スサノヲとニギハヤヒの日本学(日本文化考)

「日本」とは何か?「日本人」とは何か?拠り所を失い根無し草のように漂う現代人に、日本と日本人の原点と基層を探求するブログです。神社と神道・仏閣と仏教・神話と信仰・祭りと行事・哲学と思想・文明と文化・民俗学・神話学・宗教学・歴史学・考古学・文化人類学などから考察。

【出雲学】◆島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(三)

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◆◇◆島根県八束郡・佐太神社、佐太大神と加賀の潜戸(1)


島根半島の北の加賀の神埼には、通り抜けることのできる洞穴があって、「加賀の潜戸(かがのくけど)」(島根県八束郡島根町潜戸鼻岬の海岸洞窟。新潜戸と旧潜戸があり、旧潜戸は岬の胴体部で巨大な洞窟が広がる。玄武岩、集塊岩などが海食によりできたもの)(※注1)といわれています。

また、加賀の潜戸の近くには賽の河原もあり、幼い子を亡くした親たちが哀しみを持ってくるといわれています。この加賀の潜戸は、佐太神社の祭神「佐太大神」が生まれたとする説話が、『出雲国風土記』(嶋根郡の条などに)に残されています(いくつかの記述がみえる)。

一つは佐太大神の生まれた加賀郷の名の起こりを説いたもので、「佐太大神が生まれた所である。御祖のカミムスビ命(神魂命、神産巣日神か?、伊邪那美命か?)の御子のキサカヒメ命(支佐加比売命・枳佐加比売命)(※注2)が『闇き岩屋なるかも』といって金の弓箭(黄金の弓矢)で射たとき、光り輝いたから、加加という。神亀三年、加賀と改める。」とあります。

もう一つの記載は、「加賀の神埼には窟があり、高さ約十丈、周は約五百二歩で、東西北に通じている。所謂、佐太大神の生まれたところである。生まれる時に臨み、御祖のカミムスビ命(神魂命)の弓箭(弓矢)がなくなってしまった。御祖のカミムスビ命(神魂命)の御子のキサカヒメ命(支佐加比売命)は、『吾が御子、麻須良神(ますらがみ、本来は麻須羅神が佐太大神であったのかもしれません)の御子(佐太御子神?)に坐さば、亡せたる弓箭出で来』と祈願した。そのとき、角製の弓箭が水の随(まにま)に流れ出た。『此は非(あら)ぬ弓箭なり』といって投げ捨てた。また金の弓箭が流れ出てきた。この金の弓箭を取って『闇鬱(くら)き窟なるかも』といって射通す。即ち、御祖のキサカヒメ命(支佐加比売命)の社が、この所に鎮座する。」とあります。

また、佐太神社と祭神については、『出雲国風土記』には「佐太御子社」ともある(『延喜式』神名帳では「佐神社」とあり、祭神は一柱です。本来「佐太御子社(佐太御子神)」と「佐神社(佐神大神)」は別で、二社あったのであろうか? 謎である)。すると、その親神「佐太大神の社」が別に存在することになります。

もし、佐太神社の祭神が「佐太御子神」(従来、佐太神社が「秘説」としてきた主祭神を、明治になって、「佐太御子大神」と明示するようになった)ならば、『出雲国風土記』にあるように、朝日山(佐太神社の西二キロメートル)の麓に「佐太大神の社」があったことになるのですが、はたしてどうなのでしょうか? (この点は複雑で難しく、その後の解釈などが加わり、多くの神々も加えられて、変化している。もう少し調べてみようと思う)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)加賀の潜戸の近くには、加賀(かか)神社が鎮座する。祭神は、キサカヒメ命(支佐加比売命・枳佐加比売命)・猿田彦命(佐太大神)・イザナギ命・イザナミ命・天照大神である。近世には、潜戸大明神とされていた。

(※注2)キサカヒメ命(支佐加比売命・枳佐加比売命)は赤貝の神格化とされ、『古事記』には、八十神に火傷を負わされて死んだオホナムジ命(大穴牟遅命・大穴持命)を蘇生させるために、カミムスビ命(神産巣日之命)がキサカイヒメ命とウムカイヒメ命を遣わしたとある。


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「八雲立つ出雲の国」には、空と陸と海とが互いに映えあう見事な風土が今もあります。
この風土を背景に、多彩な出雲の神々が誕生し縦横無尽に活動したのです。
出雲の風土の中にいると、神話や伝承の世界が、
そこここに生き続けているような不思議なリアリティを感じてしまいます。

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【出雲学】神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(二)

