美術博士 純丘曜彰教授のドイツ大学講義日誌

マインツ大学 メディア学部 映画学科 客員教授

December 2007

アカデミック・クォーターという慣習

 ドイツ語では、アカデミック・フィアテルと言う。昨今、これがけっこうややこしい。クォーターとかフィアテルというのは、4分の1という意味だが、これは15分のことだ。
 ヨーロッパの大学では、2時間1コマになっている。それも、単純に9時〜11時、11時〜13時、13時〜15時というように書かれている。が、現実に、これでは教室移動もなにもあったものではない。こんなことが可能なのは、アカデミッククォーターがあるからだ。つまり、実際の講義は、9時15分に始めるのだ。
 ああ、それだけか、と思うかも知れないが、ここからがややこしいところだ。講義というのは、各教授の時間だ。好きに分配できる。このため、9時15分に始めて、10時に途中休憩に入って、学生と雑談し、10時15分から再開して11時に終わる、というのが、一般的なパターンらしい。ところが、先生によっては、9時15分に始めて、そのまま90分、続けて講義し、10時45分に終わる先生もいる。さらには、アカデミッククォーターを嫌って、9時ちょうどに始めて、10時半に終わる先生もいる。また、9時半に始めて、11時に終わる先生もいる。いずれにせよ中味は90分だ。
 これを見分けるため、ヨーロッパの大学の時刻には、c.t. とか、s.t. とか書かれている。c.t. は、15分遅れ、s.t. は、時間通り(まれに、30分遅れ始まりの時間通り終わり)ということを意味する。
 この2時間1コマ、ただし正味90分、というのを、日本の大学が取り入れたから、さらにややこしくなった。一般に日本の大学では、1コマ90分でも、半期で2単位になる。これは、もともとは、このアカデミッククォーターを見込んでのことだ。ところが、この元の制度を知らない連中が、時間割をぎしぎしに詰め込んで、一日、5限とか、6限、7限、8限まで、組み上げた。こうなると、理屈が通らないので、文科省は、1コマは1単位相当の受講と1単位相当の自習を含む、とか、言い出した。欧米ならともかく、日本に、そんな殊勝な大学生なんかいるものか。教科書も持ってこない、というか、買ってもいない、というか、あるのも知らない学生がいるというのが現実だ。もっとも、世間で売れないような本を教科書として学生に売りつけて、小銭を稼ぐヘタレ教員、それをけしかけるヘタレ出版社も、ロクなものではないが。
 本来は、2時間だから2単位で、学生は、自習を自分で何時間でもやって当たり前だろう。まして、教員も、講義時間の何倍も、講義内容の練り上げと教材の作り込みに時間をかけて当たり前だろう。どこぞの三流教員が寄せ集めで書いた三流出版社の本を教科書にして講義をするような、そんなオリジナリティの無い教員は、給与泥棒だ、と思う。
 もっとも、無能な教員にかぎって、やたら人の本のコピーの配布資料ばかりが多いものだ。しかし、講義の合間の15分の雑談めいた質疑応答でも、的確な指導ができてこそ、大学人というものだろう。だから、私は、そのために、ふだんから自分のノートパソコンに、講義では使わないような小ネタもいっぱい集めている。手品のようにパッと出すが、こんなの、偶然でできるワザではない。

電子キットと北川重男先生

 カード屋から冊子が送られてきた。いつも縁のないものばかりだが、今回は妙な冊子だ。ホビー系の高額商品ばかりが並んでいる。子供のオモチャではない。ドイツ製のスターリングエンジンとか、バキュームエンジンとか、垂涎ものだ。どうやら出どころは、学研のものらしい。
 その中に、マイキット150が出ていた。なつかしい。むかし、さんざん遊んだ。レゴの次はこれだった。その後はTK80コンパチキット、そしてPC8000だった。そのきっかけになったのが、このマイキットだ。これは、電子ブロックより以前のスタイルで、いかにも当時の実験器具風の木の箱の中に、抵抗やコンデンサが系列化されており、ハンダで固められただけのリード線をスプリング接点に挟み込んで回路を作る。ダイオードが偉そうにまん中にあった。各種ラジオはもちろん、電子オルガンなんていう回路もお気に入りで、説明図を見なくても配線できるほど気に入っていた。
 その写真を眺めていて、思い出した。成城大学の北川重男先生だ。友人で成城に上がって北川先生のゼミに入ったのが何人かいたので、その御縁でとてもお世話になった。御専門はシェイクスピアだ。私ももともと学生ながらもシェイクスピアは原文で読み込んでおり、東大で中野里皓史先生の『マクベス』のゼミに出ていたこともあって、お話しを伺いにたびたび御自宅までおじゃました。山歩きや演劇、小説、そして、美術や音楽と多趣味でいらっしゃり、清里のコンサートホール(?)付きの別荘にもお伺いしたこともあった。
 北川先生の御自慢の宝は、真空管アンプだった。暖まるまで30分はかかる。スピーカーは電話ボックスサイズの巨大なものが部屋の両脇にある。レコードは、CDが切り捨てる音も物理的に録音されている、問題は機械の再生能力だ、とおっしゃって、そのセットで、カザルスの演奏を聴かせてくださった。その音像は鮮やかで、まさに目の前に、息をして弓を飛ばすカザルスが座っているかのように立体的によみがえってきた。
 子供は無く、犬をかわいがっていらっしゃった。ダリの本を書かれたかと思うと、詩をたしなんでいらっしゃった。大人にはなりたくないんだ、とおっしゃって、真空管アンプのオレンジ色のあかりに顔を近づけ、それをずっと眺めていらっしゃった。そして、2005年に亡くなられた。

