美術博士 純丘曜彰教授のドイツ大学講義日誌

マインツ大学 メディア学部 映画学科 客員教授

January 2008

サンタクロースというキャラクター

santa claus











 ナストは、サンタクロースのイメージを創ったことでも有名だ。しかし、これは当初(1961年)、南北戦争下の北軍慰問に訪れるサンタとして描かれており、その格好は、アンクルサムと同じ星条旗だ。つまり、その色は、星付きの青いコートに赤白の縞ズボンが想定されていた、と考えることができる。ナストが描くサンタクロースの姿が安定するのは、それから20年後の1981年。しかし、ここにおいても絵はモノトーンで、色は不明。ドイツの伝統からすれば、やはりまだ青コートだと考えた方がよいだろう。

キャラクターの自立

army poster











 キャラクターは、作者を越えて認知されていく。アンクルサムは、とくに1916年の米国陸軍の新兵募集ポスターで有名になる。これを描いたのは、フラッグだ。もっとも、いまは、自由の女神やバニーガールと並んで、仮装パーティの典型的なオバカキャラだが。

最初のマンガキャラクター

uncle sam











 しかし、ナストは、このジョンブルの弟ジョナサンに代えて、1961年の末には早くもアンクルサムを創る。このアンクルサムは、もともと陸軍出入りの肉屋のサミュエル・ウィルソンのことだ。しかし、イニシャルが合衆国と同じUSであったので、この後、米国人の象徴となっていく。ナストももともとドイツ系移民(肉屋関係が多い)であり、直接に実在のサムとも親しかったことだろう。実際、この最初のマンガでは、アンクルサムは肉屋として描かれている。綴りがUMCLEと、まちがっているのが、移民らしい愛嬌だが。

オリジナルキャラクターの創造

john and jonathan











 ナストは、以後、カリカチュール画家として活躍する。ここにおいて、彼は国家を擬人化する必要に迫られる。すでにその姿は、先のリンカーンの手の天秤の上に見ることができる。ジョンブルというのは、昔から知られている英国人の象徴だが、ナストは、これにイメージを与えた。また、彼は、米国人を象徴させるべく、ジョンブルの弟として、新たにジョナサンというキャラクターを創った。

カリカチュールの到来

1961 caricature lincoln











 どのみち写真をなぞるペン画なら、なにもそのまま描くだけが能ではないだろう、というふざけたやつも出てくる。1961年3月、ニューヨークに移住したばかりの21歳のナストは、リンカーン大統領の就任式の取材を命じられる。そして、描いたのが、この絵。

写真と大衆ジャーナリズム

1961 photo lincoln










 写真は、すぐに絵画よりも強力なプロパガンダメディアになったわけではない。写真は、光と影のスフマートなハーフトーン(中間灰色)でできているため、白か黒かという二値的な版を用いて印刷する新聞には、当時、載せることができなかった。そのため、当時はわざわざ写真からペン画を起こして新聞に用いられた。
lincoln newspaper

写真時代の絵画

1875 monet promenade










 写真が発明されると、肖像画のような、見えるものを描くだけの絵画は不要になった。現実は写真で撮ればいい。絵画の役割は、より積極的に見ること、見えないものを見えるようにすることになった。印象派のモネは、死んでしまった妻の姿を何度も描いた。

実像と虚像の善意と悪意

失意のナポレオン










 しかし、これはどうだろう。1814年、フォンテーヌブローのナポレオンの姿。このうすらハゲのデブが、ナポレオンの実像なのか。だがしかし、これが描かれたのは、1845年。つまり、この絵は、峠越えや戴冠式ほどにも実体に基づいていない悪意の想像であり、その後のカリカチュールの先触れだ。

キャラクターとニュース

戴冠のナポレオン











 行事は、終わってしまうと印象も薄れてしまう。しかし、ナポレオンは、自分の戴冠式を絵画にすることで、そして、この絵画を展示することで、反復的に印象づけた。

映像的キャラクターの発見

峠のナポレオン











 古代エジプトの王族は自分の像を創り、古代ローマの皇帝は自分の姿をコインに残した。しかし、近代的な意味で、映像的キャラクターの意義に最初に着目したのは、おそらくナポレオンだろう。アレキサンダー大王が画家アペレスを重用したように、ナポレオンもまた、多くの宮廷画家を抱え、戦地でのみずからの姿を民衆に示した。

