美術博士 純丘曜彰教授のドイツ大学講義日誌

マインツ大学 メディア学部 映画学科 客員教授

文 化

娯楽小説における人称

 私だって、たまには小説も読む。けっこうディープな娯楽ものだ。ところが、とにかく語り方が気になってしかたない。せっかくおもしろい話なのに、なんでこんなに語り方が下手なのだろう、と思う。

 ダメな小説の理由は明解だ。多くの場合、人称の切り換えに失敗している。いまどき一人称だけで物語を貫き通すのは、実験小説くらいのものだろう。だいいち、セリフが出てくれば、それは、地の文に織り込むのでもない限り、その発言者の視点に切り換えざるをえない。

 このことは、たんに人の呼称が切り替わるということではない。人が変われば知っていることも変わり、同じことでも見方が変わる。ところが、下手な語り方だと、つねにみんな同じことを知っていて、みんな同じ見方をしている。ようするに、書き手が声色を代えているだけで、人称が切り替わっていない。

 しかし、その人がそのことを知っているのはおかしい、ということは、書き手も気づくのだろう。となると、そこで、突然、話が過去に遡って、じつは、となる。ところが、ここでさらにおかしくなる。ここで、過去に遡ったところに出てくる人物たちは、じつは、と語っている人物の思いこみであるはずなのに、それぞれ地の文のようになってしまう。これは、ようするに、伏線を張り損ねて、あとで書き足したというだけで、回想にもなんにもなっていない、たんなる書き手自身による事後説明だ。

 同一の読者に対し、異なる視点を同時に提供し続けるためには、いま、この行がだれの視点(に共感したもの)なのか、書き手が自覚して書き分ける必要がある。というより、読者を、そのときどきで、別の視点に憑依させるように押しやる必要がある。映画なら、カメラに背中しか見えない人物が、そのカメラの視点だ。それに相当するレトリックを、文章の行の中に織り込む。

 もちろん、その数行後で、別の人が発言し始めれば、セリフ以上に、読者をその視点に切り換えさせてやる必要がある。このことを自覚的に行えば、それがおのずから段落になる。ところが、とくに日本語で、昔ながらに原稿用紙で書いているヤツは、たいていダメだ。行替えだらけで、どこまでが視点の段落なのだか、さっぱりわからない。というか、そのことが自覚されていない。だから、やたら行替えをするのだろう。書いている本人はいいだろうが、読んでいる方は、思考が細切れに寸断され、流れがさっぱりわからない。

 たとえば、こういうこと。

 A 「ずいぶん待ったぜ」 そう言って男はイスから立ち上がり、銃を女に向けた。

 B 「ずいぶん待ったぜ」 そう言って男はイスから立ち上がった。そして、彼は女に銃を向けた。


 Aが正しい。読者は男のセリフを聞いて、イスから立ち上がる男に目を向け、その後、この男の目とともに、その銃が狙う女を見ることになる。これが、この男の視点に沿った流れだ。ところが、Bでは、後半の文の視点が泳いでしまっている。読者はまた男の方、その男の手元の方をズームアップで見せられてしまい、呆然としてしまう。いったい、いま、自分はだれの視点に依拠しているのだろう、と。

 切り替えと連続、このリズムがないと、物語など読めたものではない。こういうのは、文学的センス以前の話だ。基本的な物語の語り方なんかこそ、小学校できちんと教えるべきなのではないだろうか。

ニュースも直販時代

 新聞社の印刷工場も暇らしい。設備投資しすぎだよ。いったいどれだけ紙の新聞が売れると思ったのだろうか。それで、最近は、自分のところの新聞以外も引き受けているそうだが、それだって売れるわけがない。

 テレビ雑誌は買うが、新聞は買わんなぁ。特売チラシだけほしい。ニュースなら、ネットで十分。それも新聞社のサイトなんか絶対に行かない。AP、ロイター、AFP、CNN、せいぜい時事と共同。新聞は、自分で取材もせずに、机上でそれらの記事を足したりひいたりしているだけの場合が多い。まして、政治ネタになると、ちかごろの新聞は、ライブドア・ニュースなみの釣り見出し。内容までまるっきりのガセで、確信犯的に世論をミスリードしようとする。なんでそんなの、カネを払ってまで、つきあわなければならんのだ?

 以前、論説委員の給与を聞いて驚いたが、そんなのがごちゃまんと本社にいる。いや、取材と称して、出勤もあまりしなくていいらしい。会議以外は、出勤してもすることもないしね。それで、家でネットでも見ながら、適当に社説の草稿とか、犬声塵語だかを書き散らして、メール送信するだけ。高い月給が保証されている以外は、やっていることは2ちゃんねらーと同じだ。それもあまりに論説委員の人数が多いから、月に1回、書くか書かないかだとか。さすが、そこがネット中毒の2ちゃんねらーとは違う。それにしても、原稿用紙の単価からすれば、400字数十万円。すばらしい。一流作家以上だ。しかし、最近は、さすがに新聞社も論説委員だらけなものだから、地方のテレビ局に天下って、テレビは見ずに新聞読んでお茶飲んで温泉三昧、ゴルフ三昧というのもある。なんにしても、幸せな毎日、幸せな一生だ。

 新聞も、大学やテレビ局と同じで、箱だの紙だの電波だのにカネをかけすぎだ。現業部門に対し、一般企業同様に、ピラミッド型の管理部門が乗っている。それどころか、いまや薄い2階建てのプレハブの現場小屋のうえに、30階の管理棟ビルがそびえ建っているようなもの。下は日当たり悪いし、上からの騒音はすごいし、記事を上げても、かってに書き換えられるし、もう、やってられない、というのが本音だろう。まして配達販売営業する店舗の方はたまらない。本社から毎日、大量の腐った牛乳がガラス瓶で届けられてくるようなものだ。売ろうにも売れないし、捨てるにも重いし、そのくせ、カネだけは請求される。かといって、転業もままならない。

 ドイツでは、スーパーの店頭で、シXXバンクの偉そうな人が勧誘をさせられていた。ぱりっとした高級スーツをきて、作り笑いして、買い物のおばちゃんたちだの、工場帰りのおっちゃんたちだのにパンフレットを手渡そうとしている。むりだよ。なんで、ふつうのおばちゃんやおっちゃんが、あなたの銀行に口座を作るの。高い金利つけたって、利殖する余裕なんかないって。あなたの給与の10分の1くらいで、みんな生活しているんだよ。でもなぁ、なんとかしないと、銀行、つぶれちゃうものなぁ。たいへんだな。

アメリカのニュー・ジャンク・ストック

 リーマン・ショックで、AXXが傾いた。サブプライムを喰らった、という。しかし、内情からすれば、FRB議長が激怒するのも当然だ。この会社、保険名目でカネを集め、裏でヘッジ博打をやっていた。保険なんだから、個々の加入者より、さらに安定性が生まれる運用をするのが当然のモラルだったはずだ。加入者は、運用益で利殖をしようと思って保険に入ったわけではないし、実際、運用益が出たところで、加入者には配当されえない。つまり、最初から加入者は損出リスクだけを負わされていたというわけだ。GMもどうしようもないが、あれはまだ自動車を作って傾いたわけで、経営者がたんに無能だった、というだけの話だが、AXXの方は、もうほとんど最初から詐欺だろう。

 もうひとつでかくて、そのうえどうしようもないのが、CiXX。遠からず株価も1ドルを割り込むだろう。このグループ、銀行、といっても、大企業相手ではなく、個人の金持ちに多重的に金融商品を売りつけるクロスセリングの先駆けとして、この数十年で急成長した。しかし、金持ちがそんなに増えたりしないのに、会社が急成長した、ということは、この会社は金持ち以外にまで手を出して金融商品を売りつけた、というわけで、それは要するにサブプライムな階層だ。金持ちより、サブプライムの方がバルクが大きくなっており、そこが崩れたら、こんな大所帯の会社、持つわけがない。そんなことは、最初からわかっていたことだ。

 ビジネス・モデルがどうこう言う以前に、これらの会社は、経済学の初歩からして、ダメダメなことをやってきた。バカというより、確信犯だろう。驚くべきことは、それを監督官庁も止めることができなかった、ということだ。CiXXの場合、その合併は非合法だったのだが、政治的に法律の方を変えて、結果、黙認させてしまった。そこからタガがはずれておかしくなった。しかし、ツケを払わされるのは、納税者、加入者、現従業員。ダーティな経営をした連中は、とっくに高額の退職金というゴールデン・パラシュートを背負って脱出してしまっている。背任で刑事訴追、民事訴訟でもしない限り、どうにもならない。どのみち後の祭りだ。

 身近で心配なのが、日本の大学。これも、もともとあきらかにビジネス・モデルとして破綻している。人口が減るのをわかっていて、どこも大学を拡張し続けてきた。大学というより、どこもまるで建設デベロッパーのようだった。キャンパスを広げ、研究施設を建てまくり、支払いはその後の三〇年。それも、学生が同率に増え続ける前提での返済だ。そんなことできるわけがなかろう。その一方、教員は、そんなに質の良いのが大量にいるわけがないから、そこらから適当に全学連縁故でかき集めてきた団塊世代の有象無象。それこそむしろ学生が呼べる品揃えではあるまい。本来ならむしろまったく逆に、環境変化への対応の障害となるストック(施設)の水ぶくれを早く切り詰め、学生を呼べる気鋭の教員たちをカネをかけて集め、柔軟なフロー体質、コンテンツ優先体質にすべきだったはずだ。

 そろそろあちこちの大学がほころびてきているが、これもやはり団塊世代の責任者たちは、すでにゴールデン・パラシュートで満額の退職金とともに定年退職。ツケは、在学生と中堅現教職員、地元自治体や周辺住民に回る。学生町なんて、大学がなくなって学生がいなくなれば、空室だらけのゴーストタウンだ。そうでなくても、大学が学生を集められなくなれば、ゴーストタウンだが。しかし、企業とちがって、理事会ないし教授会が過去の理事や学長、学部長に対し個別に経営責任を問い、損害賠償をできる法律もない。だいいち理事会なんて、学問の自立とか言って、法的にも、政治的にもアンタッチャブルの治外法権だ。そもそも、こんなモラリティのないことを教育者たる大学人がする、などということは、法律的に、まったくの想定外だったのだろう。しかし、大学人ったって、その偉いひとたちは、べつに研究者でも教育者でもない、むしろたんなる世襲か学内政治屋というのが一般的な実情のようだからねぇ。

 公的トップの犯罪的政治運営、ということに関して、近代は名誉革命とフランス大革命以後、議会制や三権分立などの制御装置を発明してきた。しかし、政府に代わって自由に活動するようになった戦後の私的な企業や団体となると、近代以前の封建支配が当たり前。株主総会や理事会など、ほとんど制御装置としては機能しなかった。そして、その私的な企業が団体が巨大化したとき、国家も傾けるほどの損害を出す。それが、あちこちの企業や団体で暴走し、自滅的に破綻してきている。それがわかってきたから、組織の中はもちろん、社会においても、まったく求心力がなくなっていた。株価が上がらない、学生が集まらない、というのがそれだ。

 しかし、こうなると、沈没寸前の船のように、お殿様や城代家老さんたちはさらに内弁慶になって組織の内部に当たり散らし、内情は悪化する。そして、それが外部に漏れ伝わって、さらにさらに内外の求心力が低下する。いったんこのスパイラルにはまると、どこの会社も、どこの組織も、救いがたいところまで、ずるずると事態は悪化していく。そして、そのころには責任者はみんなカネを持ち逃げしている。昔みたいに、落城したら、殿からまず切腹、というのが筋だと思うが。しかし、そんな道義心があるくらいなら、こんなことにはなっていないか。それだから、また最初から人望も求心力もないんだけどね。

携帯電話の効用

 空港でアジア系の人を見かけて、日本人かどうか判断する方法。携帯を持っていないのが、中国人。大声で短い電話をあちこちにかけているのが、台湾人。小声で延々と電話をし続けているのが日本人。

 それにしても、よくまあ海外まできて、日本へ国際電話をかけ続けるものだと思う。安くはないのだろうし。せっかく目の前に世界が広がっているのに、なんで日本に電話しなければならないのだろう。電車などの中でもそうだ。そんなにメールばかり書いていて、メールに何を書くのだろう。いま、わたし、メール、書いてます、とか書くだろうか。

 思うに、あれはたんなる精神の病気だろう。仕事の電話、とか、言っているが、ほんとうに仕事の電話なら、もっと儲かっているし、日本経済も、もっと繁栄しているはずだ。これだけダメになっていく、ということは、携帯電話が、ほとんどビジネスに役立っていない、ということの証明だろう。

 実際、日本だと、携帯電話のせいで、やたらアポの変更を強いられる。もちろん連絡なしにすっぽかされるのは論外だが、電話をかければ、そんなに気軽に約束を変更していいのか。そりゃ、あんたはいいだろうが、こっちになんのメリットもない。いいわけされて、遅れると言われれば、ああ、そうですか、としか言いようがない。そういう約束のでたらめな変更のためだけに日本では携帯が使われているわけで、結果としては、時間にでたらめなイタリアの生産性と同じところまで落ちた、というわけだ。

 それにしても、日本は通信料が高いと思う。いいかげんアンテナも立て終わったしあとはせいぜい保守点検だけで、設備投資もなにもないはずだ。中途半端にカネがあまっているから、やたら次から次へ入りもしない機能をつけて売り込もうとするが、そんなの使わんだろ。いまどき携帯でゲームやっているバカなんて、中学生くらいだ。どうせごちゃごちゃつけるなら、いっそ出張携帯とか言って、携帯にヒゲソリとか、電動歯ブラシとか、つけてみたらどうだ。ビクトリノックスやウェンガーのブランドで、キャンプ携帯とか、キッチン携帯とかもいいぞ。その方が、電話よりずっと必要だ。

