遺棄毒ガス弾訴訟
2008年03月11日
3/10チチハル遺棄化学兵器裁判がありました。
昨日3月10日午後4時から、チチハル遺棄化学兵器裁判の、第4回口頭弁論が、東京地裁103号法廷で行われました。
今日の法廷の内容は、被告国に対する責任論と、原告牛海英さんによる意見陳述でした。
牛海英さんの陳述の内容を、要点のみお伝えします。
私(=牛海英)は1978年2月チチハル市内に生まれました。私が生まれたころ、家族の暮らしは貧しく、私の母親は、私が幼いころから家族のために働き始めました。
母親は、私が8歳の時に廃品回収所の経営を始め、私は2001年に私が経営者の立場を引き継ぎました。
1995年に結婚し、96年には男の子が生まれました。私は毎日朝6時から夜10時くらいまで仕事をし、従業員が帰宅した後は自分でも運搬をしました。そうして一生懸命働いたので、収入は充分にありました。経費や生活費などを除いても、年に6〜7万元(日本円で約100万円)の利益がありました。
2003年8月4日、午前9時ごろ、私の経営する廃品回収所に、李貴診さんが、ドラム缶5個を持ってきました。李貴診さんは、私の店の前の空き地でドラム缶を解体する作業を始めました。解体した瞬間、液体と気体が同時に吹き出し、ドラム缶からかなり刺激の強い臭いが噴出し、みるみるうちに鼻、胸、肺それから頭のてっぺんまで十万して、まるで、からしを食べたようでした。私はしめったタオルでずっと鼻をおさえていました。彼はまた解体作業を続けていました。4つの缶の中には、液体がはいっていたので、隣人の王成さんが手伝って、液体をひしゃくで洗面器にくみだし、全面の路の溝に捨てていました。
お昼に食事を届けてくれたお手伝いさんが私を見て、まるでお酒を飲んだように顔全体から胸にかけて真っ赤になっていると言われました。目が充血し、のどがひどくただれて、自分は熱中症だと思いました。のどが非常に渇くので、水をいくら飲んでものどの渇きをいやすことはできませんでした。
当日の午後1時ころドラム缶解体を終えたので、私はこれを買いました。その後、李貴診さんの症状はかなり重いようで、みているとよろけながら去っていきました。ドラム缶から発散される臭いがとても我慢できなかったので、急いで300元で転売人の梁波さんにドラム缶を売りました。
夕方になると、顔と首がさらに赤く腫れ上がり、目の痛みもよりひどくなり、頭ももうろうとしてきました。仕事が忙しくて、かまっていられませんでした。その日の夜、李貴診さんの奥さんが私のところに来て、夫の具合が悪くなり、病院に行ったところ「中毒」と診断されて、あなたもすぐ行った方が良いと言われて、私もすぐに病院に行きました。病院に着くと、王成さんと李貴診さんがベッドの上で吐いたり、涙を流したりして苦しんでいました。私たちは中毒と診断されましたが、何の毒に当たったかは言われなくて、とにかく私たちに急いで203病院へ転院するように言われました。
入院中は、あまりの激痛に苦しみ続けました。そして、病院でようやく鏡を見ることができた時、私の顔は醜く腫れ上がり、おなかには大きなびらんびらんの傷跡が残っていました。その様子をみて、私は自分が化け物になったと思い、愕然としました。あまりの現実に、窓から飛び降りたいと何度も口にしました。けれど、そのたびに、母親は私にむかって、「あなたが死ぬのはかまわない。けれど覚えておいて。お母さんは、あなたが死んだ日に必ずあとを追うから」と言いました。母は口にしたことは必ず守ると私はおもっていました。
3ケ月以上のち、ようやく退院することができましたが、以前の自分とはまったく変わってしまっていることを思い知らされました。毎日がつらくて、どんな仕事もまったくやる気がなくなって、何も出来ないのです。希望がもてない日々の中で、すべてに対し、投げやりな気分になり、家庭の中でいらつき、おこりっぽくなくなっていきました。
相性のよかったはずの夫婦仲も悪くなっていきました。ある日、夫が風邪をこじらせてなかなか治らなかった時に、突然「おまえの毒ガスがうつったせいではないか」と言われました。とてもショックでした。家の中は疑心暗鬼に満ちてしまいました。このような毎日が一年以上続き、夫から「このような状況だったら、別かれた方がいいのではないか」と別れを切り出されました。私は離婚をしたくありませんでしたが、子どもの将来を思うと、自分母親としてふさわしくないと思い、離婚に応ずる決意をしました。しかし、離婚をする時にも、子どもの生活や環境を考え、私が買ったマンションは夫に譲り、離婚しました。
私は、子どものために、さらに10万元(約160万円)を夫に渡して、2005年10月に、一人で家を出ました。身の回りのものだけを車の中に投げ込んで、その夜は団地の駐車場で明かしました。母や姉妹には迷惑をかけることはできず、車中で3日3晩を明かしました。寒さの厳しい時期でした。朝日とともに目が覚めたら、車を出してあちこち走り回りました。顔を洗うところさえもなく、3日間、ひたすら走りながら、子どもに寂しい思いをさせ続けたことを悔やみ、夫との幸せだった日々を思い出しました。自分の将来は何も見えず、湖の周りをぐるぐる回りながら、死ぬことばかりを考えました。しかし、入院中に母が言った、私が死ねば、母も後を追うという言葉を思い出すと、私には死を選ぶことはできませんでした。
そして、11月に、年齢に関係なく入居できる介護施設に入居しました。当時の私は「寂しい」という気持ちも失っていました。そんな私を見かねた親戚が、ある男性を紹介するといいました。私はとても受け入れられない心境でしたが、母と姉が無理やり私を連れ出し、その男性と引き合わせました。自暴自棄になっていた私は、自分のすべてをその男性にぶちまけました。中毒被害者であり、健康ばかりか性格も悪くなっていること、将来に対しまったく希望を持てずにいること。しかし、その人は「全部わかっているから心配ないよ」と言ってくれたのです。
