スサノヲとニギハヤヒの日本学(日本文化考)

「日本」とは何か?「日本人」とは何か?拠り所を失い根無し草のように漂う現代人に、日本と日本人の原点と基層を探求するブログです。神社と神道・仏閣と仏教・神話と信仰・祭りと行事・哲学と思想・文明と文化・民俗学・神話学・宗教学・歴史学・考古学・文化人類学などから考察。

天皇家祭祀に見る日本文化考

皇室の祭祀、春季皇霊祭と宮中行事

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皇室の祭祀、春季皇霊祭と宮中行事   〈スサノオとニギハヤヒの日本学・神社と神道・神話と信仰・祭りと行事・哲学と思想・文明と文化・民俗学・神話学・宗教学・歴史学・考古学・文化人類学〉

◆◇◆皇室の祭祀、大祭と小祭

 このように神武天皇と先の天皇のお祭りは大祭、それから三代前までの天皇のお祭りは小祭が行われています。また、それ以外の御祖先については年に二回、春と秋に「皇霊祭」が行われています。歴代天皇すべての天皇について個別に祭祀を行っていては、却って疎かになってしまうかもしれないということで、このような形がとられるようになったそうです。これらの皇室の祭祀はすべて宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)の中の皇霊殿で行われます。また、神武天皇祭、孝明天皇例祭、明治天皇例祭、大正天皇祭、昭和天皇祭については墓所でも祭祀が行われます。

◆◇◆春季皇霊祭・秋季皇霊祭

 明治維新は政治的にも武家の政治(江戸幕府)を終焉させ近代民主国家への道を切り開くものでしたが、宗教界にも大きな変革を強要しました。その中心が江戸時代にキリスト教対策で重視されていた寺を排斥・弱体化(神仏判然令・廃仏毀釈運動)させるとともに、明治維新の原動力(尊王攘夷運動と王政復古の波、平田学と後期水戸学)の一つとなった国学(本居宣長・平田篤胤など)の流れを汲む国家神道を樹立して、全国の神社を皇室に縁の深い伊勢神宮を頂点とするヒエラルキーに組み込もうと図りました(近代社格制度の整備とは、伊勢神宮をトップとした神社のランク付け)。

 この動きはいわば皇室の神道の普遍化(国家神道は、天皇の宗教的権威の中心に皇室神道と神社神道とを直結し、皇室の祭祀を基準に神社の祭祀を画一的に再構成すること)を狙ったものともいえますが、そのため初期の段階では歴代の天皇の命日を全て新暦に換算した上で、その命日全てにお祭りをする、という企画が立てられました。

 しかし・・・天皇といっても初代神武から、明治天皇の先代の孝明天皇まで百二十一代に及んでいますので、これを全て命日のお祭りをするのは、実際やってみると非常にたいへんことでした。そこで明治政府は早々にこの方法に根を上げて、結局神武天皇の命日(四月三日)と孝明天皇の命日(一月三十一日)のみを残して、あとは民間でも先祖供養の日としている春・秋のお彼岸に春季皇霊祭・秋季皇霊祭としてまとめてお祭りすることになったものです。

 春季皇霊祭・秋季皇霊祭は明治十一年に祝日として定められ太平洋戦争の終わりまで続きました。戦後の春分の日・秋分の日は戦前のそういう趣旨は排除した上で、もともとの民間の先祖供養の日としての趣旨のお彼岸を復活させたものです。春季皇霊祭・秋季皇霊祭は宮中行事・皇室の祭祀として行われます。

 宮中行事・皇室の祭祀の春季皇霊祭・秋季皇霊祭は、三月の春分の日と九月の秋分の日(彼岸の中日)に、天皇家の祖先を崇める祭りです。天皇が皇霊殿で玉串を捧げて拝礼し、告文を奏します。続いて、神殿でも親祭が行われます。皇霊殿では「東遊(あずまあそび)」と呼ばれる雅楽が奉納されます。(お彼岸についてのHPより要約抜粋)

◆◇◆皇室祭祀

 明治十四年に制定された「皇室祭祀令」に基づいて行われます。大祭と小祭に分けられ、大祭は天皇自らが行い、小祭は掌典長(しょうてんちょう)(天皇家の私的内廷組織)が指揮します。天皇はそれに拝礼する形をとります。 

 皇室祭祀は、主として吹上御苑(ふきあげぎょえん)にある宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で行われますが、先帝を祀る山稜でも行われます。戦前は、こうした祭祀には総理大臣はじめ多くの参列者がありましたが、昭和二十年の「政教分離」により、今では天皇家の私的行事の色彩が濃くなっています。

 

 

春季皇霊祭と宮中行事、皇室の祭祀

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春季皇霊祭と宮中行事、皇室の祭祀    〈スサノオとニギハヤヒの日本学・神社と神道・神話と信仰・祭りと行事・哲学と思想・文明と文化・民俗学・神話学・宗教学・歴史学・考古学・文化人類学〉