絵画におけるキャラクター

ホガースのキャラクター











 ホガースのキャラクターを並べてみると、こうなる。花婿と花嫁、そして弁護士だ。こんな風に着替えられたら、同一人物とわかる方が難しい。その一方、この大きさではわからないかもしれないが、じつはこれらの人物は、男も女も、それこそマンガ的に、ほとんど同じ顔だ。つまり、ホガースの場合、人物の同一性は、各絵画内での関係性において成り立っており、作品を越える視覚的同一性を持っていない。つまり、犬とdogとHundが似ていないが同一だ、と言うようなものだ。だから、マンガではない。マンガは、コマを越える視覚的同一性が求められる。

マンガが線画である理由

当世風の結婚1745











 マンガは、線画でなければならないか。これは、形式的な定義の問題ではない。いま考えているところだが、ダヴィンチ・レンブラント的な光と影の画法では、マンガは成立しないように思う。もちろん、マンガでも、『ディックトレーシー』や『バットマン』のようなハイコントラストな画法はないではないが、手塚プロのアニメの止め絵と同様、それはあくまで見栄切りであって、動的な時間性を失わせる。アニメでも『木を植えた男』や『老人と海』のように、線を用いない画法があるが、それこそむしろコントラストは抑えてある。で、ホガースがマンガか、ということで言えば、あきらかにちがう。マンガだとこうなる。

塗り残す絵と線

赤絵











 さて、黒絵から百年後、人物が黒いのが気に入らなくて、反転させた赤絵が出てくる。見た目は簡単だが、これは輪郭線を描いておいて、その外側を塗りつぶす、手間のかかるやり方だ。つまり、ここでは、すでに筆による線が用いられている。
 こんな黒絵と赤絵など、マンガの話と関係ない、と言うなかれ。けっこう重要な問題だ。後述するが、たとえばディズニーでも、モノクロ時代には黒いミッキーマウスが都合がよかったが、カラー時代になると白いドナルドダックが必要になったのだ。ミッキーマウスの絵の背景は線だが、ドナルドダックの背景はカラーの面塗りだ。だから、白いキャラクターが必要になる。黒い宇宙を背景とするとき、ガンダムが白で、ザクが赤なのも、同じ理由だ。

ミニマム芸術としての線

fontana(1960)











 ちなみにフォンナの『ウェイティング』。なんでこんなのが芸術として評価されているのか、意味がわからん、という人もいるかもしれないが、最小限の芸術を考えたとき、画面一面を一色で塗る、鏡を貼る、黒い線を描く、等々、さまざまなものが提起された。そして、文字通りの決定打がこれだった。ペインティングナイフでキャンパスに一撃を加えた。色さえも無い。しかし、まさにこれが描くということだ。

削ることとしての線

黒絵












 古代ギリシアでは、もともと素焼の赤い粘土の陶器に黒い釉剤を使って幾何学模様を描く手法があった。ところが、さらにこの釉剤を削って絵を描く手法が生まれる。黒絵だ。つまり、塗りすぎた輪郭外を落とし、また、塗ってある輪郭内に線を描く。エジプトでもそうだが、線というものは、人間がモノに対してピンポイントを力をかけて、削りひっかくことから生じている。つまり、人の線は力そのものだ。

ダヴィンチ以前

nesmin











 ヨーロッパにも線画の伝統がないわけではない。エジプト(ヨーロッパではないなどとヘリクツを言うな。アフリカ北岸を含め、文化史において地中海世界はヨーロッパだ。)では、知っての通り、線画が描かれている。ただし、これは石の線彫から発展したもので、筆のような力線の発想はなく、きわめて単調な線だ。ただし、絵が写実性よりも、記号性、象徴性が重視され、それ自体、文字的に描かれていることは注目に値する。

初期水墨画のパラダイム

荊浩(五代)匡盧図











 荊浩は、呉道子は有筆無墨、張璪は有墨無筆、と批判し、自分は両方を取り入れた、と自称しているのだが、実際はほとんど線筆は見られない。(むしろその後の水墨画の方が、木の幹の伸びを表現するために、輪郭線描が復興する。)また、水墨画は、山水画と同義であるくらい、もっぱら風景が素材となり、人物や動物の躍動的な生命感を捉えようという気がない。(人物や動物の絵がないわけではないが、はっきり言ってヘタだ。)荊浩が白画の代表としてあげている呉道子にしても、線は単調で、鳥獣戯画のような筆の力線とはまったく異なる。

