美術博士 純丘曜彰教授のドイツ大学講義日誌

マインツ大学 メディア学部 映画学科 客員教授

August 2008

古都にアンティークカーは似合う

アンティク自動車

 ほんとうにこのメディアの街は、イヴェントが多い。今日は朝から、アンティークカーレースだ。このマインツをスタートして、ライン河沿いにウォルムスまで登り、ブドウが実る丘を巡って、ここに戻ってくる。なにしろ年代物の車ばかりなので、ゴール予定は夕方。戻ってくるまで走っていれば良い方かも。

AIPTEK V10の威力!

aiptek v10

 これなぁんだ? 携帯電話じゃないぞ。ポケットサイズの超小型プロジェクターだ。映像関係では世界でちょっと知られたアイプテクの今年の夏の新製品。もっとも、このアイプテク・アメリカではなく、ヨーロッパの方のだ。うちの近所の電気屋コンラッドで、大々的に売り出した。
 この大きさで2メートル弱で55型まで拡大できるとのこと。もちろん電池で使える。メモリー内蔵だから、単体でも写せる。これなら、大型テレビがばかばかしくなる。価格は、299オイロ。5万円くらいだ。
 で、スペックは、というと、VGA(640x480)。まあ、ふつうのテレビと同じくらいの画質だ。ハイビジョンより劣るが、DVDだってこの程度だし、ふつうのプレゼンなら十分だろう。
 とはいえ、致命的なのは、明るさ。わずか10ルーメンだってさ。それって、懐中電灯くらいじゃないのか。55型まで拡大したら、うっすら見えるか見えないかくらいだろ。(ちなみに、私がふだん使っているのは、2000ルーメンだ。これくらいだと、昼間の教室でも、暗幕なしで使える)
 もっとも、私は、これを見て、従来のプロジェクターとはまったく違う使い道を考えていた。ちょうど結城座さんに、日本の昔の幻灯芝居、写し絵についていろいろ教えてもらっていたところだ。ヨーロッパの重くて熱いマジックランタンやファンタスマゴリアと違って、日本の伝統の幻灯芝居は、風呂と呼ばれる桐箱でできた軽い小型幻灯機を手持ちで動かして使う。そして、この超小型プロジェクターなら、それが現代風に、もっと簡単にできる。ライブとビデオを融合した新趣向の影絵芝居などとして、これは意外に使い道がありそうな気がする。

ドイツはもう秋景色!

クッパ−ベルクの紅葉

 日本は暑いそうだが、ドイツは、ずっと寒い。晴れるだけ、去年の冷夏よりは、まだましらしい。イタリアの方はあいかわらず30度を越えているとのことなので、ヨーロッパにおけるアルプスのすごさを思い知らされる。

 街では、秋物を飛ばして、もう冬物セールが始まった。実際、行き交う人も、もうコートをはおっている。夜も、窓はシャッターを閉めて寝るくらい。まあ、まだ暖房はつけていないが。

 裏山のレンガの建物のツタが色づいている。街のプラタナスももうすぐ黄色くなるだろう。こちらでは、これから新生活のシーズンだ。

列車なのか、バスなのか

観光自動車
 マインツの街では、この夏から、こんなのが毎日、一日中、走り回っている。観光客に、簡単に市内を見て回ってもらおう、ということで、乗り降り自由。1時間で一周だから、1時間後に、また、乗ることもできる。子供用ではなく、大人が余裕で座って乗れる。
 これ、列車なのだろうか。自動車なのだろうか。もちろん蒸気機関車ではない。たぶん電気自動車だ。じゃあ、これ電車か。ふつうの道路を走るから、少なくとも鉄道ではないのはたしかだ。
 この観光列車自動車電車、マインツだけではない。けっこう、ほかの街でも色違いで走っている。どこでも人気だ。

