フィールドワークレポート

2014年04月10日

140329鎌倉のフィールドワークレポート

鎌倉凹凸(WEB大)
中世から近世までの700年近くにわたって、日本列島を政治的に主導した武家政権最初の都が、鎌倉に置かれた理由は何だったのでしょうか。京都の朝廷や貴族社会とは距離をおきつつ、平治の乱から始まる内乱を制し、源頼朝が反乱軍の本拠地とした鎌倉とはどのような場所なのでしょう。軍事権力の拠点も、地形的な視点でながめてみると、この地が「都市」というよりも広大な「城」と呼ぶにふさわしいことに気づきます。
鎌倉は南側が海に面し、西・北・東側と三方が常緑の樹木が茂る丘陵に囲まれた地形を持つ。木々で覆われた丘陵に囲まれているために外からは攻めにくく、守るのには都合のよい土地だと言われています。平城京や平安京が山で囲まれた盆地に立地するという共通点を持っているが、鎌倉の場合、南側の海、由比ヶ浜海岸は遠浅の砂浜のため、水軍の上陸が困難なため防御も有利であり、軍事的に天然の要害を成しています。実際には、源頼朝と結んだ摂政で京の公家九条兼実は、日記『玉葉』の中で、鎌倉の町について「鎌倉城」という表現をしています。
ところが、政治上の要地として多くの人口を受容し、物資を運び込むためには周囲の山は交通の妨げになる。そこで築かれたのが「切通」の道だったのです。「切通」とは、稜線を挟んで向かい合う谷戸の先端部分(谷頭)を結ぶために、山頂部を開削して築いた往還路のことで、現在でも史蹟として往時をしのぶ状態で保存されています。切通を築いて交通の便を良くすると、山に囲まれた天然の要害としての地形的メリットが薄れてしまため、防御陣地の要になるよう、切岸・平場・土塁・空堀などの付帯施設が整備されました。防衛拠点でもあった鎌倉への入り口(切通)は7ケ所設けられ、「鎌倉七口」とも呼ばれています。
今回は鎌倉七口のうち、「亀ヶ谷坂」と「化粧坂」の切通を歩いてみました。


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▲好螢丱船咼紂爾竜汽谷坂(140329報告)

亀ヶ谷坂
典型的なスリバチ寺である円覚寺と浄智寺を見学した後、今回は特別に谷戸に居をかまえる個人宅にもお邪魔しちゃいました。周囲を森に囲まれ、外界から遮断された谷戸の世界はスリバチマニアならずとも憧れのライフスタイルです。多くの芸術家を呼び寄せるのも、自分だけの世界に没頭できるスリバチ空間があってこそなのでしょう。
一行は亀ヶ谷の切通から鎌倉入りを目指しました。この切通は、扇ヶ谷と山ノ内地域を結ぶ峠坂で、武蔵国方面へ通じる国史跡となっています。由来は急坂を登る亀が途中でひっくり返ったので、亀返坂と称したとするもの、鶴岡の鶴に対して長寿にちなんだ瑞祥地名とも言われています。
切通を抜けると視界が開け、眼前に鎌倉の市街が望めました。「スリバチの空は広い」と感心しましたが、確かに鎌倉の町自体も、大きな二級スリバチなのかもしれません。


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Ε好螢丱舛慮龍拭鎌倉へ(140329報告)

佐助稲荷
化粧坂を無事に上ると源氏山公園。頂の広場で源頼朝像が待っていてくれます。近年、縁結びのパワースポットとして賑わう葛原岡神社、銭洗弁天の名で親しまれている宇賀福神社とまわれば、すっかり観光気分です!しかし、場に似合わぬ70名以上に膨れ上がった一行は、隠里のような谷戸を目指しました。その名も佐助ヶ谷!
佐助ヶ谷は源氏山の南西にあたり、ほぼ南北に広がる谷の中央を佐助川が流れ、その左右に襞のような支谷が入り組むスリバチのパラダイス。佐助川の水源は銭洗弁財天社の銭洗の井と佐助稲荷神社の境内で、一行はあまり観光客の訪れない佐助稲荷神社が祀られた谷頭を目指しました。東京のスリバチと同じく、佐助ヶ谷の沖積地には、元々水田が広がっていました。現在は鎌倉駅にも近いことから高級住宅地となっています。支谷を結ぶ小さなトンネルも散見できるし、谷戸の邸宅が織りなすTVドラマのような場所も点在しています。
鎌倉には、歴史と文化を解き明かす上で貴重な遺産ともいえる「谷(ヤツ)」のつく地名が豊富に残されていることを知りました。3方を丘陵に囲まれた閉鎖的な中世武家社会の首都はまた、多くの支谷を持ち文化のゆりかごとなりました。入り組んだ谷あいで多くの仏刹が育まれ、数多の人々が居を構えたのでした。今回のフィールドワークでは幸運にもその一端を垣間みれたのでした。鎌倉の歴史や文化は「スリバチ(谷戸)」とともにあったといっても過言ではありません。古都鎌倉は、文化を育んだ谷戸の宝庫、スリバチの故郷と呼べそうです。


