人物

2018年05月17日

kokiaの本に



シンガーソングライターKOKIAのコンサートが初台オペラシティで2daysあった。熱心なファンで超満員、とても温かい雰囲気でのKOKIAの独特な世界、、
楽器編成はアコーディオン、ピアノ、ギター、アコースティックベース、バイオリン、チェロ、パーカッションにKOKIAの歌。
圧倒的な歌唱の歌が会場に響き渡り感動的だった。また喋りは最後の挨拶くらいでほぼ音楽だけでの構成だった。
KOKIAとの出会いは21年前彼女がまだ音大の学生の時、
「Tail Concerto」というゲーム音楽のテーマ「For Little Tail」を僕が作曲し、KOKIAが作詞,歌でコラボした。
その頃からその歌唱力は素晴らしかった。彼女のファルセットは相当強く、またヴィブラートは完全にコントロールできるらしい。
その後KOKIAはデビューしてその実力と個性的な世界を広めた。2010年にはKOKIAの依頼で「For Little Tail」をリメイク、
またこの曲は他のアーティストでもカバーされた。そのKOKIAもデビュー20周年。
ファンクラブ制作の分厚い本に私も紹介された!写真がそれです。

(01:27)

2018年02月22日

大杉漣



大杉漣さんが亡くなってしまった。驚いたしショックです。
写真は1984年の映画の1シーンから。その作品『変態家族兄貴の嫁さん』(周防正行監督)では大杉漣さんは主演です。撮影現場で何度もお会いしお話ししたことがありますが、イメージとしては当時1980年代、転形劇場というコンセプチュアルな芝居(ある意味前衛的な)をやってた劇団の方ですし、怖い人かと思ったらフレンドリーないい人で気さくにお話ししてくれました。
1995年頃に調布の大映(現角川)撮影所でお話ししていたら「北野武監督の作品、いいですよぅ!」って大杉さんが言ってたのを覚えています。その後北野武作品で大活躍でした。
僕よりちょい上ですがまだまだ若いし、訃報を聞いてショックですし残念です。いろんな作品で素晴らしい芝居していて惜しい俳優さんが逝ってしまいました。心よりご冥福をお祈りするばかりです。

(18:41)

2016年08月06日

ビート・ポップス

昭和のテレビ界の大物タレント大橋巨泉さんが82才で逝ってしまった。
もういろいろなところでその才能を紹介されているのでそれは省くが、実は僕も大橋巨泉の影響で育ったひとりと言える。
それは1967年〜70年頃にフジテレビで土曜日の午後3時からオンエアされていた1時間番組『ビート・ポップス』だ。今となっては伝説的な、、日本のポップ史上のエポックメイキングな番組と言えよう。
巨泉さんはまだテレビ界で超有名ではなくジャズ評論家の名残のある頃だったのだろう。『ビート・ポップス』は洋楽情報番組で「Music Life」編集長の星加ルミ子、「Teen Beat」編集長の音楽評論家木崎義二を両脇に控えて巨泉さんの司会で進行する音楽番組だった。
そこではビートルズ、ローリングストーンズ、オーティス・レディング、サム&デイヴ(このサム&デイヴの1970年来日公演には高校生ながら行き、リズムの凄さに圧倒、日本が好きなナサケナイ女々しきメロディ志向からどんどん離れることになる・・よってその後に起こる日本のフォークの貧乏ったらしいちょい悲しきかなメロディ志向も受け入れずのカラダになる)、ダイアナ・ロスとシュープリームス、サイモン&ガーファンクル、シルヴィ・ヴァルタン、ビージーズ、ドノヴァン、ウォーカー・ブラザーズ、ヴァニラ・ファッジ、等々を知ることができ、時にプロモーションフィルムも流した。

スタジオには視聴者から応募されたのだろうか多くの若者が音楽に合わせて踊り(当時の流行はゴーゴーダンス)、いわゆるお立ち台的な目立つ位置で踊っていたモデルの小山ルミ、杉本エマなんていう女の子をスターにした。中学生の僕らはみんな憧れたデス。まだディスコ時代の遥か前にこういう番組が礎になってたんだなあ、、、なんて。

