もうケチをつけないから、といって、映像化権を取り戻したのに、キングは、また映画版の批判をしている。それくらい、あの映画は許せないものなのだろう。パヤオもそうだが、映画を作りたかったら、人の原作をレイプするのは、止めた方がいい。クリエイターとして、悪質な剽窃も同然。

 原作についてだけ説明しよう。これは、キングの自伝だ。当時、彼は食えなかった。卒業してすぐに結婚したものの、高校教師とクリーニング屋の掛け持ち。子供二人を抱えながら、電話代も払えないほど困窮し、荒れたアル中生活に落ちていく。ところが、当時、ヒットしていた『ローズマリーの赤ちゃん』などのモダンホラーの風潮に合わせて書いた『キャリー』がかろうじて売れた。そのカネで季節外れのスタンレーホテルへ。彼は次こそ純文学の長編で勝負するつもりだった。つまり、『シャイニング』の父親ジャックは、彼自身だ。

 その一方、子ダニーもまた彼自身。キングの実の父親は、やはりアル中で、すでに彼の幼少時に行方不明になってしまっている。ところが、叔母の家の屋根裏で、キングは、父親の未発表原稿を見つけてしまい、父親もまた文学を目指していたことを知る。だが、その原稿は、ひどく才能の無いものだった。そして、キング本人にも、その才能の無い血が流れている。どうやっても逃げようがない恐怖。これがこの物語のホラーの根幹。

 そのうえ、もうひとり、トニーというのが出てくる。これは、ダニーにしか見えない、ダニーの助言者。その正体は、ダニーの十年後の自分。それが、こんなホテル(純文学)に行っちゃダメだ、いちゃダメだ、と、何度も忠告するのだが、ダニーは、父の仕事のためだから、といって、我慢してしまう。

 シャイニングは、物語を読み取り、語り出す能力。物語の中の父親ジャックは、ホテルの地下で、ホテルの新聞記事のファイルブックを見つけ、これをネタにすれば、おれは文学者として成功できる、と、舞い上がる。ところが、ジャックの頭の中で、死んだホテルの亡霊たちの物語が膨れあがるにしたがって、亡霊たちの方が、おまえなどではムリだ、息子のダニーをよこせ、と、ジャックを悩ませ始める。一方、息子のダニーの方は、禁断のホラーの部屋217号室を開けてしまい(『キャリー』を書いてしまったこと)、それに首を絞められる。ホテルの亡霊たちは、ダニエルをお仕置きしろ、おまえではなく、ダニーに、純文学としておれたちの亡霊の物語を書かせろ、と、ジャックを責め立てる。テレビ版でキング本人が亡霊たちのパーティのバンドマスターをやっていたのが象徴的だ。

 ようするに、ジャックも、ダニーも、スティーヴン・キングの中の葛藤。ホテルは、文壇。死んだ亡霊たちが、うるさく指図し、ついにはクズのジャックを酒で乗っ取ってしまう。そして、ダニエルをも亡霊の世界に取り込もうと、例の追撃。ダニーの父(純文学)への愛と恐怖、ジャックの子(大衆文学)への愛と嫉妬が絡まり合い、最後は文壇の崩壊と脱出。アル中の父、純文学の父、指図と懲罰の父。それは、自分自身でもある。そして、その父殺しによって、いや、父みずからの自死によって、彼はやがて父と再会することができる。

 小説だけじゃない。絵でも、音楽でも、映画でも、大学でも、かつての栄光を懐かしんで、死のパーティを踊り続けている亡霊だらけ。亡霊たちはすでに実体を失っていながら、指図と懲罰で、生きているきみをいいように動かそうとする。そんなホテルに行っちゃいけない。いちゃいけない。キングにとって、キューブリックみたいなのは、まさにそういう亡霊だ。肖像画の中の存在のくせに、手まで出してくる。「死人は黙って死んでいろ! おまえの時代は終わったんだ」と言っても、作品として彼に呪い付いている。それで、今度こそ、そういう亡霊たちを始末しようと、キングは続編を書いていると漏れ聞くが、さて、ほんとうにそんなことができるのか。彼がすでに亡霊の側になりつつある自覚があると、なかなか難しいかもしれない。