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2013年11月09日

131026日吉のフィールドワークレポート

14530502.jpg台風26号が東京近海を通過中だった10月26日(土)、雨風ともにまだまだ強く、フィールドワークの開催は危ぶまれましたが、集合場所の日吉駅には30名ほどのツワモノが集まったのでした。地元の「慶応義塾大学 日吉丸の会」の方々の参加もあり、まずは日吉本町二丁目にある金蔵寺を目指しました。というのも「日吉」という地名が、金蔵寺の裏にあった日吉権現にちなんで名づけられたといわれていたからです。
しかし、これが大誤算!日吉の複雑な凹凸をめぐりながら進行した、会長率いる先頭グループからはぐれた、地元の方が先導する別働隊が、なんと日吉三丁目の日吉神社へ向かってしまったのです。。結局、別働隊とはランチ前まで合流できませんでした。


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 ̄に霞む大聖院(131026報告)

ed6eb713.jpg丘の麓にある金蔵寺を発ち、雨の降りしきる中、比高30mほどの丘を越え、果樹園に利用されている狭い谷を下りたところに大聖院は静かに立地しています。本堂の裏がミニスリバチ地形になっていて、墓地に利用されている典型的なスリボチです。雨の中、大挙してやってきた不思議な集団を不審に思ったのでしょう。住職さんが怪訝そうに家の中から出てきました。しかしここは先手を打って、笑顔で挨拶。住職さんにいろいろと尋ねたところ、境内にある井戸からは今でも水がくめること、果樹園に利用されている谷には小川が流れていたこと、そして何より、谷を「谷戸」と自然に呼んでいることに親しみを覚えました。


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be9a3bff.jpg大聖院から東に向かう丘の麓では、のどかな里山の風景が見られます。沖積低地には狭いながらも水田が残り、農家の庭先の畑では、カキやイチジクが栽培されていました。途中、地元の方の計らいで、個人宅の敷地内にある湧水スポットも見学することが出来ました!複雑な崖線の岬状部分には、諏訪神社や熊野神社が祀られ、広がる低地を眺めることもできました。
写真は矢上川に流れ込む、松野川の暗渠の出口。手すりに枝木が絡みついているのは、前の週に襲来した台風によって増水した矢上川の水位を物語っています。


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まむし谷の出口にある保福寺(131026報告)

5cfa9c80.jpg慶応義塾日吉キャンパスの体育館施設に利用された谷間の低地部分には緑豊かな雑木林が残されています。以前この谷間は水田や沢のある湿地帯で、その周囲には雑木林があり、そこに多くのマムシが生存していたことから、いつしか蝮谷と呼ばれるようになったとも言われています。
この蝮谷の出口に建立されているのが曹洞宗・谷上山保福寺。小田原北条時代に中田加賀守が開基したといわれ、かつては日吉熊野神社と日吉神社も保福寺の下にあったといわれます。当時の保福寺は、現在よりさらに高台の、現・新幹線日吉トンネルの上にあり、「まむし谷」を見下ろす寺でした。中田加賀守が居住したという城館跡(矢上城址)の碑が慶応大学日吉キャンパス内に残されています。


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89283400.jpg一行は松野川の川跡を辿り、日吉神社に立ち寄った後、慶応日吉キャンパスの学食でランチ。スリバチ歩きではいつも昼食場所に悩みますが、大学のキャンパスは一同が会せるキャパシティもあるし、地図を広げるスペース的なゆとりもあるので、スリバチ学会のような集団にはベストなランチスポットと成りえます。
雨も小降りになってきて、足取りも軽やかに午後の部スタート。日吉駅よりも北西に広がる台地と谷をめぐりました。写真は日吉公園横から、松野川の谷を眺めたものです。台地のうねりに貼りついた住宅群と、遠くの丘の頂の高層マンションが印象的です。

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ス抒扱晋園系スリバチの市民健康の森(131026報告)

ac9c2975.jpg井田病院のある半島状の丘は井田山と呼ばれ、丘の先端部分は「中原区市民健康の森」として開放されています。現地には「地域の人たちが協力し合って管理運営をおこなっており」と書かれた解説板があります。そこには標高差は約23mと記載もあり、見どころは何といっても谷戸部分です。谷頭では湧水が見られ、人工的ではありますが、せせらぎと湿地帯からなる谷戸風景が再現されています。
一行はこの後、松野川の川跡を辿ったあと、対岸の丘に建立された下田神社・駒林神社とめぐりました。雨も上がり、夕陽に照らされた日吉の丘を、朝一番に訪れた金蔵寺へと向かったのでした。


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Χ眤∋の崖の上(131026報告)

760c6bc6.jpg朝一番で立ち寄った際、軒を借りて大雨をしのいだ金蔵寺に再訪です。本尊は天台宗第五代座主・智証大師(ちしょうだいし)作と伝えられる大聖不動明王で、これが日吉不動尊と呼ばれています。期限は古く平安時代にまでさかのぼり、貞観年間(859年〜876年)に清和天皇の勅願により智証大師が創建したと伝えられ、江戸時代には上野の寛永寺の末寺として栄え、敷地面積は2万坪を誇った時代がありました。徳川将軍家の庇護の元、江戸幕府初代と二代将軍である徳川家康・秀忠父子により梵鐘が寄進され、今も現役で使用されています。
さて金蔵寺の見どころは、本堂の左裏手、奥の院である弁天堂と、その先、山を登りながら続く参道です。階段を上がってゆくと崖に穿たれた弁天窟があり、さらにその奥の急な階段を登ってゆくと日吉山王権現が現れ、丘の頂には奥の院の古い祠を見つけることができます。
一行は暴風雨のなか果たせなかったお参りを済ませ、台風一過の陽射しに後押しされるよう、朝とは表情がまるで変った日吉の駅へと戻りました。
次回は、11/17(日)、国分寺のスリバチめぐりを予定しています。

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