それ以前に洋楽を日本人歌手がカバーする『ザ・ヒットパレード』はあったが洋楽をそのまま流す番組はなかった。中学生の僕や友達は必ずこの番組を見て洋楽ポップに夢中になったわけだ。
また振付師として藤村俊二も出演していて時に簡単なステップを皆で踊ろうというコーナーがあって、テレビのこっち側で中学生の僕もステップを踏んだ思い出がある。巨泉さんはジャズ好きなのでそろそろロックが旋風を巻き起こす直前のポップに特になにかコメントを言っていた記憶はない。ビートルズやストーンズ、モータウンのR&Bもがんがんヒットを飛ばしていた時代、とにかく当時としては若者向きのカッコイイ番組だった。小学生時代に見てた『ザ・ヒットパレード』はなんとなく見ていたが、この『ビート・ポップス』の影響で日本の歌謡曲に全く興味なくなってしまったとも言える。
巨泉さんの番組ではその後深夜ラジオの「巨泉プラスワン」をよく聴いてた覚えがある。そこではジャズをよく聴いた。無名のタモリを最初に知ったのはこの「巨泉プラスワン」かも。
とにかく大橋巨泉さん、昭和の偉大な才能だった!


(21:40)

2015年12月25日

60b86474.jpg「うなりやベベン」こと国本武春さんが24日未明に亡くなってしまった、、、55歳、悲しすぎる。
脳出血で12日に救急搬送され入院されていたが突然の死に言葉もない。
浪曲師の両親の元に生まれた生粋の浪曲師であり、しかしながらロックやR&Bが好きだった若き日の影響で三味線でロックができちゃう才人だった。
NHK Eテレの番組「にほんごであそぼ」で何度もコラボした。福島での公開録画でもご一緒した。
文部省の芸術選奨とかいろんな賞を受賞されている。
本人は気さくでいい人、譜面は読まないがメロディを瞬時に憶えてしまってスタジオ仕事にも対応された。浪曲の節回しも見事ながらロック系のリズムにもグルーヴできるミュージシャン。音域も高めでよく通る声が耳に残る。いわゆるヘッドアレンジ的にアドリブで適当にプレイできるので、オブリガートなど
歌の合間を埋める演奏もお手のものだった。
「にほんごであそぼ」でのもうひとりのキャラクターであるシンガーのおおたか静流も驚いていた、ショックだと思う。

(02:01)

2015年06月20日

8c481c45.jpg今回の私周防義和SOLO ALBUM『遇游歌集』のジャケットのアートワークを手掛けていただいたのは、持木工房主催の持木慎子の作品。写真はジャケットの中側にある写真。
私の顔のイメージを独特な手法でオブジェ化し、それを写真に撮り完成したものだ。
持木さんとは20年来の知り合い、昔やってたバンドBREW-BREWの頃からお世話になっている。

持木慎子:
1970年埼玉県生まれ。1992年宝仙学園短期大学卒業。
同年持木工房を設立し、制作活動を始める。
ショーウィンドウ等の企画・デザイン・制作・施行までトータルにクリエイトする。
その他、パブリックスペースにおけるオブジェ制作、
テレビ 舞台等のセット・小道具・衣装デザインなど空間全体を企画・制作する。

2007年 銀座ディスプレイデザインコンテスト 最優秀賞
1995年〜2015年 DSA日本空間デザイン賞 入選


(15:15)

2014年09月19日

06ac3d62.jpg表紙になっちゃいまいした!
ローランド系の「RET'S PRESS」9月号です。本ページでも2ページに渡って僕へのインタビュー記事が載っています。インタビューでは映画『舞妓はレディ』の作編曲話しを中心に「ノンジャンル音楽を生み出す多彩なアイデアの引き出し」ということになっています。

「ノンジャンル」・・・簡単にそういうけれど、凄く意識してそういう作曲編曲をしているわけではない。
僕は理論書も書いたし「熱き情緒派」という感じではないことになっているが、最初と最後は情緒かな、と。
お手本通りというのが好きじゃないせいで、外れていく、崩れていく、そこをどうにかバランスとっていく。
そのどうにか踏み外しバランスとっていくうちに上手く行くと「ノンジャンル」と言われるところに落ち着く。
過去に作られた偉大なる音楽、それらを理論的にはお手本にすべきところはあるが、時代が変われば価値観も微妙に変わる、なにかちょっとでも異質なものをブレンドさせていきたくなる。それらが全部ノンジャンルじゃないけど、異なるもの、それはオリジナルに向かう精神だ。ノンジャンルとか言葉は本来どうでも良い。

