2007年04月06日

「ピアノ裁判」最高裁判決についての声明(国立の教育を守る市民連絡会)

 1999年、日野市の公立学校の音楽専科の教員が、卒業式での「君が代」伴奏を校長から求められ、この教員は思想信条上の理由から伴奏ができないと告げた。にも関わらず、校長は職務命令で伴奏を彼女に強要し、彼女が伴奏を行わなかったことに対して後日戒告処分がなされた。彼女は戒告処分の取り消しを求めて提訴した。

 原告のこの教員は、判決後の記者会見において、藤田裁判官の反対意見がついたことに対して、喜びの涙を流していた。判決は、一般論として裁判官の主観を表明しただけで、理由も何も述べていないにも関わらずだ。それは、これまで彼女の訴えがいかに聞いてもらえなかったかの裏返しである。校長にも人事委員会にも一審でも二審でも、そして最高裁判所の調査官にも、訴えを聞いてほしい、理解してほしいという声は、くり返し無視され、拒否され、悪意によってゆがめられてきた。

 この判決の意味することはこういうことだ。

 上から言われたことに対しては、黙って従う。命令に疑問を抱くことは間違ったことで、言うことをきかない人には制裁を加えてもいい。少数者の意見など聞く必要はない。

 もしこれが公的機関の人間に対する理屈として正当化されるとするなら、公務員とは国家に尽くす奴隷でしかありえない。同時にそれを最高裁判所が判決として表明することは、最高裁判所の裁判官が、自らの奴隷性を表明することにほかならない。いったい反対意見や補足意見を無責任に併記してすむのであれば、なぜ内部であがった疑問に対して十分な議論を尽くさなかったのか。藤田裁判官は、訴えた人の言い分を聞くという、裁判官としての当然の職務を果たしたに過ぎない。

 問題は、学校という公教育の場でこの奴隷による支配の論理に対し、最高裁判所がお墨付きを与えたことである。教師の職務の公共性とは「学ぶ権利」の保障以外ありえない。しかし、こうした奴隷としての教師の姿を見て、もし子どもが自らを奴隷として律していくを学ぶのであれば、それを私たちは教育とは呼ばない。たとえ命令であっても従えない、それを行動においても貫く教師の存在が、あらゆる場面において子どもへの強制が正当化される学校において、子どもにとってかけがえのないものであることを私たちは信ずる。私たちは「君が代」伴奏を拒否したこの教員の行動を支持する。

 何より、侵略と戦争において「日の丸・君が代」が果たした役割、そしてそれが天皇制とともに議論を封殺する暴力的な役割を果たした過去を振り返ったとき、私たちは彼女のとった行動を、最高裁判所の言う一般論の名の下に否定しさることなどできはしない。

 私たちは、この判決に強く抗議するとともに、この判決がこれからの卒入学式において、教職員を拘束する理屈としてあらゆる場面で援用されないよう求める。

2007年3月19日

国立の教育を守る市民連絡会


suruke at 08:56│TrackBack(0)clip!日の丸・君が代 

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この記事へのコメント

1. Posted by おるおる君   2007年04月11日 01:44
地裁の判決は守るように要求し、最高裁の判決は、押し付けるなと言う訳ですか?世間では、そういう人達を勝手者と言います。
2. Posted by おるおる君ファン   2007年04月12日 01:42
たぶん言わないYOwwww「勝手者」だなんてwwww
おるおる君はどこの人?