美術博士 純丘曜彰教授のドイツ大学講義日誌

マインツ大学 メディア学部 映画学科 客員教授

ドイツ

クロイツナッハでイチゴティラミス

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バートクロイツナッハまで電車に乗って行ってみた。週末で、うらうらと散歩している人もいっぱい。ここは保養地だものね。

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知人のお宅で食事。デザートは、お手製のイチゴティラミス。これは、すばらしい! ごちそうさまでしたっ!

ナチス・ラウス!

 今日、ネオナチ(イニシャティヴ・ズートヴェスト)がマインツで集会を開く、というので、大騒ぎのようだ。ケルンはともかく、マインツは、もともとリベラルな街で、すくなくとも地元にネオナチはほとんどいない。なのに、なぜか。
 しかし、ドイツの中でも特にリベラルな街だからこそ連中が狙ってきた、とも言える。たしかに新市街を含めてトルコ系住民も多い。とくに連中が標的としているのは、マインツと言っても、むしろフランクフルトに近いオペル工場関連の外国人だ。ここには、インド人なども大勢住んでいる。また、ネオナチは、反資本主義で、オペルの処理案にも強く抵抗している。連中のスローガンは、「国家主義なしに社会主義なし!」ほかにも、ハノーファーとウルムで騒ぎを起こす計画だそうだ。
 それにしても、よりによって五月一日にマインツなんかへ。さすがネオナチのバカさ加減が現れている。五月一日、メイデーは、たんに労働者の日ではなく、マインツにとっては、フランス革命に先行するマインツ共和国の自由独立を象徴する日であり、こんな日にこの街に乗り込んで来ようなどというのは、ネコの祭りにやってきたネズミのようなものだ。
 果たして、前日から気勢を上げている赤い旗のアンティファ(反ファシズム・アクション)、フランクフルトのシャープ(人種差別反対スキンヘッズ)、虹の旗(紫が上、ゲイの虹旗と逆)の平和運動、これまた赤い旗のサーヴィス業労働組合、その他、種々雑多のマインツ大学学生を中心に、近隣諸都市からも、大勢の文化人や一般市民が駅前に詰めかけ、広場を占拠。当然に例のドイツリンゴ戦線なども、あの出で立ちで参加。警官隊も武装して、サッカーのフーリガンどころではない厳重警戒態勢に。ヘリコプターもぶんぶん飛び交う。
 案の定、ネオナチは、電車から降りてきても、駅の北側のすきまから、警官隊にガードされて、新市街の方へ誘導される。そっちへ行ったって、あちこち、「ナチ野郎は出てけ!」とか、「おまえらには一歩も引かないぞ」とか、ふだん連中が外国人に向かってわめいているようなセリフが、今日は、そこら中の建物のベランダにかけられていて、居場所なんか、ありゃしない。あっちへこそこそ、こっちへこそこそするだけで、デモ以前に、一ヶ所に集結さえできない始末。
 結局、かっこだけで卑弱なネオナチのにいちゃんねいちゃんたちは、夕方になるまえに、早々におとなしく、おうちに帰っていった。反ナチの方が、連中を差し違えても殺しかねないくらいのテンションだもの。

カエルの王様

 ドイツでやたら見かけるのが、黄金の王冠を被った緑のカエル。これ、だれでも知っているカエルの王様だ。評判の洗剤の商標にもなっているから、日本でもよく知られていることだろう。(ただし、洗剤のマークだけは王冠がない。そのメーカーであるエルダル・グループの他の製品(靴磨きなど)には、本来、王冠が付いている。このエルダル・グループの本社がマインツにある。ここには工場だけでなく、店頭実演のための洗剤の使い方を学ぶ大きな研修センターがある。)

 それにしても、カエルの王様は妙な話だ。世界の童話の中でも、こんな出来の悪い話もあるまい。しかし、それだけに謎めいていて多くの人々を魅了する。それは、こんな話。

 王女が泉に金の鞠を落とした。すると、カエルが出てきて、友達になってくれるなら鞠を拾ってあげると言う。王女様が承知したので、カエルは鞠を拾ってきたが、王女は約束を破って、鞠だけ持って、さっさと帰ってしまった。

 翌日、城にカエルがやってくる。王様も話を聞いて、王女に約束を守るべきだと言う。しかし、このカエルが食事のテ−ブルはもちろん、ベッドの中まで入り込んでくるものだから、この王女は怒ってこのカエルを壁に投げつけて叩き殺してしまう。

 すると、あら不思議。魔法が解けて、カエルが王子になって、王女と結婚しました。めでたし、めでたし。

 って、めでたいのか? どう考えても、こんな性悪な王女と結婚したカエル王子は不幸じゃないだろうか。だいいち、泉のカエルならともかく、もともとどこかの国の王子なのだから、なにもこんなひどい王女と結婚しなくても、自分の国に帰ればいいだろうし、もっと別の国の王女とも結婚できるのではないか。

 この話、さらに妙で、じつは、この後、いきなりハインリッヒという王子の家来が馬車でやってくる。この人、王子がカエルにされてしまったことを悲しんで、胸がはりさけそうだったので、3つの鉄のタガをはめていた。しかし、王子が人間に戻った喜びで、そのタガがはじけ飛びました。めでたし、めでたし。
 
 どうみても、蛇足だ。というより、物語分析からすれば、前半と後半で、もともと別の話だったのではないか、と思われる。つまり、王女とカエルの話と、カエル王子とハインリッヒの話。同じカエルというところで、2つがくっついてしまったのではないだろうか。

 知ってのとおり、近年の研究によれば、グリム童話というのは、その民俗学的な採話の経緯からして、まったくの捏造だ。ドイツの古い童話などではなく、その多くの元ネタが十八世紀のフランス宮廷での子女教育用に作られた新作寓話。そのフランス語の教育寓話をオランダ系ドイツ人が聞き伝えとウロ覚えで語るものだから、ぐちゃぐちゃなオリジナルになり、あたかも宮廷寓話より古いかのように錯覚された。

 このカエルの王様も、壁に投げつけられて叩き殺される前半までは、ラ・フォンテーヌの「ウシになろうとしたカエル」などと同様、身の程を弁えよ、という寓話だろう。後半の、カエルにされた王子と家来のハインリッヒの話は、捕虜にされていた王子と拘束具をつけられていた家来の、ドイツのどこかの歴史的な実話っぽい。

 編集者や審査員は、作品にケチをつけるとき、たいていツジツマのことを問題にするが、それはたいてい自分の方が賢いということをひけらかしたいがための自己満足であって、じつは、作品の良し悪し、売れる売れないとはまったく関係がない。

 というのも、歴史的に言えば、ツジツマの合わない話はいくらでもあるものだから。それどころか、オペラや歌舞伎なんか、まともにツジツマの合っている話の方がめっちゃ少ない。だいたい、メロドラマ、という概念自体が、メロディで情感に訴えるツジツマの無いドラマのことだ。そして、不思議なことに、きちんとツジツマが合って、こじんまりとまとまっている作品などより、どうかんがえても破綻している物語の方に人は魅了される。演劇でも、映画でも、古典的文芸作とか、カルト的人気作とかいうのは、たいていそういうものだ。

 とはいえ、破綻していればいい、というわけではなく、名作、傑作と呼ばれるものは、途中でざっくりと、救いがたい断面を持っている。それでいて、その全体を見返さないかぎり、途中ではだれもその断面に気づかない。この奇妙な腰折れの断面をつないでいるのは、我々の側にある強固な先入観だ。たとえば、カエルの王様で言えば、王女様と結婚=幸せ、というところで、断面がかき消されている。ちょっと待てよ、その王女様って、という風に立ち止まって、もう一度、話をさかのぼって振り返らない限り、この断面には気づかない仕掛けになっている。

 シェイクスピアでも、鶴屋南北でも、こういう無茶なつなぎあわせを、するっとやってみせる。昨今なら、有名大学を出ただけの小賢しい編集者に、前読み段階で投げ捨てられる典型ではあろうが。

ドイツ人は風呂が大好き

マインツプール

 フランス人は知らないが、ドイツ人は、じつは風呂が好きだ。ただ、アメリカ人のように自宅でゆっくり入るということは少ないだろう。アメリカの場合、時間も自由だが、ドイツは集合住宅で、配水管が露出していることも多いために、22時まで、というのが建前の常識となっている。もちろん守らない人、守れない場合も多いが、夜中にゆっくり、ということはなかなかむずかしい。日曜だって、昼間は静かに過ごすことになっているから、洗濯もダメ。平日も、午後1時から3時は、やはり洗濯もダメだ。そもそも、自宅には風呂がない、トイレの横に小さなシャワーコーナーがあるだけ、という家も多い。独身用の1−2室の住居の場合は、ほとんどがそうだ。

 では、いつ、どこで風呂に入るのか、というと、プール。プール、と言っても、日本のスーパー銭湯のイメージだ。それも、おそらく日本の温泉より多いだろう。たいていの街にはプールがある。ましてバートと名のつく街なら、それは天然温泉の保養地だ。サービス次第でピンキリだが、スポーツプールなら数百円、温水プールで千円前後、サウナやマッサージ付きだと五千円くらい、という感じ。家族で年会員になっていると、破格に安くなる。

 マインツの場合、駅のすぐ裏にプールがある。コースは、スポーツプール、テルメ(温水プール、というより水着着用の風呂)、サウナの3つからなり、上のランクなら下のランクのものも使える。当然、更衣室も、上のランクのものの方がよい。

 スポーツプールの場合、更衣室は男女別。受付でトークンをもらい、これを更衣室内のロッカーの鍵の方に横からさすと、これが回るようになり、ロッカーがあく。日本と感覚的に違うのは、足下。土足でここまで入って来てしまうから、じゃりじゃりしている。それでビーチサンダルを持ってきている人も多い。ちゃちゃっと着替えたら、タオルやゴーグルを持って反対側から出る。そうするとシャワールームがある。これも男女別。素っ裸でシャワーを浴びる人もいるからねぇ。タオルなどを置く棚もある。

 スポーツプールの中のプールは3つ。1つは水泳用。25メートルだが、深さは180センチ。奥の方のコースは、ひたすら泳ぎ続けている。手前の方は休み休み。とはいえ、足がつかないから、すくなくとも25メートルは一気に泳ぐ。水質は悪くないが、日本の浄化式と比べるとやたら塩素くさい。水泳キャップは不要。2つめは、深さ60センチ。これは子供用ないし水浴用で、泳いではいけない。3つめは深さ4メートル。素潜り用だ。ここに飛び込み台もあるが、素潜りと飛び込みと同時にやったら危ないので、時間が決められている。

 テルメの方は2階。ここの更衣室は個人通り抜け型。通路から左右にドアがいっぱい並んでおり、白になっているところが空室。中で着替えて反対のドアを開けて出る。そこがロッカールーム。その向こうに男女別シャワールームがあり、テルメに抜ける。テルメの水温はいろいろ。日本のスーパー銭湯などと同様、一番高いところにはけっこう熱めのジャグジーがあり、広いところはちょっと泳げるくらい。でも、泳いでいる人はいないが。グルグルまわる水流ドーナッツやエアマッサージもある。そのほか、子供用の浅い浴槽もある。コイン式の日焼けマシンも置かれている。

