笠井順八

2011年08月30日

人のため、地域のために生涯を尽くした笠井順八

前回は、笠井順八の記念像について記事を書きましたが、今回はさらにその人物像に迫ってみたいと思います。笠井順八は江戸から明治、さらに大正と3つの時代を生きた実業家で、地域の発展のためにその生涯を尽くしました。

順八は、天保6年、萩の貧しい武士の家に生まれ、6歳のとき、やはり貧しい武士の笠井家に養子に行きました。幼い頃から頭の良かった順八は、昼夜を問わず勉強し16歳で大学生になりましたが、身分により扱いが異なる当時の風潮に嫌気がさして大学を中退してしまいます。しかし、その後も一人で勉強に励んだ順八は、役人として徐々にその能力を発揮していき藩の財政担当職や県勧業局で才腕をふるいました。

笠井順八3出世を目指す同僚たちがみな東京に出ていくなか、順八は県の役人として一生懸命働きました。順八のような優秀な人材を田舎に置いておくのは勿体ないと、政府の偉い人たちから随分上京を勧められましたが、がんとして聞き入れませんでした。順八はみんなの生活が少しでも良くなるように、地元で頑張る覚悟をしていました。

さらに、役人よりも物を生産する仕事をしたいと願うようになり、とうとう県庁を辞めてしまいました。

そんな時、昔の同僚から「燃えない倉庫があるから見に来ないか」と誘われました。出掛けてみると、そこには石と石を継ぎ合わせて作られた建物がありました。接合部分には白い泥が固まってくっついています。これが、石と石をくっつけるセメントでした。粉なのに、水を加えると岩のように固まりびくともしない不思議な接着剤。英国から輸入したものでした。将来の土木事業に欠かせないものだと一目でその価値を見抜いた順八は、一人セメントの研究をはじめました。この頃、官営セメント工場が東京の深川にできたので、足繁く通い始めました。

順八はすぐにでもセメント事業を始めたかったのですが、工部卿の井上馨が、大理石を製品化する事業を勧めてきました。この頃、文明開化のシンボルともいえる洋風建築が増え、大理石の需要が急速に高まったからです。しかもその有望な鉱脈は山口県にありました。順八は石が出るという秋吉村に出かけ、大理石の大鉱脈を発見し、製品化しました。

大理石事業を始めたものの、順八はセメントのことで頭が一杯でした。

セメント3セメントを作るには、石灰粘土、それを焼きあげる燃料(当時は石炭)が必要でしたが、当時、小野田には炭鉱があり、石炭は豊富にありました。石灰も対岸の福岡県の恒見から調達できます。さらに、地元の有帆川では良質の粘土が沢山とれました。
つまり、小野田ではセメントの原材料が簡単に揃うことが分かったのです。


意を決した順八は、仲間に声をかけて出資者を募り、政府からもお金を借りて、明治14年、ついに日本初の民間セメント会社を立ち上げました。

順八の狙い通り、セメントの需要は徐々に増え、やがて市場は急速に広がっていきました。セメント事業に参入する者もでてきました。いずれ国内では生産過剰になると考えた順八は、海外に目を向けました。明治23年、順八は中国やシンガポール、オーストラリアなどにセメントを売り込みます。これがうまくいき、この年、約37トンの輸出に成功しました。

ロゴちなみに、創立以来のセメント製造会社のトレードマーク(登録商標)はドラゴンです。これは、中国輸出を意図して順八が考案しました。龍は「水を得て化成し天に昇る」と言い伝えられていることから、セメント会社にふさわしい図案と言えます。また、上昇する龍の姿に会社と地域発展への願いが込められていました。

(←)小野田セメントのトレードマークの龍



順八の地域に対する思いは並々ならぬものがあり、セメント会社だけでなく、多くの社会事業も手掛けました。地域の生活に必要な郵便局や電力会社、警察署、銀行、農協などの設立や誘致に尽力したり、鉄道や道路を整備したりと、当時の施設で順八と関わりがないものを探すのは困難なほどです。また、順八は工場で働く人も大切にしました。今では当たり前の8時間労働ですが、日本で最初に8時間労働を決めたのは順八でした。さらに、働く若者のために夜学を設けたり、健康保険や退職金制度も設けました。

大正8年、順八は84年の生涯を閉じました。
みんなの生活を良くするにはどうしたらいいか、
地域が繁栄するには何が必要か、そんなことばかりを考えた人でした。

年を経て 小野田の里に 立つ煙
幾千代までの 栄えなるらん


順八が残したこの歌には、故郷が末永く繁栄するようにという願いが込められています。
昭和30年、住吉神社境内北側にセメントで笠井順八翁像が造られました。
昭和55年、順八は小野田の名誉市民第1号に選ばれました。

記念像2
(↑)セメントで造られた笠井順八翁像

参考(要約、一部抜粋)
『夢チャレンジ きらり☆山口人物伝 vol.2』(財)山口県ひとづくり財団
『笠井順八とその時代』 河野豊彦 著



sumiyoshimatsuri at 17:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年08月17日

笠井順八翁の大きな記念像

前回は住吉神社について書きましたが(→「海とセメント会社の守護神、小野田の住吉神社」)、神社の北側には巨大な笠井順八翁の像もありました。笠井順八は、明治期の実業家で、小野田セメント(現太平洋セメント株式会社)の創立者です。セメントの町 ・小野田の基礎を築きました。住吉神社は、笠井順八が生まれ故郷の萩の浜崎の住吉明神を敷地内に祀ったのが始まりなのです。

像は、小高い丘の広場に配置されていました。
遠景2
(↑)笠井順八翁の記念像(二紀会 中川為延 作)

気になったのが、順八翁の前方に置かれた白い球体です。この球体は大理石とのこと。順八翁の像はこの球を見つめています。なぜ大理石の球が置かれ、順八翁はそれを見つめているのでしょうか?調べてみたら、石像は、順八翁が荘年時代、秋吉の大理石事業を開発したことを表し、さらにこれをどのように利用して福利増進をはかるかに苦心している姿なのだそうです。

順八翁は大正8年に亡くなりましたが、セメント事業をはじめ地方自治・産業・教育など多方面に尽くした功績をたたえ、昭和30年にこの記念像が作られました。

像は、想像していたより巨大でした。高さは3メートルもあるそうです。
遠景4

同行した女性と像の大きさを比較してみたら、こんな感じでした。

順八翁の座る位置からはどんな景色が見えるのでしょうか。
順八翁横顔

生い茂る木々の間に、小野田の町が見えました。
景色

遠くに、太平洋セメントの工場も見えました。
工場拡大4

参考
『笠井順八とその時代』 河野豊彦 著



sumiyoshimatsuri at 03:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)