吟詠人生応援歌

西川妃泉(天乃川妃泉)より愛を込めて

日本人は古来、自然の美しさや自らの感情を、和歌や俳句に託してきました。中国人も又、五言絶句、七言律詩と表現形式は異なりますが、同じ思いをそこに込めてきました。人間の心は万国共通なのでしょうね。もちろん、熱帯地方にも寒帯地方にも詩はあるでしょうが、温帯地方で生まれた詩や歌ほど、人間の心の奥底を揺さぶるものはありません。ひとつには、四季折々の風景が余りにも美しいからでしょう。けれども、もうひとつには、人生そのものが春夏秋冬の移り変わりに喩えられるからかも知れません。だからこそ、四季を与えられた私たちは、厳しい人生の冬の真ただ中にあっても「春の来ない冬はない」と耐えることができるのです。年中「春」のような人生なら、どれほど楽だろうと思う時もあるでしょう。しかし、人生にも四季があってこそ、実り多き時間を過ごしたと言えるかと思います。私も又、長い冬を過ごして参りました。そして、晩年になってようやく、しみじみと春の暖かさをかみしめることができました。

天空より愛を込めて、この本を大切な方々に贈ります。

    

                                                                          天乃川妃泉

(目 次)

はじめに                                                            


    第一章 人生いろいろありますねえの巻              


       一、父母への想い            

       二、少女時代             

       三、小学校教師時代        

       四、出会いと別れ          
       五、子育て・孫の守りの喜び    

       六、故郷に帰る           

       七、病を受け止めて         


                                     


    第二章 自然に感動する心を養いましょの巻              


    第三章 ユーモア精神を磨きましょの巻        


   おわりに                 





             









ということで、
第一章 人生いろいろありますね
・・の始まり始まりです

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私は、昭和十一年四月十三日、淡路島で生まれました。古事記では、日本で最初に創られた島です。父の仕事の関係で、大阪や愛知に住んでいたこともありましたが、戦争が激しくなるにつれ、父方の祖母のいる淡路島に疎開してきました。小学二年生の時です。弟二人は、まだ小さかったので、私ひとりが祖母と暮らすことになりました。 父母は大阪にいましたので、年に数回しか会えません。一、二日ほど泊まるだけで、また、大阪に帰ってゆきます。「また、来るからな。おばあちゃんの言うことをよう聞いて、がんばりよ。」と声をかけてくれて、船に乗り込みます。父母の乗った船が大阪に帰ってゆくのを、突堤の上でいつまでも見送っていたものです。船が水平線に見えなくなれば、急いで小高い山に駆け登り、また船を探します。それでも、とうとう見えなくなると、今度は泣きながら家に走って帰り、勉強をしたり三味線の稽古をしたりして、寂しさを紛らわせました。そういう体験があったせいでしょうか。父恋し、母恋しという思いが、今でも強く強く胸にうずきます。
 ほろほろと 啼く山鳥の 声きけば 
               父かとぞ思う 母かとぞ思う    行 基(ぎょうき)  
 十億の人に 十億の母あるも    
              我が母に勝る母あらめやも     暁烏 敏(あけがらす はや)
   お母さんと 静かに呼びて 涙する
        涙したさに お母さんと呼ぶ   暁烏 敏(あけがらす はや) 続きを読む

淡路島に来て二年ほどで、終戦となりました。当時では珍しくラジオのあった我が家に、近所の人たちが集まってきて、玉音放送を聞きました。祖母が「ああ、終わったなあ」とつぶやいたのを覚えています。 中学卒業までは、祖母と暮らしました。淡路島は人形浄瑠璃が盛んなところです。他の子どもたちと一緒に、義太夫や日本舞踊を習い始めました。学校から帰ると祖母が「かず子、お師匠はん、待ってるで。」と、ひと息つく間もなく、練習です。真冬の海に向かって、大声を出す寒稽古もしました。そして、九才くらいから舞台に立ち始め、語りをする太夫を勤めました。好きな演目は、傾城阿波の鳴門(けいせいあわのなると)傾城阿波の鳴門、義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)義経千本桜、壺坂霊験記(つぼさかれいげんき)壺坂霊験記など・・座長として淡路島全土を回りました。ラジオがようやく出始めたくらいで、娯楽も少なかった戦後のこと、感情を込めた語りに皆さん、とても喜んで大きな拍手を下さいました。目を細めて私の熱演を見る祖母や父母。はじめて、おひねり(お金を包んだ紙)が客席から飛んで来た時は、何事かとびっくりしましたね。地元の青年たちが追っかけをして楽屋を覗きに来た時、私が九才と知って、これ又びっくりしたとか・・父母と一緒に暮らせない自分と重ね合わせるのでしょう。傾城阿波鳴門の順礼歌の段になると、最も熱の入った語りになります。  『とと様の名は阿波の十郎兵衛、かか様の名はお弓と申しますー』同級生の男の子に「ヨッ、おつる!」とからかわれたことも・・ 実はね、作詞家の阿久悠さんは、私の通っていた都志(つし)都志小学校の同級生でした。警察官だったお父様の転勤で、私たちの町に引っ越してこられたのです。いつ見ても野球をしていたという印象があります。当時の同級生の方々は、今は、地元の名士におなりですが、六十歳を過ぎても少年少女に戻って親しくおつきあいしてくださっています。ただただ、感謝! さて、当時の都志小学校には、心優しい先生方が多くおられて、両親と離れて暮らしている子どもたちに、何かと心遣いをしてくださいました。放課後や休みの日には、先生のご自宅で、焼き芋やお団子などをごちそうになったものです。父親、母親代わりになって下さっていたなあと思います。私が、大きくなって小学校の先生になったのも、やはり、この時の体験が底にあったのかも知れません。 中学卒業まで淡路島におりましたが、高校入学と同時に、兵庫県の尼崎で両親や弟たちと一緒の生活が始まりました。夢にまで見た日々。しかし、淡路島から来たのは私ひとりで、周りに知っている友人は誰もいません。けれども、先生方がとてもかわいがって下さり、河辺登志子先生を始め、もったいなくも生涯のおつき合いをしていただきました。私が国文学に関心を持ったのは、河辺先生からの大きな影響があったと思います。 私の母は、「放課後、友達と喫茶店に立ち寄って、道を誤ってはいけない」と、今思えば、超過保護政策を採用し、学校から帰ると洋裁学校に週三回、通うことになりました。初めは義務で行っていたのに、段々おもしろくなってきて、本格的にデザイナーの仕事を始めることになりました。ファッションショーなども手がけていました。しかし、勉強への関心も止みがたく、洋裁学校の先生をしながら、大学にも通いました。 弟二人は、私と十歳以上離れています。それは、間に三人の弟妹が生まれましたが、赤ちゃんの時に次々に亡くなったからです。ですから、弟と言っても、随分年が離れているので、半分我が子のような気持ちで接していたように思います。弟たちの家族が幸せでありますよう、心から祈っています。                 続きを読む