◆◇◆春季皇霊祭(こうれいさい)と宮中行事、皇室の祭祀

 宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)のひとつ、皇霊殿には、歴代天皇・皇族方の御霊がお祀りされています。明治以前は、仏式により寺院や宮中のお黒戸に霊碑を奉祀しておりましたが、明治天皇は、これを神式に改められ、皇霊殿において春秋ニ季の皇霊祭を行うことを制定されました。春分・秋分の日は彼岸の中日として、古くから先祖の御霊を祀る日とされていましたが、明治十一年に明治天皇がこの日を皇霊祭の祭日に定められたことにより休日となり太平洋戦争の終わりまで続きました。

 現在では、戦後の春分の日・秋分の日は戦前のそういう趣旨は排除した上で、もともとの民間の先祖供養の日としての趣旨のお彼岸を復活させたものです。皇室では、春秋ニ季の皇霊祭は宮中行事・皇室の祭祀として現在に至っています。

◆◇◆春秋ニ季の皇霊祭(宮中行事)は、祖先供養の風習を仏教色をのぞいて宮中行事化したもの

 春分の日の三月二十一日頃(前後)、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ということで、日本の仏教では、平安時代のころから春秋に彼岸会(ひがんえ)が催され、悟りの彼岸へ至るための法要が営まれていました。また浄土思想の広がりとともに、彼岸の中日(ちゅうにち)の夕刻、落日に向かって念仏を唱えれば、西方の極楽浄土に往生出来ると信じられていました。しかし本来祖霊崇拝の思想は仏教にはなく、日本古来の風習が仏教と習合っしたと考えられています。明治以来宮中で行われる春秋ニ季の皇霊祭は、祖先供養の風習を仏教色を除いて宮中行事化したものにほかなりません。春分・秋分の日の趣旨は、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」という日本本来の自然観に立ち返ったものといえます。

◆◇◆春季皇霊祭と皇室の祭祀

「春分の日」は皇祖皇宗を祀る「春季皇霊祭」の日です。皇祖とは天照大神から初代の神武天皇までの皇室の祖先で、 皇宗とは第二代天皇以降の歴代の天皇のことです。戦前に春分には「春季皇霊祭」が行われ、つまり皇室のお彼岸であってのです。これが宮中行事化していったのです。他にも 以下のように、皇室の皇祖皇宗を祀る祭祀は年に七回行われています。

1月7日 昭和天皇祭 (大祭) 昭和天皇崩御日に行われます
1月30日 孝明天皇例祭(小祭) 孝明天皇崩御相当日に行われます
3月21日 春季皇霊祭 (大祭) 皇室の御祖先祭神殿では「春季神殿祭」が行われます
4月3日 神武天皇祭 (大祭) 神武天皇崩御相当日に行われます
7月30日 明治天皇例祭(小祭) 明治天皇崩御日に行われます
9月23日 秋季皇霊祭 (大祭) 皇室の御祖先祭神殿では「秋季神殿祭」が行われます
12月25日 大正天皇祭 (小祭) 大正天皇崩御日に行われます

 

 

春分の日とお彼岸、農耕作業と春分の時期

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春分の日とお彼岸、農耕作業と春分の時期   〈スサノオとニギハヤヒの日本学・神社と神道・神話と信仰・祭りと行事・哲学と思想・文明と文化・民俗学・神話学・宗教学・歴史学・考古学・文化人類学〉

◆◇◆春分の日とお彼岸、農耕作業と春分・秋分の時期

 彼岸とはその名の通り「大きな川を挟んだ岸の向こう」という意味です。その向こう岸とは悟りの世界(仏の世界があり、私たち凡夫はこちらの岸・此岸にいると考えています)のことです。サンスクリットでは、パーラミター(波羅蜜多)といいます。様々な苦に悩む煩悩の世界(私たち凡夫はこちらの岸・此岸)に対する言葉ですが、日本の特に浄土系の信仰では一般に死後は阿弥陀如来の導きにより人は彼岸に渡ることができると考えられているため、既に彼岸の世界へ行った人達を供養するとともに、まだ辿りつけずにいる人達に早く向こうへ辿りつけるように祈るというのがこの彼岸の仏事の趣旨となります。

 お寺ではこの一週間法要を続けますし、住職が檀家を回って各家庭でも法事を行います。この時期に彼岸の法要を行うのは、太陽が阿弥陀如来のいる浄土の方角である真西に沈むためであるともいわれています。つまり阿弥陀浄土を感じるのに最適ですし、迷っている人にとっては太陽の方角が進むべき道ということになります。

 またこの時期は農耕を始める時期でもあるため、春分と秋分の時期を農耕と言う観点から眺めると、春分:種苗の時期、秋分:収穫の時期にあたり、作物を育てる太陽と自分たちを守る祖先神への信仰と言う土着の信仰が仏教伝来以前からあったと考えられています。先祖の霊に今年の豊作を願う行事などと結合していったようです。

 一方、彼岸の語源は「日願」であるという説もあります。これは古来からある太陽信仰の系統のものです。太陽信仰の側からも春分の日の太陽が真東から出て真西に沈むと共に昼と夜の長さが同じということで、これは一つの非常に重要な節目でした。「日の願」という言葉もあり、これから「日願」になったとも言われています。「日天願」と呼ぶ地方もあるそうです。一般にこういった日本の行事というものは、仏教と民間信仰などが様々に習合されていったと考えられています。「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉もあるように、この時期が季節の変わり目になります。

 

 