この日をきっかけに、彼と数回会うようになりました。彼とのふれあいが少しずつ私を変えていきました。そして、彼との交際を始めたことをきっかけに、施設にいる生活は良くないと考え直し、2006年2月下旬に施設を出ました。
2006年5月ごろ、彼にプロポーズをされ、7月にようやく結婚の届けを出すことができました。その年の8月、子どもができたことに気がつきました。妊娠に気づいた時は、喜びよりも不安が募るばかりでした。被害を受けた後の私の体はあきらかにおかしく、無事に子どもを産む自信がありませんでした。夫は私の妊娠を喜んでくれましたが、生まれてくる子どもが五体満足なのか、健康な子どもが生まれるのか、私の心は不安でいっぱいでした。しかし、夫が「どんな子どもが生まれてこようと、私たちの子どもに違いない」励ましてくれたので、私は子どもを産む決意をしました。妊娠中もつらい日々でした。私は体調がいつも悪くて、よく風邪をひいて、16日間も寝込みました。夫の励ましをうけながら、体調の不調に耐えました。そして2007年2月13日に無事、男の子が生まれました。
しかし、私はもう外で働くことはできません。それどころか毎日、何種類もの薬を飲み、体が動かないために家事もほとんど夫に頼る毎日です。経済的な不安も大きいものです。夫は家族のために毎日夜遅くまで働いてくれますが、家計は決して楽ではありません。私がこのような体なので、昔のように一緒に家計を支えることもできません。とても申し訳なく思っていました。子どものこれからの長い将来を思うとも不安は募るばかりです。
以上ありのまま事実を述べました。裁判所に賢明な判断をお願いします。他人のあわれみを求めるのではありません。正義と道理を求めるものです。
最後に、 日本国と裁判所にお願いがあります。
第一 中国の大地に遺棄した毒ガス弾、毒ガス入りドラム缶を一つ残らず撤去し、私たちの同胞、兄弟姉妹、さらに子々孫々に被害を蒙ることがないようにしてください。
第二 私たち被害者は日本政府に真摯な謝罪を求めます。
第三 私たち被害者は日本政府にこれからの生活支援と医療の補償を求めます。
___
以上、牛さんの陳述の概要をお伝えしました。
詳細はチチハル支援会ウェブサイトや、支える会会報に掲載する予定です。
なお、次回弁論は、6月23日午後4時からになります。
今日の法廷の内容は、被告国に対する責任論と、原告牛海英さんによる意見陳述でした。
牛海英さんの陳述の内容を、要点のみお伝えします。
私(=牛海英)は1978年2月チチハル市内に生まれました。私が生まれたころ、家族の暮らしは貧しく、私の母親は、私が幼いころから家族のために働き始めました。
母親は、私が8歳の時に廃品回収所の経営を始め、私は2001年に私が経営者の立場を引き継ぎました。
1995年に結婚し、96年には男の子が生まれました。私は毎日朝6時から夜10時くらいまで仕事をし、従業員が帰宅した後は自分でも運搬をしました。そうして一生懸命働いたので、収入は充分にありました。経費や生活費などを除いても、年に6〜7万元(日本円で約100万円)の利益がありました。
2003年8月4日、午前9時ごろ、私の経営する廃品回収所に、李貴診さんが、ドラム缶5個を持ってきました。李貴診さんは、私の店の前の空き地でドラム缶を解体する作業を始めました。解体した瞬間、液体と気体が同時に吹き出し、ドラム缶からかなり刺激の強い臭いが噴出し、みるみるうちに鼻、胸、肺それから頭のてっぺんまで十万して、まるで、からしを食べたようでした。私はしめったタオルでずっと鼻をおさえていました。彼はまた解体作業を続けていました。4つの缶の中には、液体がはいっていたので、隣人の王成さんが手伝って、液体をひしゃくで洗面器にくみだし、全面の路の溝に捨てていました。
お昼に食事を届けてくれたお手伝いさんが私を見て、まるでお酒を飲んだように顔全体から胸にかけて真っ赤になっていると言われました。目が充血し、のどがひどくただれて、自分は熱中症だと思いました。のどが非常に渇くので、水をいくら飲んでものどの渇きをいやすことはできませんでした。
当日の午後1時ころドラム缶解体を終えたので、私はこれを買いました。その後、李貴診さんの症状はかなり重いようで、みているとよろけながら去っていきました。ドラム缶から発散される臭いがとても我慢できなかったので、急いで300元で転売人の梁波さんにドラム缶を売りました。
夕方になると、顔と首がさらに赤く腫れ上がり、目の痛みもよりひどくなり、頭ももうろうとしてきました。仕事が忙しくて、かまっていられませんでした。その日の夜、李貴診さんの奥さんが私のところに来て、夫の具合が悪くなり、病院に行ったところ「中毒」と診断されて、あなたもすぐ行った方が良いと言われて、私もすぐに病院に行きました。病院に着くと、王成さんと李貴診さんがベッドの上で吐いたり、涙を流したりして苦しんでいました。私たちは中毒と診断されましたが、何の毒に当たったかは言われなくて、とにかく私たちに急いで203病院へ転院するように言われました。
入院中は、あまりの激痛に苦しみ続けました。そして、病院でようやく鏡を見ることができた時、私の顔は醜く腫れ上がり、おなかには大きなびらんびらんの傷跡が残っていました。その様子をみて、私は自分が化け物になったと思い、愕然としました。あまりの現実に、窓から飛び降りたいと何度も口にしました。けれど、そのたびに、母親は私にむかって、「あなたが死ぬのはかまわない。けれど覚えておいて。お母さんは、あなたが死んだ日に必ずあとを追うから」と言いました。母は口にしたことは必ず守ると私はおもっていました。
