2011年07月

2011年07月02日

赤羽台の見どころ(110625報告)

83c033e5.jpg春のフィールドワーク最終回は赤羽。
赤羽という地名は赤褐色(アカ)で、ぬかる泥(ハネ)の赤土から転じたとする説もあるように、関東ローム層が厚く堆積した武蔵野台地の典型的地形が見れるエリア。
今回は(1)桐ヶ丘団地と赤羽台団地に挟まれた谷(八幡谷)と(2)赤羽自然観察公園のある谷、そして(3)稲付谷と3つの谷を目指しました。武蔵野台地の谷(主に下末吉面)は上流部で鹿の角のように枝分かれし、3方向を丘で囲まれた谷頭(スリバチ!)を持つのが特徴。赤羽では、住宅地の谷頭・公園の谷頭・寺や墓地の谷頭など、すべてのパタンを見ることができます。
一方、台地の突端、岬状の丘には、八幡神社・静勝寺(稲付城址)・香取神社・稲付公園などがあり、スリバチを見下ろす絶景も楽しめます。赤羽駅から八幡神社下を通り、谷を上って西が丘に至る円弧状の点線は、かつての軍用貨物線の廃線跡。天然の谷戸地形とドボク構築物が織り成す第2の地形も今回の見どころ!


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”霏¬鄲翆呂療賈銘次八幡神社(110625報告)

c78988cd.jpg赤羽駅をスタートし赤羽台団地のスターハウスが現役なことを確認した後、谷を越え武蔵野台地東北端、岬の突端にある八幡神社へ。赤羽・稲付・岩淵宿などの総鎮守で、782年、東征中の坂上田村麻呂が祀ったという伝説も残ってます。台地の中腹を東北新幹線と埼京線のトンネルが貫いている神社としても有名ですね。
写真は八幡神社から、八幡谷と対岸の赤羽台団地のある丘を望んでいます。谷には低層の住宅地が広がり、丘の上の団地・マンション・病院など高層建築が地形の起伏を強調している(スリバチの第一法則)のが分かりますね。不思議な一行を追いかけてきた赤羽在住のO橋さんから「赤羽ラブ」な話も聞けました。

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丘の上の同潤会住宅地(110625報告)

8d416b2b.jpg赤羽台4丁目には同潤会が分譲した戸建住宅地があります。写真は分譲当時のオリジナルの木造住宅と思われます。
同潤会は表参道や代官山にあった鉄筋コンクリート造のアパートを供給した組織として知られてますね。同潤会は関東大震災後、切実に求められた住宅の不燃化と高層化に取り組んだ財団法人。大正13年から昭和9年まで、東京と横浜の16箇所にアパートを建設しました。「都市の住居はどうあるべきか」に取り組み、食寝分離の生活様式から住宅設備のシステム化、さらには集まって住むことの意味をも問いかけ、先駆的なアパートを数多く供給した同潤会。
しかし、昭和9年の江戸川アパートの建設完了を最後に活動の主軸をアパートから木造分譲住宅の建設に移します。鉄筋コンクリート造のアパート建設費は当時の普通住宅の4倍に相当したため、国が戦争体制に入ったことで現実的な住宅政策に転換せざるを得なかったのでしょう。赤羽にはここの他にも西が丘や赤羽西4丁目に同潤会が分譲した住宅地があります。かつて多くの軍事施設があった軍都赤羽、軍需産業に従事する労働者向けの分譲住宅地がここ赤羽台4丁目のルーツです。

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「スリバチの底にあるというボタン」は見つかったか?(110625報告)

0ef9cf3d.jpg明治・大正・昭和と赤羽のドライな台地には、兵器支廠赤羽火薬庫ができたのを皮切りに、軍の各施設が建てられました。戦後は軍施設の広大な跡地を利用し、日本最大の団地が建設されました。桐ヶ丘団地は旧陸軍第一師団工兵第一大隊と近衛工兵大隊の兵営があった丘で、赤羽台団地は旧陸軍被服本廠(廠は工場のことです)のあった丘です。
今回目指すのは2つの丘の狭間の谷。
大島真寿美さんの小説『スリバチの底にあるというボタン』で登場する「スリバチ団地」がここ赤羽の団地を想起させたので、「ミステリーツアー」っぽく今回のフィールドワークを企画しました。はなしの中では「スリバチの底には夢をかなえるボタンがある??」なので、みなさまをスリバチの底にご案内しましたが、ボタンはそっちのけで、川跡やコケの発見に盛り上がっていた一行でした。。