大学卒業も間近になり、教育実習で小学校に行きました。その時の校長先生とのご縁が深かったのでしょうか。卒業後は、その小学校に赴任することになりました。デザイナーから教師への転身です。尼崎市や豊中市の小学校を四校ほど経験しましたが、教師には珍しく、おしゃれな格好をした先生に、子どもたちはびっくりしたと思います。 当時は、まだ日本全体が貧しく、給食費を払えない子どもも何人かいました。でも、私は親御さんに請求するのもつらくて、自分のお給料から黙って出したことも・・在職中に娘が生まれましたが、勤務先が自宅の近くということもあり、父母に子守りを頼み、数年間は、教師を続けました。帰宅して、最初にするのが「おむつ洗い」。当時は、紙おむつなどありませんでしたので、母親としての愛情と責任感を想い起こすためにとの、母の計らいでした。ここで、青少年に贈る漢詩をご紹介したいと思います。   

          勧 学 の 文                    朱熹      
 謂うなかれ 今日学ばずして来日ありと      
  謂うなかれ今年学ばずして来年ありと   
 日月(逝きぬ )歳 我を延ばさず       
  嗚呼老いたり 是 誰の愆(あやまち)ぞや 

           才 子                            木戸孝允 
 才子才を恃(たの)み愚は愚を守る    
  少年才子愚なるに如かず    
 請う看よ 他日業成るの日  
  才子才ならず愚は愚ならず続きを読む

さて、二十二才で結婚するも、私の結婚生活は、決して順風満帆ではありませんでした。夫の心変わりを何度も経験致しました。亭主の好きな赤烏帽子と言いますが、相手の女の人を、私もまた好きにならなくてはと思って、靴を磨いて送り出したことも・・でも、心身共に憔悴し、どれほど涙を流したことでしょう。   

 なげきつつ ひとり寝る夜の 明くる間は
             いかに久しき ものとかは知る       右大将道綱母  

 有明の つれなく見えし 別れより    
          暁ばかり 憂きものはなし          壬生忠岑

百人一首を見ても、失恋の歌の多いこと。けれども、古の人の失恋に対する大らかさはどうでしょう。心の余裕を感じます。 よく「恋愛と結婚は違う」と言われます。この年になって振り返りますと、恋愛は「相手のイメージをちょっとお借りして、自分の理想像と重ね合わせて愛しているに過ぎないのではないか」と思うのです。決して、相手の全てを理解しているのではないと・・ ですから、若い方々にも申し上げたいですわ。何度、失恋しようといいじゃありませんか。あなたも相手の方も、自分の心の中の理想像を好きだと思っていただけかも知れませんよ。互いの全てがわかるには、長い年月が必要なんですもの。 よくドラマで、共演した俳優さんと女優さんが結婚したりします。ドラマの中で夫婦のまねごとをしている内に、段々愛情が芽生えてくるのでしょうね。(もっとも、役柄を本人自身と間違って結婚してしまうケースもありますけどね・・) 私は、お見合い結婚も、このようなものではないかと思いますの。初めは、燃えるような恋愛感情でなくとも、夫婦のまねごと?(本当の夫婦ではありますが・・)や、一緒に子育てをしている内に、固い固い絆が生まれてくるのでしょうね。結びつける愛と、持続する愛は、別個のものかも知れません。 ですから、私、生まれ変わったら、今度は静かな思いから始まる結婚をしたいものだと思っておりますの。相手の人柄を知る内に、後から互いにどんどん好きになる結婚を・・読者の皆様、その節は、どなたかいい方がいらっしゃったら、ご紹介くださいませね。続きを読む