3ケ月以上のち、ようやく退院することができましたが、以前の自分とはまったく変わってしまっていることを思い知らされました。毎日がつらくて、どんな仕事もまったくやる気がなくなって、何も出来ないのです。希望がもてない日々の中で、すべてに対し、投げやりな気分になり、家庭の中でいらつき、おこりっぽくなくなっていきました。
相性のよかったはずの夫婦仲も悪くなっていきました。ある日、夫が風邪をこじらせてなかなか治らなかった時に、突然「おまえの毒ガスがうつったせいではないか」と言われました。とてもショックでした。家の中は疑心暗鬼に満ちてしまいました。このような毎日が一年以上続き、夫から「このような状況だったら、別かれた方がいいのではないか」と別れを切り出されました。私は離婚をしたくありませんでしたが、子どもの将来を思うと、自分母親としてふさわしくないと思い、離婚に応ずる決意をしました。しかし、離婚をする時にも、子どもの生活や環境を考え、私が買ったマンションは夫に譲り、離婚しました。
私は、子どものために、さらに10万元(約160万円)を夫に渡して、2005年10月に、一人で家を出ました。身の回りのものだけを車の中に投げ込んで、その夜は団地の駐車場で明かしました。母や姉妹には迷惑をかけることはできず、車中で3日3晩を明かしました。寒さの厳しい時期でした。朝日とともに目が覚めたら、車を出してあちこち走り回りました。顔を洗うところさえもなく、3日間、ひたすら走りながら、子どもに寂しい思いをさせ続けたことを悔やみ、夫との幸せだった日々を思い出しました。自分の将来は何も見えず、湖の周りをぐるぐる回りながら、死ぬことばかりを考えました。しかし、入院中に母が言った、私が死ねば、母も後を追うという言葉を思い出すと、私には死を選ぶことはできませんでした。
そして、11月に、年齢に関係なく入居できる介護施設に入居しました。当時の私は「寂しい」という気持ちも失っていました。そんな私を見かねた親戚が、ある男性を紹介するといいました。私はとても受け入れられない心境でしたが、母と姉が無理やり私を連れ出し、その男性と引き合わせました。自暴自棄になっていた私は、自分のすべてをその男性にぶちまけました。中毒被害者であり、健康ばかりか性格も悪くなっていること、将来に対しまったく希望を持てずにいること。しかし、その人は「全部わかっているから心配ないよ」と言ってくれたのです。
この日をきっかけに、彼と数回会うようになりました。彼とのふれあいが少しずつ私を変えていきました。そして、彼との交際を始めたことをきっかけに、施設にいる生活は良くないと考え直し、2006年2月下旬に施設を出ました。
2006年5月ごろ、彼にプロポーズをされ、7月にようやく結婚の届けを出すことができました。その年の8月、子どもができたことに気がつきました。妊娠に気づいた時は、喜びよりも不安が募るばかりでした。被害を受けた後の私の体はあきらかにおかしく、無事に子どもを産む自信がありませんでした。夫は私の妊娠を喜んでくれましたが、生まれてくる子どもが五体満足なのか、健康な子どもが生まれるのか、私の心は不安でいっぱいでした。しかし、夫が「どんな子どもが生まれてこようと、私たちの子どもに違いない」励ましてくれたので、私は子どもを産む決意をしました。妊娠中もつらい日々でした。私は体調がいつも悪くて、よく風邪をひいて、16日間も寝込みました。夫の励ましをうけながら、体調の不調に耐えました。そして2007年2月13日に無事、男の子が生まれました。
しかし、私はもう外で働くことはできません。それどころか毎日、何種類もの薬を飲み、体が動かないために家事もほとんど夫に頼る毎日です。経済的な不安も大きいものです。夫は家族のために毎日夜遅くまで働いてくれますが、家計は決して楽ではありません。私がこのような体なので、昔のように一緒に家計を支えることもできません。とても申し訳なく思っていました。子どものこれからの長い将来を思うとも不安は募るばかりです。
以上ありのまま事実を述べました。裁判所に賢明な判断をお願いします。他人のあわれみを求めるのではありません。正義と道理を求めるものです。
最後に、 日本国と裁判所にお願いがあります。
第一 中国の大地に遺棄した毒ガス弾、毒ガス入りドラム缶を一つ残らず撤去し、私たちの同胞、兄弟姉妹、さらに子々孫々に被害を蒙ることがないようにしてください。
第二 私たち被害者は日本政府に真摯な謝罪を求めます。
第三 私たち被害者は日本政府にこれからの生活支援と医療の補償を求めます。
___
以上、牛さんの陳述の概要をお伝えしました。
詳細はチチハル支援会ウェブサイトや、支える会会報に掲載する予定です。
なお、次回弁論は、6月23日午後4時からになります。
2008年03月03日
遺棄化学兵器被害チチハル事件訴訟 弁論&集会にご参加を
★☆★☆━━━━━━━転送歓迎━━━━━━━━転送歓迎━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2008年3月10日(月)
遺棄化学兵器被害チチハル事件訴訟 第4回口頭弁論
&
原告証言集会にご参加ください!
★☆★☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2003年8月4日、旧日本軍遺棄化学兵器が掘り起こされ、チチハル事件が起
きました。被害に遭った人たちは、健康な体、生きる希望、人間としての誇り、
仕事、友だち、夢、多くのものを失いました。
被害者たちは2007年1月25日に提訴。原告としてこれから長い裁判を闘っ
ていきます。どうぞ法廷で、原告たちを応援してください!