春分の日とお彼岸、「暑さ寒さも彼岸まで」

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春分の日とお彼岸、「暑さ寒さも彼岸まで」   〈スサノオとニギハヤヒの日本学・神社と神道・神話と信仰・祭りと行事・哲学と思想・文明と文化・民俗学・神話学・宗教学・歴史学・考古学・文化人類学〉


◆◇◆ 春分の日・秋分の日  国民の祝日に関する法律

 春分の日および秋分の日は国民の祝日であり、国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)によると、「春分の日」は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」、「秋分の日」は「先祖をうやまい、亡き人をしのぶ」とあり、それぞれの年の春分日および秋分日にすると定められています。春分日・秋分日は毎年変わるので、前年の二月一日付けの官報で日本国政府から発表されることになっています。したがって,再来年の春分の日および秋分の日は来年の二月一日にならないと正式には分からないことになります。一般には夜と昼の長さが等しい日といわれていますが実際は昼が長いそうです。

◆◇◆春分とは、太陽の黄経が0度になった瞬間

 春分とは、太陽の黄経が0度になった瞬間をいいます。つまり、黄道(太陽の通り道)が天の赤道(地球の赤道を天球上までのばしたもの)を横切る交点に太陽がきた瞬間のことです。春分の瞬間を含む日を春分の日といいます。春分は黄道上の太陽の位置によって定まる二十四節気の一つです。春分の日に、弘法太子関連の祭が多いのは、空海の入定が三月二十一日とされているためです。神社では能登一宮の気多神社で「おいで祭り」が一週間にわたり催されます。また、「暑さ寒さも彼岸まで」という言うように寒さも峠を越して温和な気候になります。

◆◇◆春分の日、日本のしきたり、「お彼岸」

 毎年、春分の日と秋分の日の事を民間では「お彼岸」といい、お墓詣りをして先祖の霊を供養したりします。今年(2002年)の春分の日は三月二十一日ですが、民間行事のお彼岸ではこの日を「お彼岸の中日」といい、その前後一週間をお彼岸の期間として最初の日を「彼岸の入り」最後の日を「彼岸の明け」といいます。

 「国民祝日に関する法律」によりますと、「春分の日」は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」、「秋分の日」は「先祖をうやまい、亡き人をしのぶ」とあります。まさに仏教の精神そのものであります。この日は、太陽が真東から昇り、真西に沈み、昼と夜の長さが同じになることから、仏教で説く中道も表しているという説もあります。またこの時期には、旧暦二月の中気で、お彼岸の中日でもあります。真西に日が沈むこの日、西方に浄土があるという仏教の教えから、無欲吾道の対岸の域に一番近くなる日ということで、死者の冥福を祈り、仏供養、お萩(ぼたもち)、草餅、五目ずし、稲荷ずしなどを作ってお墓参りをする習慣があります。

 

 

建国記念日と紀元節、神武天皇5

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建国記念日と紀元節、神武天皇  〈スサノオとニギハヤヒの日本学・神社と神道・神話と信仰・祭りと行事・哲学と思想・民俗学・神話学・宗教学・歴史学・考古学・文化人類学〉

◆◇◆『記・紀』神話と「神武東征」説話

 『古事記』『日本書紀』に現われる神武天皇は、高天原から日向の高千穂峰に降臨した天孫、ニニギ命(邇邇芸命・瓊瓊杵尊)のひ孫という事になっています。

 寅の年に、兄のイツセ命(五瀬命)と共に日向の高千穂宮を発ち、途中、豊国(宇佐宮)・筑紫(岡田宮)・安芸(多祀理宮)・吉備(高嶋宮)などに滞在しながら難波の白肩津に至りますが、生駒山を越えての大和入りはナガスネヒコ命(長髄彦命)=トミノナガスネビコ命(登美能那賀須泥毘古命)をはじめとする先住民に阻まれます。

 この戦いで兄のイツセ命(五瀬命)を失った神武天皇は、一度紀州の海に逃れ、今度は八咫烏(やたのがらす)に導かれながら熊野から大和入りを果たし、激しい戦いの末、大和を平定したと言われています。その後、畝傍の橿原宮で即位を宣して初代天皇になった言われています。

 何かと勇ましい印象の強い天皇ですが、『古事記』にみえる、コトシロヌシ命(事代主命)の娘・ヒメタタライスズヒメ命(媛蹈鞴五十鈴媛命)=イスケヨリヒメ命(伊須気余理比売命)との出会いのくだりは素朴で初々しく、その時に詠われたとされる歌も含め実に印象的です(ササユリが咲き乱れていた三輪山の狭井川のほとりで、神武天皇がイスケヨリヒメ命=ヒメタタライスズヒメ命という娘と出会い、后にしたという、率川神社では「ゆりまつり・三枝祭・6月17日」として故事を伝えています)。

◆◇◆辛酉年(紀元前660年)の元旦と建国記念日(2月11日)(National Foundation Day)

 『日本書紀』では、神武天皇の即位した年を辛酉年(紀元前660年)の元旦と記していますが。現在の建国記念日(2月11日)は、天皇の神格化をはかった明治政府が「この日が日本書紀に記されている辛酉年の元旦にあたる」として定めたものです。しかし、実際の紀元前660年は、日本では縄文時代後半にあたり、このような長(おさ)的存在が実在した事には疑問が持たれています。

