さて、前フリを経たので、本題に入ります。

『パラリンピック』についてです。


「君ってさ、半分がやさしさでできてるよね」「えー、あなたのhalfこそkindnessだよー」

この愛くるしい二人がやり合ってるのは、
『バファリンシック』です。


僕がこれから語るのは『パラリンピック』についてです。くれぐれも混合しないように。


正直、注目されないですよね。
正直、大抵の人はそこまで関心を抱かないですよね。

オリンピックに比べて、明らかにメディアで扱われる絶対量が少ないし、観客も少ない。

そもそもパラリンピックの語源をご存じですか?

―Paralympic はparaplegia(=麻痺(まひ))とOlympicsとからの造語だったが、paraを「もう一つの」の意(parallel)に取り、正式名称となった。オリンピックと同じ年に同じ場所で開催。―

元々は「麻痺」という意味から来ているんです。


以前、パラリンピックの記事に対するコメントで「そりゃ注目されないだろ。観てて面白くないし、正直なところ、開催する意図もわからない」といったものをいくつか拝見しました。

彼か彼女が発した言葉を、真っ向から否定することはできません。
僕だって、オリンピックを見た直後では、今一つ迫力に欠けるなぁと思ってしまうことはあります。

ただ、それを言葉にしてしまうのはどうなのかな?って思うんです。


障害を持って生きているって、生半可なことじゃないんです。

ざっとですが、障害者の割合は25人に1人です。
この中には身体障害、知的障害、精神障害が含まれます。

多いように感じますか?少ないように感じますか?

もちろんこの世界は健常者の方が多いですから、健常者のピントに合ったシーンがひたすらフィーチャーされるのは仕方ないことですし、当たり前のことです。

ただ。

健常じゃない人がいることも、ほんの片隅に残しておいてほしいと思うんです。
常日頃そんなことを考える必要はないです。

ご飯を食べる度に「生を頂戴しているんだ」なんて思えないですし、お腹いっぱいでご飯を残してしまいそうな時に、毎回「食べたくても食べられない人だっているんだ」と考えたりはできません。

でも、パラリンピックで、障害者が最大級のパフォーマンスを発揮している姿を見て、「開催する意図がわからない」って言えてしまうんですか?

手が動かない、足が動かない、目が見えない、耳が聞こえない、頭が上手く働かない。

もしあなたが健常者であるのなら、あなたには想像もつかないような姿で、想像もつかないような精神で、想像もつかないくらい必死になって、そこまで上り詰めた人間に対して、誠意の欠片もない言葉を投げられますか?

その瞬間くらい想像して下さいよ。

それはきっと健常者のあなたにとってプラスになることです。

障害者にとっては、もっともっと励みになります。
こんな僕でも、こんな私でも、がんばればあんな風に輝けるかもしれない。


今のところ、先天的に障害を持って生まれる人、後天的に障害を持ってしまう人は、これから先もなくならないものと思われます。
もし障害がこの世からなくなる日が来るのであれば、僕は大歓迎です。誰もが健常でいられるのなら、それに越したことはありません。

でも、そうではない世の中がこれから先も続くのだから、もう少し、想像力を働かせなくてはならないと思います。

大袈裟に考えることではありません。ふつうのことです。
ちょっとだけ、バファリン化してくれればいいのです。