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◆◇◆古代出雲は神話の源郷、八雲立つ出雲の国

 八雲立つ出雲の国は、空と陸と海とが互いに映えあう見事な風土です(※注1)。この風土を背景に、多彩な出雲の神々が誕生し縦横無尽に活動させたのです。出雲には神話や伝承の舞台とされる場所が数多く残されています。これらの神話・伝承を、拙速に歴史的事実と混同することは厳に慎むべきことですが、しかし出雲の風土(文化的風土)はそうした神話や伝承の世界(神話は生活共同体の中で共同認識に基づいて生じたものであり、共同体の信仰がなければ消滅してしまう集団表象。古代の人々が何に感応し、何を価値として生きていたかが見えます)が、そこここに(※注2)生き続けているような不思議なリアリティをもって迫ってきます(※注3)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)出雲の国の自然は、北から半島・湖沼・平野・山地と見事に配置されています。出雲の国はこれらが互いに照応しながら出雲の国の独自な風土を作り出しています。出雲の国はむくむくと雲の湧き立つのが極めて印象的な国です。寄より来る波に洗われる島根半島には、対馬海流が遥か彼方から南方の文化をもたらします。入海・内海や潟港は、古代には外来の文化が留まる良港でした。東の意宇平野と西の杵築平野には五穀を稔らせる狭いが肥沃な平野があります。その背後に横たわる深い山地には良質な砂鉄を産します。

(※注2)黄泉国訪問神話の伊賦夜坂・猪目洞窟、八俣大蛇退治神話の斐伊川・船通山、国譲り神話の稲佐の浜、美保神社の諸手船神事・青柴垣神事などや、国引き神話の島根半島・三瓶山・大山、佐太大神誕生神話の加賀の潜戸、カンナビ信仰の茶臼山・朝日山・大船山・仏経山、神在月の神迎祭・神在祭・神等去出祭などに生き続けています。特に『出雲国風土記』が伝える出雲の神々は、出雲の風土と照応して個性豊かな姿を見せてくれます(出雲の風土がそのまま人格神となったような面影を見せます。『記・紀』神話に出てこない独立神が十四柱もいます)。また、出雲のあちこちには古い伝統をもつ神社があり、古くから信仰があったことを窺わせます(熊野大神、野城大神、佐太大神といった大神伝承、出雲宗教王国の源流)。

(※注3)日本に魅せられ、神話の地・出雲に住み着いて日本研究に生涯を捧げたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、『日本印象記』の中で、「神道の真髄は書籍にも儀式にも法律にも存しない。ただ、国民的心情の中に活きて永存して居るばかりである。そこに国民のあらゆる全部の魂、偉大なる霊力が潜在して震えつつある。この魂が遺伝し、内在し、無意識的、本能的に働いているのが、神道である。神道を解するには、この神秘な魂を知らなくてはならぬ」と述べています。また、ハーンは『杵築』というエッセーの中で、出雲大社の最高祀官・出雲国造と対面した感想を、「古代ギリシャのエレウシスの秘儀を司る最高官(人の生死の秘密を知り、その再生の秘儀に携わる神官)」を思わせると、そのときの印象を感動的に述べています。さらに「杵築を見るということは、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということ、・・・悠久な古代信仰の脈拍にふれることになる」と述べています。

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「八雲立つ出雲の国」には、空と陸と海とが互いに映えあう見事な風土が今もあります。
この風土を背景に、多彩な出雲の神々が誕生し縦横無尽に活動したのです。
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【出雲学】神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(一)

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◆◇◆神々の国・出雲と環日本海文化圏の中心地・出雲

 初冬の旧暦十月、島根県・島根半島の西端の稲佐の浜で、神秘的で厳粛な神事が行われます(※注1)。全国の八百万の神々がこぞって出雲に参集して神議りをするというのです(神迎祭・神在祭・神等去出祭)。そこから、旧暦十月を出雲では「神在月」と呼び、他では「神無月」と呼びます。八雲立つ出雲の国は、神話の風景と懐かしい心の故郷を感じさせる、神々が集う国(古代が息づく神々の国・神話の国)なのです(※注2)。

 明治二十三年(一八九〇年)に来日し、伝統的な日本文化を研究したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、「出雲は、わけても神々の国」「民族揺籃の地」であると述べています。出雲は古代日本の歴史と文化の重要な地(大和朝廷と出雲の緊張関係、国譲り神話に秘められた歴史的背景、倭建命の出雲建征討・出雲振根と飯入根の説話)であり、独自な歴史と文化を持ち続けた地(神庭荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡、巨木文化を伝える出雲大社・四隅突出型墳丘墓、管玉・勾玉などの玉作り文化)でもあったのです。

 出雲の神話(『出雲国風土記』の国引き神話など)や文化(出雲系信仰と習俗など、出雲は宗教王国)を出雲という一地方のローカルな歴史と文化としてみるだけでなく、環日本海文化圏というグローバルな視点から見ると、出雲が日本海沿岸の国や地方と強く深く交流をもっていた先進の文化を持つ国(古代出雲王国)であったことを窺い知ることができます(※注3)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)神迎祭の旧暦十月、稲佐の浜にセグロウミヘビの一種が打ち寄せられます。この海蛇は「竜蛇様」(石見地方では神陀=ジンダと呼びます。常世国から依り来るマレビト神)と崇められ、三方に載せて恭しく出雲大社に奉納されます(上がった浜ごとに佐太神社、日御御碕神社、美保神社に奉納されます)。神々が、海の彼方から続々と上陸してくるという、壮大な海辺の神秘的祭りです。

