「四面楚歌」ではなし

「四面楚歌」の故事来歴はともかく、「たすけがなく孤立すること。周囲がみな敵や反対者ばかりであること」などというのは、知らない人は知らない、という程度のことである。 そして、タイトルに「ではなし」と続けたのは、「で」「はなし」という意味と「では」「なし」という意味の二重構造になっている。

2014年04月


Youtubeの登録チャンネルで見た動画に面白いものを見つけた。

「大失態」である。笑うしかない。それもこれも、1,000円という金額が引き起こしたものだ。ただし、この1,000円を笑えない社会があることも事実だ。

そんな笑えない社会からのメッセージが、「大失態」に繋がるのだ、と考える。

瀬戸さんの言っている「中国製かもしれない」、という件には笑えない社会の存在を暗示している。

毛沢東らの中国共産党が目指したものは、過去のものと成り果てている。相変わらず、搾取される農民の存在が累々と横たわっている。そんな笑えない社会から日本を見たら、「黄金の国」である。

すでに、中国共産党の理想は潰えている。紅衛兵になることもなく、受験勉強に勤しむ若者が増えている。そして、そんな受験社会とは縁もない若者と笑えない社会が現在の中華人民共和国の実態である。

歪みや亀裂が大きくなればなるほど、裂けて迸るエネルギーは巨大なものとなる。というか、なってほしい、と願望する。

今日は、「昭和の日」である。中華人民共和国の下では暮らしにくい年金生活者であるわたしは、日本でそこそこ暮らせる幸せを感謝している。まさしく、目指すは「黄金の国」である。

笑えない社会の人々が、覇権国家や「普通の国」を厭うことはまっとうなことだ。安心安全と安泰な暮らしが営める社会。それこそ笑うことのできる社会である。

クレマチス

昨夜の『くりぃむのミラクル9』は、先週に引き続き有吉くん不在の放送となっていた。まあ、収録が2本撮りだったのかな。

有吉くんがいないと、上田晋也のツッコミも波に乗れない。

昨日で言えばキャスターチームの回答のミスに有吉くんだったらツッコミを入れるだろう。しかし、自陣のミスに上手に突っ込める人材がいなくて、MCの上田晋也がツッコミとボケを自らやる羽目になっていた。

100万円という賞金を得ることができたキャスターチームだが、クイズの途中で出る回答に呆れるほど笑いが取れる要素満載だった。しかし、その方面では不発に終わった感じがした。

クイズバラエティーは、MC以外のレギュラーに弄りの上手な出演者がいないと、番組全体の面白さが失われる。

対抗戦だから、有田哲平のチームとゲストチームということになる。そのゲストチームに有吉くんのいるといないで、随分と違った様相を見せるのだ。

昨日は、朝から外出していたので、帰宅してからも上手く波に乗れずに、重い頭を転がしていた。就寝前の『俺のダンディズム』も、今朝の段田一郎のブログに掲載された「ペリカン」のギャグを読むまで忘れていたくらいだった。

来週は、有吉くんの出演があるのだろうか。「ミラクル9」を見るのは、有吉くんと久冨慶子アナを見るためなのだから、頼みますよ。そうしてもらわないと、わたしも乗れませんから。

*敬称を略させていただきました。

国会議員147人靖国参拝新藤義孝総務相も再参拝
ナミアゲハの幼虫のうんこ

記者団の質問に、「いろいろと言われる筋合いではない。平和を祈念するのは当たり前の行為だ」、と新藤義孝氏は発言。
あかちゃんとうんこ

さらに、新藤氏は「個人としての私的行為だ。玉串料は私費だ」、と発言。

国会議員の収入および大臣としての収入も、税金で賄われている。そして、金に色はついていない。このことは、復興予算に使われようが、福祉関連に使われようが、道路行政に使われようが、遊興費に使われようが、税金の色分けができない以上、消費税増税の行方も復興税の行方もわからないのと同じことである。

歳出に使われる税金が、どの税によって賄われているかはわからないが、税金であることには変わりがない。それと同じように、新藤氏の使われる金が国会議員の収入なのか、大臣の収入なのかはわからないし、新藤氏がそれ以外の活動によって得た収入なのかの区別はできない。