眠れる森の美女の城

エルツ城

 と話に聞いて来たが、いまやドイツ人観光客が大勢押しかけて、ピカピカにリニューアルされちゃって、どうよ、これ。

 ノイシュヴァンシュタイン城は、なぜかやたら日本人に人気。最近は、韓国人や中国人も多い。日本にもディズニーランドがあるじゃないか、と、現地ではドイツ人たちに公然と揶揄されている。実際、ノイシュヴァンシュタイン城と、カリフォルニアやフロリダのディズニーランド城と、百年も違わず、構造は同じ鉄骨コンクリ製だ。ルードヴィッヒ二世という王様は、ウォルト・ディズニーの先駆のような人で、パリ万国博のエッフェル塔より後に、自分のためだけに、中世テーマパークを作ろうとしたわけで、あの城は、言うまでもなく、本物の中世の城などではない。
 で、近年は、ノイシュヴァンシュタイン城に行く凡百の日本人をバカにして、シュヴァルツヴァルトのホーエンツォレルン城を賛美する日本人も多い。ここは、日本人の結婚式も挙げられるのだとか。でもね、これも、ノイシュヴァンシュタイン城と同時期に、プロシア帝国の威光を示すために、先祖の発祥の地に中世風に作られたまったく新築の城なんだよ。
 つまり、ノイシュヴァンシュタイン城も、ホーエンツォレルン城も、どのみち熱海城みたいなもの。あれに外国人がぞろぞろ来たら、不思議でしょ。でも、その不思議なことが現実に起こっている。

 そういう外国人を揶揄するドイツ人たち自身の好みは、ヴァルトブルク城と、ここ、エルツ城。たしかに、どちらも、まさに本物の中世の城だ。ヴァルトブルクは、年来、東ドイツ側で行きにくかったが、近年はもう開けたらしい。ルターやワグナーでも有名な由緒ある城。でも、ちょっと遠い。
 というわけで、まずはエルツ城に行ってみた。それにしても、行く途中からやたらあちこちに道案内が出ている。着いたら、大型バスがいっぱい。駐車場も大きい。ここから歩いて坂を下りていく。で、写真のとおり、ピカピカ。うーん、これじゃ、ノイシュヴァンシュタイン城やホーエンツォレルン城と同じに見えてしまうじゃないか。半分崩れて木々に埋もれた廃墟の城だったら、最高のロケーションなのに。

 だが、ピカピカなのも、理由がある。この城、ついこないだまで、本当に城主一家が住んでいた。中世以来、だれも攻めてこないまま、時代に乗り遅れ、近年は没落して引っ越すに引っ越せず、どうにかここに暮らしていた。だから、内装も、最後にカネがあった十九世紀のゲーテハウスと同じころのもので停まっている。それ以降、買い換えも、改装もできなかったらしい。見晴らしも悪い谷底にあるので、戦後の古城ホテルブームにも乗ることができなかった。それが、つい最近、突然に、周回遅れで本物の古城の観光ブームに湧いて、大金が入ったものだから、とりあえずあちこちを直してしまった。城主一家も、たまに帰ってきて、上の方の部屋を使っているらしい。城の中には、妙にリアルな生活感がある。たしかに、作りものではない。こんな古い家に住むのはたいへんだろうな、と思わせる。

 とにかく、モーゼル川の小さな支流の谷底にあって、歴史から相手にされなかった城。城主一家も、中世から続くとはいえ、歴史的事件にはなにひとつ関与していない。ナポレオンが東へ行こうと、ヒットラーが西へ向かおうと、こんな城なんか、おかまいなしに、モーゼル川本流の方を通り抜けていってしまった。それだからこそ、この城は、今の今まで無傷で残っているのだろうが、それなら、これは、いったい、なんのための城だったのか。そのまぬけさが、また、このとんちんかんな古い城の魅力なのかも。

 なんにしても、まだ知名度が無いせいか、日本人などの東洋系はあまり来ていない。ドイツ人はもちろん、アメリカ人やインド人も、すでにいっぱい。いったいどうなっているのだか。まあ、城はともかく、散歩するには、とても気持のよいところなので、コブレンツのついでにどうぞ。といっても、公共交通機関はまだないが。

ドイツのマイスター職人たち

職人祭
 唯一無二(einzigartig)、これが彼らの売り文句。規格どおりの仕事がこなせるのは当然。それを越えるオリジナリティがあって、マイスターとなる。教は、マインツで、彼らのデモンストレーション。この季節、各地の街で、このイベントが行われる。夏が終わって、秋からの新生活探しのシーズン。このイベントは、徒弟希望者たちに、マイスターとの出会いの機会を与えるために開かれている。
 そうでなくても、ドイツでは、10歳で人生の選択を迫られる。ギムナジウムに進学して勤め人になるのか、職業校へいって職人をめざすのか。子供たちや親たちにとっても、この年齢で適性を判断するのは難しい。こういうイベントは、実際のマイスターたちの仕事ぶりを見て、実際に道具に触れ、考えることになる。