 建国記念日(2月11日)は、戦前の紀元節(神武天皇即位記念日)の日付が当てられました。戦前の紀元節というのは神武天皇元年の 元旦というのを、飛鳥時代の暦が神武天皇の頃から行われていたと仮定して逆算していった末に、その即位の日を太陽暦に換算したものです。

◆◇◆神武天皇の実在性

 『日本書紀』の天武天皇の項に「壬申の乱の最中『神日本磐余彦(神武天皇)の陵に馬及び種々の兵器を奉れ』という神のお告げがあった」という記述がみえるため、神武天皇の実在性はさておき、この時期に「日本磐余彦の陵」と呼ばれるものが存在していたという事は確かなようです。

 しかし、戦後においては、神武天皇の存在そのものが疑問であると唱える人も多くなり、「神武東征」説話は後世に創作されたものだとする考えが一般化してきます。そして、ミマキイリビコの実名をもつ四世紀初めの崇神天皇が、最初の大王でないかとする説がとられるようになってきています。

 さらに、四世紀末の応神天皇が実在確実な大王であるとする説や、六世紀初めの継体天皇以降にならないと天皇系譜は信じられないとする説まで出されました。

 他にも、邪馬台国九州説をとったうえで、邪馬台国の東遷と神武東征とを結び付けるとる研究者も根強く存在します。また、吉備の首長の系譜を引き、古代大和に入って纒向遺跡を開いた大王の記憶が神武東征説話のもとになったという説まであります。

 

 

天皇と皇室の今日的存在意義5

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天皇と皇室の今日的存在意義  〈スサノオとニギハヤヒの日本学・神社と神道・神話と信仰・祭りと行事・哲学と思想・民俗学・神話学・宗教学・歴史学・考古学・文化人類学〉

◆◇◆天皇と皇室の今日的存在意義

天皇と皇室のあり方や皇位継承問題(次代の天皇・皇太子をどうして行くのか)がにわかに関心を集めています。つまり天皇と皇室の歴史的意義・今日的意義・将来的意義が問われているのです。大変大きなテーマです。

実は天皇の存在を考えることは、私たち日本人と日本の存在をも考えることになります。ただ、その天皇の成立過程が曖昧なまま、今日に到ってるのです。史実と神話が混ざり合い、神話の中にどれほど史実が隠されているのか、私たちには古代日本の創世がどのようなものであったかを、もう一つはっきりと知ることができません。

今日までの天皇制(象徴天皇制)と皇室のあり方を考えると、ヨーロッパのような開かれた王室にあるとは考えずらいと思います。しかし、私たち国民の「天皇観(日本の歴史全体から通観される天皇観)」というのは、国民が天皇家に対して抱く素朴で個人的な尊敬と敬意の念であるように思われます。さらに、私たち国民が天皇家と「日本」というものを、歴史と文化を通して共有しているという共感感情にあるように思えるのです。

時代が変わっても、畏敬の念がさほど薄れるとは思えません。ただ、皇室と国民の関係を新しく築く時期(ヨーロッパとは違う開かれた皇室)に来ているのかもしれません。だからといって、天皇が天照大神に始まる皇祖皇宗の霊を祀る祭祀(信仰)を、古代より連綿と守り継承してきた一族(天皇家・皇室)の、祭祀王としての存在にあることを忘れてはなりません(疎かにしてはなりません)。

「日本人の象徴」には、二つの意味がありそうです。一つは、敗戦後アメリカ国務省の強力なイニシアティブによって、昭和天皇個人は戦犯として告発されることなく、天皇制をも保持しながら、民主化を徹底して推し進めるという戦後日本の占領政策があります。存続を推し進めた人たちは、天皇は女王蜂のように日本に統一と社会的安定をもたらし得る唯一の政治的要素であって、最低限の軍国主義的要素さえ取り除けば、天皇制はむしろ日本国民の本来有する内発的・自発的な民主主義的傾向を発達させるのに有用な存在となり得る(土着的デモクラシー期待論)と観ていたようです。

「象徴天皇制」は、一方では国家に統一と安定をもたらし、国民をして価値ある創造的な方向性に向かわしめる普遍的・積極的要素をも併せ持っていると考えたわけです。そして、不可視的な部分に属する民族意識(立憲君主的・祭司的天皇観)を取り出し排除し、日本国憲法体制における「象徴天皇制」として纏め上げた点は、存続を推し進めた人たちの非常に鋭い洞察でした。憲法上の象徴天皇の誕生です。

こうした戦後政策に関わらず日本人は、天皇家がまがりなりにも日本の歴史と文化を体現してきた存在で、日本人の国民的アイデンティティの核心を構成するものであるという事実を直視すると、この日本国憲法体制化の象徴天皇制というのは、実は、日本の歴史上一貫して観念されてきた民族意識もしくは民族的アイデンティティを極めて正確に表現し得ているのではないでしょうか。つまり、それは明治憲法期をも含む日本の全歴史を通じて形成されてきた日本人の天皇観・民族的意識に「連続する」要素を有していると思えるのです。こうした天皇観はかならずしも、法的に作られたものとは、言えないようです。素朴な民族的意識(民族の集合的無意識)上の象徴天皇です。