映画『舞妓はレディ』の主題歌「舞妓はレディ」はメロディだけで判断すると、まあ歌謡ポップといったところでしょうか。イントロの弦楽の伴奏は2ビート系ではあるけど、この2ビートといったの白人系のリズムは実は余り好きではなく、そういう時でも大きなうねりにしたくなり、純粋2ビートから外れていく。
この歌のサビ前のコードはドミナント7thが来るが、そこで僕はダイアトニックのドミナント7thを外し、Alterd Scaleを用いて普通のポップ音楽から外れていった。オルタード・スケールなどはJAZZ系で使用されることの多い特殊な音階。尚且つ弦楽が3連の仕掛けフレーズをTuttiで奏するので、またまた伴奏としてはかなりとんでもないことにはなっている。間奏や後奏での木管が高い音域での断片的なフレーズはブラジル風味かもしれない。
チック・コリアの特徴的なスタカートの影響でもある。

この主題歌は周防正行監督の最初の脚本での歌詞に作曲したものをシンガーソングライターの種ともこが共同作詞者として新たな歌詞を作り、それを基に再び僕が作曲リテイクした、というプロセスだった。
主演の上白石萌音はレガートがとても伸びやかに気持ちいい日本語を歌ってくれた。


(00:32)

2012年12月25日

0b5a47cc.jpg写真は12月17日の朝日新聞夕刊より

ギターを手にこの方はヤイリギターのギター職人の道前さん。
そうそう僕は昨年岐阜県可児市のヤイリギターの工房に行って、特注でアコースティックギターを注文制作した、その制作者の道前さんなのです。
朝日新聞の取材では職人になって14年で5600本のアコースティックギターをつくったとのこと。
すべての工程をひとりで手作り制作する。
36歳の道前さんは若手を代表する職人として相当数の仕事量をこなしている。
我々音楽家がいい音楽をつくれるのもこうした一級職人さんがいてのこと、ヤイリギターの創業者のヤイリさんは数年前に国の匠に認定されて表彰されたが、本来ヨーロッパやアメリカで発達した楽器であるギターが今や日本の繊細な技術を認められ世界に誇るべき産業となっているのも素晴らしいことだ。






(01:00)

2010年06月29日

3e94b42c.jpgユニット《COMA》の1stアルバム『COMA』、2ndアルバム『ぬかよろこび』のジャケット画を描いていただいた漫画家の小池桂一氏がスイスで受賞された、おめでとうございます!ほんとうに素晴らしいこと!そして5月〜6月にフランスのモンペリエ、アングレーム、リヨン、パリなどで開催されたフェアに招待され渡欧された。

スイスでの受賞、詳しくはPOLYMANGA 2010(ポリマンガ2010)というスイスでの日本マンガの祭典のようなフェスティバルとのこと。↓
http://www.polymanga.com/index.php/fr/component/content/article/46-news-site/728-resultats-gp-du-divertissement-2010.html
↑このサイトにある、青文字の- One Shot : Heaven's doorというのがそれ(One Shot賞ということ)で、文字をクリックすると小池桂一さんの本がフランス語で紹介されてます。これは昨年フランス語訳が出た短編集で、この本が海外で翻訳出版されたのは初めてのことです。ちなみに上の写真はこの「Heaven's Door」の表紙。

「ウルトラヘヴン」はすでに1・2巻が韓国、イタリア、フランス各国語版で出版、フランスでは増刷されるほど絶賛されている。
今回フランスではまず、南仏モンペリエで3日間にわたるブックフフェアに参加、当地の美術館にてアメリカとスペインのマンガ家と3人でグラフィック・パフォーマンスも行い、その後、アングレームのBDミュージアム(マンガ美術館)、パリの書店、リヨンの書店、また戻ってパリの別の書店と、計5箇所でサイン会を行ったとのこと。そこではフランスの読者の手応えを感じた、すばらしい旅だったとのこと。http://aaablog.typepad.com/  はサイン会の模様!

今出てるものでは「ウルトラヘヴン3」が最新作ということになるだろうか。僕も小池桂一さんからいただいたので読みました。1.2よりわかりやすく読めた、でも小池ワールドがくずれているわけではなく独特の幻想世界に連れてってくれる傑作だと思います。
「ウルトラヘヴン3」の帯のコピーには「さらなる意識の深奥をめざして電子瞑想装置による集団セッションに臨んだカブを待ち受けていたのは、めくるめく共同幻想の世界だった.....。 フランスBD界の巨匠メビウスが”クレイジー&ファンタスティック”と絶賛した、日本発天国行超特急・第3号発進!」とある。
以前メビウス氏来日の際も彼は交友しているが、今回フランスでも更にメビウス氏との交流を深めたとのこと。海外での評価が高い小池桂一ワールド、日本でももっと知られてもいい人デス。
今後のご活躍が期待です!!!