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な断された狭隘スリバチ(110625報告)

15ec7ad4.jpg桐ヶ丘団地と赤羽台団地の間に横たわる八幡谷は、谷の先端部が枝分かれし、桐ヶ丘中央公園や諏訪神社下などに谷頭があります。写真は桐ヶ丘体育館奥の谷頭で、今回最もスリバチ的で静謐な場所。
西が丘にあった旧陸軍兵器支廠と赤羽駅を結ぶ軍用貨物引込線が、このスリバチを縦断していました。その廃線跡の土手は緑道として整備され辿ることができます。谷頭はこの土手によって分断され、一方は墓地に、もう一方がこの住宅地に利用されています。

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ダ岷スリバチ観察公園(110625報告)

ddc906f5.jpg桐ヶ丘団地の南に典型的な谷戸公園(公園系スリバチ)があります。赤羽自然観察公園の名で、元陸上自衛隊駐屯地跡地に平成11年に開園した公園。スリバチ地形を活かし、雑木林をはじめ谷戸の自然回復をはかっているとのこと。谷頭には湧水があり、残念ながら保護区域として立入は禁止されてますが、木立を縫ってせせらぎが流れ出ています。水流の一部を引き入れて谷戸田(谷あいの田圃)もつくられています。武蔵野の谷戸の多くはかつて、湧水や川を活かして水田に利用されてきました。ここでは宅地化される前のスリバチの風景が観察できます(駒場のケルネル田んぼと同じですね)。
この赤羽自然観察公園の谷戸の上流部(谷頭)、大恩寺裏は一級スリバチとなっています。旧陸軍兵器支廠への貨物線が土手を築いて谷を越えているため。

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γの出口の亀ヶ池弁財天(110625報告)

5bb761f7.jpg赤羽台自然観察公園からの流れが荒川低地に出る場所に、亀ヶ池と呼ばれる大きな池がありました。無数の亀がいたのでその名が付いたと言われます。この池は、岬状の台地の突端にあった稲付城西方の天然の防御(堀)に活かされていたといわれます。ちなみに稲付城は、現在清勝寺が建つ場所にあったとされ、寺伝によれば大田道灌築城とのこと。
亀ヶ池は明治時代に製糸工場が建設された際埋め立てられ、現在亀ヶ池弁財天のある小さな池がその名残です。

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О霽佞涼(110625報告)

4242699f.jpg西が丘(1丁目は同潤会の分譲住宅地です)の南には、幅が狭く急峻な稲付川が流れていた谷が横たわります。緑で覆われているのが対岸の王子の台地。稲付川は北耕地川、石神井川中用水、根村用水、七ヵ村用水とも呼ばれます。元々は天然の川ですが、水量を増やすために石神井川から補水を受けていました。そのルートは、板橋区双葉町(旧板橋根村)の先で分かれ、環七通りの姥ヶ橋陸橋辺りで台地(分水嶺)を越え、谷頭まで導かれたもの。目的は流域の農業用水として田畑を潤すためでしたが、狭い谷ゆえ洪水も頻発し、昭和42年に暗渠化されました。
稲付の谷は清水坂公園のスリバチや鳳生寺のスリバチなど支谷も多く、下末吉面の谷の様相を示しています。

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岬の高射砲(110625報告)

cdc9fb08.jpg稲付公園は稲付川が流れていた谷に岬状に突き出しています。先端部分には直径6mほどの円形のコンクリート製の基礎らしきものが。中央には環状のアンカー跡もあり、これって高射砲の基礎??昨年の10月30日、千鳥が淵で見つけたものより大口径のもののようです。B29来襲の最終防衛ラインとしての岬、軍都赤羽ならではの遺構なのかも知れません。
稲付公園は講談社の野間清治社長の別荘跡を公園としたもの。ちなみに稲付の地名の由来はかつて、洪水があると岩宿本宿・神谷・豊島など荒川沿岸の低地の村々で干していた稲が、この崖下に流れ着いたことから起こったと言われています。
春のフィールドワークはこれで一旦終了し、東京の夏は暑いので活動は夏休みです。秋の回は9/24(土)、10/29(土)、12/3(土)を予定しています。

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