2010年12月

2010年12月25日

微高地の相似形(2つの旧街道より)

912ba56c.jpg年末に歩いた根岸砂州と旧江戸前島の微地形を比較してみましょう。左図が上野台地から北東に向かって三角形に張り出した根岸砂州と呼ばれる微高地。右図は本郷台地から連なり、日本橋波蝕台・旧江戸前島へと屈曲しながら連続した微高地。今回注目したいのは、その微高地の尾根筋と直行する、浅草橋へと至るもうひとつの微高地(図では赤点線で表示)。これは現在の江戸通りで、常盤橋から鳥越神社(浅草橋)を経て浅草へ至る旧奥州街道(日光街道)にあたります。江戸城から、古くから栄えていた浅草湊へのルートを確保するため、かつての湿地(低地)に盛土をした、人為的な微高地だろうと想像しています。この微高地がダムとなって生まれたのが神田・お玉が池とも解釈できます。
それにしても裏奥州街道(現在の金杉通り)がはしる根岸砂州(自然堤防)と、奥州街道の微高地(人為的?)の形状や向きが類似しているのはなぜ??

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山ガール・谷オヤジ(101211江戸前島の微地形鑑賞)

d2e8fc45.jpg大学の先輩からのミッションは「2時間程度のスリバチ的まち歩きの後、銀座のライオンで忘年会をやろう」。何と素晴らしい提案!ということで、日本橋をスタートし、京橋・銀座へ至る江戸前島微地形鑑賞のスペシャルコースを企画しました。立ち寄ったのは、日本橋の焼夷弾跡・旧掘留の凸凹・小網神社・思案橋跡・兜神社・亀島川支流の微高地・旧楓川・京橋跡・奥野ビル・三原橋下・銀座の路地などなど。
今年は華やかな山ガールが流行ったようですが、自分たち、地味な谷オヤジもウラで静かなブーム?写真は日本橋東掘留前の微高地を確認している様子ですが、なんとも怪しい。。

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2010年12月12日

下谷・根岸・上野の見どころ(101204報告)

ee3c106a.jpg今年のテーマ「谷のつく地名を歩く」も今回が最終回。前半は上野台地と対峙する下谷・鶯谷、そして自然堤防の微高地、根岸へ。この界隈は震災・戦災の災禍を免れ、江戸の俤(おもかげ)がかすかに残っている地域と言われます。路地マニア・看板建築マニアに加え、「坂の上の雲」ファンも喜ぶコースでした。根岸三業地の空気も感じられるし、さらには音無川(石神井用水)の水路の痕跡を探す楽しみも!
午後は鉄道マニアにはたまらない日暮里近くの弧線橋を越え、上野台地へ。まずは京成線が上野台地に潜るトンネルや寛永寺駅の旧駅舎に萌え。その後は学会らしく、上野台地に刻まれた2箇所のスリバチ地形(芋坂のスリバチ・護国院下のスリバチ)を巡りました。谷中の路地や古い町並みを楽しみつつ、夕暮れまでに何とか台地突端の清水観音堂へ到着、夕陽を浴びながら不忍池・弁天堂でゴールしました。(晴天に恵まれ、ほっとしました!)

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根岸砂州の微高地(101204報告)

fad50c59.jpgかつて千束池が広がっていた入谷の低地を臨む、根岸砂州の微高地に小野照崎神社があります。元々は上野の照崎という場所にありましたが、江戸時代の大規模上野開発の煽りを受け、現在の場所へ移されました。境内の奥には1780年ごろ本物の富士の岩石で築かれた富士塚(標高5m)があります。富士塚マニアの間では都内でも屈指の名山とのことで、毎年6月30日と7月1日の2日間だけ、一般に公開されるとのこと。
小野照崎神社の祭神は、平安時代の歌人であり、儒学者であった小野たかむら。下谷でも多くの寺社が震災・戦災で焼失しましたが、小野照崎神社は奇跡的に火災を免れました。そんなご利益がありそうな有難い神社で、自分たちが注目したのは鳥居前の水路跡でした。。