結婚生活は、試練多きものでしたけれど、私は、ひとりの娘を授かりました。そして、子育てをしながら、航空公害問題に絡んで、地域と行政の橋渡し役をしたり、大阪府議会議員に立候補したり、法律の勉強のために大学院に通ったり、PTA会長、府PTAの役員として教育問題に取り組んだり・・まあ、本当にいろいろと勉強をさせていただきました。娘の通っていた小学校の校長であられた○○先生とは、終生のおつきあいをさせていただきましたね。思えば、父が老人会の会長として、老人福祉行政に関わったり、保護司として若者の更正に尽力したり、福祉活動を間近に見てきたせいか、やはり、主婦になっても、社会問題には目をつぶって見過ごすことができなかったように思います。
 あ、そうそう、娘が小さい頃、おもしろい事がありました。当時は、父母と同居していたのですが、保護司の父のところには、出所してきた若者が挨拶にやってきます。「おひかえなすって。手前○○と申しやす。宜しゅうお頼み申しやす。」と、映画さながらに、玄関先で挨拶をなさいます。そのせいか、一才の娘が「おひかえなちゅって!」と、カッコを付けている写真が残っているんですよ。ホホホ 昭和三十七年頃から、ずーっと、大阪の豊中市に住んでいました。詩吟を始めたのは、昭和四十五年くらいからだったでしょうか。小さい頃から鍛えた声に助けられ、私は吟詠の魅力にはまってしまいました。黒川哲泉先生に巡り会った時の感激は今でも忘れません。そして何年もしない内に、教える立場になり、全国規模のコンクールに出させていただき吟詠修行を続けつつ、地域の文化センターを始め、いくつかの教室をお預かりすることに・・また、航空公害問題に関わっておりましたので、空港長をされていた方や空港関連会社の社長様を始め、多くの素晴らしい方々とご縁をいただき、その方々を中心に、やがて(社)哲泉流日本吟詠協会 大阪空港支部へと発展してゆきました。私が、社会勉強や趣味の世界に没頭していたせいでしょうか、娘には、「勉強しなさい」と口うるさく言ったことはありませんでした。娘は、睡眠時間が多かった割には、いつ勉強していたのでしょうか?ソフトボールや軟式テニスで真っ黒になりながらも、勉強好きな子どもに育ってくれました。堀江先生には本当にお世話になりましたね。家庭の波風にも関わらず、もしかしたら、私の苦悩する姿を見ながら大きくなったせいか、思慮深い思索の好きな女性になりました。
 けれども、結婚相手はあれこれ深く考えずに、決めたようですね。私が運命占いをして28歳で結婚すると始終言ってたものですから、それまで男性とのおつきあいはしなかったようです。というのは 「結婚する相手は生まれる前から約束しているらしい。だから、振ったり振られたりの、ややこしい過程を経ずに、時期がきたら流れに逆らわずに結婚すればいい」と考えていたからのようです。二十九歳でお見合いの話をいただき、新たな人生を歩み出しました。当時は、嫁ぎ先が、歩いて25分のところであったのも、私にとっては嬉しいことでした。  平成2年初孫が誕生。「どうして、こんなにかわいいのか」という歌もありますが、本当にそうですね。3年半置きに、合計3人の天使が、舞い降りてきてくれました。

       しろがねも 黄金も玉も 何せんに 
         まされる宝 子にしかめやも        山上憶良

孫たちを幼稚園に送り迎えする内に、先生方と仲良しになれたことも嬉しい出来事でした。小学校の担任の先生とも不思議と気が合って、良くおしゃべりさせていただいたものです。孫たちが結んでくれたご縁にも感謝です。               続きを読む

