「四面楚歌」ではなし

「四面楚歌」の故事来歴はともかく、「たすけがなく孤立すること。周囲がみな敵や反対者ばかりであること」などというのは、知らない人は知らない、という程度のことである。 そして、タイトルに「ではなし」と続けたのは、「で」「はなし」という意味と「では」「なし」という意味の二重構造になっている。

平成24年度分市民税県民税申告書

c66a8991.jpg昨日、区役所から「平成24年度分市民税県民税申告書」を2通もらってきた。わたしと父の税申告を、それぞれ提出しておきたい、と思ったのである。

帰宅して郵便受けを開けたら、名古屋市から「申告書」が届いていた。宛名は父であった。もらってきた1通が余分になった。

今日は、休日の妹といっしょに買い物する日である。母と三人で大型スーパーへ出かけた。母は、在庫があっても買ってしまう。それを注意すると、けちけちするな、と言って切れる。買い物依存症みたいなところがある。それは、母のストレス解消やフラストレーション発散なのかもしれない。だから、注意し過ぎは危険だ。

スーパーから戻って昼食を摂った。その後は、医療費控除のために領収書を集めたり、その他の書類を揃える。わたし自身には、控除のための医療費が大きくないので、記入し終わった後で捺印しておく。

父の分は、住所氏名生年月日電話番号などの基本を記入し、捺印だけはしておく。必要書類を揃えて、紙袋に入れる

今日、区役所へ行く予定はなかった。でも、妹がいるし、書類も揃っている。だったら、この際に片付けてしまおう。ということで、14:00過ぎに、家を出た。区役所では、父の医療費控除が却下された。ベッド差額分が、治療に必要だったわけではなかったからである。介護おむつが認められれば、ベッド差額分を差し引いても控除の対象になるのだが。寝たきりでも、おむつを着け始めて1年経ってもいない。そんなこんなで、医療費控除はない。

ただし、わたしの収入が「老齢厚生年金」だけで、社会保険料や生命保険料などを引くと赤字なのだ。生命保険料は、定年退職が間近になった頃、医療保険に特化させたり減額したりしておいた。それでも、多い保険料なのだ。

相談員は、わたしに言った。あなたもお父上の扶養家族になられたら、税金が安くなりますよ、と。少しでも安ければ、現状は助かる。

わたしは、相談員の助言に頷いた。ありがとうございました、と辞去する。


今日、モデムが着いた。あとは、NTTの工事完了を待つだけだ。

使いづらくなった

PICSの使いづらさは、堪らない。携帯で自分のPICSにログインしても、コメントを返すことさえできない。ログインしてくださいログインしてくださいの繰り返しである。いい加減にしてくれ、だよ。どうなってしまったんだ!何でもかんでも、ログインしてくれ!だよ。なんで、いちいちログインしなければならないんだ!始めにログインしたら、それで、いいだろう。

マイページにログインしても、メールを開くときに、またログインしなければならない。いったい、どうなっているんだ!それも、過去のメールボックスのようには機能していない気がする。それは、お気に入りやコメントの新着が届かないのだ。livedoor.comのポータルサイトとしてのサービスが悪くなっている。

現在のわたしは、PCをインターネットで使えない状態である。そのために、携帯が頼りである。その携帯からリコメントできないのは、非常に困る。

だから、ここに言い訳を書いておく。

なんとはなしに

わたしは、昨年の11月末(?)に父を床屋まで連れて行った。そのとき、なんとはなしにわたしも髪を切った。それ以来、髪を切っていない。

わたしが、その床屋で髪を切ったのは初めてだった。予約なしの待ち時間有りの店。それでも構わない客層が相手だ。値段は、今まで通った店の半額である。だからといって、値段だけに惹かれたわけではない。今までの慣れと謂おうか、馴れと謂おうか。そういうものを裁ちたい、と思ったのだ。

でも、今はそんな店に行くこともままならない。

久しぶりの新海池公園

eb74c762.jpg歯科クリニックの帰りに、新海池公園を歩いた。ほんとに久しぶりだった。

家と病院、家とスーパーマーケット、家とドラッグストアなどを往復する日々が続いている。家を離れて、自分の時間をつくり出す余裕を失っている。

今日のように、自分自身が掛かり付けの医院や歯科クリニックに行く場合しか、自分の時間はない、と言っていい。それも、歯科クリニックだけが寄り道できる唯一の時間なのだ。