 

建国記念日と紀元節、神武天皇

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建国記念日と紀元節、神武天皇  〈スサノオとニギハヤヒの日本学・神社と神道・神話と信仰・祭りと行事・哲学と思想・民俗学・神話学・宗教学・歴史学・考古学・文化人類学〉

◆◇◆『記・紀』神話と「神武東征」説話

 『古事記』『日本書紀』に現われる神武天皇は、高天原から日向の高千穂峰に降臨した天孫、ニニギ命(邇邇芸命・瓊瓊杵尊)のひ孫という事になっています。

 寅の年に、兄のイツセ命(五瀬命)と共に日向の高千穂宮を発ち、途中、豊国(宇佐宮)・筑紫(岡田宮)・安芸(多祀理宮)・吉備(高嶋宮)などに滞在しながら難波の白肩津に至りますが、生駒山を越えての大和入りはナガスネヒコ命(長髄彦命)=トミノナガスネビコ命(登美能那賀須泥毘古命)をはじめとする先住民に阻まれます。

 この戦いで兄のイツセ命(五瀬命)を失った神武天皇は、一度紀州の海に逃れ、今度は八咫烏(やたのがらす)に導かれながら熊野から大和入りを果たし、激しい戦いの末、大和を平定したと言われています。その後、畝傍の橿原宮で即位を宣して初代天皇になった言われています。

 何かと勇ましい印象の強い天皇ですが、『古事記』にみえる、コトシロヌシ命(事代主命)の娘・ヒメタタライスズヒメ命(媛蹈鞴五十鈴媛命)=イスケヨリヒメ命(伊須気余理比売命)との出会いのくだりは素朴で初々しく、その時に詠われたとされる歌も含め実に印象的です(ササユリが咲き乱れていた三輪山の狭井川のほとりで、神武天皇がイスケヨリヒメ命=ヒメタタライスズヒメ命という娘と出会い、后にしたという、率川神社では「ゆりまつり・三枝祭・6月17日」として故事を伝えています)。

◆◇◆辛酉年(紀元前660年)の元旦と建国記念日(2月11日)(National Foundation Day)

 『日本書紀』では、神武天皇の即位した年を辛酉年(紀元前660年)の元旦と記していますが。現在の建国記念日(2月11日)は、天皇の神格化をはかった明治政府が「この日が日本書紀に記されている辛酉年の元旦にあたる」として定めたものです。しかし、実際の紀元前660年は、日本では縄文時代後半にあたり、このような長(おさ)的存在が実在した事には疑問が持たれています。

 建国記念日(2月11日)は、戦前の紀元節(神武天皇即位記念日)の日付が当てられました。戦前の紀元節というのは神武天皇元年の 元旦というのを、飛鳥時代の暦が神武天皇の頃から行われていたと仮定して逆算していった末に、その即位の日を太陽暦に換算したものです。

◆◇◆神武天皇の実在性

 『日本書紀』の天武天皇の項に「壬申の乱の最中『神日本磐余彦(神武天皇)の陵に馬及び種々の兵器を奉れ』という神のお告げがあった」という記述がみえるため、神武天皇の実在性はさておき、この時期に「日本磐余彦の陵」と呼ばれるものが存在していたという事は確かなようです。

 しかし、戦後においては、神武天皇の存在そのものが疑問であると唱える人も多くなり、「神武東征」説話は後世に創作されたものだとする考えが一般化してきます。そして、ミマキイリビコの実名をもつ四世紀初めの崇神天皇が、最初の大王でないかとする説がとられるようになってきています。

 さらに、四世紀末の応神天皇が実在確実な大王であるとする説や、六世紀初めの継体天皇以降にならないと天皇系譜は信じられないとする説まで出されました。

 他にも、邪馬台国九州説をとったうえで、邪馬台国の東遷と神武東征とを結び付けるとる研究者も根強く存在します。また、吉備の首長の系譜を引き、古代大和に入って纒向遺跡を開いた大王の記憶が神武東征説話のもとになったという説まであります。

宮中の行事、皇室の祭祀、新年5

宮中の行事、皇室の祭祀、新年  〈スサノオとアマテラスの日本学〉

(一)※皇室祭祀

 明治十四年に制定された「皇室祭祀令」に基づいて行われます。大祭と小祭に分けられ、大祭は天皇自らが行い、小祭は掌典長(しょうてんちょう)(天皇家の私的内廷組織)が指揮します。天皇はそれに拝礼する形をとります。 皇室祭祀は、主として吹上御苑(ふきあげぎょえん)にある宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で行われますが、先帝を祀る山稜でも行われます。戦前は、こうした祭祀には総理大臣はじめ多くの参列者がありましたが、昭和二十年の「政教分離」により、今では天皇家の私的行事の色彩が濃くなっています。

(二)※歳旦祭(さいたんさい)

 年始の小祭。元旦早朝に「四方拝(しほうはい)」(伊勢神宮、山稜および四方の神々を遥拝する新年最初の祭)の後、五時半から、宮中三殿で掌典長(しょうてんちょう)(天皇家の私的内廷組織)が天皇の代理として五穀豊穣と国民の加護を祈ります。

