会長のひとりごと

当社の会長である松本道彦によるコラム

75歳ちょっと立止まって②


75歳ちょっと立止まって①」をアップしたのは20231月だからちょっとどころか立ち止まりっぱなしだ。今朝、ある社員から「ブログの更新はされないのですか」と指摘を受け、大いに反省をしたところだ。実は、続きは書き上げていたのだが、少し手を加えようとし、ついずるずると今に至ってしまったのだが、お陰でその気になれたのだから指摘に感謝、感謝だ。ただ問題なのは「75歳ちょっと立止まって」が現在76歳になっているが、変更はしない。

 

親父の贈収賄容疑と高校生活の最後は予期せぬ出来事となったが、大学生活が始まった。蛇足だが、親父の事件は不起訴となった。入学当初、高砂の叔母の家から通っていたのだが、駅などで自分が落ちた大学へ合格した同級生と顔を合わしそうになると隠れたこともある。悔しさとか羨ましさとかが混じり少し卑屈になっていた。

慣れない大学構内を歩いているときれいな音楽が聞こえてきた。それはマンドリンの音色であった。近くへ行きじっと見ているとマンドリンクラブに入らないかと勧誘され、あまり考えることも無く入部を決めた。入門用のマンドリンを購入し、最初4組の弦(2本づつ8本)をただかき鳴らすだけの練習が始まった。クラブ活動をやりだすと、高砂からの通学は辛くなり下宿することにした。下宿は乗影さんという大きな門構えの有るお宅で、門の横に三畳一間があり、そこが住まいとなる。場所は東淀川区豊里町で淀川の堤防の近くで、当時は対岸へ渡るのにポンポン船を利用していた。下宿することにより当然クラブ活動に熱が入り生活の中心になっていった。夏休みになると近場では二色浜、少し遠方では鉢伏高原で合宿して練習に励んだ。思い出深いのは2回生の頃の信州での合宿だ。夜の練習が終わり、散歩に行くとリンゴ畑があり、リンゴをくすねた。よせばいいのに、いくつか持って帰ってやろうと少し高い枝に飛びついたところ有刺鉄線があるのに気づかず左頬を引っ掻いってしまった。丁度左目の真下から4,5センチほどの傷ができ、これは天罰があたったと一緒にいた仲間から大いに笑われた。練習には一生懸命取り組んだが、音楽的センスには恵まれていないと自覚するにそう時間はかからなかった。ある程度のレベルまではまじめに練習すれば到達できるが、それ以上頭一つ抜け出すにはセンスというか待って生まれた才能が必要と感じさせられた。尤もそこまで真剣に努力したかと問われると答えに窮するが、贔屓目に見ても音楽的センスがあったとは思えない。

阪マン連、大阪学生マンドリン連盟の略称であったと思うが、関西のいくつかの大学のマンドリンクラブが合同で演奏会のための練習をする機会があった。そんな折、他大学の上手な奴と自分を比べれば自ずとレベルがわかる。メンバーの1校に松蔭女子大学があり、こことの合同練習は胸躍るのもがあった。というのも「おいらちゃん」というかわいいこがおり、練習のあと親しい友人と「おいらちゃんええな~」とじゃれていると、ラブレターを書こうということになり二人で文面を考え投函した。帰ってきた返事は「松本さんは文学青年ですね」とあり、早い話ふられたということ。事程左様に楽しいクラブ活動であり、この時に得た友人はまさに宝物で、入学時には卑屈な面もあったが卒業するときにはいい学生生活であったと自信を持って卒業した。

大学三年生の時だったろうか、「測量学校へ行ってくれ」と突然親父がいい出した。その頃、親父は紆余曲折を経て測量会社を起こしていた。測量会社には測量士という有資格者が必要であり、起業時には年配の測量士を採用し、その資格で開業していたのだ。ここはやはり身内に有資格者が必要と考えたのだろう。尤も、将来を真剣に考えていたわけでもなかったので、卒業してからなら行ってもいいと東京の国土建設学院に入学する。就学期間は1年の測量専門学校であった。

この時、大学を終えてからの専門学校であり、学生は高校を卒業したばかりであろうから友人関係はあまり期待できないから、目標を決めてそれを実行する1年にしようと考えた。先ず一つは、チェーホフ全集を読み切ること。もう一つは朝のFM放送でクラシックを聴き、気に入った曲と演奏者をチェックしノートに記すこと。この2点であり結論から言うといずれも達成した。ただ、残念なのはチェックしたノートを持って帰ることができなかったこと。当初友人には恵まれないだろうと思っていたが、似たような境遇の者が何人か居り、自然と親しくなり有意義な1年を過ごすことができた。