線画としてのマンガの始まり

鳥獣戯画(c1200)











 で、このふざけた画風はなんだろう。筆で描いているのだから、こんなの中国にもあるだろう、と思うかもしれないが、じつは無い。水墨画は、墨で描くもので、筆で描くものではなかった。古代中国においては、たしかに白画と呼ばれる線描筆画があったのだが、唐代から水墨画が生まれ、荊浩以後、水墨を薄く面を塗って陰影遠近を描く、まさにスフマート的なものが主流になってしまった。そして、禅文化とともに日本に入ってきた水墨画も、すでにこの形態だった。にもかかわらず、日本で、こういう変な絵ができた。それも、こんな妙な題材だ。なのに、うまい。鳥羽僧正が描いたということになっているが、ほんとうは誰が描いたのかもわからない連作群だ。

写真そして映画のパラダイム的限界

Newton (1988) Lynch and Rossellini











 このダヴィンチ・レンブラント的な近代西洋美術のパラダイムは、その後も写真、そして映画の世界を包括し続けている。つまり、照明や覆い焼きによって、現実よりはるかに強調された光と影のコントラストを生み出し、物事の存在感を表現するというものだ。とくに映画は、闇の中に光で描き出すものであり、このダヴィンチ・レンブラント的な撮影哲学がきわめて支配的である。(後述するが、これに対して、アニメは、影を使えないテレビの発光媒体であったために、コントラストではなく、サチュレイション(彩度)を重視するようになる。)

実用写真から芸術写真へ

Smith (1946) Paradise











 ちょっと話を飛ばすが、写真がたんなる光学的な記録にすぎないと思われていた時代から芸術へと展開する際、ダヴィンチ・レンブラント的なパラダイムに依拠することが行われた。ここでは演出によって構図が決められ、色味も調整される。ユージン・スミスは、この後、この芸術的手法で『水俣』を撮った。しかし、このことは、当時、報道写真からの逸脱として批判にさらされた。

レンブラントのコントラスト

Rembrandt (c1628) St Peter and St Paul 











 レンブラントになると、光と影の関係はより強烈になり、スフマートとしての中間のぼかしさえ無くなってしまう。

モナリザの美術史的意義

DaVinci(1506) La Gioconda










 美術史においてこの絵が重要なのは、その後の西洋美術の方向を決定づけたからだ。すなわち、絵を光と影によって描いており、スフマート(明暗のボカシ)によって立体感を表現している。つまり、その後の西洋美術のパラダイムとして位置づけられることになった。(より先に同じ描き方をした絵があるかどうかは問題ではない。)

マンガのキャラクターとしてのチャップリン

 チャップリンmini











 イタリアのコムメディア・デッラルテなどにおいて、すでに演劇ではキャラクターの重要性が認識されていた。ここにおいては、各キャラクターは、いちいち劇中で立場や身上を説明することなく、登場とともに観客に受け入れられる。しかし、コムメディア・デッラルテのキャラクターは、正確に言えば、身分制度や職業区別が社会的に存在していればこそであり、そのティパージュであって、むしろ社会セクタ化された匿名的エブリマンである。したがって、この点において、これらは、近代的な意味でのキャラクターではない。
 近代的な意味でのキャラクターに最初に着目したのは、チャップリンだろう。それはもともとは、よくいる匿名的な浮浪者エブリマンの誇張的ティパージュだったが、その誇張ゆえに、ユニーク(唯一無二)なキャラクターになった。つまり、このユニーク性、固有名詞性こそが、近代キャラクターの特徴だ。
 逆に、この固有ユニーク性のゆえに、アリストテレス的に言えば、チャップリンは多様に描かれる。そのキャラクターは、ただちに新聞マンガになった。そして、さまざまな作者が描いても、それは、チャップリンだ。
 しかし、「チャーリー・チャップリン(トランプ)」というキャラクターを演じていたのは、チャールズ・チャップリン。それこそ、まったくの別人だ。とすると、キャラクターが存在する、とはどういうことなのか。これは、演劇においてマクベスやハムレットが存在する様態とは異なることに気をつけなければならない。マクベスやハムレットは、さまざまな役者によって演じられるべき役であって、キャラクターではない。これに対し、チャーリー・チャップリンは、チャールズ・チャップリンのオリジナルの持ちキャラで、言わば、ビートルズにとっての『レットイットビー』のようなものだ。他の人がチャップリンのキャラを真似ることは容易だが、それはチャールズのチャーリーのカバーであって、チャーリーそのものではない。この点において、マクベスやハムレットとは明確に異なっている。