(02:11)

2009年11月27日

ご報告
9月、アルタミラピクチャーズの映画プロデューサー佐々木芳野さんが享年51歳で癌による闘病生活の末逝去された・・・とても悲しいです。僕は映画「シコふんじゃった。」「Shall we ダンス?」「それでもボクはやってない」TVドラマ「学校の怪談」その他でお世話になった。また映画「ウォーターボーイズ」「ハッピーフライト」などなど多数のプロデュースに携わっている。
そして10月末に東京成城の東宝撮影所内で、のお別れ会が行われ、僕とtomo the tomoは2人でミニライヴした。多くの映画関係者、スターの方々が集まる変な言い方ですが華やかなお別れの会でした。
実は7月に同じ東宝撮影所内で撮影中にお会いしているのですが、僕は全くそのことは知らず、あの時の芳野さんとの会話が最後になってしまってショックです。その時も僕にいろいろ撮影状況、制作過程に至る話しをしてくれた。まさかあの時、闘病中だったとは・・・・4年間程闘病生活で入院退院を繰り返し、今年の夏には旦那様の故郷である北海道に家族で行ったという。そして死を覚悟しつつ仕事をし続けた。

東宝撮影所内のホールには生前の芳野さんの仕事のデスクを持ってきて、あたかもそこで芳野さんが仕事しているような雑然とした雰囲気を再現、その回りの壁などに元気な彼女の写真をたくさん貼って、そのデスクに向かって参列者はお花を捧げた。すごくいい演出でした。セレモニーも暗い悲しいお葬式もいやだから明るく、とか言われていたとのこと。僕らの演奏曲もプロデューサーの桝井さんに明るい曲でもいい、と言われた。僕のギター伴奏でtomo the tomoが歌ったのは「静けさの中で」「青空」。あまり明るくはないが暗くはないでしょう。勿論悲しくもない、tomo の歌は力強いし。

彼女の意思の強い生き方、その死に対してまでも強く闘った姿に感動し、自分の死までをプロデュースした芳野さんを尊敬せざるをえません。佐々木芳野さんのご冥福を心よりお祈りします。


(01:10)

2009年11月25日

81c0a1e5.jpg日本を代表する作詞家の丘灯至夫(おかとしお)さんが亡くなられた享年。92歳。丘さんは「高原列車」「高校3年生」「みなしごハッチの歌」などたくさんたくさんの歌を作られた。昭和がまた遠くなりにけり、でしょうか。昭和の頃よく「明治は遠くなりにけり」と言われたのももう昔か!「高校3年生」は小学校の頃流行した、リアルタイムで憶えてる。
僕はJASRAC(日本音楽著作権協会)の評議員をしていた数年前、何度もある会の席でお会いしていた。ひょうひょうとした、失礼な言い方かもしれないが庶民的な雰囲気の、全く気取ることのない、いい感じのご老人といった雰囲気を醸し出していたのを思いだす。慎んでご冥福をお祈り致します。
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写真は軽井沢に11月初めに降った雪。紅葉するモミジに白い雪が不思議な光景でした。

(00:23)

2009年08月15日

ff58c9a8.jpgレス・ポール氏が亡くなった。享年94歳。

エレキギターといえばギブソンのレスポールとフェンダーのストラートキャスターなんていうのがエレキの名器、超ベストセラーのブランド。レスポールやストラート、テレキャスという名前はエレキギター、ロックミュージックには欠かせない名前だ。

そのLes Paul(レスポール)という名前は本名Lester William Polfussという1915年生まれのプロシャ系ユダヤ人のギタリスト、ミュージシャンであり、音響録音機材の開発者でもある。ポップミュージック史ではハデではないが大事な人物だ。
ミュージシャンでありながら1940年代くらいから電気ギターの開発を試みて、ソリッドタイプ(アコースティックギターのように中が空洞ではない)のギターを製作、最初はギブソン社からも相手にされなかったが1952年にギブソン社が受け入れ世紀の名器レスポールが誕生する。同じ年にアンぺックスより8トラックのレコーダーも発売されたが、これもレス・ポールの開発した録音機材だ。当時は録音といったらいわゆる「せ〜いの」でイッパツ録りするだけのものだったが、すでにレス・ポールさんはダビングによる録音という発想を考案していた。今では当たり前のことだが、1940年50年頃そんなことを考え開発したというのは凄い発明家とも言える。
エレキギターやダビング録音機材の開発ということでかなり電気や音響機器に関しての専門家でもあったわけだ。
ミュージシャンとしては1951年奥さんのメリー・フォードとのデュオ「How High the Moon」が全米1位を獲得。1953年「Vaya Con Dios」も大ヒットしている。メリー・フォードとは3度結婚、その後また離婚しているようだ。

