思い入れのある展覧会であればあるほど、感想がまとまらずに、うずうずしてブログにアップしかねているうちに会期が終わってしまう。そんな事がすごく多いです。
石崎光瑤展もそんな展覧会の一つです。
5月14日に会期終了してしまったのですが、余りにも勿体なさすぎるので、紹介しちゃいます。
flyer20170525
富山駅から少し離れたところに、大きな池・広い芝生に挟まれて、富山県水墨美術館があります。
museum20170525
ここで、没後70年を記念して石崎光瑤展が開かれていました。
石崎光瑤、知名度はそれほど高くないですが、琳派・山本光一(酒井抱一の弟子、山本素堂の長男)に絵画を学んだ後、竹内栖鳳に師事したという経歴を持ち、琳派と円山四条派の流派を両方吸収した稀有な画家と言えます。
福井県の西砺波郡福光町の素封家であった石崎家に生まれた光瑤は、名を猪四一(いしいち)と言い、幼少から絵を好んで描いていたそうで、当時東京から金沢に招かれていた山本光一の元で絵を学びます。この際に師匠の光一から光の字をもらい、光瑤の画号を得ます。
頭角を現し、「源義家」などの作品を残しますが、装飾性に重きを置く当時の琳派の画風に物足りなさを覚えた光瑤は、師匠に相談した結果、京都の竹内栖鳳に弟子入りを果たします。
折しも、竹内栖鳳は、2年前にヨーロッパ巡遊から戻ったばかり。西洋の遠近法や陰性法、写実主義を目の当たりにして、自らの画号を棲鳳から栖鳳に変えてまさに自己革新を、ひいては日本画壇に新風を巻き起こしている最中。
その追い風に乗るように光瑤も才能を発揮し、入門の翌年には新古美術展、9年後には第6回文展に入選、そこから5回連続で文展入選を果たします。
この時の第8回文展の出品作がこちら(この時2作品出品しており、もう一つの「春昼」は今回展示されず。)
kakeileft20170525
左隻
kakeirihgt20170525
右隻
「筧」1914年 二曲一双、絹本着色
この作品は宮内庁買い上げとなった経緯から屏風の隅に菊の飾り金具がついています。
目をひくのは一面の白い卯の花。風が吹いたのでしょうか、左隻の右下に向けて白い花びらが細かく散って華やかです。よく見ると、卯の花の間から山百合の大輪も顔を覗かせています。
卯の花の白色が左右合わせた全体にWの字に配置されるのと対照的に、奥には筧が一直線に水平に伸びています。所々細い水流が垂直に落ちていくのが涼しげですね。
右隻にはツバメが2羽、羽を休めています。のどかな自然を巧みに美しく描いています。

この翌々年、光瑤は後の作風を大きく変えることになるインド旅行に出ます。目的は3つ。熱帯の花々・森に接すること、仏教の生まれ故郷であるインドの信仰生活・建築・彫刻に接すること、そして兼ねてから登山に親しんでいた彼が憧れるヒマラヤを登攀すること、でした。
インドを広く旅行し、もちろんヒマラヤ登攀も果たして帰国した光瑤はとうとう独自の画風を確立します。
1918年、第12回文展「熱国研春」特選。hotleft20170525
左隻
「熱国研春」1918年 六曲一双、絹本着色
色鮮やかな熱帯の色彩。極楽鳥の羽根の繊細な表現には胡粉が用いられ、日本画の鳳凰図に繋がるものがあります。一方、周囲の緑がグラデーションを伴った立体感を持ってむせかえるように迫ってくる表現は当時の日本画の中で異彩を放っていたのではないでしょうか。右隻は葉の輪郭を黒く際立たせている(勾靱描き)のに対し、画像の左隻では葉が没骨法で描かれているために余計に緑が一塊となって迫ってきます。
画面に散らされた蓮や蘭、赤い百合、熱帯の花々も美しいですし、画像では見づらいですが、左隻の左上には白い小鳥が3羽戯れています。
今後の光瑤の画風を決定づけた記念碑的作品です。