しかし、新藤氏に国会議員や大臣以外の収入がないとしたら、氏の収入はすべて税金で賄われていることになる。その場合は、新藤義孝氏の支払われた玉串料は、私費ではなく公費である。つまり、税金で賄われたも同然なのである。

また、国会議員や大臣としての収入以外の収入があったとしても、生活の主な収入が国会議員や大臣からの収入であれば、金に色がついていないことを前提にすれば、主な収入から出たものとして見られても仕方のないことである。つまり、新藤氏の場合はどこまでいっても税金で玉串料は賄われた、ということなのだ。

参拝に関しても、私的行為というのであれば、国会議員や大臣としての扱いを要求したり、それなりの扱いを受けなかったのか、ということだ。

4月12日に参拝して、4月22日に再参拝するという行為。それも、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の一員として参拝したわけだ。この行為を私的行為だ、という言い訳は強弁である。

「いろいろと言われる筋合いではない。平和を祈念するのは当たり前の行為だ」、と発言している以上、その発言に責任を持つべきだ。

言い訳などはいらない。国会議員として、大臣として、新藤義孝として堂々と平和を祈念すればいいではないか。鵺のような言い訳など要らない。信念があるならば、「個人としての私的行為だ」などというあんぽんたんな発言をするべきではない。

日中戦争や日韓戦争があった場合には、敗戦国にならないようにしないと戦犯の一人として処刑されかねない行為であることは、肝に銘じておくべきだろう。いい加減な発言は、命取りになる。

次の大戦に敗北は禁物である。今度こそ総玉砕で終わらないとね。生き残れば処刑されるだけだ。覚悟して自らの子供や孫を戦場に送ることだ。どうせ、自分たちは銃後の役立たずでしかないのだから。

*敬称を略させていただきました。赤い文字は、『中日新聞』2014年4月22日(火)夕刊から引用させていただきました。

ハルジオン

2014年4月20日(日)『中日新聞』の「読書」欄に古井由吉著『鐘の渡り』の書評が載っていた。評者は、佐藤美奈子である。

わたしは、その書評を読んで考えたことがある。それは、評者の言葉は当然ながら、著者の言葉も当然ながら通じないのが、「今」なのではないのか、ということだ。

冒頭に古井由吉は、私たちの「いま」を照らし続けている作家である、と評者は書いている。

古井由吉の作品を通して評者が得た「いま」は、日常のなかに覗く危機や窮地の局面を、意識もせず行き過ぎることを余儀なくされた在り方こそ、私たちの「いま」だという感触であった。

以下に評者の文学の言葉を書き連ねる。
私たちの意識や知覚の外にある危機や窮地
狂気に至る寸前の感覚
文章自体の運動
ありったけの子供の泣き声が日常に切れ目を入れ、永劫の面相をひろげる
自身にはぐれた自己像
個を超えた因縁の世界の在りかを告げる
現に居ながら不在と感じる自身
死者である友人のほうに存在感がある
私たちがそこに立つもう一つの現実の所在

本書が描く静かで、しかも切迫した瞬間に触れることで、日常の底が比類もなく豊かで恐ろしい永劫と通じているさまを、読者は体験する

わたしは、斉藤美奈子の言葉を聴きながら、自分がその言葉を理解できないことに途惑う。

聞いただけでは、わからない。そのために、理解する努力が必要だ。努力。そう、努力しなければわからない世界がある。

わたしは、「村上春樹」という作家の本を一冊も、というか一言も読んだことがない。それと同じように、古井由吉の本も読んだことがない。もちろん、その一言も読んだことがない。

わたしは、多くの作家の言葉を読んだり聞いたりするよりも、考えるほうが楽だ、と思っている。

ただ、書評は読むことがある。今回のように。

書評を読むことで、俎上に載せられた作品への興味が湧いたり湧かなかったりする。そういう意味では、書評は、わたしの参考になる。

作品の良し悪しとか、書評の良し悪しとかは二の次である。わたしの興味をそそる書評になっているかどうかである。その書評によって、作品への興味を湧かせてくれたかどうかが、書評の価値を決める。