ギブソンのエレキギター「レスポール」がブレイクしたのは1960年代中期にエリック・クラプトンが....やっぱりこの人が登場しちゃうんです....ジョン・メイオールとブルースブレイカーズに客演した時に、このレスポールをマーシャルのアンプの組み合わせで抜群に良い歪み感を出し、次々にギタリストたちがレスポールを愛用していくようになったらしい。ピーター・グリーン、マイク・ブルームフィールド、ジェフ・ベック、キース・リチャーズ、ミック・テイラー、ジミー・ペイジ、スラッシュetc きりがない。
ギブソンのレスポールのハムバッキング(ダブルコイル使用でノイズがカットされる)の音は甘〜くて太いいい音だ。僕もヴィンテージのレスポール欲しいですが持ってません、ザンネン!ハタチの頃Gabanのレスポール持ってたっけ....
エレキギター愛用者、録音機材愛用者はレス・ポール氏の偉大な好奇心、想像力、開発力、行動力に敬意を表し、慎んで哀悼の意を捧げるものである。


写真はGibson「レスポール」モデルのギター。Wikipediaより






(01:40)

2009年05月26日

48da1b71.jpg昨年秋からNHK教育TVの「いないいないばあっ!」の中の1コーナーでクレイアニメーション(粘土アニメ)の映像に音楽を担当していて、毎月1曲作曲している。だいたい70秒前後(いつも多少の秒数異なる)の作品で、イタリア、ミラノ在住のアニメーション作家の湯崎夫沙子(ユサキ フサコ)氏から送られてくる映像に取り組んでいる。

作品は情緒というよりも物理的に様々なものに自由自在に変化していくクレイアニメーションのアクション、状況に合わせるタイプの音楽で、実はこれは非常に大変面倒な作曲ではある。同じムードが4小節と続かないような音世界だ。それをすべてナマの楽器...だいたいフルート、オーボエ、クラリネット、バスクラリネット、トロンボーン、アコーディオン、メロディオン、マリンバ、ピアノ、ラテンパーカッション、アコースティックギター、ウクレレ、バンドゥリア、チェロなどのアンサンブルで作編曲している。絵合わせタイミングが大変な分、無事レコーディングが終るとホッとする。

その作家湯崎夫沙子さんが来日し、千鳥ケ淵のイタリア文化センターでレクチャー&講演が行われた。

湯崎夫沙子さんはもともと彫刻家で1960年代末に日本の美大から国費留学でイタリアに渡り、ひょんなきっかけからイタリアでクレイアニメーションの仕事をすることになり、そこで作品をつくるうちに世界を代表するクレイアニメーションのアーティストになったという凄いお方。もう70歳近いはずだが若々しく、また少女のような無垢なままの純粋な雰囲気をもった、それでいて気取らなく豪快に...正直に自分を語る魅力的な女性でした。
いつもはイタリアから送られてくる作品通じての仲なのでお会いするのは初めて。でも気さくで楽しい方でした。またいつも映像が先作られ、あとで僕の音楽がつくわけだが、その音楽をいつも楽しみにしていると聞き、僕も凄い光栄に思い、また励みになりました。
現代では背景など、CGを使用するスタイルも当たり前な時代にあくまでもすべて手作りのクレイアニメーションにこだわる気骨なお方でもある。

ミラノではトリビュート展が開かれたり、イタリアとスイスの子供番組にクレイアニメーション作品を出すと同時に本人も出演し、フサ〜コは現地のテレビの人気者にもなっている。
ミラノの自分の工房では日本人とイタリア人の若者数人のアシスタントを指導しつつ自分の作品を手作りで作り続けているエネルギーに満ち溢れた人である。日本でも海外で活躍する日本人ということでドキュメンタリー番組でも何度か取り上げられている。また世界レベルのアニメーションフェスティバルの審査委員なども歴任されている。

この日の公演では1960年代末からのフサコの代表的な作品の映像も流され有意義な時間でした。
写真はイタリア文化センターでの講演舞台で。中央が湯崎夫沙子さん、左が私、右がNHKエデュケーショナルのの中原美和さん。



(01:16)