(※注2)出雲に関する神話は非常に多く、一般には「出雲神話」と総称されています。しかし、この出雲神話という呼び方には多少問題がありそうです。というのも、出雲の神話といっても『古事記』『日本書紀』の他にも、『出雲国風土記』『出雲国造神賀詞』などさまざまな文献に記載されています。これらすべてをひとまとめにして扱っていいものか、慎重な検討が必要のようです。『古事記』『日本書紀』の朝廷によってまとめられた出雲の神話を「出雲系神話」とも呼びます。出雲系神話は記・紀神話の三分の一以上にあたるとされ、とても大きなウェイトを占めており、内容的にも魅力的な物語がたくさん含まれ、最後には「国譲り神話」へと収斂していくのです。それに対して、『出雲国風土記』『出雲国造神賀詞』の在地でまとめられた出雲の神話を「出雲神話」とも呼びます。地名由来伝承に関わるものが多く、『記・紀』にはない「国引き」神話などがあり、またスサノオ命やオホナムチ命の姿も違い、神話の質的相違を感じます。

(※注3)神庭荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡などの考古学的発見は、ヤマト政権に対抗しうるような高い技術力と独自の文化を持ち、古代日本のなかで、重要な役割を果たしてきた古代王国があったことを裏付けています(青銅器の国)。また、出雲では良質の砂鉄が採れ、古代より鉄生産は行われていました(製鉄の国)。


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春、団子の起源と稲作信仰、お花見と桜




◆◇◆団子と稲作信仰、三月は十六団子、四月は花見団子・・・

団子は昔から季節に応じて食べられてきました。三月は十六団子です。山の神さまが下りてきて田の神さまになる時にお供えするものです。四月は花見団子です。桜を見ながら、桜色の団子や三色団子などをいただきます。旧暦八月には月見団子。中秋の名月を見ながら、白い団子を頂きます。十一月にはまた十六団子。今度は田の神様が山に戻って山の神様になるのにお供えします。

◆◇◆団子の起源と語源

日本で団子が作られるようになったのは縄文時代頃であろうといわれています。初期の団子はいわゆる「粢(しとぎ)」で、米・粟(あわ)・稗(ひえ)・黍(きび)・豆・椚(くぬぎ)の実・楢(なら)の実などを粉にして水で練った、火を使わない団子でした。これは現在でも民間習俗で死者の枕元に供える枕団子がこの粢(しとぎ)の方式です。

「団子(だんご)」という言葉の語源については定かではありませんが、中国の「団子(トゥアンズ、餡入り団子、日本の団子に相当するものは中国では円子、なおちなみに団の旧字は團、円の旧字は圓)」から来たという説、「団」が丸いという意味なので形から来たという説、「団」は集めるという意味で粉を集めて作るからだという説、などなどがあるようです。

串団子は室町時代頃に発生したと言われていますが、最初の頃は五個刺すのが基本でしたが明和年間に四個のものがはやったとされます。現在では団子の大きさ次第で三個から五個の範囲で刺しているようです。

スサノヲ

 

◆神社の魅力を伝えるWeb活用支援事業(2012年「古事記編纂1300年紀」事業)
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・関西テレビで放映されました。
http://www.ktv.co.jp/anchor/today/2011_01_28.html
・朝日新聞に掲載されました。
http://www.susanowo.com/archives/2126

 

 

春、桜の語源と稲作信仰、花の日と花祭り




◆◇◆桜の語源と稲作信仰(サ神信仰)

桜の語源については、春には山の神さまは田の神さまになり、「御田植えの神」になるため里に降りてくるとされています。山の神さまは山から降りて来る途中、桜に宿るとされています。サクラの「サ」は山の神さま(稲の神さま)のことで、「クラ」は山の神さまが一時宿る神の座を意味していると言われています。そこから、桜を「サクラ」というようになったそうです。そうしたように、サクラは稲作信仰と強く結びついています。福島県では種をまく時期をサクラに頼っていたとか、福島県岩代町では稲代作りの目安になるサクラを「コエアゲサクラ」といい、福島県白河市では、「稲代しめ桜」というそうです。

◆◇◆花の日(春山入り)と稲作信仰(サ神信仰)

民間行事の花祭りは花の日とか春山入りとも呼ばれ、この日にお墓参りをしたり、山に登って花(石楠花が多い)を摘み、それを長い竹の先につけて庭に立て、これによって山の神さまを里に迎え入れるとします。一般に日本では山の神さまが春に里に下りてきて田の神さまとなり(さおり)、田の神さまが秋には山に帰って山の神さまとなる(さのぼり)という基盤的な信仰が存在しました。またこの時期は桜を愛でる花見の季節でもあります。

◆◇◆花祭り(灌仏会・釈尊降誕会・仏生会・浴仏会)