登場人物の重みについて

 登場人物の描き方については、大いに関心がある。黒澤の映画の人物がおそろく薄っぺらなのは、彼が人間に関心がなかった、もしくは、彼のインテリ・コンプレックスだろう。

 伊丹十三も、強いインテリ・コンプレックスの持ち主だが、大江健三郎なんかより人間にリアリティがある。ひどく戯画化されているのに、その戯画化のされ方が生々しい。一方、たとえば黒澤の『生きる』の渡辺勘治は、だれにでも共感できそうなリアリティのある息子とのエピソードがあるにもかかわらず、中世演劇のエブリマンと同様、かえってだれでもなくなってしまい、存在の重みが欠けてしまった。そのうえ、『イワン・イリイチ』だの、『ファウスト』だの、あちこちから引用をするのだが、いくら外側を重武装しても、人物像としての中身の無さは、補いえない。

 他方、同じように、『ファウスト』を好んだ、ホンモノのインテリの手塚治虫は余裕だ。手塚は、なんども『ファウスト』を作品化しているが、中でも『火の鳥・鳳凰編』が出色だろう。『ファウスト』という作品の表面ではなく、『きつねのライネッケ』を書くような生の不条理を問うゲーテをよく知っていればこそ、主人公の茜丸の変節は、まさにゲーテの『ファウスト』以上にファウストらしい作品になっている。

 ルカーチは、物語を、叙事詩(エポス)、ロマン、娯楽読物(ミステリーやライトノヴェル)の3つに分けている。ロマン、というのは、日本ではわかりにくいが、ヨーロッパには、いまでも多くある。600ページ以上の大河歴史小説だ。これは、ノヴェルではない。ノヴェルというのは、ロマンではない、新しいもの、という意味で、ロマンの方が形式的に古い。日本で言えば、ロマンは、山岡荘八とか司馬遼太郎とかが書くようなものを意味する。

 ルカーチによれば、叙事詩は、神々の物語であり、始めも終わりもない世界に安んじている。ギリシア時代のもののほか、『ニーベルンゲンの歌』などが典型だ。一方、『ドン・キホーテ』以降のロマンにおいては、主人公が自分の居場所としての故郷を追われてしまっており、たゆまぬ遍歴を強いられる。この意味で、映画の『タクシー・ドライヴァー』なども、一種のロマンだろう。

 そして、問題は、娯楽読物で、まったくの無意味だ。この無意味、というのは、ニーチェ的な意味の無意味であり、海岸に打ち寄せる波のように、いくつも作られるのだが、なにも残さない。ある意味ではたしかに叙事詩に似ているが、その世界も持たない。だじゃれのような物語。日本では、星新一だの、筒井康隆だのから、おかしくなった。当時も、今も、まともな文学者が彼らの作品をまともに評価しないのは当然のことだろう。しかし、その後の影響たるや膨大で、いまやその類が、文学の大半を占めるに至ってしまった。

 かといって、ハイデッガーのロマン批判は、まったくのアホとしか言いようがない。ニーチェの思想を引き継いで生の一回性を言いながら、『存在と時間』が、結局、どこのだれでもない世人一般の実存の話に堕したことにも、彼がニーチェの存在の重みの意味をまったく理解していなかったことが現れている。ようするに、彼は他人の人間としての存在には、黒澤同様、関心がなかったのだろう。人が世人であったのではなく、彼にとっての他人が、その死を前提としない限り、個性のない世人だった、ということにすぎない。

 一方、キルケゴールやニーチェの言う存在の重みは、ルカーチも気づいたように、自分の世界ではない、それゆえ、自分自身さえもまったく自分のものではないという呪いが科せられている。その呪いは、死を思うよりなにより、生まれた最初から、絶対的に他人とは違う。呪われた唯一無二の孤独であるがゆえに、世人との比較もなにもなく、他人から理解されることもありえず、自分が自分でどうにかしなければならない。つまり、ロマンの登場人物は、そこらによくいるような、だれでも共感できるような人物ではありえないのだ。それどころか、だれからの同情も理解も達しえない。デモーニッシュな狂気と紙一重のところで、自分という理念を内側から打ち立てることのみによって、自分を支えている。それがなければ、その主人公は、世界の大気圧以前に、自分自身があるという存在の重みそのものにつぶされてしまっているだろう。

 ロマンの主人公は、世界内存在ではない。世界は彼をアロンソ・キハーナと呼ぶが、彼自身はドン・キホーテとして、その世界には収まらず、自分の世界でない世界に槍を突き立てる。その存在そのものが槍であるから。だから、世界の中に一時でも座れる場所がない。立ち止まることさえも許されない彷徨をつねに強いられる。しかし、その彷徨の苦役さえも、彼からすれば、いつの日か彼岸に至るための試練であり遍歴であり、なんの苦役にもなりえない。それは、おそらくハイデッガーのような無神論者がもっとも嫌い、その存在を認めまいとしてアウシュビッツに送り込もうとした本来的な人間の存在の様態だろう。

 『マルサの女』でも、マルサの板倉亮子などより、権藤英樹や蜷川喜八郎、パチンコ屋店長の方が重みがあるのは、そこにむしろティパージュ(類型)ではありえない過剰を抱えているからだ。権藤は、あきらかにリチャード三世を意識して人物の内面が構築されている。彼は人に理解されようなどと思っていないし、彼のことをだれかが理解できるなどということも期待していない。彼は自分で存在している。この人物像の重みは、同じ山崎努が黒澤映画の『天国と地獄』で逆に攻める側になった同じ名前の権藤と比較してみるとよくわかる。こっちの権藤は、三船俊郎の出演作の中でももっとも薄っぺらい。現場の叩き上げだの、理想の靴を作りたい、だの、地位より息子だの、わかりやすすぎる。まさに世界内に存在しているが、これでは内側が空っぽだ。

 近年の小説やマンガは、まさにインテリ・コンプレックスの黒澤同様、あちこちから知的なひけらかしのように、容貌もプロットも、ごちゃまんとあちこちからパスティーシュしてくる。どこかで見たような人物、どこかで聞いたようなプロットばかりだ。コミケあたりの素人のオマージュか、ついでのおまけの冗談ならともかく、プロが売り物の主力作品でやることじゃないだろう。そのうえ、この手をやればやるほど、人物はわかりやすくなり、空洞化し、存在感が無くなる。

 一方、プロの小説家も、創造力が欠如しているらしく、死んだ義弟だの、昔の友達だの、実在の人物からのパクリが多すぎる。まして、自分自身の人生からぱくった私小説などというのは、論外だ。実在の人物を掘り下げれば、みんな唯一無二に決まっているし、そこには存在の重みがあるに決まっている。しかし、それなら、その人物そのものを直接に多面的に見た方がおもしろいのであって、小説の文章に押し込めてみたところで、出来の悪いコピー機のようなものだ。

 プロなら、ぺらぺらの白紙の原稿の中に、その原稿用紙を突き破って出てくるような人物を創造し、問題提起すべきだろう。そういう人物は、かのドン・キホーテのように、文章の中には収まらず、その外にまではみ出てくる。さらには、ジャン・ジュネや井上光晴のように、私小説風に綴り語った「自分」まで、まさにそういう異質な重さをもった虚構の人間であるくらいであってこそ、それが物書きだと思う。

景気回復はない

 景気が回復するのはいつか、などというのは、愚問だ。景気はもう回復しない。すくなくとも我々が生きている間には無理だ。文明には大きな波がある。戦争を含め、やたら国際交流したがる時期と、地域にこもる時期とが交互に、数百年単位でやってくる。そして、こうして近代が終わったのだから、当分は中世になる。

 この現実を受け入れず、V字回復、などと言っているトップを見ると、うさんくさい、もしくは、たんなるバカ、としか思えない。世界を制覇したスペインでも、オランダでも、その後は見ての通りだ。バカの音頭取りで、本気で回復させようとしたって、ムダな努力というもの。それより、新しい時代にうまく不時着させる方が大切だ、と思うが、この場に及んで、国債で国力をかき集め、金融だの、自動車だのを支援すれば、いずれナポレオンやソ連のような大破綻、大崩壊に行き着く。しかし、それも文明の繁栄の最期として避けがたいのだろう。

 だから、いまは、せいぜい混乱に巻き込まれないようにするしかあるまい。とはいえ、無理をして一部の現状維持を図る国、アメリカや日本では、現状維持組と船から突き落とされた組とで、救いがたい貧富差が広がっている。しかし、国民全体が豊かになっていくことが、金融や自動車、電器産業の経済基盤だったのだから、ますます回復の可能性は遠のくだけ。

 それにしても、日本の地方は、荒れ果てたものだ。川はきれいにコンクリで固められ、舗装やガードレールのない山道はないくらいだ。しかし、これらは保守をしなければ、遠からず瓦解する。瓦解したときに、こういう人造物は、同じだけの再投資を必要とする。人力では復興不能だ。自然のままほっておけば、自然のまま、てきとうに川でも道でも回復するが、いったん人造物で固めてしまった山河は、その瓦解した人造物がじゃまになってどうしようもなくなる。地方は、遠からず寸断されるだろう。

 都市部でも同じだ。東京や大阪のような世界でも希有な巨大都市は、地方からの物資によってのみ生活を支えている。まったく自立不能だ。そのうえ、その中枢部が高齢化していけば、巨大なゴミ屋敷となる。昔のように、ほっておいても人々は旧市街地には近寄らなくなり、近郊に自然に新都ができる。そして、すぐに廃墟となった旧市街地に新世代が潜り込む。つまり、旧市街もダメだが、新都もダメだ。

 歴史から学ぶ、ということは、こういうことだ。過去のことは未来にも繰り返す。人間は、それぞれの世代が死んでいくので、経験は引き継がれない。進歩することなく、愚行を繰り返す。とくにこういう時代変革の津波が押し寄せてくるときは、高台に避難することが大切だ。まちがっても、改革の旗手などと自称して、その波に乗ろう、などとしたりするものではない。

旅行の意義と読書の意義

 ときおり、ヨーロッパのどこへ行った、アメリカのどこへ行った、と、自慢げに語っている人を見かけるが、なんと言ったものか。まあ、彼らの話を感心して聞く連中が、彼らの勘違いを助長しているのだろうが、どこかへ行ったことがある、そこを知っている、というのは、なにか偉いのだろうか。

 ヨーロッパにいると、どこの街にも、じつはけっこう日本人が静かに住んでいるのがわかる。まったく日本人が住んでいない街の方が珍しいくらいだ。どこそこの街へ行った、などといっても、そこに住んでいる人と較べれば、話にならない。そもそも、旅行で街中のホテルに数日いたくらいで、なにがわかるものか。住んでいる側からすれば、バカも長期休暇を取って出直してから口を開け、と思う。

 日本でもそうだが、東京の人間が東京タワーになんか行かないように、ヨーロッパの人間も、自分の街でも観光地になんか行かない。私も、昔、ハイデルベルクに少しの間、住んでいたが、当時、結局、一度も城には行かなかった。あんなぶっ壊れた廃墟など、わざわざカネを払って入るようなところではない。それよりも、むしろ郊外の野っぱらとか、河っぺりとか、景色を眺めて気持ちのよいところは、もっといくらでもある。

 そうでなくても、ヨーロッパの街は、奥が深い。街の中心など、きわめて特殊なところで、一般の人々は新市街の住宅地か、郊外の一戸建て新興住宅地に住んでいる。また、その周辺には村が点在し、村の外れには農家がある。これら数十キロ四方で一つの街だ。広場だの教会だのだけを見て、ヨーロッパの街がわかった気になるのは、東京タワーだけを見て、東京を語るくらい無茶だ。

 そもそも、人は、旅行に行かなくても、一生の同じ時間を、別のどこかの場所で過ごしている。みんな、だれもが、ほかの人の知らない場所を知っているのだ。むしろ、旅行先など、むしろみんなが知っている場所で、みんなが知っていることを知っているからといって、知らない人より偉い、というほどのことではあるまい。

 この話、旅行のことが言いたいのではない。旅行の話は、学者で、私はハイデッガーを読んだ、とか、カントに精通している、とか、いうのと、変わらない。学者が本を読んでいる間に、ほかの人は、ほかのことをやっている。どちらが偉い、というような話ではない。そして、旅行同様、本を読んだくらいで、いったいなにがわかるものか。本などというのは、それを書いた人の人生の時間のごく一部分の言葉で、その背景に膨大な生活がある。そして、そんなものを知り尽くしたところで、なんの意味があるだろうか。

 たしかに旅行はおもしろい。人の生活を見て、自分の生活を省みることができるから。読書もそうだ。しかし、人の生活や思想を知っているから、ということ自体は、何の意味もない。まして、それを知り尽くしたところで、どうだ、というのか。人の生活、人の思想、人の言葉を知っていても、自分の生活、自分の思想、自分の言葉を失ったのでは、その人自身は偉いどころか空っぽだ。だいいち、人の生活や思想、言葉だったら、旅行した人や読書した人に聞かずに、自分で直接に見に行く、聞きに行くから、そんなやつは、この世にいらないよ。

名望家と嫉妬屋

外国から見ていて不思議なのは、日本は、なにをしたのかわからない有名人だらけ、ということ。それどころか、昨今、そんなのしかいない。こんな状況、他の国ではありえない。有名であるのは、ふつうは、何かを成し遂げた、何かを創り上げたからで、ただ有名なだけ、というのでは、意味がわからない。

しかし、有名であるというだけで、日本では、実際、カネは儲かる。クズのような自伝本を出しても、ヘタくそなレコードを出しても、法外に売れる。まともな作家やミュージシャンの数百倍も売れる。これは動かしがたい日本の現実だ。これでは、なんでもいいから、とにかく有名になりたい、有名になってカネ持ちになりたい、という名望家が出てくるのも当然だ。

ずっと昔は、それは政治家だった。べつに政治がやりたいわけではなく、とりあえず御願いします、と言って、政治家になってしまえば、利権が集まった。その後、1960年代から、それが歌手に変わった。それも、70年代になると、アイドルとして、男でも、女でも、かわいければいい、歌なんかどうでもいい、雑誌やテレビに出て有名になってしまえば、レコードが爆発的に売れる、というのがはっきりした。また、プロダクションから相手にされなくても、フォークという道が開けた。あのねのねとか、所ジョージとか、さらには桑田佳祐や武田鉄矢も、最初からまともに音楽をきちんと勉強して、曲を作ろうとしていたとはとうてい思えない。とりあえず歌手という肩書きで、深夜でもなんでもラジオ番組の仕事をとってしまえば、あとはなんとかなる、という狙いが当時でも見え見えだった。

