2011年04月

2011年04月03日

110423 駒場・池尻のフィールドワークのご案内

ec99672c.jpg【110423駒場・池尻のフィールドワークのご案内】

日時: 4/23(土) 午前10時30分
集合:京王井の頭線池ノ上駅(渋谷から各停で3つ目)改札。

かつて溝の谷と呼ばれた谷戸や川跡を経て、空川の水源やケンネル田圃などの谷を巡ります。東大教養学部辺りで13:00頃ランチ。午後は目黒川の谷(池尻)を越え、旧大山道の台地に上り、北沢川や烏山川の谷を行ったり来たり。17:00頃、三軒茶屋で解散予定。
今回も雨天決行で自由参加・途中抜けOKです。出欠連絡は必要ありませんのでお気軽にご参集下さい。

この春の予定は、
 5/28(土)田端スペシャル
 6/25(土)赤羽(『すりばちの底にあるというボタン』スペシャル)
です。(予定は勝手に変更されることがあります)

suribachi at 18:56|PermalinkComments(4)TrackBack(0) お知らせ 

月の街 谷の街 その2(110326報告のおまけ)

d46ed8c4.jpg戸越銀座を歩いたとき思いました。「夜に来よう」と。
谷の街は夜になるといっそう輝きを増します。戸越銀座商店街は戸越銀次郎(戸越銀座ののマスコットキャラクター)の呼びかけで節電モード。
全国に「○○銀座」のつく商店街は300を越えるといいますが、戸越銀座は日本で最初の「○○銀座」。関東大震災の頃の戸越銀座周辺は、冠水に悩み、道路状況が悪かったといいます。ちょうどその頃、震災に遭った中央区銀座の舗装替え工事により煉瓦敷きを撤去することになり、この煉瓦を譲り受けて道路の排水工事に活用したのが命名の由来。谷の街ならではのエピソード。

suribachi at 11:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ご報告 

坂の下のオヤジ町(110326報告のおまけ)

adda958d.jpg「坂を下りれば路地があったりホッとできるような町があります」とよく学会で言ってますが、その町とはキャットストリートのような若者が集う町だけではなく、オヤジ町が実に多い。ブラタモリの最終回でタモリさんご一向がたどり着いたのも、渋谷という巨大谷町の心臓部とも言える渋谷川沿いのオヤジゾーンでした。
古戸越橋のある一角は夜になるといっそう輝きを増していました。特に夜は、線路と車輪のフランジが擦れ合うキーンというあの金属音が静かな町に響き渡り、たまりません!

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2011年04月02日

戸越・大井町の見どころ(110326報告)

ad82e3e6.jpg春の第1回フィールドワークは大崎駅をスタートし、目黒台先端部の谷戸地形を探索しました。谷戸をかわすように尾根を品川用水が幾筋にも分流しているのがこの辺りの特徴(図中でオレンジ色の点線が品川用水)。品川用水は、玉川上水から境村(現・武蔵野市桜堤)で分水し、用賀や桜新町を経て、目黒台の東縁を潤し南品川宿で目黒川に合流していました。
また目黒台と荏原台の境界部を流れる立会川の谷戸はかつて、蛇窪村と呼ばれてました。「源平の戦の頃の兵備の窪地」を語源とする説もありますが、「蛇が多く住んでいた湿地」とする『風土記稿』の記述のほうが地形的にしっくりきますね。でも「蛇窪」の名は湿っぽすぎるのか、1932年に「神明」と改められました。
その立会川の川跡を辿って大井町駅でゴール。大井町駅は戦前乗降客日本一を誇った駅で、地形的な構造がちょうど渋谷駅に似た谷の駅。

suribachi at 18:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0) フィールドワークレポート 

明治の目黒台先端部(110326報告)

41e4a1b5.jpg明治20年の測量図にカシミールを使って標高別に着色しました。目黒台先端の三つの谷(戸越銀座の谷・戸越公園から続く谷・のんき通りの谷)には川が流れ、一方、台地の上は田畑が広がり灌漑施設の品川用水が台地を潤していたのでしょう。立会川の対岸、一段標高が高い荏原台は谷の様子が目黒台とは異なるのがはっきりと分かります。ちなみに立会川の水源は、昨年の春に訪れた碑文谷池と清水池。
戸越銀座の谷をつくった川も、この頃は谷の中では蛇行し、目黒川へ注いでいました。

suribachi at 12:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0) フィールドワークレポート 