(三)※元始祭(げんしさい)

 一月三日、年始にあたり皇統の祖と由来を祝い、国家と国民の繁栄を宮中三殿で祝う大祭です。天皇が拝礼し告文(つげぶみ)を奏します。このとき、皇族、宮内庁長官も列席します。

太陽復活祭と鎮魂祭(太陽信仰と太陽祭祀)

太陽復活祭と鎮魂祭(太陽信仰と太陽祭祀)

※太陽復活祭と鎮魂祭

古くは旧暦十一月中の寅の日に鎮魂祭が執り行われました。新嘗祭の前日にあたります。この祭は、「アマテラス(天照大神)の天の岩窟戸の神話」と密接な関係があるようです。

鎮魂祭には、宮廷の御巫(おかんなぎ)が「アマテラス(天照大神)の天の岩窟戸の神話」の天宇受売命のように、歌舞をおこないます。その際、歌われる神楽歌があります。

「ノボリマス、トヨヒルメガ、ミタマホス」「ミタマガリ、タマガリマシシカミハ、イマゾキマセル」「タマハコモチテ、サリタルミタマ、タマカヘシスヤ」などと、歌われます。その意味は、体から遊離し、死した日神トヨヒルメ(アマテラス・オオヒルメのこと)の魂を呼び戻し、復活させようとして、
タマフリを行うということのようです(タマフリ(鎮魂)とは、体から遊離した霊魂を招き返す呪術です。起死回生の呪法です)。

冬至の太陽信仰(太陽がいったん死んで生まれ変わる日だとの信仰)と太陽祭祀は、世界的にあります。その祭は、太陽の復活と再誕生を祈り、衰えた光熱を更新させ、一陽来復を図ろうとする意図を持つものです。クリスマスも後世にはキリストの誕生になぞられていますが、もとは冬至の太陽復活祭だったといわれています。

日本の古代社会でも、このような太陽信仰と太陽祭祀が盛んに行われており、各地に、太陽祭祀の遺跡が見られます。特に稲作農業にとって太陽は欠かすことのできない根源的なもので、各地に点在した古代豪族は太陽の祭祀権を持つことが、執政権を誇示することでもあったのです。

日本の古代社会の太陽祭祀を考えると、「アマテラス(天照大神)の天の岩窟戸の神話」は、大和朝廷が国家の根幹に関わる太陽祭祀権を掌握したことを表すものであります。

しかも、『記紀』神話の「天孫降臨神話」で、天孫・ニニギ命(邇邇芸命)はアマテラス(天照大神)の孫とされ、太陽神の直系とされます。たぶんに、政治的意図をもつ『記紀』神話は、最も重要な太陽神の祭祀を、その子孫が連綿と受け継ぎ執り行うという、「アマテラス(天照大神)の天の岩窟戸の神話」を生み出したようです。

鎮魂祭もまた、そうした呪儀を日神の化身である日の御子・天皇に対して行い(伊勢の太陽祭儀と物部氏のタマフリの様式を取り入れて)、それを王権祭式化したのが始まりのようです。

※太陽の道

日本の古代社会では、太陽信仰と太陽祭祀が盛んに行われており、各地に、太陽祭祀の遺跡が見られます。太陽神の祭祀に深い関わりをもった古代の遺跡が、一直線上に並んでいるということで、「レイライン・聖線」「太陽の道」と名付けられています(神島と斎宮跡、三輪山と淡路島の伊勢の森が、一直線上に並んでいます)。

「新嘗祭」、天皇の宗教的権威の源泉(二)5

「新嘗祭」、天皇の宗教的権威の源泉(二)  〈スサノオとニギハヤヒの日本学・神社と神道・神話と信仰・祭りと行事・民俗学・神話学・宗教学・歴史学・考古学〉

◆◇◆「新嘗祭」、天孫降臨神話と「御直会の儀」、神話世界を神事儀礼によって再演(再現)

 新嘗祭(にいなめさい)は、毎年十一月二十三日に全国の神社で行われます。宮中での新嘗祭は、天皇が神嘉殿において神々(天照大神をはじめ天神地祇)に感謝を込めて新穀(神饌)を奉るとともに、自らも共食される厳粛な祭りが行われます(※注1)。二月の祈年祭(としごいさい)は五穀の豊穣を祈願するものであり、十月の神嘗祭は収穫の初穂を神々に奉る祭りであり、十一月の新嘗祭は、その年の収穫を神々に感謝する祭りです(新嘗祭の神饌=しんせんは、全国から献納された新穀が用いられます)。また、新嘗祭の前日・十一月二十二日には鎮魂祭が行われます。