それが、80年代からお笑いに変わった。べつにお笑いを極めようなんていう気はさらさらない連中がテレビで騒ぎ始めた。実際、有名になってしまえば、なんでもできた。ようするに、歌だと3分かかるが、お笑いなら1分、1アクションだけで行けるから、出番の多そうなお笑いを選んだ、というだけだ。野球選手やサッカー選手も、本気で野球やサッカーがやりたいというより、とりあえず有名人になる道として選ぶ連中が出てきたのもこのころだ。

で、新聞や雑誌だが、広告面はもちろん、いまや記事面も、大半がある意味での人物の売り出し広告だ。新聞の文化面も同様。ましてテレビは、CMも広告なら、番組もタレントの宣伝。ドラマでも似たようなものだ。選挙の、お願いしますの連呼と大差ない。だれを採り上げるかは、プロデューサーや編集者の一存。今、当たってなくたって、いや、こいつはこれから当たる、採り上げろ、で、いい。だから、プロダクションは、陰に陽に接待合戦を繰り広げ、ズブズブのキックバックやバーターだらけ、ということになる。それでいて、プロデューサーや編集者たちは、オレは時代の仕掛け人、流行はオレが創る、とか言って、いい気になっていた。

しかし、宣伝だらけの新聞や雑誌を、誰がカネを払って見るだろうか。たとえタダのテレビだって、おもしろくないなら、時間のムダだ。そんなのに頼らなくても、おもしろいものは、いまの時代、自分でいくらでも選べる。こんな業界慣習に染まりきっていて、新聞や雑誌、テレビが客離れを起こさない方が不思議だ。だいたいプロデューサーや編集者たちってったって、しょせんどこかの一流大学を出た、それで大手マスコミにうまく就職したというだけのオーディナリー・ピープルで、はっきり言ってしまえば、いくら給与が高くても、べつに特別な才能があるようなやつらではない。同じ肩書きでも、昔のように、親の代からの天性の多趣味な遊び人で、自力で出版社を立ち上げてしまったとか、まったくカネのないところでヒット番組を創ってしまった、とかいう創生期の業界人とは格が違いすぎる。業界つきあいしかしていない、いまのプロデューサーや編集者たちが縁故絡みで選んだ程度のものだったら、読者や視聴者の方が、ずっと目が利くし、見つけるのも早い。

だから、いまどき、新聞や雑誌を熟読し、テレビに食らいついているやつなど、匿名で人に病的に嫉妬する顔無しの連中くらいだろう。チャンスそのものを奪われたフリーターや、会社から放り出された自意識過剰の年寄り、日々の仕事に人生の目的を見いだせない人々。もちろん昔から変なのはいたし、有名人のウワサなんて、だれにとっても、どうでもいい恰好の話題だが、彼らは世間が見放した新聞や雑誌、テレビを目の敵にして、そこで自己宣伝を繰り広げる有名なだけの有名人に噛みつく。ユングの言う、いわゆるシャドウだ。つまり、生きられなかった自分、自分が殺した自分を生きている他人、だ。正確に言えば、嫉妬屋にとって、自分の方が影なのだが。

端から見ていると、マスコミの名望家も、インターネットの嫉妬屋も、どっちもどっちだよな、と思う。たしかに、実体の無い有名人、そういう有名人になりたい名望家というのもどうかとは思うが、自分の使命として律儀に噛みつく嫉妬屋などというのは、もはや精神的に壊れてきてしまっているPsyだと思う。ごちゃごちゃと人のことになんか関わっていないで、自分の仕事をすればいいのに、とは思うが、いまの時代に、世間から見捨てられ、自分の居場所を得られず、自我が壊れてきてしまったのだろう。根が受動的だから、人からの評価なしに自分で自分の仕事や趣味を楽しむということができないのだろう。

実際、自分の仕事や趣味が楽しくて忙しい人は、新聞や雑誌、テレビなんか見ないし、そんなのを見ている暇があったら、自分の仕事や趣味に励む。そっちの方が楽しいから。ましてや、有名なだけの有名人など、自分の人生にとって、まったく用が無い。べつに人と話をあわせなければならない接客業でもなければ、世間の話題など、フォローしていなくても、ふつうはまったく困らないのだが。

VRMLからX3Dへ

 VRMLの規格は、結局のところ、マイクロソフトのエクスプローラの独占問題に巻き込まれ、そのビューアーが標準装備されなかったところで空中分解した。それが、いま、またX3Dとして復活してきた。

 ネット上で3D画像を送るくらいなら、3D情報そのものをテキストで送った方が速い。ただしクライアント側に、リアルタイムで3Dに再現するパワーを必要とする。VRMLのときもそうだったが、うるさい連中が再現性に注文をつけて、規格ばかり複雑にするものだから、プラグインメーカーが放り出してしまった。そんな高度なの、ふつうのパソコンで動くわけがない。

 X3Dになった、ってったって、文法がXML系になっただけで、中身はVRMLと変わらない。だから、簡単に翻訳できる。が、グラフィックに関して、十年前とパソコンの性能がそんなに変わったわけじゃない。リアルタイム3Dは、やたらパワーが必要なので、最近のノートパソコンでは、そっち方向の性能はむしろダウンしているくらいだ。にもかかわらず、また理系の連中が言語ばかり複雑にして、あれもこれも盛り込もうとする。

 ネット3Dなんて、適当に透視画で動いていれば十分なんで、レゴをやったことがあるなら、それでもけっこう楽しめるのを知っている。でも、3D=リアルな造形、なんて思っている電気バカはあまりに多い。連中をどうにかしないと、またこの新しいX3D規格も自滅してしまうだろう。

 だいだいモデラーを使って3Dをいじるやつなんて、ろくなもんじゃない。デカルトの時代から、生の数字と空間とを頭の中で行ったり来たりしてこそ、おもしろいんで、モデラー頼みで細かな数字だらけのIndexsetなんか作るくらいなら、2Dの画像につぶして送り込めよ、と思う。

頭の良さは役に立つか

それこそ、うるさく誤解する向きもあるから、言っておくが、頭が良い、とか、悪いとか、いまの時代に、ほとんど意味がないと思う。まして、たんなる雑学的な博覧強記など、このインターネットの時代に何の役に立つものか。

そもそも、頭が良い、回転する、というのは、別の視点からの物の見方ができる、ということで、ごちゃごちゃ考えてばかりいるくらいなら、端から腕力で計算した方が速いことも多い。だから、ふつうの仕事なら、べつに頭なんか良くなくても、まったく問題はない。むしろ、それこそマニュアルどおりに、ていねいに仕事をこなす人材の方が、はるかに有用だ。実際、そういう地道な人の方が、一般的には収入も多いだろう。一方、わけのわからないことを言い出す天才肌は、すでに確立した組織では厄介者でしかないだろう。

しかし、社会全体として、それだけでいいのか、という問題は残る。みんながみんな、同じものの見方しかしない社会なんて、気持ち悪くないか。民主主義と多数決をごっちゃにしてしまった戦後日本において、少数異見の余地などないが、社会が停滞するのも、そのせいであることに気づいてもよかろう。が、そういう見方がすでに少数異見なのだろう。

経済学では、パレート最適なんていうのもある。いずれの既得権を減らすことなく、分配を最適化していくと、あるところで鞍点に至る。まあ、みんな前よりは良くなったのだから、文句はなさそうだが、ここから先、どうにも動けなくなる。囚人のディレンマのように、もっと別のところに、さらにみんな良くなる解決点があるのだが、そこに移行するためには、一時的に既得権を減少させなければならない。

そこで出てくるのが、パラダイム転換とかイノヴェーションとかいう概念だ。たとえて言えば、いままで7ブリッジをやっていたのに、あるところからブラックジャックを始めるようなもの。同じトランプなのだが、ルールを変えると、最適化の戦略も一変する。当然、既得権はほっておいたまま、社会構造は、一気に再流動化し、活気を取り戻す。

江戸の農業経済から明治の貨幣経済への転換、なんて、典型的な例だ。当然、成り上がる者もいれば、没落する者も出てくる。それがわかっているから、既得権のある者は、絶対にパラダイム転換などしたくない。しかし、しないと、どんづまり。無理に維持すれば、最後は暴力的な革命になってしまう。

19世紀の穀物と鉄鋼の時代から、20世紀の電器と自動車の時代に変わったように、21世紀も、なんらかのパラダイム転換をしなければ、社会そのものが危機的な状況になる。かといって、いまの偉い人や大きい国が、自分の足を切るような英断をするとはとうてい思えない。

しかし、潮流などというものは、偉い人や大きい国でも抑えられるものではなく、変わるときはかってにかってに変わる。超大国のソ連が崩壊してしまったように、どうやっても、止められない。その崩壊に巻き込まれないためには、べつに成り上がらなくてもよいが、生き延びられる程度には、物事に対する柔軟な見方の切り替えはできた方がよいと思う。

嫉妬と天才

日本では明日からセンター入試だとか。なんどか監督業務をやったが、受験生も大変だが、監督もかなりしんどい。昨今、受験生で全科目を受けるやつなんていない。が、監督は全部。あんなの、カンニングなんかしてどうにかなるような試験ではないのだから、不正なんてまずありえない。ただ紙を配って、黙ってじっと眺めているだけ。おもしろくもない。まあ、仕事だからおもしろくなくても仕方ないが、それなら、紙を数えるだけの本部業務の方がいいなぁ。

それにしても、東大を出ていると、突然、妙なのに突っかかられることが多い。もう慣れているので、べつに驚きもしないが、それにしても多い。それも、みんな突っかかり方が同じで、オリジナリティがないところが、凡人の凡人らしさか。そういうのは、たいてい、東大も近頃は、とか、東大を出ているくせに、とか、面識もないうちから、難癖をつけてくる。近頃の東大、なんてったって、あんなバカでかい大学、「近頃」だろうと「当時」だろうと、どこがどうなっているのか、誰が何をやっているのか、なんか、わかるわけがない、と思うのだが。

なんで日本は、こんなに学歴に嫉妬深い連中を大量に作り出してしまったのだろう。センターだの、偏差値だので、序列づけしたからだろうか。そもそも、彼らは何に嫉妬しているのだろうか。現実に東大を出てサラリーマンになるより、うまく商売を当てた個人事業者の方が収入が多い。だったら、いまさら人に嫉妬することもなかろうに、余計なお世話だ、と思うのだが、連中の劣等感の闇は深い。いくらカネがあっても、勉強ができなかったとか、学歴が最高ではなかったとか、ということは、死ぬまで、彼らの、人生で二度と取り戻せないコンプレックスとして凝り固まっている。

知力、というのは、体力のように、見えないことも一因だろう。野球選手なんかに嫉妬するやつはいないものなぁ。そのうえ、体力の違いは、だれにでも見てわかるが、知力の違い、というのは、知力そのものがないとわからない。ここが問題だ。

だれにでもわかりやすい例で言えば、たとえば、1から2、3、4、5、と順に100まで足していけ、と言われて、ソロバンの腕を磨いて、いかに速く計算するか、日々、努力するのが秀才。努力さえすれば、自分にもできる、と思うだけなのが、凡人。天才は、5050と即答する。頭の中で100までの数列を思い浮かべて、ポキッと半分に折る。101が50個。

33番目まで足したところはいくつだったか、などと聞かれても、天才は答えられない、そんな途中の、細々としたことは知らない。それどころか、なんでそんなことを聞くのか、なんでそんな答えが必要なのか、とまどう。それを見て、ほらみろ、と、凡人は喜ぶ。

モーツァルトの作曲の仕方などもそうだ。和声的に最適の2小節のモティーフが決まったら、全曲ができたも同じ。後は、他の人にもわかるように、楽譜に起こしていくだけ。実際、彼の『レクイエム』は未完成だったが、他の人が残りをやっても、ほぼ同じになる。(シューベルトは天才ではなかったから、彼の『未完成』はそうはいかない。)

秀才が虫のように地上で1つずつ線形に考えていくのに対して、天才は鳥のように上から平面、さらには立体で、問題を一発でとらえる。ガロワ理論なんて、その典型だ。算術とは違う数学。ごちゃごちゃした計算なんかしないで、全部に関する答えを一度に出してしまう。

アメリカやヨーロッパ、中国だと、天才を天才として評価するシステム、天才の天才性を開発するシステムが確立されている。が、日本は、そうではない。秀才たちといっしょに、普通のお勉強をさせられ、センター入試みたいのを受けないといけない。とはいえ、ガリガリやらんでも、まあ、なんとかなるのが、天才の天才たるゆえんで、世界史の年号なども、西洋史も東洋史もいっしょに、1世紀単位で、1枚の年表として覚えてしまうもの。(1世紀なんて、しょせん1から100までしかないのがわかってしまえば、そんなに難しいことではない。)

(とはいえ、近年のセンター入試って、問題が中途半端に天才型になってきていて、あんなの、ふつうの学生にやっても、あてずっぽにしかならんだろ、と思う。秀才型と天才型とは、やりかたが根本的に違うのだから、中途半端な出題は、どっちにとっても迷惑なだけではないだろうか。)

実際に本当に努力してみたことのある秀才たちは、天才が自分たちには絶対できないことを一発でやるのを見て知っているから、まだいい。やってみたこともなく、努力さえすれば自分だって秀才や天才になれるはずだ、と思っているだけの凡人は、ほんとうにやっかいだ。秀才ができることを天才ができない(しない)のを見つけて、自分が勝ったかのように、大きな口を開けて笑う。そもそも、勝った、負けた、で、考えているところからして、答えの見えない真理探究の学問を、白黒のつく雑学クイズ番組かなにかと勘違いしている。彼らは、つねに人に干渉していることでしか、自分の存在の無さを直視しないでいる方法がないのだろう。困ったものだなぁ。べつに学歴なんか、あったって、なくなって、自分のやりたいことを楽しくやって暮らしていればいいのにねぇ。