「花祭り」とはお釈迦様の誕生日のことです。仏教では灌仏会(かんぶつえ)又は釈尊降誕会(しゃくそんごうたんえ)と言い、釈迦誕生仏像に参拝客が甘茶を掛ける行事が行われます。仏生会・浴仏会などとも言います。灌仏会を花祭りと呼ぶのは一般には浄土宗・浄土真宗系のお寺が多いようですが、元々はこれは仏教の灌仏会と、民間行事の花祭りとが合体してできたのではないかとも言われます。だいたい明治後期頃、欧州留学僧たちが言い出した呼び名のようです。

この「花祭り」と呼ばれる灌仏会の場合、お堂を花で一杯に飾り花御堂として、その中に水盤に乗せた誕生仏を置き、竹の柄杓で甘茶あるいは五種の香水を掛けます。またお釈迦様のお母さんの麻耶夫人が白い象が体内に入る夢を見てお釈迦様を妊娠したという伝説にもとづき、境内に大きな白い象の作り物が置かれるところもあります。この象の上に花で飾った輿にのせた誕生仏を乗せパレードをするお寺もあります。

お茶を掛けるのは、生まれたばかりのお釈迦様に天から九竜が香湯を注いだという伝説にちなんだものと言われます。一部の地方ではこの甘茶をもらって帰り、それで墨をすって「千早振る卯月八日は吉日よ神さげ虫を成敗ぞする」という歌を書いてトイレや柱などに逆さまに貼り付けると蛇や害虫がやってこない、というおまじないがあります。

スサノヲ


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◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十)5

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◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、頗利采女(はりさいにょ)=少将井殿と聖水信仰

 綾戸国中神社が平安時代から祇園御霊会と深く関わり、御輿渡御の際、「久世駒形稚児」として木製の馬頭(旧上久世村の氏神である綾戸国中神社の御神体の駒形)を胸に抱き、馬に乗って御輿の渡御に奉仕する。それは祇園社の主祭神である牛頭天王(ごずてんのう)の后とされている「頗利采女(はりさいにょ)」、後に「少将井殿」と呼ばれるようになった神をめぐる信仰と深く関わってるそうである。

 御輿渡御の御旅所が昔は二箇所、そのうちの一つが少将の井(少将井殿)であった。「少将井殿」とあるように、「井」すなわち「水」をめぐる信仰とも深い関係があるとされている。

 その御旅所の井戸の上に御輿渡御の御輿(神輿)がドンと置かれていたという言い伝えからもわかるように、夏祭りとしての祇園会における「聖水信仰」「水神信仰」に繋がるとされている。

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、牛頭天王(ごずてんのう)とスサノヲ命(須佐乃男命・素盞鳴尊)

 祇園社(祇園御霊会)の祭神は「牛頭天王」(ごずてんのう)とされているが、これも明治後スサノヲ命に一本化され、八坂神社の祭神はスサノヲ命に改められた。スサノヲ命と牛頭天王は同体だということからである(同体化は、八坂神社創建の時点に遡る。社名も幾度も変わり実体を捉えるのは困難である。しかし、津島神社の同体化の経緯から探ることができそうだ)。

 妻神・子神である合祀の女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちも、クシナダ姫と八柱の御子神とに変更される。女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちは、元々は、道教の神々であった。頗梨采女は「歳徳神」であり八王子は「大将軍」などの八方位神であっただ。

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、牛頭天王(ごずてんのう)はなぜ、牛の頭?

 インド仏教の祇園精舎の守護神・牛頭天王は、中国に渡り、民間信仰の道教と習合する。そして、牛頭天王は、道教の冥界の獄卒となる(もともとは「地獄」の獄卒)。

 その他にも、道教と習合した仏教には、馬頭羅刹(めずらせつ)や閻羅王(閻魔)も登場することになる。その牛頭天王・馬頭羅刹が日本に伝来すると、それぞれ牛頭天王・馬頭観音(ばとうかんのん)へと変わっていくのだ。そこには、農耕文化と天神信仰との関わりがある。

 天神信仰では、農耕の際、雨乞いの祭りをするが、そのときに犠牲を捧げるのだそうだ。それが牛や馬であった。牛・馬は家畜というよりも、もとは犠牲の動物だったのかもしれない。そうしたことから、牛・馬は神社と深い因縁がある(「絵馬」は元来、馬の犠牲の名残である。京都では祈雨止雨の祈祷の際、馬が奉納されたそうだ)。

 古くは、「祇園社」では、牛を祭って天神の怒りを鎮め、疫病を防止しようとしたのである。また、「牛」と菅原道真公(丑年生まれ)の関係も天神信仰に少なからずあるのかもしれない(「菅原道真の謎、怨霊伝説から天神信仰へ」を参照)。


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◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(九)5

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◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(九)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、綾戸国中神社(京都市南区久世上久世町446)

 綾戸国中神社は、昔は綾戸(あやと)宮と国中(くなか)宮の二社に別れていたが、現在は一社殿とし、向かって左の御扉に綾戸宮、右の御扉に国中宮を祀る。御祭神は、綾戸宮が大綾津日神(おほあやつひのかみ)・大直日神(おほなほびのかみ)・神直日神(かみなほびのかみ)で、国中宮がスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)である。

