March 15, 2019

平成31年3月15日  殆ど歩行困難


平成31年3月15日  殆ど歩行困難
  手術を拒否した 右足の股関節痛が 医師の見立てどうりに 次第に痛くなり
 現在では 右脚に体重を掛けると 苦痛が激しく 杖に体重の一部を頼り 
痛くない体勢を見つけて一歩一歩歩く 日常生活です。  
 上体は異常が無く苦痛も無く 腰かけて仕事する事は平常どうりに出来ます。
従って体力の要る仕事は 孫娘に頼み ひ孫の守をしています。
30年度の確定申告も 去年に続けて孫娘を 指導して申告を終わりました。
耳 のど 鼻 目 の異常は医者に罹っても治りにくく 諦めています。
個々の回復力が衰えて居ると思われます。
医師の言葉の端々に ”お年ですからね!”と言う言葉を感じるのは 私だけでは
無い様です。
88年と言うのは 非常に永い年月で その間に起きた 戦争 災害 病 など 
危険が一杯の中を無事に生き抜いて来たので これぐらいの苦痛は耐えねばと
思って居ます。
科学技術の進歩のスピードが次第に速くなって行くので その終末が見たいと思いますが
生きてる中には見られないと思いますが 成るべく永く観ていたいと思っています。  


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January 27, 2019

平成31年1月27日     最近の体調


平成31年1月27日     最近の体調
昨年から継続して居ますが 変形性股関節と診断されて以来 右股関節が
ゆっくりと病状が進行している様で 次第に歩行困難に成ってきました。
今日現在は 杖の助けを借りて ゆっくりと歩行出来る状態です。
手術をしなければ やがて歩行が出来なくなると 言われて居ましたが
現実味を帯びて来ました。
毎日の生活は 総て自力で出来ています。
現在医療を受けて居る病気は
前立腺がん 鼻炎 難聴 歯科 です。
長寿社会に対する予備知識が無いまま 米寿を喜んでいたら 生きる事の
難しさを 身をもって体験して居るようです。
歩く事がなければ 何ら苦痛も無く 病の事は忘れてしまいます。
年度末決算に取り組んでいます・
ひ孫との戯れも 楽しいものです。


susumuito at 11:42|Permalink 加齢 

December 23, 2018

平成30年12月23日  老衰には勝てない


平成30年12月23日  老衰には勝てない
老化では無く 老衰と言う言葉が気に成りだしました。
老衰とはでいろいろ調べて見ると 加齢性筋肉減少が老衰の始まり の様です。
言葉の意味が身に浸みて良く解ります。
色々と手を替え試してみても 老衰のスピードを遅らせる事は難しい。
生死は自然の摂理で 人の知恵や努力でも  如何とも出来ないようです。
老衰しても 元気に生きられるには 如何したらよいか?
老衰は止める事は出来ません。  
転ばぬよう 風邪をひかぬよう に心掛けて 寝たきりに成らぬ様にする事が
老衰に勝(活)事のようです。 


susumuito at 11:36|Permalink 加齢 

December 08, 2018

12月8日 は 大詔奉戴日


12月8日 は  大詔奉戴日
太平洋戦争勃発の日  当時の天皇が 開戦宣言の詔勅を降された日
この日の朝 連合艦隊が航空機で ハワイの真珠湾に攻撃をかけた。
ラジオから軍艦マーチが鳴り それに続いて聞きなれない言葉が

