4月12日 4月定例会が行われ、元気な7名の新人さんが参加されました。今度は実地研修です。
それぞれ現場でのお客様との対応を勉強します。まず、ご挨拶から始まります。時間を守る。清潔である。これから、これから・・・・沢山覚えて下さい。 どうぞ宜しくお願い致します。
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「山岡鉄舟と静岡」講演会の報告です。
平成30年2月7日(水)午後2時から、ペガサート6階において、明治150年を記念して駿府ウエイブ主催の講演会が開かれました。講師は静岡・山岡鉄舟会事務局長の若杉昌敬(まさのり)氏と、同会幹事であり望嶽亭案内人の手塚喜和子氏です。一般の参加者も多く、会場にはほぼ満席の148名が出席しました。
講演は若杉氏のお話で始まりました。
「まず、明治維新を認識してほしい。徳川幕府がつぶれて天皇を中心とする政治が確立する過程です。勝ち負けのつけ方は世界でも珍しく、兵器を使わず交渉・会談で行われました。兵器を使っていたら、東西ドイツや朝鮮半島のようになりかねなかった。官軍・幕府に加担した英米仏に植民地化されていたかもしれない。維新がどのようにして平和な姿に治まったかがここにかかれています。」と、レジメに入っている、昭和12年東京日日新聞発行の『秘録 維新70年図鑑』からの抜粋を示されました。図鑑に次のように解説されています。
《戊辰解難録 これは慶応戊辰3月、駿府大総督府に山岡鉄舟が単身赴いて西郷隆盛と談判を行い、平穏に江戸城明渡をなすことの諒解なった経過を明治15年3月、鉄舟自ら筆記した記録である。・・・》
若杉氏は此の抜粋は、鉄舟が墨で書いたものを活字に直したもので、色々明治維新についての本があるがこれがその元になったものであるとその元の筆跡もコピーしてくださいました。活字と全く同じ文面で、これこそ江戸城無血開城の真実と確信しました。
記録は、慶応四年(1868)1月~3月の当時の世情が日を追って書かれていました。日付が書かれていなかったので、若杉氏が日付を入れました。その内容を簡単に綴っておきます。1月3日、鳥羽伏見の戦い開始。六日、幕府側敗戦。7日、慶喜追討令発す。2月12日、慶喜は上野寛永寺に移り恭順の気持ちを示す為謹慎するが、それが朝廷側に伝わらず悩んでいました。慶喜の身辺警護をしていた鉄舟も、此の状況を目にして悩んでいました。3月1日、鉄舟は慶喜と高橋泥舟に呼び出され、大総督府への使者を命ぜられる。慶喜よりフランス製短銃を渡される。5日、勝海舟を訪ね、薩摩藩士・益満休之助と駿府に向かうと告げる。
6日、益満と江戸を出発。7日,8日の記録がありません。
でも望嶽亭に語り継がれていました。望嶽亭で生まれた手塚喜和子氏のお話に変わりました。「3月7日夜、戸をたたく音が急にやんだので戸を少し開けると大男(鉄舟)が入ってきた。峠で官軍兵に襲撃されたと言う。望嶽亭主人の松永七郎平は咄嗟の判断で、鉄舟を蔵座敷に案内し変装させ、隠し階段から海へ、舟で清水の次郎長の所へ逃がした」喜和子氏の祖母そのは山岡鉄舟を助けた松永七郎平と、かく夫妻の孫の嫁で、かくと3年間一緒に暮らし、鉄舟とのいきさつを聞いていました。
昭和33年、そのはアメリカ人O・スタットラー氏にその話をしました。O・スタットラー氏は望嶽亭での出来事をもとに『ニッポン歴史の宿』を著し、アメリカでベストセラーになりました。そこで、此の伝承が世に出ることになったそうです。
再び、講師は若杉氏にバトンタッチ。望嶽亭を訪れる人々のために伝承をパンフレットにまとめたところ、作り話だと言う人がいたので、裏づけをしっかりとって『山岡鉄舟 空白の二日間「望嶽亭・藤屋」と清水次郎長』を著しました。この本を友人に見せた所、「3月7日の天気を調べたか。雨なら、夜だし、官軍は狙い撃ちできないぞ」といわれ、静岡気象台に尋ねると、昭和10年設立でわからない。もっと古いと言う沼津観測所も明治10年設立でわからない。若杉氏の粘り強さから、草薙神社の神官の日記で天候と月齢がわかり、伝承の正しさが証明されました。鉄舟は、松崎屋に着くと「西郷さんの名前は知っている。一面識なしだが会いたい」と言って、異議なく対面できました。西郷に会うなり「私の主人が恭順の姿勢を示しているのに何が何でも攻めていくのですか」とたずねると、西郷は「こちらの条件を飲んでくれるなら寛大な措置をとります。此の間、勝沼で戦いがあったじゃないか」と言いました。「脱走した一部のものがやっただけで、慶喜の意志は変わりません。一部の行動が慶喜の意志とは無関係だということを知らせるため私がやってきました」と鉄舟は答えました。
西郷が「さすがに徳川公だけあって偉い宝をお持ちだ・・。命もいらず、名もいらず金もいらぬ人は始末に困る」と評したのが実感できました。鉄舟がNHK[西郷どん]に登場しますように。
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清水区大内(オウチ)の観音さま
清水区にある霊山寺は、大内の観音さまと呼ばれ、行基僧正が彫ったとされる
安倍七観音のひとつが安置され、創建は奈良時代と言われています。
(他は・・・法明寺・建穂寺・徳願寺・増善寺・平沢寺・久能寺にあり)
その行基が、養老7年(西暦723年)聖武天皇が幼少の頃、病状が悪化し陰陽師に占わせた所、
駿河の国・足久保法明寺にある楠の大木が今にも命が尽きそうで、その木を切って千手観音
菩薩を彫り、七つの寺に安置せよ・・それによって病気が治癒した
・・・霊山寺には、こんな伝説があります。
この大内観音へ向かう参道にとても面白い碑があるのです。
昔から農耕には水が必要で雨が降らねば夜も日も暮れぬ・・・
祈りにも似た、どこかで聞いた事がある、あの・・・・名文句です。
坂は照る照る鈴鹿は曇る、間の土山雨が降る・・・・・これこれ!
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徳富蘇峰と富士山・日本平
徳富蘇峰(1863~1957)明治・大正・昭和の時代に活躍した、評論家・
思想家。明治20年民報社を創立し、「 国民の友」「国民新聞」を刊行。
進歩的平民主義に立つ評論家として知られたが、日清戦争前後から平民主義の
立場を捨て、国権主義に転じた。第二次世界大戦中は大日本言論報国会会長と
なる。戦後公職追放される。蘇峰はこよなく富士山を愛した人物としても知ら
れ、また清水市(現静岡市)とも所縁のある人物でした。
1928年(昭和3年)66歳の時著した「名山遊紀」(名山とは富士山)に
よく記されている。蘇峰はたびたび清水を訪れ鉄舟寺に泊まっている。名山遊
記によると「・・然しながら分けて清水の不二見邊からの眺めは絶景だ。曲亭
翁も龍華寺の富士について記してゐる。然も龍華寺のみには限らない、何れも
同様であろう。予は度々鉄舟寺の招かれざる客となった。・・」