 製本職人
 職人、と言って、いろいろ。たとえば、製本職人。本は、著者や編集者だけでできているわけではない。印刷職人が作った書籍本体に、製本職人は皮表紙を着け、金箔を押す。この本としての仕上げによってこそ、痛みやすい紙が数百年の記憶に耐えるようになる。プロの仕事は、開いたらたおやかに平らに開いて動かず、閉じたら虫やカビなどにやられる隙がなく完全に閉じること。日本で横行している背表紙糊付けなど、あれは読み捨て雑誌の作り方だ。

ソーセージ職人
 この人は、ソーセージ職人。大量生産の時代にあって、手作りでソーセージを作る。試食させてもらったが、たしかにうまい。もっとも、仕事一筋の寡黙で峻厳な職人たちが多い中で、この人は、やたら饒舌で陽気。職人気質と言っても、分野によっていろいろあるものだ。

大工見習
 もっともたいへんそうなのが、大工。この連中は、大工見習。この格好で、歩いて各地のマイスターたちのところで数ヶ月ずつ、数年間、遍歴修行をしなければならない。歩いて遍歴するのは、街や村の家々を実際に自分の目で見るため。移動すればいい、というものではない。服装も、これだけ。棒くいに、シャツの着替えと身の回りのもの、基本道具だけをもって、ひたすら歩いていく。街ごとに、彼らのたまり場の店があり、そこで情報交換するが、マイスターのところへ行ったからと言って、そこで見習の口が空いているとは限らない。空いていなければ、次のマイスターのところまで歩いて行かなければならない。どうにか雇ってもらったとしても、長居をすることはできない。一仕事を終えれば、推薦状をもらって、また次の街へ。

 しかし、ドイツでは勤め人や大学人も同じ仕組みだ。同じ職場にいつまでもいても、昇進昇格ということはない。あちこちの職場を遍歴し、学位や資格を得て、別の職場の上のポストをつかむ。日本のように、昇進昇格のために、長年、我慢に我慢を重ねて、上司に媚び、上司の方も、それをいいことに部下を子分扱いして派閥を作る、などという、ジメジメした社風の余地はない。

アメリカのステーキはうまい!

ステーキ
 さっそく食べることにした。1人前で1ポンドくらいある。28センチのフライパンを買っておいてよかったと思う。なんにしても、こっちにいると、なんだか量の感覚がだんだんおかしくなってくる。洗剤とかも、88回分の巨大箱だったりして。買ってから持ち帰るのに、頭を抱える。
 それはそうと、ステーキだ。うまい。日本の牛肉のように脂っぽくない。柔らかい。ジューシー、とは、こういうことか、と思い知らされる。これ、六本木の鉄板焼き屋とかで食べたら1万円以上するだろうなぁ。でも、スーパーで買ったから、日本円換算だとわずか数百円。写真にはないが、ドイツのイモのほかに、アメリカで買ってきたトウモロコシも茹でた。ほんとうは輪切りにしてBBQスタイルで焼くらしいが、まあ、おいしければなんでもいいや。とにかく、これも甘くておいしい。
 それにしても、なんで日本は食費があれほど高いのだろう。輸送コストのせいではなく、わけのわからない法人がへばりついているからじゃないのだろうか。昔の東欧と同じか。仕事と永住権さえなんとかなれば、ヨーロッパやアメリカに移住してしまう人が多いのも、これでは当然のような気がしてきた。

