ポップの歴史

2012年02月02日

6e144d54.jpg映画『キャデラック・レコード』は2008年に制作された作品。

前々から早く見なくちゃと思いつつやっと見ました、っていうところではあります。

ポップミュージック、それもブルース、R&B系のレーベル《チェス・レコード》の創設者のレナード・チェスとチェスレーベルでの最初のスターとなってシカゴブルースの巨人マディ・ウォーターズ(本名マッキンリー・モーガンフィールド。小さい頃しょっちゅう泥んこまみれだったことから、この芸名に)
を中心にエタ・ジェームス(つい数週間前に帰らぬ人となってしまった)、ブルースハープの第一人者のリトル・ウォルター、ロックンロールを作った男チャック・ベリーなどが織りなす音楽物語だ。

先日ご紹介したマーティン・スコセッシの『THE BLUES』と同様アメリカ黒人音楽のルーツを辿る教科書的な作品と言える。こういう作品を見ていると中学生の頃から好きだったロック、ブルース音楽がこうやって世の中にでたのかと、またその頃のミュージシャンはこんなだったんだあ・・・なんて結構ストレートに感慨深い気持ちになってしまう。
いろんな本で読んだことやアイテム、アーティスト名が繋がって、そうだったんだ!ととてもとても納得。
マーティン・スコセッシの『THE BLUES』の中の「GODFATHERS AND SONS」を監督したマーク・レヴィンが制作総指揮をビヨンセとともにしている。

レナード・チェスを演じるエイドリアン・ブロディが情けない感じや若いチンピラ風でとてもいい味だしてる。あくの強いマディ・ウォーターズを演じるジェフリー・ライトもヘアスタイル、髭の感じ、男っぽい感じなどマディの雰囲気をすごくよく表現している。
物語は、1950年代初めユダヤ人でポーランドからの移民の息子レナード・チェスがシカゴでライヴハウスをオープンされるところからはじまる。
スコセッシ監督の『THE BLUES』ではレン(レナード)・チェスの息子マーシャル・チェスが主役になる作品があり、ポーランドのチェスの出身の小さな村では村ごと皆でアメリカ合衆国に移住したと言っている。
また一方南部の畑でマディ・ウォーターズをフィスク大学の図書館用レコーディングとしてブルース音楽をフィールドワークするシーンがある。要するに民族音楽の採取のようなものだと思う。

マディ・ウォーターズはロバート・ジョンソンなどのデルタブルースをエレクトリック化してシカゴという街でブルースの新たなスタイルを作りシカゴ・ブルースのカリスマとなった人だがその感じも映像に表現しているあたりもわかりやすい。このシカゴブルースが白人のロックに与えた影響は絶大で、ロックの礎の音楽とも言える。

マディの最初のヒット作はボトルネックスライドギターが効く「I Can't Be Satisfied」(1948)。そしチェスの所属となりレコードは大ヒットしていく。またリトル・ウォルターとの友情関係やハウリン・ウルフの登場、そしてマディが下火になった頃にチャック・ベリーがロックンロールという新たなジャンルを開き大ヒット。そして歌姫エタ・ジェームス。このエタの役をなんとビヨンセが演じていて圧倒的な歌唱で聴かせるシーンが素晴らしい。ビヨンセはこの映画の制作総指揮者でもあり、自分の音楽のルーツになみなみならぬ情熱を注ぎ込んでいることがうかがえる。またプロダクションデザイナーや衣装担当の人のインタビューを聞くとビヨンセがとても謙虚にこの役作りをしていたらしい。その美術セット、衣装が1950年代のいい感じになっている。タイトルにもなっている高級車のキャデラックも何台も出てくる。
チェスレーベルのスタジオセットの再現がこれまた機材がレトロで、さすがに1950年代のスタジオって知ってるわけないのだが、こんな感じだったんだろうな、なんて楽しませてくれる。
とにかく全部「せ〜の」でやるレコーディング、いいねえ!
また酒、女、クスリ、金という部分も欠かせない題材であり、あっという間に成功を手にした人間のドラマでもある。

まあ100分程の物語にするために多少パスしていたりはしているが、ブルースファンにとっては嬉しい作品と言える。

マディの曲名からバンド名にしたROLLING STONESがデビュー直後の1965年頃憧れのシカゴ、チェスレコードでのレコーディングというのを昔から知っていたが、それがひとつのシーンに収められている。
確かその頃マディ・ウォーターズは売れない頃でチェスレコードのビルの壁を塗っていたというエピソードを聞いているが、この作品ではさすがにそこまでは描いていなかった。

話しは飛ぶが1970年代にマディのライヴ、それも小さなクラブでのライヴに客席にいたミック・ジャガーが突然マディに呼ばれ、飛び入りで一緒に歌う。そしてしばらくしてキース・リチャーズも呼ばれ、キースは満員で通路が通れないためか客席のテーブルの上にあがってテーブルの上づたいに歩いてステージに登場、だれかマディバンドのギタリストのギターを借りて弾き出す。まるで父と息子のようなセッションにマディやミック、キースもメチャ楽しそうな雰囲気がいいのを思い出す。
ミック・ジャガーは10代の頃、チェスレーベルに手紙を書いてロンドン郊外の自宅にレコードを個人的に通信販売してもらっていた。それがマディやチャック・ベリーのレコードだ。そんな当時のイギリスで売ってないレコードを持って通学途中の駅で偶然会った幼なじみのキース・リチャーズが「なんでそんなレコードもってんだ!」と意気投合して、その後ROLLING STONESになりロックというジャンルをつくってしまうわけだ。歴史デス。

話し戻って本編中、ベーシストで作曲家のウィリー・ディクソンがマディの代表作「フーチー・クーチー・マン」を作曲、その演奏や歌を説明していくシーンもなるほどなるほど!と感激だ。
マディのスライドギター、リトル・ウォルターのマイクをハーモニカに直結させたスタイルなどを見せてくれるシーンも作られている。アメリカ南部で生まれたブルースがシカゴという都会で、そして電気の発達によって進化した音楽スタイルになって人々に受け入れられていく状況も描かれている。勿論人種差別の時代だということも理解していないといけない。

監督脚本はダーネル・マーティンでこの人は白人女性。
DVDではメイキングや監督、スタッフ、キャストのインタビューもあり、こちらも興味深い。

この作品では当然のようにブルースやロックンロールばかりが流れるので、1950年代当時当たり前のように感じるが実はそうではなくて、ボブ・ディランの映画(「No Direction Home」マーティン・スコセッシ監督)で1950年代のアメリカのテレビで音楽番組のシーンがあるが、主流は勿論ブルースやロックンロールではない。しかし、その頃の白人音楽を聴くととてもとても古臭く昔の昔の音楽に感じてしまうのに比べ、そこにマディ・ウォーターズが出てくるシーンがあったが、今見ても圧倒的にかっこいいマディの音楽に驚いたのを思い出す。それくらいマディたちが作ったブルースやロック音楽が、その後様々に発展し、現在のポップの主流をカタチ作った証拠というべきことだろう。




(22:49)

2012年01月02日

c7a0802c.jpg2012年 謹賀新年

THE BLUES

巨匠マーティン・スコセッシ監督は今までに、ザ・バンド「Last Waltz」、ボブ・ディラン「No Direction Home」,ローリングストーンズ「Shine A Light」などなどロック音楽映画も撮っているが、この『THE BLUES』は7つの作品からなる超大作を製作総指揮した。大作っていう意味はメチャ金かけて凄く盛り上がるっていうことじゃない。
深く掘り下げたということだ。
すべて面白いし、ポップミュージックの歴史を学べる教科書のような作品。
凄いなあ、こんなフィルムをよく作ってくれました。ありがとうスコセッシ監督!
ピータ・バラカン氏も絶賛している作品。

各作品はミシシッピデルタ、メンフィス、シカゴ、ロンドン、西アフリカ(マリ)、ニューオリンズなど、ブルースに深く関係ある舞台をうまく分けているが、7つの作品は各監督に任せて自由な手法になっている気がする。

これは単にブルース(19世紀末にテキサス東部からルイジアナ、ミシシッピデルタ地帯で生まれた音楽形態)の歴史というだけでなく、アメリカポップミュージックの歴史、文化史としての役割も大きく、価値も高い。ポップ音楽の源流がブルースであることを改めて確認させてくれる。
ポップ音楽に親しんでいる人が一度は見てもらいたい気持ちにもなる。

僕もBLUESは自分の音楽の原点といっても良い。
中学生の頃ストーンズ、クラプトン、ジミヘンとブルースに影響受けたロックが好きだったし、
高校生の時はブルースバンドをやっていた。
初めてギターのアドリブコピーしたのはイギリスのジョン・メイオールのブルースナンバーでギターはミック・テイラーとかピーター・グリーン。
今考えると、マディ・ウォーターズなんていう渋いシカゴ・ブルースなんか聴いてる高校生なんていうのもずいぶん暗いような・・・いやいやそんなことはないのです。
ブルースは基本が3行詩からなる俳句のようなフォーム。
それは二重の意味を持たすこともある、シンプルでいて深い世界。
そしてブルースはその名前のように憂いのブルーな世界ではあってもジメッとした音世界ではない。詩の内容は教育上よくないものも多いのがブルースだが、ひどい状況をあっけらかんと歌ってしまうブルースはかっこいい気がする。