 広い方のプールから外の露天プールにも抜けられる。打たせ湯その他があり、日本の露天風呂そのままだ。夏は、ここから外の広い芝生の方にも出ることができ、そこにも大きなプールやウォーターチューブがある。しかし、いずれにせよ、テルメは泳ぐところではなく、水浴するところで、あちこちにビーチベットがあり、湯に浸かったら、飲み物その他を頼んで、ベッドやテーブルでだらだら雑談をして過ごすところ。夏場は、芝生で日光浴している。ビアホールのようなイベントも多い。ベッドを湿らすのを嫌うので、大きなバスタオルか、バスローブを持って行くとよい。そもそも、テルメに行くなら、ロッカーから飲み物を買える程度の小銭を持って行くのを忘れずに。

 サウナは更衣室は男女別だが、なかはいっしょ。当然、水着も着ない。やはり汗を垂らすのを嫌うので、タオルは下に敷く。ふつうの高温サウナのほか、岩塩サウナや、マッサージコーナーなどがある。日本よりはるかに安いとはいえ、ふつうの人は時間的にもテルメまでで十分だろう。

 保養地の場合、プール、テルメ、サウナのほかに、さらに療養施設がある。これになると、運動療法士の指導のもと、プールの中で患部を動かして治療。とにかく、ドイツは足が悪い老人が多いので、長期滞在の湯治客も多い。

 わざわざ観光に来て博物館で小難しいお勉強というのもいいが、そんな死んだ古道具の倉庫より、プールの方がいまのドイツの生活が見えるというもの。それにチャプチャプやっている方が楽しいし。老若男女、太っている人も、やせている人も、ここではぜんぜん体型なんか気にせず、ダラダラと自由に過ごしている。

また雪が降っている

 すこし春めいたと思ったら、ここ数日、ものすごく寒い。昨日なんかバチバチとヒョウが降っていた。今日は雪だ。

 しかし、天候が不安定なのは、春が近づいた証拠だ。冬の間なんか、ずーーーーっと安定して曇りっぱなしで寒かった。たまに晴れて暖かい日もあるだけ、季節が変わったのだと思う。

 こっちでは子供にビタミンDが処方されるが、それでもこの日射量の少なさでは、骨や精神に異常をきたすことは少なくあるまい。実際、子供はともかく、年寄で足を悪くしている人はあまりに多く見かけるし、鬱に陥ったりしている人の話もよく聞く。それで、イタリアやフロリダは、いまやドイツ人だらけ。ハワイの日本語なみに、これらの観光地ではドイツ語が通用するのだとか。

 フランスの方は大西洋の海流の影響を受けるので、まだマシらしい。また、アルプスの方も、ドカ雪が降るかと思えば、ピーカンにもなり、紫外線も強い。だが、ドイツ中部の低山地から北部の低地のあたりは、冬の天気はどうしようもない。天気が悪い、というより、まったく動かない。寒くて曇ったまま、変わりもしない。

 そのうえ、今年は不景気になった。ドイツ便の飛行機もガラガラで、ルフトハンザもビジネスクラスの落ち込みがひどいとか。こんな天気では、いくら航空運賃が下がっても、ドイツなど観光にくるものではあるまい。昨年の夏までやたら多かった中国人や韓国人も、こっちではめっきり見かけなくなった。一方、日本では桜が咲いて20度を越えた地方もあるとか。それなら、そっちで春を満喫している、というのが自然というものだろう。

 しかし、こっちでは、朝、鳥の声が増えた。木々には新しい芽がついている。気温はともかく、春は近い。今年の復活祭は、4月12日。復活祭休暇あたりから、いいレジャーシーズンになる。

 

ドイツの光熱費事情

 ドイツは光熱費が高い、というのは、これも外国伝説の一つだと思う。はっきり言えることは、ドイツ人は自分の住居の光熱機器には関わりたがらない、ということ。

 これには大きな理由がある。完全な持ち家の場合は、自分が使った料金が明確だから問題ないのだが、過半数の世帯は、数十戸から二戸の集合住宅だ。それも、個人の屋主からの賃借が多い。この場合、光熱費の支払責任は、直接的には屋主にあり、したがって、賃借人は屋主に光熱費相当のネーベンコステン(副次費)を払うことになる。ところが、この屋主の請求してくるネーベンコステンがまったく不明朗なのだ。

 ドイツの家は、分割して賃借することが多いので、水道や暖房は基本的には部屋ごとに個別にメーターが付いている。電気はブレイカー単位だ。しかし、建物の内部で改築を繰り返しているために、どこがどこにつながっているのか、ひどく曖昧。もしドイツで家を借りることがあるなら、最初にこれらすべてのメーターの場所と数字、スイッチや蛇口との関係を屋主と確認しておくべきだろう。というのも、検針が年に1回しかないから。ヘタをすると、自分以前の賃借人が使った分まで請求されたり、その後もずっと別の部屋(屋主)の料金まで合算されたりする危険性がある。

 光熱費の基本は、水道代、暖房代、電気代の3つ。湯沸かしや調理機器は、集合住宅の場合、安全のため、ガスではなく、200Vの電気による瞬間湯沸かし器を使っていることが多い。水道料金は、日本でも、ドイツでも地域格差が大きく、マインツのように高くても1リューベ2オイロなので、東京とほぼ同じ。他の街では、むしろ東京より安いくらいだ。ドイツの水道料金が高い、と思う人は、おそらく日本の郊外の住宅地からドイツの都市中心部に移ることが多いからではないか。日本同様、ドイツでも地方や郊外は水が安い。むしろ日本は、水道料金に比例して下水料金も追加でかかってくるので、合算すれば、日本の方がドイツよりはるかに水が高くつく。

 電気代は、ドイツでは電気会社を選ぶことができ、自分の使い方によって、基本料金無しや段階料金などの最適プランにする。しかし、これは賃貸の場合は、実際の使用者ではなく屋主に選択権があるため、面倒が生じる。

 さらにややこしいのは暖房代。温水交換式の暖房機器が一般的だが、ボイラーは地下にあって、管理会社が請け負っており、実際の経費は、まさに地下の闇の中。個々の住宅には暖房機器ごとに表面にくっついているだけの熱量メーターがあり、これを基準に費用を算出する。しかし、これは単純加算ではない。暖房機器の大きさが異なることと、生活衛星環境の配慮から、費用加重が違うのだ。すなわち、風呂場や廊下は、熱量の約半分、寝室は約1、その他の部屋は約2倍にして合計合算し、使用負担額が算出される。それにしても、この熱量メーターがちゃちで、あまり信用ならない。

 屋主の方にも言い分はある。光熱費は年一回の検針に応じて、前年の過不足を精算し、翌年度の料金を十二分割で、毎月、払っていくことになる。したがって、ある年度に前年度より増えると、追加請求されるだけでなく、その年度が終わって実際に精算してみるまで高い料金を払い続けなければならない。そのため、一般には実際の費用より確実に高い光熱費を、賃借人にも、あらかじめ毎月、請求しておく。本来は、次の検針時に屋主の精算に応じて賃借人とも精算すべきなのだが、よほど誠実な屋主でないと、翌年度への繰り越しを口実にカネは返さない。一方、増えた場合は、絶対にすぐ追加請求してくる。

 これが嫌だから、賃借人の方は、家の水道や暖房、電気はできるだけ使わない、ということになる。ロウソクやランプが人気で、暖房もエタノール暖炉に切り替えてしまうのはそのせいだ。それなら、いくら自分が使ったか、自分自身で把握でき、制御もできる。固定で取られているネーベンコステンは、光熱費、というより、家賃の内、と割り切る。

 当然、家の水も使わない。しかし、ドイツ人が水を使わないのか、というと、じつはそうでもない。屋主がうるさい家の水、でなければいい。それで、ドイツには、プールやスポーツ施設が多い。そして、年間家族会員になっている。そこに行けば、シャワーが使いたい放題。サウナだってある。連中は、けっしてカラスの行水ではない。一定料金となれば、ガンガンお湯を流しっぱなしにして、シャンプーや石けんを持ってきて全身をゆっくり洗っている。どれだけシャンプーを使ったのか、というくらい、シャワー室の床は泡だらけ。

 ようするに、賃借人では自分の住居の光熱費が自分で管理できず、個人屋主の不明朗なボッタクリ会計に不満だから、こうなった。べつにエコロジーだから、節約をしているわけではない。それで、蛍光灯も普及しないし、節電機能もはやらない。節約なのではなく、とにかく家の光熱機器にはできるだけ関わりたくないだけ。つまり、宿泊客がホテルの冷蔵庫の中のビールには手を出さないのと同じ理屈だ。喉が渇いていないから、アルコールが嫌いだから、ではなく、冷蔵庫の中のビールはバカ高いし、後が面倒になるからイヤなのだ。ほしければ、外で自分で買ってきた方がいい。

花の街マインツ朝市の晴れの週末

晴れのマーケット

 秋からひたすら曇りの日ばかりだったが、ようやく春めいてきた。とはいえ、朝の気温はマイナス5度。昼間だって日陰は寒い。が、日なたはとても気持ちが良い。

 みんなも考えることは同じで、今日の朝市は、たいへんな人出だ。クリスマスマーケット並み。周辺の町や村からつぎつぎと車でやってくる。カメラを提げているトラハトのひとも多いから、まだ雪の残るバイエルンあたりからの観光客なのだろう。河でも、人気のライン下りの船がもうすぐ始まる。

 昨年から大規模な修理をしていた建物もようやく中までできあがり、その日当たりのいい二階のテラスでは、大勢がカフェを飲んでいる。まだ暖かい飲み物がうれしい季節だ。この建物にウェブカメラがついたので、24時間、世界中から、マインツのマルクト広場の様子を見ることもできるぞ。

 それにしても、こっちは暮らしやすい。物価も安いし、治安もいいし、食べ物はおいしいし、人間関係もドライで親切だし。そのうえ、マスコミの押しつけではないホンモノの楽しみがいくらでもある。カーニヴァルが終わったとはいえ、いまやこの街はドーム千年祭に、マインツメッセ、そして復活祭と、またまたお祭り続き。

カヤ・ヤナールの中東ギャグ



 Kaya Yanar の『Was guckst Du !?(なに見てんだよ)』は、SAT1系の人気テレビ番組で、8年目。しかし、ドイツのテレビ番組の中でも、かなり毛色が変わっている。というのも、ウリが中東ギャグだから。

 この人、トルコ系ドイツ人。だが、ピーター・セラーズ並みに、オランダ人になったり、中国人になったり、国籍不明で変幻自在。もちろんトルコネタ、アラビアネタは、得意だ。トルコやエジプト、さらにはイラクのテレビから、オバカな素材を拾ってきたりもする。もともとフランクフルト大学(ゲーテ大学)の中退で、かなりのインテリだ。

 トルコ系も、もはやドイツに定住して、第二世代、第三世代。移民街は治安が悪い、などというのは、もはやはるか昔の話で、いまや移民街の方がきちんとした家族持ちが多く、食い詰めて流れてきた旧東ドイツ地域の連中よりまじめだ。とにかく宗教的な縛りがしっかりしているので、彼らは無茶をすれば、移民コミュニティから放逐される。そうなったら、ドイツで生きていく場所も方法もなくなる。そのうえ、いまや苦労してドイツの学校に学んだ第二世代がボランティアで第三世代の世話をしているから、自由放任のドイツ人の子供たちなどよりはるかに教育状況もいい。

 もちろんまだそれほど豊かではないし、トンチンカンなことも多い。しかし、働き者だ。信用もある。だから、最近は、移民街を離れて、一般的な住宅地に暮らす家族も増えている。中には、商売に成功して、ドイツ人を雇っている会社の社長になっている人も出てきた。隣のトルコ系ドイツ人、などというのも、実際、珍しいことではなくなった。

 それで、ARD(公共放送系)では、『TfA(Türkisch für Anfänger、初心者のためのトルコ語)』という連ドラも人気になっている。これも、すでに3年目。まさに、隣にトルコ人がやってきた、というもので、恋愛絡みであれやこれや。なんていうことのない話だが、設定や出来事に現実味がある。

 日本ではあいかわらず英語一辺倒だが、世界全体の趨勢からすれば、急速にスペイン語やアラビア語、スワヒリ語の方が重要になりつつある。なにしろカバーできる領域が面積的に広大なのだ。これらの地域に入り込んで、まともに英語が通じる人を探すのは、太平洋に浮かぶペットボトルを探すようなものだろう。だいいち、英語をむりに通そうとするよりこっちが現地語を話せた方が、好感度も高いに決まっている。

 いまや世界中にバイリンガル、トリリンガルがいる。そして、文化の橋渡しとして重要なのは、日米どっちつかずの半端な帰国子女の英語バイリンガルなどではなく、きちんとした文化背景を持ってきている外国系の人々だ。日本が在日韓国朝鮮人の問題すらいまだに解消できないようでは、「国際化」など、まったくおぼつかない。

ドイツのテレビ番組の魅力!