わたしは、斉藤美奈子の書評を読みながら、古井由吉の世界が面倒な世界だと感じた。そんな世界を追体験するつもりなどない。

なぜ、斉藤美奈子は日常のなかに覗く危機や窮地の局面を、意識もせず行き過ぎることを余儀なくされた在り方こそ、私たちの「いま」だという感触を持ったのだろうか。

「今」も「昔」も、「余儀なきこと」はあった。「せんなきこと」もあった。なぜ、それを「いま」と感覚するのだろうか。改めて、ということなのだろうか。

改めていわなければならないほどに、わたしたちは「あの世とこの世の狭間」にたっていることを忘れてしまった、ということだろうか。そうであれば、斉藤美奈子の言葉も少しは理解できる。

古井由吉の世界が面倒であるように、斉藤美奈子の世界も面倒だな、と思った。わたしは、面倒が嫌いなのだ。

*敬称を略させていただきました。


大高緑地公園

昨夜の『くりぃむのミラクル9』に有吉くんが出ていなかった。おかげで、『植物男子ベランダー』と『マツコ&有吉 怒り新党』の始まる時間まで、パソコンで撮ってきたビデオを見ることができた。

有吉くんが出ていなかった代わり(?)に坂上忍が出ていた(?)。テレビは点いていたけれど、有吉くんが出ていたときのような集中力は欠けていた。

有田チームと対戦するのは、新番組『TEAM~警視庁特別犯罪捜査本部』に出演している小沢征悦をゲームキャプテンとするチームだった。いつもならば、有吉くんが小沢をフォローするのだが、この日の坂上忍はそれを上手くこなせていなかった。そこは、仕方がない、と諦めるしかなかった。

ともかく、『TEAM』がチームの足を引っ張った、という印象で終わった。それにしても、どうしたのだろうか有吉くんは「?」

来週の予定を調べた。えっ(?)。有吉弘行の名前が載っていなかった。どうした、というのだろうか。二週続けて出演しないのか、と。来週も、坂上忍の名前があった。わたしの楽しみを奪う気か、と。

有吉くんの名前が新聞のテレビ欄にないと、わたしの視聴率は落ち込む。おかげで、値上がった電気代が浮く。ありがたや、ありがたや。

「ベランダー」を堪能した後は、『マツコ&有吉 怒り新党』を見た。いつものように楽しむことが先行する。そして、いつものように新3大〇〇である。

今回は、「新3大 豊川孝弘七段の口滑らかすぎる解説」、というものだった。将棋の世界だ。以前に、増田明美の解説が面白い、というのを二度ほど放送したけれど、今回も面白い解説者がいたものだ、と感心することしきりだった。

マツコデラックスは、抱かれたい、とか。有吉くんは、こんな人になりたい、とか。二人とも、めろめろだった。親父ギャグの境地だ。NHKでの解説や実戦の反省にもギャグを飛ばすほど、豊川氏は達観している。凄い!

その後、滝藤賢一主演の『俺のダンディズム』を見た。あの『孤独のグルメ』路線なのだろうか。ちょっと違うか。でも、テレビ愛知だ。つまり、テレビ東京ということだ。

『孤独のグルメ』のような人間関係の淡白さがない。いや、それも少し違うか。まあ、わき道がある、ということだ。そこが気になるところだ。そのわき道は、あまり掘り下げないで進行して欲しいものだ。

夜とはいえど、こころを闇に浸らせないで欲しいのだ。明日は、明るい日と書くのね♪

役名は、段田一郎というのだ。マダムMは、美幸(森口瑤子)だ。

*敬称を略させていただきました。段田一郎は、Amebaでブログを始めている。http://ameblo.jp/oreno-dandyism/

片目のジャック

『中日新聞』2014年4月15日(火)夕刊の「社会時評」に、吉見俊哉氏が「怒涛のSTAP細胞報道」について書いている。

わたしは、この手の問題に口を挟んだりするのは苦手である。だから、人の言うことをそのまま受け入れるのも苦手である。

吉見氏は、学術的な立場からすれば、研究は手続きが問題であり、結果の真偽は手続きに依存する、と発言されている。

この吉見氏の発言は、理化学研究所の調査報告が為されたときの理研側の主張や、この問題に関するコメンテーターの発言(大学関係者、名誉を含めて)と同じ見解である。

要するに、小保方晴子さんは「捏造」「改竄」「盗用」「不正」をしたのである、と。これらの発言が、そのまま法律用語とシンクロしているわけではない。あくまでも、学者の遣った語彙にすぎない。