掛かり付けの医院では、診察が終わって薬をもらったら、家路を急ぐ感じなのだ。

写真をデジカメでも撮ったけど、アップするにはPCがインターネットに繋がっていない。だから、モバイルのみでアップする。4枚はPICSにアップする。タイトルも同じにする。

善意の敷石

いい人が多いと感じた2011年。善意の敷石が舗道を敷き詰める2012年。地獄への道は続く。

図解スマートフォン「超」活用法の表紙裏表

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写真の添付を忘れたので、アップしておく。

図解スマートフォン「超」活用法

わたしはミスをした。クレジットカードで購入した本の定価をきちんと見ていなかったために、税込み1300円の本を1365円で買ってしまったのだ。でも、手打ちのレジではないので、出版社のバーコードにミスがあったのだろう。それでも、いちおう出版社と販売店に電話を入れてみた。

講談社は、あくまでも表記ミスでありますが、本体価格は1365円という。だから、返本なら対処しましょう、という口ぶりであった。返本でなければ、あくまでも価格は税込み1365円です、という強弁である。物腰は柔らかいが、ミスった価格では売らない、と強調している。

販売店の方は、クレーマーとでも思ったのか、応対が硬かった。とりあえず、店舗にあった2冊を販売するときには注意した方がいいのでは、と言っておく。

それにしても、このような問題が野口悠紀雄先生の本で起きるとは。先生が知ったら、どのように思われるだろうか。出版社のミスだから、関係ないか。

クレーマーがとんでもない人間だったら、出版社も販売店もどう対処するのだろうか。

砂を噛む

カラスが囂しいのは自然の理であり、カラス人間の囂しいのは政治やメディアの理である。

菅直人首相が妥協した。妥協したからといって、国民に納得できるものではない。にも拘わらず、民主党内の大勢は菅直人首相の退陣に目星をつけたようだ。そして、その目星にメディアが追従している。

もともと、メディアが首相退陣を扇動している面もあり、必ずしも追従しているというわけではない。何でもかんでもスケープゴートにしようとするメディアの体質が出ているだけである。

例えば、自民党の主張する6月内退陣に従えば、次期首相は誰なのか。また、民主党内の8月退陣説に従えば、次期首相は誰なのか。さらに、メディアや「反菅」の国民は誰を首相に推すのか。

この時期に首相退陣を要求する以上は、次期首相の名前が浮かんでいるはずだ。その名前を公表して世に問うべきだろう。それが、「菅降ろし」をする側の責任である。降ろしてしまえば何とかなる、とでも思っているとしたら国民への背信行為である。

わたしが思っていたことは、時期が悪すぎるということだ。そして、首相をすげ替えても進展しないということだ。なぜなら、国会議員が一致協力することはもちろんのこと、官僚の忠誠と国民の支持がなければ、現在の難局を乗り切れないという事実が横たわっているからだ。

菅直人氏に首相としてのリーダーシップさえあったら、官僚の忠誠と国民の支持を取り付けて、この難局を乗り切るための策が出たかも知れない。その場合には、現状の内閣など解散しているだろう。

ありえない夢だからこそ、国民は砂を噛むしかないのだ。

うるさいカラス

民主党の代議士会で、菅直人首相が会見した。そこで言われたことは、東日本大震災からの復興や福島第一原発事故の対応に一定の目処がたったら、若い世代の皆さんにいろいろな責任を引き継いでいただきたい、というものであった。

このときの発言を「辞任表明」だと受け取る各政党各マスメディア及び街頭インタビューに応える市民や有識者並びに被災者たち。

わたしがテレビで聞いた首相発言には、辞任という言葉はなかった。それなのに、なぜ「辞任表明」だとするのか。

「反菅」の立場を取る者には、首相の発言がどのようなものであっても、我田引水に導こうとするものであり、辞任という語彙が有るか無いかではなく、「目処がたったら」「責任を引き継いで」いただきたい等の言葉があることで、強引に首相退陣を要求しているのだ。

しかし、この要求は理屈に合わない。衆議院で首相の不信任決議案が否決された以上は、菅直人氏が首相続投を宣言しても、いっこうに構わないのだ。ましてや、民主党内の反菅勢力が国会で首相辞任に反対票を投じて、態度を豹変させたことは紛れも無い事実であり、民主党内の反菅勢力が事後に約束を反古にしただの、「サギ」だ等と騒ぐのは以っての外である。