 ドイツのテレビはつまらない、だから見ない、なんて書いているドイツ在住者が少なくないが、見ないのに、つまらない、なんてよく言うよ、と思う。ようするに、それって、たんに、あんたが見てもわからなかっただけだろう、と思う。ほんとうにつまらなければ、こんなに、大量の熱狂的なファンがいるわけがない。たいていの人気番組は、DSDSとか、GZSZとか、略語で通用しているほどだ。

 ドイツのテレビは、ドイツ料理に似ている。レストランなんかで、ドイツ料理を食べてもうまいわけがない。ドイツ人は、ドイツ料理をレストランでは食べないから。旅行者がホテルでドイツのテレビなんか見たって、わかるわけがない。在住者だろうと、ちょっとテレビをつけただけでわかるほど、ドイツのテレビ番組は、日本の単発サスペンス劇場や1クール13回の連ドラのように薄っぺらではない。というのも、ドイツのテレビ番組は、やたらものすごい続きものが多いのだ。GZSZなんか、1992年から始まって、いま4000回だ。『タートオルト(犯行現場)』は、ARD系の競作で、1970年から、まったく異なる場所の刑事シリーズが入れ替わり立ち替わり同時進行して、700本を越えている。その中の1回だけ見て話がわかる、おもしろい、と思える方がどうかしている。

 だいたいテレビなんか、見ただけでわかるものではない。日本のテレビでも、だれだかわからない連中がスタジオでゲームをしているだけなら、おもしろくもなんともない。おもしろいのは、その人が普段は硬派な評論キャスターだったり、それと対決しているのが、そういう硬派のキャスターをちゃかしているコメディアンの、それも冗談キャラとしての出場だったりするところ。ディーター・ボーレンが審査員をしているのは見ればわかっても、そのディーター・ボーレンがとんでもないヒットメーカーで、女たらしで、大金持ちなのを知らないと、彼の発言や、別の審査員のツッコミのどこが笑いどころかわからない。つまり、テレビがおもしろい、と思えるためには、その番組以外の、長年の背景を知っていないとならないのだ。

 ドイツの場合、俳優はプロばかりで、ポッと出のアイドルが抜擢されることなど、まずありえない。(例外が昨年から始まった『アンナとその愛』で主役になった、ロック歌手の大根娘くらいか。)また、その舞台の街も、田舎のどこか、ではなく、具体的に、ハンブルクだったり、バート・テルツだったり、ウィーンだったり、行ったことがあれば、よくわかる場所がよく出てくる。さらに、先述のように、話も続きものなので、これまでのいきさつや人間関係を知っていてこそ、楽しめるというもの。

 お笑いも、日本のような、ただのバカがかってに騒いでいるだけのようなガキのコメディアンではない。カバレティストと言えば、楽器がなんでも弾けて、歌って、踊って、シリアスな長編の小説や映画の台本が書けるような超インテリの趣味人でなければならない。だから、笑いのネタも、子供受けする早口言葉のようなものの合間に、政治や社会の風刺を挟み込む。つまり、ただのバカではなく、向う側まで行ってしまっている連中の冗談なのだ。それで、子供はもちろん、大人も笑える。もっとも、政治や社会のドイツの常識や習慣を知らないと、なんの風刺かわからず、ぜんぜんおもしろくないだろうが。(たとえば、キンダーパラディース(子供天国)、と聞いただけで、それが家具屋のイケアの話とわからなければ、ぜんぜん笑えないだろう。シャウママルというセリフだけで、ベッケンバウアーの口癖と知らなければ、オチがわからないだろう。)

 テレビは、テレビの外の日常世界の鏡だ。だから、ドイツに限らず、日常に溶け込んでいるテレビは、エンターテイメントとして、個別に完結している映画などよりはるかに奥が深い。自分がわからない、だからくだらない、つまらない、というのは、その人が、つまらないだけ。それにしても、大学の研究者も、そういうつまらない連中ばかりだから、こういうテレビのドラマやショーのようなものに対する専門的な研究は、どうでもいい(当時だってほとんど読まれなかったような)古い小説の研究などに比べて、ひどく遅れている。テレビほど、その国の人々に影響が強いモノはないのに、日本の大学の中の奇妙な研究者たちの力関係で、どうでもいい研究にばかり予算配分され、肝心の通俗的(もっとも一般国民に近い)な文化に対する研究が放置されてしまっている現状は、とても不幸だ。

耄碌教皇はスクラップに?

風刺雑誌

 今週、こんな表紙の雑誌がドイツ中の書店やスーパーの棚に並んでいる。ドイツの通俗雑誌というと、バウアー・グループのものが圧倒的で、百ページ程度のザラ紙にカラー、タレントや生活、貴族、ファッション、等々が出ていて、それぞれ数オイロ以内、というのがふつうだ。もっとも売れているのが、テレビ番組表の雑誌で、バウアーのTV14をはじめとして8種類くらいある。つぎに売れているのが、女性総合雑誌で、これも8種類くらい。その他、タレント・ゴシップなどなど。日本でありがたがっている政治誌(シュピーゲルやヴェルト)なんか、スーパーにおいてあるわけがない。駅なら、まああるが。エロっぽい男性雑誌のようなものも、スーパーには置いてはいない。

 で、風刺雑誌、というのも、ドイツの雑誌群の中では異質だ。しかし、このタイタニックは、けっこうどこでも置かれている。中味は、マンガやバカ話。あまり長い記事はない。しかし、それにしても、この表紙、かなり刺激的ではないか。2006年にデンマークの日刊紙が爆弾を頭に乗せた、ムハマッドの絵を掲載して大騒ぎになったが、こっちの雑誌は、国民の三分の一が自称カトリックというドイツで、ドイツ人自身がやっていることだ。それで批判が巻き起こるか、カトリックが雑誌社に抗議するか、というと、そういう話はまったく聞かない。というのも、この表紙は、もはやドイツでは風刺にも皮肉にもなっていない本音だからだ。

 ドイツ以上の旧教国フランスでも、もはや露骨に教皇をあなどる発言が相次いでいる。前の教皇の評価が高かっただけに、落差が大きい。もとはと言えば、教皇がイメージ回復のためにアフリカへ行ったのに、そこでわざわざ自分でエイズ絡みのいらない失言をしたりするからだ。まあ、言いたいことはわかるのだが、わざわざ教皇が言わなくてもいいことだし、いまのタイミングで言うのは政治的に最悪だ。

 17世紀ならともかく、近代に入って、こんなに急速に軽んじられ、威厳を失ってしまった教皇も珍しい。まるで昨今の日本の総理大臣のようだ。組織改編で政治的に復古主義の確信犯、というのならわかるが、わざわざアフリカに行って失言するとなると、単純に政治手腕の有無を疑われるのは当然だろう。この状況で、もともと弱体で、教皇をありがたがっている日本のカトリックなどはどうするのだろう。

電球が切れるときの爆発音

 また電球が切れた。とにかくよく切れる。それも日本のようにじわっと暗くなるのではない。ばん! と爆発音を立てて閃光を散らす。そして、真っ暗になる。あの事件があった昨日の今日のことで、思わず頭をすくめてしまう。こういうときの、こういう爆発音は、なんでもないにせよ、精神的にきつい。

 ドイツは蛍光灯が少ない。どうもあの青白い色は嫌いらしい。日本と同じような電球(洋ナシ、という)か、スポットライトの四連が一般的だ。環境大国なんていうが、蛍光灯型の電球は、あるにはあるが、ほとんど普及していない。むしろ蛍光灯を吹っ飛ばして、LEDが5個入った電球やスポットライトがスーパーの特売で売られていることがある。いずれにせよ、人気がない。

 電球どころか、ドイツ人はロウソクが大好きだ。日本でもよくあるテー・ケルツェンが数百個詰めで売られている。電球は消して、これを部屋のあちこちに置く。庭石のように巨大なロウソクもある。いったい、これが燃え切るのに何年かかるのだろうと思う。さらに、芳香剤もロウソクだ。これは安いのから、高くて見た目もきれいなもの(水に浮かべたり、皿にとけて広がったり)までいろいろ。いちばんいいのは、ホンモノの蜂蜜からつくる黄色い蜜蝋のロウソク。

 しかし、ロウソクの難点は、スス。天井が黒くなる。それで、引っ越しの前に天井までペンキ塗りをしなければならなくなる。それを知っているから、私などはロウソクはほとんど使わないが、それを知っていても、ロウソクが大好き、というのが、こっちの人々。

 それで、近年は、エタノールの暖炉やテーブルランプが流行ってきた。これはススが出ない。火も派手だ。壁掛け暖炉とか、かなりかっこいい。値段も1万円程度で買えるし、重いたきぎをくべる必要もない。しかし、これだって、火傷だの火事だのが心配だ。そんなのを使う度胸はない。で、最近のお気に入りは、DVD。これ、暖炉の火が延々と1時間も録画されている。録画用の空DVD25枚を買ったら、おまけで入っていた。これで、テレビが暖炉になる。なんとなく暖かい気がするから不思議だ。

 天気の方は、小鳥たちがさえずって、だいぶ春めいてきたものの、気温はまだ7度くらいで、寒い。とくにここのところ、冷たい雨が降っている。東北の山脈の方はまた雪らしい。向かいの教会では、今日、雨の夕方、中学生たちが集められて臨時礼拝が行われていた。当事者たちだけでなく、ドイツ全体、とくに同年代や低学年の子供たちにとって、かなりショックだったようだ。学校という自分たちの居場所に、いきなり暴漢が入り込んでくるかも知れない、と思っただけで、小さな物音にも神経質にならざるをえないだろう。事件のあった中学校も、その回りが数限りないロウソクで埋めつくされている。ドイツの人々が電球よりロウソクを好むのも、なにかすこしわかった気がした。

Winnenden高校の銃乱射事件

 テレビが特番体制になった。ストゥットガルト近郊の街の実業中学校で、そこを退学した17歳の青年が10数人を撃ち殺し、駆けつけた警官2人のヒザを撃ち抜き、人質を連れ、アウトバーンに乗って車で市内へ向かったからだ。

 昨日もアメリカで似た事件があったそうだが、ドイツの事件が似ていないのは、これが少年の犯罪というよりプロのテロリストに近いこと。家に残っていただけでも18丁もの銃があったとか。手持ちで長短3丁は持って逃げているだろう。そのうえ完全装甲の黒の戦闘服だ。なんでこんな武装を持っていたかというと、こいつが戦争マニアだったかららしい。たんなる武器マニアではなく、射撃訓練もやっていたようだ。乱射ではなく、女子中学生ばかり、それも正確に冷静に一発ずつ頭を狙って撃っていった。