キャンプな『バットマン』と桑田次郎のアメリカ復刻版

アメリカの書店のマンガ

というわけで、一路、アメリカへ。クリスマス・テロの警戒で、やたらチェックが厳しい。

が、街は、やはりここもラスト・ミニッツ・パニッカーで、大にぎわい。そのうえ、感謝祭より後は、もう冬物一掃セールだからね。やはり製造年2008の後に2009が出てきてしまったら、もうそっちを買ってしまうものな。売るなら今のうちだ。

ちょっと書店へ。ビデオは長いクリスマス休みにむけて、やたらテレビのボックスものの出がいいようす。あいかわらずERだのSATCだのが人気。マンガ関連では、日本のものも好調。ドイツと違うのは、ドイツが、トウキョウポップのせいなのか、安っぽくて下手っぴな今どきの少女マンガ系が多いのに対し、アメリカは、フランスのバンドデシネ風のグラフィック・ノヴェルっぽいのが当たっているらしい。それだけに、マンガのくせに本の作りが豪華で、紙質もよく、やたら高い。

目についたのは、『バットマン』。それも、なんと日本の桑田二郎(桑田次郎)のキング連載の豪華復刻版。なんだ、これ。表紙にドリフターズとか書いてあるし。編集が下手だから左右ページが反転して、ザラ紙の染みまで写真で取り込んでるし。古文書のファクシミリ版じゃないんだから、フォトショップかけて、もとの白黒に戻してクリアに刷ればいいのに。日本の半紙B5まがいの疑似等寸サイズだから、ミミの広告とか切れちゃってるし。製本より製版にカネをかけろよ、と思う。

で、なんでこんなのが出てるのか、というと、もともとのアメリカのオリジナルのコミック版の『バットマン』にちょっとした困った事情があるからだ。いま映画で『ダークナイト』とかやっているが、あれは、オリジナルの『バットマン』とはあまりに似ていない。デザインがどうこうではなく、ノリが違うのだ。古いテレビ版の方がオリジナルのコミック版に近い。

『バットマン』は、「アクションコミック」誌のスーパーマンに対抗して「デテクティヴ・コミック(DC)」誌で1939年に連載が始まったものの、しょせんずっと本家スーパーマンの亜流でしかなかった。しかし、DC誌はほかに頼る主力作品もなく、ずるずると連載された。が、とうとう戦後の1964年には打ち切りが決まった。そこでヤケになってデザインも設定も、そして、とくに敵役たちを、コンテンポラリー・ポップなものに一新してしまった。ようするに、当時流行の原色サイケを取り入れた、ということだ。

そして、1966-68のテレビ版で最盛期を迎える。このテレビ版が、コミック版以上にポップで、画面に擬音がテロップで表示されたりする。ビートルズの『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』や『イエロー・サブマリン』に近いノリ。このオバカなテレビ版『バットマン』(ABC系)と対抗して、NBC系ではビートルズのパロディのオバカバンドショーの『モンキーズ』が企画されたくらい。そして、テレビ版がまた逆にコミック版に影響して、バットマンとロビンは、ほとんどボケとツッコミのかけあいとなり、敵役との戦いさえも、パンツのゴムが伸びてユルユルってな感じとなる。(個人的には、こういうオバカ路線が大好きだ。)つまり、それまでのクソまじめなヒーローもののすべてをごたまぜにしてパロディ化してしまったのであり、ゾンタークの言うキャンプの典型として、『バットマン』は、コミック版も、テレビ版も、爆発的にアメリカでは受けた。

ところで、そのころ、日本の桑田次郎(いま、二郎)は、SF作家の平井和正とともにマンガとアニメで『エイトマン』を大ヒットさせたものの、連載をかかえすぎ、自殺を図って拳銃を買い集めて逮捕された。「キング」編集部は、その桑田の復帰のために、テレビ版『バットマン』の日本での放送に連動して、独自ストーリーでの連載を依頼する。しかし、ベトナム戦争とともに黄金の60年代を迎えたアメリカと違って、日本は、朝鮮戦争による戦後景気とオリンピック景気が過ぎ去った後の反動で、トヨタも傾くほどの大不況期。「マガジン」誌ではちばてつやの『ハリスの旋風』に加え、梶原一騎・川崎のぼるの『巨人の星』がじわじわと人気を得、むしろ貧乏・ド根性・クソまじめの新劇的体育会路線が主流となる。テレビでも、『ウルトラマン』のクソまじめ路線が一人勝ちして、オバカなテレビ版『バットマン』はぱっとしない。桑田の『バットマン』は、クソまじめ路線を取り込んだが、とにかく彼の絵は、泥臭いちばてつやや川崎のぼるなどに較べると、イローニッシュでスタイリッシュすぎた。

さて、いま、もはやスーパーマンがダメになると、バットマンをまともなヒーロー路線に戻そうということで、かのオバカ路線はどこかへ吹き飛び、バットマンはスタイリッシュなグラフィック・ノヴェルと化している。オーディナリーピープルの優等生ジャーナリストのスーパーマンより、セレブでダークな感じも、今のような暗い時代に受けがよいらしい。

バットマンの歴史において、いまや、あの最盛期のキャンプでポップな60年代は汚点でしかない。で、世界を見回してみたら、ちょうどその時代に、日本で桑田が、まさに彼らの期待するイローニッシュでスタイリッシュな『バットマン』を連載していた。じゃあ、そっちを復刻して、キャンプな正史と入れ換えてしまおう、というわけだ。

それにしても今の不景気なアメリカが、余裕を失って、日本の60年代のようなクソまじめ路線になると、ちょっと恐い。カネはなくても、この国は、体力や爆弾の方はありあまっているからなぁ。まあ、1ドル90円を割り込んだのは、こうしてアメリカで買い物をするのにはありがたいが。

ヨーロッパの言語と手振り



 今日のブルガコワ教授の講義は手振り。出だしは、チャップリンの『独裁者』。例のトーキーなのに意味不明の言葉で演説をぶちかますシーン。こういうのを見ると、やはりチャップリンはすごいなと思う。でたらめをやるために、数分間を計算しつくしている。水を飲んだかと思ったらズボンに流し込んだり、横をむいて吠えたと思ったらマイクがそりかえったり、左の耳に入れた水が口から噴き出したり。

 それはそうと手振りだ。ヒットラーやレーニンの演説を見ると、これまたすごい。文化人やまったくのどしろうとなど、会話における手振りだけをドキュメンタリーから取り出してみると、その意味がよくわかる。やはりどしろうとはダメだ。手を上下に動かしているだけで会話とリンクしていない。いかにもたどたどしい。それに比して、プロの演説家はサイレントですら話が見える。さすがだ。

 英米語はともかく、ドイツ語、フランス語は、手振りなしでは成り立たない。こっちのレトリックの本を読むと、聴衆は手振りを見て、その言葉の真意を読み取る、とどれも書いてある。つまり、いくら言葉の上できれいごとを言っていても、それに手振りが呼応していないと、それは言葉の上だけのこと、本音ではない、と理解する。つまり、英米語と違って、ドイツやフランスでは、日本と同様、建前と本音の使い分けがあり、それが手振りで区別されている、というわけだ。

 いかに文法的に正しくても、正しい手振りを伴って言わない限り、こっちの人は聞き入れない。まあ、そう言ってるだけの建前として受け取るから。逆に言うと、こっちの人の会話の大半が、文法的にはぶっ壊れた副詞だけによるものであっても、正しい手振りが伴っていれば、それできちんと通じている。

 ただし、ブルガコワ教授によれば、スターリンやゴルバチョフは、英米スタイルで、手振りを用いていない。言っているのは建前の公式発表のみで、本音は隠している、と思わせたことが、かえって期待を集める結果になったようだ。

ヨーロッパ人は靴を脱ぐか

 街を歩けば女性はブーツだらけだ。そこで疑問。家でもあんなの履いてるのか。答え、履いているわけがない。外の気温はマイナスだが、ほとんどの家の室内は強力な暖房でずっと24度くらいに保たれている。むしろ暑いくらいだ。石の壁が厚い(30センチくらいはあたりまえ)ので、いったん建物全体が暖まってしまうと、自分のところの暖房にかかわらず一部屋だけ寒いということはない。

 で、近頃は部屋履きやスリッパがどこでも売っている。フローリングが流行し、床暖房も人気だ。底冷えするので、すくなくとも大きな絨毯を敷いている。つまり、室内では靴を脱ぐ生活が主流となりつつある。

 とくに屋根裏に住む若い世代はそうだ。天井が低いから、イスやテーブルがじゃまになる。それで座布団にちゃぶ台。ベッドも低いもの、さらには床にマット直置きに変わってきている。いわゆる日本のコタツ用テレビ座椅子なんていうのも売っている。(これは興味深い。というのも、日本の方が、高齢化で、畳に座るのがつらいとか言って、逆に和室にイスを置く例が増えてきているようだから。)

 ヨーロッパのくつろぎ方もどんどん変わってきている。全ヨーロッパ的ドラッグストアチェーンでは、炊飯器だの鉄板焼きプレートだのも人気の広告商品だ。日本人がナイフやフォークで食事できるように、箸を使えるのは、もはやマナーとして当然。

 ただし、ヨーロッパで、いまの日本と決定的に違うのは、やたら食べ歩きが多いこと。日本は早くから都市が肥大し、完全人工化したので、ゴミはゴミ箱へ捨てる。が、ヨーロッパは、いまでも街に人工と自然とが共存しており、自然に帰すつもりなのか、ゴミはそこらに平気で投げ捨てる。それどころか、トイレが有料なので、建物の物陰はしみだらけで、くさくてたまらない。

 環境意識が高い、なんて、まったくのウソ。そのうえ、朝食や夕食をきちんと食べる習慣がなく、やたら間食して食べ歩く。そして投げ捨てる。もっとも行政の清掃が徹底しており、あまり目立たないが、それにしてもひどい。そこらにガムがくっついていることもあるので、電車の座席ですら気をつけないといけない。

感謝祭の七面鳥

七面鳥

今週末はアメリカは感謝祭。27日の木曜がそうなのだが、ふつう週末まで休みだ。というわけで、わざわざアメリカの友人の家まで七面鳥を食べに行く。とはいえ、日本から飛んで行くことを考えれば、はるかに気軽で簡単だ。伝統的な北米の感謝祭料理を準備していてくれた。誠にありがたい。鶏と比べると、やはりかなり大きいな。好みもあるが、私は皮のクリスピーなところが好きだ。感謝祭の日は、ただだらだらと食べてしゃべって楽しむのが正しい過ごし方だとか。それで、正しく夜までみんなで楽しく過ごした。おいしかったので、なんでも食べてしまったが、もうおなかがいっぱいだ。

懺悔と祈りの日

 今日も朝からガロンガロンという鐘が鳴り響く。すぐ近くの教会のせいだ。鐘を撞く人にもよるのだろうが、今日のはとくにしつこい。

 だいたい今日は祭日ではない。ルター派の「懺悔と祈りの日」だ。かつて、1981年に全国休日となったが、1995年に廃止された。日本の勤労感謝の日とは逆に、祭日だが働いて介護保険料を賄う日になった。(ただしルター派の拠点ザクセン州だけは、いまでも祭日。)

 もともとからして、よくわからない祭日だった。教会歴は、ユダヤの陰暦(月に基づく)や日曜ミサの習慣を引きずっているために、移動祝日が多い。クリスマスは12月25日で固定だが、これは曜日が変わる。この当日(25日が日曜かもしれない)を除いて、4回前の日曜から待降節(アドヴェント)に入る。これは、カトリックもエヴァンゲリシュも一緒だ。

 ところが、エヴァンゲリッシュでは、このもう一つ前の日曜を、教会歴の年末として、「永遠の日曜日」(エーヴィッヒカイト・ゾンターク)と呼んでいる。1962-65年の第二ヴァティカン公会議で、エキュメニズム(新旧再合同)の方針の下に、カトリックも、この日を「救世主王の日」とした。ただし、どのみち祭日ではない。また、この第二ヴァティカン公会議以来、カトリックのふだんの日曜のミサも、教会独自で企画できるようになり、やたらぶっちゃけたものに変わってしまった。そのうえ怒りの日も地獄堕ちも無くなって、合衆国のバプテストのようにゴスペルをノリノリで歌うハッピーなものになってしまった。

 さらにルター派では、この「永遠の日曜日」の前の水曜も、この「懺悔と祈りの日」とした。みんなでそろって懺悔しましょう、というのだが、同じエヴァンゲシリュでも、カルヴァン派はもともと懺悔の秘蹟なんか認めていないので、ルター派だけの行事だ。もっともこの日の懺悔というのも、ルター派では、過去の罪の告悔ではなく、神への回心そのもののことを意味する。とはいえ、実際は、たんなる墓参りの日のようだが。

 どうもこの元祭日の出所は、いわゆる赤いサンタのクリスマスと同様、合衆国の「感謝祭」の木曜、が、占領米軍によって戦後ヨーロッパに逆輸入されたものらしい。カルヴァン派のピルグリムファーザーズは、1620年の秋に英国を脱し、北米大陸に着いたが、こんな季節に来たって、食べ物などない。インディアンに助けてもらって、どうにか翌年の秋を迎え、ともに収穫を祝った、という。

 では、ドイツに晩秋の感謝祭が無いのか、というと、無い。小麦は秋に植えて冬を越し、夏に収穫されるから。だから、収穫を祝うのは9月末のオクトーバーフェストなのだ。合衆国も、もし小麦文化であったなら、こんなクリスマス前の晩秋に感謝祭を開くことはなかっただろう。つまり、合衆国の感謝祭は、むしろトウモロコシ文化のもの、つまり、インディアンの習慣、ということになる。

 それにしても、ルター派のオルガン弾きは、なんでどこでもいまだに現代音楽なんかやりたがるのか。あんなのでも楽譜があるらしいが、でたらめにしか聞こえないし、はっきりいって、ものすごくウザい。朝から頭が痛くなる。

オバカ大国としてのドイツ

女語辞典

 もちろんドイツのすべてがオバカというわけではない。が、ババリア人やライン人は、とってもオバカだ。プロシア人とか、ザクセン人は、ただのバカ。シュヴァーベン人は、、、ちょっと言えない。

 たとえば、ドイツ語の権威デューデンと並ぶ語学の権威ランゲンシャイトから、こんな辞書も出ている。ドイツ語−女語辞典。もちろんドイツ語−男語もあるし、ドイツ語−上司語なんていうのもある。ようするに、連中にはドイツ語が通じない、というジョークだが、ジョークでほんとうに一冊分の辞書を作って、ふつうに売っているところがすごい。

 しかし、ドイツ語以前に、オバカは言葉が通じない。騒いでいれば楽しいのだ。マインツのファストナハト(カーニバル)のテーマソングなんか、「フンバ・テテレ(Humba Täterä, Humbta Tätärä)」だ。「ウィウィウィ・アウアウアウ」とか、「ヴィニヴィニ・ヴァナヴァナ」とか、「リッキツッキ」とか、歌詞も、なにも、もうまったくわけがわからん。「アラウ言ってんだから、ここらはもうミシシッピじゃねぇらしいぞ」とか、「メーーーーンツはずっとメーーーーンツのまんま」とか、「おいらはローゼンモンターク生まれだいっ」とかいう曲もある。こういう変な曲を、この街の人々は、みんな歌える。編曲はノリノリに変わっていくが、本歌は昔からある。

 「フンバ・テテレ」は、マインツ以外でも、いまやドイツ中のオバカのテーマソングでもあるから、サッカーのバカ騒ぎとかで聞いたことがあるかもしれない。でも、これは、サッカーの曲なんかじゃないんだぞ。マインツの音頭名人エルンスト・ネガーの1964年以来の超ロング大ヒット曲。半世紀に渡って売れ続けている。この曲を知らずに、ドイツのオバカは語れまい。この人、本業はあくまで屋根職人。ファストナハトになると、やたら高い屋根に上って、みんなの音頭を取る。さすがオバカの鏡だ。いまはその息子が歌っている。今年は、エルンスト・ネガーの生誕百年記念。さらに盛り盛り上がるぞ。


第五の季節ファストナハト宣言!