音楽的には長調短調という西欧音楽で計れない音の使用法が興味深い。ブルースを知ると白人中心的な考え方が間違えだったことがわかる。
また人種差別されたりしたアフリカ系アメリカ人の境遇など、社会の底辺で発達していった過程もとても魅力に満ちている。お金や権力でない、社会の隅っこから始まった小さな音楽がいまや世界中のポピュラリティを得ているという真実を見逃せない。

今年完成予定の僕の執筆したポップロックの作曲理論の本にも「BLUES」のチャプターを設けて分析した。
それは別にマディ・ウォーターズのようなブルースマンを目指すわけでなくても、ポップミュージックのありとあらゆるところにブルースがあり、それらは普通の人にはわからなくてもエキスのように、または隠し味のようにポップ音楽にはブルースが潜んでいる。ヨーロッパアカデミズムにはない音楽の語法なので、そしてそれらが今みんなが好きな音楽に直結しているので、ロバート・ジョンソンに興味なくてもブルースを知ることは重要なカギを手に入れることになる。ジャズもブルースが土台となって20世紀初頭にニューオリンズで生まれた。ジャズ、ブギウギ、ホンキートンク、ロックンロールなんていう言葉はすべて元はやヤバい意味からきてるの比べ「BLUES」っていう言葉はある意味お洒落!とも言える。

製作総指揮がマーティン・スコセッシ。7つの作品は80分から100分程の基本的にはドキュメント構成。

「THE SOUL OF A MAN」がなんとヴィム・ヴェンダース(ドイツ人)監督作品。僕にとってヴェンダースの「パリ・テキサス」「ベルリン・天使の詩」は最も好きな映画だし、「パリ・テキサス」でのライ・クーダーの音楽は素晴らしい。
ここでのヴェンダースは戦前の伝説的なBLUESを掘り下げ当時の録音に新たに録った映像をシンクロさせて俳優に演じさせる手法等を盛り込んで、ドキュメントを超えた映像を作りあげた。
ブラインド・ウィリー・ブラウン、スキップ・ジェイムス、J.B.レノアーの3人にスポットをあて、現代のミュージシャン、ルー・リード、カサンドラ・ウィルソンなどのナマ演奏のカバーも取り込んでいい効果をあげている。

「FELL LIKE GOING HOME」はマーティン・スコセッシ監督でコリー・ハリスという現代のブルースミュージシャンをホスト役にミシシッピデルタ地帯からBLUESのルーツを辿り、奴隷時代をさかのぼるように西アフリカに行く。サリフ・ケイタなどとのセッションもある。

「RED WHITE & BLUES」はマイク・フィギス監督でイギリス人。1950年代にマディ・ウォーターズなどがでてシカゴブルースは全盛になるが、その後は忘れ去られる。またアメリカではレイス(人種)ミュージックと呼んでラジオにかけてもらえなかった。1960年代にイギリスでローリング・ストーンズ、エリック・クラプトンらが成功するが、彼らのアイドルは黒人ブルースだった。そこで再びマディ・ウォーターズらも脚光浴びる。そしてロックミュージックもポップのメインストリームになる。そんな図式からイギリスのブルースシーンを探った作品。
セッションではトム・ジョーンズ、ルルらがブルースを歌う。この伴奏にジェフ・ベックらがいる豪華セッション。ルルは1960年代にアイドル的なシンガーだった記憶があるがここでは渋いブルージィな歌を披露、驚いた!ジェフ・ベックのプレイがまた凄い。

「THE ROAD TO MENPHIS」はリチャード・ピアーズ監督。社会派の作風で知られる人。
テネシー州のメンフィスもシカゴと並んでブルースの聖地。ブルースの王様B.B.キングなどここから巣立ったブルースマンに焦点をあてた。
ビール・ストリートと言うメンフィスの一大拠点でのロケも貴重な映像。
アメリカにはいくつも音楽の聖地があるのが魅力だし、メンフィスサウンドと呼ばれたアレンジやレコーディング、隣のナッシュビルはカントリーウエスタンの聖地なのに隣は昔はほぼ黒人ばかりだったというメンフィスも面白い。

「WARMING BY THE DEVIL’S FIRE」はチャールズ・バーネット監督。ミシシッピ生まれのアフリカ系アメリカ人監督。ミシシッピにやってきた黒人少年の目を通した作風でフィクション的に描く。サン・ハウスらの貴重映像も挟み込まれるがボトルネックのスライド奏法での弾き語るサン・ハウスの圧倒的な歌が凄い。
ロバート・ジョンソンの「クロスロード伝説」をちょっと題材にしているシーンもでてくる。

「GODFATHERS AND SONS」はマーク・レヴィン監督。レヴィンは最も権威あるジャーナリストとしても有名でカンヌなどで受賞している才人。
ここではシカゴに1948年に設立したレーベル「チェス・レコード」に焦点をあてて、その2代目のマーシャル・チェスを中心にドキュメントされている。シカゴブルースの大御所マディ・ウォーターズを世に出したチェス・レコード。そのマディの楽曲「Rollin Stone」からバンド名を決めたイギリスの若者たちがROLLING STONESとなってロックの立役者となる。
チェス・レコードの住所はストーンズのアルバムに「南ミシガン通り2120」として有名。僕もガキの頃になんか変わった曲名だなあなんて思っていたのを思い出す。

ここでは現代ヒップホップのチャックDとマディの楽曲とのコラボ企画を進めていく過程を追っている。マイルスバンドにいたピート・コージーなんかが出てきて驚いた。

「PIANO BLUES」はこれまた、な!なんとクリント・イーストウッド監督。ジャズ、バップの創始者チャーリー・パーカーを描いた映画も撮ってるほど音楽に造詣深いが、イーストウッドはブルースにもめちゃ詳しい。本人がホスト役で進んでいくが様々なピアニストにピアノのところでリラックスしたインタビューをしてちょっとピアノを弾いてもらって、と自然な流れが素晴らしい。
ブギウギピアノ、ストライド奏法のピアノ、などの解説、何といってもニューオリンズスタイルのピアノが紹介されていてめちゃ良い。
独特の奏法を生み出したプロフェッサー・ロングヘアの昔の演奏映像、ドクター・ジョン、マーシャ・ボールなどのナマでの演奏などニューオリンズ系のピアノが素晴らしい。ドクター・ジョンがブギウギピアノのサワリを解説してくれるのもわかりやすい。
またジャズのアート・テイタムの華麗なテクニックには驚かされる。これは1940〜50年代の映像か?
レイ・チャールズとの会話も楽しい。そしてブルースピアノと言ったらやはりオーティス・スパン。この人の映像も挟み込まれる。ファッツ・ドミノ、ジェイ・マクシャンなどいっぱいピアニストが出てくる。

ピアノを習うといったら西欧クラシックだが、こういうピアノ音楽があるっていうのも子供達に知らせたい気になる。そういえばクラシックの超有名クラリネット奏者のストルツマンが小さな息子とブルースセッションしているのを思い出した。日本ではありえないだろうな・・・なんて。

是非また作品別に紹介したい。





(01:11)

2009年06月18日

72956570.jpgこのシリーズも11回を迎えた。今回はブラックミュージック側からの番だ。前回JAZZの出現までいったのでおさらいしつつ進もう!

J A Z Z


  1900年頃ルイジアナ州ニューオリンズでジャズが生まれる。

---ニューオリンズでの物語--- ニューオリンズ・ジャズ  ディキシーランド・ジャズ
■ルイジアナ州は1803年にアメリカ合衆国がフランスから金で買い取った地域。
 それ以前、スペイン領だった時代もあり、港町ニューオリンズ混血的な混合文化のルツボの街だった。早くからオペラ劇場があったり、アフリカ風の音楽も行われていた。
←スペイン領だったのでイギリス人の支配していた北部に比べ奴隷制度も南米と同様にゆるやかだった。
ニューオリンズのコンゴスクエアでは一定の時間になるとアフリカ音楽アフリカンダンスが許されていた。
 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
 アメリカ合衆国に編入されてからは厳しくなり、文化の歪み軋みがJAZZを生んだのかもしれないし、逆にスペイン、フランス時代のおおらかさがJAZZを育んだのかもしれない。

■南北戦争後、軍楽隊の楽器が放出、貧しい黒人たちにも楽器が手に入った。
■ニューオリンズのフランス人たちは黒人女性を妾にして混血の子を多く生んだ。北部アメリカ合衆国では混血児(クレオール、ブラッククレオール、クレオール・オブ・カラーと呼ばれた)は黒人扱いされ差別されたが、ニューオリンズでは白人扱いで、例えば教育を受け、ピアノを習わせたりした。これらのクレオールたちがJAZZの誕生に多大に貢献した。

■1890年頃、ニューオリンズは全米唯一の政府公認の歓楽街売春地区ストーリィヴィルがあった。
 ストーリィヴィルの売春宿こそがミュージシャンの働きどころだった。店の宣伝の為のバンド、店の中ではピアノの演奏が行われた。
■JAZZ⇦⇦JASS (フランス語で性表現の俗語----Jaser=元気がでる)
 Race Music ⇦⇦ 当時黒人音楽のことを総じてRace Music と呼んだ。差別的な表現。