この時期に、本気で首相になろうとする政治家がいるとも思えない。

どれほどに「反菅」であっても、また反目しあう勢力政党であっても、この時期に首相退陣を要求するのであれば、明確な首相候補があったのか、ということだ。

リーダーシップを云々するのであれば、推薦する首相候補に菅直人氏以上の力量があるのか、ということだ。そして、その候補が首相になった場合に協力を惜しまないのか、ということだ。

首のすげ替えをすれば事足りる、という考えでは何も変わらない。いや、いっそう悪くなる、といっていい。

東日本大震災の被災者支援及び被災地復興が錦の御旗ならば、その旗の下に参集するのが政治家の勤めといえる。しかし、現実はその勤めが果たされていない状況である。政治家諸氏の言い分けは、菅直人首相にリーダーシップがないからだ、であった。

例えば小沢一郎氏であるが、リーダーシップというものが彼にあるならば、菅直人氏以上に己の発言に責任を取るべきだ。小沢一郎氏の発言に呼応するかのような民主党衆議院議員の「反菅」現象。それによって引き起こされた一部の捩れ。その捩れによって民主党を除籍された議員。

小沢一郎氏の影響力といっても、今回の件でもわかるように、その影響力は段々と小さくなってきているようだ。氏には首相となる気があるのか疑わしい。氏の根底にあるものは、政治劇ではないのか。劇の主役だから、どんな立場からも物が言えるのだ。

つまり、氏がなり得るのは政治劇の主役であって、政治の主役ではないのだ。そんな氏に踊らされる日本の政治劇とは、観客を無視して進められる偏狭なものでしかなかった。

いずれにしても、現在の主役である菅直人首相がリーダーシップを発揮し、それをサポートする以外に選択肢がないではないか。また、その選択を国会の場でしたばかりではないか。それなのに、辞任の約束が反古にされただの、「サギ」だのと、うるさいばかりだ。

うるさいのはカラスだけでたくさんだ。

99%の犯人

cbfb8e3a.jpg2008年5月に京都府舞鶴市で女子高生が殺害された。その容疑者に、5月18日京都地裁で無期懲役の判決が出された。

この事件を取り上げるのは、容疑者の有罪無罪を推理推定する、といういつもの独断と偏見と憶測を発揮するためではない。

また、別件逮捕から本件起訴まで持っていくという、不法行為を当然のようにしていること自体についても、論評するつもりはない。

わたしが言いたいのは、状況証拠だけで逮捕起訴され、なおかつ有罪判決を受けるという、裁判の在り方に疑義があるのだ。

判決文を聴いたわけでも、また読んだわけでもない。マスメディアの流す間引き文章をつまみ食いしながら考えるだけだ。

5月19日付けの中日新聞朝刊には、笹野昭義裁判長の名で「被告が犯人であることに疑いを抱かせる事情は存在しない」と述べた、とある。

このような物言いは、前提として「容疑者=犯人、被告=犯人」説がある。つまり、思い込みで捜査逮捕し、思い込みで送検起訴し、思い込みで審理し、判決を下すという流れが出来上がっていたのではないか。

法治主義の観点からすれば、疑わしきは罰せずだろう。99%の疑いがあっても、物的証拠のない容疑者を犯人と確定することはできない。

それなのに、人治主義の判決が出てしまう。こいつは犯罪者だ、こいつは悪党だ、こいつは悪ガキだ、こいつはろくでなしだ、こいつはヤクザだ、こいつは何々だ、という前提や思い込みが人治主義の片棒を担ぐ。それによって、助かる前科者もいるだろう。またそれによって、犯罪者に落とされる場合もあるだろう。

しかし、人治主義では法の下の平等は担保されない。あくまでも、それぞれの恣意に委ねられてしまうのだ。

今回の裁判で有罪になっても、控訴されて高裁の審理になる。そこで、審理差し戻しになったり、有罪無罪の判決が出る。そして、また控訴となる。

最高裁で人治主義の判決が出てしまえば、法治主義は崩壊したも同然である。

ともかく、被告が「賽銭二千円と下着一枚の窃盗容疑」で逮捕された人間であったとしても、またこの容疑者以外に犯人とおぼしき容疑者が浮かばなくても、被告を女子高生殺害の犯人だと断定するには、あまりにも恣意的判断の介在が多すぎる。

繰り返しになるが、たとえ被告が99%の犯人であっても、その犯罪を立証できていない、という事実は残っている。それを忘れてはならない。


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