二人目の孫が生まれ、娘が婚家に戻ったのを見届けた後、私は、長年住んでいた大阪を離れ、故郷の淡路島に戻ってきました。平成六年夏のことです。父から譲り受けた土地に家を建て、第三の人生を歩み出しました。親戚の方々も近くに居て下さるので心強かったからです。ところが、平成七年一月一七日、家が完成して三ヶ月も立たない時に、あの阪神淡路大震災が!タンスの上の箱が頭上に落ちてきて、食器は台所に散乱し、溜めてあったお風呂の水は半分に減っていました。幸い、壁にひびが入った程度で済みましたが、大阪の娘の家族が食料などを届けようとしても交通手段がなく、宅配を受け付けてくれず、余震に怯えながら、不安な数ヶ月を過ごしました。 しかし、地震の起きる数ヶ月前、(社)哲泉流日本吟詠協会の公認団体として、妃泉会を運営させていただくこととなりました。妃泉会に集ってくださる方々も徐々に増え、淡路島にも支部が増えてゆきました。ここでも又、素晴らしい方々との出会いがあり、皆様との充実した時間が地震の後遺症を忘れさせて下さったと感謝しております。妃泉会の会員のことは、私は「妃泉ファミリー」と呼んでおり、正にもうひとつの家族のようでした。今でも私の宝物です。また、月に一~二回は、大阪でも吟詠を教えていました。三宮と五色を結ぶバスの直行便ができてからは、二時間余りで大阪まで行けますが、最初の頃は、岩屋までバスで一時間。更に岩屋から明石まで連絡船に乗り、明石からJRで大阪へという三時間以上の長旅。でも、若かったんでしょう。娘や孫に会える楽しい機会でもありましたので、ちっとも疲れを感じませんでした。 淡路島に初めて哲泉流の支部ができたことで、兵庫県支部連合として、哲泉流の大会にも皆で参加させていただいたり、本当に楽しく充実した時間を過ごすことができました。中でも、ビックリしたのが、五色中学で英語教育のために派遣されてきたデール・コッカーさんが、アメリカ人で、しかもまだ年もお若いのに、詩吟を習いたいと入門されたこと。伊弉諾神宮での奉納吟やいろいろな舞台で立派に朗詠される姿に、吟詠も国境を越えた!と感慨深く思ったものです。
 そうそう、平成十二年に淡路島で開かれた花博で、吟詠のお弟子さんたちとステージに立ったのも、楽しい思い出でしたね。あの時は、万葉の花を題材に和歌を吟じましたね。私は、トーク吟詠と言って、吟詠と吟詠の合間にいろいろなお話をさせていただくスタイルで舞台に立っておりました。ある時は、父母への感謝をテーマに、ある時は、高田屋嘉兵衛、坂本龍馬など、成功の階段を昇っていった偉人たちを題材にして・・民謡の早坂光枝さんと洲本でジョイントさせていただいたことも、懐かしい記憶です。
  吟詠の他にも、ビデオ撮影や編集技術の講座、朗読・話し方教室などの講師を仰せつかり、新たな素晴らしいご縁をいただきました。年に一度の発表会、芸能まつりは楽しかったですね。皆様の心に何らかの心地よい感覚を残せたなら、私がこの世に生まれさせていただいた意味もあったかしら。 最後になりましたが、数十年に渡って温かいご指導ご鞭撻を賜りました、(社)哲泉流日本吟詠協会宗家 黒川哲泉先生、奥様の春泉先生を始め、親しくして下さった諸先生方、尺八や琴の素晴らしい演奏をして下さった先生方に、厚く御礼を申し上げます。又、流派を超えて友人として親しくおつき合いいただきました諸先生方にも、心よりの感謝を捧げさせていただきます。今世、ご縁のあった全ての皆様!皆様に出会えて本当に幸せでした。続きを読む

  娘の家族は、夏休みには海水浴を兼ねて私の家に遊びにきます。孫たちとの、大にぎわいの一週間を過ごします。ところが、ちょうど平成十年ころから、頭痛がひどくなり、大阪で精密検査をしたら、脳に疾患が見つかりました。視力も段々弱くなりましたが、行き届いた医療・介護システムに助けられながら過ごしてまいりました。診療所のスタッフの皆様のお心の温かさ、今でも忘れておりません。本当にありがとうございました。 平成十四年には右目が、更には、平成十五年暮れには左目も段々悪化。お正月準備もままならないことだろうと、娘がひとりで実家に帰ってきてくれました。年賀状を代筆してくれたり、身の回りの手伝いをしてくれたり、久々の親子水入らず。本当に久しぶりに一緒の布団に入り、三児の母になった娘の横顔をしみじみ眺めながら、心に沸いてきたのが次の歌です。 

     藪入(やぶい)りや 添い寝の我子(あこ)も早や四十路(よそじ) 
                    見つめる中に 涙(なみだ)溢(あふ)れて 

平成十六年の年賀状では、新たな出発に向けて、芸名を西川妃泉(にしかわひせん)西川妃泉から天乃川妃泉(あまのかわひせん)天乃川妃泉に改めた旨を、皆様にお知らせいたしました。私の母の旧姓が天川ということもありましたが、心の中で大きな変化を起こす決心を新しい名前に託しました。これが、私の戒名というか、こちらの世界での名前になってしまいましたけれどね・・それから間もなく完全に失明。平成十六年一月から、娘の家で同居させていただくことになりました。ご家族さまには、闘病中、数々の温かいお心遣いを、本当にありがとうございました。 さて、はじめ右目が見えなくなった時には「ああ、早く見えるようになりたい」と焦ったり、悲しくなったり・・ところが、不思議なことに、両目が見えなくなった方が、私はずっと幸せを感じていました。家族の優しさが心に染みてきます。朝、目が覚めた時、食事を終えた時、お風呂に入ったり、身体を拭いていただいた時、今まで感じたことのないような幸福感が心に一杯に広がります。それはね、きっと心の秘密を教えてもらったからだと思いますよ。

思いには、仏神の光を吸収する思いと、はじいてしまう思いの二種類がある。感謝や思いやり、朗らかさや許しなど、プラスの思いを持てば仏神の光が心に注がれ、幸福を感じるように心は創られている。反対に、怒りや憎しみ、嫉妬など、マイナスの思いを抱けば、仏神の光を心に吸収できず、何とも言えない不快感を覚える。 
心には、このように厳然とした性質がある。 だから、自分がどのような状況に置かれようとも、プラスの思いを選び取っている限り、人は幸せを感じて生きてゆくことができる。