ファスナハト宣言2

 今日は、聖マルティンの日。マインツの大聖堂も、ほんとうは聖マルティン大聖堂と言う。しかし、この聖マルティン、マントの半切れを乞食にやった、というだけで、有名なわりに大したことはしていない。はっきり言ってしまえば、フランスのトゥールズの大司教、というだけ。とはいえ、夕方にランタンを持って子供たちが練り歩き、塩プレツェルをもらい、ガチョウを食べる、ということになっている。

 が、マインツは、その大聖堂にもかかわらず、そんなことは知ったこっちゃない。それより今日は大変な日なのだ。なにしろ、11月11日。1が並んでいる。その11時11分ともなれば、オバカの血が騒ぐ。なにしろ、オバカさんは、8でも7でも数字が並んでいるのが大好きだから。広場には、トンチンカンな格好をして、オバカ数千人が集まってくる。

 というわけで、今日からオバカさんの季節だ。他の街は知らないが、マインツでは、春、夏、秋、ちょっとの冬、そして第五の季節、オバカ(ナール)というのがある。今日から2月のファストナハト(カーニバル)まで4ヶ月、オバカさんが支配する。11時11分に、広場で、オバカ憲法発布。

ファスナハト宣言1

 壇上(ビュットと呼ばれる樽)からオバカ憲法が読み上げられる。第1条、オバカの尊厳は不可侵だ(手のつけようがない)。第2条、すべてのオバカは平等だ、たとえジョークがつまらないやつでも。第3条、すべてのオバカは自由だ、ただしオバカの自由は人のオバカの始まるところで終わる。第4条、ともにオバカを喜べ、たとえシラフでオバカな相手とであっても、とりあえず乾杯! 以下略。最後は、ヘラウ三唱。へらう! へらう! へらう!

 哲学だの、エコロジーだの、ドイツをくそまじめな国のように日本に紹介した連中は、いったいどういうバカたちなんだ? あいつら、どこ見て、ドイツ文化を騙ってるんだろう。ベルリンなんて、いまだって、あんな僻地、ドイツじゃないだろ。ババリアなんか、本人たちもドイツだと思っていないし。まあ、マインツも、ドイツじゃないらしいが。とにかく、プロシアのバカどものような、くそまじめなことは、大嫌い、という、ポジティヴなオバカ気質が、ライン人というもの。

 じつは、このファストナハト、べつに歴史のある伝統行事でもなんでもない。とにかく盛り上がっているのが、ケルンとマインツ。それも、じつは、この二つのライン都市が、1830年代末に共謀して始めたバカ騒ぎだ。
 
ファスナハト宣言3

 これがマインツのオバカ旗。オバカなかっこうも、基本はこの4色。マフラーだけでもいい。しかし、この旗、じつに巧妙だ。くそまじめなバカどもにはわからなかったのだろうが、じつはフランスの共和国旗にラインゴルト(ライン河の黄金の象徴)を付け加えたものだ。逆に言うと、その後のドイツ国旗から、プロシア・チュ−トン騎士団旗の鉄血を象徴する黒と赤を除いたもの。

 もともとケルンやマインツは、大司教領であり、門前市の自由経済で栄えていた。ところが、北から野蛮なプロシアがやってきて、中間のコブレンツに要塞を築き、豊かなケルンやマインツを狙った。マインツ大司教の地位がプロシアに不正にカネで買われるなどというスキャンダルも起こっていた。だから、フランス革命に際しては、マインツはフランス共和国加盟を宣言した。しかし、プロシアにつぶされ、ナポレオンが取り返し、再びプロシアに征服された。

 1830年、フランスでは、『レ・ミゼラブル』でもよく知られている七月革命が起こったが、もはやケルンやマインツに、プロシアに逆らう力はなかった。そこで始めたのが、このオバカの祭りだ。オバカ憲法も、自由、平等、友愛、というフランス革命の基本理念が隠し込まれている。そもそも11月11日11時11分、というのも、たんなる数字遊びではない。ドイツ語で11をELFと言うが、これは、まさにエガリテ(平等)、リベルテ(自由)、フラテルニテ(友愛)の頭文字の象徴。ケルンでも、マインツでも、このファストナハトに向けて、いくつものオバカ協会があるが、じつはこれも、当初はフランス革命時のフリーメイソンリーの組織を継承していた。

 昨今の自分の関心との関係で言えば、マインツというメディア都市は、ナチスの敗戦よりはるかに早く、この1830年代にポストモダンをみずから選び取った。オバカというのは、まずアウト・オブ・モードだ。フランス革命軍の格好をしている人がいるかと思えば、ヴェネチア・ルネッサンスだったり、中世の甲冑騎士だったり、カリブの海賊だったり、ネズミ女だったり。スーツのボタンでさえも、ずらしてかけるのが、オバカというもの。かぶりものも必携。ナール帽やクラウン帽のほか、トナカイの角なんていうのもいい。そのうえ、わけのわからにドでかい勲章を、張り切れないほどいっぱい胸につける。そして、首からは、このオバカ人形。へへへ、どうだい、いかしているかい。これ、夜道で赤く点滅するんだぜ。チンケなくせに、4オイロもするんだ。最低だろ。

 ファスナハト宣言5

 それにしても、ヘラウ三唱で、右手を高く上げて、みんなでへらう!へらう!へらう!って叫ぶのにはかなり驚いた。それ、戦前のナチス式敬礼だから、ふつうにそこらやったら、かなり怒られてしまう。でも、そんなの、知ったこっちゃない。だって、みんなオバカなんだもん。

 ファスナハト宣言4

ポストモダニズムとはなにか

 キーファ博士、例の件が吹っ切れてしまったせいか、話がでかい。だって、もうべつに映画に話を限定する必要なんかないものなぁ。その方が他の可能性も高まるし。そもそも、べつに映画だけが専門なわけでないし。こっちとしても、その方がおもしろい。

 というわけで、今日もポストモダンの続き。ところが、例を挙げれば挙げるほど、学生が混乱してくる。質問が続く。この四半世紀、ヨーロッパの大学では、ポストモダニズムは、学際(専門横断)的な問題だ。しかし、この問題、いろいろ問題がある。この問題は、ヨーロッパとアメリカのズレから生じている。

 アメリカでは、エンパイア・ステート・ビルをはじめとして、アールデコが続いた。その後にネオダダが氾濫して、70年代にポストモダンとしてフリー・クラシックが登場する。これに対し、ヨーロッパでは、アールヌーボー・アールデコと並行して世紀末的デカダンスが流行し、ダダやジャズが出てくる。しかし、30年代、ナチスは、デカダンスやダダ、ジャズを「退廃芸術」として否定し、マッチョ・クラシックが公認スタイルとなった。戦後は、ダダの発展として、シュールレアリズムだの、アプストラクト・クンストだのも出てきたが、先週に論じたように、戦後の復興そのものが、ポストモダニズムとして行われた。したがって、ヨーロッパのポストモダニズムは、ナチスが提示したクラシックに対しても強く否定的だ。だから、アメリカのフリー・クラシックなどというものを、ポストモダニスムと呼ぶ理由がわからない。

 そもそも、ポストモダニズム、という術語自体が、トリッキーだ。モダンを、近代などと訳している日本では、なおさらわけがわかるまい。モダン、とは、アップツゥデイト、つねに流行にオン、ということ。モダニズム、とは、日本語で言えば、流行主義。物事はなんでも時流に乗っていないといけない、という発想。そして、ポストモダニズムは、流行追っかけの後、ということになる。

 学術史的には、モダン、および、モダニズムは、グーテンベルクの出版術とともに始まった、と言われる。新聞によって次々とニュースが送られてきてこそ、それに対する追っかけも可能になる。これを政治に使ったのがルイ14世で、自分ででっちあげた「流行」を次々とアナウンスし、それを追っかけない貴族を社交界からはじき飛ばしていって、中央集権を確立した。このモダニズムによる支配システムは、その後、芸能でも、学会でも、至る所に利用された。とくに経営のマーケティングでは、計画的陳腐化という手法が唱われ、自分で創っておいて、しばらくすると、それはもう古い、買い換えましょう、と呼びかけ、必要以上に需要を再喚起することがよい、とされた。

 そして、インターネットとともに、モダンが終わった、と言われる。インターネットを創っている理系の連中はいまだにアップトゥデイトばかりしているが、ネットでは古いものと新しいものとが並列している。Vistaが出ても、XPでいいよ、というのがポストモダンというもの。書店が有限の面積を新刊書で効率化しようとするのに対し、アマゾンは、新刊よりもロングテイルを手厚く拾う。

 しかし、バカなことに、ポストモダンを言う評論家や似非学者、そしてその本を出す出版社、それを追っかけで読む連中が、どっぷりモダニズムに浸りきっている。ポストモダニズム自体が、一種の流行語で、えっ、君、まだポストモダニズムを知らないのか、っていう、言い方は、まさにモダニズムそのものだ。

 だから、まともなアカデミズムの中では、ポストモダニズムをゴチャゴチャ言う評論家や似非学者をまともに取り合わない、という人も多い。だいいち、実際、キルケゴールやニーチェも読んでいないくせに、社会主義の残党がよく言うよ、というのが本音だろう。そもそも、社会学自体が、大学紛争のどさくさで紛れ込んだような学科で、学者や学術としても怪しい連中が多すぎる。大半が、そこらの雑誌でやっていればいい時事の話題で、わざわざ大学でやるようなテーマでもあるまい。

 ポストモダニスム、などと言うまでもなく、アカデミズムは、はなっからモダニズムに背を向けている。だいいち、アマゾンなんか出てくる前から、図書館は、ポストモダニズムだし、学者の関心も、ポストモダニズムだ。新しい説だから良い、なんて思っているのは、理系か経営学くらいだろう。

 そもそも大学の元の宗教の世界が、ポストモダニズムだ。世俗宗教では、救済をカウントダウンするが、修道院の中では、そんなカウントダウンは越権だ。救済は神の自由意志の領域であり、人がカウントダウンするようなものではない。すべて神様におまかせして、朝に夜に祈って、畑を耕し、書を読み、ビールやワインをかっくらって寝てしまう。そこには、今日も、明日も、あったものではない。まさに無意味な現世が永遠に続く。しかし、意味は神が与えるもので、人が心配することではないのだから、現世にとって現世が無意味なのは当然だ。ニーチェは、一見、無神論のように見えて、きわめて神学的な話をしている。

 つまるところ、ポストモダニズム、とは、哲学であり、生き方だ。新聞も、ニュースも、どうでもいい。新刊も、新説も、知ったことではない。古代の本でも、近代の本でも、古典(これがクラシック!)と呼ばれる良い本だけを繰り返し読んで、穏やかに暮らす。流行の追っかけもしないし、そもそもなにが流行かなどということも関心がない。それに比して、ポストモダニズムを言う評論家や似非学者の、そのポストモダニズムに対するモダニズムなこだわりたるや、まことに尊敬に値する。いろいろ難しい術語だらけでたいへんだが、プラトンやアリストテレスが、はるかにわかりやすい、歴史を越える普遍的な言葉で語っていることなど、きっと御存知ないのだろう。

 キーファー博士は、ポストモダニズム、として、エクスタシー、を言う。これまた、学生にはわかりにくい。エクスタシスとは、ギリシア語で、輪廻からの解脱を意味する。無意味な循環から脱する。だが、キリスト教神学では、脱する、ということを、その外に出る、こととは解さない。だから、グノーシス的な二元論に拘泥したカタリ派は異端なのだ。むしろ逆に、ひたすらその中心、つまり神に近づく。どんな循環も、その中心は停止している。だから、世俗のただ中でこそ修道生活が成り立つ。

 学術に関しても事情は同じだ。コロコロ変わるものは、いちいち吟味するまでもなく、物事の周辺的な物事にすぎない。古典や名作のように、時代を超えて良いとされて残っているものは、真実という中心に近い。つまり、新しい流行は、新しい流行にすぎないがゆえに、すでにどうでもいいものであることを露呈している。新しいもののくせに、それが自分で重要であるかのように声高に言うのは、すでにオカマの厚化粧と同様、「キャンプ」であることを自分で告白しているようなもの。本物は、つねにわかりやすい姿で描かれる。わかりやすすぎるために、その時代の評論家たちや似非学者たちに軽んじられるかもしれないが、ほっておいても、そのうちかならず文化の中心に浮かび上がってくる。多少、時間はかかるが、時間は大した問題ではない。

