性悪説と性善説で6:4くらい派(中途半端な……)ですので、どうしてそう思うのかでも書いていきます。



【定義】(以下の定義は、本来の意味と少し異なります。定義しないと『どちらでもない』となってしまうためです。)
○善/他害しない、他者を助けたい、現代日本倫理観での悪事を嫌う。
○悪/他害を気にしない、自己利益でのみ行動する、悪事に嫌悪を抱かない。
○性善説/人は産まれから善で、成長するに連れて悪を覚える。
○性悪説/人は産まれから悪で、成長するに連れて善を学ぶ。
※ようするに、本来の性善説の『譲渡精神』を『他者を助ける心』に合体させ、『不正の羞恥』と『善悪の区別』を『(現日本の法律や道徳的な精神でいうところの)悪事を嫌う』に纏めています。また、性悪説の悪の意味である『弱い存在』というのを『自己の生存欲求・自己利益』にまとめてしまい、本来の意味から少し外れてしまっています。『善を嫌う』のではなく『悪事に嫌悪を抱かない』にしたのは、『悪を好む』にすると、遠ざかるどころか別物になってしまうためにやめておきました。ですから、一応は本来の説を踏まえて書く予定ですが、上記のとおり意味が違ってきます。それを踏まえてから、どうかよろしくお願いします。



【意見】
 まず、人が産まれながらにして善だった場合、子どもの頃によくある『虫を分解』する遊びなど、無知ゆえの他害を好んでしたりはしないと思うんですよ。
 集団社会などでも、どうしてもイジメは発生します。それも、後天的に善を学んでいっても(規律で縛っても)発生してしまいます。

 これらはどう考えても、人間は産まれたときは悪だからこそ、成長に伴い自立できるに連れて『法律』や『道徳』を学び、善というものを学んでいかなければ社会的に自立不可能だと教わるからこそ、社会が正常に回っていくんだと思ったのが一番の理由です。

 もしも産まれが善ならば、小さな、それこそ幼稚園~小学生くらいに多発する、昆虫や動植物へ危害を加えて楽しみや、集団で一人をターゲットにしてのイジメはないと思います。

 幼稚園や小学生なのに、いつ『善』を学べたのかという意味ですね。
 昆虫をバラバラにしたり、他人を殴ったり、いつ誰から学んだのかという。

 ですが、大多数はイジメを『ダメなこと』だと幼い頃から先生や親から、それこそ、何度も何度も言われて育ってきたからこそ、無意識下にある『悪』を『犯罪だから』『自分がやられたら嫌でしょう』『殴られても殴り返さないで話し合いで解決しなさい』等々多数の教育が上塗りするんです。

 そうすると、他害する際には、どうしても『痛がるだろうなぁ、悲しいだろうな、怖いと思うよなぁ……』と思考し自制心が効く(非道徳的な・犯罪的な行動を俊巡する)ようになるのではないかとな~と。

 犯罪が無くならないのも、人間の底にはどうしても『悪』があるためです。
 たとえば、家庭環境が酷く歪であり、なおかつ、まともな教師に会えないで、正しい教育を受けられないまま育ったーーなんて犯罪者の過去、特に連続殺人事件などには多いですよね。

 子どもの頃から不正を嫌い正義に満ちた人間と育ってきた場合、(産まれは悪であるから、不正を働く人から見るとウザい奴だと感じるほど)法や正義に遵守するように学んでいくため、社会に出てから嫌なことをされたときも、逆らわず他害せず、自分が悪いのではないだろうかと自罰的になり、犯罪ではなく自害する方向にいきやすいと思います。

 うつ病を患ったり、酷く落ち込みやすかったりするひとほど、他人に責任を転嫁できないーーそんなひと、結構多いですよね。
 というか、鬱になりやすいひととして挙げられる例などを見ても、まさしくそうだと感じます。

 逆に、自己利益のみで行動する人は、成果は自分のおかげ、被害は他人のせいに上手く自身の内で思考できるため、うつ病を患いにくいし、会社で上に登っていきやすいんです。
 ですから、実は社会で昇進したいなら、あまりにもガッチガチに善で固めないほうが良い気もしますね。ただし、正常な値まで『善』を学ばないと不正に羞恥など抱きませんので、社会人になれても、あるいは、なるまえに犯罪者となるでしょうが。

 とはいえ、悪のまま育ってきても、必要に迫られないかぎりは悪行をしない人間もいますからね。

 弱い者いじめを楽だと感じるため、また、学んだ善を越える愉悦を感じた場合、人間は他害(イジメ)します。
 破壊衝動を発散させる他害に何ら嫌悪したり羞恥を抱いたりしない人間は、殺人やら強姦などを犯しやすいです。

 こんな感じで考えているからこそ、私はやや性悪説派なのです。

 では、なぜ6:4で性善説にもポイントを振っているのか。
 それは、自己利益で生存したいという本能があれば、人間は自分の大切な人間を助ける代償に、命を賭けたりしないと思うんですよね……。

 中には他人の命を助けるために亡くなった方もいるほどです。
 そんな善性を、悪性を抑えるほど教育では得られないと考えてしまうので、善悪、4:6で産まれてくるくらいなんじゃないかな~と。

 いや、まあ、本来の説なら5対5派ですが。どちらでもない派ですが。

 いや、だって、『人の性は悪なり、その善は偽なり』では性善説の完全なる対義語ではなくなってしまうじゃないですか。
 人は弱い存在ですが、偽=人の成す行為(後々学ぶもの)とありますが、自害してまで他者を助けろとは学ばないと思うんですよ。

 性善説の他人を助けたいと思う心、不正を恥じる精神を産まながらに持つにしたって、『ありがた迷惑』という言葉もありますし、『不正』は時代によって変わりますよね。
 自分の生活が苦しいひとが、他者から助けを求められたら嫌な気分になりますし、仏教がある意味や苦行などは、普通は行わないから苦しいんだろうし、嫌だと考える人間が多いからこそ仏教側から教えるんでしょうしね(キリスト教にせよ何にせよ、救いを与えるからこそ入信する人が現れるとも考えられます。救いを求める人間を助けるような教えがなければ、誰も入りたいとは考えませんよ、多分)。

 というわけで、本来的な意味では『どちらでもない』、もっとぶっちゃけるなら『ひとそれぞれ』だと思います。
 ここに宗教学やら心理学、遺伝などを混ぜると話がぐっちゃぐちゃになるのでやりません。面倒くさいですしねw

 なんか宗教でもつくりたいです。二次元やタルパを崇拝する新時代的な宗教の幕開けをしたい気分です。スピリチュアル砂風みたいな名前の教祖になって、タルパ教と設立し、教えをつくってみたい……意外と集まるかもしれませんよ?
 いや、教祖がスピリチュアル砂風では誰も信じないでしょうけどw(話の主題が倫理学から陰秘学になっていますね、これ。いつか、つくるのに10年かかった男が語るタルパ術(10年でも完全になっていませんけど)みたいなのを書いてみたいと思っているので、次回はそんな記事を書いてみようかな? 未完成ですが、あれは失敗だったか、これはプラスに働いたからこうしようだとか、それは控えたほうがいいとか、どれがいいのだろうかとか、一回、タルパをつくってきたうえでの私なりの教訓や訓練法をまとめてみたかったので。需要なさそうですが、しばらく忘薬するためにはクスリカテゴリー以外の記事を書かなければいけませからねw)

協力オナシャーッッス↑