1915 Bertie Brown






1916 Freddie Adkins









1923 Wally Robertson






1932 Don Newhouse










1938 Terence Wakefield





チャップリン本人

コマの発生

via curcis















 キャラクター仮同原理を用いたコマ絵形式の起源は、古い。キリスト教では、14留14場面は、よく知られている。仏教でも、仏陀の生涯を描いた曼荼羅がある。日本の絵物語もそうだろう。これらは、絵画でありながら、組作品として時間性を持っている。ただし、時間性といっても、ステップバイステップであり、個々の場面は、スタティオと呼ばれるように、停止的である。コマの中そのものに時間性を含ませる表現技法は、これらの組作品には、まだ見られない。

マンガの原理

出勤Bmini











出勤Cmini












 どういうわけか、赤いスーツの男が前に飛び出る。しかし、よく見ればわかるように、この二枚の絵は、じつは同じもので、人物の色を塗り替えただけだ。どうして、2人が着替えた、とは考えず、移動した、と思うのだろうか。
 これは、哲学的に重要な認識錯覚の一種だ。一般には、カントの言うように、我々は、感性形式、つまり、絶対座標となるべき時空間の中で対象を認識しており、同じ場のものが同じものであるとされる。別の場なら、別のものだ。(ライプニッツの同一性原理も参照せよ。)ところが、マンガでは、悟性認識による対象の同一性が優先されてしまう。そして、対象を同一であるとしてしまったために、時空間の方がずれた、と感じられる。
 つまり、赤いスーツの男が同一である以上、次の絵で、同じ時、同じ場所にいないのはおかしい。それで、前の絵から次の絵へは時間と場所が変わったにちがいない、とかってに納得して認識する。
 知ってのとおり、アニメーションは仮動原理に基づくが、マンガはこのように仮同原理に基づいている。マンガがキャラクターなしに成り立たないのも、このためだ。

釣りの老人が巨大ネコに襲われる

釣老人が巨大ネコに襲われる













 こんなパターンもあるよ。
  絵の中 この池の魚はみんなオレのにゃ!
        そんな無体な。。。
  文 章 彼は釣りにいった。すると、
        彼は突然、巨大なネコに襲われた。
 私、こういう話、大好き!
 君の感性はよくわからんな。まあ、とにかく
 文Aは行動の描写で、文Bも同じく行動の描写だ。

こんな感じで、パワーポイントを作っていってるわけだ。向こうのマンガ風のフォントを探すのに苦労した。アメリカンコミックのフリーフォントはいっぱいあるが、ウムラウトがないと、ドイツ語は書けない (ことはないが、見苦しい) ので。

物語と現実の構造

決闘












 現実には、行動しかない。発話も行動の一種だ。しかし、行動は、規範によって意味づけされ、理由や意志、目的の連関を構成している。つまり、存在(ザイン)に対して、当為(ゾレン)がある。また、行動のなかでも、発話は、志向性を持つ。(思考や思念もそうだが、これは、実際には仮想的であることの方が多い。つまり、実在しなかったのだが、実在したとして説明した方が説明しやすい、という都合による。)
 さて、これが物語(小説)になると、3つの層をなす。第一が、行動(事実状況)の描写。第二が、発話言語引用。つまりセリフ。そして、第三が、当為や過去、その他に関する関係節の説明だ。
 映画(アニメ)の場合、関係節が落ちる。もちろんナレーションを入れる手もあるが、うざい。だから、本来は、関係節に相当するものをエピソードに展開する、または、セリフのニュアンスに繰り込む、というのが筋だ。(たとえば、『プラダを着た悪魔』は、女編集長が秘書に仕事を指示する最初の1分で、彼女の家族関係から生活選好までセリフのニュアンスだけで語ってしまった。すごい!)
 ところが、出来の悪い脚本では、関係節をセリフに繰り込む。アニメはこれが多い。だから、やたらバカみたいにセリフが長い。(「ああ、これがさっき、とうさんの言っていた操縦マニュアルだな。」とか。現実には、こんな説明調の長セリフを語るやつはいない。)しかし、その一方、不思議なことに、マンガには長セリフは少ない。その最大の理由は、吹き出しに入らないからだが、では関係節をどう処理しているのだろうか。