(モダニズムとポストモダニズムについては、かつて自分も学術論文を書いた。http://www.hi-ho.ne.jp/sumioka-info/resouce/1985dogmaE.pdf)

ロボットの始まりと鉄腕アトム

 ブルガコワ教授の今日の題は、ロボット。現代のマイケル・ジャクソンをさかのぼって、あの『メトロポリス』の機械的な動きの人間像はどこから来たか、という話。

 世間には受け売りの雑学者も多いが、ロボットは、チェコの作家カレル・チャペクの小説が最初だ、などと言うようなシロウトは話にならない。読めばわかるとおり、あれは有機人造人間で、むしろゴーレムやフランケンシュタインの末裔だ。だいいち、あの小説は、1921年。ブルガコワ教授は、それ以前のダダイズム絵画の中にロボット、機械人間のイメージがすでにある、と言う。

 じつはこれについては、私もいろいろ調べたことがある。たしかに、ダダイズムのコラージュの中に、キカイダーのような、人間と機械の融合、目玉にカメラがはまっているというような、有機体と無機体の融合した作品、また、無機体だけで人体の姿になっているものなどが、じつはかなりの数で見いだされる。その量たるや、オリジナリティのかけらもないというくらい多い。なぜ、当時、これほど神経症的に、こんな機械人間のイメージを繰り返し描こうとしたのか。

 しかし、これはより正確に言うと、いわゆるダダイズムよりも前の作品群だ。だいいち、最盛期のダダイズムは、作品そのものを作らない。アールデコとダダイズムの中間あたり、年代で言うと、1919年から29年のあたり。映画『メトロポリス』(1927)に出てくる機械人間マリアなど、デザイン的にはアールデコの典型で、まさに直線的デザインが真鍮色に輝いている。たしかに年代的にはスイス・ダダイズム宣言より後だが、いわゆるダダイズム的な破壊性はない。また、その後のシュールレアリズムまで行くと、有機化が進み、時計のような機械までデロンと延びていたりする。つまり、ロボットが生まれた時代というのは、アールデコの末期、という方が適切だろう。そもそも、「ロボット」という名をつけたのも、カレル・チャペクではなく、その兄の画家ヨゼフ・チャペクだ。兄は、それがすでに存在するイメージ類型群であることを、弟よりもよく理解していた。

 マイケル・ジャクソンのようなロボットアクションというのは、じつは、もっと古い。バレエがそうだ。バレエというのは、ラテン語で、小踊り、という程度の意味で、その原型は、イタリア・ルネッサンスにある。ここにおいて、古典が再生された際に、建築様式として古代のウィトルウィクスの幾何学構造が模範とされた。ただし、当時、この幾何学構造は、じつは魔術的なもので、東洋で言う風水に近い。また、レオナルド・ダヴィンチのウィトルウィクス的人体図で有名なように、この問題は、宇宙としてのマクロコスモスと人体としてのミクロコスモスの幾何学的アナロジーという理論を伴っていた。このため、ルネッサンス時代のバレ(大バレエ)は、あの幾何学的建築物の広場やホールで人々が幾何学的図形に沿って踊り、そのことによって、そこに宇宙的なエネルギーを降臨させる、というものであった。

 この奇妙なバレは、フランスでドラマティックなバレエになると、その機械的な動き以外のほとんどが失われた。その一方、人体が骨格と筋肉からできていることが自覚されるようになると、19世紀に物理学的に身体を運動させる「体操」の概念がドイツで登場する。これに対抗して、チェコでは、「ソコル」と呼ばれる集団体操(マスゲーム)を発展させ、これが各国で、学校教育や軍事訓練に取り入れられていく。

 さて、話は戻って、末期アールデコとダダの境界時代だが、この時代の機械人間のイメージをよく見ると、手塚治虫の『火の鳥』に出てくるような、量産型ロボットではない。ソコルのような機械的で統一な動きなど、まったくできそうにもない。というのも、多くが半壊欠損ないし左右不統一な身体なのだ。バラバラになりかけた人体の立体解剖模型に似ている。それどころか、モチーフには、義手、義足が出てくる。それで気づいた。これはイメージではない。写真すら直接に撮られることの無かった、第一次世界大戦の戦傷兵士たちの実在像だ。

 第一次世界大戦の兵器は、殺傷力が中途半端で、死にまで至らない戦傷障害者を大量に作り出してしまった。四肢を切断したり、頭の半分を欠損したりした人が、大勢、帰還した。当時、まだ樹脂はない。そのため、義手、義足などは、金属で量産された。だから、無残な機械人間は、当時、ごく身近に実在した。

 ドイツ留学経験のある日本の軍医、森鴎外は、戦傷障害者と義手義足についてつねに関心を持っていた。そして、彼はゲーテの処女作『ゲョッツ』も翻訳する。鉄の義手を持つ騎士、鉄腕ゲッツ、あの鋼の錬金術師の原型だ。そもそも日本語の「鉄腕」などという奇妙な言葉自体、漢語ではなく、森鴎外がこの作品の翻訳において造語したものだ。まさにアールデコ末期の時代。

 医学生で映画マニア、ゲーテマニアの手塚治虫は、映画『メトロポリス』に心酔し、後に鉄腕アトムを描く。このアトムも、ひとつの統一有機的な機械なのではなく、首だの手だのが取れて平気で、簡単に交換可能な、無機的な部分の寄せ集め。まさにダダイズムだ。その後、日本では、合体変形ロボがはやるが、もともとロボットというものが、全身、義手義足の寄せ集めなのだから、パーツをはめたり外したりする方が、その原型をとどめている、ということになる。

 ところで、第一次世界大戦では、戦死者は戦地に葬られたが、第二次世界大戦になると、とくにアメリカでは、死体を帰還させるようになる。この際に、遺族に遺体を見せなければならない。あまりに無残な姿のままで返すわけにもいかないので、縫合して欠損を補う技術が発達する。ここから、形成外科が生まれ、ベトナム戦争の戦傷にも応用される。素材も、金属からシリコンや樹脂に変わり、切ったり、張ったり、別のところで作って、取ってくっつけたり、と、なんでもできるようになってくる。とくに欠損しやすい鼻は、再生術式が大いに研究された。

 ジョージ・ルーカスは、1944年生まれ。朝鮮戦争からベトナム戦争の時代に育った。もともと『地獄の黙示禄』を作ろうと思っていた人物だけに、『スター・ウォーズ』もまた、未来の宇宙の話のように見えて、当時の状況を色濃く反映している。知っての通り、ダース・ヴェイダーは、左手が義手、両足が義足、全身が火傷でただれ、自発呼吸さえもできない。まさにナパーム弾の巻き添えをくらって戦地から帰還した戦傷兵の姿だ。そのうえ、主人公のルーク・スカイウォーカーも、父のダース・ヴェイダーに右手を切り落とされる。だから、「ジェダイの帰還」では義手だ。ルーク・スカイウオーカーの、ルークは、ルーカスの愛称だし、ダース・ヴェイダーのファーダーいうのは、低地ドイツ語で、もともと父のことだ。ジョージ・ルーカスのの父親は、ドイツ系のクルミ農園のオーナーにすぎないが、いったいなにがあったのだろうか。

 同じ『メトロポリス』という映画に発しながらも、手塚治虫は、ロボットから、その生まれの暗いイメージを一掃し、科学の象徴にしてしまった。一方、ジョージ・ルーカスは、その素性の悲惨さと危うさをストーリーの中心に据えた。しかし、手塚でも、ロボットのおどろおどろしい素性を忘れたわけではなく、『どろろ』や『ブラックジャック』のピノコとして原型をとどめている。

はっぴぃ・はろうぃーん!

ハロウィン

 今日は、朝から家の前の教会の鐘がガロンガロン鳴る。ハロウィン、だからではなくて、宗教改革記念日だから。ルターが、万聖節の前日に、例の論題を提起した。そして、1999年にカトリックも信仰義認説を受け入れた、ということになっている。

 とはいえ、ハロウィンだ。近年、ドイツでも、ハロウィンは、はやっている。デパートでも、おもちゃ屋でも、ハロウィンの仮装を売っているし、古い城館跡では、若い連中が深夜にハロウィンパーティで騒ぐ。

 しかし、ハロウィン、と言えば、やはり、本場はアメリカだろう。なぜアメリカが本場なのだか知らないが。ジャック・ランタン、というのだから、あいつはやはりアメリカ人なのだろう。

 というわけで、午前中に自分の講義を終えてから、すぐアメリカまで行くことにした。そして、日本マニアの友人宅へ。なぜかチラシ寿司を持参。それをつつきながら、三味線と太鼓で小粋に遊ぶ。あたりも真っ暗になり、周囲が子供たちの声で盛り上がってきたころに、さあ行くぞ、と、御近所回り。

ハロウィンの魔女

 だが、御近所さんも、準備に怠りはない。暗くなり始めた18時ころから、もう戸を開けて子供たちの来訪を待っている。よし、来い! とばかりに、凝りに凝ったセッティングの家もある。すてきだ。魔女の釜には、御菓子がいっぱいに入っている。

 昔はリンゴのような果物などもあったそうだが、針だの、カミソリだのを入れたりする不埒者が出てきたので、近年は、袋物の御菓子ばかりになった。テレビでも、けっして子供たちだけでは出歩かないように、かならず大人が同伴するように、呼びかけている。悪魔だの、魔女だのも、近ごろは、まったくしゃれにならん。もっとも、ここのような、小さな、知り合いばかりの地域では、なんの問題もないのだが。警察官も巡回しており、大人も、子供も、はっぴいはろうぃん! と、たがいに声をかける。

 というわけで、どさくさに紛れて、子供たちと一緒にいただいた御菓子の数々。やはり、こういう行事では、むしろふだんにはあまり見かけないような、とってもトラディショナルな御菓子が多い。つまり、日本で言う駄菓子っぽいの。食べると口が真っ赤に染まるのとか、妙に薬草っぽい味のとか。でも、そこが、すっごく楽しい。自分ではあまり買わないものなぁ。

ハロウィンのキャンディ

クールの定義

 今日は、キーファー博士の講義。ポストモダンの話が、専門のポップカルチャーに至って、乗りまくっている。

 すごく納得したのが、「クール」の定義。タランティーノがなぜクールなのか、という話で、その「クール」というのが、まさにポストモダンだ、と言う。つまり、ニーチェの言う「強いニヒリズム」をそのものだ。「すべてはすでに語られた」という時代にあって、すでに人に語られ終わって、ガラクタのように意味を失ったものたちを蹴散らして突き進んでいく。たしかに、クール、という言葉にぴったりの説明だ。

 この反対語には、ドイツ語で言う「シュビュール」が挙げられる。直接的には、蒸し暑い、という意味だが、むさくるしい、ホモっぽい、という隠語だ。ここで博士は、スーザン・ゾンタークの「キャンプ」の概念との同一性を論じる。「キャンプ」というのは、フランス語の俗語の「セ・キャンプール」から来た隠語で、サルトルの「実存の自己演技」(自分を演じる)や、ボードリヤールの「シミュラークル」(ホンモノの存在しえないコピー)の延長線上にある。

 「キャンプ」というのは、ゾンタークが典型として挙げている例で言えば、ようするに、オカマの厚化粧、のようなもの。ニセモノだからこそホンモノに見せようとする。ホンモノ、つまり、美女なら、すっぴんでも美女だ。ホンモノに見せようとする必要がない。そもそもホンモノに見せかけようとするようなこと自体ができない。ところが、ホンモノではないものは、ホンモノではないからこそ、ゴテゴテと虚飾を塗り重ねなければならず、しかし、けっしてホンモノになることなく、わけのわからないものになっていく。ドラグクィーンなんて、たしかにもはや男ではないが、どう見ても女には似ていない。

 ゾンタークの文章はともかく、リオタールだの、ボードリヤールだの、そして、日本のニュー赤だの、それこそキャンプの集大成のようなもの。だから、アラン・ソーカルに突っ込まれる。つまり、ポストモダンを唱いながら、その唱い方がきわめてモダンで古くさい。ごちゃごちゃとわけのわからない造語を重ね、似非幾何学の図解を並べ、カントだか、ヘーゲルだかのような希有壮大な体系的論文を組み立てる。ゾンタークは、これらを「キャンプ!」の一言で一蹴する。まさに、クールだ。ウンベルト・エーコの中のゴチャゴチャとその謎解きも、まさにこの蹴散らしとしてこそ、意味を持つ。

 村上呂欧米で受けているのも、本人が自覚しているように、あれがあまりに下手っぴな現代日本のポップカルチャーのキャンプであり、その蹴散らしだからだ。日本にはもっとうまいやつがいくらでもいる、などと批判するのは、人がなにをおもしろがっているのか、まったくわかっていない。それは、ダランティーノの映画に出てくる日本文化はおかしい、というのと同じくらい、的外れ。トレースの寄せ集めだけで1本マンガを描いてしまった『メガバカ』も、キャンプなチュウボー読者だらけの講談社なんかに持ち込むからいけないんで、クリスティーズに引用元の解説付きで出したら、まちがいなく50万ドルくらいにはなっていただろう。

 ところで、この住まいのオーナーは、見るからに育ちのよい金持ちだ。なにを考えているのか、賃貸のくせに、キッチンは、ブルトハウプにガッゲナウが填め込んである。そのくせ、テレビは、安物のメディオンだ。良いものに対するコダワリ、などという貧乏くさい庶民根性のかけらもない。なんにしても、カタログの最初のページに出ていたから、それに決めただけなのだろう。クールだ。そのガッゲナウの食洗機の調子がおかしい、と言ったら、仕立てのいいパリッとしたカシミアジャケットに、妙なジーパンをはいて、修理屋のおじちゃんと、仲良くBMWのスポーツカーでやってきた。これまた、じつにクールだ。

