

 それより、『沈黙の春』の方が恐ろしい。農薬の話ではなく、先入見に凝り固まったイデオロギー・バカどもが、あれもダメ、これもダメ、と言って、自分の「理想」どおりの穏やかで、平和で、何事もない管理環境を人工的に作ろうとすることだ。そんな思い上がった企ては、地球規模では絶対に失敗する。それより、空の星や雲の動きを眺め、荒れたときは荒れるにまかせ、天気の変化を楽しんだ方がいいと思うのだが。

春はオバカの血が騒ぐ

カウフホーフ特設コーナー

これ、マインツだけなのだろうか。こっちの大手チェーンデパート・カウフホーフでは、1フロアがカーニヴァル衣装の特設販売コーナーになっている。定員も、オバカなかっこうでうろうろしているし、あちこちで、ピエロはもちろん、ニワトリだの、フラメンコダンサーだの、海賊だの、わけのわからない衣装を試着している。小物も充実。ウィンチェスター銃から、王冠まで、なんでもある。

とにかく気合いが違う。ここで売っているのは、まあパーティ衣装で、せいぜい100オイロだが、古顔の連中は、団体で数千オイロのチーム衣装を作る。そうでなくても、特注仕立ては当たり前。人と違ってこそ、オバカというもの。だから、自分で作る人もいる。布地も蛍光オレンジや蛍光グリーン。絶対に車にひかれなさそうな彩りだ。

本屋もすごい。店頭のトップに並ぶのは、化粧術の本。ネコやライオンから、上級向けのトラやヒョウ、そして、定番のさまざまなピエロ、さらにはモンスターのいろいろまで、どうやってペインティングするか、写真入りで図解。こんな本があるだけでも驚きだが、それが何社からも出ていて、ずらっと並んでいるので、さらに驚く。

もう来週は、ふつうの服装で、ふつうの顔で街を歩いているのは、頭がおかしくなったんじゃないだろうか、と思われそうな雰囲気だ。広場には、すでに特設ステージもできた。テレビでも、ヘラウ!ヘラウ!ヘラウ!と、何時間も、何日も、がんがん素人演芸大会が繰り広げられている。みんな芸達者だ。政治家も、こういうときは、ヘラウと言って出てきて、ちょっとしたバカ話の話芸でもやってみせないといけない。それがけっこううまかったりして。逆に、プロのカバレティストは、ここしばらく、ちょっと影が薄い。そりゃ、ふつうの人たちに、ここまで力を入れてやられたんでは、出番がなくなる。

出遅れては買い損ねる、とばかりに、私もいろいろ試着してみた。けっこう楽しい。ただし、日本のコスプレみたいに、本気なのはシャレにならん。ダースベーダーとかも置いてはあったが、ああいうのは人気がない。できるだけバカっぽい方がウケる。で、いったいなにがバカっぽいか、となると、悩むところだ。

カウフホーフ特設コーナー2

考える、という仕事

 理系の連中が嫌いなのは、ほんとうの文系の研究にまったく理解がないから。言っちゃなんだが、理系の研究というのは、大半が作業だ。朝9時から夕方8時まで、機械を使って試みる。もちろん、文系の研究でも、いまや大半の連中が作業で、貸借対照表のように、外国の文献を寄せ集めて、ちゃちゃを入れるだけ。だから、どっちもみんな、論文を何本書いたか、なんて話ばかりしている。

 しかし、昔の立派な文系の学者を見ると、論文なんか書いていない。だが、十年に一冊、大著を書いている。それも、スコラ的な引用なんかほとんどない。たまにあったって、引用なんか、かなりいいかげんだ。というのも、彼らのやっているのは、昨今のような学者学ではなく、社会のことや倫理のこと、世界のことに直接に目を向けて、そこに新しいアスペクトを切り出す仕事。だから、古典たりうる。

 それは、なにか新しいものを創るわけではない。そこにあるものを見ること。そこにあったって、見れば見えるというほど、現実は甘くはない。だから、見方、考え方を考えることが必要なのだが、素人さんには、わけがわからないだろう。まして、学問をわかった気になっている理系や、学者学の文系の連中は面倒だ。

 たとえば、海水なんて昔からチャプチャプしているのだが、そこに親潮と黒潮という概念を立てて、それで海流変動を説明しようとする。これが見方を創るということ。頭の悪いやつは、親潮や黒潮なんて、学者が言わなくても、前からそこにある、事実を記述しただけでは学問にならない、なんて言う。しかし、人が言ったから、そこに見えてきたんで、それは言う前には見えなかったものだ。