 このため、警官隊の方も、通常の少年犯相手ではなく、やはり完全装甲で小機関銃を持ち出してきている。実際、犯人に射撃の腕がある以上、見つけ次第、撃ち殺すことになるだろう。しかし、現時点で情報は錯綜しており、自殺した、という話もあれば、まだ逃げている、という噂もある。

 コメンテーターは、おきまりの、コンピューターゲームの影響を語る。しかし、これも、ドイツではリアリティがある。ゲームの年齢制限が厳しい分、大人向けゲームの中には相当に過激な襲撃ものがあり、それは敵兵を小銃でバンバン撃ち殺しながら目的地へ突き進むものだ。相手に当たると、その頭が血しぶきをあげて吹き飛び、首のない死体が跳ね飛ぶ。日本では考えられないが、かなりリアルで、ものすごい緊迫感がある。

 銃砲店も珍しいものではない。マインツくらいの街でも数店もあり、店頭には猟銃のほか、小銃や大型の戦闘用ナイフなど、ドイツ国内でも絶対に使う場所のないものを売っている。2002年のエアフルトの高校での事件の後、21歳以上に銃は規制強化されたが、それでも、ドイツは、銃に関してはまったく行政管理がいいかげんな国のひとつだ。その背景には、数百年来の狩猟の伝統によって、アメリカのような護身自衛用としてではなく、狩猟用としてすでに数限りなく普及してしまっている事情がある。とはいえ、きょうび、バイエルンの山の中だって、危なくてそうそう狩猟なんかできるわけがないのだが、いまだに角付きのシカの頭を壁に飾り、床にクマの毛皮を敷いて喜んでいる連中が地元名士なのだから、そう簡単に禁止できないままになってきた。

 自動車のアウトバーンの最高速度ですら、自動車メーカーとの関係があっていまだに制限するのが困難だ。もちろん徐々に速度規制区間が増えてはいるが、無制限区間も残っている。それが残っている以上、自動車メーカーは絶対に使う場所のない性能を追求するだろう。ジュ−ザーで砂利を砕いてみせたり、包丁で鉄ハンマーを切ってみせたりして自社製品の性能を自慢するのが、ドイツ人の気質。当然、銃でも、どれくらいの速度で乱射できるか、スペックを語りたがる。

 言うまでもないが、車だの、銃だの、モノの性能を語るやつに、人間としての性能があったためしがない。だから、よけい車や銃で武装するのだろう。まして、そんなのをガキに買い与える親も親だ。友達と楽しくチャリンコに乗って、ダーツで遊んでいればいいものを、車や銃の自慢をしたところで、よけい友達を失い、孤立し、ゲームにはまり、最後は凶行。

 日本の高校生は、いまどき腐ってみたって、アルバイトではバイクも買えないし、ゲームさえもムリだ。ヒッキーなんて、団塊世代の金満な親を持った子供だけの特権だった。マンガだって、けっこう高い。携帯の通信料もバカにならない。まして銃なんかどこにも売っていない。あんまり暇だから、勉強でもしていたりして。数独のパズル本なんか買わなくたって、教科書の因数分解とか、けっこうおもしろいぞ。

オリーブの栄光とローマびとペテロ

 先週、2日(月)から5日(木)にかけて、ドイツ司教協議会(ビショッフ・コンファレンツ)がハンブルクで開かれた。話題の中心は、ピウス兄弟会司教の破門を勝手に解いた現教皇の問題だ。ドイツ・カトリックは、新教ルター派、東方教会、さらにはユダヤ教とのエキュメニズム(宗教対話)を推進している。それゆえ、それを否定するピウス兄弟会は、ましてホロコースト問題に触れる同会のリチャード・ウィリアムソン司教は、認めがたい。

 ところが、ややこしいことに、先月末、ピウス兄弟会の方がドイツ司教協議会に対話を求めてきた。協議会議長のフライブルク大司教ロベルト・ツォリッチは、これを、ヴァティカンの問題として一蹴。さすが知恵者だ。前議長のマインツ聖座司教枢機卿カール・レーマンとともに、協議会の結束は固い。公会議でもないところで裏取引を持ちかけるやり方自体が不愉快であろう。

 神は人に神の似姿として理性を与えた。兄弟会のように、伝統だ、不合理だから信仰だ、などと言われても、もとより理性的な対話にはなりようがない。だいいち、ムハマッドを借りて神が語ったというコーランならともかく、聖書そのものですらラテン語ではないキリスト教において、神がラテン語の典礼を命じた、とか、プロテスタント的だからダメだ、とかいうローマ中心主義の方が、どうやってもムリがある。これでは、根本のところで話にならないのは自明のことだ。そこまで言うなら、聖書どおりのコイネー(古代国際ギリシア語)でやれよ、ということになるだろう。また、教会としての伝統うんぬんに関しても、歴史を越える神の遍在からすれば、教会はその過去の歴史を介してのみイエスにつながるのではなく、過去はもちろん、いまこの現在においても、つねに教会は直接にイエスの前にある、そして、むしろ神が現在の教会をあらしめたもうたことにおいて、神はいまや過去の教会の姿をあえて退けられた、とでもいう方が神学的にも妥当だろう。

 むしろ問題は、ヴァティカンだ。教皇の方がなんらかの正しい対応をしない限り、ヴァティカンとドイツ・カトリックとの関係は、修復不可能なところへ突き進んでいっている。フランスやポーランド、そして、これらの国々を派遣拠点とする世界の修道会系列。ヴァティカン側には、せいぜいイエズス会くらいしか残らないかもしれない。それにしても、カトリックの内部で、この信仰低迷の現代にもなって、またシスマ(分裂)を引き起こすほど不毛なことはない。いや、信仰が低迷しているから、教会が迷走するのかもしれないが。

 十六世紀末の『マラキ書』は、歴代法皇に関する予言偽書としてよく知られる。しかし、偽書とはいえ、あまりによく知られているがゆえに、その後のコンクラーベにおいて影響がなかったとは言えまい。それによれば、先のヨハネ・パウロ二世が「太陽の労働で」、今のベネディクト十六世が「オリーブの栄光」、そして次が「ローマびとペテロ」。問題は、これで予言がおしまいであること。それも、極限の迫害と最後の審判が言及されている。現教皇はもちろん、次の教皇になる可能性のある現枢機卿、その他、カトリック教会関係者で、この予言を知らない人はいないだろう。

 ヴァティカンがこのままこの問題を放置した場合、フランス、ドイツ、ポーランドなどのカトリック教会は、シドニス・システムに基づき、ヴァティカンそのものの存在意義を認めなくなる。南イタリアの教会ですら、ローマよりもフランスとの関係が深いので、ヴァティカンに従うかどうかわからない。実際、歴史上からしても、べつにヴァティカンで教皇が選ばれなければならない理由はない。小アジアからヨーロッパまで布教して歩いた使徒ペトロの継承者という意味で言えば、むしろローマ中心主義を採る狭隘なヴァティカンを切り捨て、ルター派や東方教会、カルヴァン派、聖公会、再洗礼派その他と大合同して、イェルサレムかどこかで新しい意味でのキリスト教の代表者を選出した方がいい、ということになる。

 そうなると、ヴァティカンは、ヴァティカンだけで、古くさい次の教皇を選出しなければならなくなる。まさにローマびとだ。しかし、大合同キリスト教会は、そんな教皇を破門するかもしれない。カトリックにおいて、一見、教皇の下に教会があるように思われるが、しかし、教皇は、しょせん教会に選ばれてこそ教皇になれるのであって、教会に選ばれていない教皇はホンモノの教皇ではありえないからだ。

 予言の奇妙なところは、それが人々によく知られることにより、その予言が実現する方向に物事が動いていってしまう、ということ。よほどのことが無い限り、逆には動かない。初代教皇ペテロ以後、ペテロを名乗った教皇は一人もおらず、次の教皇がみずから予言に従うなら、ペテロ二世を名乗ることになる、とされるが、そんなにバカでもあるまい。しかし、実質的に、ヴァティカンのペテロ二世と、エキュメニズムのペテロ二世の二人の対立教皇が出てくる可能性はゼロではない。

ヨーロッパの語学を勉強するなら

 こっちへ来てつくづく思うのは、英語を基準とした教育システムでドイツ語やフランス語その他のヨーロッパ系言語を勉強するのはまったくのまちがいだ、ということ。文法の構造が違う。これは、慣用句としての言葉の連結力がやたら強いからで、特定の動詞、特定の形容詞、特定の前置詞は、特定の名詞ににしか着かず、むしろこれら全体で一種の大活用体をなしている。

 たとえば、カッツェ・フリスト(ネコが喰う)かフント・フリスト(イヌが喰う)はあっても、イッヒ・フレッセ(私が喰う)やジー・フレッセン(あなたが喰う)などという活用は、あえて文法的にひねり出した場合でもなければ、通常はありえない。同様に、ツー・ハウゼ(家で)、アン・ディー・シューレ(学校で)、アウフ・デム・バンホーフ(駅で)、等々も、前置詞と名詞の組み合わせが固定固有で、組み換わることはないから、実質的に一語だ。つまり、これらは、名詞に前置詞がついているのではなく、実質的にその名詞そのものの格変化の1つとして位置づけられる。

 SVOなんていう文型も、もともとが英語の発想だ。ヨーロッパ系言語の日常会話のほとんどが、副詞句でできており、そのまま語尾を上げれば疑問文、強めれば命令文。アレス・クラー、カイン・プロブレム、アウフ!、ダリン!、等々。もともと主語も動詞も無い。ムリに書くなら、esのような非人称主語や形式動詞を立てるが、これは文語だ。たとえば、シルブプレ、なんていうのも、これで、一言、一単語なんで、これを、もしそれがあなたを喜ばせるなら、なんていうのは、語原の問題で、文法の問題ではない。ブの部分が、他の単語に置き換わることは、まずありえない。それどころか、もっと長い文全体が完全パッケージの1語の慣用副詞句で、その中の部分が置換されることのないものが相当にある。日常会話はこんなのばっかりだ。

 じつは日本語だってそうだ。たとえば、日曜日はちょっと、というとき、日曜日は主語でも目的語でもないし、ちょっとは、副詞でも間投詞でもあるまい。まして、日曜日が少ない、という意味などではなく、これ全体で、日曜日は都合が悪い、という意味だ。「やむをえない」などというのも、実質1語だろう。

 もちろん英語にも、日常会話では慣用表現は多いのだが、三単現のsくらいしか活用連係が無いことからわかるように、単語間の連結力が著しく弱い。つまり、英語は、ヨーロッパ系言語ではない、と言えるくらい、特殊なローマ字言語だ。そして、このために、SVOを初めとする語順文法が重要になる。

 一方、古代ギリシア語やラテン語、ロマン語等々を引き継いでいる本来のヨーロッパ系言語は、活用連係が強い。これは、動詞が主語によって大きく活用する、などという英語文法的な言い方よりも、動詞が主語の役割も兼ねている、だからもともと主語は不要で、活用した動詞そのものが文の機能を担っている、と言う方がふさわしい。同様に、名詞そのものが格(前置詞による大活用を含め)を持っているので、語順なんかどうでもいい。どこに来ても、それだけで副詞的に文をなすことができる。(フランス語は「文法」上は名詞の格変化がないが、前述のような前置詞との連係が実質的な格変化として機能しており、これがやたら強い。また、動詞の格変化も著しい。)