 新嘗祭の起源について、宮廷神話(『記・紀』神話)はこのように説明しています。『日本書紀』神代巻で、アマテラス(天照大神)が皇孫・ニニギ命(皇孫天津彦火瓊瓊杵尊)の降臨に際して、「吾が高天原にきこしめす斎庭の穂(ゆにわのいなほ)を以て、また吾が兒(みこ)にまかせまつるべし」との神勅を下し、斎庭の稲を授けたと神話的由来を伝えています。高天原で育てられていた穀物の稲穂が、皇御孫命により初めて葦原中国でも栽培され、これが我が国における農業の事始めとされるのです(豊葦原瑞穂国)。歴代の天皇はこの天孫降臨の神勅を基に、この神恩に対する感謝の祭りとして新嘗祭が続けられているのです(天皇が五穀豊穣を神々に感謝するのが新嘗祭とされ、これに倣って全国の神社においても新嘗祭が執り行われます)(※注2)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)新嘗祭は、夕刻から深夜にかけて斎行される「夕の儀(ゆうのぎ)」と、深夜から明け方にかけて斎行される「暁の儀(あかつきのぎ)」から構成されています。当日、身を清められた天皇は、綾綺殿(りょうきでん)に出御され、純白の絹の御祭服(ごさいふく)を召されます。夕刻になると、天皇は、神嘉殿にお渡りになり、外陣(げじん)の御座に著御されます。この間、膳舎(かしわや、神饌を調進する殿舎)から神嘉殿に神饌(しんせん、神への供物)が運ばれてます(神饌行立=しんせんぎょうりゅう)。神楽歌(かぐらうた)が奏される中、天皇は内陣(ないじん)にお進みになり、御座に著御され、お手づから箸を取られて、柏の葉を重ねて竹のひごで結った葉盤(ひらて)というお皿に神饌を御親供(ごしんく、天皇みずから神に供物を捧げること)されます。新穀から調進した神饌を天皇みずからお進めし、神々にお召しあがりいただきます。御親供ののち、天皇は御拝礼され、ついで皇祖(こうそ、天皇の祖先)への御告文(おつげぶみ)を奏されます。御告文が終わると、天皇は、神々に捧げられたものと同じ神饌の米と粟との御飯、御酒(白酒・しろき、黒酒・くろき)をお召しになります。この儀を「御直会の儀(おんなおらいのぎ)」といい、皇祖と飲食を共にされる(相嘗・あいなめ、共食・きょうしょく)新嘗祭の核心ともいうべき厳粛な儀です。こうして御親祭(ごしんさい)を終えられた天皇は、神嘉殿を御退出されます。続いて天皇は、同じく神嘉殿で深夜から明け方にかけて「暁の儀」 を御親祭されます。このように天皇は、夜を徹して、最高の鄭重さをもって神々をおもてなしになるのです。

(※注2)ニニギ命(邇邇芸命・瓊瓊杵尊)がアマテラス(天照大神)から斎庭(ゆにわ)の稲穂を授けられて天降ったという天孫降臨神話に基づき、新穀を食する(きこしめす)ことは、皇祖の霊威を身に体し、大御神と一体になることです。そういう意義をもって行われるるのが大嘗祭であり、それを年々繰り返して霊威の更新をはかられるのが新嘗祭です。また、新嘗祭、神嘗祭とも、新穀を捧げるという点では同じです。異なる点は、新嘗祭が天皇自ら供え物を行い、また、自らも食するということです。この違いが新嘗祭の大事な意義を示しています。つまり、新嘗祭は単にその年の収穫を感謝するだけではないということです。天皇が神々と食事を共にすることにより、国に豊かな実りをもたらす霊力を身に付けることに目的があります。『記・紀』神話によれば、アマテラス(天照大神)から豊穣の力を受け継いだ天孫・ニニギ命(日子番邇邇芸命・彦火瓊瓊杵尊)が日本を「平らかに」するために、高天原の地に降り立ったことから国作りが始まったとされています。そして、歴代の天皇は、そのニニギ命以来の豊穣の霊威を受け継いでいくのだとされました。

 

 

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メッセージ1
◆メッセージ

「日本」とは何か?「日本人」とは何か?が知りたくて、日本と日本人の原点と基層を調べています。

私は専門的に学んだわけではありませんが、こうしたことに興味を持っています。知らないこともたくさんあり、皆さんから多くのことを教えていただきたいと思っています。

今の多くの人が、あまりにも日本の文化や歴史のことを知らな過ぎ、外からの情報に翻弄され刹那的に行動しています。このような拠り所を失い根無し草のように漂う様を見ていると、しっかりと自分たちのアイデンティティを見つめ直し、日本列島の自然と風土の中で作り出してきた日本人と日本文化を自覚することが必要だと感じるようになりました。

国際化が叫ばれていますが、本当の意味で国際人になるためにも、自分を自国をしっかり伝えることが出来ての国際化・国際人だと思います。

特に日本の伝統文化・神話・古代史や地域に残る風習・祭り・行事など、古代人から現代人まで地下水脈のようにつながる精神世界に興味を持っています。日本の地域に残る風習や祭りは、豊かな森と水の日本列島という風土が醸し出した世界観(素朴な神々の世界観)の記憶です。

私たちは普段、こういう事(古代からの世界観)を意識することなく生活しています。しかし、気付かなくとも、私たち日本人のものの見方や行動を規定している「何か」があります。その何かとは・・・。

この日本人の意識の底に眠った記憶とは、太古の昔から今日に至るまで、この豊かな森と水の日本列島という風土のなかで育成されてきた「日本人の精神的遺産」です。日本の神々の世界(八百万の神々)や風習・祭り・行事は、私たちの意識の底に眠った神々の記憶(古代の世界観)でもあり、大自然に宿る日本人の原風景でもあります。