 言語学など、もっと典型的だ。日本語を話せる人なら、みんな日本語の文法も知っている。しかし、この「知っている」ということは、話せる、というだけで、その全貌を理論的に説明できる、ということではない。だから、それをやるのが、言語学だ。それも、自分で勝手に文法を創ってしまったのでは話にならない。あるがままをうまく図面に書き起こす。

 どんな謎解きでも、答えを見れば、最初からそこに答えがあったかのように思える。だから、そんな答えはだれにでも明らかだ、という気になる。しかし、そう思うなら、おまえが先に答えてみろよ、と思う。

 理系の中でも、いまの時代、数学や農学などは不遇だ。化学のように、ひたすら作業として実験すれば、うまく行っても行かなくても、その実験結果だけでペラペラの論文をあちこちに発表しまくる連中と同じ基準で言われても、返す言葉もない。数学のひらめきなんて、数年考えて1行だけ、だが、その一行が世界を一変させる。一方、農学も、実験も1年に1回だけ、十年がかりでないと、研究にならない。

 もちろん、化学などでも、実験方法そのものを画期的に変える研究がないではないが、そんなのは例外中の例外だ。たいていは、実験機械を大きく強くする、ということしか考えつかない。というわけで、科学史で言うと、画期的な研究というのは、先端ではなく、つねに先端から少し切り戻したところから枝分かれして発展する。十九世紀末、最先端の蒸気機関ではなく、不可能とされた内燃機関から現代の自動車が生まれてくるのが典型だ。ちょっと前で言えば、宇宙をめざすロケットなんかより、ロケットの軌道計算からパソコンが誕生する。現代で言えば、半導体なんかより、その素材の精錬から派生した純鉄の方が将来性がある。

 正直に言って、「最先端」をひたすら作業で掘り進める学科は、ほんとうは本来の大学には属していない種類のものだ。そんなのは、民間企業でやればいい。ところが、日本では、上からの学問啓蒙、ということで、明治時代に、工学部なんていうわけのわからん作業セクションを国立大学の中に入れてしまって、文系も、外国語の専門学校みたいのが文学部に格上げされた。本来の大学が担うべき、考える学科は、その片隅に追いやられ、それも外国学者学の輸入作業を行うだけの連中に浸食された。これじゃ、自動車学校と大差ない。

 とはいえ、今の大学の中で、学問とは、先端から一歩引き下がって、黙ってじっくり考えるものだ、なんて言ってみたって、相手にされないだろう。なにしろ、最先端を気取っている実験作業や翻訳作業ばかりの連中がほとんどなのだから。しかし、人の話にちゃちゃを入れるだけの論文ではなく、せめてたまにはちゃんと業績らしい本を書いたらどうなんだろうかね。ところが、彼らに言わせると、本なんか、論文のような学会査読がないから、業績としてカウントしない、とか。ほんとうに救いがたい。業績としてカウントしてほしくて研究をやってるわけではないから、好きに言っていればいいけれど、それにしても、学者の仲間内の評価なんかどうでもいいから、学生や社会に役に立つ、新しい考え方を打ち立てる、というような、研究者としての崇高な理念を持つ気はないのだろうか。それじゃ、学生や社会にあなどられるのも、当然だと思うが。

名望家と嫉妬屋

外国から見ていて不思議なのは、日本は、なにをしたのかわからない有名人だらけ、ということ。それどころか、昨今、そんなのしかいない。こんな状況、他の国ではありえない。有名であるのは、ふつうは、何かを成し遂げた、何かを創り上げたからで、ただ有名なだけ、というのでは、意味がわからない。

しかし、有名であるというだけで、日本では、実際、カネは儲かる。クズのような自伝本を出しても、ヘタくそなレコードを出しても、法外に売れる。まともな作家やミュージシャンの数百倍も売れる。これは動かしがたい日本の現実だ。これでは、なんでもいいから、とにかく有名になりたい、有名になってカネ持ちになりたい、という名望家が出てくるのも当然だ。

ずっと昔は、それは政治家だった。べつに政治がやりたいわけではなく、とりあえず御願いします、と言って、政治家になってしまえば、利権が集まった。その後、1960年代から、それが歌手に変わった。それも、70年代になると、アイドルとして、男でも、女でも、かわいければいい、歌なんかどうでもいい、雑誌やテレビに出て有名になってしまえば、レコードが爆発的に売れる、というのがはっきりした。また、プロダクションから相手にされなくても、フォークという道が開けた。あのねのねとか、所ジョージとか、さらには桑田佳祐や武田鉄矢も、最初からまともに音楽をきちんと勉強して、曲を作ろうとしていたとはとうてい思えない。とりあえず歌手という肩書きで、深夜でもなんでもラジオ番組の仕事をとってしまえば、あとはなんとかなる、という狙いが当時でも見え見えだった。