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人工の丘・元三島神社(101204報告)

e14cda28.jpg鶯谷駅から至近、ラブホに囲まれ、1階は飲食店という人工の丘の上に元三島神社は鎮座しています。
上野山にあった伊予水軍の棟梁・河野道有の館にあった三島神社が起源。河野氏が蒙古襲来の必勝祈願として、伊予国大三島神社の分霊を勧請したもの。三島神社は江戸時代、上野山が幕府の御用地となったため、下谷三丁目に遷座。後に氏子たちの要望で現在の上野台地寄りに戻ってきました。
ついでに「鶯谷」の地名の由来は、元禄の頃、京から江戸にいらした宮様が「江戸の鶯はなまってごじゃるのう・・」と、京から鶯を運ばせ放したそうで、それ以来、鶯の名所になったため、ということです。。

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根岸の里のわびずまい(101204報告)

338d2d13.jpg金杉や根岸は、根岸砂州と呼ばれる自然堤防の上に発達した古い土地柄の町。洪積台地と沖積低地の中間に位置する特殊な地質をもち、下町低地よりも早く陸地化し町の歴史は室町時代まで遡るといいます。江戸湾奥の海岸線で、沼地の岸から「根岸」と呼ばれるようになったそうです。
江戸時代には江戸の中心部から約1里半(6km)の距離にある閑静で風雅な地として、日本橋界隈の大店の寮や別荘、ご隠居さんの住まいがあり、「根岸の里のわびずまい」よろしく、文人墨客、粋人が多く住みついたと言われています。そんな里のイメージは時代を経ても色褪せることなく、明治になっても岡倉天心や正岡子規らがこの里に住まいを構えました。(写真は子規庵)

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音無川の将軍橋(101204報告)

48c2c07b.jpg音無川(石神井用水)は1934年に暗渠化され、その痕跡はほとんど残っていませんが、善性寺の門の前に「将軍橋」と名が刻まれた石橋が残こされています。善性寺にはあの名横綱双葉山のお墓もあります。写真では正面が上野の台地へ登る芋坂、交差点の左手が羽二重団子です。きめがこまかく羽二重のようだと絶賛されたのが名前の由来。小説『坂の上の雲』では、日本海海戦後、根岸の子規邸に一旦立ち寄った秋山真之が、子規が眠る田端の大龍寺に行く途中この団子屋に立ち寄ります。

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てっちゃんの丘(101204報告)

054411f9.jpg芋坂を上り、長い弧線橋を渡ればそこは上野台。その北斜面に小さな窪みがあり、木賃アパートなどが密集した静かな一角があります。路地状の階段とカラフルな色調が地中海を望む集落を想像させます(行ったこと無いけど・・)。パステル調のペイント仕上げは、このスリバチ集落が北向きゆえ、暗いイメージにならないようにとの大家さんの粋な計らい?でも心配無用。この丘からは青い海ならぬ、JRの複線x5に加え京成線も見えるのだから。

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上野台地の二級スリバチ(101204報告)

ee9a2c70.jpg池之端4丁目、護国院裏に小さな窪地があります。武蔵野面に属する上野台地は淀橋面と違い、小さな谷戸地形は少ないとされるので、ここは貴重なスリバチ。とても静かな町が自分たちを迎えてくれました。ちなみにこのスリバチから南へ下った上野動物園も、上野台地の窪地を利用したスリバチ動物園。多くの馬場が谷戸地形に設けられたのと同じで、スリバチ地形は閉じた施設には好都合。

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スリバチビューな舞台(101204報告)

91445c3f.jpg不忍池を臨む上野台地の際に清水観音堂は立地しています。その名のとおり、京都の清水寺の舞台を模して建てられた本家のミニュチュア版。本家は3方を囲まれた深い谷(二級スリバチ)を望む舞台ですが、こちらは藍染川の谷(三級スリバチ)を眺める台地の立地。今では生い茂った木々に遮られ眺望は今ひとつですが、かつては広重が江戸切絵図で描いたようなスリバチビューの絶景でした。
彰義隊が立て籠もった上野台地・寛永寺は、官軍との交戦によって堂宇の大半が焼け落ちました。清水観音堂は五重塔とともに上野戦争の戦禍を間逃れた貴重な建物。

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