■ニューオリンズの風習にお葬式の時の独特のパレードがある。
 まずブラスバンドで讃美歌を物悲しく演奏し墓地に向かう⇨⇨⇨FIRST LINE
次に、墓地で棺桶を埋めた後の帰り道は賑やかな音楽で飛んだり跳ねたり踊り狂う⇨⇨⇨
 これをSECOND LINE(セカンドラインの音楽)と呼んでニューオリンズ黒人音楽のルーツと言われるスタイルとなりジャズの誕生への伏線になっていった。

ファッツ・ドミノ、プロフェッサー・ロングヘアーからアラントゥーサンなどニューオリンズ・スタイルと呼ばれるリラックスしてファンキーな独特のピアノ音楽が生まれた。

■1917年、第一次世界大戦で軍港となったニューオリンズは売春地区が閉鎖される。
 音楽活動、働き口を失った黒人たちはミシシッピ川を北上、北部工業地帯へ移っていった。
 
こうして19世紀末に準備しつつあったアメリカ合衆国での黒人音楽は20世紀初頭にJAZZによって花開き、ショーなど商業エンターテインメントとなって成長していく。アメリカ合衆国では支配階級の白人たちは表向きでは人種差別をしながらも夜の歓楽で、自ら楽しむ時では黒 人たちの魅力、才能を認めざるを得なくなり、黒人音楽文化は更に更に膨張していく時代になっていくわけである。

1890年頃都会で流行したピアノの2ビートの音楽、RAG TIME MUSICもJAZZの出現に影響を及ぼしているがラグタイムでは即興のパートはほぼなかった。ラグタイムではスコット・ジョプリンの「エンターテイナー」は現在でもよく聴かれる超有名音楽。


1920年代:黒人音楽文化の黄金期に   -----1929年の大恐慌まで

1917年ニューオリンズの白人楽団、オリジナル・ディキシーランド・ジャズバンドが初めてレコード録音。


ルイ・アームストロング: 

1900生trumpet奏者、vocalist⇨⇨初めてアドリブソロでジャズ史に不朽の名作を残した。


デューク・エリントン :

1899年ワシントン生まれ pianist デューク・エリントン楽団を率いて黒人音楽のオーケストラ表現に前人未到の境地を切り開いた。ニューヨークの「コットンクラブ」等まずはキャバレー、ダンスホールでの仕事で活躍。「コットンクラブ」ではジャングル風ステージでの男女のセクシーなダンスパフォーマンスとエリントンの音楽が話題になりエリントンの音楽をジャングルサウンドと呼んだ。
            
「Black Tan Fantasy」は名曲⇨⇨この時代は黒人音楽、JAZZ等は芸術とはみなされていなく、カーネギーホールでジャズが演奏されるのは1940年代のベニー・グッドマン(白人)までかかる。

 

  ビル・ロビンソン:   タップダンサー
  バート・ウィリアムズ: 幅広い芸人(ヴォードビリアン)
  ベッシー・スミス:   ヴォードビルのステージで完成度の高いジャズ・ブルースを歌う。
  キャブ・キャロウェイ: 歌手、コメディアンとして活躍。

  ベッシー・スミス、キャブ・キャロウェイ等はニューヨークのハーレムで活動。

ジャズは大都会で商業エンターテインメントとして発達していくが、これらとは別に南部、特にミシシッピあたりのブルース、ゴスペルは独自に発展していく。

続く........


参考文献:ミュージックマガジン社 中村とうよう、青木啓、日暮泰文、濱田滋郎、長門芳郎...各氏の文
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(21:38)

2009年04月23日

d1c10cd5.jpgこの「JAZZ / POP の歴史だあ!」シリーズも10回目だ、不定期的なので申しわけないですが、興味ある方は前回、前々回と振り返っていただくとわかりやすいです。
で、前回はブラックミュージック側だったが、また今回は白人寄りの出来事中心で、「ミュージカル」という形態に発展した後になります。
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ティンパン・アレイ  

ニューヨークのマンハッタン28丁目5番街とブロードウェイとの間に1880年代から数多くの楽曲出版業者が集まりオフィスを構え大繁盛した。楽譜を買いにくる客の為にソング・プラガーと呼ばれる演奏家がピアノ又はピアノと歌で、今で言うデモ演奏をした。時には客も加わり大騒ぎにになるほど人気が出た。その一角を「ティンパン・アレイ」(訳すとドンチャン横丁!?)と呼ぶようになった。やがてポピュラー音楽業界そのもの、ポップソング(職業作曲家による楽曲)自体を指す言葉にもなった。しかし、1930年代にラジオ、トーキー映画、レコードという新しいメディアの誕生により楽譜販売という形態でのポップミュージックの流行は衰退していった。

流行歌という概念...これもハードの発達や貴族社会の没落、資本主義の発展と関わる。1930年代頃からはラジオやレコードの発明により、そんなにお金がかからなく歌が聴ける、というポップミュージック、流行歌の形態に大革命が起こるが、それ以前はこういう「ティンパン・アレイ」なるシステムで譜面を購入して人々は音楽を楽しんだわけだ。しかし譜面を読めなくては楽しめないし、買った譜面を例えばピアノなどで演奏しないと、具体性に乏しいので、まだまだある程度のお金持ち階級しか音楽を趣味にはできなかったのではないだろうか。

--------ティンパン・アレイ出身の作曲家、歌手

アーヴィング・バーリン 

作詞作曲家....ロシアからの移民の子でハリー・フォン・ティルツァー出版社でのソング・プラガー、シンギング・ウェイターをしながら作曲家になった。
●1911年 「アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド」が大ヒット、スタンダードになる。この曲はアメリカンポピュラー音楽史最初の世界的大ヒット曲になる。
●1942年 「ホワイト・クリスマス」(映画主題歌)
●1946年 「アニーよ銃をとれ」(ミュージカル)
他にも「チーク・トゥ・チーク」などヒット作品多い。

ジェローム・カーン 

1885年〜1945年ニューヨーク生まれ。作曲家....ハームス音楽出版社のソング・プラガー出身。
●1912年 「赤いペチコート」(ミュージカル)がで注目される。
●1927年 『ショー・ボート』での「オールマン・リヴァー」は黒人歌手ポール・ロブスンの名唱が有名。
     原作はエドナ・ファーバーの小説で黒人問題を取り上げた異色傑作。


ルドルフ・フリムル 

チェコスロヴァキア出身 
1924年『ローズマリー』での「インディアン・ラヴ・コール」が有名。


ジグムンド・ロンバーグ 

1889年〜1951年 ハンガリー出身
●1914年「世界の渦巻」、1924年「学生王子」、1926年「砂漠の歌」。
●1928年『ザ・ニュー・ムーン』からは「朝日のようにさわやかに」「恋人よ我に帰れ」がスタンダードになる。
この「Softly as morning sunrise」 や 「Love,come back to me」などはジャズの演奏でも有名。まずジャズのスタンダード演奏すると言ったら「Softly as morning sunrise」は必修曲。「恋人よ我に帰れ」はなんといってもビリー・ホリデイの歌が最高かな。ほんとうに心を打つ歌を歌えるシンガーってビリー・ホリデイのような人なのではないか。彼女の節回しからは「譜面のオタマジャクシ」は見えない、ほんとうの生きた歌がそこにあるのみと言えよう。

ルドルフ・フリムルとジグムンド・ロンバーグの先輩各19世紀からブロードウェイで活躍したアイルランド出身のヴィクター・ハーバードがいる。


ウィリアム・クリストファー・ハンディ の名曲「セントルイス・ブルース」は1914年。


続く........


参考文献:ミュージックマガジン社 中村とうよう、青木啓、日暮泰文、濱田滋郎、長門芳郎...各氏の文
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photo: y.suo at GOK Sound. (写真は本分と全く関係ないデス)




(00:44)

2009年02月03日

fe979084.jpg前回は白人寄りからミュージカル辺りの誕生まで来たが、今回は黒人音楽側に沿ったほうの続きをしよう。
「ブルース」の誕生以後の展開だ。

1月21日アメリカ合衆国では初めて黒人のオバマ大統領が就任した。このアメリカでのポップミュージックの歴史を見ると黒人の差別の歴史、そこから生まれたブルースやジャズが大きな存在になって20世紀の一大ロックムーブメントやポップ音楽の隆盛に結びつく。19世紀のアメリカを代表すると言われる作曲家スティーヴン・フォスターも黒人音楽の影響があった。また20世紀初頭でも法律や上っ面の生活では黒人差別しながらも夜の歓楽街ではジャズが流行し、黒人のその魅力溢れる新しい表現形態を認めざるを得なかったアメリカ。そのアメリカが表舞台のトップにも黒人を据えたというのは計り知れない大きな事実だと思う。

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■アメリカ合衆国建国の最も古い歴史をもつのがヴァージニア州。スコットランド、アイルランド移民が多くトラッド系の音楽、イギリス特有のBallads(物語歌)がどこよりも残されていった土地。ここに来た黒人たちはその影響を受けた。弾き語りの要素の強いスタイルでジョシュ・ホワイトらのブルース・ミュージシャンはその後ニューヨークに出てフォーク系にも大きな影響を与えた。

■ブギウギ(BoogieWoogie)が 生まれた。 
 *1921年ジェームス・P・ジョンソンの「ストライドピアノの女」を録音。
 *1927年ミード・ルクス・ルイスの「ホンキートンク・トレイン・ブルース」がヒット。
 ブギウギはその後のRock'n Rollという形態へも繋がっていく。
 Boogie=悪い女 BoogieHouse=女郎屋 ピッチンブギ=イッパツやる.....等のスラングが語源 
 
 *1934年以降ヴィクターのブルーバード・レーベルに録音されたビッグ・ビル・ブルーンジー、タンパ・レッド、サニー・ボーイ・ウィリアムソンらのバンド化されたブルースをブルーバード・ビートと呼ぶ。
■1940年代にエレクトリック・ギターが開発されブルースもシカゴなどではバンド化されたスタイルになり、それがR&B、Rock'n Rollの誕生を助長した。
1944年のルイ・ジョーダンのJUMP BANDも重要----R&Bへの布石となると思われる重要な動き。
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ニグロ・スピリチュアル(黒人霊歌)から黒人教会で発達していったものは.....

