しばらく休載します(本文なし)

(本文なし)

腰痛が長引く<170>

<腰痛により行動力は著しく低下した>
    (軽い散歩でも疲労感が伴う)

 腰痛のため歩行力が徐々に低下しだして以来、どの位たっただらろうか。

同年配の友人達と待ち合わせ、同時に歩き始めてから、二〜三分も経たないうちに互いに会話を始めている仲間から、自分一人だけどんどん遅れ始めて、赤信号で彼らがストップでもしてしてくれないかぎり、どんどん彼らとの間の距離は離れていくではないか、鈍痛で痛む腰部を押さえながら,早足で彼らに追つこうとする自分を強く意識し始めてから、すでに10年以上も前になるだろうか。

都会の街中では信号間もそれなりに距離が短いので追い付くにはそれなりに負担が少なかったように思う。
しかし、これが強く意識されたのは矢張り仕事がらみで郊外に出た時でのことあった。

その間、街のマッサージ師によるマッサージ、整形科で腰部の機械牽引などの施術に最大の努力をした積もりである。

久しぶりに鎌倉に参上(その6)<169>

関八州b連想ゲームはこれで終わり
(「関八州古戦録」について)

                       
日本古語文学事典によれば関八州古戦録(かんはっしゅうこせんろく)はわが国の戦国期の約半世紀間、関東域でくりかえされた兵乱の記録書である。

すなわち、上杉家の分立・没落、後北条氏の勃興、謙信の関東進出、上杉・武田・北条・今川四強の拮抗、その間隙で模索する諸土豪の動向、信長の東国出兵、武田家の滅亡、秀吉の小田原城攻略を叙し、天正十八年(1590年)の家康の入府で終わっている。

この関八州古戦録は二十巻の軍記もので作者:槇島昭武、享保十一年(1726年)の作品だそうだ。

頼朝座像この20巻本の中(20巻目の最後)に豊臣秀吉と源頼朝とが、あたかも対面したかのような逸話が記載されているので大変面白い。(勿論、頼朝はこの時点から391年前の1199年には、すでに死去しているので現実の話ではない)。

すなわち、上記古戦記によれば秀吉は1590年(天正18年)奥州平定に向かう途中に鎌倉鶴岡八幡宮を参詣し、同所にある鶴岡八幡宮内社である白旗神社に立ち寄り、そのご祭神である源頼朝(坐像)と対面したことが記載されている。
(上:源頼朝坐像)
秀吉はその対面時に頼朝坐像を真剣な眼差しで亡き頼朝に下記『』のとうりに語りかけたという。
(この古戦記の原文は古語文体のため分かり難いので、それを現代文に解読した山科薫氏ブログを借用させて頂きました)

『日本ひろしといえども、微賤の身から天下統一を成し遂げたのはそなた(頼朝)とこの秀吉だけじゃ。しかし、そなたは王族(天皇家)の流れを汲み、祖先の頼義や義家公が東国の武士を従えた縁で、流人でありながら多くの武士たちが挙兵時から後押ししてくれた。
それに比べて私は、系図も何もないところから(匹夫より)身を起こして天下をわがものにした。従って、創業の功は私の方が上であろう。ともあれ、そなたと私は天下友達だ』
(『』:鍵括弧内の普通括弧は筆者の注書き)

と語りかけながら、秀吉は頼朝坐像の肩先をトントンと叩き、カラカラと笑って立ち去ったという。

なお、上記の頼朝坐像は現在「木造伝源頼朝坐像」と名付けられて、東京国立博物館に所蔵されているそうだ。
                                                      (「鎌倉に参上」の項:おわり)
                                            以  上


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永田駿介

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