★チラシこちらからダウンロードできます★
http://www.care-mirai.net/files/latest.zip
■■■■■■
■
■ 遺棄化学兵器被害チチハル事件訴訟 第4回口頭弁論
3月10日(月)16:00〜17:00
@東京地方裁判所103号法廷
http://www.courts.go.jp/tokyo-h/about/syozai/tokyomain.html
(東京メトロ 霞ヶ関A1出口)
《内容》弁論/牛海英さんの意見陳述
※日本政府が戦後毒ガスを遺棄し放置し続けたにもかかわらず事故発生を回避す
る努力をしなかったことを主張し、なぜ日本に責任があるのかを明らかにします。
※次回裁判期日は6月23日(月)16:00〜 103号法廷です
■■■■■■
■
■ チチハル被害者証言集会
3月10日(月)18:30〜20:30 (資料代500円)
文京シビックホール26Fスカイホール
http://www.b-civichall.com/access/main.html
《内容》
1 photo cinema
2 訴訟の経過と展望 <休憩15min
3 牛海英さん広島での映像/牛海英さんインタビュー
4 スタディ・ツアー紹介 ほか
*プログラムは諸事情により変更となる可能性もあります
★☆★☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■来日原告のプロフィール
牛海英(Niu Haiying/ニウ・ハイイン)さん
1978年2月1日生まれ
牛さんは、廃品回収所のオーナーとして精力的に仕事をこなす女性で、公務員の
夫と小学生の息子が一人いました。
事故に遭い、顔が醜く腫れ上がり、毒ガスが腹部に付着したため患部の皮膚も酷
くただれました。強制的に入院させられた病院では、あまりの痛みと自分の醜さ
に自殺未遂を繰り返しました。
退院して家に戻った後は、仕事に復帰したくても後遺症のため身体がまったく自
由に動きません。夫も、毒ガス被害者となった彼女との夫婦生活を嫌がるように
なりました。そして一方的に夫に離婚を求められ、行くあてもないまま家を出る
ほかありませんでした。
彼女は今、この苦しみから抜け出して、重篤な後遺症を抱えながらも新しい人生
を歩み始めようとしています。
■チチハル事件とは?
2003年8月4日、中国黒竜江省チチハル市の集団住宅建設現場から毒ガス缶が掘り
起こされ、建設にあたっていた作業員、汚染土に触れた子どもなど、計44名が
被害に遭いました(うち死亡者1名)。
のちにこの毒ガス缶は、戦時中に旧日本軍が持ち込み、戦後に地中に遺棄したも
のであることがわかりました。
■遺棄化学兵器被害チチハル事件訴訟
被害者らは日本政府に対し、一時金ではなく謝罪と恒久的な医療・生活保障
を求めてきましたが日本政府が応じなかったため、やむなく2007年1月25日、被
害者ら(遺族含む)48名は日本政府を相手として国家賠償請求訴訟を提起しました。
原告らはみな、事故に遭う前は、大変さや辛さを抱えながらもそれぞれの夢を
持って生きていた普通の市民でしたが、事故により重い後遺症が残り、周囲の人
たちにも避けられるように。
健康、仕事、夢…これまでの当たり前の生活全てが奪われたのです。
★☆★☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆ボランティアスタッフ募集しています!
裁判支援や報告集会、イベント企画を一緒にして下さる方、
ご連絡お待ちしております♪
チチハルやハルピンへのスタディツアーもあります。ぜひご参加ください。
お問い合わせは下記連絡先、三坂までお願い致します。
◆渡航費・滞在費 カンパお願いします☆
郵便振替口座 00170−0−650194
口座名義 チチハル8・4被害者を支援する会
★☆★☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
チチハル8・4被害者を支援する会
TEL 0422−55−2211 (担当:三坂彰彦)
E:mail a-misaka@rk9.so-net.ne.jp
URL: http://www.84qiqihar.net/wordpress/
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2008年3月10日(月)
遺棄化学兵器被害チチハル事件訴訟 第4回口頭弁論
&
原告証言集会にご参加ください!
★☆★☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
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2003年8月4日、旧日本軍遺棄化学兵器が掘り起こされ、チチハル事件が起
きました。被害に遭った人たちは、健康な体、生きる希望、人間としての誇り、
仕事、友だち、夢、多くのものを失いました。
被害者たちは2007年1月25日に提訴。原告としてこれから長い裁判を闘っ
ていきます。どうぞ法廷で、原告たちを応援してください!
★チラシこちらからダウンロードできます★
http://www.care-mirai.net/files/latest.zip
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■ 遺棄化学兵器被害チチハル事件訴訟 第4回口頭弁論
3月10日(月)16:00〜17:00
@東京地方裁判所103号法廷
http://www.courts.go.jp/tokyo-h/about/syozai/tokyomain.html
(東京メトロ 霞ヶ関A1出口)
《内容》弁論/牛海英さんの意見陳述
※日本政府が戦後毒ガスを遺棄し放置し続けたにもかかわらず事故発生を回避す
る努力をしなかったことを主張し、なぜ日本に責任があるのかを明らかにします。
※次回裁判期日は6月23日(月)16:00〜 103号法廷です
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■
■ チチハル被害者証言集会
3月10日(月)18:30〜20:30 (資料代500円)
文京シビックホール26Fスカイホール
http://www.b-civichall.com/access/main.html
《内容》
1 photo cinema
2 訴訟の経過と展望 <休憩15min
3 牛海英さん広島での映像/牛海英さんインタビュー
4 スタディ・ツアー紹介 ほか
*プログラムは諸事情により変更となる可能性もあります
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■来日原告のプロフィール
牛海英(Niu Haiying/ニウ・ハイイン)さん
1978年2月1日生まれ
牛さんは、廃品回収所のオーナーとして精力的に仕事をこなす女性で、公務員の
夫と小学生の息子が一人いました。
事故に遭い、顔が醜く腫れ上がり、毒ガスが腹部に付着したため患部の皮膚も酷
くただれました。強制的に入院させられた病院では、あまりの痛みと自分の醜さ
に自殺未遂を繰り返しました。
退院して家に戻った後は、仕事に復帰したくても後遺症のため身体がまったく自
由に動きません。夫も、毒ガス被害者となった彼女との夫婦生活を嫌がるように
なりました。そして一方的に夫に離婚を求められ、行くあてもないまま家を出る
ほかありませんでした。
彼女は今、この苦しみから抜け出して、重篤な後遺症を抱えながらも新しい人生
を歩み始めようとしています。
■チチハル事件とは?