2009年02月20日

51e6773c.jpg作家村上春樹がイスラエルのエルサレム賞(この賞は社会に於ける個人の自由を謳ってる)を受賞。先日エルサレムでの授賞式に出席しスピーチをした。知ってのとおり昨年末からイスラエルはガザに空爆、侵攻を行い(軍事施設のみならず一般人女性子供が多く死傷)国際社会から避難を浴びている。(アメリカはイスラエルを容認)村上氏には国内の団体から受賞を拒否するように言われたり、もし受賞したり授賞式に出席したら不買運動を起こす、というプレッシャーもかけられたとのこと。しかしそれを踏まえたうえでボイコットせず授賞式に出席しスピーチしたが、そのスピーチは大変素晴らしいものであった。

個人を壊れやすい卵にたとえ、壁をシステム=権力側にたとえ、壁側を批判したものだった。当事国に於てのこのスピーチはある意味相当な覚悟のものであると思われるし、村上春樹氏の文学人としてのスタンス、哲学、勇気が半端ではないことの証であると思う。勿論いろんな意見あるでしょうが、僕はすご〜く感動しました。一部がyou tubeなどで見れます。スピーチ後スタンディングオベイションを受けてます。そのスピーチは15分くらいはあるのだろうか。その一部は・・・
《・・・高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ、ということです。そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。》というもの。前半では小説家は嘘を作り上げる、、みたいな話から今日はすべて嘘ではなく自分のほんとうの気持ちを話すといって、個人的な意見をいわせてください、といって例の話になった。凄い人だ!

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最初に受賞については新聞で知ったが19日お昼のラジオ文化放送の「大竹まことのゴールデンラジオ」でお笑い芸人の大竹まことと女芸人の光浦靖子らが村上春樹の英語スピーチの日本語訳を全文にわたって朗読した。このラジオ番組もなかなか素晴らしかった。大竹まことも政治問題に深くコメントする人なので、やはりちょいインテリな光浦靖子と二人で村上氏への感動度も伝わってきた。しかし全文を朗読することにもけっこう感激した。(軽井沢〜東京間の車移動はAMラジオを聞いているので・・・AMファンなんです。テレビより出演者の自己規制ないパーソナルなのがいい・・・但し、音楽は演歌とか歌謡曲多し、TBSラジオの夜の時事問題をとりあげやりとりする「アクセス」もよく聞く・・・数年前、まだ無名の山本モナもこの番組の頃はとてもよく、評論家宮崎哲哉に変に合わせず意見をちゃんという人だった)

p.s.そう言えば僕が音楽業界入った1978年頃千駄ケ谷の「ピーターキャット」という店にけっこう通っていて、FourRosesなんかのバーボンを飲んだりしていた。昼間行ったときはコーヒーとかお茶してたっけ。そこは村上春樹がオーナーのカフェバーだった。千駄ケ谷の前は国分寺にあったらしいがそっちは知らなかった。そこはすごく気取らないリビングルームのようなリラックスできるいい店でJAZZがかかっていたので通っていた。いわゆるバーみたいな夜っぽい雰囲気でないのがオシャレな感じだった。小説家になる前、というか直前の村上春樹氏だったようだ。「風の歌を聴け」がその頃書いていたのかもしれない。

(00:36)

2007年03月29日

奇跡の人そこそこお洒落なレストランで、その人は突然立ち上がり周りの人の目を全く気にすることなどなく「植木さんは僕の人生の師でしたあ!!」と大声だした。一緒にいた映画監督本木克英氏、テレビ朝日の内山プロデューサーなど他の人唖然!
その人とは映画プロデューサーの岡田寧さん、植木さんとは勿論先日亡くなった植木等さん。
やっぱり子供の頃の『シャボン玉ホリデー』の「およびでない!」かな、毎週見ていたような... ほんとうにばかばかしい、そこに教訓も説教も嘘っぽい人情のお涙もないないドライな笑いが痛快だった。植木等のいたコミックバンド「クレイジーキャッツ」はドリフターズの先輩格にあたるが、元がジャズバンド出身者だけにドリフよりアメリカ的な洒落たセンスだった。
無責任シリーズの映画も後に見た。岡田寧さんは池袋文芸地下で無責任シリーズすべて見たとのこと。「ちょいといっぱいのつもりで飲んで...」の歌はミュージシャンのファンも多い。
そして1998年に僕はテレビドラマ『奇跡の人』(主演:山崎まさよし、松下由樹)で音楽を担当。そのドラマに植木等は渋い脇役で出演。子供の頃見ていた大スターの出演してるドラマに大人になったら音楽つけるなんてね、人生って面白い。打ち上げでお会いした時は、思わずナマの植木等だあ!とちょっと感激した。その時すでに70歳代、静かな印象の方であった。
昨年亡くなられた青島幸男も2004年に映画『死に花』(監督:犬童一心 主演:山崎努)に痛快な老人役で出られ、僕はそれに音楽つけたが、青島幸男、植木等の死は1960年代というか昭和30年代の、あの明るい未来を信じていた時代がほんとうにもう過去にいってしまうような....子供の頃、笑わせてくれた人たちの死は逆に自分がもう子供ではない、あたりまえだけど、いい大人、それもそうとうな大人であることを感じさせる。そして「明るい未来」なんていう言葉もどこか彼方な響きの現在に生きてることを実感させられる。慎んでご冥福を祈ります。