それが、80年代からお笑いに変わった。べつにお笑いを極めようなんていう気はさらさらない連中がテレビで騒ぎ始めた。実際、有名になってしまえば、なんでもできた。ようするに、歌だと3分かかるが、お笑いなら1分、1アクションだけで行けるから、出番の多そうなお笑いを選んだ、というだけだ。野球選手やサッカー選手も、本気で野球やサッカーがやりたいというより、とりあえず有名人になる道として選ぶ連中が出てきたのもこのころだ。

で、新聞や雑誌だが、広告面はもちろん、いまや記事面も、大半がある意味での人物の売り出し広告だ。新聞の文化面も同様。ましてテレビは、CMも広告なら、番組もタレントの宣伝。ドラマでも似たようなものだ。選挙の、お願いしますの連呼と大差ない。だれを採り上げるかは、プロデューサーや編集者の一存。今、当たってなくたって、いや、こいつはこれから当たる、採り上げろ、で、いい。だから、プロダクションは、陰に陽に接待合戦を繰り広げ、ズブズブのキックバックやバーターだらけ、ということになる。それでいて、プロデューサーや編集者たちは、オレは時代の仕掛け人、流行はオレが創る、とか言って、いい気になっていた。

しかし、宣伝だらけの新聞や雑誌を、誰がカネを払って見るだろうか。たとえタダのテレビだって、おもしろくないなら、時間のムダだ。そんなのに頼らなくても、おもしろいものは、いまの時代、自分でいくらでも選べる。こんな業界慣習に染まりきっていて、新聞や雑誌、テレビが客離れを起こさない方が不思議だ。だいたいプロデューサーや編集者たちってったって、しょせんどこかの一流大学を出た、それで大手マスコミにうまく就職したというだけのオーディナリー・ピープルで、はっきり言ってしまえば、いくら給与が高くても、べつに特別な才能があるようなやつらではない。同じ肩書きでも、昔のように、親の代からの天性の多趣味な遊び人で、自力で出版社を立ち上げてしまったとか、まったくカネのないところでヒット番組を創ってしまった、とかいう創生期の業界人とは格が違いすぎる。業界つきあいしかしていない、いまのプロデューサーや編集者たちが縁故絡みで選んだ程度のものだったら、読者や視聴者の方が、ずっと目が利くし、見つけるのも早い。

だから、いまどき、新聞や雑誌を熟読し、テレビに食らいついているやつなど、匿名で人に病的に嫉妬する顔無しの連中くらいだろう。チャンスそのものを奪われたフリーターや、会社から放り出された自意識過剰の年寄り、日々の仕事に人生の目的を見いだせない人々。もちろん昔から変なのはいたし、有名人のウワサなんて、だれにとっても、どうでもいい恰好の話題だが、彼らは世間が見放した新聞や雑誌、テレビを目の敵にして、そこで自己宣伝を繰り広げる有名なだけの有名人に噛みつく。ユングの言う、いわゆるシャドウだ。つまり、生きられなかった自分、自分が殺した自分を生きている他人、だ。正確に言えば、嫉妬屋にとって、自分の方が影なのだが。

端から見ていると、マスコミの名望家も、インターネットの嫉妬屋も、どっちもどっちだよな、と思う。たしかに、実体の無い有名人、そういう有名人になりたい名望家というのもどうかとは思うが、自分の使命として律儀に噛みつく嫉妬屋などというのは、もはや精神的に壊れてきてしまっているPsyだと思う。ごちゃごちゃと人のことになんか関わっていないで、自分の仕事をすればいいのに、とは思うが、いまの時代に、世間から見捨てられ、自分の居場所を得られず、自我が壊れてきてしまったのだろう。根が受動的だから、人からの評価なしに自分で自分の仕事や趣味を楽しむということができないのだろう。

実際、自分の仕事や趣味が楽しくて忙しい人は、新聞や雑誌、テレビなんか見ないし、そんなのを見ている暇があったら、自分の仕事や趣味に励む。そっちの方が楽しいから。ましてや、有名なだけの有名人など、自分の人生にとって、まったく用が無い。べつに人と話をあわせなければならない接客業でもなければ、世間の話題など、フォローしていなくても、ふつうはまったく困らないのだが。

俳優の声質と演技



 今日のブルガコワ教授の講義は、俳優の声質について。意外な着眼点(着耳点)だ。映画というと、映像の話ばかりになりがちだが、声だって、身振り手振りと同様に、重要な演技のひとつであることにまちがいはない。