学者として必要な概念規定も為されていないものだ。そのために、小保方さんの弁護士団から、理研側の遣った語彙に関して念を押されている。それでいいのか、と。

吉見氏は、一般人からすれば、手続きの話は難しすぎる。知りたいのは結果である。新細胞は「事実」としてあるのかないのかに関心が向かう、と発言されている。

わたしからすれば、つまり一般人からすれば、「手続きの話が難しすぎる」わけではない。それに、STAP細胞の有無に関しても、その存在ばかりに目を奪われるわけではない。なぜなら、「iPS細胞」の存在は証明されているからである。

STAP細胞が「iPS細胞」よりも再現しやすく、コストパフォーマンスも高いという触れ込みであっても、「iPS細胞」の価値が損なわれるわけではない。だとしたら、STAP細胞の存在に期待をしていた人たちが、理研の内輪もめによってSTAP細胞への信頼をゆるがせられたとしても、「iPS細胞」のこれからの展開に期待していただいて、失望なさらないでほしいのである。

ただ、あまりにもSTAP細胞が過剰な期待を人々に与えたがための反動が、STAP細胞を貶めたかもしれない。そして、「iPS細胞」を過去のものであるかのような硬直した思考へと導いたようだ。

吉見氏は、理研の調査報告は科学の「手続き」という観点から「不正」を結論し、小保方氏の反論は、「意図」と「結果」に重点を置く、と発言されている。

この場合の「科学」は、「科学」そのものではなく、「論文」の形式という程度のものであろう。そして、小保方さんの反論は、反論に論理的裏づけのないものでしかない、ということだろう。

吉見氏の分析は、現象に引きずられて安易な表現を多投されすぎている。

吉見氏は、小保方さんが語った数百枚の写真について、それほどに画像を撮影、保存、加工することは容易である。情報技術はすでに私たちの知の根底を変えている、と発言されている。

吉見氏の肩書きは、東京大学大学院情報学環教授、となっている。よくわからない。まあ、情報と環境を混ぜ合わせたようなものか。ともかく、そんな人物が事ここにおいて情報技術はすでに私たちの知の根底を変えている、というような発言をされる。

高だか数百枚の画像処理が「知の根底を変える」ほどのことか、と思う。吉見氏は、大袈裟な発言をされている。膨大に流通するデジタル情報の海で起きた、と。

吉見氏の結論は、技術革新のネットワークと個人の無作為の利用に関して整備しろ、ということだろう。当の吉見氏は、著述の責任所在を曖昧にするために次のような発言をしている。

今回の事件を、こうした環境変化やそれに対応する体制の未整備抜きに、個人の未熟さだけに帰すことには疑問が残る、と。「疑問が残る」が結論なのだから、何をか況やである。

新聞記事の後半部分に、次のような発言がなされている。今回、STAP細胞論文を丁寧に検証したのは、理研でもネイチャー誌でも科学記者でもなく、ネット上の匿名のボランティアたちだった、と。

この発言は、吉見氏が「科学」者でないことの証左ともいえる。なぜなら、論文の「検証」は為されていないからである。もしも、論文の「検証」がなされていたら、STAP細胞の有無が証明されていたはずだからだ。

「ボランティア」なる者たちのやったことは、論文の稚拙さを暴いたに過ぎない。ただ、それだけだ。

吉見氏は、報道メディアに対して批判をしているが、その根拠も貧弱なものだ。それは、「情報学環」という際物に通じているからともいえる。そもそも、匿名のボランティアなるものに信をおくこと自体が危ういものだ。

吉見氏は、匿名のボランティアでなければSTAP細胞の疑義が公になることはなかっただろう、と考えているようだ。しかし、論文が公表された以上は、STAP細胞に問題があれば、それもまた公表される論文によって明らかになるのだ。

芸能ネタのように、持ち上げたり引き摺り下ろしたりしなくても、公表された論文はそれなりの評価と検証が多くの研究者によって為されるのだ。それこそ、素人が口を挟まなくても、それなりのところに落ち着くものなのだ。