 こだわってみたところで、しょせんすべては、この世のガラクタ。千利休のように、自分自身がホンモノなら、手に触れるすべてがホンモノになる。王様は、裸でも王様だ。しかし、豊臣秀吉のように、王様ではない者が王様の格好を真似ても道化にしかならない。それどころか、虚勢を張れば張るほど、自分がニセモノであることの虚飾の自重に自滅的に押しつぶされていく。

 とはいえ、キャンプが悪いわけではない。ラスベガスだの、ディズニーランドだの、建物も、そこに集まる人々も、キャンプのジャンボリー会場のようなもので、それはそれで、とってもクールだ。しかし、あんたら、こういうの、お好きでしょ、って、乗せられて、本気で、満艦飾にめかし込んで来るキャンパーはどうか、とは思うが。

ポストモダニズムと金融危機

 キーファ博士の今日の講義は、初回なので、ポストモダニズムの概説。金融危機で騒がしい中、考えさせられるところは多い。

 知っての通り、ポストモダニスムの嚆矢は、リオタールだ。1979年に、あの本が出て、日本でも、ニューアカデミズムとか言って、変な本がやたら売れたが、いま考えると、かなりトンチンカンな、恥ずかしいブームだった。お笑いも、思想も、背景がわからないと、わからない。

 ヨーロッパの街並みを歩くと、ポストモダニズムが目で見える。日本がバブルに入る直前で、ヨーロッパは、モダニズムを止めてしまった。いわゆるモダンな近代建築が1980年代で終わっているのだ。家具も同様。北欧風だの、バウハウスだのではなく、チンケなイケアに落ち着いていく。日本でポストモダニズムを最初に正しく理解したのは、ニュー赤などではなく、おそらくユニクロだろう。(もっとも、その最初の十年だけだが。)

 この背景には、キルケゴールやニーチェがいる。神の救済へのカウントダウンという歴史観を失ったとき、海の波のように、「無意味なものが永遠に」繰り返されることになる。しかし、この無意味さに対して、強いニヒリズムは、むしろこれを肯定する。(ハイデッガーは、神の歴史観に換えて、自分の死へのカウントダウンを置き、新しい時間性を考えついた、と言って、目をしばたく。この点において、ハイデッガーは、ニーチェの言う永遠の意味を致命的に正しく理解しなかった、典型的な最後の人だ。)

 この無意味さは、リオタールが言うまでもなく、戦後の米軍の空爆で実体化した。それによって、ヨーロッパでは、無が目に見え、手で触れえたのだ。世界に冠たるドイツ帝国として営々として千年に渡って築き上げてきた街並みが、瓦礫に帰した。このとき、焼け跡の日本は、未来の希望を抱き、東京タワーを建て、近代都市を夢見て、結局、このゴミためのようなアジア的な似非都会を造ったが、ヨーロッパ人は、建築マニアのヒットラーと、その腹心のモダニズム建築家シュペーアで、未来への希望、などという虚妄には充分に懲りていたので、自覚を持って、強いニヒリズムとして、ポストモダニズムを自ら選び取った。つまり、あえて昔どおりの街並みを復元することを自らの意志とした。

 その後、アメリカとソ連、日本は、黄金の60年代を迎え、ヒットラーの虚妄と同じ未来への希望に酔った。建物は上へ上へと伸び、市場は明日への投資として資金を集め、期待を募った。しかし、87年には、アメリカでスペースシャトルが爆発、ソ連でチェルノブイリが事故、日本はバブルが崩れ、鉄の壁も錆びてくる。

 壊れたのは社会主義だけではない。資本主義というのは、カネを集めて、投資すれば、つねに画期的な新しい未来がつかめる、という幻想だ。学問では、知識学(日本で言う科学哲学)としてパラダイム論が流行し、経営でも、シュンペーターのイノベーション(革新)が提唱された。

 しかし、第二次世界大戦で、世界の果てまで戦地になったように、あのときすでに世界は飽和してしまっていた。その後の50年は、戦前の帝国主義の惰性で突き進んだようなものだ。古い電話線やラジオ電波の上を無限の情報がやりとりされるようになると、もはや新しいものなどありえない。

 おもしろくもないブームで、次から次に無理やり空騒ぎを作り出してきたテレビや雑誌がまずダメになる。どうでもいい機能で新製品だ、新車だ、と、ありもしない購買意欲を引き出してきた電器業界や自動車業界も、もう限界だ。成り上がりの金持のあまり金を吸い上げてきたブランド品も、もういいだろう。

 これからは、いままでに無い、どこか外の新しいもの、ではなく、いままでにあるものの中で、より洗練された質のいいもの、へ深化する。奇抜なアイディアより、手堅い見識が重要になる。日本でも、平安時代や江戸時代には、ポストモダニズムを体験してきた。そういう時代には、速い情報よりも、深い基礎が重要だ。

ネットストーカーのこと

どうも人の興味を惹くのか、私の周りには数年前から何人かのネットストーカーがいる。有名人でもないので、たいして多くもないし、影が分裂してうごめいているだけなので、まあ、ほっておいているが、アクセス解析など、なにかの拍子に、その本体が表に見えることがあり、とても興味深い。

テレビ局で仕事をしていたころも、出演者に対する、いわゆる電波さんたちの対応も担当していた。電波さんたちの存在については、待ち伏せして、いきなりスリッパで芸能人の頭をたたく『電波少年』で、すっかり一般にも知られるところとなった。電波さんというのは、テレビ局に対し、電波を送るな、頭がしびれる、と苦情を行ってくることから名付けられたもので、話によればラジオの時代から、こういう人々がいるらしい。

私も、何度も、彼らの苦情を、実際に直接に聞いている。専門的に言えば、彼らの多くはどうも解離性障害に近く、自分の生活を誰かにのぞき見られている、自分の体が誰かに操られている、自分の作品や名誉が奪われている、等々の被害妄想を訴え、その一方、その自分の様子を外から見ている離人症を併発しているらしい。また、攻撃的な鬱状態(新種でもなんでもなく、昔からいると思う、ただし鬱病の鬱とはあきらかに違うと思う)にあり、社会正義と一体化していることも、特徴的だ。自分の被害のためでなく、社会の不正を正すために自分は行動していると強く信じている。たとえば、テレビのスタジオのセットの本棚にある本は、本当は自分の著作で、それは評論家のだれだれにパクられたものだから、すぐにどけろ、ああいう盗作をするやつをテレビに出すな、とか。そのわりに、彼らの手紙(当時はまだEメールがなかった)は、たいてい匿名だ。うまく電話で直接に話せたりすると、知的障害などはない。むしろ理屈っぽく能弁だ。だが、やはりおかしい。全体の筋は通っているのだが、個々の部分の事実性、部分と部分の実証性が、まったく無い。そして、とにかく激しく感情的だ。

もちろん話にならない。が、電話を切っても、またすぐにかけてきて、交換の女性に、番組の方でなんかしてくださいよ、と、泣きつれるだけなのはわかっているので、ずっと誠実に応対。ただ、話を聞いていると、彼らは、最初、推測として話し始めたことが、次の段階では事実に変わっていることに気づく。様相(canとか、mustとか)を保持することができない。つまり、助動詞的な発想に障害があるらしい。もしマルマルならば、とか、もしマルマルだとしても、というような仮定法や譲歩法もダメだ。当然、婉曲話法もダメ。である、と、でない、だけの事実の世界に生きているらしい。だから、主観性を自覚できず、直接に社会正義と一体化してしまう。これでは、現実から遊離し、社会関係を確立できないのも当然だろう。(らしい、だろう、なんていうのも、彼らには無理。)様相というのは、物事の認識の中に割り込んでいる主観性を自覚すること。しかし、解離性の障害があると、主観自我が不安定で、これができないのだろう。とはいえ、ある意味で、彼らの言語表現は簡潔明快、断定的で、わかりやすくもある。ヒットラーの演説なども歯切れがいいが、やはり似た障害があったのではないだろうか、と思う。

結局、解決などつかない。とはいえ、対応にコツはあった。けっして彼らの言い分を否定せず、なるほど、よく調べてみます、と言う。そうすると、とりあえず納得する。彼らは、自分では現実を調べることができない。なにしろ離人状態で、自分自身の存在すら不安に満ちている。だから、執念深く、手段を尽くして調べ続ける。しかし、自分で調べれば調べるほど、不安と妄想がふくらみ、事実と可能性の区別がつかなくなる。だから、よけいストーカーのように調べ続ける。学者の中に、この種の気質を持った者が少なくないのも、こういう理由だからだろう。

フロイトやユングの精神分析(器質障害の考察ではなく妄想内容の考察)で言えば、彼らが憑依するのは、シャドウと呼ばれる自分の影だ。というより、彼らの方がどうやっても影なのだが。だから、芸能人のように光の当たる人物に憑依する。彼らは、自分の生きられなかった理想的人生を謳歌している者に自己投影しつつ、自分の現実を嫌悪し、つねに未来を奪い取られた者として、自分の未来を奪い取った犯人と思い定めた相手に対し、ルサンチマンに凝り固まる。だから、自分の影の本体となる他者に依存せずにはいられず、崇敬と憎悪を繰り返す。ジョン・レノンを殺した男が典型だろう。恋愛におけるストーカーも同様で、熱烈な愛情(影の自分)と、その愛情が築くはずだった自分の未来を破壊したことに対する社会正義(離人状態)としての制裁に大きく揺れ動く。というのも、彼らにとって、はずだった、などという反実様相の余地はなく、彼らにとって、すべてはすでに事実だから。

彼らは、笑わない。つねにくそまじめだ。というより、精神障害として、笑えないのだろう。笑う、というのは、思い込みを引きはがされ、主観性を自覚させられる、自分のバカさ加減を思い知らされる瞬間に起こる。たとえば、威気高な人物が登壇するとき、見守る人々も緊張している。ところが、その人物が階段でこけた場合、見守っている人々の思い込みもこける。外国のお笑いでも、まず基調となっていた波長に染まっていないと、我々の思い込みに対して突っ込まれている笑いどころがわからない。解離性障害の場合、外国人のように、まずこの思い込みの基調が社会と共通化していない。だから笑いどころがわからない。また、彼らの思い込みをネタにして無理に突っ込めば、自分の主観性を自覚して笑うどころか、事実論争をふっかけられたとしか思わず、激怒して執念深く反論してくるだけだ。この種の障害は、言って直るものではないのだから、無駄に恨みを買うような余計なことはしない方がいい。というより、親族か仕事かでもなければ、もとよりこの種の人物に関わって良いことは何も無い。常軌を逸した崇敬の直後には、やはり常軌を逸した憎悪が待っているだけだ。

宮崎駿が、『千と千尋』で、顔無しを出してきたのは、とても興味深い。彼など、それこそまさに多くの顔無しに取り囲まれ、あれやこれやつきまとわれて、かなり大変なのだろう。社内にも、そういうのが多いらしいし。ところが、『ゲド』では、あの会社は、むしろ顔無し使いになって、映画評の作成を裏でいろいろやっていたかような噂も高い。だが、まさに、このグレーな領域が、顔無しには耐えられず、どちらかの断定に走るのだろうが。しかし、御本尊と顔無したちが共生してしまったのでは、それこそ新興宗教のようだ。芸能人たちは、事務所を介することによって、彼らをうまく養成し、カネを吸い上げている。しかし、ネットの発達で事務所の壁を突破されやすくなった現代において、病的気質の者を客にするこのビジネスモデルは、もはやリスクの方が大きいのではないか。

ネットは、まさに顔無しの天国。というより、村落的な共同体を失った、いまの政治やマスコミの構造では、経済格差だけでなく、有名人とパンピーの二極格差を生じており、パンピーでは、名乗ったところで名前としての意味をなさない。しかし、もともと都会など、そういうものだ。だが、その一方、病的気質のある人々をさらに悪化させているようにも思う。明日から本気出す、本当の自分はこんなものじゃない、なんて、言いながら、ネットにこびりついている間、結局、本当の自分の明日を見失う。それは、光と未来を人に奪われたのではなく、築こうとしなかったからにほかならないと思うが、良くも悪くもやたらと強固に安定した今の日本の現実では、正統派の社会的エスタブリッシュの構造が堅く、そう簡単に永遠の亡者屋敷から抜け出せないのも事実だろう。

だったら、それこそ、海外にでも飛び出したらいい、と思うのだが。しかし、そうしたら、それはそれで、今度は、自分は国を追い出された、とか、恨むのだろうか。でも、海外は暮らしやすいぞ。トルコの人とか、アルジェリアの人とか、どんどん来ているぞ。

パナソニックDVDのリージョンフリー化

 いまどき国境があるのは、電器業界くらいだ。英語しかできない理系の電器屋が、ドメスティックな感性で電子機器の規格を作るからややこしくなる。
 アメリカのアマゾンからDVDを買うと、日本まで送料で14ドルかかる。が、ヨーロッパまでなら3ドル半以下。そのうえ、言語的に英語でかまわない、となれば、ばんばん買い入れるのは当たり前だろう。
 とくに英国の連中が困っている。というのも、プレイヤーはヨーロッパ規格のリージョン1なのに、言語は英語圏、つまり北米のリージョン2だから。このため、通販などでは、DVDはリージョンフリーにして販売するのが当然になってきている。そうでないと、使えたものではない。
 しかし、話によれば、パナソニック製は、だれでもどれでも同じ方法で簡単にはずせるらしい。そうでないと、こんな国際的に販売できないのが現実だろう。Enter, 6, >=10, <<, 00F2, Audio, 8, 1, Subtitle, 4。これを、DVDが空の状態で赤外線入力するだけだとか。最後の4がリージョン番号で、4がフリー。特殊な乱数もなにもない。ふつうの設定番号だ。
 ただ、問題は"00F2"で、このFが添付の標準リモコンでは入力できない。このFだけのために、IR(赤外線)が使えるパソコンかPDAが必要になる。IRコードは、0082 0015 0089 0004 00F2 0033 0017 0010 0091 0013。これもサードパーティに公開のものだろう。
 私は、パナソニック製ノートパソコンのDVDドライブこそ、リージョンフリーにしたい、というか、リージョンフリーでないと仕事にならないのだが、UJ-833Sは、バカみたいに堅いらしい。そこらのリージョンフリー化ソフトも歯が立たないらしい。マルチドライブでどんなメディアでも使えます、とか言っておきながら、でもDVDは日本製のものしか見られません、なんて、なんていまだに大阪松下な感覚なのだろう。実際、このドライブは、世界のパナソニックではなく、いまだに日本の"MATSHITA"ブランドだし。いまどきこのノートパソコンひとつで世界を飛び回っている人間は多いのに、こういう変なローカルパーツは使わないでほしいなぁ。これ、ドライブ自体、換装できないのだろうか。