 先生が言うに、トーキーになっても、初期の録音では音域が極端に狭かったために、やたら高い声の男優や、やたら低い声の女優が出てきた、と言う。マレーネ。デートリッヒなんて、その典型だ。ふつうの男の音域や女の音域では、どちらも録音できない、録音できてもハリがない、まして映画館で再生すると、モワモワにくぐもってしまった。

 戦後になって録音技術が飛躍的に向上すると、マーロン・ブランドやマリリン・モンローのような、スタニスラフスキー・メソッドの連中が次々と出てくる。というのも、彼らの発声方法は、ノドではなく、胸や腹を使うので気音が多いから。そういうのは、戦後になって初めて録音音域になった。そりゃ、戦前のドスの効いた女優の声や、キンキン響く男優の声と較べれば、ため息だの鼻息だのを多用する彼らの話しぶりは、はるかにセクシーに聞こえたことだろう。

 映画からあえて声だけを切り出して聞き比べると、いろいろな発見があるものだ。教授によれば、姿勢も声に反映すると言う。戦前の映画だと、オペラ的な、いかにも声を聞かせる発声をしている。実際、音だけ後でスタジオで別に録音することも多かった。ところが、ブランドやモンローになると、演技の中で同時録音している。このために、声の中に、体をひねってふりかえったり、胸と両手を広げたりしたときの息づかいが入ってくる。

 こういう問題は、スタジオで白い画面の口線だけ見て、棒立ちでしゃべっているアニメの声優や、それでいいと思っている演出家にはわからんだろうな。もちろん、世界中、いまや吹き替えが盛んに行われている。しかし、昔のようなラジオ的な声優ではなく、あくまで画面で演技ができる俳優を吹き替えに使うのは、こういう理由からだ。体で演技が出来ないやつが、声だけで演技をしても、よく耳をすませば、それこそ逆に棒立ちなのが見えてきてしまう。

春の風の匂い

カーニヴァル飾りのマインツ駅

 あいかわらず寒い。イングランドは大雪だとか。ロンドンの街でスキーしているバカがいた。それを何十人ものカメラマンが写真にしている。どっちもどっちだな。

 マインツも、ときどき白い羽のように軽やかな雪がちらつく。でも、窓を開けると、土と木の匂いがする。よく見れば木々に葉の芽がついている。鳥の声も変わった。春が近いんだ。

 いろいろ来年度の仕事の話もいっぱい入ってきて準備で忙しい。まあ、繁盛しているのは、この時代に悪いことではないが、慌てて雑な仕事をするのも嫌だ。かといって、気力や体力が無限にあるわけでもないし。人間、遊びと仕事のバランスが大切だな。

 先生方から食事会に誘われているのだが、みんな、あれこれ予定があって、のばしのばしになってしまっている。再来週になれば、冬学期が終わるので、一段落。もちろん少しも暇になるわけではないが、講義の準備の自転車操業状態よりはましになる。

 その後は、いよいよカーニヴァルだ。まさに冬と春の間の第5の季節。春ではないけれど、もう冬でもない。オバカが浮かれる木の芽時、というやつ。きっと今年も、いいことがある。だって春だからね。

マインツ大聖堂千年祭

マインツ大聖堂千年祭

 今日は朝から鐘が鳴り響く。マインツの大聖堂が今年で千年を迎えるからだ。今日は、その記念ミサ。州知事からユダヤ教会代表まで列席して、一大式典を挙行した。

 ドイツで大聖堂というと、ゴシック様式のケルンが有名だが、教会の格式からすると、マインツの方が上だ。第二のローマとして、多くの大司教座の中でも、特に聖別されている。皇帝に次ぐローマ王・ドイツ王の戴冠権を持っていた。

 しかし、中世からマインツが大都市であったことはない。せいぜい人口1万人。ストラスブルク、ウルム、アウグスブルク、ニュルンベルク、プラハ、フランクフルト、ケルン、マグテブルク、ハンブルクが数万人だったのに比しても小さい。一方、当時、ロンドン、パリ、ゲント、ヴェネツィアは、十万人以上の大都市だった。

 人口が小さいのにドイツ随一の地位を保ち得た理由は、その立地のよさに他ならない。ライン河とともに、東へマイン川を擁し、ザール・エルベ川、ドナウ河へもつながっている。西へはコブレンツ経由でモーゼル川、さらには南仏ローヌ川、西仏セーヌ川へ出る。つまり、ここは、昔から情報の中心地だった。

 いまもテレビ局のZDFやSWRを抱え、さまざまな出版社が集まっている。たとえば、音楽の原典楽譜でショット社を知らない者はいないだろうが、これもマインツの出版社だ。この街は、つねに世界へ目や耳を向けている。