今回の一件は、理研の対応の甘さが招いたといえる。焦りとリカヴァリーの悪さが目立ってしまった騒動、ということになる。

仏壇の花が、それもフォーカルポイントの花びらが傷み始めた。そこで、花屋さんで仏花を買い求めた。すると、女主人が作りおきではなく、新しく作ってくれた。それも、花の数を増やしてだ。思わず、花活けに入るだろうか、と案じてしまった。

そんな朝から始まった今日である。

その後は、庭の草むしりだ。それも適当である。草だから、といってすべてを採るわけでもなく、根を張りそうなものを採っていく。それも、また適当だ。ただ、草むしりで屈みこみたいだけなのかも知れない。





シランとダッチ・アイリスの蕾が膨らんできた。だから、それを撮った。今年は、かなりの数の花が見られるだろう。小さな庭だけど、毎年同じにはならない。適当な手入れと自然の変化に任せた部分の折り合いで形づくられる庭になっている。

躑躅

以前、福島県内の除染された木材のチップスを、県内の業者と東京の業者及び東電や関連官庁の役人などが結託して日本各地にばら撒いている、という話を聞いたことがある。

そういった話にも、尾ひれが付いていたのかもしれない。たとえば、もともとの話は福島県内の汚染されたゴミが日本のどこどこに運び込まれた、という話から始まったのかもしれない。

4月7日に京都まで出かけたのだが、その折に滋賀県内で見たゴミ袋が、あの福島県内にうずたかく積まれたゴミ袋とよく似ていたので、もしや、という想像が膨らんでしまったくらいである。

あの大きなゴミ袋は、解体現場などにも見られるものだ。ただ、福島県内の異様な光景が目に焼きついて離れない。だから、あの大きなゴミ袋を見ると、なぜこのような場所に置かれているのだろうか、と不審な目になってしまう。

福島県内のゴミも処理が進んでいるとはいえ、まだまだである。それを鑑みれば、原発事故の後処理に奔走する東電及び政府は、ゴミが福島から見えなくなることを願っているかもしれない。

ゴミが見えなくならないと、そのゴミのことで東京オリンピックの先行きに暗雲が立ち込める可能性があるからだ。

政府は、2020年のオリンピックが東京開催に選ばれたからといって、それでよし、と思っているわけではないだろう。福島原発事故の処理が終わらない限り、東京開催が幻になることだってありうるのだから。

福島が元に戻ることは、半永久的にない。だから、隔離するか、政府自らが遷都を決定するかの択一なのだ。それを決断しなければ、日本が汚染列島になることは、明らかである。

なぜなら、「とり戻す」の言葉とは裏腹に、汚染されたゴミを日本中に拡散しようとしている現実がある。それでも平気な日本人がいる。

『日本沈没』を書いた作家は、すでに鬼籍だ。その小説の設定は、自然の脅威を未来図のひとつとしていた。しかし、それだけではなかったことも明らかだ。

それを考えれば、日本が日本人の手によって汚染され沈没していくことも想定内である。中共や北朝鮮からの核攻撃がなくとも、日本沈没は引き起こされるのだ。

ゴミの排出と処理をいい加減にしていれば、汚染された土壌や水、空気によって日本は汚染されていくのだ。それでも平気な日本人は、日本人のDNAが地球から消えても平気な存在だといえる。

日本が汚染列島になっても、現在の政府与党も東電も霞ヶ関の連中も生きていないだろう。火葬場を経た連中に、生きている人々や将来のある人々のことなど、眼中にも脳裏にもないことは明らかである。ましてや、日本の未来など「想定外」であろう。

わたしは、自分の遺伝子を継ぐ者がいないことに安心している。なぜなら、未来の日本を考える必要がないからである。この日本が汚染されても、わたしの生きている間にわたしを汚染することはできない、と想定しているからだ。

わたしは、おもう。2050年の日本を見たいと。そこに生きている日本人の現状を知りたいと。あいつも死に、こいつも死に、日本を汚染した連中のほとんどが死に絶えた日本を見たい。

桜、さくら

特番ばかりのなので、うんざりしていた。

そこで、今日から始まった『神谷玄次郎捕物控』(NHKBSプレミアム)を見た。主役は、高橋光臣である。共演に中越典子がでた。

わたしは、中越典子が好きなので、出演するだけで嬉しくなる。その中越が、高橋とラブシーンを演じた。いいね、いいね。

原作は、藤沢周平である。

*敬称を略させていただきました。

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