サーモン sermoe -----牧師の説教から、熱を帯び次第に歌うような調子になり説教される                       聴衆も熱狂的に合いの手を入れて盛り上がる。
リングシャウト  -----会場はエクスタシーに包まれ、床を転げ回ったり叫んだり.....

ゴスペル・ソング -----ニグロ・スピリチュアル(黒人霊歌)に原型の頃のジャズの要素が入ったもの。 1930〜40年代の黒人教会から生まれた。マヘリア・ジャクソン、クララ・クード・シンガーズなどが有名。黒人霊歌がフォークだとするとゴスペルは歌謡。
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J A Z Z


  1900年頃ルイジアナ州ニューオリンズでジャズが生まれる。

---ニューオリンズでの物語---
 
ニューオリンズ・ジャズ .......最も初期のジャズであり、その黒人バンドをこう呼んだ
ディキシーランド・ジャズ....... 最初にレコーディングした白人バンドの《オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド》にちなみこの時代のジャズを黒人バンドも含め、後にディキシーランド・ジャズと呼んだ。黒人のバンドよりはノリなど技術的には下手だったと言われる。
*ディキシーランドとはミシシッピ州、ルイジアナ州あたりの地域を指す。

■ルイジアナ州は1803年にアメリカ合衆国がフランスから金で買い取った地域。ニューオリンズは奴隷貿易の拠 点の港で栄えていた。それ以前、スペイン領だった時代もあり、港町ニューオリンズ混血的な混合文化のルツボの街だった。早くからオペラ劇場があったり、アフリカ風の音楽も行われていた。

←スペイン領だったのでイギリス 人の支配していた北部に比べ奴隷制度も南米と同様にゆるやかだった。ニューオリンズのコンゴスクエアでは一定の時間になるとアフリカ音楽アフリカンダンスが許されていた。19世紀末からブルースという黒人音楽が確立しJAZZの土台が出来ていた。
 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
アメリカ合衆国に編入されてからは厳しくなり、文化の歪み軋みがJAZZを生んだのかもしれないし、逆にスペ イン、フランス時代のおおらかさがJAZZを育んだのかもしれない。

続く。

参考文献:ミュージックマガジン社 中村とうよう、青木啓、日暮泰文、濱田滋郎、長門芳郎...各氏の文
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(00:58)

2008年11月09日

0b2014af.jpg前回のこのコーナーでブラックミュージックのほうはBLUES までいった。今回は白人中心のほうでミュージカルを作り上げた人たちを紹介。

ジョージ・M・コーアン (1878〜1942)
----両親がヴォードヴィリアンでマンハッタン・タイムズスクエアに銅像が建てられている、ミュージカルの父と言われている。
●1901年ミュージカル「ザ・ガヴァナーズ・サン」を書く。ブロードウェイで上演。
●1905年「リトル・ジョニー・ジョーンズ」はアメリカンミュージカルがヨーロッパ風オペレッタと明らかに異なることを顕著にした作品として有名。
●1917年「オーヴァーゼア」「ブロードウェイによろしく」「ヤンキー・ドゥードル・ボーイ」等のヒット曲を生む。
この頃アメリカ的なポピュラーソングというものが確立し始める。

●「ビル・ベイリー、家へ戻ってくれないか」(1902年ヒューイ・キャノン作)はディキシージャズな黒人風の歌として流行る。
●「ネリー、陽が昇るまで」(1905年 ハリー・フォン・ティルツァー&アンドリュー・スターリング作)、 
●「僕を野球に連れてって」(1908年 アルバート・A・ティルツァー&ジャック・ノーウォース作)

フローレンツ・ジーグフェルド ----プロデューサー
●1907年「パリの園」はニューヨーク劇場の屋上にステージを設け、妻アンナ・ヘルド主演。
 パリのレヴューをヒントにデラックスなアメリカン・レヴューを制作。これがアメリカ芸能誌に残るジーグ  フェルド・フォーリーズの始まりとなる。
●1910年「フォーリーズ」で有名になったのがファニー・ブライズで「ファニー・ガール」(1964年バーブラ・ストレイザンド)は彼女の物語。
●「フォーリーズ」は1934、36,37,43年と上演し成功を収めた。

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参考文献:ミュージックマガジン社 中村とうよう、青木啓、日暮泰文、濱田滋郎、長門芳郎...各氏の文
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別件ですが...写真の赤い実、9月9日付のこのブログ是非見てください。その時は緑色だったんです!



(01:31)

2008年08月30日

7021fb7f.jpg前回8月初めのこのシリーズでは白人中心にミンストレル・ショー、ヴォードヴィルからミュージカル誕生までいった。今回はまた黒人のほうに注目して19世紀末に生まれたブルースについて。

B L U E S
■ミシシッピデルタ地帯、テキサス東部辺りの綿花畑地帯でブルースは生まれた。(ちなみにJAZZ はニューオリンズという大きな街で生まれる)
■19世紀末に黒人たちはギターという楽器でブルースという個人の苦悩、悲しみ、怒り等を独自の表現法を生み出していった。
Guitar使用は重要なファクター---アメリカ人がギターを知ったのは南部のいくつかの州がメキシコ領だったり、スペイン領だったりした。スペイン系は音楽文化にギターを使っている。またアパラチア山に入植したスコットランド、アイルランド系の人々がギター中心のトラッド系音楽を伝える。
 
アメリカ合衆国は1840年代にメキシコと戦争をしてテキサス、カリフォルニアを奪う。   
1890年代にスペインと戦争して南部の州を奪う。

■それ以前はフィドル(Violin)が一番親しまれた楽器だった。
「ギター弾き語り」という表現形態によって黒人霊歌(ニグロ・スピリチュアル)等の集団ではなく個人の表現が可能になった。
奴隷制度から解放され自由になっても、今度は生活の苦しさを味わう。→→結果的にブルースを生む土壌ができてしまった。個人の生活苦の表現形態。
イギリスからもちこまれたBALLAD(物語り歌) のスタイルを黒人たちが取り入れていくうちに、しだいにブルースのスタイルができあがったのではないか。

■ブルースのシャッフル(跳ねたリズム)をピアノに置き換えブギウギ(BoogieWoogie)が生まれた。 
*1921年ジェームス・P・ジョンソンの「ストライドピアノの女」を録音。
*1927年ミード・ルクス・ルイスの「ホンキートンク・トレイン・ブルース」がヒット。


■ブルースは苦悩、悲しみ、怒りを比喩的表現、悪魔、性など様々な題材を取り入れて3行詩による歌詞、白人風の例えば長音階和声にブルーノートと呼ばれるフラットした音、シンコペーション、3コードによるシンプルな形態で表現、発達していき、その後のジャズ、R&B,ロック音楽などポップミュージックの一大源流となったと言えよう。

ギター、ボトルネック(スライド)ギター、ハーモニカ、ヴォーカルでの表現が多い。
フォーク・ブルース カントリー・ブルースでは
ブラインド・レモン・ジェファーソン(1997〜1930)テキサス生まれ。ミシシッピスタイルで はビッグ・ビル・ブルーンジー、ミシシッピ・ジョン・ハート、レッド・ベリー、ロバート・ジョンソン、サン・ハウス、ライトニン・ホプキンス。シカゴ派ではマディ・ウォーターズ、ジョン・リー・フッカー、ハウリン・ウルフなどがいる。
それらに続いてバディ・ガイ、オーティス・ラッシュらの都会派ブルース。アルバート・キングのギターソロのスタイルはそのままエリック・クラプトンによってスムーズでビブラートを効かせたブルーススタイルとなり、ロックギターの確立にもなった。またB.B. キングは1970年代最も人気のあったブルースアーティスト。

1930年代、ロバート・ジョンソンは生涯に29曲のブルースを残し27歳で他界したが、現在でもエリック・クラプトン、ローリング・ストーンズをはじめ多くのロックミュージシャンに影響を与えた。
1960年代末のロックブームもブルース寄りの白人ロックからスタートした。

■19世紀末から20世紀初頭にかけて、ルイジアナ州ニューオリンズ、ジョージア州アトランタ、テキサス州ダラス、テネシー州メンフィス、ミズーリ州セントルイス、シダリア、カンサスシティ、ケンタッキー州ルイスヴィルなどの町で黒人ミュージシャンはラグ・タイム、ストリング・バンド、ミンストレル・ショー、ブルース、ブギウギ、ゴスペル等の音楽形態を発展させた。やがてニューヨーク、ワシントン、シカゴへも飛び火する。

ところで、1962年から63年頃のニューポート・フォークフェスティバルの映像を見るとボブ・ディラン、ジョーン・バエズ、ピーター、ポール&マリーら白人フォーク陣にまじり、サン・ハウス、ハウリン・ウルフ、ミシシッピ・ジョン・ハート、ブラウニー&マギーらのブルースミュージシャンが出演していて、その渋い本物のブルースを聴かせてくれる。これは一見の価値あり。DVDにもなっている。

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参考文献:ミュージックマガジン社 中村とうよう、青木啓、日暮泰文、濱田滋郎、長門芳郎...各氏の文
写真は ブルースハープと歌で有名なSonny Boy Williamson

(01:13)

2008年08月06日

1b8300f9.JPG前回は南北戦争前後までいったので、もう一度「ミンストレルショー」から復習しつつ、今回は主に白人音楽の流れから.....

