2012年03月

2012年03月30日

\蘰谷の細流(120324報告)

49ad0acf.jpg信濃町駅の南東に広がる谷が「千日谷」。外苑東通りからは谷を一望できますが、谷頭にあるコンクリート製の塔が目を引きます。塔のある場所は「一行院」。家康の家臣、永井直勝が信濃町にあった下屋敷の中に寺を建て、その寺に永固山一行院と名付けたのが始まり。直勝の死後、その霊を弔うために千日間の念仏修行が行われ、近隣の人たちから「いつも千日念仏の聞こえる谷間」として、この谷を「千日谷」とよぶようになったといいます。コンクリート製の塔は、首都高速道路4号線が一行院の境内を通ることとなったため、墓地を舎利塔(納骨塔)に納めたもの。
千日谷にはかつて多くの寺院が集まっていましたが、多くは狼谷など郊外の谷へと移転しました。写真は香蓮寺の門前で見つけた小さな橋の跡。千日谷を流れていた細流のひとつと思われます。流れの下流側にあったのが鮫河橋で、橋の手前で若葉町の谷を下ってきた川(桜川)と合流していました。

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行き止まりの路地(120324報告)

df8b9b55.jpg若葉町の谷(鮫河橋谷)では、商店街のある谷筋の道から両側へ、路地が葉脈のように伸びています。が、その路地は崖で行き止まりとなっているため、路地から丘には登れません。路地の正面には地形の高低差を強調するかのような高層の建物が立ちはだかっています。台地と低地が崖で閉ざされているように、町にも境界があり、町が崖線と呼応するよう不連続な様相を「スリバチの第二法則」と勝手に呼んでます。都内の窪地ではよく見かける町の構成で、谷の町から出られなくなることを「スリバチに嵌まる」といいます。
『笑っていいとも』でゲストがタモリさんに「東京の路地って行き止まりが多いですよね」って問いかけていましたが、ゲストさんもスリバチに嵌まった状況だったのだと想像します。

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須賀神社からクボチを望む(120324報告)

768d1cbb.jpg台地の突端にある須賀神社から鮫河橋谷の谷頭方向を眺めると、尾根筋をはしる新宿通り(甲州街道)沿いの建物が、地形の起伏を強調している様子がよく分かります。写真手前の墓地は妙行寺で、窪地にある墓地をクボチとかスリボチと呼びます。鮫河橋谷は今でも多く寺院が軒を並べ、寺町の面影を残しています。夕刻に訪れると、寺の鐘の音が谷にこだましたりします。
町名にもなっている須賀神社は、江戸時代、天王様(牛頭天王社)とお稲荷さん(稲荷社)のダブル祭神だったものが、明治維新後にまとめられたもの(江戸時代は稲荷天王合社と称していました)。鮫河橋谷(若葉町の谷)を眺めるには絶好のビューポイントです。

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45a7d62c.jpg荒木町の車力門通りの突当たりに「とんかつ鈴新」があり、ご主人とは15年ほど前からのお付き合いです。車力門通りはかつて「車力門横町」と呼ばれ、江戸時代、甲州街道からの突き当りに松平摂津の守のお屋敷の通用門(通称:車力門)がありました。本家から毎月20日に御扶持米の俵を牛車で運び込んでいたため、車力夫が集まっていたのが名の由来。「とんかつ鈴新」がある場所がかつての車力門、すなわちスリバチへの入口です。
鈴新のご主人とは『荒木町を発見する会』で知り合いました。まだスリバチ学会が産声を上げる前の出来事で、会員といっても知らない者同士、実際に歩くことで町に潜む魅力を発見し、自慢し合い、小冊子を作ったりして情報発信も行ったユニークな活動でした。ご主人はその会の中心的存在でした。当時は小粋な料理屋が多く残っていたし、石畳の階段や古風な街灯などにも魅せられましたが、自分がハマッたのがその特異な地形。知らなかった東京の一面を垣間見て、今思えばスリバチへの入口の場だったに違いありません。

suribachi at 19:33|PermalinkComments(2)TrackBack(0) フィールドワークレポート 

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9ef06bd8.jpg荒木町の石畳の階段を下りてゆくとスリバチの底に小さな池が残され、池の畔に津の守弁財天が祀られています。(もう説明するまでもないと思いますが・・)荒木町のスリバチは、美濃高須藩主松平摂津守義行が拝領した上屋敷地があった場所で、池は庭園にあった津の守の池の名残。徳川家康が鷹狩の際、「むち」を洗ったので「策(むち)の池」とも呼ばれています。一行が覗き込んでいるのは滝があったとされる滝つぼの辺り。
策の池と弁財天の周りにはちょっとした休憩スペースもあり、いつもきれいに保たれていますが、ここは公共の公園ではなく私有地が開放されているもの。1990年代のバブル期、この池の周辺にも開発の話が持ち上がりましたが、荒木町近くに拠点を持つ『解脱会』という宗教団体がこの土地を買い上げ、スリバチ池と周辺の景観が奇跡的に守られたのでした。この場所がいつもきれいなのは、解脱会の方々が定期的に清掃を行ってくれているおかげなのでした。地形マニアを代表して解脱会さんにお礼申し上げます!

suribachi at 18:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0) フィールドワークレポート 

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577fe434.jpgこの日は朝から小雨が降り続き、雨が上がったのは午後の3時過ぎになってから。。愛住町に辿り着いた頃には急に青空が顔をのぞかせ、暗闇坂を夕陽が明るく照らしていました。谷を見下ろす駐車場からは、大地の起伏と呼応する建物のスカイラインが一望でき、一行はしばし黄昏のスリバチの空に見入ったのでした。
永井荷風が『日和下駄』で「何となく物凄い坂」と記した暗闇坂にはかつて、寺がびっしりと並んでいました。寺院に繁る鬱蒼とした木々が影を坂に落とし、昼間でも陽の射さない暗がりをつくっていたのでしょう。現在でも法雲寺などいくつかの寺は残っていますが、多くの寺が明治以降、廃寺や移転となり、現在は愛住公園などになっています。
一行はこの後、あけぼの橋通りのある谷(ジク谷)を徘徊し、曙橋で解散しました。今回は都心の分かりやすいスリバチを巡りましたが、次回(4/28(土)予定)は郊外のスリバチをご案内する予定。詳細はこのブログで後日告知いたします!

suribachi at 17:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0) フィールドワークレポート