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                             平成29年1月20日(火曜日)

駿府ウエイブ恒例の研修は、今年は「小和田先生と行く女城主・直虎ゆかりの地を訪ねて」でした。また大河ドラマ「女城主・直虎」が始まった事もあり、浜松はとても盛り上がっています。満松山龍潭寺は井の国湖北(浜名湖)五山の一つ。天平5年(733)行基上人開創、井伊家の菩提寺です。ドラマではおとわ(次郎法師・・直虎)が修行をする寺として描かれています。ほかに井伊谷宮・妙雲寺・井伊谷城址・方広寺・気賀関所・蜂前神社・・・・
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  龍潭寺の小和田先生     黄色い帽子が 「井の国会」の石原様・・井伊谷城址
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暖かな良い日でした。みんなで記念撮影です。笑顔が素晴らしい・・自画自賛かな

秋の初め、研修旅行先のアンケートで直虎ゆかりの地巡りに決まった時、ドラマの時代考証をされている小和田先生と行けたらいいなぁ、でも多忙な方だし、なにぶん予算がないからご無理は言えないねという話をしていたのだが、まさかまさかのご快諾をいただき実現する運びとなった。
旅程の相談に伺うと、こちらの案に目を通され、「いいですね、あと折角ですから井伊谷城址に登りましょう、それと直虎 唯一の花押が残っている蜂前神社も。」また「井伊谷には『井の国会』というボランティアガイドさんの会がありますから相談されてみては?」と助言くださり、そこからは訪問先への依頼、昼食会場の手配、セイシン観光と詳細の打ち合わせ、お土産の予約等、皆に満足してもらいたいの一念で研修部長があちこちに掛け合った。
迎えた当日。
バス車内。共保誕生の井戸が井伊家の名前の由来、呼びやすいように井~と伸ばす意味で伊の字があてられました、紀伊などもそうです。先生の講義になるほど~と聴き入るうちに最初の訪問先である龍潭寺到着。そこに『井の国会』の方々が早朝にも関わらずお出迎えくださった。是非とも小和田先生にお会いしたくて、とのことだったが、なんと午前中の行程にずっと同行してくれ、土地に不慣れな私達に近道の誘導や、井伊谷の興味深い資料が展示されている遺産センターへの案内、井伊谷城址の説明等、とても親切にしてくださった。石原さん、内山さん、小池さん。ご同行ありがとうございました。
他社同業者(!)でもある地元の方達に案内をしていただくことはたいへん勉強になり、私達自身の活動のあり方を見つめ直す良い機会。
今川・駿府と、井伊・遠江。世が世なら主従関係にあった国同士。時を経て今、駿府ウエイブと井の国会が一緒に井伊谷城の御殿跡に立っている。
こんなこと、おとわや義元など一体誰が想像し得ただろうか。そんなことをふと、井伊谷の美しい景色を眺めながら思った。

桶狭間の戦いで今川家臣として出兵し、又その後の政争で井伊家の本家筋の男性が皆亡くなってしまいます。そこで、井伊家の危機が・・・・1000年以上続く家督を守らなければと、次郎法師・井伊直虎が立ち上がります。毎週のドラマが楽しみです。



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平成29年1月19日(木) 

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2月4日土曜日に行われる駿府ウエイブ企画・・・東海道・薩埵峠を歩こう・・・の下見がありました。富士山が一年の内でも一番綺麗に見えるこの季節に駿河湾を見下ろすハイキングコースを歩きます。

興津川を渡り、昔あった川越遺跡の前で由比のボランティアさんが待っていて下さいました。  旅人は両側の川会所で「越し札」を買い、蓮台または肩車で川を越しました。
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そして、ここ興津川には面白いお話があるのです。
江戸時代・・・ 駿河の実在の
人物・安鶴さん・・・人足が川越え料金を高値で吹っ掛けたので、そんなら足を濡らさず渡って見せよう・・・と張合い、・・・・逆立ちして浅瀬を渡ったお話が「諸国奇人伝」という本に書かれているのです。詳しいお話はガイドから。