75歳ちょっと立止まって①

 昭和22年生まれであるから昨年11月、後期高齢者の仲間入りとなった。75歳になったからといって取り立てての変化はないが、敢えて言うなら健康保険が国民保険に変わり、突然12月から3月までの保険料を支払えとの催促状にはちょっとびっくり。安くはない金額が提示されており、届いた書類に目を通し、これが後期高齢者になったご褒美かとあきらめの境地になるしかない。

 2025年問題と耳にするが、これは団塊の世代、昭和22年から24年までに生まれた者をいうのだが、この世代が2025年に後期高齢者となり、医療費、社会保障費が爆発的に増えることによる財政的諸問題らしい。その先頭を走るのが昭和22年生まれだ。

 最近の自分の言動を振り返ると、「えっ」と思うような事象が増えつつあるのは紛れもない事実だが、まあ、笑って済ませられないことも無い。これが笑いごとで済まなくなってくると問題だが、それはその時のこと。幸いにして今のところ心身とも「おかげさまで」といえる状態であるから、今のうちに過ぎ去りし日々をなぞってみるのも一興かもしれない。

 記憶の糸を手繰り幼児期に思いを致すと一つの光景がおぼろげではあるが浮かんでくる。いくつの頃だった、3歳か4歳かわからないが、座敷の仏壇の前でお袋が泣いて「一緒に死んでくれ」といっている光景だ。薄暗い座敷、お袋の前に座っている自分、その光景だけが脳裏の片隅に残っている。今もお袋は健在だから尋ねることはできるが、これは口にしてはいけないと封印している。

 高校を卒業する直前まで、極めて平凡な少年時代であったように思う。大学入試でいくつかの大学を受験したが、合格したのは1校で、そこは希望の大学ではなかった。その頃である。朝新聞を見ると、親父が赤とんぼ荘をめぐる贈収賄事件の当事者の一人として大きく報じられていた。高校へ行くと、普段冗談で「お前の親父もええことしているだろう」と軽口を叩いていた級友が妙によそよそしかったように思うが、気のせいだったかもしれない。その頃の記憶の映像がぼんやりして定かでない。恥ずかしいとか、人に会いたくないとかといった感情は全くなく、普段と変わらない生活をしていたように思う。ただ、困ったというほどのことではないが、大学をどうするか、出来るなら浪人をして再挑戦との考えもあり決断しかねていた。親父は当然家にいないから相談もできない。弁護士を通じて訊いてもらったのだが、合格したところへ行けとのことだった。

 今にして思うことだが、親父は当時40歳であった。当然公務員を続けることは無理であったし、貯えなどあろうはずがない状況で大学へ行けなどとよく言えたものだ。高校を卒業したら働いてくれと云ったとて何の不思議でもない。また、当時の自分は大学へ行くのは無理だ、働かなければと思ったかといえば、そんな考えは全くなかったように思う。どのように入学金・授業料を工面したのか、今となっては知る由もないが、ただ感謝あるのみだ。昭和618月に親父は自叙伝「越えさりし幾山川」という自叙伝を自費出版した。この中に当時の心境が記してあるので転記する。 

「鉄格子の中で、一番気掛かりなことは家族なかんずく子供のことであった。長男は大学受験を済ませて、入試の発表を待つ高校三年生であった。長女は高校一年生、次男は小学校三年生であった。留置場の冷たいコンクリートの壁には、いろいろな落書きがある。いつだれが書いたのか判らないが、その中の『子供よ許せ』という文字がなんとも切なく身につまされた。自分自身が、公務員として培ってきたものすべてが、ガラガラと音を立てて崩れていくのがわかる。四十才になったばかりであった。役所を辞めて、どうして生活をするのか。何の貯えもなかったし、目の前は真っ暗であった。三月になったとはいえ、早春の留置場の中は寒かった。支給される毛布は湿っぽくて何枚かを重ねて寝ても、ただ重いだけで暖かさはなく、眠れない夜が続いた。」

これを目にしたときは、事件から20年が過ぎていた。この時の親父の心境に思いを致せば、少々のことで苦労をしたなど間違っても言えないと自分に言い聞かす。75歳の今振り返っても、これに勝る辛いことがあったかと問われれば「ない」と断言できる。立派なオヤジであり、感謝と尊敬の念、大であるが、悪い病気があり多少余計なことをさせられたが、それも今となってはいい経験だ。

安倍元総理襲撃事件(旧統一教会「最終版」)