 翻って日本は、政治からマスコミ、大学まで、トップに、もっともドメスティックな人々が集まっている。戦前の陸軍政府に似ている。自分たちのイスの取り合いに忙しく、世界のことなど目を向ける暇もない。周辺が戦火に焼かれようと、貧困に没しようと、知ったことではない。とにかく現状維持。世界の方が間違っている。いや、どっちが正しくても関係ない。世界など、彼らにとって地の果てのさらに向こうの出来事だから。いまどき本土空爆のようなことはないから安泰のようだが、金融危機で大騒ぎをして、周辺のカネをかき集めまくっている。まるで崩れる砂の城の上の舞踏会だ。

 リップマンがプラトンの洞窟の比喩を引いて、戦前のドイツを嘆いたように、いくら外の様子を伝えても、聞く耳を持っていないのだから、どうしようもない。本当のことを伝えても、そんなはずはない、理屈としてありえない、で、終り。太平洋戦争のときもそうだったのだろうな、と思う。現実と理屈が違ったとき、現実ではなく、理屈の方が間違っているのだが。

 風通し、見通しのよい組織のためには、やたら大きくない方がいい。ショット社だって、せいぜい400人。もはや大資本で力ずくに物を作って売る時代ではないと思うのだが、いまさら転換は無理だろうな。

フランス・ベトナム製CGアニメ『iGOR(イゴール)』

イゴールのDVD

 ちょっと週末にまたアメリカに行ったら、もう『iGOR(イゴール)』のDVDが売り出されていた。これ、フランス・ベトナム製のCGアニメ。イゴール、というのは、この映画ではマッドサイエンティストたちの助手のことで、その中の一人が自分でフランケンシュタインを作っちゃうんだけど、それが、、、先は見てのお楽しみ。

 『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』は人形劇だったけれど、それをCGでやってしまったところが、新しい。原案は、『アメリカン・ダッド』シリーズを当てたChris McKenna。この秋に劇場公開されたばかりだけど、もうDVDなんだね。こういう映画って、もうあまり劇場には期待していない、つまりOVA化してきてしまっている。

 そうそう、DVDだって、ブルーレイが主力になって、そのうえノンプロテクトで、自分でどんどんコピーしてポータブルしてちょ、なんて、いうのがいっぱい出てきて並んでいたぞ。カネの亡者のような著作権バカなのは日本だけで、世界じゃ放送権料が安いから、いまや大量の映画がテレビで流れている。

 CDが売れなくなった、ってったって、昔みたいにラジオやテレビで無理やり流行させればバカみたいに同じ曲が売れた方が異常なんで、マイナーやインディまで延べで言えば、世界の音楽商品取引総量は爆発的に増えている。つまり、弱小でも、世界のどこかにマーケットを見いだすチャンスが出来た、ということだ。

 いまや映像も同じことで、メジャーな配給会社なんか通さなくても、公開する方法はいくらでもある。もちろんハリウッド的なブーム商法は無理だが、じわっと売れれば採算は確保できる。CGだったら、うまくやれば低予算でもいけるからね。

デビット・リンチとスティーブン・ソダーバーグ

 今日のキーファー博士の講義は、悪夢の迷宮。まずはデビット・リンチの『ツイン・ピークス』(1990-91)、なんかではなくて、『イレイザー・ヘッド』(1976)から。これは、彼の30歳のときの作品。これはすごい。とにかく彼の中に作りたい絵があって、その絵を組み上げていく。だから低予算。

 当時、彼は、まったくのプーだった。そのくせ、映画を作り続けた。その貧困生活の出口の無い悪夢の迷宮が、そのまま映画になっている。難解なアート系、などという評論家がいるが、深読みする方がおかしい。見てのままの映画だ。見えるものの向こう側が無い。全体をつなぐ意味の深みが見つけられない。つぎはぎの現実が次々と襲いかかる。だから悪夢の迷宮なのだ。前編を貫くのは、不快な工場の機械音。それ以上でもそれ以下でもない。

 一方、対比的に採り上げたのが、スティーブン・ソダーバーグの『カフカ』(1991)。彼の28歳のときの娯楽作。『イレイザー・ヘッド』に似てはいるが、パスティーシュと言うべきもの。カフカはもちろん、『マブセ』や『第三の男』から、『スター・ウォーズ』まで、なんだかんだと、どこかで見たようなモティーフが寄せ集めになっている。いかにも映画好きの秀才、と言う感じ。その後、『オーシャンズ11』シリーズで当てたように、仕事職人としては有能なんだろうな。しかし、この映画で致命的なのは、結局、ムルナウ博士がマッド・サイエンティストで、そこに話の焦点が向かっていってしまうこと。結局、『007』や『スター・ウォーズ』ほどにも深みのない薄っぺらな話。この人、自分では悪夢を見たことがないのだろう。カフカをやるなら、ムルナウ博士そのものが実在しない、というくらいでないと、迷宮たりえないのに。つかもうとする真実は、つねに手からすりぬけていく。だから、悪夢。