闘病生活においては、このことを一番に心がけました。目が見えないので、娘が大川隆法先生のご法話や美しい音楽、楽しい落語を、毎日、聞かせてくれました。わだかまりのあった人の顔を思い浮かべては、その人のしたことや言ったことを許していく努力を致しました。電話をかけて、仲直りも・・するとね、お腹の底から熱いものがカーッとこみ上げてくるんですよ。それが体中に広がって、とっても幸せなんです。肩こりも飛んでいきます。 娘に世話になった九ヶ月の間に、身体は、日に日に思うようにならなくなりました。最初の五ヶ月はしっかり歩けていたのに、段々足に力が入らなくなり、そして、とうとうベッドでの生活に・・でも、自分の意志で動かせない部分があると言うことは、「肉体は、是我ならず」という真理を教えてくれているのでしょうね。私たちは、何十年かの契約で、仏さまから、地上で生活するための身体をレンタルで使わせていただいているに過ぎないのかも知れません。レンタカーみたいに、またいつかはお返ししないといけないんでしょうね。酷使し過ぎて、あちこち故障してしまって、ちょっと仏さまに申し訳ない気持ちです。  

       あすありと 思う心の仇桜     
            夜半に嵐の 吹かぬものかは    親鸞上人  

     露の世は 露の世ながら さりながら  
       輪廻転生  悠久の旅             天乃川妃泉  (小林一茶の句に続けて・・)

私は、先山そびえる淡路島に生まれましたので、真言宗の教えを身近に育ちました。結婚後は、浄土真宗も学びました。また、淡路島は日本最古の神社、伊弉諾神宮のある島。太古の昔より、神々とのご縁深き地ですので、もちろん日本神道の精神にも触れました。そして、晩年になって、幸福の科学 大川隆法総裁先生の御著書に巡り会い、心の学びをさせていただきました。

人間は、この世に魂を磨くために生まれてくる。人それぞれに「人生の問題集」を与えられるが、逃げることなく、それらの問題を解かんと努力する中で、魂の輝きを得てゆく。人間が輪廻転生して、この世に数十年、数百年置きに生まれ変わってくるのは、新たな経験を通して、自らの愛と智恵の質を高めるためである。古今東西の宗教は、一貫して心に仏神の光が注がれる思いを勧めてきた。それは、何の宗教を信じる人でも、どこの国に生まれた人でも、「善き思いに仏の光が注がれる」という心の法則は共通だからである。そこには、私たちへの仏の願いが隠されているのだ。従って「一瞬一瞬、自と他の心に仏神の光が注がれる方向で、思いと行いを選び取る」のが信仰生活である。他に良かれと願い、行動する心。仏や自らの真実の姿を探求する態度。素直に反省する心。真の喜びを限りなく広げてゆく努力・・

これからも幾転生かけて、これらの課題に取り組んで参りたいと思います。きっと、自分の身に起きた出来事が幸不幸を決めているのではなく、今この瞬間、どのような思いを選び取っているかが、人間の幸不幸を決めているのですね。それを悟った方が、昔からマイナスの思いを戒めてこられたのでしょう。唐の時代の漢詩に次のようなものがあります。  

      心中の火                      寒 山
瞋は是れ心中の火なり    能く功徳の林を焼く
菩薩の道を行ぜんと欲せば  辱を忍び真の心を護れ

ですから、「どうして、こんな病気になってしまったか?」という怒りにも似た苛立ち、「ああ、早く、治ればいいなあ。」という焦りは、心から大切なエネルギーが抜けていく思いですので、ただただ、目の前のことに感謝をして過ごしたように思います。家や病院まで、はるばるお見舞いに来てくださったり、私の病気平癒を祈って下さった皆様に心より感謝申し上げます。
 また、六年余りお世話になった先生方は、本当に心の温かい方々でした。医は技術の時代にあって、医は仁術を実践されていたと感じました。先生方のお気持ちが、病状の進行を遅らせて下さったように思います。看護師の皆様もとても親切で、お陰様で、気持ちの良い入院生活を送ることができました。本当に有り難うございました。
 実は、大阪に来てから半年の間に、二度、体調を崩して入院しましたが、その間、既に亡くなっている父母が、毎日のように病室に見舞いにきてくれました。肉体の目が見えなくなった反面、心の眼が開けてきたのでしょうか。両親やご縁のあった方々とお話したり、地上のものとは思えない美しい景色がカラーで見えるようになったり・・そうそう、まだ歩けた頃には、家の中を移動する時「こっちだよ」と誘うかのように、一筋の光が見えたことも・・天神祭りの日には、娘が「母が夢の中で花火を見られますように・・」と祈ってくれたそうです。そしたら、本当にその夜、きれいな花火が夢に出てきました。ですから、決して真っ暗闇の中で過ごしていたわけではなかったのです。 寝たきりになってからも、時折父母が来ておしゃべりをして帰ってゆきました。そのことが、私があの世に旅立つ決心を徐々に促す働きをしてくれました。最後の数ヶ月は、父母とまた一緒に生活できる日を心待ちにする心境になってゆく時間だったと思います。さこ康子様には、毎日のように話し相手として来て下さり、心なごむ時間をいただきましたし、法友の皆様の祈りには随分と助けられましたね。木村勝利様・キミ子様ご夫妻には、十数年前に私が歩けなかった時、車いすを押して東京までご同伴下さったり、大阪時代から本当に良くしていただきました。又、幸福の科学大阪中央支部の支部長であられた宮崎様、西川様からも暖かいお心を頂戴致しました。ケアマネージャーの吉山様、訪問看護師の市橋様。ベッド等の介護製品を届けてくださった方々。お盆休みもなく往診・点滴に来てくださった先生や看護師の方。他にも皮膚科や泌尿器科の先生方も、在宅看護に快くご協力下さいました。どれほど多くの皆様のご恩を受けたことでしょう。市橋様などは、一旦、京都の自宅に戻っておられたのに、娘が夜中の一時にご相談の電話をかけたら、車を飛ばして駆けつけてくださいましたね。全部、わかっておりましたよ。本当にありがとうございました。続きを読む