物語学の現在

 大学の講義概要で「物語学」と書いてあるのを見て、おもしろそうだと思って受講すると、かなり失望する場合が多いだろう。内包された作者がどうのこうの、視点の焦点のフィルターがどうのこうの、そのうえ、例に出てくる本や映画なんか、読んだこともないような構成の変チクリンなものばかりだ。なんでこんなことになっているのか。
 じつは、「物語学」という看板の多くが偽りだ。原語は「ナラトロジー」つまり、「語り論」で、分野的に言うと修辞学の一種だ。私のように、物語そのものの内的な構造分析と創出技法の研究をやっている側からすると、つまり、本物の「物語学」をやっている側からすると、「修辞学」の連中が、この訳語を僭称するのには、大変、迷惑している。(もちろん、後述するように、繋がっているところが無いではないのだが。)
 ナラトロジーの根っこは、2つの面がある。まず理論的に言えば、ソシュールの構造言語学が分析の端緒を開き、これがチョムスキーの生成文法と、聞きかじりのオースティンの言語行為論によって、文学研究に応用され、プロップやトマシェフスキーのロシアフォルマリズムが合流し、メッツやグレマスの記号構造主義(本来の論理実証主義の記号論理学とは似ても似つかない疑似科学だと思うが)で映画論にまで進出、ここに、ドイツの解釈学のフランス風亜流をなめたフーコーだバルトだエーコだまで参戦して、いまやアメリカにも飛火し、ジュネット、チャップマン、ブラニガンがぐちゃぐちゃ言っている分野だ。で、話の焦点は、昨今、もっぱら「語り手」の存在性(物語の視点)にある。
 しかし、もう一つの面を言うと、生々しい。大学における過剰な語学系教員の問題だ。毎年、英語でも、フランス語でも、ロシア語でも、ABCを教えているだけなのだが、一応は大学の教員だ、ということで、もっともらしい研究をしなければならない。(体育系は、10人以上のオーサーの連名で、重心分析だの、扁平足だのの論文を作るのが大好きなように。)国文も、日本語を習いたい留学生相手が主になってしまった。ドイツ語は哲学に手を出す、というか、哲学出身がやむなくドイツ語を教えている場合が多いからよいが、他の言語は、このために、まずはシェイクスピアとモリエール、ドフトエフスキー、源氏物語あたりにしがみついて、80年代は、コンピューターを使った語彙分析をさんざんやった。ところが、これもすぐにネタが尽きてしまった。ここで、みんなナラトロジーに流れ込んだ。だから、小説でも映画でも、変なローカル作品が大好きで、大衆文学やハリウッドものを嫌っている。これに、やはり新しいものが打ち出せなくなった言語学や美学、社会学まで便乗した。そのうえ、マンガ学の連中まで出てきた。それで、昨今、話題の分野となっている。(そのわりに、他分野に関して勉強不足で、自己分野中心主義で、自信過剰の語りたがりが多い。そのうえ、ロシアフォルマリズムのせいかどうか知らないが、なぜかこの分野は、左翼っぽい教員が多いのも不思議なものだ。)
 自分自身の見解を述べれば、こと映像に関しては、重層的な「語り手」なんていう余地いない。見ての通りの画面の作り手だけだ、と思う。だから、ナラトロジーの議論には加わるつもりはない。もちろん複数の作り手たちの間での大人の事情はあるが、まともな物語を創ることに関して目的と規則が合意されている以上、修辞学ではなく、経営学のパワーバランスの問題だと思う。また、同じ画面を観客がどう理解するかは、哲学ないし美学の認識論の分野で、それを技法として生かす修辞学はその後の話だ。
 一方、本物(常識的にふつうのひとが考える)の「物語学」も、きちんとある。これは、脚本法を中心に、作り手の技法の側の理論から立ち上がってきた。宗教学や社会学の一部(たとえば都市伝説論など)も、こっちに与している。もちろん、シンプルな物語(神話や童話)がどういう構造で組み上がっているか、複雑化するか、などは、プロップその他にも大いに参考になるところはあるのだが、問題となるのは、既存の物語の分析などではなく、なにを読者ないし観客がおもしろいと思うのか、それはなぜか、である。しかし、ナラトロジーでは、テキスト重視で、言語行為としての観客が不在だ。だから、こっちの側の本物の物語学の方は、ナラトロジーなんぞ関係なく、ヒックスやマッキーなど、むしろ実際の脚本家たちが経験則から考えるところが大きい。だいいち、アリストテレスの『詩学』を挙げるなら、こっちが本家に決まっている。
 とにかく半端なナラトロジーの連中には、えらい迷惑している。まぎらわしい「物語学」などという偽りの訳語はやめてほしい。日本では、哲学ではなく哲学者学だし、物語学ではなく物語語り学だろう。名が正しくなければ、中味が正しいわけがないだろう。
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Profile
純丘 曜彰
すみおか てるあき 

美術博士(東京藝術大学/美学)、文学修士(東京大学/哲学)、東海大学准教授、ドイツ・ヨハンネス=グーテンベルク(マインツ)大学客員教授を経て、現在、大阪芸術大学教授。専門は哲学、メディア文化論。

東京生まれ。東京大学教養学部1組(横断インタークラス)、同文学部哲学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻修了。テレビ朝日報道局報道制作部ブレーンとして『朝まで生テレビ!』を手がけ、現職に至る。

wikipedia 純丘曜彰
純丘曜彰の映像論


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