2003年8月4日、中国黒竜江省チチハル市の集団住宅建設現場から毒ガス缶が掘り
起こされ、建設にあたっていた作業員、汚染土に触れた子どもなど、計44名が
被害に遭いました(うち死亡者1名)。
のちにこの毒ガス缶は、戦時中に旧日本軍が持ち込み、戦後に地中に遺棄したも
のであることがわかりました。
■遺棄化学兵器被害チチハル事件訴訟
被害者らは日本政府に対し、一時金ではなく謝罪と恒久的な医療・生活保障
を求めてきましたが日本政府が応じなかったため、やむなく2007年1月25日、被
害者ら(遺族含む)48名は日本政府を相手として国家賠償請求訴訟を提起しました。
原告らはみな、事故に遭う前は、大変さや辛さを抱えながらもそれぞれの夢を
持って生きていた普通の市民でしたが、事故により重い後遺症が残り、周囲の人
たちにも避けられるように。
健康、仕事、夢…これまでの当たり前の生活全てが奪われたのです。
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◆ボランティアスタッフ募集しています!
裁判支援や報告集会、イベント企画を一緒にして下さる方、
ご連絡お待ちしております♪
チチハルやハルピンへのスタディツアーもあります。ぜひご参加ください。
お問い合わせは下記連絡先、三坂までお願い致します。
◆渡航費・滞在費 カンパお願いします☆
郵便振替口座 00170−0−650194
口座名義 チチハル8・4被害者を支援する会
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チチハル8・4被害者を支援する会
TEL 0422−55−2211 (担当:三坂彰彦)
E:mail a-misaka@rk9.so-net.ne.jp
URL: http://www.84qiqihar.net/wordpress/
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2008年01月17日
旧日本軍遺棄毒ガス・敦化事件訴訟が新たに提訴
1月17日、旧日本軍遺棄毒ガス・敦化事件訴訟が
新たに提訴しました。
「毒ガス」裁判で提訴されるのは、日本で4件目となります。
第一回弁論日などが決まりましたら、また追ってお知らせします。
■敦化事件とは?
2004年7月23日、中国東北部・吉林省敦化蓮花泡の小川にあった遺棄毒ガス
砲弾を被害者の一人である少年が拾い上げたところ腐食した穴から毒ガス液がも
れ,少年2人が被毒,負傷しました。
■被害の実態は?
健康被害として、皮膚のただれ、びらん箇所のかゆみ・痛み、視力の低下、呼吸
器障害、体力の低下,集中力の低下等です。その他にも、不登校、いじめ、差別
など、被害者の少年たちは人生の困難にさらされており,家族も不安を抱えてい
ます。
■被害者が求めているのは?
医療支援を柱とした毒ガス被害者全体についての救済制度です。
■今回訴訟に踏み切った理由は?
毒ガスの被害は進行性であり、特にこれから大人になる被害者に必要なのは今後
の成長を助ける医療支援、生活支援です。そのため被害者らは、事故発生直後か
ら、すでに提訴した遺棄毒ガス被害事件であるチチハル事件の被害者らととも
に,日本政府に対して一時金ではなく恒久的な医療ケアや根治治療、就学援助、
生活補償の制度設計を求めてきました。しかしながら、事故後3年半経過した現
在においても誠意ある回答はありません。そこで、やむを得ず訴訟提起に至りま
した。
■今回、誰にどのような請求を?
日本国政府に対して、一人当たり3300万円の損害賠償(2名で総額6600
万円)を請求します
(国家賠償請求訴訟)。
■被害者プロフィール
周桐(じょう・とんぐ)男,当時満12才,現在15才 1992年5月28
日生まれ
事故当時,小川の土手に刺さっていた砲弾を拾い小枝でいじくっていたとこ
ろ,砲弾の腐食した穴から毒ガス液が漏れ被毒。被毒後,学校で差別に会い,ま
た勉強について行けなくなり中学校を退学した。現在も咳き込むなどの症状に苦
しんでいる。
劉浩(りう・はお)男,当時満8才,現在11才 1996年2月25日生まれ
周桐と一緒に小川で遊んでいたところ,隣にいた周桐の持っていた小枝についた
毒ガス液により被毒。被毒後,学校で差別に会い,小学校を1学年留年する。今
も風邪を引きやすく,視力の低下を訴える。
新たに提訴しました。
「毒ガス」裁判で提訴されるのは、日本で4件目となります。
第一回弁論日などが決まりましたら、また追ってお知らせします。
■敦化事件とは?
2004年7月23日、中国東北部・吉林省敦化蓮花泡の小川にあった遺棄毒ガス
砲弾を被害者の一人である少年が拾い上げたところ腐食した穴から毒ガス液がも
れ,少年2人が被毒,負傷しました。
■被害の実態は?
