2006年06月09日

cela se produit comme ceci.

「開示するはたらきと開示されたものとの実存論的な自同性」

   (ハイデガー、存在と時間 II、渡邉二郎訳、中央公論新社、140頁)

  
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2006年05月18日

遠心力と延長

「登場人物たちのさまざまな持物は、彼らが一種の遠心力によって作品の遠い片隅にまで自らを拡張してゆくのを助ける。」

(V.ナボコフ、青山太郎訳、『ニコライ・ゴーゴリ』、平凡社ライブラリー、138ページ)

  
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2006年05月09日

家事と感情

「妹が亡くなったのは、夏の終わりだった。その年の秋は雨が多かった。洗濯物を室内の物干しに掛け、なるべく火のそばに寄せて、白黴の生える前に、けれども焦げ痕をつけずに乾かすのに、大変な精力を費やした。」

(トレイシー・シュヴァリエ、木下哲夫訳、『真珠の首飾りの少女』、白水uブックス、85ページ)

  
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2005年07月21日

失われた地を求めて

 理想郷とされていた地エイラにたどり着いたとき、彼らは求めていたはずのものの変わり果てた光景を目にするばかりだ。「着くのが遅すぎたんだ。何年もかかったから」とフランクは言う。「エストニアへ渡ろう」と、二人のフランクは小さな手漕ぎボートに乗り込む。
「何年もかかった」というこの語は、もちろん事実ではない。というのも、彼らの髭も、髪型も、彼らが散髪屋に行く金が持たないにもかかわらず、映画冒頭の登場時からそれほど伸びてはいないからだ。「何年もかかった」というこの語は、この映画が一種の形而上学であることを観客に指し示している。画面に投げ込まれるこの種の台詞の断片から、私たち観客は形而上学に、あるいはこういったほうがよければ、架空のしかし映画の中では絶対的なものとして君臨しているゲームに、参加させられていることになる。「フランクから昨日連絡あったか」という問いに「ない」と答えるやりとりの成立は、主要登場人物の全員がフランクという名であり、かつこのやりとりをしている当人同士もまたフランクという名であるという経験的に理解可能な事実を差し置いて、非経験的なある固有の文法─論理形式を凌駕するこのようなものを法と呼ぶことができるならばの話だが─がこの映画を支配していることを証示している。この映画においては固有名は匿名と同義であるのだが、そのことで登場人物たちは少しも困りはしないのだ。
 世界地図で見ると、エストニアは確かに映画の舞台ヘルシンキから海を挟んだ南に位置している。形而上学と経験的事実とのこのようなちぐはぐした混同が、観る者を惹きつけずにはおかない。と同時に、こうした混同こそがそもそも映画というものの定義ではなかったかと思い起こさせもするのだ。

 ─カウリスマキの『kalamari union(カラマリ・ユニオン)』の魅力をもう一度味わいたいばかりに、早朝4時20分からの上映(別の言い方をすれば、一夜限りのオールナイトでの最終上映)にタクシーで乗り付けることになった。「細かい説明は抜きにする」という冒頭のフランクの言葉どおり、この映画は細かい設定紹介抜きに、また上に書いたような文法的合法性の成立(それは確かに成立しているのだ)の謎(それが経験的事実にも論理的事実にも反するという形で)の根拠説明も抜きに、疾走する。15人ほど(前回観たときも、画面を睨めつつ指折り数えたのだったが)のフランクのうち、一人はハイジャックした地下鉄の車掌に殺され、一人は過去に捨てた女のいた美容院で殺られ、一人は女性の「秘書」に殺られ、一人は精神分析医にかかり、一人は恋愛し、一人は金持ちの女に連れ去られ、一人はマフィアの二人組みに撃たれ、一人はベンツを盗み続け、一人はそのベンツのトランクの中で死に、一人は高級レストランのトイレで首を吊り、三人は焚き火で夜を明かして不毛の朝を迎える(このカウントが正しければの話だが)。残る二人がエストニアに向かったフランクたちだ(むろん、以上のフランクたちが後のレニングラード・カウボーイズのメンバーたちであることは言うまでもない)。
 エイラへの脱出を目指す彼らの苦難に満ちた旅の過程は、たとえば共産主義圏であったかつての東欧から西欧への脱出のそれとはむろん趣を異にしているが、その生命のリスクと殺害される可能性の高さに関しては、ほぼ同等である。「この町では、生きていくことができない。この町の反対側にあるエイラへ向かおう」という言葉とともに画面に映し出される町の地図は、ベルリンを思い起こさせもする。しかしこの映画は、そのような現実的な解釈に安住することを許すものではなく、そうした解釈の可能性をも内包する豊かさを持っているというだけのことである。エイラにはたどり着かないか、あるいはたどり着いたときには遅すぎる。それが「細かい説明は抜きにする」この映画が観客に示唆するすべてであり、無限に反復可能な豊かさなのだ。  
Posted by summer_en_tunisie at 23:13Comments(1)TrackBack(0)映画

2005年07月04日

このような作り手のために

太陽肛門スパパーンの遜色のなさ。それは音の始まりから、そのあまりに的を得た切れ目に至るまで、途切れない。映画『レフトアローン』でその音を浴びながら思い出していたのは、2000年に UNIVERSAL SOUND から出て当時レコード屋でもよくかけられ、即買わずにいられなかった ART ENSEMBLE OF CHICAGO の "LES STANCES A SOPHIE" のB1、"Variations Sur un Theme De Monteverdi(ii)"だが、その録音が1970年のフランスであるのに対し、太陽肛門スパパーンは2004年の日本なのである。  
Posted by summer_en_tunisie at 00:47Comments(7)TrackBack(0)音楽