(01:18)

2006年10月13日

14日(土)14時半からフジTV系列で放映されるドキュメントは、バレエダンサー草刈民代プロデュース公演「ソワレ」のメイキング番組で、パリ公演の模様や練習風景も織込んだもので、プロデュースが夫の周防正行監督。実は僕もちょっとだけお手伝いしている。11月16日17日に五反田ゆーぽーとでの東京公演も控えているので興味ある方は是非ご覧ください。


(23:56)

2006年10月02日

新橋演舞場新橋演舞場で演出中の本木克英氏。10月2日より始まる中村獅童主演の舞台「獅童流森の石松」のゲネプロに立ち会った。とにかく初日の前日、様々なスタッフ、キャストが力を合わせひとつの舞台をつくっていく最後の段階。ここでも綿密なリハーサル、段取りの確認等がなされた。またおおがかりな装置も見物。今回私の音楽ではテンポのメチャ速いロック曲が4曲、うち1曲はシャッフルの速い曲。立ち回りのシーンや舞台転換で使用。これらのストリート系というかなんというかロックチューンは自分でも凄く気に入っていて録音もうまくいったものだ。またもうひとつレゲエの音楽があり、石松のテーマ風になっており「ザンザカザンザカ...」と私がヴォーカルしている。このメロディアレンジでマリンバ風アンサンブルの可愛いバリエーションが、石松の相手役おふみ(高岡早紀)のテーマ。また石松とおふみのラブテーマ風にピアノ、弦楽セクション、木管、パーカッション等でのスローなメロディアスな音楽、弦セクションのちょい和的なスローな音楽などが劇中に使用される。公演は2日から26日まで毎日行われる(マチネーの日もあり)。お問い合わせはチケットホン松竹03-5565-6000



(03:09)

2006年06月06日

そばやこの写真は軽井沢駅北口出てすぐ右にあるおそば屋さん。なのだが元信越本線のホームをリフォームしてできている。
写真中央奥に見える数段の階段上がったところが信越本線のホームだったところで、階段下から写真を撮っている位置のラインが本来線路が敷いてあったところ。写真は松井田方面を向いている。写真奥の窓の向うはまだそのままのホームが残っている。新幹線が開通して軽井沢から西へは第3セクターが運営する「しなの鉄道」になり、軽井沢〜横川間は鉄道がなくなってしまった。この軽井沢〜横川間には碓氷峠があって、大昔はアプト式鉄道だったり、その後もあまりに軽井沢への勾配が急なため、電気機関車を後ろにもう一台つけて押すカタチで碓氷峠を越えたわけだ。なのでいつも言ってるように軽井沢が標高高く気温低く、碓氷峠越えると別世界なわけなのだ。

変わってどろどろした世の中に戻ると、村上氏逮捕ですね。あまり株とかなんとか、そっちの世界の人間じゃないので村上ファンドとか、ホリエモンとか興味ない人たちなんですけど、こんだけ新聞テレビ賑わすとねえ、好きとか嫌いとか感想持たざるを得なくなる。日本が新しいカタチの時代になっていくんだと期待をもった人も多いでしょうね。経済界とか政界でよく保守的で権力的なジジイばっか出てくるよりなんか期待しちゃおうかななんて雰囲気だったし。投資活動による資本主義の自由で活発な経済行為自体は違法ではないし、いいんですけど、やっぱそういうことで巨額のマネーを得られるっていうのも資本主義のイマイチな点なんじゃないのかな。勿論共産主義は全然ダメだけど。しかし村上、ホリエモンに隠れほんまもんの巨悪がにんまりのさばってんじゃないのっていう気もするけど。「朝まで生テレビ」ではホリエモンなんかより談合体質のほうがいかんという声もあったし。
.....え〜っ?「プライド」の放映中止だって!黒い噂?