健康被害として、皮膚のただれ、びらん箇所のかゆみ・痛み、視力の低下、呼吸
器障害、体力の低下,集中力の低下等です。その他にも、不登校、いじめ、差別
など、被害者の少年たちは人生の困難にさらされており,家族も不安を抱えてい
ます。
■被害者が求めているのは?
医療支援を柱とした毒ガス被害者全体についての救済制度です。
■今回訴訟に踏み切った理由は?
毒ガスの被害は進行性であり、特にこれから大人になる被害者に必要なのは今後
の成長を助ける医療支援、生活支援です。そのため被害者らは、事故発生直後か
ら、すでに提訴した遺棄毒ガス被害事件であるチチハル事件の被害者らととも
に,日本政府に対して一時金ではなく恒久的な医療ケアや根治治療、就学援助、
生活補償の制度設計を求めてきました。しかしながら、事故後3年半経過した現
在においても誠意ある回答はありません。そこで、やむを得ず訴訟提起に至りま
した。
■今回、誰にどのような請求を?
日本国政府に対して、一人当たり3300万円の損害賠償(2名で総額6600
万円)を請求します
(国家賠償請求訴訟)。
■被害者プロフィール
周桐(じょう・とんぐ)男,当時満12才,現在15才 1992年5月28
日生まれ
事故当時,小川の土手に刺さっていた砲弾を拾い小枝でいじくっていたとこ
ろ,砲弾の腐食した穴から毒ガス液が漏れ被毒。被毒後,学校で差別に会い,ま
た勉強について行けなくなり中学校を退学した。現在も咳き込むなどの症状に苦
しんでいる。
劉浩(りう・はお)男,当時満8才,現在11才 1996年2月25日生まれ
周桐と一緒に小川で遊んでいたところ,隣にいた周桐の持っていた小枝についた
毒ガス液により被毒。被毒後,学校で差別に会い,小学校を1学年留年する。今
も風邪を引きやすく,視力の低下を訴える。
2007年10月19日
遺棄化学兵器処理事業関連会社に対する特別背任容疑の捜査報道について
10月17日,マスコミ各社はいっせいに,中国における旧日本軍の遺棄化学兵器処理事業を受注している「パシフィックコンサルタンツインターナショナル」(PCI)の元社長が,事業資金のうち約1億円を不正流用したとの疑いで,東京地検特捜部がPCI関連会社を捜索したことを報じている。
そもそも,日本政府による遺棄化学兵器処理事業とは,「人の安全を確保し,環境を保護することを最優先としつつ…化学兵器禁止条約の義務を履行することを目的とする」事業である(「中国遺棄化学兵器処理事業基本計画書」)。つまり,遺棄化学兵器処理事業とは,化学兵器による非人道的な人身被害の根絶という化学兵器禁止条約(1995年批准)の目的実現のため,何よりも「人の安全の確保」を最優先の目的,理念とした事業でなければならないのである。
ところが,これまで遺棄化学兵器処理事業に注ぎ込まれた数百億円もの事業資金は,「人の安全の確保」から最も遠ざけられた人々,すなわち,旧日本軍による遺棄化学兵器によって身体を蝕まれ,現在も苦しんでいる中国人被害者らにほとんど行き渡ることがなかった。旧日本軍の遺棄化学兵器によって亡くなった被害者とその遺族は無念の思いを抱き,生存する被害者たちは今も日々健康被害に苦しみ続けている。このような現実を直視すれば,遺棄化学兵器処理事業の目的とその理念が十分現実化しているなどとは到底言い得ないはずである。
しかも,仮に今回のマスコミ報道が真実だとすれば,本来なら遺棄化学兵器処理事業によって救済されるべきなのに救済されていない中国人被害者が多数いる一方で,遺棄化学兵器処理事業を利用して不正な個人的利益を貪る輩が,事業を「食い物」にしていたということになる。これまでも遺棄化学兵器処理事業についてはその不透明さが問題となっていたが,緊急に必要とされるべき中国人被害者らの救済を放置し,更に国内の不正流用問題までも見過ごしてきたというのであれば,日本政府の責任は重大である。そして,今後もこのような事態を見過ごすことは,遺棄化学兵器処理事業の目的や理念の実現が不可能であることはもちろんのこと,化学兵器禁止条約の実施という崇高な国際的責務をわが日本が果たすことも到底不可能というほかなく,日本の国際的信頼が失墜することは避けられないであろう。
われわれは,今回の事件を引き続き注視し,遺棄化学兵器処理事業が不正利益享受の温床となることのないよう監視するとともに,今後,遺棄化学兵器処理事業が本来の目的と理念に基づいて,旧日本軍の遺棄化学兵器による被害者の救済を実施する機能を持った事業となるよう強く要求するものである。
2007年10月18日
遺棄毒ガス等被害賠償請求事件弁護団
連絡先:東京都新宿区新宿1−6−5 シガラキビル9階
ピープルズ法律事務所
弁護士 南 典 男(みなみ のりお)
電話:03−3354−2555
FAX:03−3354−9650
そもそも,日本政府による遺棄化学兵器処理事業とは,「人の安全を確保し,環境を保護することを最優先としつつ…化学兵器禁止条約の義務を履行することを目的とする」事業である(「中国遺棄化学兵器処理事業基本計画書」)。つまり,遺棄化学兵器処理事業とは,化学兵器による非人道的な人身被害の根絶という化学兵器禁止条約(1995年批准)の目的実現のため,何よりも「人の安全の確保」を最優先の目的,理念とした事業でなければならないのである。