 いやしかしドイツ語には分離動詞などによる枠構造が、などと言うかも知れない。が、たとえば、mit heim nehmen (持って帰る)なんていう三語の「分離動詞」もあるぞ。こういうのを見ると、これは動詞が分離したりするのではなくて、強力な慣用副詞連係がもともとあって、両者が近づきすぎると、それが直結して書かれてしまう、ということがわかる。フランス語なんか、慣用的な連係語が近づくと、すぐ、もっとべたべたに綴りも発音もつながってしまう。

 つまり、単語や文法、という発想が、根本において英語的だ。ヨーロッパ系言語は、言葉は単独の中立的な単語では使われえず、つねにその大活用的な連係を含んでいる。そして、この連係の背景に、膨大な歴史的文化背景がある。英語が単語と文法で、やたら軽いのは、それが、ゲルマン人やノルマン人、そしてアメリカ移民という外国人たちによる合成的な人工言語だからだろう。そして、こういう人工言語からだと、ヨーロッパ系言語には入り込みにくい。人工言語の構造に似た部分だけ学んでも、それは日常会話からはほど遠いからだ。

 この意味で、語学者が頭で作った語学教材は、あまり訳に立たない。それよりも、実際の慣用文を丸ごと覚えた方が早い。活用だの、語彙だの、慣用文に出てこないものは、日常生活にも必要がない。逆に、日常生活では単語帳に出てこないようなものがあまりに多い。たとえば、ふつうは車を auto だの wagen だの言わない。PKWがLKWだ。やたら綴りが長いので、日本語と同様、短縮語も多い。たとえば、svpとかzzglとかaboとかkloとか。こっちの人たちですら、語源がわからなくなってしまっているものも少なくない。

 というわけで、語学教材よりも有効なのが、お笑いだ。スケッチ、シネコミクと呼ばれるショートコント。テレビでいっぱいやっている。いろいろなシチュエイションで、なまっている田舎者だの、都会の慇懃無礼な銀行員だの、コントだと、その口調や抑揚までマネしてくれている。その慣用句による建前と、実際の本音との使い分けも教えてくれる。こういうのは、1シーズンDVD4枚組み500分くらいで、18オイロもしない。amazon.deやamason.fr、E-bayなどでかんたんに買える。ドイツ語ならAnke Engelkeの『Ladykracher』全4シーズン、フランス語なら『Caméra Café』全3シーズン(DVDボックスセットで全12枚)あたりがお勧め。

天気がいいと歩きたい

モンバッハレアル

 久しぶりに天気がよくなった。気温も8度くらい。通りを見れば、人々がうらうらと街に出てきている。ここのところ家で仕事ばかりしているので、肩がこる。まあ、夜に急に冷え込むせいもあるのだが。なんにしても、これでは健康によくない。というわけで、自分も散歩に。

 新市街へ出て、関税港へ。そこから川沿いに北上。さらに北駅を越えて、その向こうへ。このへんは工業地区なので、あまり来たことがない。せいぜい車で走り抜けたくらいか。有名なガラスのショットや洗剤のフロッシュ、食品のネスレの工場などがある。このあたりに火力発電所を作るとか作らないとかでもめているが、実際、これだけ工場があるなら、電気も必要だろう。

 それにしても、こんなところ、歩いてくるものじゃない。横断歩道もないし、店も大型家具店くらいだ。それでもどんどん歩いて言ったら、モンバッハのレアルがあった。こんなところ、ほとんどマインツのへりっちょだ。それにもう夕方。あらら。

 しかし、せっかく来たので、レアルで買い物。それにしても、レアルはどこも大きい。無いものはない、と豪語するだけあって、大きい。実際、日本の大型スーパーくらいの建物が5つ直結された構造になっている。中を歩くだけで疲れる。マギーやクノールなどの粉スープの棚だけで百メートルある。

 外へ出たら、もう月が出ている。帰りは、バスに乗ることにした。こういうとき、バス路線を熟知していると便利だ。でも、乗ったら、あっという間にマインツ駅に着いた。あんなに歩いて遠かったのになぁ。


 

オペル分離救済案

GM恐竜

 オペルは、シュトゥットガルトのメルツェデス、ミュンヘンのBMWに比して、国際的にはぱっとしない会社だが、ヨーロッパの大衆車としては、かつてのカデット以来、かなりのシェアを持つ。そして、フランクフルト・ウィスバーデン・マインツは、じつは、そのオペルの城下町だ。巨大なオペル工場を中心に、各地に自動車関連の産業がある。直接の従業員だけでも3万人、関連産業、そしてその家族、その生活を支える地元産業まで含めると、百万人近くになる、この地域の基幹会社だ。フランクフルトの新動物園まで、オペルのスポンサータイトル付きになっている。

 とはいえ、オペルは、1931年から早々と100%のGMの子会社になってしまってきた。GMとしては、大衆車オペルをワールドカー構想の中核に据え、実際、戦後のモータリゼイションとともに、この構想は大いに成功した。

 しかしいま、オペルが危機に瀕している。GMはもうダメだろう。崖から落ちる時代錯誤な恐竜を、非力な大衆車が救うのはムリだ。そこで出てきたのが、オペルの再買収案。GMとの関係を断ち切った方が、むしろオペルは存続できる可能性がある。

 ドイツでは、この案は支持されている。ほんとうは第二次世界大戦前に、ナチス・ドイツがオペルをGMからいったん分離したのだが、敗戦後、すぐに再び接収されてしまった。だから、そもそも今日までオペルがGMの傘下にあったこと自体が、実質的には敗戦賠償を延々と払わされてきたようなものだ、という強い不満が背景にある。マツダなどと違って、べつにGMによって資本投資されたわけでもなく、ただGMに搾取され続けてきただけだったからだ。だから、この自動車危機は、ある意味では、意外に歓迎だったりする。

 日本ではいまだに野球をやっているらしい。バカじゃなかろうか。あんなの、新聞社が結果速報で騒いで販売部数を伸ばすために始め、戦後はGHQに媚びて取り入り、新聞社、そしてNHKとNTVが、国民の人気とは関係なく、むりやりブームに仕立ててきたもので、もともとルールからして民主主義的なゲームでもないし、国民一般の体力向上とも関係がない。大リーグの中継だって、ハイビジョン絡みの裏があるし。プロレスや芸能界などより、はるかに政治的でダーディな業界だ。

 まあ、精神的に自立できないから、米国にいいように利用され続けるのだろう。自分自身で野球をやりたいやつがいるのはわかるが、自分で野球をやりもせず、ただテレビで見て騒いでいる連中は、南北戦争以前の黒人奴隷以下だが、そんなことに気づかないからこそ、そうなのだろう。野球が好きなら、テレビを消して、外へ出て、自分でやれよ。どうでもいい話題で騒がれると、うるさくて迷惑なんだよ。

 それにしても、まともに世論醸成機関として機能しているヨーロッパのマスコミと較べると、日本の新聞やテレビの愚民報道にはあきれてものも言えない。やたら政治に対立的なのもどうかとは思うが、現状は百年前のハーストのイェロー・ジャーナリズムに退化していっている。オペルのように子会社であっても、実体があれば救済もできるが、日本の新聞やテレビのように、中身が空洞化していってしまっているのでは、それらはいつか泡とはじけるだろう。
 

麻薬と乞食と治安のこと

 日本で麻薬ジャンキーなんていうのはテレビの中の話だが、ドイツでは珍しくもない。いや、落ち着いた住宅都市のマインツではそんなのはまず見かけないが、ハンブルクやケルン、ベルリン、フランクフルトのような大都会ではそうではない。

 先日もフランクフルトの電車に乗ったら、ジャンキーだ。最初はカゼをひいて熱があって苦しいのかと思った。床をのたうちまわっている。目つきはうつろで、よだれがだらだら。麻薬なんて、どう見ても気持ちよさそうには見えんな。まともな乗客は逃げ回っている。しかし、ドイツの列車は、連結部分が遮断されていて、いったんホームに降りないと、隣の車両に移れない。以来、できるだけ先頭車両に乗ることにした。ここなら運転手がいるから、なにかあったら運転席のドアを叩けばいい。

 ベルリンなども、地下道など、昔はジャンキーのたまり場だったが、だいぶよくなったようだ。ハンブルクは港町なので、昔からどうしようもない。コペンハーゲンとかアムステルダムもひどい。エレベーターの中とかに注射器がよく落ちている。ケルンも、以前は地元住民の商業都市だったのだが、オランダの没落のせいで、近年、とみに荒れてきてしまった。フランクフルトはあいかわらずだが、むしろトルコ系移民が住み着いた地区は落ち着いてきている。宗教的な縛りがある方がまともだ。それでも、駅の近くではいまでも注射器を公的に配っている。使い回しによる感染症の流行がひどいらしい。

 フランクフルトの電車は、そんなこんなでちょっと恐い。シュタットバーン(近郊列車)って言っても、フランクフルト市内では、実質的には地下鉄だし。ホームを閉鎖して警察犬が走り回っていたこともある。もっと驚いたのは、列車に乗ったら、電車の床が血だらけだったとき。さすがにこれには事件慣れしたフランクフルトの市民も、ドアが開いて乗り込むときに、びびっていた。それでも、事件が終わっているなら、みんな平気でその車両に乗るけどね。

 マインツは事件はないが、乞食はいる。もしかすると、フランクフルトのような大都市より多いかもしれない。近年はいいかげんな即席乞食も多いが、まともな乞食も少なくない。それぞれ場所が決まっていて、犬をつれているのが定番。もっときちんとしている乞食は、石畳に正座。金物のコップは、床に置かず、両手で持って宙に浮かす。寝ていない証拠だ。コップが金物なのは、小銭が投げ入れられたときに、音でわかるように。顔は上げず、ずっと行き交う人々の足下を見ている。そして、小銭が入ったときだけ、その音を聞いて、黙って頭を下げる。入れてくれた人の顔は見ない。それは神がくださったものだから。そして、それ以外は、まったく動かない。いつ来て、いつ帰るのかしらないが、すごい。

 乞食というのは、本来は日本の托鉢僧に似て、もともと聖別された存在だ。なにもしない。まったく動かない。それがすごい。ものみの塔についてあれこれ言う人もいるが、私は彼らを尊敬している。映画の『ジョン・ブック 目撃者』にアーミッシュが出てくるが、あれもそうだ。善も、悪も、神の御業であるこの世界を見ること。人が見ている、神に代わって見ている、というほど、人を引き締めるものはないのだろう。監視カメラよりはるかに意味がある。

 そう、乞食がいるところは治安がいい。そもそも治安がよくない、悪ガキやジャンキーだらけのところでは乞食は成り立たないだろう。彼らは、老婆や障害者などの弱者だから、連中に絡まれたらひとたまりもない。だが逆に、乞食がいるところでは、彼らが黙ってじっと見ているので、だれも悪いことはできない。悪い連中からしても、乞食が見ているところは、居心地が悪い。

 それを知っているから、人々は乞食に喜捨する。喜捨というのは、彼らへの哀れみではなく、彼らへの、そして神への感謝だ。地下道のカナリアのように、絶対的な弱者が無事にその自分の仕事ををできている街は、我々にも安心を与えてくれる。

灰の水曜(アッシュ・ミットヴォッホ)

ばかぼうし

 今日は、灰の水曜。今日から復活祭へ向けての四旬節が始まる。肉は食べないし、三食のうちの二食は減らすことになっている。それで、肉屋なんかは、昨日はやって、今日は休みというところもある。