ちょっとアメリカへ行ってきた

スナックボックス
 ちょっとアメリカ合衆国まで行ってきた。出かけにパスポートを忘れそうになって、あわてた。それにしても、ここからだと、アメリカも近い。すぐ着いた。
 わざわざ、なにしに来たか、というと、たんに買い物。だから、さっそくスーパーへ。価格がドルでついているのは当然ながら、単位がややこしい。いきなり牛乳はガロン(約3.8リットル)売りだ。ガソリンじゃないぞ。毎朝、こんなに飲むのか。だから、こいつら、みんなこんなにでかいのか。
 液量は、江戸時代の貨幣みたいな4進法で、1ガロン=4クォート=8パイント=128液量オンス(fl oz)。このオンスというのがややこしくて、重量の単位としても使う。この場合、1オンス(oz av)は約28グラムで、1ポンドは16オンス。本来、イギリスでは、1液量オンスも、水28cc相当で、20オンス=1パイントだったのに、アメリカでは、液量にむりやり4進法を導入したものだから、ズレが生じてしまった。
 単位がこの調子だから、裏の調理法を読んでも、さっぱりイメージがわかない。まして、温度が華氏(ファーレンハイト)だ。その名のとおり、ドイツ人が作った単位だが、そんなの、ドイツだって使っていないぞ。これは、水の氷点と沸点を100分割ではなく180分割したもので、つまり角度と同じ12進法系の単位だ。これの換算が面倒なのは、氷点が0ではなく、32度であるため。生活上、人工上の最低温度(セ氏−17.8度)を0にした、とか言うが、せめてこれが36度だったら、まだ計算しやすいのに。なんにしても、数量単位ならともかく、等質的に足したり引いたりできない程度単位の温度で12進法系を使っても意味がないと思うけど。たとえば、華氏120度の水を3分割しても、40度にはならないもの。
 こういうのを見ていると、アメリカが世界の中心なのも、もう長いことはないだろうなぁ、と思う。イスラム歴のことをとやかく言えたものではない。世界と交易しようと思えば、まず標準単位に則ることが大切なのにねぇ。実際、いま、アメリカが外国に輸出できるのは、最初からミリ単位を使っている映画くらいのものだ。自動車も、コンピュターも、いまだにインチ単位の道具がないと直せないので、どこの国でも嫌われる。
 で、アメリカでいろいろ買ってきた。アント・ジェマイマのシロップとか、ポール・ニューマンのヴィネガーとか。でも、いちばんのお気に入りがこれ。アメリカと言えば、ジャンクフード。ジャンクフードと言えば、やはりアメリカだ。それも、フリトスやレイズのオリジナル味もきちんと入っている。45袋入りボックス。おい、でも、この数字、変じゃないか。12袋4列なら、48袋だろ。なんだか、3袋、損した気がする。

日本画と洋画の隙間

 どういうわけか、日本は、学問まで縦割りにしたがる。それも、戦後は、一般教養が欠けているから、みな独善的で、わけがわからん。

 美術史もそうだ。日本美術史、とかいうと、江戸時代で浮世絵が終わって、明治は洋画の話になる。担当教員も交代する。また、演劇史とジャーナリズム史、漫画史などがばらばらにかってなことをやっている。

 が、実際はそうではない。幕末から明治にかけて、芸術文化はごたまぜに突き進んできた。そして、この分類不能のルネサンス的な総合芸術家たちが、これまで文化史から抜け落ちたままになってきた。ところが、最近、新発見であるかのように、手のひらをかえしたように個別に採り上げられれ、もてはやされる。これも間違いだ。彼らは、当時の人気作家であり、きちんと系脈を持っている。

国貞

 最初は、歌川国貞(1786-1865)。初代豊国の弟子。豊国の養子を押しのけて、自分も二代目を襲名した。一般に三代目と言うが、やはり二代目と呼ぶにふさわしい。彼はケレン味たっぷりの芝居絵を多く描いた。写楽などより色もポップだ。この『助六』は1850年ころ。まだ江戸時代で歌舞伎が人気だったころ。

国芳

 次が歌川国芳(1898-1861)。国貞の弟弟子で、北斎や広重の同時代人。しかし、伝統的な初代豊国、シックな北斎や広重とは、図柄がまったく違う。色遣いも大胆だ。だいいち、砲弾がぶちあたった一瞬の輝光を、白ヌキで表現する、などという劇的描写法は、世界的に見てもものすごい新しい。この絵は、1848年。


暁斎

 河鍋暁斎(1831-89)は、国芳の弟子。まさに幕末の混乱のさなか。伝統的な日本画や、新時代の世相画を描く一方、ボッシュか、デュラーか、と思うような、東洋的宗教色をふくんだ作品も残した。


芳年

 月岡芳年(1839-92)も、国芳に入門。猟奇的な事件画を得意としたが、その一方、江戸時代にはありえなかった日本ナショナリズムへの関心が強まっている。

芳翠

 そして、山本芳翠(1850-1906)。油彩だったので洋画家ということになっているが、テーマは芳年と同じ、日本ナショナリズム。こういうテーマ性のある絵は、浮世絵以来の伝統に則ったものであり、大衆の人気を博したが、アカデミックな画壇は彼を無視した。