ところが,これまで遺棄化学兵器処理事業に注ぎ込まれた数百億円もの事業資金は,「人の安全の確保」から最も遠ざけられた人々,すなわち,旧日本軍による遺棄化学兵器によって身体を蝕まれ,現在も苦しんでいる中国人被害者らにほとんど行き渡ることがなかった。旧日本軍の遺棄化学兵器によって亡くなった被害者とその遺族は無念の思いを抱き,生存する被害者たちは今も日々健康被害に苦しみ続けている。このような現実を直視すれば,遺棄化学兵器処理事業の目的とその理念が十分現実化しているなどとは到底言い得ないはずである。
しかも,仮に今回のマスコミ報道が真実だとすれば,本来なら遺棄化学兵器処理事業によって救済されるべきなのに救済されていない中国人被害者が多数いる一方で,遺棄化学兵器処理事業を利用して不正な個人的利益を貪る輩が,事業を「食い物」にしていたということになる。これまでも遺棄化学兵器処理事業についてはその不透明さが問題となっていたが,緊急に必要とされるべき中国人被害者らの救済を放置し,更に国内の不正流用問題までも見過ごしてきたというのであれば,日本政府の責任は重大である。そして,今後もこのような事態を見過ごすことは,遺棄化学兵器処理事業の目的や理念の実現が不可能であることはもちろんのこと,化学兵器禁止条約の実施という崇高な国際的責務をわが日本が果たすことも到底不可能というほかなく,日本の国際的信頼が失墜することは避けられないであろう。
われわれは,今回の事件を引き続き注視し,遺棄化学兵器処理事業が不正利益享受の温床となることのないよう監視するとともに,今後,遺棄化学兵器処理事業が本来の目的と理念に基づいて,旧日本軍の遺棄化学兵器による被害者の救済を実施する機能を持った事業となるよう強く要求するものである。
2007年10月18日
遺棄毒ガス等被害賠償請求事件弁護団
連絡先:東京都新宿区新宿1−6−5 シガラキビル9階
ピープルズ法律事務所
弁護士 南 典 男(みなみ のりお)
電話:03−3354−2555
FAX:03−3354−9650
2007年10月04日
毒ガス第1次 控訴審判決をうけて
第1次・遺棄毒ガス・砲弾訴訟の控訴審判決が、7月18日、東京高等裁判所で言い渡されました。この1次訴訟の一審判決は、国に合計約2億円の支払いを命じる被害者らの全面勝訴で、国が控訴したため、高裁で3年にわたって審理が続けられ、今回の判決を迎えました。来日していた被害者の李臣さんと孫文斗さんの見守る中で判決が言い渡されましたが、まさかの逆転敗訴判決でした。判決は、国の戦後の不作為(放置行為)の違法性について、国がある具体的な行為をしてさえいれば事故を防げたという「高度の蓋然性」が必要であるとしたうえで、本件ではそのような「高度の蓋然性」は認められないとしました。一審判決は、「できるだけ多くの場所で、できるだけ発見されにくい方法で遺棄・隠匿し、関係の書類も焼却して、それで年月がたてば、遺棄兵器が存在する場所を具体的に把握することができなくなって、結果回避の可能性がなくなり、作為義務も認められなくなるというような考え方は、採用できない。」と判示して結果回避の可能性を認めましたが、本件判決は、まさにこのような考え方にのっとったもので極めて不当なものです。判決後の李臣さんと孫文斗さんの落胆ぶりは見ていられないほどのものでした。上告して今後は最高裁でこの判断を争うことになります。
他方で、この判決には異例ともいえる3頁にわたる付言がつけられています。そこでは、「化学兵器が人類の良心に反し、文明世界の世論の正当な非難に耐えないものであることを確認するものであること、毒ガス兵器等による生命、身体に対する被害が極めて重大で、重篤なものである」ことの原則を確認した上で、本件毒ガス事故の被害者らが被った被害者に補償をしないことが正義にかなったものとは考えられないし、さらには今も多くの被害者がでていて、日本政府により全体的かつ公平な被害者救済措置が策定されることが望まれる、とも述べられています。この付言には、日本政府は中国に残した毒ガス弾の処理を約束していて、それが実行される前に被害がおこったのだから、これへの救済は公平にきちんとおこなえ、とも述べています。チチハル事件の被害者には、日本政府は不十分ながらお金をだしています。今回の原告たちには何の補償もありません。そして、この判決文の付言では「将来におこるであろう被害」にも言及し、その補償もきちんとしなさい、とまで述べています。
今後は,引き続き最高裁での法的解決を求めていくほか,被害者に対する医療支援・生活支援なども含めた政治的な全体解決に向けての闘いも進めていくことになります。
(弁護士 藤沢整・編集部)
他方で、この判決には異例ともいえる3頁にわたる付言がつけられています。そこでは、「化学兵器が人類の良心に反し、文明世界の世論の正当な非難に耐えないものであることを確認するものであること、毒ガス兵器等による生命、身体に対する被害が極めて重大で、重篤なものである」ことの原則を確認した上で、本件毒ガス事故の被害者らが被った被害者に補償をしないことが正義にかなったものとは考えられないし、さらには今も多くの被害者がでていて、日本政府により全体的かつ公平な被害者救済措置が策定されることが望まれる、とも述べられています。この付言には、日本政府は中国に残した毒ガス弾の処理を約束していて、それが実行される前に被害がおこったのだから、これへの救済は公平にきちんとおこなえ、とも述べています。チチハル事件の被害者には、日本政府は不十分ながらお金をだしています。今回の原告たちには何の補償もありません。そして、この判決文の付言では「将来におこるであろう被害」にも言及し、その補償もきちんとしなさい、とまで述べています。