 そうでなくても、なんとなくぱっとしない。ひさしぶりに、天気はいい。まさにファスナハトとともに冬が去って、春が来た、という感じだ。しかし、祭りが終わってしまった、さあ、働かなければ、というだけでも気が重い。

 実際、さっそくいくつもの仕事のメールがくる。おもしろそうだったのが、西部劇の世界的な広がりの研究プロジェクトをやらんか、というもの。日本の時代劇がなんで西部劇になるのか、とか、調べてほしい、というから、黒澤なんか、もともと時代劇じゃなくて、あれは西部劇だ、と、返事を書いた。時代劇、というのは、侍の義理と人情の葛藤があって成り立つんで、黒澤のは、もともとドライなコンゲームで、義理もなければ、人情もない。大げさな新劇のように、やたらよたよた天を仰いで歩くが、まるでヒモでつるされている人形劇で、生身の人間の人生の重みがない。たぶん黒澤という人自身が、他人に対する人間的な共感を欠いていたのだろう。いっそ、深作の『仁義なき戦い』の方が、容易に死ねず、泥をすすってでも生きざるをえない人間の悲哀があり、古い時代劇に通じるものがあるように思う。

 西部劇は、アメリカだけでなく、知っての通り、イタリアやドイツでも大量に作られている。日本でも、日活で、和製ウェスタンがいくつも作られた。国籍不明の藤村バンサ有弘とか出てきて、ヒーローがじつは刑事だったりして、ギャングを相手に拳銃をバンバン撃って、なぜか馬に乗って去っていく、というような、わけのわからんものだが、ノリがよくて、すっとんきょうにおもしろい。ルパン三世なんか、そのころの亜流で、当時はそんな映画はいっぱいあった。コンゲームのくせに説教くさい黒澤より、こういう脳天気な国産バカ映画を世界にも紹介したいものだ。

今日がほんとうのファスナハト

カッペンツーク

 今日は火曜。じつは、今日こそがほんとうのファスナハトの祭日。だから、街中が休み。まあ、クリスマスと同じで、休みの祭日の前の日の方がお祭りになってしまったというわけ。朝になって奇声を挙げながら帰って行く仮装連中も少なくない。

 しかし、清掃関係は、朝から総出。とにかくとんでもないゴミの量だ。そのうえ、路上は一面のガラスの破片。これじゃ、車も走れたものではない。回転ブラシのついた吸引掃除車が隅々まで走り回っているが、生け垣だの、植え込みだのの中まで、食い散らかしや割れた瓶が入り込んでしまっている。

 こうして、よその連中が帰って、ゴミもなんとか片付いたところで、じつはまだ終わらない。15時11分から、カッペン・ファールト(帽子組のお通り)だ。昨日のローゼン・モンタークでは、結社の幹部たちは、広場の中心の雛壇に並んで座って、各結社の行進と挨拶を交わさなければならなかった。今日は、その幹部たちがオープンカーで、街の人々に、お騒がせしました、と、御礼回りをする。

 だから、マインツの地元の市民たちは、今日の方が楽しい。昨日と違って、田舎の悪ガキたちもいないから、お年寄りや小さな子供を連れた家族も出てきて、路上に並ぶ。そこを低いオープンカーで、各結社の幹部たちが、昨日と同様、御菓子を投げていく。いや、投げるというより、同じ高さで、ゆっくりなので、ほとんど手渡しだ。だから、子供でも受け取れる。

 車が60台くらい。ツークが長さ7キロ、5時間かかるのに、カッペン・ファールトは、せいぜい30分で通過。ところが、驚くなかれ、幹部はやはり太っ腹。どかっと投げるし、ばんばん手渡しでくれるから、わずかその30分で、昨日と同じくらい、大袋いっぱいの御菓子その他がもらえてしまった。

 スポンサーは、ベンツやポルシェ、ヒュンダイなど、自動車会社が多い。とくに宣伝をするわけでもないところが、えらい。だが、効果ははっきりしている。ドイツでは、オペルには同情的だ。一方、高給取りでカネを貯め込んで、それをアメリカのサブプライムですったくせに、政府救済を求める銀行は、山車でもけちょんけちょんにけなされている。日本じゃ、地球を救おう、なって言ってるチャリティイベントですら、マスコミがあれこれカネを巻き上げているが、それこそ頭がおかしいじゃないかと思う。

 どこのスポンサーも、もう来年は、こんなことはできないだろう。だが、蕩尽とはそんなものだ。日本は貯蓄率が高いというが、みんなで溜め込めば、いずれ通貨価値が下がって、ただの紙切れになる。金儲けをたくらんで、人に貸して貸し倒れるくらいなら、自分でみんなにばらまいて、みんなに喜ばれ、みんなで楽しく過ごす方がどれだけ意味があることか。

 人は、生きている。なにかが終わってっても、生きているかぎり、恩も恨みも忘れない。良くしてくれた人、なにもしてくれなかった人、ばれないと思って裏で自分に嫌がらせをした人、そういうことは、やがてわかる。そして、それこそ時間とともに利息が付いて、恩も恨みもふくれあがる。だから、ムリに溜め込んでムダにするより、余裕があるときには、パっと人のために使って、みんなに分け与えてしまう。知恵というのは、そういうことを理解できることだと思う。

さあ、ローゼン・モンタークのパレードだ!

ローゼンモンターク1

 今日がファスナハト最大の山場、ローゼン・モンターク(薔薇の月曜)。1時間以上前から場所取りをしないといけない。とにかく、どんどん、どんどん人が集まってくる。住民20万人の中都市なのに、出る人だけでも1万人、観客は50万人。それもケルンよりもはるかに狭い中心部に集中する。熱気だけでもものすごい。

ローゼンモンターク2

 よく知っている人は、いいポイントを知っている。大きな袋を持っている人が多いところが、いいポイントだ。なにがいいって、これがファスナハトだから。春の到来を祝って、冬の備蓄をすべて蕩尽する。昨年のものを溜め込んでいるようなやつは、今年の春は迎えられない。というわけで、騎馬や楽団に続いて、各団体は巨大な山車の上から、御菓子その他をばら撒きまくる。その時のかけ声が、「へらう!」。投げてもらう方も、こっちへ投げてもらおうと、大声で叫ぶ、「へらう!」

ローゼンモンターク3

 古いカーニヴァルだと、冬鬼たちが通りの人々にいたずら(雪をかける、袋詰めにする、空に放り上げる、等々)をしていくのだが、マインツのファスナハトは、頭の上から、ポップコーンだの、アメ玉だの、ワッフルだのが、数限りなく降ってくる。ときには板チョコが飛んできたり、おもちゃがあったり、パンやペットボトルも投げられる。みんなで両手を挙げて掴み取るのだが、みんなが取り損ねて落ちたのを拾った方が早い。なんにしても、見ている間、食べ物には困らない。というか、見ている間もなく、次々と掴まないといけない。まさにみんなでバカ騒ぎ。

ローゼンモンターク4

 どれくらいの量になるか、というと、大きな買い物袋いっぱい。宅急便の段ボールひとつ分くらいだ。最後までいれば、もっと多いかもしれない。が、後の方がだんだん荒れてくる。騒ぎが目的の、近隣の田舎町の悪ガキどもが集まってくるからだ。ガキのくせして、スピリッツの小瓶や、イェーガ−マイスターの中瓶の一気飲みとかやっている。(イェーガ−マイスターというのは、養命酒のような薬草酒で、毎度、お笑いネタになるような、まさに田舎者の象徴。)

ローゼンモンターク5

 タチが悪いのが、連中は、酒を飲み終わると、ガラス瓶を石の路上に投げつけてたたき割る。もっとも、これは、ほんとうはファスナハトの古き良き時代の伝統なのだが、50万人が押し合いへし合いしているところでやることではあるまい。だから、業者の方も、近頃は、スピリッツの小瓶も、ビールの中瓶も、みんなペットボトルにしてしまったのだが、悪ガキどもは、わざわざガラス瓶の酒を田舎の地元で買って持ってくる。どれくらいすごいか、というと、明日の朝には、路面すべてがガラスの破片で埋め尽くされるくらい。危なくて仕方ない。パレードの方は、16時過ぎまでやっているのだが、それ以後は、この小鬼たちの時間だ。なので、その前に退散。連中のバカ騒ぎは、明日の朝まで終わらない。

踊るルー通り

ルーダンス

 今日は日曜。朝11時11分に、MCVの制服組の騎馬行進と楽団に続いて、トーマス・ネーガーほかの音頭取りによる路上ダンス大会。午後には、明日のツークの山車も入ってきて、先行展示。

 とはいえ、日曜だから店はみんな閉まっている。それどころか、明日のバカ騒ぎに備えて、ガラスに分厚い合板を張ってガードしている。うらうらと多くの人が出てきてはいるが、どことなく嵐の前、という感じが漂っている。

子供仮装行進(ユーゲント・マスケン・ツーク)

ユーゲントツーク

 ケルンとマインツは、ほぼ同日程だが、その他の都市は、バッティングを避けて日程をずらしている。本当は最初の木曜が「女のファスナハト」で、その他の都市ではファスナハトのどこかで女性だけのパーティや路上ダンスをやったりする。マインツの場合、これは事実上、無くなってしまっている。

 一方、今日のユーゲント・マスケン・ツークは、すごい。子供の行進、と侮れない。というのも、来週の月曜のツークが本格的な結社団員だけによるものであるのに対して、土曜のは、実質的に、さまざまな子供団体の父母会がやっているからだ。つまり、学校単位はともかく、それ以外は、子供の行進、というより、子供を連れた家族の行進で、幼稚園から小学校、スポーツ団体、地域団体まで、ごちゃごちゃと出てくる。そのうえ、結社の連中も、当然、家族持ちが多いから、小さな子供まで完全な制服で盛装して出てくる。

 その数、60。やはり11時11分に始まるのだが、なかなか広場まで来やしない。なにしろ学校関係は1団体のやたら人数が多いし、歩くのが精一杯の小さな子供たちの幼稚園団体もある。途中で歩き疲れたとか、一人二人、どこかへ歩いていなくなってしまったとか、いろいろあるのだろう。うまい団体は、子供たちをドラゴンの仮装ということにして、一列につないでしまっていたりして。これだと安心だ。

 見に来ているのは、一般の人々も多いが、当然、応援に熱心なのが、ツークに出ている子供の親兄弟やおじいちゃん、おばあちゃん。もうカメラやビデオでたいへん。日本の運動会や学芸会と同じだ。そのうえ、マインツのは、テレビで全国に生中継。出る方も、準備の気合いが違う。

ファスナハト結社とハレ・ジッツンク

 で、昨日から始まったファスナハトだが、今日は街へ行っても、まったくふつう。仮装している人なんか、いやしない。今日、仮装していると、ほんとのバカに見えるだろう。だいいち、今日、出てきたって、屋台も、遊具も、セッティングは終わっているが、まだやっていない。

 クリマ(クリスマス・マーケット)の方は、ちかごろ観光客にも人気だが、ファスナハトは、1週間に渡る行事なので、外国人、それどころか街の外のドイツ人にさえ日程がわかりにくい。

 前にも書いたように、ファスナハトは、古い冬鬼払いのカーニヴァルから派生したもので、プロシアではなくフランスを支持した西ドイツ・ライン河流域のケルン・デュッセルドルフとマインツ、その他の大都市でナポレオン戦争後に誕生した。だから、プロシアそのものであるベルリンや、日よったバイエルンのミュンヘンではやらない。ファスナハトの特徴は、村一団のカーニヴァルと違って、革命メイソンリーの流れをくむ多くの軍隊式フェライン(結社)が中心となることで、これらが昼間のシュトラーセ・ツーク(通りの行進)と夜のハレ・ジッツンク(ホールの会合)を繰り広げる。