物語学の現在

 大学の講義概要で「物語学」と書いてあるのを見て、おもしろそうだと思って受講すると、かなり失望する場合が多いだろう。内包された作者がどうのこうの、視点の焦点のフィルターがどうのこうの、そのうえ、例に出てくる本や映画なんか、読んだこともないような構成の変チクリンなものばかりだ。なんでこんなことになっているのか。
 じつは、「物語学」という看板の多くが偽りだ。原語は「ナラトロジー」つまり、「語り論」で、分野的に言うと修辞学の一種だ。私のように、物語そのものの内的な構造分析と創出技法の研究をやっている側からすると、つまり、本物の「物語学」をやっている側からすると、「修辞学」の連中が、この訳語を僭称するのには、大変、迷惑している。(もちろん、後述するように、繋がっているところが無いではないのだが。)
 ナラトロジーの根っこは、2つの面がある。まず理論的に言えば、ソシュールの構造言語学が分析の端緒を開き、これがチョムスキーの生成文法と、聞きかじりのオースティンの言語行為論によって、文学研究に応用され、プロップやトマシェフスキーのロシアフォルマリズムが合流し、メッツやグレマスの記号構造主義(本来の論理実証主義の記号論理学とは似ても似つかない疑似科学だと思うが)で映画論にまで進出、ここに、ドイツの解釈学のフランス風亜流をなめたフーコーだバルトだエーコだまで参戦して、いまやアメリカにも飛火し、ジュネット、チャップマン、ブラニガンがぐちゃぐちゃ言っている分野だ。で、話の焦点は、昨今、もっぱら「語り手」の存在性(物語の視点)にある。
 しかし、もう一つの面を言うと、生々しい。大学における過剰な語学系教員の問題だ。毎年、英語でも、フランス語でも、ロシア語でも、ABCを教えているだけなのだが、一応は大学の教員だ、ということで、もっともらしい研究をしなければならない。(体育系は、10人以上のオーサーの連名で、重心分析だの、扁平足だのの論文を作るのが大好きなように。)国文も、日本語を習いたい留学生相手が主になってしまった。ドイツ語は哲学に手を出す、というか、哲学出身がやむなくドイツ語を教えている場合が多いからよいが、他の言語は、このために、まずはシェイクスピアとモリエール、ドフトエフスキー、源氏物語あたりにしがみついて、80年代は、コンピューターを使った語彙分析をさんざんやった。ところが、これもすぐにネタが尽きてしまった。ここで、みんなナラトロジーに流れ込んだ。だから、小説でも映画でも、変なローカル作品が大好きで、大衆文学やハリウッドものを嫌っている。これに、やはり新しいものが打ち出せなくなった言語学や美学、社会学まで便乗した。そのうえ、マンガ学の連中まで出てきた。それで、昨今、話題の分野となっている。(そのわりに、他分野に関して勉強不足で、自己分野中心主義で、自信過剰の語りたがりが多い。そのうえ、ロシアフォルマリズムのせいかどうか知らないが、なぜかこの分野は、左翼っぽい教員が多いのも不思議なものだ。)
 自分自身の見解を述べれば、こと映像に関しては、重層的な「語り手」なんていう余地いない。見ての通りの画面の作り手だけだ、と思う。だから、ナラトロジーの議論には加わるつもりはない。もちろん複数の作り手たちの間での大人の事情はあるが、まともな物語を創ることに関して目的と規則が合意されている以上、修辞学ではなく、経営学のパワーバランスの問題だと思う。また、同じ画面を観客がどう理解するかは、哲学ないし美学の認識論の分野で、それを技法として生かす修辞学はその後の話だ。
 一方、本物(常識的にふつうのひとが考える)の「物語学」も、きちんとある。これは、脚本法を中心に、作り手の技法の側の理論から立ち上がってきた。宗教学や社会学の一部(たとえば都市伝説論など)も、こっちに与している。もちろん、シンプルな物語(神話や童話)がどういう構造で組み上がっているか、複雑化するか、などは、プロップその他にも大いに参考になるところはあるのだが、問題となるのは、既存の物語の分析などではなく、なにを読者ないし観客がおもしろいと思うのか、それはなぜか、である。しかし、ナラトロジーでは、テキスト重視で、言語行為としての観客が不在だ。だから、こっちの側の本物の物語学の方は、ナラトロジーなんぞ関係なく、ヒックスやマッキーなど、むしろ実際の脚本家たちが経験則から考えるところが大きい。だいいち、アリストテレスの『詩学』を挙げるなら、こっちが本家に決まっている。
 とにかく半端なナラトロジーの連中には、えらい迷惑している。まぎらわしい「物語学」などという偽りの訳語はやめてほしい。日本では、哲学ではなく哲学者学だし、物語学ではなく物語語り学だろう。名が正しくなければ、中味が正しいわけがないだろう。

本の整理

 ドイツに行くというわけで、数ヶ月来、毎週末、部屋の片づけをしている。なぜ数ヶ月もかかるか、というと、広い家に住んでいるからではない。問題は、本だ。まあ、この商売の人間はみなそうだろうが、とにかく家も研究室も本だらけだ。学生時代からの本に加えて、昨今は、研究費のほとんどすべて数十万円分が本になる。紀伊国屋のお得意さんだ。だから、プロフェッショナルカードだ。
 本は、なにしろ重い。そのうえ積むと崩れる。だから、アイリスのブックストッカーが大小、千近くある。これに分類し、本棚に入れてある。ところが、重さに耐えきれず、本棚がたわむ。汗牛充棟なんて言葉があるが、牛が汗し、棟に達する前に、床が抜け、こっちが圧死しそうだ。
 タチが悪いのが、昔の生協のブックカバーだ。色が濃くて、背表紙になんて書いてあるのかわからん。その後、カバーは裏返して、自分でかけなおすようにしたのだが、古いものは、開いて見ないと、なんだかわからん。だが、これがいけない。前に読んだもの、年来、読まずにほっておいたもの、あれやこれや読み出してしまう。で、数ヶ月かかっても終わらない。それでも、まあ、やっと単行本が始末がついて、これから文庫本と新書だ。これがまた半端な量ではない。気が遠くなる。
 思うに、本屋は大変だろう。昨今、大量の本が出版され、返品される。ワープロのせいだろうか、とにかくものすごい量だ。昔は、十年の研究をまとめあげる、とか、三年かけて推敲する、とかだったのだろうが、雑誌の連載の書き散らしでもなんても、みんな本になる。そんなのでも、出れば気になる。が、買って読んで後悔する。とはいえ、捨てられもしない。他の先生のように、図書館で借りるだけにしておけばいいのだが、本はいろいろメモを書き込みをしながら、付箋だらけにして読む方だ。図書館の本に、そんなことはしてはなるまい。
 しかし、本屋や図書館もいろいろだ。かつて八重洲ブックセンターは偉かった。レジで担当者に聞けば、棚を見に行かなくても、在庫を即答した。もちろんパソコン端末など使わずに、だ。担当の書棚の本のことなら、ほんとうによく知っていた。一方、どことは言わないが、おまえ、ほんとうに本屋の人間か、と思うような、わけのわからない従業員ばかりいる大きな書店もある。図書館も同様だ。うちの大学は、幸い、かなりすばやく近所の大学のどこかの図書館から希少本でもなんでも探し出して寄せてくれる。切手代を取られるのが難だが、それでも、ありがたい。著作権法に許される範囲内で、きれいにコピーして製本してから、ガンガン書き込んで読む。
 古本屋も、近ごろは楽になった。谷口雅男さんのふるほん文庫やさんとはずいぶん長いつきあいになる(できた当初、集中講義のついでに倉庫まで会いに行った)が、あんなに大きくなるとは思わなかった。その他の単行本も、いまやネット横断検索ができるようになった。腹立たしいのは、近ごろ、金儲け目当ての背取り屋が横行していることだ。以前、神田の古書店で、ヒュームの『人性論』の岩波文庫を6万円で売っていて、おまえが書いた本でもあるまいに、と、憤った(というわけで、図書館で借りて、やはり著作権法の範囲内でコピーした)が、そんなのが、いまやネット上にいっぱいだ。ふざけたのだと、絶版になってもいない私の本を、3倍ものプレミアムを乗せて売っているのが、アマゾンにいる。いったいどういうつもりか。それなら、オレも自分で出品するぞ。
 てなこと言っているうちに、今日も『十億年の宴』にはまってしまった。これも、ネットでは、ふさけた値段になっているらしいが、本を読めんやつは、美食を前にしながら舌がない人間のようで、じつにあわれだ。とはいえ、こんな調子では、私は、ぜんぜん本の片づけがはかどらん。困った。 

一高的教養主義と長尾龍一先生

 続いて、駒場時代の思い出。もちろん多く先生方にお世話になったが、中でも長尾龍一先生は、大学人としての学問の取り組み方に大きな影響を受けた。
 御専門は法哲学なのだが、それは法の存立するところの学問だから、いわゆる法学などではない。むしろ法以前の世界での法の必要性と有効性を考える、というわけだ。だから、というわけではないだろうが、古き良き一高的なヒューマニズム的教養の広大な気風を持っていらっしゃって(もちろんそんな年代ではないだろうが)、それが狭い分科学の職人のような、その他の多くの先生方との違いを強く感じさせた。
 その後にお建てになった御自宅にもおじゃましたことがあるが、コンクリ基礎を固めて床を抜けないようにした書庫がある。そこにある本の分野の範囲たるや、半端ではない。それも、雑本ではなく、かなり厳選された良書ばかりだ。
 もちろん教養人、大学人とはいかなるものか、を体現させれいらっしゃる先生は、駒場には少なくなかった。たとえば、小林善彦先生は、仏文の大家だが、それ以上に、そのよって立つところの大きさは、古典的教養だった。荒井献先生も、あのようなテキストクティークができるのは、それ以外の既存の種々の資料に精通し、かつ、表層の知見のみによらず、人間的な物事の本質を見抜く深い敬虔さがあればこそだろう。
 困ったことに、当時、やたら軽い思いつきをマスコミに乱発する流行教養主義とそれに嫉妬反発する伝統教条主義が駒場の中で激烈に対立し始め、古い伝統教養主義の先生方は研究室に引き籠もって、わかる学生のみにしか教えない、話したくない、それでかまわない、ということになってしまった。まあ、だからこそ、私のようなものが、あちこちで先生方の話をゆっくり伺う機会が得られたのだが。
 ひとことで言って、一高的な伝統教養主義とは、深く掘るには、まず広く掘れ、さもなければ、学問のタコツボに陥る、という教えだ。傍目から見ていると、最初のうちは、どこを掘ろうといしているのか、わかるまい。しかし、学問は、先生にほめられるためにやるものではあるまい。古今の先人たちと向き合い、以後の後輩たちに伝え残す。この上下2つの円錐からなる砂時計のような学術伝承の構造の焦点にあって、むしろ真横の同時代の人々とは交差するところはないのは当然であろう。

表象文化論と義江彰夫先生

 表象文化論、と言っても、何だかわからない、という人もいるだろう。実際、映画学かなんかの連中が、ちょっとえらそうに言うときに、同じ言葉を使うこともある。しかし、それでは、それこそ私が表象文化論としてイメージするものと、ちょっと違う。
 私が駒場に入ったころ、最初に影響を受けたのは、蓮見先生などではなく、北大から移っていらっしゃったばかりの義江彰夫先生だった。中世日本史が専門で、住み込んでいるような、あの古い研究室棟においていろいろ教えてくださった。そのころ、先生は中世の刑罰や下層民のことを調べていらっしゃったのだが、先生がおっしゃるに、これらの問題は、従来のような文献記録からの手法ではアプローチしえない、なぜなら彼らは歴史から抹消された人々であり、また、自分たちのことを記録する言葉を持たなかったから、しかし、だからといって、それが無かった、いなかったことにはならない、と。そして、先生は、『洛中洛外屏風』と虫眼鏡を示された。それをのぞき込んで、驚いた。たしかに、その大勢の町の人々の中に、よく見ると、きちんとその存在が、絵で描き込まれているではないか。
 その後、それが戦後フランスのアナール学派の最新手法であることを知り、ブローデルやアリエスなどを読みまくった。日本は、書籍による輸入学問であるために、書籍の文字面ばかりを追いがちだが、文字で書かれた歴史や思想などというものは、人間の文化にとって、ほんの一角にすぎない。我々は、絵画その他の表象を以て繊細に思考し、雄弁に語りうるものであり、文字情報の政治的検閲をもすり抜けて、メッセージを伝播することができる。後はそれから読み出し、読み解く側の感性能力の問題である。だから、この表象文化論は、錬金術に似て、わからない人にはわからない。ここにおいては、見ればわかるだろう、としか言えない。この意味で、バウムガルテンより一歩進んで、感性は悟性に優越する、と私は思う。
マインツの時刻と天気
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純丘 曜彰
すみおか てるあき 

美術博士(東京藝術大学/美学)、文学修士(東京大学/哲学)、東海大学准教授、ドイツ・ヨハンネス=グーテンベルク(マインツ)大学客員教授を経て、現在、大阪芸術大学教授。専門は哲学、メディア文化論。

東京生まれ。東京大学教養学部1組(横断インタークラス)、同文学部哲学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻修了。テレビ朝日報道局報道制作部ブレーンとして『朝まで生テレビ!』を手がけ、現職に至る。

wikipedia 純丘曜彰
純丘曜彰の映像論


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