ミンストレル・ショーMinstrel Show ミンストレルショーは中世ヨーロッパで王侯貴族に奉仕 したプロフェッショナルな芸人に始まるスタイルが元になっている。アメリカ合衆国でのミンストレルショーは下 層階級向けで、白人が顔を黒塗りにして黒人風を装い軽いミュージカル風なものを行うものだった。

●1827年 G.ディクソンの「真っ黒けのバラ」が最初の頃に評判になったミンストレルショー。
●オリジナル・ヴァージニア・ミンストレル一座「ディキシー」は人気を博した。
●エドウィン・P・クリスティ一座はスティーヴン・フォスター作品を流行らせる。
●大河ミシシッピ川でのミンストレルショー興行→→「ショーボート」と呼ばれた。
 1849年からのSHOW BOAT「ヒューロン号」は10年間ミシシッピ川を上下し人気あった。

●Barber Shop Quartet と呼ばれる理髪店で行われた素人のど自慢コーラスが流行。→→後のミルスブラザーズはこの流れから出てきたグループ。
●この頃の歌の唱法はまだクラシカルなものだった。
●南北戦争(19世紀中頃)後は本当の黒人によるミンストレルショーも出現した。しかし、1860年代末には衰退、代わってヴォードヴィルが盛んになった。

ヴォードヴィル(Vaudeville) 

ヴォードヴィルはフランス語で通俗喜劇、バラエティショーといったもので、イギリスから持ち込まれ、アメリカでミンストレルショーの要素が加わって発展した。歌、演劇、ダンス、寸劇、喜劇、漫談、マジック、曲芸等が繰り出される一大大衆芸能として発展していった。
●1871年ケンタッキー州ルイスヴィルでのH.J.サージェント一座の「サージェント一座の素晴らしきヴォードヴィル・カンパニーfromシカゴ」がヴォードヴィルの草分け的存在。
●元々ミンストレルショー芸人だったトニー・バクスターがヴォードヴィルのプロモーター、プロデューサーとして発展させ、多大なエンタテインメント精神のスタイルが発達していった。

ミュージカル(Musical) 

ヴォードヴィルとほぼ同時期に生まれた。ヨーロッパのオペラ、オペレッタや歌と詩で物語が進行するバラッドオペラが下敷きになっている。
●1868年ニューヨーク、ブロードウェイ上演「ブラック・クルック(黒衣の怪盗)」が注目を浴びる。
 〈ミュージカル・エクストラ・ヴァガンザ=音楽笑劇〉と銘打たれた。
●1883年 発明王トーマス・エジソンが監督した電気応用の「エクセルシア」上演。
●1885年 ヴォードヴィル界の大物トニー・バクスターもミュージカルをプロデュース。そのミュージカル「連隊の娘ポリー」の主演リリアン・ラッセルはアメリカ芸能史上に残る大女優。

イギリス系トラッド音楽の伝承
■一方18世紀に東部アパラチアの山に入植した、スコティッシュ、アイリッシュの人々は孤立的な生活をしていた為に伝統のトラディショナル音楽がそのまま残った。「グリーン・スリーヴス」「スカボロフェア」等。この土地がカントリー音楽の故郷となる。

「映画」という新しい形態誕生!
■1895年3月22日パリではリュミエール兄弟が《シネマトグラフ》を開発、スクリーン上映。一年前の1894年にアメリカではエジソンが《キネトスコープ》を一般公開したが、こちらは覗き穴方式。
 《シネマトグラフ》の9ヶ月後には、そのサイレント映画にピアノ伴奏がつけられた。
■1905〜10年にかけアメリカでは《ニッケルオデオン》と呼ばれる簡易映画館が一般に普及、流行る。
 そこではピアノ伴奏や小楽団が伴奏をナマでつけた。音楽はベートーベン、メンデルスゾーン、チャイコフスキーなど既成のものだった。1910年前後からオリジナルの音楽をつくるようになった。
 フランスでは大作曲家サン・サーンスが1908年に『キーズ公の暗殺』に音楽を作曲。


参考文献:ミュージックマガジン社 中村とうよう、青木啓、日暮泰文、濱田滋郎、長門芳郎...各氏の文

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(00:09)

2008年05月28日

NANOHANA


復習しつつアメリカ合衆国でのポップ歴史を追う.....(前回、4/25の続きです)

●1863年南北戦争が終結(北軍勝利)。
リンカーン大統領が奴隷解放を宣言。 この後アメリカ合衆国は農業から工業への転換期を 向かえる。南部の綿花畑などから北部工業地帯の都市へと労働(働き口)を求めていく。
黒人たちは奴隷からは解放されたが、今度は自ら労働者として人種差別の中、苦労していく時代が始まる。
⇦⇦⇦奴隷制度のもとでは勿論人権も人格も認めてもらえない、言って見れば 家具のようなモノ扱い(動産として扱われていた)されていたがおとなしく奴隷労働さえしていれば生きていけた、とも言える。奴隷解放といっても公民権が得られるのは1960年代。

ケイク・ウォーク、ストンプ、シミー、ラグ・タイムといったダンス音楽スタイルが生み出されていく。

■ 都市部ではViolin,Guitar,BanjoにClarinet,Trumpetなどを加えたバンドが流行る。
  RAG TIME は1890年頃に大流行。ピアノ中心の2ビートの音楽で、ヨーロッパの2拍子の音楽が黒人によってシンコペーションの強いスタイルになったもので、ジャズの発展する直前の音楽。即興の要素はない。*スコット・ジョプリンの「エンターティナー」は有名。スコット・ジョプリンは南部生まれの黒人だが大学を出てアカデミズム音楽を身に付けた。シンコペによって時間がずれることからラグという名前がついた。
■ 南部メンフィス、ルイスヴィルなどではStringBand(Violin,Guitar,Banjo)にHarmonica,Kazoo,Washboardなどの編成によるジャグバンドのスタイルが生まれていく。

■ Ballad( 物語歌)で『ジョン・ヘンリー』(力持ちの鉄道工夫)、『フランキーとジョニー』(恋人同士の嫉妬が殺人事件に)などが生まれた。それらを歌い演じる吟遊詩人、芸人が人々の集まるところを探し求め旅した。

  それらの芸人は時に薬の宣伝販売を行う香具師(やし)としても活動した。(1930年代ブルースのロバート・ジョンソンにもそういった歌がある)   ⇩
  メディスン・ショーと呼ばれた                       
  また、テント掛けの小屋で興行する白人が顔を黒塗りで歌、芝居、喜劇を行うミンストレル・ショーも19世紀半ばには流行した


つづく.....

(参考文献:ミュージックマガジン社 中村とうよう、青木啓、日暮泰文、濱田滋郎、長門芳郎...各氏の文)


写真は御牧ヶ原の菜の花畑(クリックするとキレイに見れます)


(00:37)

2008年04月25日

木が横

復習しつつアメリカ合衆国でのポップ歴史を追う.....

●1492年ヨーロッパ人のコロムブス西インド諸島へ到着、これ以後ヨーロッパ人の南北アメリカ大陸への移住が始まる。
●1518年 西アフリカからカリブ海の島に奴隷が連れてこられる→→→以後約370年間に1500万人(実際は4〜5千万人?とも言われている)のアフリカ人が奴隷として南北アメリカ大陸に来る。
 1873年に最後の奴隷船。主にセネガル、ガーナ、ナイジェリア、マリ、シエラレオネ等西アフリカから。
●1619年にアメリカ合衆国ヴァージニアに初めて20人のアフリカ人奴隷がオランダ人によって連れてこられる。 1776年イギリスより独立、アメリカ合衆国誕生。
●19世紀にミンストレルショーなど大衆芸能が発達。
 アングロサクソン系からは物語り歌のBALLAD,アイリッシュ、スコットランド系からはジグ、リールといったダンス、ダンス音楽が、また教会音楽、クラシカルなアカデミック音楽も持ち込まれた。
●19世紀末に黒人の間でブルースが生まれ、奴隷貿易の拠点ニューオリンズでジャズが生まれ、20世紀に入り   ショービジネスの形と内容が多岐に渡り、ラジオ、レコードが大衆文化の担い手となったころからポップミュージックという形態が’確立した。          

その3では奴隷制度の元での黒人音楽を追ったが19世紀の白人の動きは.....