〔┐飽呂泙譴芯(110326報告)

15d7a054.jpg目黒台の突端、居木神社から目黒川の低地の町、大崎を眺めています。居木神社は元々、目黒川に架かる居木橋の近くにありましたが、目黒川の洪水を避け1673年に現在の場所に遷座したと伝えられます。目黒台地の北面、目黒川に面して多くの窪地があり、岬状の場所には居木神社・貴船神社・氷川神社が並びます。目黒川対岸の台地にも多くの谷戸が入り込み、雉子神社や袖ヶ崎神社は台地の突端の岬に立地しています。目黒川下流部のこの辺りは多くの岬に囲まれていて「多い先(おおいさき)」→「おおさき」とダジャレで解釈したくなります。
居木神社のとなりに窪地があり、芳水小学校に利用されています。この「芳水」は小学校創設のために私財を提供した重宗芳水(明電舎の創立者)から付けられた名です。

suribachi at 12:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0) フィールドワークレポート 

戸越銀座は谷の街(110326報告)

31aeb429.jpg地形図でも分かるとおり、戸越銀座の谷は西から東へ直線状に続く長い谷。谷頭は旧中原街道沿いの供養塔群(荏原2-9-17)辺り。目黒台が地形的に分類される武蔵野面の谷は、下末吉面の谷に比べ「支谷が少なく直線的」とされていますが、同じ目黒台でも戸越公園から始まる谷は複雑に蛇行しているので一般論で括っていいのか疑問が残ります。。
ちなみに「戸越」の語源は「江戸越えて清水の上の成就庵 ねがいの糸のとけぬ日はなし」という古歌の「江戸越」との説があります。が、のどかな目黒の台地を横切る、見たことのない長大な谷戸に驚き、「谷戸越」の歌が訛ったとは考えすぎでしょうか。


suribachi at 10:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0) フィールドワークレポート 

坂の下の古戸越橋(110326報告)

91de836f.jpg目黒台の東端部、2番目に訪れた谷は戸越公園から流れ出た川がつくった谷。かつてこの辺りは大間窪と呼ばれたことから、谷を流れた小河川の名は「大間窪川」でいかがでしょうか。戸越銀座の直線的な谷とは対称的なS字に蛇行する谷。本当に蛇が出そうな窪地。大間窪は「大間々窪」の意とされ、武蔵地方の方言で「間々」とは‥攤修崩れた地崖地を指すとされています。大間窪の字の名は近くの大間窪小学校に残されています。
下神明駅の坂の下に、大間窪川に架かる橋の欄干が残され、親柱に「古戸越橋」の文字が辛うじて判読できます。

suribachi at 10:06|PermalinkComments(0)TrackBack(0) フィールドワークレポート 

い笋気阿谿典堯110326報告)

3c4c8da6.jpg戸越公園からの流れ(大間窪川)の上流部は、道路新設のため喪失寸前のやさぐれた暗渠が続きます。戸越公園は、1662年に肥後熊本藩主細川越中守が、品川領の戸越・蛇窪両村の入会地45000坪を拝領してつくった抱屋敷がそのはじまり。細川家はここに東海道五十三次の風景を模した庭園をつくり、品川用水からも分水して池を築いたとされてます。戸越公園の池は地形図からは谷頭にあたる事から、元々湧水があったと思われます。

suribachi at 08:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0) フィールドワークレポート 

イ里鵑通り裏の小さな橋(110326報告)

670b3a0e.jpg目黒台の先端部には「のんき通り」と呼ばれるミニ戸越銀座のような谷の町があります。東急大井町線戸越公園駅近くを水源とし、南東方向へほぼ直線状に流れ、JR西大井駅付近で立会川に合流する小河川がつくった谷戸。上流部ではムード満点の川跡をはっきりと辿ることができます。のんき通り商店街の裏には暗渠が残り、かわいい橋も残されています。排水路が暗渠化された際に撤去を間逃れた奇跡の「のんき橋」!

suribachi at 08:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0) フィールドワークレポート