 これらに並べるなら、前にも挙げたマーティン・スコセッシの『アフター・アワーズ』(1985)が出色だ。スコセッシの作品も、『タクシー・ドライバー』(1976)からして、出口のない、カフカ的な悪夢の迷宮の物語にほかならない。

 ところで、日本でもリンチの『ツィンピークス』が大流行して以後、よくもまあ思わせぶりの似たりよったりの話(パスティーシュ)が出てくる、出てくる。最近だと、『嫌われ松子の一生』(2006)『陰日向に咲く』(2008)『ララピポ』(2009)とか、イッセー尾形風の変な人を群像劇にしただけの作品。こういうの、企画段階ではおもしろそうだけれど、状況設定だけのなりゆきまかせのシットコム以上のものにはなりえないだろう。そうでなくても、『エヴァンゲリオン』とか、『20世紀少年』とか、困ったものだ。こういうオカルトっぽいの、やるのは勝手だが、その基礎を勉強していないから、思わせぶりなだけで、結局、ホンモノのオカルトとしてのオチをつけることができない。結局、みんな、商売好きで、売れるものを作るのが上手だけれど、ダリやソダーバーグと同じで、どうやっても、ゴッホやカフカ、スコセッシ、コッポラ、リンチのような巨匠には絶対になれない。

 やるなら、自分で自分の悪夢の迷宮の中に飛び込んで、その中からヴィジョンを持ち帰るのでないと。それがオカルトの智だ。人の悪夢の聞き書きを寄せ集めて迷宮を作ってみても、張りぼて以上の、ホンモノの存在の無の深淵をのぞき見ることにはならない。もっとも、あんまり中をのぞき込むと、伊丹十三みたいに、その底の無い闇に吸い込まれる。

VRMLからX3Dへ

 VRMLの規格は、結局のところ、マイクロソフトのエクスプローラの独占問題に巻き込まれ、そのビューアーが標準装備されなかったところで空中分解した。それが、いま、またX3Dとして復活してきた。

 ネット上で3D画像を送るくらいなら、3D情報そのものをテキストで送った方が速い。ただしクライアント側に、リアルタイムで3Dに再現するパワーを必要とする。VRMLのときもそうだったが、うるさい連中が再現性に注文をつけて、規格ばかり複雑にするものだから、プラグインメーカーが放り出してしまった。そんな高度なの、ふつうのパソコンで動くわけがない。

 X3Dになった、ってったって、文法がXML系になっただけで、中身はVRMLと変わらない。だから、簡単に翻訳できる。が、グラフィックに関して、十年前とパソコンの性能がそんなに変わったわけじゃない。リアルタイム3Dは、やたらパワーが必要なので、最近のノートパソコンでは、そっち方向の性能はむしろダウンしているくらいだ。にもかかわらず、また理系の連中が言語ばかり複雑にして、あれもこれも盛り込もうとする。

 ネット3Dなんて、適当に透視画で動いていれば十分なんで、レゴをやったことがあるなら、それでもけっこう楽しめるのを知っている。でも、3D=リアルな造形、なんて思っている電気バカはあまりに多い。連中をどうにかしないと、またこの新しいX3D規格も自滅してしまうだろう。

 だいだいモデラーを使って3Dをいじるやつなんて、ろくなもんじゃない。デカルトの時代から、生の数字と空間とを頭の中で行ったり来たりしてこそ、おもしろいんで、モデラー頼みで細かな数字だらけのIndexsetなんか作るくらいなら、2Dの画像につぶして送り込めよ、と思う。

チェコのCG映画『コジ(Kozi pribeh)』と『ニコ(niko)』



 日本にはほとんど入ってこないが、旧東ドイツやチェコも子供番組の宝庫だ。『パットとマット』は、ひたすら事態が悪化する一方の展開と、それでも驚きの復帰、そして最後のやっぱりオチ、と、8分の中で、練り込みが見事。

 近頃は、とくにチェコが、ものすごいCGも作っていて、これがまたぶっとんでいる。千年来の人形劇の伝統があるから、CGの造形やアクションのデフォルメが他の国にないくらい洗練されている。CGとしての質感だのリアリティだのなんか、最初から求めていないのがすごい。映画の魅力は、キャラクターじゃなくて、なんと言っても、その動き方だからね。