光瑤の勢いは止まりません。その翌年、第1回帝展特選。以後無鑑査となります。
その時の作品がこちら。
scall20170525
右隻
「燦雨」1919年 六曲一双、絹本着色
同じく赤と緑という熱帯の色彩を用いながら、こちらでは鳳凰木の花の色に託して赤をメインに据え、そこに慌てふためくインコが画面を斜めに飛翔します。インコの表と裏が緑と黄色の濃淡で塗り分けられ、色彩に変化を与えています。左隻には孔雀の雌雄が悠然と上空を仰ぎ、胸を張って威厳たっぷり。
激しい雨によって花や枝の輪郭が滲んでおり、画面全体に緊張が漲っています。
この作品が出展された帝展を当時17歳の上村松篁が訪れており、この絵に強く影響を受け、同じ題名の「燦雨」を1972年に仕上げています。松伯美術館蔵。こちらもいつか見たいものです。

順調に高い評価を得ていった光瑤は1922年の第4回帝展では審査員を務めます。その際の出品作がこちら。
whitepeacock20170525
左隻
「白孔雀」1922年 六曲一双、絹本着色
前2作の目に鮮やかな色彩から、今後は落ち着きのある色彩に変化しました。
右隻には画面いっぱいに純白の羽根を広げる孔雀の姿、左隻にはプラタナスの幹の茶色、葉の緑、アイリスの柔かなブルー、木陰に覗く白、と色彩がバランス良く配置されます。右隻の孔雀の周りには小さな黄色の花も配置されてアクセントを添えています。
画面の隅々まで埋め尽くす描き方は日本画的ですが、決してうるさくなくむしろ清涼感を感じさせる作品です。

この年からヨーロッパに旅行に出かけた光瑤は、伊仏英蘭独など西欧各国を9ヶ月も巡遊し、アビニョンの壁画とイタリアのフレスコ画に最も感銘を受けたという。
帰国後、第5回帝展審査員にも選ばれ、日本画壇での地位を固めつつあった光瑤は、土田麦僊・村上華岳らが結成した国画創作協会に勧誘されますが、グループ活動ではなく作品制作のみで自己主張をするのが作家だという信念から断ったというエピソードが伝わっています。
その頃の作品。
fallleft20170525
左隻
fallright20170525
右隻
「秋光」1925年頃 二曲一双、絹本着色
金地に余白を活かした構成。たらし込みの赤いツタウルシと胡粉の白菊。
琳派の画風に原点回帰したような作品です。ここで琳派画風の可能性に回帰したことが、次の名作に繋がったのでしょう。

kiji20170525
「春律」1928年 二曲一隻、紙本着色
極端に余白をとった構図、雌雄の雉が対角線上に呼応し、動と静、阿と吽、響き合っています。
金地に地面の緑が映え、デフォルメされた岩の形状、料理にそっと添えた薬味のように最低限のアクセントを与えるランの花。
発表当時は手抜きじゃないか、奇抜さ狙いじゃないかなどと批判もあり賛否両論だったそうです。
どうでしょうか。僕は、初めて昨年、京都市美術館で見た時には絵の前に佇んで長い間離れることができませんでした。構図のバランスの良さ、余白の大胆さ、書き込まれた部分だけですぐに見て取れる確かな画力。しかも、今回の展覧会、この作品だけはアクリルの遮蔽無しで置かれていました。目と鼻の先に。
語りだすと止まらないので先に進みましょう。

crow20170525
「惜春」1931年 二曲一双、紙本着色
こちらも余白を意識し、カラスの黒いシルエット、その上にかかるようにあえて散らされた桜の花びら、2本の筍の計算された配置。侘び寂びを感じさせる、洗練された美意識を感じることができます。