さて、男女の恋に比べれば、嫉妬や焦燥感もなく、ゆったりとした幸福な気持ちになれるのが、この世界を創られた方への恋であることを、私は晩年になって知りました。恋と言ってしまうのは、誤解があるかも知れませんねえ。尊敬や思慕の念とでも言えるでしょうか。大阪に来てから二度目の入院の時に、娘が美しい曲を集めたテープを聞かせてくれました。その中に、さだまさしさんの「人生の贈り物~他に望むものはない」という歌があります。少し引用しますと・・  

  季節の花がこれほど美しいことに
    歳を取るまで少しも気づかなかった  
  美しく老いてゆくことが どれ程に 
         難しいかということさえ気づかなかった
  もしも もう一度だけ若さをくれると言われても
    おそらく私は そっと断るだろう  
  若き日のときめきや迷いをもう一度
    繰り返すなんて それはもう望むものではない

皆様も、一度お聞きになってくださいね。その最後の方に 

  私の人生の花が 散ってしまう頃  
     やっと花は私の心に咲いた

というフレーズがあります。「やっと、私の心に咲いた花」が何かと言いますと、「見るもの、聞くもの全てが、姿を変えた仏である」とわかったことでしょう。道元禅師が次のような素晴らしい和歌を詠まれています。

   峯の色  渓のひびきも みなながら 
        わが釈迦牟尼の 声と姿と         

 古代中国では、蘇軾(そしょく)が同様の悟りを漢詩に遺しています。 

        東林の總長老に贈る   

  渓聲便是廣長舌               ※廣長舌は釈尊の比喩  
  山色豈清浄身に非ずや    ※清浄身も仏の身体を表す
  夜来八萬四千偈
  他日如何ぞ人に擧似せん

この二つの歌の中の釈尊とは、この地上に現れた応身としての釈尊ではなく、あの世における釈尊の真実のお姿である法身のことだと思われます。神道や仏教の世界では、山川草木全てが神、仏の化身だと言われます。    従って、古の人は、風景を単なる風景と観ずに、それをこの世にあらしめて下さった存在への呼びかけ、賛美の思いで、和歌や俳句を創ってきたのだと思います。
 西洋では、創造主と呼ばれる、万物を創りたる神が信仰の対象になっていますが、東洋人の場合は、創られた万物さえも、尊い仏神の化身と観てとったのでしょう。尤も、古の時代から日本人も又、西洋の創造主に相当する仏を、大日如来とお呼びしたり、奈良の大仏様として象徴したりして、崇めてきました。つまり、呼び名は異なっても、人類皆、同じ偉大なご存在を仰ぎ見てきたのですね。 いずれにせよ、目にするもの、耳にするもの、全てが偶然に出来たものではなく、明確な意図があって、そこに現れている。それに気付くかどうかが、絵画であれ、音楽であれ、芸術に関わる者の試金石だと言えるでしょうか。
 人間は、どれほどがんばっても、アリ一匹、一から創り出すことは出来ません。アリの行列を眺められるという事自体が、奇跡のような出来事なのです。更には、花びらをあれほどまでに色鮮やかに見せるわざ、小鳥の声をあのようにかわいらしく聞かせるわざ、いかほどの人智を超えた智恵の結集があることか! 桜が見事に咲き、散る様、身体のすみずみにまで染み入ってくる蝉しぐれ、紅葉の美しさ、凛とした雪景色・・・春夏秋冬の風景のそのまだ奥に、それをあらしめる意志が働いていても、決して不思議ではないでしょう。そして、更に有り難いことに、それらの美を感じ取れる心を、私たちに備えてくださっている・・万象万物に込められた美や知恵を讃えることも又、信仰生活の大切な要素ではないでしょうか?西行法師様などは、まさに和歌を通してその実践をされていたのだと感じます。ただ単に自然を賛美しているのではなく、その風景の背後にある偉大な存在に対して感謝と感動の気持ちを捧げる・・芸術にも発展段階があるのですね。たとえば、肌に当たる雨を不快に感じるか、神仏に優しくなでられているかのように感じるか・・それでは、古の漢詩や和歌の中から、いくつか味わってみることにいたしましょう。  

  後夜仏法僧鳥に聞く      弘法大師空海   
 
   閑林独座す草堂の暁    三宝の声は一鳥に聞く  
 一鳥声有り声心有り    声心雲水倶に了々

  廬山(ろざん)の瀑布(ばくふ)を望む         李 白 

   日は香炉(こうろ)を照らして紫烟(しえん)を生ず   
 遙(はる)かに看(み)る瀑布の長川(ちょうせん)を挂(か)くるを  
  飛流直下三千尺ひりゅうちょっかさんぜんじゃく
  疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと  