 ファスナハトが最初に始まったのはケルンだが、マインツは二〇万人都市にもかかわらず、百万人都市のケルンより盛大なファスナハトを祝う。こんなことができるのも、都会化してしまったケルンより、マインツは周辺町まで含めて地元フェラインが強力だからだ。全部で、およそ七〇団体がある。もっとも古く大きいのが、1838年結社のMCV(マインツァー・カーニヴァル・フェライン)で、ここが全体を取り仕切っている。これに対抗するのが、普仏戦争後にできた1899年結社のMCC(マインツァー・カーニヴァル・クラブ)で、ここは芸達者なメンバーが多い。そして、同じく普仏戦争後にできた1892年結社の隣町のGCV(ゴンゼンハイマー・カーニヴァル・フェライン)と、対岸の米軍基地周辺で戦後にできた1947結社のKCK(カーニヴァル・クラブ・カステル)が勢力を誇っている。この四大結社のほか、いくつもの新興結社があり、また、街中のさまざまな団体や同好会が独自に結社したり、その他の周辺町もそれぞれの結社を持っている。

 しかし、これらの結社は、ファスナハトを背後で支えているので、そう簡単には表に出てこない。昨日のシュトラーセ(通り)での開会式などは、音頭取りの連中が一般市民を引き込んでいるだけで、夜の20時にはお開きになった。一方、今日は、じつはハレ(ホール)の方で、「メーンツ・ブライブト・メーンツ(マインツはずっとマインツ)」が行われる。これは、先の「ナルハラ(ヴァルハラのしゃれ、おバカの宮殿)」と並ぶマインツ最大のファスナハト・ジッツンクだ。

 各結社の幹部が勢揃いして壇上に控えているが、近年は、団員は来週のツーク(行進)の準備に忙しく、各結社のスターやその一部が交代でステージに上がるだけ。むしろ、マインツの場合、ハレ・ジッツンクは一般市民に開放され、結社の資金集めとして、ファスナハト前からやたら何回も公演されるようになってきた。アリーナで40オイロくらい。オクトバー・フェストなどと違うのは、食事なしで、ほとんどだれも飲みもしない。それでいて、19時開場、20時開演、すごいところでは3時終演、さらには実際は翌朝まで、笑って、歌って、バカ騒ぎを続ける。

 テレビでも、こういう各地のハレ・ジッツングが中継される。言ってみれば、ドイツ西部全域を巻き込んだ一大学芸会。町のふつうの人が、一年かけて練習をしてきて、お笑いをやったり、オペラや流行曲を歌ったり、バレエやダンス、手品や曲芸、なんでもあり。そりゃ数時間では終わらない。 

へらう! カーニヴァルが始まった!

ファスナハトステージ

例のごとく、11時11分にファスナハトが始まる。ったって、まだ露店などの準備もできていないうちから、持参のシャンパンで騒ぎ始める。だって、バカなんだもん。だけどさ、ガラス瓶のかけらが散乱しているから、見物は安全靴でないと危ないよ。

スーパーの中でもこのとおり。
ファスナハト1

ちょっとイノシシ狩りに行くらしい。
ファスナハト2

この御夫婦ははるばる宇宙からいらっしゃいました。
ファスナハト3

目がチカチカする方々がいっぱい。
ファスナハト4

無線機まで持っているけれど、スコットランドヤードのニセ警官さんたち。
ファスナハト6

すでに昼から酔っぱらって、目つきがおかしいお姉さんたち。
ファスナハト7

中が腐って持ち去られたグーテンベルクの銅像も、こんな姿で御復活!
ファスナハトグーテンベルク

物語工学とニーベルンゲンの歌

 ニーベルンゲン、という名前くらいは聞いたことがあるだろう。音楽好きなら、ワグナーの楽劇で知っているにちがいない。しかし、どういう話か、となると、はなはだ怪しいのではないか。ひどいのになると、おおまじめに、北欧神話だ、などと言うやつまでいる。

 オーストリアから北欧まで知れわたって、さまざまに改変されているが、この話、もとはゲルマン族ブルグンド(ブルゴーニュ)王国の物語だ。ただし、いまのフランスのブルゴーニュではなく、当時はライン河畔のウォルムスに、その宮廷はあった。

 古い形では、この宮廷で2つの事件があったらしい。ひとつは、四三七年の話。王妹は、フン族の王と政略結婚させられた。フン王は、王妹に、兄王をウィーンの東、エッツエルベルクまで呼び寄せさせた。兄王はとらえられ、財宝を要求されたが、これに応じないまま、殺された。王妹は、フン王との間の二人の王子を焼いて晩餐に出し、城に火を放って、みずからも果てた。

 もうひとつは、それから百年後、五四〇年頃の出来事。鍛冶屋の男(もしくは王の部下)が王妹に恋した。兄王は、北欧の王女との自分の結婚を手伝うことを条件にした。男は、兄王の姿で北欧に行き、王女に求愛し、王女を連れ帰った。兄王は王女と婚礼を挙げ、男ももまた王妹と結婚した。ところが、王女は、王妹を、身分の低い夫を持っている、と言って罵った。すると、王妹は、王女に、そういう夫にそそのかされたのはおまえだ、と、秘密を暴露してしまった。王女は、王に王妹の夫を殺させた。

 紆余曲折の後、二人の王妹が同一視され、二つの話の前後が逆転し、夫を殺された王妹がフン王と再婚させられて、兄王に復讐する話になっている。こうして、千二百年ころ、ラインではなくドナウ河畔のパッサウあたりで、『ニーベルンゲンの歌』が確立される。それが、あちこちに広まって、ごちゃごちゃとした外伝や異聞を引き寄せ、それから数百年後に創られたワグナーの物語は、アーサー王伝説だのまで取り込んで、まったくオリジナルなパスティーシュ(ガラクタの寄せ集め)になっている。

 こういう物語の構造を分析したり、その組み合わせや組み換えの変遷を考察するのが、物語工学。ややこしいのは、古い物語より、新しい物語の方が古いエピソードを取り込んでいたりすること。しかし、組み合わせや組み換えにおいては、人物の同一視や、愛憎の一貫性の整理が行われ、ひとつの物語へと収斂していく。もっとも、無理につじつま合わせがなされた物語よりも、古い生の物語の方が、ダイナミックで、情念深かったりするところがおもしろい。

ファスナハトという素人演芸大会

 前にも書いたが、カーニヴァル、と言っても、このあたりのものは、ナポレオン戦争以前のカーニヴァルとはまったく異なる。伝統的なカーニヴァルというのは、冬の終りを告げるもので、キリスト教の復活祭につながる断食前に、残りの冬の備蓄を食べ尽くすバカ騒ぎの祭りだ。それがスペインでは火祭りになり、また、ヴェネツィアの仮面舞踏会になる。

 しかし、ヨーロッパ、とくにスイスやドイツ、オーストリアでは、キリスト教より古い起源を持ち、むしろ日本や中国の節分(鬼やらい)に似ている。聖ニコラオスの日(12月5日)に冬の到来として登場した鬼たちが、カーニヴァルに暴れて、バラの月曜に行進して去っていく。だから、彼らは、恐ろしい仮面をかぶって、沿道の人々にいたずらをする。

 ところが、西ドイツ(ケルン、デッセルドルフ、マインツ、そして、フランクフルトやアウグスブルク)やフランスのアルザスでは、ナポレオン戦争以後、まったく違うカーニヴァル、「ファスナハト」(ファストナハトとも、ファッシンクとも言う)を始めた。その中心になるのが、ナ−ル・ジッツンク(オバカ会議)と呼ばれる素人演芸大会だ。ステージでは、オバカ議長を中心に、次々と街の素人たちが出てきて、玄人はだしの芸を披露する。漫談はもちろん、コント、ダンス、バレエ、手品、なんでもあり。とにかくよく練習してきている。衣装なども本格的だ。フルのブラスバンドがオチを強調し、みんなで笑って歌って、およそ3時間、これがファスナハトの3週間前くらいから、あちこちの街のホールで繰り広げられる。子供の大会もある。バイエルンのビアフェストに似ているが、酒は無し。

 この時期ばかりは、床屋が音頭取りになったり、靴屋が喜劇役者になったり、とにかくみんな楽しそうだ。ただし、昔から地元に住んでいる名士が中心で、周辺新興住宅地の人々は入り込みにくい。それでも、あちこちのオバカ団が、1月から団員を新規に募集しているので、ラッパなどができれば、すぐに仲間になることができる。ただし、彼らがこのお祭りにかける気合いは半端ではないので、制服など、かなり物いりになるだろう。

 なんにしても、ニュルンベルクのマイスタージンガ−のように、ドイツの一般市民の演芸志向は根強い。この国では、音楽も、絵画も、ダンスも、ふつうに本業を持つ一般の人々が自分でやって楽しむべきもので、無理やりテレビや新聞雑誌が売り出したヘタなアイドル・タレントなど成り立つ余地はない。 

ドイツのヴァレンタインデー

 これ、この国の習慣じゃないよね。母の日やハローウィンなどと同様、十年くらい前にテレビドラマとともにアメリカから入ってきた。ドイツのデパートは熱心だが、スーパーその他はまったく乗る気がない。だいいち時期が悪い。気分はバカ騒ぎのカーニヴァルで、しっとり告白するヴァレンタインなんか知ったこっちゃない。

 あんのじょう、デパートは、売れ残りだらけ。こっちでは、告白チョコだけでは市場が小さいと見て、夫婦でも、男から女へでも、なんでもありにした。だから、一階
のヴァレンタイン。コーナーは、チョコだけでなく、コフレ(香水などの化粧品セット)やチューリップなど、いろいろ並べられている。しかし、結局、売れ残り。午後になったら、50%オフで投げ売りを始めた。それだって、足を止める人は少ない。というより、半値だったから買ってきた、って、贈り物をもらってもねぇ。

 日本でも、バブルのころ、4月23日に「サン・ジョルディの日」とか言って、恋人に本を送りましょう、とやったけれど、まったく定着しなかった。シェイクスピアの命日だ、って言われたって、もともとシェイクスピアは、本とは関係ないじゃん。スペインの猿マネだけして商売に利用しようとするから、無理が出る。いっそ、芝居の日にでもすればよかったのに。

 それにしても、どう考えてもドイツでヴァレンタインデーは無理だよな。チョコなんか、一年中、バリバリモグモグ大量に食べているし、トリュフチョコなんか、珍しくもない。高級チョコ専門店は、日本人観光客で賑わっているけれど、そんなところに行かなくても、スーパーに良いチョコがいくらでもある。

 それより、また引っ越しの季節だ。大学などの冬学期が終わって、復活祭明けまで長い春休みになる。スーパーでは、引っ越し前に塗るペンキなどがセールになっている。春になったら新しい生活を始めようと思うのは、世界共通だ。 
 

ホロコースト問題

 ドイツ出身の現教皇ベネディクトゥス16世の周辺が揉めている。去る1月21日に教皇が聖ピオ十世司祭兄弟会リチャード・ウィリアムソン司教ら四名の破門をひそかに解いていたからだ。そのことが知られるようになると、ドイツ中が大騒ぎになった。だが、この事件、背景がややこしい。

