氷川神社・例大祭とスサノオ命の謎(一)  〈スサノオとニギハヤヒの日本学・日本の祭り・日本の歳時記・宗教民俗学〉

◆◇◆氷川神社とスサノオ命、大宮氷川神社と例大祭(八月一日)

 八月一日、埼玉県の大宮で、氷川神社の例大祭が行われます。氷川神社は全国に二百二十社ほどありますが、そのほとんどが関東の地に集まっており(帝都東京の守護神ともされています)(※注1)、その中心が埼玉県大宮の氷川神社です。そして、そもそもこの「大宮」という名前はここに氷川神社の本宮があったために起きた地名です(大宮の地名の起こりは、武蔵一の宮、氷川神社を「大いなる宮居」とあがめたことに始まります)。

 氷川神社は、秩父山系を水源とする荒川流域に位置し、「沼田」という旧地名からもわかるように、古来より清流が流れる湖沼地帯であったとされています。祭神・スサノオ命(須佐之男命・素盞鳴尊・建速須佐之男命)は古代より治水守護神として奉祀されていたようで、村落の開発に伴い、荒川を出雲の国・簸川(ひのかわ)の故事に見立てて、このような地に、氷川神社を創建したとも伝えられています。

 氷川神社は平安時代の『延喜式神名帳』に記載されている格式の高い古社(※注2)で、大宮の発祥はその門前町から始まったと伝えられています。この関東平野の中央に位置する武蔵国(※注3)は、なぜか出雲に関連する神社が多く存在します。その背後にはヤマトタケル命(倭建命・日本武尊)の東国平定があるとも、出雲系国造(※注4)がいたからとも云われています。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)明治維新の東京遷都(奠都)の折、明治天皇が行幸されたことでも知られます。これは、新たに都を開くに際して関東一円の総鎮守にご挨拶なされたものです。氷川神社の御神徳が窺い知れます。

(※注2)氷川神社は、歴史の古い神社で一説によると二千四百年前の創建とのことです。もともとは武蔵野国の国造が出雲大社の分霊を勧請したもので、「ひかわ」とは出雲の斐川(簸川)のことだとも言われます。そしてその一族が関東一帯に広がっていく過程で各地に多くの氷川神社が造られたのでしょう。なお本殿横手にある門客人(かどまろうど)社の御祭神は現在稲田姫の両親の手摩乳・足摩乳とされていますが、以前は荒脛巾(あらはばき)社と呼ばれていたもので、これは東北地方の大主神アラハバキを祀っていたのではないかとも云われています(本来は東日流外三郡誌のアラハバキ神ではないかとの説があります)。

(※注3)武蔵には、无邪志・無邪志・胸刺・武刺等ありますがみな同じようです。また、国造とは『国語大辞典』に「国の造 1、大化改新以前、国郡統治のための世襲の地方官。大和朝廷に帰属した地方豪族の首長を任命した。くにつこ。2、大化改新以降、諸国におかれた官職。多く旧国造から選ばれ、その国内の祭祀、神事を担当したもの」とあり、神に仕えるとともに、県知事としての役割も兼ねていたようです。そして、現在では国造(こくぞう)と読んでしまいがちですが、昔は、国造(くにのみやつこ)とよんでいました。」

(※注4)氷川神社は、出雲国造と同祖である武蔵国造が祀った神社とされています。武蔵国は延喜式・和名抄に二十一郡と載せ、今の東京都・神奈川県・埼玉県に分離されており天穂日命(あめのほひのみこと)系出雲臣族一類の移住によって開拓せられたとされ、国造本紀には、「无邪志国造:志賀高穴穂朝御宇 出雲臣祖二井之宇迦諸忍之神狭命十世孫 兄多毛比命 定賜国造」とあり、成務天皇の御代、兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造を賜り、とありますが、そのとなりに「胸刺国造:岐閇国造祖 兄多毛比命児 伊狭知直 定賜国造」とあり、兄多毛比命(えたもひのみこと)の児伊狭知直を国造に定めたと在ります。