 大綾津日神、大直日神、神直日神を御祭神とする綾戸宮は、第二十六代継体天皇十五年に綾戸大明神として三柱の神を勧請され、六十二代村上天皇天暦九年に綾戸宮と改められ、上久世の里の産土神として古くより氏子が崇拝してきた。

 スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)を御祭神とする国中宮は、神代の頃、午頭天皇(ごずてんのう)=スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)が山城の地、西の岡訓世の郷が一面湖水と化した時、天から降り、水を切り流し国となし、その中心に符を遣わしたとされてる。

 その符とはスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の愛馬「天幸駒」の頭を自ら彫刻して、新羅に渡海の前にスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の形見として遣わしたとされた。この形見の馬の頭(駒形)が国中宮の御神体として祀られている。

 夏の祇園祭には稚児が駒形の御神体を胸に奉持して(久世駒形稚児)乗馬で供奉する。七月十三日:稚児社参祈願(祇園祭社参祈願祭)、七月十七日:稚児供奉祈願(祇園祭神幸祭供奉祈願祭)、七月二十四日:稚児供奉祈願(祇園祭還幸祭供奉祈願祭)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、綾戸国中神社は高句麗系か?

 山城国の乙訓郡大山崎の南部に高句麗系の移住民らが開発したといわれる「高麗田」がある。彼らが淀川を船で溯って山崎津に上陸しこの土地を開墾したのがその由来とされている。近くの天王山中腹の大念寺の過去帳には、高麗屋の屋号の遺名が散見する。

 天王山の中腹には橘氏の氏神を祀る酒解神社(自玉手祭来酒解神社=たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ、乙訓地方で最も古い神社、祭神:山崎神・橘氏の主神)があり、その後「天神八王子社」(祭神:大山祇神、素戔鳴尊、他九神)が祀られて「山崎天王社」と称され、山崎山と称されていたこの山も「天王山」と呼称されるようになったそうだ。

 高句麗系の移住民らが奈羅(現在の八幡町上奈良、下奈良)に定住、繁栄した(高麗田の対岸)そうである。樫原廃寺の東南に位置する、南区久世上久世町の綾戸国中神社の祭神はスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)=牛頭天王だ。

 いまも祇園祭では綾戸国中神社の駒形稚児(駒形=馬の頭、駒=高麗?)が祇園社・八坂神社(高句麗系の八坂造の創建?、祭神:牛頭天王=素盞嗚尊)(※注1)に乗り入れ、神前に参拝して初めて神輿の渡御がはじまる慣例になっている。このことは、綾戸国中宮神社の周辺にも多くの高句麗系の移住民が居住していたとも考えられるのだが?

(※注1) 八坂の地の八坂郷については、『新撰姓氏録』の山城国諸蕃(渡来人)条に「八坂造(やさかのみやつこ)は狛(こま)国人の留川麻乃意利佐(るかまのおりさ)より出づるなり」と記され、当地には狛=高麗(こま・高句麗)から渡来した人々が「八坂造」となり、勢力を張っていたとみられている。

 八坂神社の社伝によると、斉明天皇二年(六五六)高麗の調度副使伊利之使主(いりしおみ)の来朝にあたって、新羅の牛頭山に坐す素戔鳴尊を祀ったことに始まると伝えている。伊利之(いりの)は『新撰姓氏禄』によると八坂造の祖だ。このことについては、『日本書紀』神代紀の一書に「素戔鳴尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」とあり、このソシ・モリは韓語漢で牛・頭を意味するという。


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◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(八)5

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◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(八)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の和御魂と荒御魂の合体

 八坂神社に普段鎮座している、スサノオ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)は和御魂(にぎみたま)で、神のやさしい穏やかな面を持つ神とされている。久世駒形稚児(※注1)が送り出す上久世の綾戸国中神社(あやとくなかじんじゃ)(※注2)の祭神も、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)であるが、その荒御魂(あらみたま)と言って同じ神でも荒々しい烈しい面を持つ神といわれている。

 一年に一度その両方の神様がお会いになり、一つにならないと(合体しないと)祇園祭は成立しないといわれている。祭りの要となる重要な役割として、長い間上久世の地で受け継がれてきた。稚児には綾戸国中神社の氏子のなかの、八歳から十一歳の男子を対象として選ばれる。

(※注1) 駒形と言うのは、稚児が首から掛けている馬の首の形をした木製の物である。この駒形を首に掛けて騎乗した時から綾戸国中神社の祭神の化身とみなされている。

 八坂神社の神と同格の神の化身ですから、なんびとたりとも許されない騎乗のまま境内に入り、本殿にもそのまま乗りつける事が出来る(この参代の仕方は長刀鉾の「お稚児さん」にも許されていない)。平安時代末の「年中行事絵巻」にも駒形稚児が描かれているように、初期からその存在が確認されている。

(※注2) 上久世という八坂からは遠く離れた地から、祇園祭の重要な稚児が出るのはなぜであろうか。またその氏神である綾戸・国中神社と祇園社の関係はどのようなものであったのであろうか。
 史料によれば、綾戸社は近世初期には「祇園駒之社」とも呼ばれ、現在の駒頭はもともと綾戸社と深い関係のあるものであり、また同時にこの駒頭をめぐる信仰が広く流布していたことが窺える。