 チェコ、なんて、日本にとって縁遠いかもしれんが、戦前からの一大工業国で、ドイツの銃や戦車のほとんどがじつはチェコ製だった。いまや電子大国に生まれ変わり、ヨーロッパのパソコン部品の大半を製造している。たとえばイイヤマのディスプレイなんかも、こっちではチェコ製だ。

 とにかくカラクリものが大好きな連中で、ふつうのスーパーの中の本屋で、たださまざまなものの構造図面だけが入った本が一般の人に売れていたりする。観光案内なども、建物でも何でも透視画にして構造説明してしまう。そのうえ、知っての通り、芝居好きで、子供好き。こういう連中がCGをいじくりはじめたら、こんな映画なんかすぐに作ってしまう。


トロトロ!(ロバのトコちゃん)



 最近のお気に入りがこれ。マインツにいると、KIKAでドイツ語版、TVMONDEでフランス語版が見られる。ミッフィー風の単純な絵だが、ママがノートパソコンを使っていたりするところが新しい。日本のディズニーチャンネルでもたまにやっているとか。名前は、トロトロ。もとはトロットロなんだと思うが、トロトロ、としか聞こえない。

 とにかくこっちでは良心的な子供番組がいっぱいある。大人が見てもおもしろい。なにしろストーリーがちゃんとしている。もちろん、一部にはキャラクター先行で、話になっていないのもあるが。(たとえば、『モントベア』『機関車トーマス』なんかは、出来事があるだけで、まともな物語になっていない。むしろ根強い人気の『スポンジ・ボブ』や『シンプソンズ』の方が、意外にいけている。)

 日本も昔は物語の練り込みに手間をかけていた。『ハイジ』なんか、東映の任侠映画の脚本家たちが本気でうなって作っていたんだから、30分の間に泣かせるツボをきっちり踏まえていた。ところが、おもちゃ屋がスポンサーになってから、とりあえずキャラクターが動けばいい、てなもので、人情の機微もなにもなく、どひゃーん、やったー!、で、みんなおしまい。営業の力が強すぎるのだろうが、そんなのばっかり作っていて恥ずかしくないのか。いや、自分が喰うためだから、恥ずかしくなんかないんだろうな。ほかのことなど考える余地は与えられていないもの。

 不思議なのは、NHKで、スポンサー絡みではないのに、やはりひどい。もちろんいいのも、いくつかはあるが、大半は、長年の縁故絡み。いいかげん、もっと才能のあるチームに交代したらいいのに、と思うが、惰性で作っている。物語の体すらなしていない。それでも子供は文句も言わずに見てくれるが、やはりひどい。だいたい有料独占全国局のくせに、おもちゃだの、雑誌だの、利権商売を広げすぎだよ。

ドイツカゼの続き

ラヴァンダーオイル

ドイツでは、風呂に入らない人が多い。そもそも風呂がない家も多い。シャワーだけ。たまにちゃちゃっと浴びて、後はやたらオーデコロンを使う。だから、やたらオーデコロンが売っている。

日本では、風呂に入らないのはカゼをひいたときくらいだろう。逆にドイツではカゼをひいたときくらいは風呂に入る。カゼは、冷えと考えられており、暖めれば治ると思っているからだ。

そのときに使うのが、これ。入浴用ラヴェンダーオイル。十数回分で数オイロ。安いが、ホンモノの天然オイルだ。人工香料なんかじゃないぞ。これを風呂に入れて10分。長風呂はダメ。10分もすると、揮発性成分がぜんぶ飛んでしまうから、それ以上は意味がない。

皮膚浸透と呼吸吸収で、これはけっこう効く。頭痛、肩こり、節々の痛みが一気に楽になる。そのうえ、なにより暖まる。だから、風呂から上がって、すぐに寝る。言うまでもないが、洗い落としてしまっては意味がない。

かなり物はいいのだが、残念ながら日本へのお土産には不向きだ。というのも、品質保持のため、容器がガラス瓶で、かなり重い。それでも手持ちで、というのなら、いまどきワインなどより喜ばれるだろう。

ドイツでカゼをひいたら

アスピリン・コンプレックス

これ。たぶん、いま一番、売れている。たいていの薬局のレジのすぐ裏の棚においてある。なぜ知っているか、というと、私もカゼをひいて、買いに行ったから。

薬局では、症状を説明することになっているが、これが問題だ。あれこれ言うと、あれこれいっぱい出してくる。これは頭痛、これは鼻水、これはノド、これはセキ、これはタン、これは節々の痛み、等々。というのも、こっちでは、それぞれに薬が特化しているから。言われるままに全部を買ったら、かなりの金額になってしまうし、そんなに薬を多重服用したら、かなり体に悪そうだ。ヨーロッパでは、レストランのウェーターは、店の営業マンで、できるだけ多くの高い料理を客に売りつけようとするが、薬局も、それと同じ感覚で、できるだけ多くの高い薬を客に売りつけようとする。ヤアヤア言っていたら、大変なことになる。