薩埵峠を超えると由比の町に入ります。丁度降りると一里塚があり望嶽亭に着きます。
脇本陣として、あわび・さざえの壺焼きが名物でした。DSC_0071_300
ここには幕末を奔走した山岡鉄舟のお話があります。時は・・・・大政奉還(1867年)の次の年、徳川慶喜公の命を受け勝海舟の依頼をうけた山岡鉄舟が官軍に追われ逃げ込んだのです。話を聞いた主人は隠し階段から舟で江尻の清水次郎長に託し、久能街道を通り伝馬町の旅籠・松崎屋に居た西郷隆盛との会談に繋がり、江戸城無血開城へと導いたのです。江戸の町は守られました。そして、新たな
明治を迎えるのです。

歴史の宝庫、由比の薩埵峠、みんなで歩いて見ませんか・・・・・


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平成28年12月18日(日)「竜雲寺のボランティア」
寿桂尼ゆかりの竜雲寺へ多くの人達が集合しました。9時から読経の後、全員で手分けして
寿桂尼の墓の回りの竹を伐採し、手から手へと渡し、下へ降ろし、枝を払いコンテナに入れる。
いつも気になっていたお墓への道が皆の力で綺麗になり、心地よい汗をかきました。

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沢山の人達が協力しました。
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綺麗になりました。
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永禄8年(1565)寿桂尼は「死後も今川の守護たらん」と願い
今川館の鬼門の方角にあたる葵区沓谷に竜雲寺を開きました。

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北街道から南に入ったこの寺は、かつては今川の栄華を偲ばせる
広大な寺であったと言う。寿桂尼の墓は寺領の飛び地にあり
永禄11年(1568)3月24日に亡くなりました。
その9ヶ月後には三国同盟を破り、武田信玄が攻めて来ました。
武田軍撤退の後、比丘尼屋敷が造られたと言われています。

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        清水区大内(オウチ)の観音さま
  清水区にある霊山寺は、大内の観音さまと呼ばれ、行基僧正が彫ったとされる
安倍七観音のひとつが安置され、創建は奈良時代と言われています。
(他は・・・法明寺・建穂寺・徳願寺・増善寺・平沢寺・久能寺にあり)
 その行基が、養老7年(西暦723年)聖武天皇が幼少の頃、病状が悪化し陰陽師に占わせた所、
駿河の国・足久保法明寺にある楠の大木が今にも命が尽きそうで、その木を切って千手観音
菩薩を彫り、七つの寺に安置せよ・・それによって病気が治癒した
・・・霊山寺には、こんな伝説があります。

      秋葉照る照る 妙音寺は曇る 大内観音さん 雨が降る

この大内観音へ向かう参道にとても面白い碑があるのです。
昔から農耕には水が必要で雨が降らねば夜も日も暮れぬ・・・
祈りにも似た、どこかで聞いた事がある、あの・・・・名文句です。  

     坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る・・・・・これこれ!


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       江尻宿本陣跡地に碑が建立されました   
 平成28年6月、旧東海道江尻宿、江尻本陣跡地(現清水銀座商店街内)に
「江尻宿本陣跡の碑」が建立されました。
慶長6年(1601)徳川家康の命により、東海道五十三次の宿駅が設置され、江尻宿は
江戸より十八番目の宿駅となりました。息津宿から府中宿に至る経路が大きく迂回
されている。これは清水湊の存在が大きく影響した。
宿内の規模は、東西全長十三町(約1.4K)、宿泊施設として本陣二軒、脇本陣
三軒、旅籠五十軒、臨時宿泊所として、妙蓮寺、妙泉寺、江浄寺、法雲寺、法岸寺、
慈雲寺がこれにあたった。
宿の諸役として、宿付(宿経営の仕事を直接負担)として、江尻、入江、辻、江尻
出作、元追分、上野原の各村。加宿(宿付の費用負担の一部を補う)として、高橋、
上清水、下清水、有東坂、吉川、北矢部の各村。助郷(宿場の人馬不足を補う、及
び人馬の徴用)として、巴川流域の三十三ケ村がこれにあたった。
これらの村名から、現在の清水区中心地の様子がうかがい知れます。

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                               (本陣跡の碑)
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(巴川河畔にある本陣木製プレート)    
(江尻宿案内板・宿跡近隣に)