 また、近世の史料に「上久世駒形神人」の名が出てくることから、近世初頭には今日と同様に上久世の人々が祇園祭の神幸祭と還幸祭に奉仕していたことは確かであったようだ。

 また平安時代末期に書かれたという『年中行事絵巻』の中に、駒頭を胸に抱き、馬に乗った稚児が祇園御霊会の御輿に供奉する姿が描かれていることから、少なくとも平安時代末期には、祇園会に駒形稚児らしき存在が関係していたがわかる。


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◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(七)5

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◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(七)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、「駒形稚児」または「久世駒形稚児」

 「お稚児さん」(※注1)(※注2)といえば山鉾巡行の「くじ取らず」である長刀鉾が、しめ縄切りの模様が全国ニュースに流れたりして有名であるが、祇園祭の本来の意味から言えば、神事に欠かせない「お稚児さん」は「久世駒形稚児」である。

 あまり知られて無い「久世駒形稚児」であるが、こちらの「お稚児さん」は長刀鉾の「お稚児さん」より、さらに重要な意味を持つ。旧上久世村(現京都市南区上久世町)から祇園祭の神幸祭と還幸祭に各一名ずつ、二名が選ばれ、白馬に乗って神輿が三基あるうちの一基「中御座」の先導を努める(中御座の神輿の先導をする「お稚児さん」が「久世駒形稚児」である)。

 長刀鉾の「お稚児さん」は十万石の大名と同じ「正五位少将」の位を授かる。俗に「お位もらい」と呼び神の使いとしての資格を得る儀式だ。これは山鉾巡行の際、高い場所から身分の高い人を見下ろすための免罪符という考え方もある。

 ところが「社参の儀(お位もらい)」で八坂神社に参拝する長刀鉾の「お稚児さん」は馬から降りなければならないが、「久世駒形稚児」はまさに神の化身であるから、社参の際も決して馬から降りる事はない。ちなみに神社の境内は古来よりどんな身分の高い人であろうと騎乗が許されていなかった(「皇族下馬」)。

 また、古文書によると「ご神幸の七月十七日に久世の稚児の到着なくば、ご神輿は八坂神社から一歩も動かすことがならぬ。もしこの駒故なくしてお滞りあるときは必ず疫病流行し人々多いに悩む」と記されてる。

(※注1) 今日の祇園祭では、稚児が出るのは長刀鉾と綾傘鉾、および「久世駒方稚児」だけだ。特に長刀鉾の稚児は有名であり、七月十三日の八坂神社への「社参の儀」によって、それまでは普通の男の子が「五位少将」、十万石の大名に相当する位を授かる。

 長刀鉾の稚児は十七日の山鉾巡行で、四条通りに張られた注連縄を華麗な太刀さばきによって切るという大役を担っており、これは山鉾巡行の開始を告げる重要な儀礼として、毎年必ずテレビで放映される場面でもある。

(※注2) そもそも「稚児」とは、祭礼で神霊の依り代となる子ども意味し、神の代役としての重要な立場を担う存在である。稚児は本来は男女の区別はなく、女児が稚児を務める例もあるが、祇園祭では女人禁制が原則であり、特に山鉾巡行自体に女子の参加が禁じられているために、稚児も男児に限られている。

 なお今日でこそ長刀鉾以外のすべての鉾が人形の稚児を乗せるようになったが、かつてはどの鉾にも生き稚児が乗っていた。それがやがて種々の理由から生き稚児を廃して代わりに人形を乗せるようになっていっただ。

 その背景には、稚児は祭りに先立って相当期間、家族から離れて別火で炊いた食事をするなど、厳しい精進潔斎が求められ、また祭り当日は地面に直接足を触れさせないなどの特別な扱いを受けるため、希望者も減り、またその世話にも多大な労力と費用がかかることと、稚児が鉾から落ちて大怪我をしたりするなどの危険をともなうことなどの理由からだそうである。


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◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(六)

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◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(六)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、「神祭り」としての祇園祭、神幸祭と還幸祭

 豪華絢爛な山鉾巡行(※注1)は、いうならば祇園祭の「表」の顔であり、人々はそこにこの祭りの華やかさと豪華さに魅了され、平安絵巻が繰り広げられたハレの空間に酔いしれる。

 実は、これは八坂神社の神事ではなくて、各鉾町の町衆の祭りだ。八坂神社の祭りは別に、同時進行してるのである。メインは、神輿が八坂神社を出発する七月十七日の神幸祭と、還って来る七月二十四日の還幸祭だ。祇園祭は、約一月間かけて行われる長い祭りである。

 祇園祭は、山鉾とそれを取り巻く華やかなイメージのため、本来の神事が見落とされてしまっている。山鉾巡行の興奮が醒めやらぬ七月十七日夕刻、三基の御輿が八坂神社を出て、四条寺町の御旅所まで氏子区域を回る、いわゆる御輿渡御が行なわれる。