今後は,引き続き最高裁での法的解決を求めていくほか,被害者に対する医療支援・生活支援なども含めた政治的な全体解決に向けての闘いも進めていくことになります。
(弁護士 藤沢整・編集部)
8・4チチハル遺棄化学兵器被害事件第1回口頭弁論の報告
2007年6月6日、8・4チチハル遺棄化学兵器被害事件第1回口頭弁論が行われました。
被害者の代表として、陳栄喜さんと王磊くんが来日し、意見陳述をしました。陳さんは、当時小学生だった娘と共に被害に遭い、その後、事故により夫婦関係が悪くなり妻とも離婚してしまったこと、その事実を深い傷を抱えた娘になかなか言い出せなかったことなど、苦しい胸の内を語りました。王磊くんは、事故によって大好きなサッカーができなくなり、中学校にも行けなくなり、思春期の若者にとって、楽しみのない毎日を送っている悲しみを訴えました。
弁護団からも、訴状の概略について写真パネルを活用して説明し、また、この事件の持つ社会的意義が語られました。その中で、特に重視されたことは、本件事件が起きた2003年という年がどのような時代であったかという点です。日本は、化学兵器禁止条約に基づき、1999年に「日中覚書」を交わし、これにより、中国国内の化学兵器を一定の期間内に廃棄する具体的義務を負いました。本件は、この覚書成立から4年以上の歳月が経過した2003年の出来事でした。しかも、この事件の後でさえ、中国国内では、遺棄化学兵器の被害事例が報告されており、もしかしたら、明日にも、別の遺棄化学兵器によって、罪のない市民が犠牲となるかもしれません。
本件で最年少の被害者は、事故当時わずか7歳であり、この事件は、子どもたちの世代が被害者となっている21世紀の事件です。弁護団は、裁判官に対し、この訴訟は過去を裁くものではなく、現在起こっている人権侵害をどう救うかという問題であることを訴えました。
毒ガスの被害は身体的な被害にとどまりません。彼らは、仕事を失い、近隣住民とのコミュニケーションを失い、家族を失い、希望を失っています。弁護団では、この事件で勝訴を勝ち取るために、こうした毒ガス被害の本質を正しく裁判所に伝えることが必要不可欠だと考えています。そのために、現地調査活動では、被害者から長時間に亘って聞き取りを行い、自宅へも訪問させてもらって、被害者の実態像に迫る調査活動を重ねています。
これからの裁判期日でも、被害者一人ひとりの全人生に亘る被害を、ありのままに伝える法廷を目指します。どうか今後とも、傍聴をお願いします!(弁護士 佐藤 香代)
被害者の代表として、陳栄喜さんと王磊くんが来日し、意見陳述をしました。陳さんは、当時小学生だった娘と共に被害に遭い、その後、事故により夫婦関係が悪くなり妻とも離婚してしまったこと、その事実を深い傷を抱えた娘になかなか言い出せなかったことなど、苦しい胸の内を語りました。王磊くんは、事故によって大好きなサッカーができなくなり、中学校にも行けなくなり、思春期の若者にとって、楽しみのない毎日を送っている悲しみを訴えました。
弁護団からも、訴状の概略について写真パネルを活用して説明し、また、この事件の持つ社会的意義が語られました。その中で、特に重視されたことは、本件事件が起きた2003年という年がどのような時代であったかという点です。日本は、化学兵器禁止条約に基づき、1999年に「日中覚書」を交わし、これにより、中国国内の化学兵器を一定の期間内に廃棄する具体的義務を負いました。本件は、この覚書成立から4年以上の歳月が経過した2003年の出来事でした。しかも、この事件の後でさえ、中国国内では、遺棄化学兵器の被害事例が報告されており、もしかしたら、明日にも、別の遺棄化学兵器によって、罪のない市民が犠牲となるかもしれません。
本件で最年少の被害者は、事故当時わずか7歳であり、この事件は、子どもたちの世代が被害者となっている21世紀の事件です。弁護団は、裁判官に対し、この訴訟は過去を裁くものではなく、現在起こっている人権侵害をどう救うかという問題であることを訴えました。
毒ガスの被害は身体的な被害にとどまりません。彼らは、仕事を失い、近隣住民とのコミュニケーションを失い、家族を失い、希望を失っています。弁護団では、この事件で勝訴を勝ち取るために、こうした毒ガス被害の本質を正しく裁判所に伝えることが必要不可欠だと考えています。そのために、現地調査活動では、被害者から長時間に亘って聞き取りを行い、自宅へも訪問させてもらって、被害者の実態像に迫る調査活動を重ねています。
これからの裁判期日でも、被害者一人ひとりの全人生に亘る被害を、ありのままに伝える法廷を目指します。どうか今後とも、傍聴をお願いします!(弁護士 佐藤 香代)
2007年02月01日
1月24日(水)11:00から、旧日本軍遺棄毒ガス・砲弾第一次訴訟・控訴審の、
1月25日(木)、中国黒竜江省チチハル市で二〇〇三年八月に毒ガス被害に遭っ
た人のなかで、被害者と遺族四十八人が二十五日、提訴しました。
提訴に際し、丁樹文さん(27歳)と、馮佳縁さん(13歳)が、来日しました。
支える会も、これから彼らを応援していきます。これから長い裁判になると思い
ますが、宜しくお願いします!
詳しくは化学兵器被害の解決を目指す共同行動
た人のなかで、被害者と遺族四十八人が二十五日、提訴しました。
提訴に際し、丁樹文さん(27歳)と、馮佳縁さん(13歳)が、来日しました。
支える会も、これから彼らを応援していきます。これから長い裁判になると思い
ますが、宜しくお願いします!
詳しくは化学兵器被害の解決を目指す共同行動