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徳富蘇峰と富士山・日本平
徳富蘇峰(1863~1957)明治・大正・昭和の時代に活躍した、評論家・
思想家。明治20年民報社を創立し、「
 国民の友」「国民新聞」を刊行。
進歩的平民主義に立つ評論家として知られたが、日清戦争前後から平民主義の
立場を捨て、国権主義に転じた。第二次世界大戦中は大日本言論報国会会長と
なる。戦後公職追放される。蘇峰はこよなく富士山を愛した人物としても知ら
れ、また清水市(現静岡市)とも所縁のある人物でした。
1928年(昭和3年)66歳の時著した「名山遊紀」(名山とは富士山)に
よく記されている。蘇峰はたびたび清水を訪れ鉄舟寺に泊まっている。名山遊
記によると「・・然しながら分けて清水の不二見邊からの眺めは絶景だ。曲亭
翁も龍華寺の富士について記してゐる。然も龍華寺のみには限らない、何れも
同様であろう。予は度々鉄舟寺の招かれざる客となった。・・」

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                        (杉原山より富士山を望む)
「大正11年11月17日、鉄舟寺に一泊するや、談偶ま詩碑建立の事に及ぶ。
鉄舟寺の和尚は勿論・・何れも之に賛成し直ちにその実行を決しやがて鉄舟寺
に隣接する小丘杉原山の頂上に建てる事になった・・」

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       (杉原山への山道)            (蘇峰 詩碑)
その詩碑完成式典には、当時の静岡県知事、清水・静岡両市長をはじめ大勢の
人たちが集まり祝った。「・・大正15年10月24日、杉原山にて除幕式が
行われた。成程委員諸君の誇り説いたる通り、実に絶景という外はなかった。
當面には薩埵、清見関の上に富士山が聳え、眼下に三保の松原が横わり、駿河
湾から箱根、天城、伊豆の半島一帯は風帆出没の間にある・・」とその眺めを
絶賛している。その詩碑には「日夕雲烟住又還」「青宵縹渺是仙寰」「名山不
作不平色」「白髪昂然天地間」と漢詩で刻まれている。蘇峰会心の作である。
日本平について蘇峰は、「・・10月25日、此の山上の平地が・・・而して
其の眺望に至りては、頼山陽か耶馬渓ではないが実に天下一と申しても差支え
あるまいと思う・・・」と日本平からの絶景を褒めている。
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                           ( 日本平 吟望台)
この紀行は翌11月5日の国民新聞に掲載され、当時無名であった日本平の名
が一躍全国に広まった。のち清水市では1930年(昭和5年)から道路整備
に着手、日本平観光の発展を図る。そして蘇峰に委嘱して眺望の良い場所を選
んで命名してもらった。「望岳台」「超然台」「鐘秀台」「吟望台」の4か所
がそれであり、立派な石柱が建てられた。
日本平は静岡市が誇る景勝地であり、日本一の富士山を眺める場所として最も
相応しい場所である。
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  (日本平 望岳台)      (日本平 鐘秀台)
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(日本平 超然台)










                 
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                                     清水区三保に「命山」完成

平成28年3月13日、清水区三保貝島スポーツランド脇に津波避難用施設、
「命山」が完成しました。この地域は海抜2m前後で、東南海トラフ大地震の
際津波による浸水深は3m前後と予想されています。(静岡市津波避難ワー
クシート、三保・折り戸地区による)津波災害に対応する為、避難床高さ8m、
広さ400㎡、800人が避難出来る施設「命山」を構築しました。
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三保地域では、着々と津波対策が進んでおります。
三保地域には多くの観光客が訪れています。地域の方は勿論の事、いざと
言う時に備えて、避難場所の確認は是非知って頂きたいと願います。

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以下に主要避難場所等示します。
 羽衣松付近 新日本三景碑・四阿付近~鎌ヶ崎遊歩道松林の道 海抜15m
          前後。入口土産物店前 海抜6m 御穂神社前 海抜7m
  指定避難場所 清水三保第一小 避難床高16m 清水五中 17m
            三保ふれあい広場(旧国鉄三保駅跡)避難タワー2基 8m
 清水(三保)灯台付近 太平洋自転車道堤防高 鎌ヶ崎付近12m~清水灯台
                付近10m
  指定避難場所 (東海大付属幼稚園脇避難タワー)近々完成予定
 真崎海岸(海水浴場) 堤防高 5.8m
  指定避難場所 東海大学三保研修館 避難床高 9m
            三保シーサイドホテル福田屋 10m
『参考』
 安政大地震(安政元年・1854年) M8
 宝永大地震(宝永4年・1707年) M8
この時の津波の高さは、清水2.5~3m 折戸2m 三保3m~6mと
言われています。
6920bbb3三保第一小学校 と 三保ふれあい広場   
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