■スティーヴン・コリンズ・フォスター 1826〜1864
「おおスザンナ」「草競馬」「バンジョーをかき鳴らせ」「金髪のジェニー」等、ヨーロッパ風な品格、ロマンティシズムに黒人音楽を取り入れた作風のアメリカ合衆国史上最初の大作曲家。

流行した要因に〈出版〉されるようになった「楽譜」の存在、「旅回りの芸人」たちが流行らせた、ということが’大きい。ただ著作権の権利、概念がないために経済的には困窮し、38歳という若さで失意のうちに人生を終っている。

 *作曲家ルイ・ゴットシャークは幼時に見たニューオリンズ、コンゴ・スクエアでの黒人音楽&ダンスをモチーフ  に、パリで音楽留学した後に「Bamboula/danse desNegres/fantaisie」として発表。1851年には当時の黒人音楽のメイン楽器だったバンジョーを題材にした音楽「BANJO」はジャズの到来を暗示したとも言える。
  数十年後RAG-TIME MUSICの黒人作曲家スコット・ジョプリン(映画音楽にも採用された「エンターテイナー」は超有名なラグタイム曲)に影響を与えた。

■ミンストレル・ショーMinstrel Show 
ミンストレルショーは中世ヨーロッパで王侯貴族に奉仕したプロフェッショナルな芸人に始まるスタイルが元になっている。アメリカ合衆国でのミンストレルショーは下層階級向けで、白人が顔を黒塗りにして黒人風を装い軽いミュージカル風なものを行うものだった。

●1827年 G.ディクソンの「真っ黒けのバラ」が最初の頃に評判になったミンストレルショー。
●オリジナル・ヴァージニア・ミンストレル一座「ディキシー」は人気を博した。
●エドウィン・P・クリスティ一座はスティーヴン・フォスター作品を流行らせる。
●大河ミシシッピ川でのミンストレルショー興行→→「ショーボート」と呼ばれた。
 1849年からのSHOW BOAT「ヒューロン号」は10年間ミシシッピ川を上下し人気あった。

●Barber Shop Quartet と呼ばれる理髪店で行われた素人のど自慢コーラスが流行。→→後のミルスブラザーズはこの流れから出てきたグループ。
●この頃の歌の唱法はまだクラシカルなものだった。


●南北戦争(19世紀中頃)後は本当の黒人によるミンストレルショーも出現した。しかし、1860年代末には衰退。代わってヴォードヴィルが盛んになった。


(参考文献:ミュージックマガジン社 中村とうよう、青木啓、日暮泰文、濱田滋郎、長門芳郎...各氏の文)

つづく.......



(23:53)

2008年03月07日

氷模様2

南北アメリカ大陸では16世紀以後、奴隷制度のもとで黒人たちにはある種の音楽形態が芽生えていく。

◎イギリス植民地(現アメリカ合衆国)の奴隷制度のもとで芽生えた音楽形態。
「その2」で述べたようにイギリス支配の元ではアフリカの文化、芸能、宗教がいっさい禁止させられた。

■■■ニグロ・スピリチュアルnegro spirituals(黒人霊歌)........集団歌唱、強制的にキリスト教の讃美歌を歌わされたが、自然に節回しのクセや発声法、ビートにアフリカ的なニュアンスが生じて独自の宗教音楽に発展していく。*1676年ヴァージニアで黒人奴隷がドラムを叩きながら讃美歌を歌う。 *1740〜50年代にはそれが一般的なスタイルとして定着。*1871年ナッシュヴィルのフィスク大学の合唱団「フィスク・ジュビリー・シンガーズ」 が全米、ヨーロッパ公演を行い、その名を知らしめる。

■■■ジュビリー・ソングjubilee song-----無伴奏のフォーク調のシンプルな宗教歌。
■■■フィールド・ハラーfield holler / shout -------野良での叫び
■■■ワークソング work song---------*奴隷労働の集団作業ではチームワークが効率いいので、この時は逆に奴隷を使う側の白人たちも禁止したはずのアフリカ伝統の歌、卑猥な歌詞などもを許した。  

* 音頭取りとそれを返すコール アンド レスポンス(応答型)が確立していく。 
 コール アンド レスポンスは黒人霊歌やキューバ、ブラジルにも見られる。またその後ジャズのスタイルにも応用される。
・・・・・・・・・・・・・・・・・まず、これらの黒人音楽ができていった。

-------- 一方、南米では。(イギリス人より奴隷支配の規則は緩やかだった) ------------------------------------------------------------------------------------
◎19世紀末には南米、ウルグアイのモンテヴィデオやアルゼンチンのブエノスアイレスで、TANGOが生まれる。   アルゼンチンはスペイン人イタリア人(スペイン語圏だがイタリア人が多く移ってきた)が多いが、実はここでも  アフリカ系黒人の影響でタンゴの音楽は生まれた。タンゴの語源はポルトガル語の「叩いて鳴らす」と言われている。アフリカ人奴隷の「Candonbe」という原始的なダンスがアレンジれ、またウルグアイで19世紀中頃に流行った黒人のチークダンスの「ミロンガ」がやがてタンゴとなっていた。TANGOは通常バンドネオン(又はアコーディオン)、ヴァイオリン、コントラバス、ピアノで演奏される。  *1970年代以降にはアストル・ピアソラが更に現代的にタンゴを改革した。

◎1910年代には南米、ブラジル(ポルトガル語圏)のバイーアからリオデジャネイロでSAMBAが生まる。サンバも奴隷として連れて来られたアフリカ系黒人の影響で生まれたアフロアメリカン音楽と言える。バイーアは奴隷貿易の拠点となった港がある地方。
◎カリブ海にもキューバ音楽など黒人との混血音楽が生まれていく。ex)ルンバ、マンボ、カリプソ.....後の時代のレゲエ、スカ等。これらすべての形態もアメリカ合衆国の音楽に多大なる影響与える。
 クラシック音楽用語と思われがちな「ハバネラ」(アバネーラ)というリズムがあるが、は元はハバナ(キューバの首都であるハバナ)風ということ。

つづく.....

参考文献:ミュージックマガジン社 中村とうよう、青木啓、日暮泰文、濱田滋郎、長門芳郎...各氏の文



(16:57)

2008年01月29日

雪の道
今のポップミュージックがどのように出来上がってきたのか、まず19世紀にさかのぼってみる。
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19世紀末にアメリカ合衆国のニューオリンズでJAZZが、アルゼンチンのブエノスアイレス ウルグアイのモンテヴィデオ辺りでTANGOが、ブラジルのリオデジャネイロやバイーア地方辺りでSAMBAが...そしてRUMBA , MAMBO 等のアフロアメリカンのラテンリズムがキューバのハバナ、サンチャゴ・デ・クーバ、トリニダード島、ハイチなどで生まれていくが...これら20世紀のポピュラー音楽に繋がる、民衆の音楽が19世紀末に湧き上がったということだ。

要因1  :20世紀になると...封建社会の崩壊⇒独占資本の確立/ 近代都市の形成 ---その歪みがポピュラー音楽を生み出す土壌、 そしてそれを享受する社会層を準備した。 逆にスラム街をも生む。多民族国家でのマイノリティ、エスニックグループ---自分たちの祖国の文化を捨てることはできない.
近代都市の形成.......逆に田舎では19世紀のままの生活が続いた。 

要因2  :20世紀になると...レコード、ラジオ、新聞、雑誌等 マスメディアの発達。録音技術(マイクロフォンで歌える---発声法が代わりクラシックのようにバカでかい声を出さなくても、日常生活から題材を得た新しい表現ができるようになる=それこそがポピュラー音楽の原点。ダビング録音の確立)電気楽器の開発(エレキギター、アンプ)などの技術革新も大きな要因だ。
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そして更にそれ以前のむかしむかしの時代の出来事にに注目してみると.....
●1492年 コロムブス(イタリア生まれ)が西インド諸島へ到着。
●1518年 西アフリカからカリブ海の島に奴隷が連れてこられる→→→以後約370年間に1500万人(実際は4〜5千万人?とも言われている)のアフリカ人が奴隷として南北アメリカ大陸に来る。
 1873年に最後の奴隷船。主にセネガル、ガーナ、ナイジェリア、マリ、ガンビア等西アフリカから。
●1619年にアメリカ合衆国ヴァージニアに初めて20人のアフリカ人奴隷がオランダ人によって連れてこられる。   1776年イギリスより独立、アメリカ合衆国誕生。

〈奴隷制度〉
*イギリス植民地(現アメリカ合衆国)では奴隷制度によってアフリカから連れてこられた黒人たちは精神面まで支配抑圧されアフリカの宗教、言語、音楽、文化等禁止に。キリスト教を強制させた。よって結果的にほぼゼロから新しい音楽を生み出していく土壌になってしまった。ただしアメリカ南部 ルイジアナ、テキサス、西海岸カリフォルニア等はスペインやフランス領、またはメキシコ領だったりしたので多少事情が異なる。
*スペイン・ポルトガル植民地(現キューバ、プエルトリコ、ブラジル等)ではイギリス植民地より比較的緩やかだったので、ある程度アフリカ文化が保たれた。例えば打楽器中心の音楽が生き延びることができた。ex)サンバ、ルンバ、マンボ等アフロアメリカンリズムによって再生された。

(参考文献:ミュージックマガジン社 中村とうよう、青木啓、日暮泰文、濱田滋郎、長門芳郎...各氏の文)

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これらは重要な出来事だ。奴隷制度という非道なことがありながら、結果的にはそこに素晴らしい音楽が芽生えていくのを素直に肯定できないが、我々はその恩恵でポップミュージックを楽しんでいる。アメリカ大陸で起こったことは社会の底辺で大衆音楽がじわじわ生まれていく凄い歴史といえる。
つづく.....