(杉原山より富士山を望む)
「大正11年11月17日、鉄舟寺に一泊するや、談偶ま詩碑建立の事に及ぶ。
鉄舟寺の和尚は勿論・・何れも之に賛成し直ちにその実行を決しやがて鉄舟寺
に隣接する小丘杉原山の頂上に建てる事になった・・」


(杉原山への山道) (蘇峰 詩碑)
その詩碑完成式典には、当時の静岡県知事、清水・静岡両市長をはじめ大勢の
人たちが集まり祝った。「・・大正15年10月24日、杉原山にて除幕式が
行われた。成程委員諸君の誇り説いたる通り、実に絶景という外はなかった。
當面には薩埵、清見関の上に富士山が聳え、眼下に三保の松原が横わり、駿河
湾から箱根、天城、伊豆の半島一帯は風帆出没の間にある・・」とその眺めを
絶賛している。その詩碑には「日夕雲烟住又還」「青宵縹渺是仙寰」「名山不
作不平色」「白髪昂然天地間」と漢詩で刻まれている。蘇峰会心の作である。
日本平について蘇峰は、「・・10月25日、此の山上の平地が・・・而して
其の眺望に至りては、頼山陽か耶馬渓ではないが実に天下一と申しても差支え
あるまいと思う・・・」と日本平からの絶景を褒めている。

この紀行は翌11月5日の国民新聞に掲載され、当時無名であった日本平の名
が一躍全国に広まった。のち清水市では1930年(昭和5年)から道路整備
に着手、日本平観光の発展を図る。そして蘇峰に委嘱して眺望の良い場所を選
んで命名してもらった。「望岳台」「超然台」「鐘秀台」「吟望台」の4か所
がそれであり、立派な石柱が建てられた。
日本平は静岡市が誇る景勝地であり、日本一の富士山を眺める場所として最も
相応しい場所である。


(日本平 望岳台) (日本平 鐘秀台)

(日本平 超然台)
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