 江戸時代の浮世絵が外国人の評価によって日本の古典して注目される一方、その末裔のこの種の絵画は、あくまで通俗的なものと見なされ、美術としては扱われることはなかった。しかし、江戸時代同様、この系譜から多くの挿絵画家たちが生まれてくることになる。もっとも、紙芝居や漫画としては、かなり稚拙な水準にまで後退を強いられるが。

パナソニックDVDのリージョンフリー化

 いまどき国境があるのは、電器業界くらいだ。英語しかできない理系の電器屋が、ドメスティックな感性で電子機器の規格を作るからややこしくなる。
 アメリカのアマゾンからDVDを買うと、日本まで送料で14ドルかかる。が、ヨーロッパまでなら3ドル半以下。そのうえ、言語的に英語でかまわない、となれば、ばんばん買い入れるのは当たり前だろう。
 とくに英国の連中が困っている。というのも、プレイヤーはヨーロッパ規格のリージョン1なのに、言語は英語圏、つまり北米のリージョン2だから。このため、通販などでは、DVDはリージョンフリーにして販売するのが当然になってきている。そうでないと、使えたものではない。
 しかし、話によれば、パナソニック製は、だれでもどれでも同じ方法で簡単にはずせるらしい。そうでないと、こんな国際的に販売できないのが現実だろう。Enter, 6, >=10, <<, 00F2, Audio, 8, 1, Subtitle, 4。これを、DVDが空の状態で赤外線入力するだけだとか。最後の4がリージョン番号で、4がフリー。特殊な乱数もなにもない。ふつうの設定番号だ。
 ただ、問題は"00F2"で、このFが添付の標準リモコンでは入力できない。このFだけのために、IR(赤外線)が使えるパソコンかPDAが必要になる。IRコードは、0082 0015 0089 0004 00F2 0033 0017 0010 0091 0013。これもサードパーティに公開のものだろう。
 私は、パナソニック製ノートパソコンのDVDドライブこそ、リージョンフリーにしたい、というか、リージョンフリーでないと仕事にならないのだが、UJ-833Sは、バカみたいに堅いらしい。そこらのリージョンフリー化ソフトも歯が立たないらしい。マルチドライブでどんなメディアでも使えます、とか言っておきながら、でもDVDは日本製のものしか見られません、なんて、なんていまだに大阪松下な感覚なのだろう。実際、このドライブは、世界のパナソニックではなく、いまだに日本の"MATSHITA"ブランドだし。いまどきこのノートパソコンひとつで世界を飛び回っている人間は多いのに、こういう変なローカルパーツは使わないでほしいなぁ。これ、ドライブ自体、換装できないのだろうか。

モネとカミーユ

カミーユ

 1865年の絵に、友人バジールとともに、すでにカミーユ・ドンシューは登場している。まだ18歳。モネも25。絵は、半端だ。こんなものでは、喰えたものではない。しかし、二人は、親の反対を押し切ってつきあい、結婚する。

 転機となったのは、1874年の第一回印象派展。デパートを経営し、印象派を支援する実業家エルネスト・オシュデが、彼の作品を買った。このことによって、彼は、34歳にして、印象派を代表する気鋭の画家へと押し上げられた。

プロムナード1875

 モネとカミーユ、そして、息子のジャンは、幸福なはずだった。しかし、長年の貧困生活の結果、カミーユは、すでに結核を患っていた。モネは、この幸福が続かないことを気づいていた。

ジャポネーゼ1976
 第二回、モネは、カミーユをせいいっぱい着飾らせて、この作品を描く。結核特有の青白い肌が赤い着物を引き立てる。

 しかし、結核は、当時、死の病だった。カミーユの方からか、モネの方からか、二人の距離は遠のく。そして、モネは、オシュデの妻アリスと不倫関係に陥る。カミーユも、夫の成功のため、また、自分の病気のため、これを容認していたようだ。

 カミーユは、遠からぬ死を前に、第二子を出産。ところが、1878年、パトロンのオシュデ氏が事業に失敗して破産。その妻アリスと、その娘たちも、モネのところに転がり込んでくる。この騒ぎの中、1879年9月、カミーユは亡くなった。モネは、その死体を前に一心不乱に絵を描いた。あまりにも悲しい絵だ。

パラソル1886
 
 1880年代、モネの名声は、すでに確立したものとなっていた。風景を描けば売れた。ところが、1886年、アリスの連れ子ジュザンヌをモデルに、10年前と同じ絵を描こうとする。しかし、顔が画けない。それどころか、まるで影の固まりのようだ。若きジュザンヌの中に、若くして亡くなったカミーユを見たのだろうが、それはカミーユではない。