いっぱい歩かせてみた

 AVIの貼り付けがややこしいので、わざわざアドビのプレミアプロCS3を起動して、秒12コマをアニメGIFとNTSC2997のWMVに変換。なんとぜいたくな使い方! 前者は余計な黒味が1フレ、入ってしまったぞ。なぜだ? 後者はフレーム数は増えたが、かなり圧縮された。講義では、どのみちクリアなフルサイズを使う予定。

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modelwakingtest

3Dのおあそび

このモデリングソフトと組み合わせると、かなり楽に仕事できるなぁ。あれこれの比較例に使うだけだから、こんなんでも、まあいいか。

ポートレイトmini

多忙そうな一年

 謹賀! 今年は忙しそうだ。いつものことではあるが、複数の仕事を並行して進行させている。一段落して最終調整中のものもあれば、途中でほったらかしのものもある。
 ハックルベリー・フィンは、すでに資料は集められ、原稿も構想はまとまっているのだが、書く前に、ぜひ実際にミズーリ州のハンニバルに行って、写真を撮ってきたい。どうせ行くならば、問題の増水の季節に行ってみたい。(じつは、あの話は、月の記述がしばしば登場するので、日付を割り出すことができる。)が、当座、時間もカネも無い。都合がつくのは、来年の夏になりそうだ。三修社さん、ごめんなさい。
 ビデオのカメラワークの話は、これまた『人気テレビ番組の文法』のように、3D人形を駆使して図解する段取りはついているのだが、実際に、ゼミの学生たちにカメラを操作させてみた結果、もっとも問題になったのは、市販のビデオのズームのいいかげんさだ。ちょっと触っただけで、すぐスウィッシュになってしまう。よほど熟達しないと、あんなスイッチでは、プロ用のカメラのように、ズームとパーンを連動させる、まして、めまいズーム、などということはできない。(これも、研究室で、さんざん実際にやってみたのだが、だれもうまくできない。)というわけで、市販ビデオの性能で映画並みのものを撮る方法については、まだそのコツを研究する余地がある。というわけで、この件も、まだしばらくかかる。フィルムアート社さん、ごめんなさい。
 秋からやっているのは、グーテンベルク大学の講義用の資料作り。ひとつは、マンガとアニメの映像原理の話。いろいろ本も読んだが、どれもこれも分類の羅列ばかりで、ほとんど役に立たない。そんなのではなく、根本の共通原理こそが問題だ。もうひとつは、物語学と映像文法の話。これは、『エンターテイメント映画の文法』を再構成して、映像は3Dで図解する予定。(映像に関わっているプロは、文章だけでも、どういう絵なのか、わかるのだが、あの本は図が少なくて、わからん、という初心者の読者も少なくなかったようだ。)
 幸い、ドイツ人の不動産屋さんや大家さんに気に入られて、早々に住むところは決まった。ヨーロッパでの部屋探しは大変だ、と聞いていたので、誠に有り難い。それも家具付きでマインツの旧市街。町の中心の聖堂からほど近い。ライン河畔へも歩いて1分で出られる。夏のビアフェストが楽しみだ。クリスマスマーケットやカーニバルも盛大に行われる。おおいに勉強してこようと思う。 
マインツの時刻と天気
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Profile
純丘 曜彰
すみおか てるあき 

美術博士(東京藝術大学/美学)、文学修士(東京大学/哲学)、東海大学准教授、ドイツ・ヨハンネス=グーテンベルク(マインツ)大学客員教授を経て、現在、大阪芸術大学教授。専門は哲学、メディア文化論。

東京生まれ。東京大学教養学部1組(横断インタークラス)、同文学部哲学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻修了。テレビ朝日報道局報道制作部ブレーンとして『朝まで生テレビ!』を手がけ、現職に至る。

wikipedia 純丘曜彰
純丘曜彰の映像論


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