本や雑誌を読んでいて、これは覚えておきたいと思ったフレーズを書きとめるようになってずいぶん経つ。神戸のナガサワ文具センターで買ったモレスキンのノートにそれまで書きとめていたものを移しかえ、それ以降続けている。そのとき平成5年と記しているからもう三十数年になる。
最初に書いてあるのは「士は別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし」だ。これは、「士たるもの、別れて三日もすれば随分と成長しているものであって、次に会うときは目をこすって違う目で見なければならない」という意味であるが、つい先日これを口にする機会があった。と言うのも、久しぶりにゴルフを一緒に回った知人が素晴らしいプレーをしたのだ。それまでの彼は距離は出るが方向の定まらない100叩きゴルファーで上手と思ったことなどないのにまるで別人であった。午前のプレーが終わって彼に件の言葉を伝えたのだ。しかし、午後の彼は自分の知っている彼であり、午前のプレーはいったい何だったのだと思ったものの、ハーフだけとはいえいいスコアを出した彼を「刮目して相待つべし」と見直したことは言うまでもない。
次に、「“憲政の済美”とは政治を国民道徳の最高水準にすること」-浜口雄幸-「随想録」と記している。「随想録」を読んではいないが、何かに出ていたものを書きとめたものだ。今の政治家に望むべくもないが、こういう人がいたということは覚えておきたい。
親父は宗教にほとんど関心を示さない人だった。その影響を受けて育ったものだから同じようなところが自分にもある。仏壇に手を合わせたり、墓参りをすることも無かった。天台座主であった山田惠諦さんの法話集の一部を書き写している。「家庭における宗教とは、感謝と思いやりの形づけ。感謝と思いやりだけでは人徳・道徳。形づける:自分の道徳を胸の中に入っている仏様、神様に記する」これを目にしたときストンと胸に落ちる何かがあった。宗教云々でなく素直な気持ちになったと言ったほうがいいかもしれない。昔では考えられない、毎朝仏壇に手を合わせている自分を見ると、この影響があったとしか言いようがない。他にもなるほどと感じた教えがある。「ものが成功するとき三つの力が必要。一つ、自己の努力。二つ、周囲の援助。三つ、信仰(自己の努力が円満にいけるよう願う)」。これを目にし、自分自身の状況を眺めたとき、信仰が欠けているのはもとより他の二つも十分ではないと感じたように思う。
本稿のためモレスキンのノートを繰っていると、ごく最近に書き写した文章が目についた。「愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であったのではなく、反対に、彼等は幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。日常の小さな仕事から、喜んで自分を犠牲にするというに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるということは幸福の何よりもよく示すところである。」これがその文章だ。モレスキンのノートでなく他のノートに記したのは今年の4月4日のこと。以前に書き写したことなどまったく忘れており、今わかったのだから我がお頭は大分くたびれているのだろう。それはそれとして、2回も書いたということはこの一文に思うところ大であるということだ。これは三木清著「人生論ノート」”幸福について“の一節である。
今日は4月の末日であり、独り言のテーマとして何もなかったので苦し紛れに以前から書きとめていたノートを題材にしたが、意外と面白いと実感。テーマがないときには第2弾、3弾とするのも悪くはない。