(01:18)

2006年03月10日

大阪のホテルで、深夜テレビ見てたら、久々に《やしきたかじん》の番組に出会った。
やしきたかじんは歌手だけど、タレントとしてなじんでいる。その強烈なキャラクターは東京ではお目にかかれない貴重なお方。いつもと違う曜日に大阪にいたので見れた。ラッキー!
相変わらず強烈でんな、たかじんはん。テレビとかに出る以前の売れない時代のエピソードをしゃべっていたけど、クラブで弾き語りやってたころ、ちゃんと歌を聴いてくれない客とホステスにナマ卵をぶつけた、とか。勿論その店は即クビだったらしい。
十数年前は東京圏でも「たかじんのばあ」という深夜番組やっていた。そしてその前にも東京で、たかじんメインの深夜ナマ番組があったがけど、番組のオンエアのさなか、気に入らないことがあって、ディレクターとあわず、帰ってしまったという伝説....いやいや、その時その番組見てましたっけ。

(01:40)

2005年09月30日

ストラヴィンスキーの続きのおまけ。
「グッバイガール」などニール・サイモンのシチュエイションコメディ等を映画にしていた名匠ハーバート・ロス監督の映画「ニジンスキー」には世紀のバレエダンサー、ニジンスキーを主人公にディアギレフのロシアバレエ団はじめ、まさにあの1900年代のパリを描いている。バレエ:ドビュッシーの「牧神の午後の為の前奏曲」ではニジンスキーは舞台でセクシャル行為を行い大スキャンダルになり、例の「春の祭典」の初演も勿論描かれている。ただうる憶えの記憶によるとストラヴィンスキーにはあまり焦点をあわせてはいない。
ディアギレフはゲイでニジンスキーともある種の関係だったようだが、後にふられてしまうシーンもある。エンターテインメントな映画に仕上がっているので見やすかったと思う。

(23:52)

2005年09月27日

Stravinsky 3 (前の日から続く)
1913年の「春の祭典」の初演はパリのテアトルシャンゼリゼで始まるが、途中から客席からのやじ、非難の怒号らで大パニックになってしまい、リハーサルで念入りに仕上げた斬新な音楽は見るも無残なカタチで終わってしまう。さすがのパリッ子でさえついていけなかったのだろう。
しかしその後すぐに「春の祭典」は多大な評価を得て世界中で演奏される現代の古典となった。日本では1950年代に初演されたが、番組に出てくるフルーティストの吉田雅夫氏が日本初演のオーケストラに参加した奏者として語る。「当時はちゃんと棒振れる指揮者がまだいなくて、東京ではどうにかうまくいったが、大阪公演では途中、指揮者がどこをやってるのかわからなくなり、スコアをひっくり返して探しまくってしまった。演奏者側もどうしていいかわからなくにそれらしい音を適当に吹いていた。そしてトランペットが最後のパッセージらしき音を吹いた時に偶然終わった。」ということだ。
でもその当時今のように情報も多い時代じゃないから、その曲ちゃんと知ってる人も多くないし、また間違えてもわかんない、っていうのが面白い。
ストラヴィンスキーはジャズの影響を凄く受けた作曲家であり、そのリズムの語法は独特だ。また、日本にも非常に関心をもっていて1912年に「3つの日本の抒情詩....富純...貫之」で、日本の短歌を歌曲にしている。1900年のパリ万博の影響だろう。
来日した際、故武満徹の音楽を絶賛し、武満さんが日本で認められるきっかけになったのは有名な話。
バレエ音楽「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」以外では「花火」「兵士の物語」「詩篇交響曲」「ダンバートンオークス」「3楽章の交響曲」「プルチネルラ」「エボニー協奏曲」「アゴン」「ピアノラグミュージック」などがある。新古典の時代といわれた「プルチネルラ」はあまり好きじゃない。やはり「春の祭典」後、ロシア革命によって海外生活を余儀なくされたのが作曲にも影響しているのだろう。第二次大戦前にニューヨークに渡り、晩年はロスアンジェルスに住んでいた。あのシェーンベルクの家も近かったらしいが親交はなかったそうだ。1966年自らへの鎮魂歌のような「レクイエムカンティクルス」を発表し、遺作の短い歌曲「ふくろうと子猫」を最後に1971年ニューヨークで永眠。ベネチアのディアギレフのお墓の近くに眠っている。...Stravinsky特集おわりかな...

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