この翌々年、高野山・金剛峯寺の依頼で襖絵を描き始める光瑤は、その取材も兼ねて二度目のインド旅行へ出かけ、ヒマラヤ登攀も再度果たします。
今回の展覧会では金剛峯寺襖絵も展示されており、全くもって稀有な機会でした。
これほどの作品が一堂に会する機会は、僕が生きている間に再度あるのだろうか、などと考えてしまいます。

感慨はさておき、新文展が開始され、第3回新文展に出品した作品。
three20170525
「晨朝」1939年 額装、絹本着色
光瑤は牡丹を「花の王様」と呼んでこよなく愛し、庭には何百本もの牡丹が咲き誇り、自ら手入れして写生を好んでしたそうです。特に朝日が露に光る早朝が美しいと言い残していて、この作品の題名「晨朝」も早朝の意味です。奥から、蕾の花、満開の花、盛りを過ぎてしなだれる花が描き分けられ、散りかけの手前が最も色気を放っています。白い紋白蝶が6羽隠れていて、見つけて数えるのも楽しみの一つ。
朝の少し霞みがかって静謐な雰囲気が表現されています。

この後、1942年には師・栖鳳を失い、その後から石崎画塾を開いて後進の指導にあたります。
牡丹からもう一作品。
flowers20170525
「聚芳」1944年 軸装、絹本着色
様々な形態・色彩を持つ花弁の牡丹が集められ、華やかです。花の下に見え隠れする白い器にも凝った文様が施され、花弁の複雑な輪郭と呼応しているようです。

この翌年には終戦を迎えて京都市立美術専門学校教授も辞任し、これから更に自由に絵筆が握れるという矢先、1946年まだ62歳の光瑤は脳溢血で倒れ、それが原因で翌年永眠します。
それから70年の歳月が流れ、今回の展覧会が開かれました。

今回、会場内は写真撮影禁止であり、展覧会画集から撮影・転載させていただきました。
また、光瑤の経歴・時代背景などについて、郷土史家・八尾正治氏の「絢爛の花鳥画石崎光瑤」を多く参考にさせていただきました。
最後に光瑤の次男・石崎宏矩氏が1994年福光美術館開館に寄せた文章からエピソードをひとつ。

光瑤の画室の隣には大きな鳥小屋があり、ねぐらに運動場も備えた小屋が6つも並んだ立派なものだったそうです。叭々鳥、鶉など様々な鳥が飼われていた中に、インコのつがいが一番大切にされていたそう。緑一色に顔の付近に黄色が混じる、言ってみれば平凡な容姿。他の鳥は写生の材料となる中で、インコは一向に写生もされず、宏矩氏は不思議に思っていたそうです。
そんな中戦況が悪化し、インコの好物の麻の実が手に入らなくなると、その麻の実を買うために宏矩氏がわざわざ遠くの出町柳まで片道40分以上かけてはるばる通う羽目に。
なぜ鳥にそこまでするのか。父・光瑤がいうには、苦学生であった光瑤がインドから帰国する際、思い描く絵画の写生のためにつがいのインコをはるばる持ち帰った。この鳥のおかげで「燦雨」を完成させることができ、この作品を境に生活に困ることが無くなった。もう今は描かなくても命の限り生きながらえてほしいのだ、と。その後は宏矩氏も快く出町柳の種苗屋へ通うようになり、2羽は天寿を全うしたそうです。

石崎光瑤、もっと評価されていい、もっとみんなに知って欲しい、そんな願いを込めて。

「花鳥画の煌めき〜没後70年石崎光瑤展」
会場:富山県水墨美術館
会期:2017年4月7日〜2017年5月14日

会期は終了しましたが、南砺市立福光美術館の常設展示でいつでも石崎光瑤の作品・デッサンなどが見られます。福光駅からバスまたはタクシーで10分強。アクセスが良いとは言えませんが、棟方志功の常設展示もあります。近くにお寄りの際には是非足を伸ばしてみてください。