 安倍総理襲撃事件を当欄で取り上げたのは926日であるから既に3か月がたつ。ここらで最終としたい。

 安倍元総理が襲撃を受けお亡くなりになったとの報に接したとき、その死を悼みこの国にとって大きな損失と感じた人は数多いる。この襲撃犯はいくら憎んでも憎み切れないと思う人もそれ以上いるに違いない。しかし、襲撃犯の母親が統一教会にすべての財産をつぎ込み、悲惨な子供時代を過ごしたとの報道があったのち、何故か安倍元総理が悪かったかのような風潮を意図的に作り出そうとする報道がなされたのではないか、そんな疑念をぬぐうことができない。「安倍元総理は統一教会とズブズブ」といった活字を何回か目にした。確かに安倍元総理の祖父である岸信介元総理は、統一教会創始者の文鮮明氏と深い関係にあったことは間違いないだろう。だからといって「統一教会とズブズブ」とのフレーズが活字となって衆目を集めていいはずがない。少なくともズブズブというなら具体的実例を示すべきであり、これなくして活字にし、電波に乗せるのは死者を冒涜する所業である。統一教会の関連団体にビデオメッセージを出したことがその一因とも聞くが、これについてジャーナリストの門田隆将氏は次のように語っている。「令和311月、なぜ安倍さんはUPF(天宙平和家庭連合)にビデオメッセージを出したのか。それはUPFの国際イベントの共同組織委員長が潘基文国連事務総長だったからです。国連傘下のNGOでもあるこの組織にビデオメッセージを送ってくれと潘基文名義で要請が来て、潘事務総長時代の各国首脳たちが要請に応じてビデオメッセージや祝電を送りました。その一人が安倍さんです。それでも安倍さんは二度断ったんです。ところが、トランプ大統領もメッセージを出すということで、三度目は断り切れなかった。しかし、テレビは、これをあたかも「安倍さんだけが出したかのように報じ続けた。多くの視聴者がそれに洗脳されていったのです。そもそも政治家と宗教団体がズブズブというのであれば、なぜ公明党と創価学会との関係を問題にしないのか。つまり、今の統一教会批判キャンペーンは、安倍さんの影響を徹底して排除したいということで創り上げられたものです。併せてかつて反共政策を掲げていた旧統一教会をこの際つぶしたいという左派の思惑も乗っかっています。これを「安倍派つぶしに利用したい」という岸田総裁-茂木幹事長コンビによる自民党内の勢力争いが加わってこうなった。岸田さんは完全に自業自得ですね。」

 因みにUPF(天宙平和連合)とは統一教会関連のNGOで、創設者は統一教会教祖の文鮮明と妻の韓鶴子とウィキペディアにある。

 これを読んで今まで疑問に思っていたことが完全に解けた。左派系メディアや共産党を中心とする政党が世論を操作しようとすることは許せないが、彼らは恥も外聞もなくそういった卑劣なことをやるであろうことは解かる。最近読みかけた本に次の一節がある。「輿論を動かす最も効果的な方法は、都合のよい事実を選択し配列することにあるのです」と。まさに大手マスコミが何らかの意図をもってこの手法を用いて世論を形成していったのだと言えば言い過ぎであろうか。許せないというより情けないのが門田氏指摘の岸田総裁-茂木幹事長コンビだ。以前に「米子市の伊木隆司市長が世界平和統一家庭連合の集会に2回出席しあいさつ」と報じられたとき、伊木市長は「旧統一教会が名称を変えた団体だと認識していたしたうえで『名前が変わって、過去のトラブルから再出発しているのかな』という印象で出席した。市民には思想信条に関係なく、等しく接するのが私のスタンスなので、必要であれば何らかの接点は持ちうる」と述べられている。これがまともな対応であり、やましいところがないのなら毅然とした態度で接すればいいだけのことだ。統一教会批判はまさに魔女狩り以外の何物でもなく、意図的につくられ世論を恐れて己の保身をはかったり、それを勢力拡大に利用しようとしたのなら情けない限りだ。

 茂木幹事長の「統一教会及びその関連団体との関係について」記者会見の全文に目を通した。要は、統一教会及びその関連団体とは一切かかわりを持たないようにする、の一点張りで、統一教会は悪を前提にしている。歯切れも悪く、守勢一方であり、もう少し自党の議員を庇おうとする姿勢があってもいいと思うが、門田隆将氏の指摘どおりなら、そんなことは望むべくもない。

 1227日の週刊文集電子版に『「ヒーロー」と呼ばれ、差し入れが殺到する暗殺犯』との記事がある。ばかばかしくて見出しだけで読む気にもならないが、冗談でもこんなバカげたことを取り上げてはならない。彼は国益を大きく損なった殺人犯であり、同情の余地などあろうはずがない。こんなバカげたことが活字になるこの国は、まともな国といえるのか。マスコミの責任も大きいが国民の責任も小さくはない。本来、安倍元総理襲撃などという事件は二度と起こさないと誓うべきであるが、この国にあってはそうではないのかもしれない。安倍元総理襲撃以来時間を費やし思うところを書き連ねてきたが、「この国は何処へ行くのだろう」を結論にして終えることにする。

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