 七月十七日の神幸祭や七月二十四日の還幸祭は、「神祭り」としての祇園祭(本来の祇園祭)にとっては、山鉾巡行以上に重要な祭りであるはずなのだが、氏子以外の人たちにはほとんど意識されることなく、どちらかといえばひっそりと行なわれている。

 ましてこの御輿の渡御に、上久世から一人の稚児が奉仕することを知る者は少ないようだ。この稚児は、木製の駒頭を胸に抱いていることから、古くから「駒形稚児」「久世駒形稚児」(※注2)と呼ばれてきた。これらは人々からはあまり省みられることなく続けられてきたもので、まさに祇園祭の「本来の部分」といえる。

(※注1) 御輿渡御や「馬上十二鉾」と離れ、鉾衆や作り山などの練り歩きは町衆の「イベント」として神事から独立した性格を持ち始めた。室町時代中期頃から、「山鉾巡行」と、祇園社の神の「御旅所」への渡御という神事は互いに独立していく。

 このようにして古代の祇園会はすっかり姿を変えたが、疫神を慰めるために楽を囃したて、舞い踊るという行為とその意味は保たれ続ける。

 初期の山鉾は小規模で人が乗るという形ではなかったため、囃子方や舞方は鉾や作り山と一緒に練り歩いたのだと思われる。やがて中世末期から近世初期にかけて山鉾は巨大化し、鉾には車がつき、囃子方も乗り込むようになり、現在に近い姿になった。その背景には、京都の商人が財力を持ちはじめたことにある。

(※注2) 七月十七日の山鉾巡行が終わった夕刻、八坂神社を出発する御輿渡御に、上久世から一人の稚児が奉仕することを知る人は少ないのではないだろうか?。

 この稚児は木製の駒頭(馬の頭)を胸に抱いていることから、古くから「駒形稚児」とか「久世駒形稚児」と呼ばれてきた。この稚児は、旧上久世村の氏神である綾戸国中神社の御神体とされている木製の馬頭を胸に抱き、馬に乗って御輿の渡御に奉仕する。

 十七日の朝、上久世では村人から「お駒さん」とよばれて崇拝されている御神体の駒頭が入った櫃を、神社からその年の稚児を出す家に運び、床の間に安置する。やがて稚児は父親と綾戸国中神社の神主とともに、かつてから「中宿」と定められている祇園花見小路の原了廓家に向う。そこで御神体ははじめて櫃から取り出される。

 稚児はこの駒頭を首にかけ、中宿から騎馬で八坂神社に社参に向う。この時駒形稚児は騎馬のまま境内に入り、拝殿を三周して直接本殿に乗りつけるのだ。

 十万石の大名の格式を持つといわれる長刀鉾の稚児でさえ、境内前で下馬して徒歩で本殿に参拝するのに(「皇族下馬」)、駒形稚児は騎馬のまま本殿に乗りつけるというのは、まさにこの稚児がそれ相応の位を持ち、また祇園祭において非常に重要な役割を担ってきたことを物語っているといえる。


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メッセージ1
◆メッセージ

「日本」とは何か?「日本人」とは何か?が知りたくて、日本と日本人の原点と基層を調べています。

私は専門的に学んだわけではありませんが、こうしたことに興味を持っています。知らないこともたくさんあり、皆さんから多くのことを教えていただきたいと思っています。

今の多くの人が、あまりにも日本の文化や歴史のことを知らな過ぎ、外からの情報に翻弄され刹那的に行動しています。このような拠り所を失い根無し草のように漂う様を見ていると、しっかりと自分たちのアイデンティティを見つめ直し、日本列島の自然と風土の中で作り出してきた日本人と日本文化を自覚することが必要だと感じるようになりました。

国際化が叫ばれていますが、本当の意味で国際人になるためにも、自分を自国をしっかり伝えることが出来ての国際化・国際人だと思います。

特に日本の伝統文化・神話・古代史や地域に残る風習・祭り・行事など、古代人から現代人まで地下水脈のようにつながる精神世界に興味を持っています。日本の地域に残る風習や祭りは、豊かな森と水の日本列島という風土が醸し出した世界観(素朴な神々の世界観)の記憶です。

私たちは普段、こういう事(古代からの世界観)を意識することなく生活しています。しかし、気付かなくとも、私たち日本人のものの見方や行動を規定している「何か」があります。その何かとは・・・。

この日本人の意識の底に眠った記憶とは、太古の昔から今日に至るまで、この豊かな森と水の日本列島という風土のなかで育成されてきた「日本人の精神的遺産」です。日本の神々の世界(八百万の神々)や風習・祭り・行事は、私たちの意識の底に眠った神々の記憶(古代の世界観)でもあり、大自然に宿る日本人の原風景でもあります。

このような、古代から豊かな森と水に恵まれた日本列島とうまく折り合いをつけ、自然と柔らかい関係を結び、自然と共に生きることを選んだ日本人の知恵を学びたいと思っています。