    無 心    良 寛         

 花は無心にして蝶を招く  蝶は無心にして花を尋ぬ
 花 開く時 蝶来たり   蝶来る時 花開く

次の和歌などは、桜への恋とも言える気持ちが切々と伝わってきます。人間は、異性や美しい花鳥風月への恋を通して、全ての根源である仏への思慕の念を深めてきたのでしょうか。  

 世の中に絶えて桜のなかりせば  
      春の心はのどけからまし      在原業平 

 吉野山梢の花を見し日より  
      心は身にもそわずなりにき    西行法師 

 西行法師の歌が出たところで、松尾芭蕉の俳句も味わってみましょう。それは芭蕉が東北地方へと旅立った動機として、国文学者竹下数馬氏は「芭蕉は西行に憧れ、その足跡をたどりつつ西行の心に触れんとした」と推理しておられるからです。(『芭蕉マンダラの詩人』クレスト社)渡部昇一氏も「西行と芭蕉は共に『仏教の如来や菩薩が日本の神々の姿を借りて日本に出現した』とする本地垂迹説を思想的背景に持っていた」と述べておられます。(『理想的日本人』PHP研究所)西行法師は高野山に数十年住んだ後、晩年には伊勢神宮の近くに庵を結び、 榊(さかき)葉(ば)に心をかけん 木綿(ゆう)しでて 思へば神も仏なりけりと詠まれました。そして、自らの歌集を伊勢神宮に奉納されています。芭蕉も、仏教も神道も区別なく賞賛する句を遺しています。多神教のおおらかさが、日本の和歌や俳句にはあるように思えます。以下は、西行法師の行程をたどりながら詠んだ芭蕉の俳句です。   

   あらたふと青葉若葉の日の光 (日光にて)  
   田一枚植ゑて立ち去る柳かな (那須にて) 
   象潟(きさかた)や雨に西施(せいし)が合歓(ねむ)の花 (象潟にて)

芭蕉の宗教観を理解すれば、あの有名な「古池や蛙飛びこむ水の音」の句から、小さき命への慈愛の眼差し、そして、水の音を仏の声と聞く感性が伝わってはこないでしょうか?聖徳太子様は「世間虚仮、唯仏是真」(世の中は虚しい仮の存在、ただ仏のみが真実のご存在だ)と言い遺されましたが、やはり「この世の全てのものは仏の創り出された幻であるが、しかして、姿を変えた仏でもある」とおっしゃりたかったのでは・・「唯物論から唯仏論へ」と日本人の意識改革がなされてゆくことを願ってやみません。続きを読む

漢詩の本を読んでいますと、昔も今もいちびりと言うか、ふざけるのが好きな方がおられたのだなあと思います。五山文学集 江戸漢詩集という本には、日常生活の出来事を、おもしろおかしく漢詩に表現したものがあります。 たとえば、夜中に犬の啼(な)啼く声を聞いて創った詩。    

       犬(いぬ)の咬合(かみあい) 
    椀 椀 椀 椀 亦 椀 椀(わんわんわんわんまたわんわん)  
    亦 亦 椀 椀 亦 椀 椀(またまたわんわんまたわんわん)    
   夜(よる)は暗く(くら)して 何疋(なんびき)か 頓(とん)とわからず  
 始終(しじゅう) 只(ただ) 聞く 椀(わん) 椀(わん) 椀(わん)のみを

これなどは、詩の内容が単純なので、お子さまや初心者の方が、詩吟の発声練習をするのにいいのでは?現代は、ストレス社会。車の渋滞に巻き込まれた時、便秘で困っている時などに、正式な形でなくても、漢詩や和歌風に自分で思い付くままに作詞して吟じてみてください。おへその当たりを意識して、肩を上下させず、ゆったりした呼吸と気持ちでね。すると、あら不思議!心に余裕が戻ってきますよ。

  悩めるお父さんには・・ 

 問題は山積みなれど 未だ 解決せず  
  抱える頭に髪の毛は触れず 
 思い立ちて 古今の詩を詠ずれば 
  名案ひらめきて心晴れやかなり 

 イライラしたり焦る時に・・ 

 苦難には 丹田呼吸で立ち向かえ   
    天に通じて まこと爽快

 そうかい、そうかい、それはおめでとう!本当に腹式呼吸は、様々な局面で役に立つのですよ。窮地に立たされた時、「どうしよう、どうしよう」と混乱すれば、心から大切なエネルギーが抜けてゆきます。そして、いよいよ正しい判断ができなくなります。
 けれども、一旦、抱えている問題から意識をそらして腹式呼吸するなら、心に仏神の光が注がれます。吟詠が、身体の健康法であると共に、精神の健康法であると言われる所以は、こういう点にあります。別の表現では、よく詩吟の本などに「気を養う」と書かれていますね。吟じ終えた直後など、気と血液が体中を巡っている感じがおわかりになるでしょう?「こんな大変な時に、詩を吟じる気分ではない!」菅原道真公は、陰謀により左遷され、悲しみの中にあっても、漢詩を創る心の余裕を持ち合わせておられましたよ。  
 