(01:11)

2008年01月16日

C.PARKER『JAZZ / POPの歴史だあ!』ってだいそれたことしちゃった......学者でも評論家でもないのでたいしたことは言えませんが、新たなシリーズがスタート.....こうやって楽しみつつプレッシャーかけつつ遊びつつ、学んでいるのだ!なんちゃってね。
今回のこの写真のアルバムはCHARLIE PARKERだ。チャーリー・パーカーは1940年代1950年代にニューヨークを拠点に活躍した天才的altosax奏者。ジャズの歴史でいうとBOPの創始者、ジャズの開拓者だ。
1940年代までのスウィングジャズ全盛期に革命を起こした。
硬く言うと....スウィングjazzの2ビートから4ビートに発展、全くそれまでのジャズとは異なる器楽表現を推し進め、跳躍するフレーズ、高度に進化していくコード進行和声、オフ・ビートでの強いアクセント、シンコペーションでの即興演奏....というように大衆商業音楽というよりは個人の芸術表現としての形態に発達する。チャーリー・パーカーはそれ以前のアドリブとは全く異なるフレーズを開拓した。凄いことだ。チャーリー・パーカーのBOPイディオム以後のジャズこそがモダンジャズと言える。「ジャズ」といったらパーカー以後のことを指す。それ以前のものはスウィングとかディキシーとかニューオリンズスタイルとか言わなくちゃならない。

パーカーのバンドには若き日のマイルスも参加している。コルトレーンだってパーカーがいなけりゃ出なかっただろう。
それまでジャズはベニー・グッドマンなどのスウィングジャズ、ビッグバンド全盛時代でありスウィングは白人的な明るいダンス音楽だった。1930年代後半になるとニューヨーク・ハーレムのジャズクラブ、ミントンズなどではビッグバンドできちんと譜面を奏する仕事を終えた腕に自信あるプレイヤーたちが夜な夜な集まりジャム・セッションを繰り広げた。これがBOP を確立するきっかけになったと言える。明るいダンス音楽から一転して高度な即興演奏主体の、そして歌モノではない器楽表現の音楽が確立していったわけだ。ジャズギターで初めてシングルノート(単音)でのアドリブ奏法を開拓したチャーリー・クリスティアンのミントンズのライヴ盤は僕もアナログ盤で持ってるけど歴史的なレコード。

このアルバムは後にでた編集盤で「NOWS THE TIME」なんかのオリジナルのブルース以外はほぼコール・ポーター(アメリカを代表するティンパン・アレイの作曲家--数多くの作品がスタンダードとなっている)のスタンダードをやっている。




(02:02)

2007年11月15日

ギター2ギターの歴史はポップミュージックの歴史を辿ることにもなるので面白いかも。
1862年にアメリカでは南北戦争が終りリンカーン大統領が奴隷解放をした。軍楽隊が放出した楽器が貧しい南部黒人たちにも手に入ることができ1900年頃にニューオリンズでジャズが生まれるのに貢献したが、それ以前南部ルイジアナなどはスペイン領だったり、メキシコ領だったり、フランス領だったりしている。カリフォルニアもだ。(地名にロスアンジェルスとかサンフランシスコとかスペイン系多し。またジャズの語源はフランス語系らしい)。アメリカはスペインと戦争して1898年に南部を奪い取った。メキシコとは1840年頃テキサスを戦争で奪っている。(テックスメックスなんていうけどもともとメキシコだったんだ)
ギターがさかんな国スペイン系だったおかげでガットギターが持ち込まれていたことは想像できる。ポップ音楽の源流のひとつ「ブルース」が南部ミシシッピデルタ地方やテキサス東部の綿花畑などで生まれる経緯はギターが流通していたおかげでもある。また白人の2ビートを黒人がやってるうちにシンコペしてしまいラグタイムミュージックになり流行ったのは 1890年頃。ただこちらはピアノ中心の音楽で都会で発達した。ギターはアパラチア山地に入植したイギリス・アイリッシュ系の移民たちのトラッドミュージックの流れも見逃せないがいずれにしろ都会ではなく田舎だ。ギターは持ち運べる手軽な楽器として、その素朴な優しさでブルースのような個人のパースナルな感情吐露表現の側面と、民族のリズムを強靱に表現でき、みんなで一緒に楽しめる強いグルーヴを表現できる2つの面があり魅力的だ。


(00:26)

2007年11月14日

ギターの歴史滋賀県東近江市能登川にある観峯館で開催されいたギターの歴史の展覧会。紀元前のエジプトのレリーフに弦楽器が見られるので、こういうスタイルの楽器の歴史は何千年!もあるようだ。ただ「ギター」という名前になってからは200年程。ヨーロッパのリュートなんかが発展してギターになった。それから19世紀にナイロン弦のギターを経てアメリカでスティール弦のフォークギター、そしてエレクトリックギターへとヴァリエーションが拡がっていく。この展覧会ではガットギターの原型からマーティン、ギブソン、のフォークギター、ギブソン、フェンダー、グレッチ、ディアンジェリコのエレキギターまでのヴィンテージギターが多く展示されていて、ギターの変遷が楽しむことができると同時に学べる。アーチトップ型とかそのブランドならではのスタイルもよくわかる。
クラシック時代のリュートからギブソン・レスポール、フェンダー・ストラートキャスターまでのエレキまでがずらっと見れるわけだ。(photo: 田中雅彦)


(23:49)

2007年10月10日

アラン・トゥーサン
ニューオリンズのセカンドライン!
ビデオ整理してたら1990年頃のフジテレビドキュメンタリー『ニューオリンズの音楽』が出てきた。ミシシッピ川デルタ地帯のルイジアナ州ニューオリンズはデキシーランドジャズに見られるようにジャズ、ポップミュージックの源流地だがここでは第二次大戦後の流れを追う。ニューオリンズスタイルの3大ピアニストのアラン・トゥーサン、プロフェッサー・ロングヘアー、ドクター・ジョンのうちのアラン・トゥーサンが語り、ピアノを弾く。ジャズでもクラシックでもないファンキーな世界だ。1960年代前半にローリングストーンズやオーティス・レディングにも影響与えたSoul Queen of NewOrleansアーマ・トーマスが歌う。マルディグラの話。ディキシー、ジャズ、R&B、Funk、ブルース、ロックンロール、BoogieWoogie、ケイジャン(フランス系トラッドミュージック、またはそれらと黒人音楽の混じったもの)などなどニューオリンズはアメリカンミュージックの都だ。
A.J.Loriaのピアノ弾き語り(with Conga)のなんともファンキーなこと。ラフでかっこいい。ニューヨーク系のテクニック的に高い、という感じではなくどれもいい意味でユルイ・・・音楽を楽しんでいる雰囲気ががんがん伝わってくる。僕にとってもどれも問題なく気持ちいい。アタマでなくカラダが自然に「問題ない!」って言ってる。

ネヴィル・ブラザースもニューオリンズ出身。その母体となったミーターズの
ジョージ・ポーターjr が言う「大切なのはどの音を弾かないかだ。僕らの音楽には〈穴〉がある。その〈穴〉=呼吸する〈隙間〉がいいグルーヴを生むんだ」「それが FUNK MUSICだ!」は重要な言葉だ。2ビートの白人音楽はそういった「間」はない。とめどもなく弾きまくる傾向がブルーグラスやアイリッシュトラッドにはあるが、黒人音楽は4拍子を2拍3連でノったりするので、その「間」でいいノリを生み出す。ここに白人の2ビート系が黒人との混ざり合いで8ビートに進化していくヒミツが隠されている、ポップミュージックの歴史の重要な出来事だ。バッハ、ベートーベンの古代史はほっといてこっちの近代現代史を学んで欲しいところだ。
ニューオリンズのストリートミュージックが「ファンク」を生み、それらを「ガンボ」と呼ぶ。
そしてそのニューオリンズ音楽の元になったのが《セカンドライン》と呼ばれるスタイルだ。これは葬式の行進音楽に由来する。墓場までのスローでもの悲しい音楽を《ファーストライン》と呼び、埋葬後の帰り道、つまり死者の天国への旅立ちを、今度は祝い一転して楽しいテンポのある音楽を演奏する。これが《セカンドライン》と呼ばれ発展していく。あのサッチモもセカンドラインの影響がスタートと言われいる。

1930年代にニューヨークでキャブ・キャロウェイバンド等で活躍したダニー・バーカーがアコースティックギターで弾き語りするが、これがまたナイーヴでいてめちゃオシャレ、かっこいい爺さんだ。ダニー・バーカーは語る。・・・売春宿(CAT HOUSE, BARRELL HOUSE, HONKY-TONK)のあったストーリィヴィルでジャズが始まった。そこはフランス人(昔ルイジアナはフランス領)ポルトガル人、スペイン人、黒人たちが多く、またフランス人と黒人との混血のクレオール人たちがジャズを生み出したと言われる。

