2014年04月

2014年04月18日

140531新潟凹凸フィールドワークのお知らせ

801bde26.jpg路地連新潟さんと下記の通り、新潟でのフィールドワークを開催します!

  2014年 5月31日(土)午後2時より
※ 集合出発 メデイアシップ20階 そらの広場
  http://www.niigata-mediaship.jp/
※ ゴール  日和山五合目です(^^)/
※ 参加費  無料・途中参加・抜け自由・雨天決行

ゴールの後、路地連にいがたさんのミニトークイベントを予定、
さらに夕刻より懇親会も開催予定です。

また、翌日(6/1)も信濃川右岸の町歩きを行います。
参加希望者は9:00にメディアシップ20階そらの広場集合!
(参加費無料・雨天決行・途中抜け可)
ゴールは15:00頃新潟駅を予定。

suribachi at 23:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0) お知らせ 

2014年04月10日

140329鎌倉のフィールドワークレポート

鎌倉凹凸(WEB大)
中世から近世までの700年近くにわたって、日本列島を政治的に主導した武家政権最初の都が、鎌倉に置かれた理由は何だったのでしょうか。京都の朝廷や貴族社会とは距離をおきつつ、平治の乱から始まる内乱を制し、源頼朝が反乱軍の本拠地とした鎌倉とはどのような場所なのでしょう。軍事権力の拠点も、地形的な視点でながめてみると、この地が「都市」というよりも広大な「城」と呼ぶにふさわしいことに気づきます。
鎌倉は南側が海に面し、西・北・東側と三方が常緑の樹木が茂る丘陵に囲まれた地形を持つ。木々で覆われた丘陵に囲まれているために外からは攻めにくく、守るのには都合のよい土地だと言われています。平城京や平安京が山で囲まれた盆地に立地するという共通点を持っているが、鎌倉の場合、南側の海、由比ヶ浜海岸は遠浅の砂浜のため、水軍の上陸が困難なため防御も有利であり、軍事的に天然の要害を成しています。実際には、源頼朝と結んだ摂政で京の公家九条兼実は、日記『玉葉』の中で、鎌倉の町について「鎌倉城」という表現をしています。
ところが、政治上の要地として多くの人口を受容し、物資を運び込むためには周囲の山は交通の妨げになる。そこで築かれたのが「切通」の道だったのです。「切通」とは、稜線を挟んで向かい合う谷戸の先端部分(谷頭)を結ぶために、山頂部を開削して築いた往還路のことで、現在でも史蹟として往時をしのぶ状態で保存されています。切通を築いて交通の便を良くすると、山に囲まれた天然の要害としての地形的メリットが薄れてしまため、防御陣地の要になるよう、切岸・平場・土塁・空堀などの付帯施設が整備されました。防衛拠点でもあった鎌倉への入り口(切通)は7ケ所設けられ、「鎌倉七口」とも呼ばれています。
今回は鎌倉七口のうち、「亀ヶ谷坂」と「化粧坂」の切通を歩いてみました。


suribachi at 21:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0) フィールドワークレポート 

▲好螢丱船咼紂爾竜汽谷坂(140329報告)

亀ヶ谷坂
典型的なスリバチ寺である円覚寺と浄智寺を見学した後、今回は特別に谷戸に居をかまえる個人宅にもお邪魔しちゃいました。周囲を森に囲まれ、外界から遮断された谷戸の世界はスリバチマニアならずとも憧れのライフスタイルです。多くの芸術家を呼び寄せるのも、自分だけの世界に没頭できるスリバチ空間があってこそなのでしょう。
一行は亀ヶ谷の切通から鎌倉入りを目指しました。この切通は、扇ヶ谷と山ノ内地域を結ぶ峠坂で、武蔵国方面へ通じる国史跡となっています。由来は急坂を登る亀が途中でひっくり返ったので、亀返坂と称したとするもの、鶴岡の鶴に対して長寿にちなんだ瑞祥地名とも言われています。
切通を抜けると視界が開け、眼前に鎌倉の市街が望めました。「スリバチの空は広い」と感心しましたが、確かに鎌倉の町自体も、大きな二級スリバチなのかもしれません。


suribachi at 21:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0) フィールドワークレポート 

す極匹涼蓮Σ従兀筺140329報告)

げ従兀
この日は70名ほどの参加者が集まったため、坂を下りた八坂神社でいったん解散、1時間半のたっぷりとしたランチタイムを各自で取り、再集合して化粧坂へアタックしました。
切通とは、中世山城の要害形態を持つ鎌倉の防御拠点ですが、化粧坂だけが他の切通のように切り立った崖に挟まれた狭隘な要路の備えを持たないため、過去に鎌倉攻めの合戦が繰り返されました。新田義貞の鎌倉攻めの際は、三方向から同時攻撃を仕掛けながらも、大半の主力部隊を化粧坂防衛線の攻略に向かわせたといいます。七口の中では最も手薄なウィークポイントと見なされたのでしょう。
初見では「気和飛坂」と書かれ、小町屋(商業地)が許可された場所として、鎌倉時代後期には大いに栄えたといいます。名の由来は平家の首級を化粧し首実験した場所、あるいは遊女が化粧をした坂という伝説起源地名がよく紹介されますが、自然地名としての解釈、形容詞「険(ケハシ)」の語幹ケハから「傾斜の急な」の意とするのが最もしっくりくるよう思います。


suribachi at 21:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

Ε好螢丱舛慮龍拭鎌倉へ(140329報告)

佐助稲荷
化粧坂を無事に上ると源氏山公園。頂の広場で源頼朝像が待っていてくれます。近年、縁結びのパワースポットとして賑わう葛原岡神社、銭洗弁天の名で親しまれている宇賀福神社とまわれば、すっかり観光気分です!しかし、場に似合わぬ70名以上に膨れ上がった一行は、隠里のような谷戸を目指しました。その名も佐助ヶ谷!
佐助ヶ谷は源氏山の南西にあたり、ほぼ南北に広がる谷の中央を佐助川が流れ、その左右に襞のような支谷が入り組むスリバチのパラダイス。佐助川の水源は銭洗弁財天社の銭洗の井と佐助稲荷神社の境内で、一行はあまり観光客の訪れない佐助稲荷神社が祀られた谷頭を目指しました。東京のスリバチと同じく、佐助ヶ谷の沖積地には、元々水田が広がっていました。現在は鎌倉駅にも近いことから高級住宅地となっています。支谷を結ぶ小さなトンネルも散見できるし、谷戸の邸宅が織りなすTVドラマのような場所も点在しています。
鎌倉には、歴史と文化を解き明かす上で貴重な遺産ともいえる「谷(ヤツ)」のつく地名が豊富に残されていることを知りました。3方を丘陵に囲まれた閉鎖的な中世武家社会の首都はまた、多くの支谷を持ち文化のゆりかごとなりました。入り組んだ谷あいで多くの仏刹が育まれ、数多の人々が居を構えたのでした。今回のフィールドワークでは幸運にもその一端を垣間みれたのでした。鎌倉の歴史や文化は「スリバチ(谷戸)」とともにあったといっても過言ではありません。古都鎌倉は、文化を育んだ谷戸の宝庫、スリバチの故郷と呼べそうです。


suribachi at 21:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0) フィールドワークレポート