 以後、モネは、郊外のジヴェルニーに籠もって、庭作りに励む。絵は、水面すらない睡蓮ばかりになっていく。しかし、花は、カミーユそのものだった。富と名声を得る前から、モネとカミーユは充分に幸せだった。なぜなら、彼が画こうとしていたのは、つねに1873年の思い出だったから。


ポピーズ1873

ドイツのスーパーの売り出し品

 食べ物のことや、買い物のことなど、こちらの親切な方々にいろいろ教わって、ようやくすこしコツをつかんできた。こういう生活習慣のようなことは、辞書にも、教科書にも書いてない。こっちでは当たり前すぎて、言葉にするまでもないと思っているのだろう。
 とくに生活習慣が異なるのが、買い物。スーパーは、基本的に小さく(例外的に巨大なものもあるが)、食料品が中心。これはほとんど定番商品。では、それ以外の衣料品や雑貨はデパートか専門店しかないのか、というとそうでもない。スーパーが、週替わりで特売する。それも、オリジナル企画が多く、良質で安い! もともと客引きのためなので、一般商品でも、通販などより4割くらい安い!
 とはいえ、定番ではなく、売り切ったらおしまい。あるときに即座に決断して買わないと、後で、などというわけにはいかない。
 では、いつならあるのか。スーパーには、来週のチラシがおいてある。まず、これをよくチェック。売り出しは、月曜と木曜。なら、月曜と木曜に行けばいいのか、だが、昼前には、もう良いものは、なにも残っていない。では、朝一番で行くか。これもたいへんだ。
 そこで土曜と水曜の夕方、19時ころが狙い目。こっちのスーパーは、朝の7時から夜の20時までやっており、店員は開店している間しか働かないので、客がいるうちに翌日の品物を並べてしまう。よほどガードの堅い店だと、ラックにカバーをかけて運び出してくるが、大半はあまり気にしていない。そのまま、すぐに買える。だから、月曜の朝、木曜の朝にはもうない、ということになる。
 逆に、食品の売り出し品は、月曜や木曜の昼に行っても、まだ店頭に並んでいない、特売の札がついていないこともある。品物さえあれば、広告を示して、レジで値引きしてもらえる。
 とくに土曜の18時ころのスーパーは、混み混みだ。商店街が18時は閉まってしまい、バスに乗る前にみんなスーパーで買い物をする。そのうえ、日曜はスーパーを閉めるので、野菜や肉、乳製品が、みんな半値近くなる。もっとも、これも売り切れたらおしまいなので、あまり遅く行くと、なにも残っていない、ということになるが。