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スサノヲ(スサノオ)
メッセージ2
◆メッセージ2

 日本は明治維新後の近代化、戦後の国際化、現代の高度情報化へと西洋的価値観(一神教的価値観)を吸収することに邁進する中(これも日本の文化的特性である寛容性の現れだが)、経済的には大国になりました。

 しかし、気付くと自らの拠りどころ、依って立つ場所、日本人としてのアイデンティティ、日本人の精神的故郷を見失ってしまいました。さも根無し草のようにただ彷徨うような、うわついた軽い存在になってしまったのです。

 海外の文化や伝統を学び受け入れることも必要で重要なことですが、まずは、自らの文化や伝統を理解し、自信を持つ必要があるのではないでしょうか(戦前のような屈折した・閉ざされた民族意識には大きな問題があるが)。

 日本の伝統的文化には、海外に誇れる魅力(人々を魅了し心を惹きつけてやまない生き生きとした文化の魅力=文化力)が多く存在します。まずそのこと日本人自身が気付くことではないかと思います。
 
 元々日本人は古くから、自然の山川草木すべてに様々な神々を見る自然的宗教観を持っていました(神々しい何かの存在を感じとる「神道的感覚」ともいうべきもの)。

 日本人は、自然を人間と対立するものと考えるのではなく、素直に自然の恵みは神々の恵みであると考えたのです。この自然に生かされ神々に生かされ、自然と共に生き、神と共に生きてきたという感覚が、八百万の神々の世界(多神教の世界観)を生み出しました。

 つまり、日本人とっては、人間が住む世界と神々が棲む世界が共有・共存されている国であったのです。しかし、日本の近代化は、この感覚にズレを生じさせ、日本人の精神的故郷を見失わせてしまいました。

 自然は人間の支配のもとに征服・管理する対象(つまり人間と自然を対立するものとして捉える考え)とした西洋的一神教の価値観(アメリカに象徴されるようなキリスト教的文明観、後に近代科学へ)に限界が見えてきました。

 こうした考えは、人間の傲慢さを助長し、歪んだ人間至上主義に陥らせ、修復不可能と思われるほど深刻な環境破壊をもたらします。

 二十一世紀、国際社会や地球環境が危機的状況にある世界にとって、このような自然のすべてに神を認め(山川草木すべてに自律的な神を見るような自然に対する繊細な感性、自然も生命もすべて循環し共生的に存在するというエコロジカルな考え方)、八百万の神を崇め調和していく(八百万の多様なものを包含しうる寛容な精神性)ような日本の伝統的精神文化(神道的精神、日本人のアイデンティティ)が、世界が諸問題を解決し対立から融合の時代に進む上で、大変重要な意味を持つことになるでしょう。

 つまり、私たちのこのような考え方が、民族・文化・宗教などの対立する人々の仲立ちをする役割を果たし得る可能性を持つのです(お互いがお互いを認め合い、一つの文化として尊重し合うような「共存」の意識・思想として)。

 日本仏教ではこれを、「山川草木国土悉皆成仏」(大乗起信論の本覚思想)とか「一切衆生悉有仏性」(涅槃経)といった言葉で表します。自然界のすべてのものには仏性(神性、霊性)が宿り仏になるという意味です。

 これはアニミズムというより、ドイツの文豪・ゲーテや、オランダのユダヤ系哲学者・スピノザや、古代インド宗教哲学書「ウパニシャッド」に見られるような汎神論に近いのかも知れません(ゲーテは思想家でもあり、スピノザは純粋に哲学であり、ウパニシャッドも宗教というより哲学の部類に属すると考えられ、仏教もまた宗教というより哲学・思想として捉える向きもある)。

 また、明治時代に日本に来て、西洋人として初めて出雲大社を昇殿参拝したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、いろいろな事象の中に神を見出す神道の神感覚を次のように表現しています。

 「この大気そのものの中に何かが在る・・・うっすらと霞む山並みや怪しく青い湖面に降りそそぐ明るく澄んだ光の中に、何か神々しいもの感じられる・・・これが神道の感覚というものだろうか」と。

 ハーンは、空気の中にも、太陽の光の中にも、水や海や山や森や風の中にも「神々しい何か」の存在を感じとるのが「神道の感覚」だといいます。この神道の感覚は、「豊葦原の瑞穂 (水穂)の国」(豊かな葦の生い茂る水と稲穂に恵まれた国)という風土の中で時間をかけて育まれたものなのです。

 いま国際紛争や環境問題を解決するためには、新たな人間と人間、自然と人間、宇宙と人間との関係を再構築しなければならないのかもしれません。

 そのとき、根底(根本・源泉)になるもの(精神原理)は、かつて日本人が保持していた自然に対する謙虚さです(日本人が内在的に備えていた感性・神道的精神とは、多種多様な価値を認めるところにある。自然は多種多様な生命が存在するから美しく豊かなのだ)。

 日本人の自然観(宗教観)は、世界の問題に対して大きなサジェスチョンや示唆を与えてくれるかもしれません。

スサノヲ(スサノオ)
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