 そもそもウィリアムソン司教という個人が批判の焦点だ。ヒステリックな引用が多いが、本人の弁を正確に言うと、彼は数十万人のユダヤ人が虐殺されたホロコースト自体は否定してはいない。ガス室が無かった、とも言っていない。だが、今でも、ガス室で死んだ者はいなかった、と、言い張る。(BBCによる本人インタヴュー)そうでなくても、舌禍の多い人物で、彼のこういう主張が誇張されて、ガス室は無かった、ホロコーストを否定した、として吹聴されている。そして、本人の意図を離れ、そういう人物として、一部の人々の支持を集めている。だから、イスラエルのガザ侵略に呼応して、なぜこの時期に、そんな人物の破門を解いたのか、と、世界中のカトリック、そして、ドイツはもちろんフランスの知識人たちが騒ぎ始めた。

 だが、もともと前教皇ヨハネ・パウロ二世が1988年に聖ピオ十世司祭兄弟会の彼ら四名を破門にしたのは、彼らがホロコーストを否定したからではない。現教皇ベネディクトゥス16世だって、ホロコーストの否定は容認しない、と繰り返し明言してきている。問題は、聖職任命は教皇の承認を要するのに、聖ピオ十世司祭兄弟会が勝手に四名を司教に取り立ててしまったことにある。これは、カトリック教会の中では、明らかな越権だ。だから、本来であれば、当時、聖ピオ十世司祭兄弟会そのものを異端として破門にすべきだった。それができずに、四名だけを破門した。

 では、聖ピオ十世司祭兄弟会とは何なのか。普仏戦争直前の反プロシア=反ルター派の風潮が高まる中で、1868〜69年に第一ヴァティカン公会議が開かれ、当時の最新の話題だった進化論その他の近代科学思想を徹底的に否定し、教皇首位説および教皇不可謬説を強引に採決した。その結果、カトリック教会は、その後、多くの国々で蒙昧な妄信として多くのまともな支持者を失い続け、むしろファシズムとも怪しい関係を築かざるをえないようなことになってしまった。

 まして戦後においては、第一ヴァティカン公会議の路線「パストル・エテルヌス」が絶対的に存続不能、それどころかカトリック教会そのものが崩壊の危機に瀕していることは、もはやだれの目にも明らかだった。このため、1962〜65年に第二ヴァティカン公会議が開かれ、カトリック教会は、大胆な近代化に踏み出した。自国語でのミサを容認し、ミサの形式さえも教会に委ねられた。とくに大きな展開点だったのが、カトリックがまさに普遍教会として、ルター派やカルヴァン派はもちろん、ユダヤ教やイスラム教さえも、そして聖職者だけでなく、すべての人間の集団に対して、神の聖性への招命を認めたことだ。

 これは、第一ヴァティカン公会議の立場を固持する独善保守派からすれば、まったくの変節としか思われなかった。このため、アフリカを含むフランス語圏カトリックに権勢を誇るルフェーブル大司教を中心に、1970年、聖ピオ十世司祭兄弟会が結成された。聖ピオ十世っていうのは、第一次世界大戦直前の法皇で、ルルドの泉の調査で有名だが、スイス衛兵を廃止しようとしたような改革主義者で、いくらフランス・カトリックの大者とはいえ、なんで彼らがこの教皇の名を担いだのか、よくわけがわからない。

 いずれにせよ、カトリック側は、こういう独善保守派=原理主義者の対応に苦慮。その間にルフェーブル大司教は、第二ヴァチカン公会議で認められたシドニス(司教会議)主義を逆手にとって、1976年、勝手に司教を任命し始める。しかし、聖職そのものは秘蹟なので、いまさら取り消せない。あわてて翌日に、とりあえずルフェーブル大司教をSuspensio(聖職中止)にしたが、それは文字どおり中断であって、それ以上の処分ができず、その隙に聖ピオ十世司祭兄弟会は、第二ヴァティカン公会議をののしり続けて、日本を含め、世界に独自のカルト教団を形成してきた。この兄弟会は、明確な反共産主義で、ローマはソ連と共謀している、と批判する。そのうえ、この兄弟会は、反ユダヤ、反イスラム(反トルコ・反北アフリカ)なのだから、兄弟会の意図はともかく、そこに外国人排斥を暴力的に訴えるネオナチがすり寄ってこないわけがない。

 ナチ、というと、ドイツを連想するかもしれないが、第二次世界大戦前、反共産主義のナチ連中は、フランスやイングランド、オーストリア、アメリカに大量にいた。そして、旧ドイツ・ナチの残党の影響もあって、ネオナチも、ドイツではなく、むしろイングランド、ポーランド、ベルギー、アルゼンチンなどで、いまや公然と活動している。だから、ドイツ、そして全ヨーロッパが、このキリスト教原理主義のカルト教団を恐れているのだ。

 ウィリアムソン司教本人や聖ピオ十世司祭兄弟会そのものについての神学的な議論は置くとしても、その周辺がキナクサイことは、ヨーロッパではもはや公然たる事実だ。自由主義を採用し、教皇批判を容認したカトリックとしては、教皇首位説および教皇不可謬説を唱えながら、執拗に教皇を攻撃し続け、勝手にカトリックとして活動する聖ピオ十世司祭兄弟会に対して、どう応じるべきか、たしかに難しい。ルターやカルヴァンのときのように、きちんと手切れをする決断力の無さが、こういう中途半端な状況を招いた。別の教会なら別の教会で、かってに主流を名乗っているだけで、お互いに問題はないのだが。

 それにしても、イスラエルのガザ侵攻が国際問題になっているこの時期に、かつてヒットラー・ユーゲントに属していた現教皇が、聖ピオ十世司祭兄弟会との関係回復を試みること自体、現代の政治状況を読み間違ったと言わざるをえない。ドイツ司教会議代表のロベルト・ツォリチュ大司教は、まさに第二ヴァティカン公会議の路線において、もはやはっきりと教皇を批判しているし、ただでさえ絶大な人気があった前教皇のカリスマ性と比較されやすい状況にあるのに、現教皇は、やらんでもいい余計なことに手を出したこの始末を、いったいどうつけるつもりなのか。

 聖ピオ十世司祭兄弟会の方も、ウィリアムソン司教のような、会のイメージダウンになるだけの任命に不備があった人物を無理に抱え込んで、いま、その破門撤回を教皇と交渉することに、いったいなんの意義があったのか。それ自体、真意を疑われかねないではないか。ガス室が使われたかどうか、なんて、使われたかどうかもよくわかならければ、使われなかったかどうかももよくわかない。わからないことを断言すること自体、神に対する越権だと思うが。神に対して越権をすることは、教皇に対して越権すること以上に罪は重いはずだが。

 しかし、ドイツのカトリックの専門家たちのコメントでは、ベネディクトゥス16世はもともと完全な「確信犯」だ、と分析されている。実際、この一件、かつてヒットラーが合法的に独裁者に成り上がり、ナチを独裁政党にした経緯をまさしく思い起こさせる。しかし、そうなると、ルター派との和解を進めるエキュメニズムに熱心なドイツ・カトリックそのものが、教皇から離反する可能性がある。また、フランス・カトリックも、兄弟会のような独善保守派は、教会組織の中枢にはいるが、一般信徒は、知識人や政財界の重要人物を含めてリベラル派で、実際の教区基盤を失うだろう。もとはと言えば、第二ヴァティカン公会議の回勅「フマーネ・ヴィテ」に含まれていたシドニス(司教会議)主義自体が、こうなる結果を含んでいたのだが。

春はオバカの血が騒ぐ

カウフホーフ特設コーナー

これ、マインツだけなのだろうか。こっちの大手チェーンデパート・カウフホーフでは、1フロアがカーニヴァル衣装の特設販売コーナーになっている。定員も、オバカなかっこうでうろうろしているし、あちこちで、ピエロはもちろん、ニワトリだの、フラメンコダンサーだの、海賊だの、わけのわからない衣装を試着している。小物も充実。ウィンチェスター銃から、王冠まで、なんでもある。

とにかく気合いが違う。ここで売っているのは、まあパーティ衣装で、せいぜい100オイロだが、古顔の連中は、団体で数千オイロのチーム衣装を作る。そうでなくても、特注仕立ては当たり前。人と違ってこそ、オバカというもの。だから、自分で作る人もいる。布地も蛍光オレンジや蛍光グリーン。絶対に車にひかれなさそうな彩りだ。

本屋もすごい。店頭のトップに並ぶのは、化粧術の本。ネコやライオンから、上級向けのトラやヒョウ、そして、定番のさまざまなピエロ、さらにはモンスターのいろいろまで、どうやってペインティングするか、写真入りで図解。こんな本があるだけでも驚きだが、それが何社からも出ていて、ずらっと並んでいるので、さらに驚く。

もう来週は、ふつうの服装で、ふつうの顔で街を歩いているのは、頭がおかしくなったんじゃないだろうか、と思われそうな雰囲気だ。広場には、すでに特設ステージもできた。テレビでも、ヘラウ!ヘラウ!ヘラウ!と、何時間も、何日も、がんがん素人演芸大会が繰り広げられている。みんな芸達者だ。政治家も、こういうときは、ヘラウと言って出てきて、ちょっとしたバカ話の話芸でもやってみせないといけない。それがけっこううまかったりして。逆に、プロのカバレティストは、ここしばらく、ちょっと影が薄い。そりゃ、ふつうの人たちに、ここまで力を入れてやられたんでは、出番がなくなる。

出遅れては買い損ねる、とばかりに、私もいろいろ試着してみた。けっこう楽しい。ただし、日本のコスプレみたいに、本気なのはシャレにならん。ダースベーダーとかも置いてはあったが、ああいうのは人気がない。できるだけバカっぽい方がウケる。で、いったいなにがバカっぽいか、となると、悩むところだ。

カウフホーフ特設コーナー2

春の風の匂い

カーニヴァル飾りのマインツ駅

 あいかわらず寒い。イングランドは大雪だとか。ロンドンの街でスキーしているバカがいた。それを何十人ものカメラマンが写真にしている。どっちもどっちだな。

 マインツも、ときどき白い羽のように軽やかな雪がちらつく。でも、窓を開けると、土と木の匂いがする。よく見れば木々に葉の芽がついている。鳥の声も変わった。春が近いんだ。

 いろいろ来年度の仕事の話もいっぱい入ってきて準備で忙しい。まあ、繁盛しているのは、この時代に悪いことではないが、慌てて雑な仕事をするのも嫌だ。かといって、気力や体力が無限にあるわけでもないし。人間、遊びと仕事のバランスが大切だな。

 先生方から食事会に誘われているのだが、みんな、あれこれ予定があって、のばしのばしになってしまっている。再来週になれば、冬学期が終わるので、一段落。もちろん少しも暇になるわけではないが、講義の準備の自転車操業状態よりはましになる。

 その後は、いよいよカーニヴァルだ。まさに冬と春の間の第5の季節。春ではないけれど、もう冬でもない。オバカが浮かれる木の芽時、というやつ。きっと今年も、いいことがある。だって春だからね。
マインツの時刻と天気
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Profile
純丘 曜彰
すみおか てるあき 

美術博士(東京藝術大学/美学)、文学修士(東京大学/哲学)、東海大学准教授、ドイツ・ヨハンネス=グーテンベルク(マインツ)大学客員教授を経て、現在、大阪芸術大学教授。専門は哲学、メディア文化論。

東京生まれ。東京大学教養学部1組(横断インタークラス)、同文学部哲学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻修了。テレビ朝日報道局報道制作部ブレーンとして『朝まで生テレビ!』を手がけ、現職に至る。

wikipedia 純丘曜彰
純丘曜彰の映像論


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office SUMIOKA publishing
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