b1491d8e.jpg◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(五)

◆◇◆山城国葛野郡の松尾大社と渡来系氏族・秦氏、大歳神社と大年神と向日丘陵

 西京区大原野灰方町に鎮座する大歳神社は、乙訓郡式内社の大社であり、月次・新嘗の祭儀にも奉弊された神社である(社伝には、「代々石棺や石才を造っていた古代豪族の石作連が祖神を祀った」とされ、「石作連は火明命の子孫で、火明命は石作連の祖神という」と記されています)。主神に大歳神(大年神)を祀り、相殿に石作神・豊玉姫命を祭祀し、養老ニ年ニ月の創建という。旧乙訓の古社で、『和名類聚抄』にいう石作郷内にあり、式内石作神社の石作神を併祀しているのも見逃せない。

 大歳神社は栢森(かやのもり)あるいは栢森大明神と呼ばれたが、白日神の親神とされる大歳神を奉斎するこの古社の境内に向日社があり、また向日神社の境内に親神大年社が祀られているのも、向日神と大歳神(大年神)のえにしを物語っている(神社伝承学では、大歳神をニギハヤヒ命とみている)。

 大歳神社は『延喜式』神名帳に記され、山城國鎮座社の内大社に列せられていた。この境内は柏の森(かやのもり)と称し社を柏の社ともいう。この神は農耕生産の神であり、方除祈雨にも霊験ありと知られ大原野地方の守護神である。石作神は代々石棺などを造っていた豪族の祖神であり、火明命の後裔とされている。

 垂仁天皇の后、日葉昨姫命が亡くなった時、石棺を献上し石作大連公の姓を賜ったとされている(火明命の六世孫、建真利根(たけまりね)命の後なり。垂仁天皇の御世に、皇后日葉酢媛命の奉ために、石棺を作りて献りき。よりて姓を石作大連公と賜ふなり)。

 石作連を祀った石作神社は『延喜式』神明帳に記され、貞観元年従五位下に昇格している。『大日本史』に石作神社今灰方村大歳神社内にありと記され、石作氏衰微後、大歳神社に合祀さられたものである。(※注1・2)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 京都盆地の西部において、古代氏族の存在を見ることができる。一般には古代氏族は、(1)その地域に根付いた氏族、(2)日本列島の他地域から移動してきた氏族、(3)朝鮮半島・中国大陸から移住してきた氏族の3つに分けて考えられ、京都盆地の西部は3タイプが併存していることが窺える。

 (1)と(2)は区別しがたいが、京都盆地の西部に本来的に基盤を持つであろう氏族として石作氏があげられる。石作氏は、建真利根命を祖先とする神別氏族(『新撰姓氏録』)、石の加工に携わった技術系氏族と考えられ、和泉・尾張・美濃・近江・播磨などに分布していた。

 この地域の農民が石作部として編成されたおり、それを統率して大和王権に奉仕する氏族がここに居住したのであろうか。あるいは他地域から移住してきた氏族かもしれないが、確定は出来ない。

 大和王権を担う氏族として活躍したことでは土師氏も同様で、この氏族が統率する土師部は、土木技術や凶事・葬礼などを担当して大和王権に奉仕・従属した。なお、桓武天皇の母・高野新笠の母方が土師氏で、京都盆地の西部に居住したと推測されている。

 おそらく京都盆地の西部地域の農民が王権の進出にともなって土師部に編纂され、それを統率する豪族の土師氏もここに居住することになったと思われる。この氏族も神別氏族を主張している(『新撰姓氏録』)。

 この地の土師氏は後年、居住する地名から大枝氏を名のり、平安時代には同じ土師氏一族で菅原道真を生んで菅原氏や秋篠氏とともに、政界や学界に活躍した。

(※注2) 延喜五年(905年)から編纂に着手され延長五年(927年)に完成した『延喜式』(全五十巻)の巻九と巻十には、3132社(2861所)が記載されている。

 そのうち山城国の神々は122座であり、乙訓郡の神々は19座(大社5座、小社14座)となっている。山城国内に関していえば、『延喜式』に載せるいわゆる式内社の神の座数は、久世郡に24座、愛宕郡の21座、葛野郡20座についで多く、綴喜郡の14座、宇治郡の10座、紀伊郡の8座、相楽郡の6座よりは、その数を上廻る。

 式内社は『延喜式』編纂の時期までに、官社として神祇官ないしは国衙から奉幣された神社であって、少なくとも10世紀前半までには存在したことを物語る古社である。

 乙訓郡の場合、名神大社は羽束師坐高御産日神社、乙訓坐火雷神社、大歳神社、小倉神社、酒解神社の5座であり、いずれもが神祇官から祈年祭のほかに月次・新嘗祭の幣帛をも供進された。


スサノヲ(スサノオ)