   九月十日 菅原道真   

 去年の今夜 清涼に待す  秋思の詩篇 獨り斷腸 
 恩賜の御衣は今此こに在り  捧持して 毎日餘香を拝す    

 また、戦国時代の武将、上杉謙信は、戦いの最中にあって、目に映る光景を、詩に表現されました。これも又、九月の詩ですが、旧暦の九月は、私たちの暦では十月に当たります。秋風が吹き始めた頃の情景ですね。  

      九月十三夜、陣中作  上杉謙信  

 霜は軍営に満ちて秋気清し 
 数行(すうこう)の過雁(かがん)月三更(つきさんこう) 
 越山併(えつざんあわ)せ得たり  能州(のうしゅう)の景 
 遮莫(さもあらばあれ)  家郷(かきょう)遠征を憶(おも)うを       

  心の余裕を無くした時には、自分を一歩外から眺めて見てくださいね。更には、自分の失敗や境遇をユーモアにまで高められたら、あなたは「心の達人」!笑いには、免疫力を高めるという身体的なメリットだけでなく、やはり心に仏神の光が注がれるという精神的なメリットがあります。空海様の御著書の中には、「ハ・ハ・ハと言う笑い声を発する時に、人は仏と一体になる」という意味の記述があります。私も、闘病中は、落語を聞いて笑う時間を作っていました。おかげで、自分の病気のことをクヨクヨ考えることもありませんでしたよ。                       あとがき 「万象万物は、姿を変えた仏である」古の人々の世界観を理解することは、漢詩や和歌を吟じる際に、隠し味にも似た奥行きを感じさせてくれるのではないでしょうか。私は、仏教的な土壌に育ちましたので、仏という表現を使いますが、自分に与えられた人生を振り返りますに、仏は・・     

肉親の親の姿となって、私を生み育て     
時に幼き子どもの姿をとって、私を楽しませてくださいました    
また、親としての喜びや未熟さも教えてくださいました    
更には、男性の姿をとって恋という経験をくださり    
時に、試練と見えし出来事に姿を変えて 私の足らざる点を教え、魂を鍛えてくださいました。   

出会う人、起きる出来事に無駄なものはない。私に背負えない荷物は与えられない。そう気付かせていただいたことが、人生の春につながったのかも知れません。今回の人生で出会った方々に心より感謝申し上げます        生まれ変わっても又、皆様に出会えますように・・

                                                          (追記)

この本は、母が大阪に来て同居となってからの時間に、若い頃の思い出や、詩吟に対する考えをインタビューしながら、まとめたものです。母が亡くなって1年。その間、あの世の母の気持ちを代弁する想いで綴りました。2004年8月からの2ヶ月間は、腕からの点滴だけで、1日のほとんどを眠った状態で過ごしました。「医学的には1ヶ月が限界なのに、お母さんがここまで命を長らえたのは、腹式で上手に呼吸されていたからでしょう。」とお医者様は言われました。訪問看護師さんが「私も詩吟を始めようかしら」とつぶやかれたことも・・・確かに、母は最後まで肩でハアハア息をすることもなく、余りにも静かに息を引き取りました。死がこのように穏やかなものであるなら、「死は恐れるに足らず」と実感させていただけました。けれども、母が医学的な限界を超えて旅立ちを延期したのは、私の心の準備が出来るのを待ってくれていたからとしか思えません。ある朝の祈りの時「要は私たちに任せる気があるかどうかです。」と私を叱る声が心に響いてきました。母が亡くなる一ヶ月ほど前のことです。その日以来、目には見えない世界で母を導いてくださる方々に母を託そうと決め、徐々に心の準備をしていったように思います。「あの世に帰って爪を見た時、ピッカピッカでありますよう・・」祈りつつ、子どもたちと一緒に、水分不足で筋の入った母の爪を磨いたことも・・そして、練習してやっと覚えた 
  「十億の人に十億の母あるも我が母に勝る母あらめやも」を吟
じた翌々日、母は逝きました。母の生前の口癖は「私はラッキーなのよ。」でした。その言葉通り、闘病生活は家族や友人・知人の方々の愛情に包まれ、また最後の苦しみもなく、そして葬儀も又、素晴らしい企画・演出をしてくださる大阪高級葬儀㈱様に巡り会う事ができました。中でも、最もラッキーだったのは、現代の日本に生を受け、真実の仏の教えを学べたことかも知れません。
  更に帰天後は、大阪高級葬儀㈱社長・久世栄三郎様のご厚意により、母の命日にちなみ、天秤座の中のひとつの星に「ステラ・オブ・ヒセン・アマノカワ」という名を付けていただき、ワシントンにあるアメリカ議会図書館に登録していただきました。今頃、空の彼方から「皆様に出会えてラッキーだったわ!」と叫んでいることでしょう。天乃川妃泉に会いたくなった時には、夏の空を仰ぎ、時に録音した声をテープで聞き、そして又、この冊子を手に取ってくださいませ。時折、何人かの方々の夢の中に、三十代くらいの若さで元気に登場しているようですよ。フフフ、母らしいですね。母の人生マラソンを共に走り、或いは沿道で応援してくださった皆様への感謝を込めて、この冊子をプレゼントさせていただきます。                                
                       2005年10月8日   一周忌に続きを読む

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