このような、古代から豊かな森と水に恵まれた日本列島とうまく折り合いをつけ、自然と柔らかい関係を結び、自然と共に生きることを選んだ日本人の知恵を学びたいと思っています。

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スサノヲ(スサノオ)
メッセージ2
◆メッセージ2

 日本は明治維新後の近代化、戦後の国際化、現代の高度情報化へと西洋的価値観(一神教的価値観)を吸収することに邁進する中(これも日本の文化的特性である寛容性の現れだが)、経済的には大国になりました。

 しかし、気付くと自らの拠りどころ、依って立つ場所、日本人としてのアイデンティティ、日本人の精神的故郷を見失ってしまいました。さも根無し草のようにただ彷徨うような、うわついた軽い存在になってしまったのです。

 海外の文化や伝統を学び受け入れることも必要で重要なことですが、まずは、自らの文化や伝統を理解し、自信を持つ必要があるのではないでしょうか(戦前のような屈折した・閉ざされた民族意識には大きな問題があるが)。

 日本の伝統的文化には、海外に誇れる魅力(人々を魅了し心を惹きつけてやまない生き生きとした文化の魅力=文化力)が多く存在します。まずそのこと日本人自身が気付くことではないかと思います。
 
 元々日本人は古くから、自然の山川草木すべてに様々な神々を見る自然的宗教観を持っていました(神々しい何かの存在を感じとる「神道的感覚」ともいうべきもの)。

 日本人は、自然を人間と対立するものと考えるのではなく、素直に自然の恵みは神々の恵みであると考えたのです。この自然に生かされ神々に生かされ、自然と共に生き、神と共に生きてきたという感覚が、八百万の神々の世界(多神教の世界観)を生み出しました。

 つまり、日本人とっては、人間が住む世界と神々が棲む世界が共有・共存されている国であったのです。しかし、日本の近代化は、この感覚にズレを生じさせ、日本人の精神的故郷を見失わせてしまいました。

 自然は人間の支配のもとに征服・管理する対象(つまり人間と自然を対立するものとして捉える考え)とした西洋的一神教の価値観(アメリカに象徴されるようなキリスト教的文明観、後に近代科学へ)に限界が見えてきました。

 こうした考えは、人間の傲慢さを助長し、歪んだ人間至上主義に陥らせ、修復不可能と思われるほど深刻な環境破壊をもたらします。

 二十一世紀、国際社会や地球環境が危機的状況にある世界にとって、このような自然のすべてに神を認め(山川草木すべてに自律的な神を見るような自然に対する繊細な感性、自然も生命もすべて循環し共生的に存在するというエコロジカルな考え方)、八百万の神を崇め調和していく(八百万の多様なものを包含しうる寛容な精神性)ような日本の伝統的精神文化(神道的精神、日本人のアイデンティティ)が、世界が諸問題を解決し対立から融合の時代に進む上で、大変重要な意味を持つことになるでしょう。

 つまり、私たちのこのような考え方が、民族・文化・宗教などの対立する人々の仲立ちをする役割を果たし得る可能性を持つのです(お互いがお互いを認め合い、一つの文化として尊重し合うような「共存」の意識・思想として)。

 日本仏教ではこれを、「山川草木国土悉皆成仏」(大乗起信論の本覚思想)とか「一切衆生悉有仏性」(涅槃経)といった言葉で表します。自然界のすべてのものには仏性(神性、霊性)が宿り仏になるという意味です。

 これはアニミズムというより、ドイツの文豪・ゲーテや、オランダのユダヤ系哲学者・スピノザや、古代インド宗教哲学書「ウパニシャッド」に見られるような汎神論に近いのかも知れません(ゲーテは思想家でもあり、スピノザは純粋に哲学であり、ウパニシャッドも宗教というより哲学の部類に属すると考えられ、仏教もまた宗教というより哲学・思想として捉える向きもある)。

 また、明治時代に日本に来て、西洋人として初めて出雲大社を昇殿参拝したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、いろいろな事象の中に神を見出す神道の神感覚を次のように表現しています。

 「この大気そのものの中に何かが在る・・・うっすらと霞む山並みや怪しく青い湖面に降りそそぐ明るく澄んだ光の中に、何か神々しいもの感じられる・・・これが神道の感覚というものだろうか」と。

 ハーンは、空気の中にも、太陽の光の中にも、水や海や山や森や風の中にも「神々しい何か」の存在を感じとるのが「神道の感覚」だといいます。この神道の感覚は、「豊葦原の瑞穂 (水穂)の国」(豊かな葦の生い茂る水と稲穂に恵まれた国)という風土の中で時間をかけて育まれたものなのです。

 いま国際紛争や環境問題を解決するためには、新たな人間と人間、自然と人間、宇宙と人間との関係を再構築しなければならないのかもしれません。

 そのとき、根底(根本・源泉)になるもの(精神原理)は、かつて日本人が保持していた自然に対する謙虚さです(日本人が内在的に備えていた感性・神道的精神とは、多種多様な価値を認めるところにある。自然は多種多様な生命が存在するから美しく豊かなのだ)。

 日本人の自然観(宗教観)は、世界の問題に対して大きなサジェスチョンや示唆を与えてくれるかもしれません。

スサノヲ(スサノオ)
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