サウンド・オブ・ミュージックのミステリー

 しかし、この話、謎が多い。まさにアルプスの闇の奥。いちばんの問題は、なぜ、どのようにして亡命したか、だ。
 まず気をつけなければならないのが、ここではウソが何重にも塗り込められている、ということ。もっとも表層が、映画を見ただけの日本人やアメリカ人の話。その次が、映画のロケ地を商売にしているオーストリア人ガイドの話。そして、これらをフィクションとして小馬鹿にしている現地のオーストリア人の話。
 しかし、これだけでは終わらない。映画を嫌っているトラップ一家の話ですら、怪しい。映画に便乗してロッジを宣伝している今のトラップ一家の話と、まだ生存している老娘マリアの証言は食い違う。さらに、母マリアの自伝も、まったく異なる。
 トラップ家の執事がナチシンパのスパイだったのは、よく知られたエピソードだが、母マリアにしても、本人に自覚があったかどうかはともかく、もともとはカトリックからトラップ家に送り込まれた情報係だ。結婚してから後は、マリアが情報提供を拒否したのか、代わってワズナー神父が張り付くことになる。
 いずれにせよ、一家の亡命については、トラップ氏とワズナー神父が手配したことであって、実のところ、母マリアさえも、なぜ、どのようにして亡命したか、については、きちんとは理解していなかったのではないか。いや、トラップ氏やワズナー神父ですら、その背後で動いたカトリックとイタリア、英国、米国の政治的な思惑と組織まで、把握しきれていなかっただろう。
 トラップ氏は、もともとアドリア海にある小港ザダールの、ただの海軍軍人一家の次男に過ぎない。ところが、彼が渡航先で偶然に出会って恋に落ちた相手が、イギリスの天才的な艦船工学者ホワイトヘッドの孫娘だった。このため、彼は、彼女との結婚によって莫大な財産を相続することになり、潜水艦艦長として、叙勲されるほどの戦果を挙げる。この財産そのものは、大不況の影響で、そのほとんどを失ってしまうが、ロンドンの銀行の金庫には、ホワイトヘッドの英国艦船に関する資料があった。いまだ英国とドイツは開戦前夜であったため、トラップ氏がナチスドイツ傘下に入った場合、かえって合法的に、この資料をナチスドイツに引き渡さざるをえない状況だった。
 イタリアの立場も微妙だった。ムッソリーニは、かならずしも大ドイツ主義を好んではおらず、ブレンダーノ峠では、いつでも戦車隊がドイツへ進撃できる体制にあった。まして、カトリックは、反宗教的なナチスとの距離を測りかねていた。
 そもそも、この時期、オーストリアは、けっして民主主義国家などではなく、オーストリア・ファシズムによるオーストリア主導の大ドイツ主義(つまり逆にドイツを吸収する)が流行しており、ドルフース、そしてシュシュニックと、独裁首相が支配していた。しかし、1938年3月11日、ヒトラーが、起こってもいないウィーン暴動を口実に戦車隊で侵攻、シュシュニックも逮捕されてしまう。これを見て、イタリア・ファシズムのムッソリーニは、ドイツとの対決より妥協を選び、オーストリア、とくにチロルは、ポーランド同様、世界から見捨てられることになる。
 ヒトラーが、第一次世界大戦で成功したオーストリアの潜水艦隊による海上封鎖を狙っていることは明らかだった。それゆえ、トラップ氏を亡命させることは、カトリックやイタリア、英国、そして米国にとって、急務となった。
 周到な準備の上、山の雪解けを待って、6月、計画は実行に移される。彼らの実際の亡命ルートは、ザルツブルクから国境沿いにホーホケニッヒを山越えしてツェル・アム・ゼー(トラップ氏の前の屋敷)へ。ここから、ツェル・アム・ツィルタール(母マリアの故郷)へ移動。ふたたび山越えして、サン・ジョルジオ(ブルニコ)にしばらく潜伏。ここで、一家は、トラップ氏のアドリア海ザダールの出自を根拠にイタリアの国籍を得る。その後、これを利用してロンドンへ、そして、アメリカへ。一家の入国記録は、アメリカ公文書館のものが、すでに公開されている。
 この地方の地形は、地図で見るほど簡単ではない。ザルツブルクから出るにも、南に通じる道は細い谷しかなく、ナチスが彼らを街から出すわけがなかっただろう。また、オーストリアから出るにも、まちがってもブレンダーノ峠を通るわけがない。その一方、山には、国境もなにもない、世界に通じる自由な道がある。しかし、それは山に登る者だけが通ることのできる道だ。
 このルートと、バルカンの国籍を捏造する方法は、その後、彼らだけでなく、ナチスドイツからの亡命ルートとして用いられたと思われる。南チロルは、ドイツ系住民とイタリア系住民の関係が複雑で、母マリアが自伝を書いたころにおいても、地元協力者の詳細を明かすことははばかられたのではないか。

サウンド:オブ:ミュージックはリメイク

 『サウンド・オブ・ミュージック』1964は、もともとリメイク映画で、オリジナルはドイツ映画の『トラップ・ファミリー』1956。曲が違うだけで、プロットも、カメラワークもそっくりなところが多い。だいいち、もともとがミュージカル映画だ。
 とはいえ、もちろんハリウッドの方が、演出も、脚本も、はるかにあかぬけている。余計な、細々したエピソードをばっさりやって、話の構造がしっかりした。クライマックスも、ドイツのオリジナルは、自由の女神前の移民局のエピソードで、亡命プロットが飛んでいるために、前とつながりが悪い。そして、最後にオヤスミの歌が来る。知ってのとおり、ハリウッド版は、オヤスミの歌が亡命への重要なプロットになって、ロルフの裏切りと、尼さん仲間の機転がクライマックスになり、最後は、冒頭に対応する、あの山登りの遠景シーンへと突き抜ける。こっちの方がおもしろいに決まっている。
 とはいえ、ドイツのオリジナル版も捨てたものではない。ロケや服装、歌は、アメリカのパチものなどとは比較にならない重みがある。もちろん、トラップ邸等々はやはりセットなのだが。
 このオリジナル版にはそのプロットが入れられているように、とにかくトラップ一家は、カネに困っていた。だから、トラップ邸だって、ホテルとして部屋貸ししており、執事も、ファミリーも、その従業員として働いていた。パーティだの、夜中に逢い引きだのどころの状況ではなかった。イタリア人などが出たり入ったり、その接待で、毎日、大騒ぎ。
 アメリカに渡っても、状況は改善せず、マリアは自伝を出し、その映画化権を、このドイツ映画に売り渡してしまう。ハリウッドは、これを『サウンド・オブ・ミュージック』にリメイクするに当たって、ドイツ映画から映画化権を譲り受けたのであって、トラップ一家には、まったくカネが入らなかった。まあ、それでも、これをきっかけに、トラップ一家の知名度はあがり、ロッジもツアーもうまくいくようになるのだから、悪いことではなかっただろうが。