というわけで、総合感冒薬の登場は、こちらでは大いに歓迎されている。もしドイツで旅行中にカゼをひいたら、薬局で、これを買えばいい。処方箋はいらない。20封箱で12オイロ前後。10封箱もあるが、ひどいときは1回2封なので、20封箱でないと、直るまで足らないだろう。

日本では戦後にできたイブプロフェンが主流だが、前世代のアスピリンも、かなりよく効く。アスピリンは、1897年にドイツで発明された。ドイツが第一次世界大戦に負けたとき、戦勝国がドイツから最初にかっぱらったのが、このアスピリンの製法だったくらい、20世紀の画期的な発明品だ。とはいえ、似た成分が柳の枝に含まれており、柳が消炎鎮痛に効くことは古代からよく知られていた。

アスピリンスノー、なんて言うが、この薬、顆粒だ。粉でなくて、ツブツブ。どこの薬局でも水がおいてあるので、さっそく一封を開け、その場で飲んだら、変な味、オレンジ風味がついている。用法をよく読んだら、この薬は、いったん水に溶かしてから飲むらしい。まあ、飲んでしまえば同じだが。

ヨーロッパ圏でのドイツ語の普及

 日本では、国際化=英語化、だと思っている連中が多いが、ほんとうに英語一辺倒で大丈夫なのだろうか。ヨーロッパでは、いまや英語ではなく、ドイツ語が急速に広がっている。オランダやデンマーク、ポーランド、チェコ、イタリア、さらにはフランス東部まで、若者は、いまや英語ではなく、ドイツ語だ。実際、旅行先で、英語よりもドイツ語の方が、道を聞く程度なら、そこらの人にも通じてしまう。なんでこんなことになったのか。

 中欧圏・東欧圏では、かつて外国語と言えばロシア語だった。しかし、そんなのはまったく役に立たなくなり、EU化とともに、学校は英語教育を取り入れた。ところが、実際に、ビジネスで交流することになったのは、イギリスやアメリカではなくドイツ。大勢のドイツ人がこれらの周辺国に資本を投下した。ドイツ人観光客もいっぱい来る。そして、さらに決定的だったのが、テレビ。以前のつまらない国営放送に変わって観るようになったのが、ドイツの衛星放送。RTLや3SAT、VOX、VIVAが空から降ってくる。受信機さえ買えば、周辺国でも問題なくクリアに見える。ドラマやバラエティはもちろん、ハリウッド映画まで、これらのチャンネルはドイツ語で流している。だったら、めったに来ないイギリス人やアメリカ人のための英語なんかより、ドイツ語をやった方が、テレビも楽しめるし、ビジネスにもなる。これが現実というものだ。

 アメリカには、もうカネは無い。もう自動車は買ってくれない。投資だって、観光だって、連中は、日本に来やしない。まして東欧並みに衰滅した国のイギリス人なんて、こんなところまで来るものか。だったら、いまさら、べつに英語なんかやらなくてもいいんじゃないか。中学生から何千時間もかけて、せいぜい一生に一度のグアム旅行でしか使わない英語を勉強するなんて、それでその人物の学力の有無を選別するなんて、どう考えてバカげている。そもそも語学なんて、学力とまったく関係ないぞ。アメリカへ行けば、バカでも英語を話しているじゃないか。そのうえ、遠からずアメリカが国際ヘゲモニーを失い、東欧圏のロシア語教育、江戸時代のオランダ語教育みたいにムダになるのは必至だ。

 日本では、電器屋と映画会社が系列化しているために、著作権を名目にやたらガードが堅いが、むしろ国家的文化戦略を考えるなら、衛星からおもしろいテレビ放送を垂れ流してしまえば、周辺諸国の人々も喜んで日本語を覚えてくれるし、観光にも、留学にも来てくれる。古い世界図式にへばりついて、こまい目先の利益を追っていると、日本語の方が存立しなくなる。
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純丘 曜彰
すみおか てるあき 

美術博士(東京藝術大学/美学)、文学修士(東京大学/哲学)、東海大学准教授、ドイツ・ヨハンネス=グーテンベルク(マインツ)大学客員教授を経て、現在、大阪芸術大学教授。専門は哲学、メディア文化論。

東京生まれ。東京大学教養学部1組(横断インタークラス)、同文学部哲学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻修了。テレビ朝日報道局報道制作部ブレーンとして『朝まで生テレビ!』を手がけ、現職に至る。

wikipedia 純丘曜彰
純丘曜彰の映像論


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