生まれ育った家の庭には、李の木があった。
桜の開花とほぼ時を同じくして、それよりも少しだけ早く、
桜によく似た白い花を咲かせる。
花が散り、新緑の季節が過ぎると、赤い果実をつける。
蝉時雨が静まると、葉は色づき、やがて物悲しくそれらを落とし、
裸の枝で寒さに耐えた後、また小さな蕾をふくらませる。
うららかな春の日、満開の李の木の下で、お花見をした。
夏、庭でのバーベキューのデザートは、すっぱい李の実だった。
秋は、集めた落葉で焼きイモを焼いたような気もするが、定かではない。
寒くて色のない冬は苦手で、部屋の中から、時折、庭に目をやるくらいだったが、
季節は分断されずにつながっているのだということを、幼い私は知る。
ある年のこと。
通りの桜並木はとっくに満開の時期を過ぎたというのに、我が家の李は開花の気配すらない。
その年は結局、花は咲かずに、葉だけが生い茂った。
以来、翌年も、その翌年も、李の木が花を咲かせることはなかった。
花が咲かなければ、当然、果実を実らせることもない。
初夏、わっさりと葉だけを茂らせるその木は、無用の長物と化し、
次第にその輝きと存在感を失っていった。
しかし、それで終わりではなかった。
花を咲かせていた頃は見過ごされがちだった、
毛虫の害(李の木は、庭の他の木よりもたくさん毛虫がついた)や、
落葉掃除の手間が取り沙汰されるようになり、とうとう、伐採計画が持ち上がった。
鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス
信長案、可決。
すっかり鼻つまみ者となった李は、幹を数十センチほど残し、ばっさりと切られてしまった。
存在感だけでなく、存在すら失くした李の話をする者はいなくなり、次第に記憶から薄れていった。
それから数年後。
高校生になった私は、ふと、庭の李の木のことを思い出し、なんとはなしに、母にたずねてみた。
そこで私は、意外な事実を知る。
なんでも、件の李は、私の生誕を記念して植樹された、記念樹だというではないか。
しかも、『桜』の木を植えたつもりが、どこで間違えたのか、
蓋を開けてみたら『李』の木だったという、なんとも情けないオチまでついている。
母の口振りは、「てへ☆ニアミス」くらいに軽い感じのものだったが、
妄想力たくましい夢見がちな10代女子にとっては一大事である。
まるで、『出生の秘密』を打ち明けられたかのような衝撃、といっても過言ではない。
「私は、この家の子ではなくて、本当の両親はどこか別にいるのでは?」などと、
行きすぎた昼ドラ的発想が脳裏をかすめるが、
殊に母とは誰が見ても瓜二つ、疑うまでもなく、この家の子に違いあるまい。
そもそも、桜だと思ったら李だったって、のっけから大間違いではないか。
しかも、花を咲かせるはずの木が、その責務を放棄するとは何事か。
挙句、お払い箱となり、切り落とされるまでの顛末が、
今後の自分の人生を示唆しているかのように思え、なんだか暗澹たる気分になった。
阿房列車ならぬ妄想特急、恐るべしである。
桜の花は大好きなのだが、桜になりきれなかった(という思いのある)当時の私は、
満開に咲き誇る桜を、少しうらめしく感じたりもした。
せめてもう少し早く、記念樹なんてステキなエピソードを知っていたなら、
信長案は、断固阻止していたことだろう。
秀吉くらいの好奇心をもって、なんとか咲かせてやろうと原因を調べ、
それがきっかけで、樹木医とかになっていたかもしれない。
親としては、咲くまで待とうと、家康的見解を示してくれてもよかったのでは、
と責めたところで後の祭りである。
あれから幾星霜。
李の木は、庭の片隅で、切り株から新芽を出している。
どっこい生きている、そんな感じ。
32歳になった私は、東京の片隅で、ごく普通に会社勤めをしている。
桜の開花とほぼ時を同じくして、それよりも少しだけ早く、
桜によく似た白い花を咲かせる。
花が散り、新緑の季節が過ぎると、赤い果実をつける。
蝉時雨が静まると、葉は色づき、やがて物悲しくそれらを落とし、
裸の枝で寒さに耐えた後、また小さな蕾をふくらませる。
うららかな春の日、満開の李の木の下で、お花見をした。
夏、庭でのバーベキューのデザートは、すっぱい李の実だった。
秋は、集めた落葉で焼きイモを焼いたような気もするが、定かではない。
寒くて色のない冬は苦手で、部屋の中から、時折、庭に目をやるくらいだったが、
季節は分断されずにつながっているのだということを、幼い私は知る。
ある年のこと。
通りの桜並木はとっくに満開の時期を過ぎたというのに、我が家の李は開花の気配すらない。
その年は結局、花は咲かずに、葉だけが生い茂った。
以来、翌年も、その翌年も、李の木が花を咲かせることはなかった。
花が咲かなければ、当然、果実を実らせることもない。
初夏、わっさりと葉だけを茂らせるその木は、無用の長物と化し、
次第にその輝きと存在感を失っていった。
しかし、それで終わりではなかった。
花を咲かせていた頃は見過ごされがちだった、
毛虫の害(李の木は、庭の他の木よりもたくさん毛虫がついた)や、
落葉掃除の手間が取り沙汰されるようになり、とうとう、伐採計画が持ち上がった。
鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス
信長案、可決。
すっかり鼻つまみ者となった李は、幹を数十センチほど残し、ばっさりと切られてしまった。
存在感だけでなく、存在すら失くした李の話をする者はいなくなり、次第に記憶から薄れていった。
それから数年後。
高校生になった私は、ふと、庭の李の木のことを思い出し、なんとはなしに、母にたずねてみた。
そこで私は、意外な事実を知る。
なんでも、件の李は、私の生誕を記念して植樹された、記念樹だというではないか。
しかも、『桜』の木を植えたつもりが、どこで間違えたのか、
蓋を開けてみたら『李』の木だったという、なんとも情けないオチまでついている。
母の口振りは、「てへ☆ニアミス」くらいに軽い感じのものだったが、
妄想力たくましい夢見がちな10代女子にとっては一大事である。
まるで、『出生の秘密』を打ち明けられたかのような衝撃、といっても過言ではない。
「私は、この家の子ではなくて、本当の両親はどこか別にいるのでは?」などと、
行きすぎた昼ドラ的発想が脳裏をかすめるが、
殊に母とは誰が見ても瓜二つ、疑うまでもなく、この家の子に違いあるまい。
そもそも、桜だと思ったら李だったって、のっけから大間違いではないか。
しかも、花を咲かせるはずの木が、その責務を放棄するとは何事か。
挙句、お払い箱となり、切り落とされるまでの顛末が、
今後の自分の人生を示唆しているかのように思え、なんだか暗澹たる気分になった。
阿房列車ならぬ妄想特急、恐るべしである。
桜の花は大好きなのだが、桜になりきれなかった(という思いのある)当時の私は、
満開に咲き誇る桜を、少しうらめしく感じたりもした。
せめてもう少し早く、記念樹なんてステキなエピソードを知っていたなら、
信長案は、断固阻止していたことだろう。
秀吉くらいの好奇心をもって、なんとか咲かせてやろうと原因を調べ、
それがきっかけで、樹木医とかになっていたかもしれない。
親としては、咲くまで待とうと、家康的見解を示してくれてもよかったのでは、
と責めたところで後の祭りである。
あれから幾星霜。
李の木は、庭の片隅で、切り株から新芽を出している。
どっこい生きている、そんな感じ。
32歳になった私は、東京の片隅で、ごく普通に会社勤めをしている。