ドイツの秋の味覚

あんずたけ
ドイツで、春といえばシュパーゲル(アスパラ)、秋といえばプフィッファーリング(アンズタケ)。ほんとうにあんずっぽい臭いがする。
市場で売っていたので、さっそく買ってきた。さて、どう料理するかな。ちなみに、ドイツ語で、プフィッファーリングの価値も無い、という言い方がある。あってもなくても、どうでもよい、という意味。

サウンド・オブ・ミュージックの丘へ

the hills are alive












 響きあう丘の歌。時を越え、谷を満たす。遙かなる山の空。心はずみ、耳をすます。というわけで、はるばるザルツブルクくんだりまでやってきて、あの映画のロケ現場まで登ってきた。ここは、ほんとうにすごい!
 といっても、山ではない。まさに絶景の丘。四方遠くに数々の山が見渡せる、このあたりでも最高のシチュエーションだ。ふつうはちょっと高い山に登ると、すぐ近くの高い山々に遮られてしまって、意外に視野が開けないものだ。ところが、ここはそうではない。まさに山々を見渡すことができる、野の花に満ちた草原。
 ネットやガイドだのでは、あそこの山だ、ここの丘だ、と、いい加減な情報が氾濫しているが、映画のオープニングシーンの背景には、この地方の、ある山の特徴的な形が写り込んでいる。また、そもそも映画屋が上空から撮影するなら、当然、こういう特別な目標が、丘のすぐ近くにないと、やりにくくてしかたなかっただろう。
 どこぞのだれかが、この丘は私有地だからだれも入れない、自分だけが特別に頼み込んで入れてもらった、かのごとく、吹聴しているのを知っているが、私はこういう日本人騙しのホラ自慢が大嫌いだ。ここはたしかに私有地ながら、トレッキングコースとして、一般にもきちんと公開されているじゃないか。それどころか、このあたりは、フリークライミングの雑誌に、しばしば採り上げられている、あまりに有名な場所だ。小さいながらトレッカーやクライマーのための駐車場もちゃんとある。(だいたい、あいつ、肝心の地名を間違っている。ここはベルヒテスガーデンじゃないぞ。S村でもない。PLZ83487のM町のM小道だ。)
 とはいえ、私も、ここに安易に地名を書くのは、はばかられる。というのも、すぐ先が、まさにフリークライマーが歓喜するような、ものすごい断崖絶壁だから。ドイツ語の注意を読めないやつがウロウロすると、一歩先で数百メートル下に落ちる。常人の想像を絶した地形がある。ハイジのマイエンフェルトと同じだ。いずれだれにでも安全に行かれるようなガイドブックを作ろうと思う。
 で、おりしも、日本では、かつて玉川大学で哲学を教えた岡田眞善君が『サウンド・オブ・ミュージック』のロルフ役で出るとのこと。彼は、当時から優秀かつ積極的な学生だったので、よく覚えている。ぜひにも舞台を見に行きたいのだが、そのために帰国するわけにもいかないのが残念だ。
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純丘 曜彰
すみおか てるあき 

美術博士(東京藝術大学/美学)、文学修士(東京大学/哲学)、東海大学准教授、ドイツ・ヨハンネス=グーテンベルク(マインツ)大学客員教授を経て、現在、大阪芸術大学教授。専門は哲学、メディア文化論。

東京生まれ。東京大学教養学部1組(横断インタークラス)、同文学部哲学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻修了。テレビ朝日報道局報道制作部ブレーンとして『朝まで生テレビ!』を手がけ、現職に至る。

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純丘曜彰の映像論


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