そしてニューオリンズといえば《ダーティ・ダズン・ブラスバンド》だ。1980年代にブレイクした彼らの音楽のルーツは「セカンドライン」だ。その古いブラスバンドにFUNK,JAZZの要素を取り入れ、ほんとうに凄いグルーヴ感溢れるファンクブラスバンドをつくってしまった。このブラスバンドの「ノリ」は誰もまねできないのではないか。
1960年代くらいまで黒人たちは選挙権もなく、保険にも入れなかった。そこで黒人たちは仲間に不幸(家が火事で燃えたとか)があった時、パーティを開いて募金を募った。そしてそこに呼ばれるのがブラスバンドだった、ということだ。ただラジオやレコードの時代になるとそれらはすたれた。それを1960代に復活させたのが前出のダニー・バーカーで、《ダーティ・ダズン・ブラスバンド》もそういう流れの中ででてきたバンドだ。
ニューヨーク、ロスアンジェルスに比べると音楽の都とはいえニューオリンズは大きなショービジネスやロックムーブメントからも多少外れた街だ。しかしいい時代のアメリカのエッセンスが残る・・・感じがこの17年前のドキュメンタリーからうかがえる。2年前のハリケーンで大被害を受けたが、現在はどこまで復興したのだろう・・・
写真はアラン・トゥーサン。

(22:37)

2007年04月10日

Gershwinアメリカ音楽の代表的作曲家といえばジョージ・ガーシュインだ。これは『GEORGE GERSHWIN REMEMBERED』と題されたDVD。アメリカ音楽史を学べる(楽しめる)映像でもある。この国ではだいたい近現代史が手薄、音楽もバッハ、ベートーベンは適当に済ませドビュッシー以後の近代とブルース、ジャズからのポピュラー音楽史とリズムにのる音楽を義務教育でやるべきだ。

時代はまず19世紀末の1890年代。ロシアからたくさんの移民がアメリカに渡ったなかにジョージ・ガーシュインの父ユダヤ系ロシア人モイショ・ゲルショビッチがいた。やがてモリス・ガーシュインと改名、いろんな商売をやり結局パン屋におちついたようだ。1898年にニューヨーク、ブルックリンでジョージが誕生。家族はなんの音楽的バックグラウンドはなかったがピアノ購入すると、兄のアイラよりジョージがすぐ上手く弾きこなした。ピアノの先生はハンガリー系だった。
学校嫌いのやんちゃなジョージは15歳でティンパンアレイのピアニストになる。

「ティンパンアレイ」とは細野さんがやってたバンドのほうではなくて、ラジオテレビもない1910年代、作曲された楽譜を出版する事務所が、その音楽の宣伝の為にピアニストに弾かせた商売というかシステムが流行り、その場所がティンパンアレイ地区だったために、後にそういう行為自体を「ティンパンアレイ」と呼んだ。なんかアメリカだよね〜やっぱ。そういう出版社がいっぱいあり、ポピュラー音楽街を形成していったわけだ。

ジョージ・ガーシュインはそこで一番上手いピアノ弾きになり、やがて作曲家になる。ぶんちゃぶんちゃ...とくるストライド奏法やラグタイムをマスターしたリズムのノリの気持ちよさにハーモニーのセンスの良さが持ち味で瞬く間にヒットソングメイカーになる。即興もおてのものだったらしい。1920年代はレビュー、ミュージカル全盛時代、やがて蓄音機というものもできて音楽は産業としても大きな発展をみせる時代にのっていく。ドキュメント風に進んでいくがインタビュー出演しているのはジョージの妹フランシス、バーンスタイン、リンダ・ロンシュタット、ケイ・スウィフト(夫公認で長年の不倫関係にあった人で作曲家)、有名な指揮者のマイケル・ティルトン・トーマスがピアノで分析、マイケル・フェインスタインもレベル高き歌とピアノで分析する。

しかし当時のニューヨークの映像も興味深いし実際ガーシュインのピアノを弾く映像、プライベートの映像、代表作「ポーギーとベス」のリハーサル風景など貴重なものが多い。1938年に38歳で亡くなるが生涯独身でたくさんの女性とのエピソードを残している。 とにかくピアノで稼げたんで学校は途中退学したが頭は良く、スポーツもテニス、ゴルフはプロ並、なにをしても様になり、文章も上手かったらしいし、楽しく陽気で情熱的....こりゃもてるわけだよね。
また同年代に活躍したモーリス・ラベル、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ラフマニノフらの話、映像もでてくる。
また、当時パリに渡った時(船で行ってた時代だから殴旅行といっても大変)のガーシュインの最大の収穫はドビュッシーの楽譜を手に入れたことらしい。ヨーロッパでも人気者だった。

「ラプソディインブルー」(オーケストラ作品ではあるがジャズ的な風味がちりばめられている)「パリのアメリカ人」「ピアノ協奏曲」というシンフィニックな作品もありクラシック的な側面と本来のポップな面を持ち合わせた作曲家の為、クラシック側の評論家からは定義付けに困り「はったり」「陳腐」とか言われたようだ。プロコフィエフにも厳しい批判をされている。まあグルーヴがあって楽しい音楽書いたからかな。(クラシック側からの批判は勲章だぜ!ジョージさん)

「ポーギーとベス」は黒人の生活を描いた作品で実際にサウスカロライナで取材して作曲したらしい。しかしメトロポリタン劇場側は黒人を舞台にあげることはできないと主張折り合いがつかなかった。1930年代のアメリカ合衆国だもんね。黒人の公民権運動が起こるのは1960年代だし。「ポーギーとベス」には「Summertime」という 名曲が生まれる。この曲もブルージーな音使いに溢れていながら美しいメロディだ。マイルス・デイヴィスも「ポーギーとベス」を1950年代にカヴァーしている。「Summertime」は1960年代末のジャニス・ジョプリンのが....こりゃマジですげ〜よね。「サマ〜」のとこなんかもうメロディとかそういう次元超え、またロックとかなんとかでもなくて。これは別のDVDですけど。

1924年にミュージカル「Lady be good」にこれまた名曲「The Man I Love」がある。このDVD では1974年のエラ・フィッツジェラルドの歌が一部だが収録されてるが、これが素晴らしい。ミュージカルのストレートだったりクラシック的なパーソナルなニュアンスないアホな大袈裟な唱法ではなく、内省的で技術の高いエラのヴォーカルがいい味だ。「The Man I Love」はなんといってもビリー・ホリデイがいる。やっぱこの頃はジャズだね。一番感覚的に現代的なのは。今はジャズもクラシックみたいに再現芸術になってきた。しかし再現する芸術ってなんだ?クリエイティヴじゃなくていいんだね。伝統芸は保存しなくっちゃ。

ソレハサテオキ。1930〜40年代ではジュディ・ガーランドの映画での歌のシーンが出てくる。「クレイジーフォーユー」での「But Not For Me」でのヴィブラートしつつポルタメントダウンするジュディが素晴らしい。他では「スワンダフル」、「スワニー」を10分で作曲したエピソード、兄のアイラ・ガーシュインとの作詞作曲コンビの話。ニューヨーク、ハリウッドでのパーティ三昧、ハデな女性関係話と当時の映像、インタビューで綴られている。

ロシア-ユダヤ系移民の息子によってアメリカのポピュラーミュージックが出来ていくという話も面白い。考えてみればガーシュインの好んだジャズもアフリカから来た黒人たちとの融合文化だしね。故武満徹は20世紀の重要な作曲家にストラヴィンスキーとガーシュインを挙げているし、20世紀の一番重要な音楽の出来事はジャズの出現と言っている。
ちなみに僕の一番好きなガーシュインの曲は「Someone to Watch Over Me」。


(02:09)

2006年03月04日

r.fkack『KILLING ME SOFTLY』ROBERTA FLACK 1973年頃このアルバムがでた時の衝撃は凄かった。当時アメリカの黒人音楽でポピュラーといえばリズム&ブルース(今のR&Bじゃなくてホンマモンの60年代R&B)、しかしロバータが1960年代末にデビューし、この『KILLING ME SOFTLY』をリリースする頃にはその意識が全く変わってしまった。ロバータの歌は黒人の強いリズムや激しさを全面に出すことなく、またモータウン系R&BのエンターテインメントなR&Bとも異なる、知的でデリケートな歌だった。勿論ジャズでもなく、だ。
レパートリーもフォーク系のシンガーソングライターの楽曲をリメイクしたりで、当時まだティーンエイジであった僕でも、こんな黒人音楽あるんだ、と驚いたし新しい時代を感じさせた。今では当たり前のことかもしれないが、ロバータ・フラックはそういう意味で先駆者であり、自らの強い意思によって新しい黒人の意識をポップ音楽表現に託した。ニューソウル時代の幕を開けた。ダニー・ハザウェイとのデュエットも名盤となっている。
ロバータはノース・カロライナ生まれで父がジャズピアニスト、母が教会のオルガニストで幼少よりクラシック音楽教育を受け、学校もスキップしてワシントンの名門ハワード大学卒、教職につき博士号をとるようなキャリアにいたようだ。自分では「中流の下で育った」と回想している。

タイトル曲「Killing me softly with his song」はノーマン・ギンベルと続きを読む

(00:17)