  大本営発表
帝国陸海空軍部隊は 今暁西太平洋に於いて 米英と戦闘状態に入れり。
 
この日を大詔奉戴日と名付けて 終戦まで続きました。
 
戦後の話では この日にアメリカの主力艦船は ハワイに居なかったそうです。
12月10日に
イギリスの東洋艦隊の戦艦の プリンスオブウエールス とレパルス 
は急遽マレー沖に出撃して来て 日本空軍に沈没させられました。
以後イギリスの海軍の話は聞いた事がありません。
  今日の報道では 大詔奉戴日の話は見聞する事が出来ませんでした。
遠い昔のことなのでしょう。
 戦後は遠く成りにけり。 
 


susumuito at 10:08|Permalink 回顧録 

November 27, 2018

平成30年11月26日   米寿を超えて


平成30年11月26日   米寿を超えて
今月22日に誕生日を迎え 無事に米寿を超ええる事が出来ました。
友人・知人からお祝いの言葉を沢山戴きました。
改めて周囲を見渡すと 良くぞ長生きしたもんだと思います。
享年で数えると 現在89 正月まで生き延びれば 90と言う事に成ります。
下半身が極端に衰弱し 変形性股関節も頭角を現し 正常歩行が困難な状態です。
杖に助けを借りながら 屋内は動いていますが 外え出る事は転倒する危険を避けて 出来る限り控えています。
今や 前立腺癌や 高血圧は隅に追いやられ 静かにして居ます。
車椅子に成る事の無い様に 知る限りの知恵を出して 自身でリハビリをしています。

 


susumuito at 16:39|Permalink 加齢 | 回顧録

November 16, 2018

平成30年11月16日   貨幣価値と労働価値


平成30年11月16日   貨幣価値と労働価値
最近1時間の労働賃金が¥1.000に成ろうとして居ます。
単純に計算して ¥1.000X8時間X25日=月給¥200.000.に成ります。
自分が新制高校を卒業して 最初に得た給与は 月給¥3.000でした。
25日に日割りすると 1日¥120です。 
1日8時間労働とすると 1時間¥15と言う事に成ります。
その後25歳で退職する時の月給が¥15.000.でした。
25日に日割りすると1日¥600.に成ります。
8時間で割ると¥75.に成ります。
現在の時間給¥1.000と比較すると ¥75 ¥15 は信じがたい数です。
経済成長による労働価値と貨幣価値が生み出したものと思いますが
学者で無ければ説明が出来ないと思いますが 結果良ければ総て良しで
細かく追及する必要は無いと思います。


susumuito at 11:49|Permalink 回顧録 | 随想

November 12, 2018

平成30年11月12日  老衰は病気か?自然の摂理か? 


平成30年11月12日  老衰は病気か? 自然の摂理か?
 満米寿まで後僅か!来る22日の誕生日は 私の満米寿の日ですが
 体力は衰える一方です。
 良く考えて見ると 生物は子孫が増える限り 自身は衰退し消えなければ
 成らない 自然の摂理の様です。
 自然の摂理に逆らって 若い時代の様に生活しようとすると ・・・・・・・・・?
 老後を元気に生きるには 老いを認識し認めることが大切の様です。



susumuito at 16:45|Permalink 随想 | 回顧録

October 27, 2018

 平成30年10月27日    敵国語の学習停止


 平成30年10月27日    敵国語の学習停止
 ふと思い出した 戦時中の英語教育
中学1年生の中頃だと記憶して居ますが 突然に敵国語の学習は禁止に
成りました。
其のまま2年生の中頃から 勤労学徒に動員され 戦が終わるまでABCと
縁が切れました。 
 終戦後は当然復活しましたが 英語学力の衰えは激しく どの様に取り
戻したか記憶に在りません。  低下したまま卒業した様に思います。
 
 簿記会計の必要に迫られて入学した 短期大学の商学部は 毎日英語の
時間があり 普通英語 商業英語 時事英語と3つの英語が 週2時間づつ 
毎日でした。
字引との闘いが続きました。 
 そのお陰で息子たちの英語も面倒が見られるように成り 並の英語力が
身についたと思っています。
”敵”に対する敵対意識は ここまで必要か?と 今に成って思います。
指導者にして見れば 生きるか死ぬかの苦境に立てば 馬鹿げた事でも
国民に強いる事に成るのでしょう。
   ふと思い出した 馬鹿げた話!




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October 08, 2018

平成30年10月7日    乗馬の友の集い


平成30年10月7日    乗馬の友の集い
  これが最後に成ると思いつつ かっての乗馬の友人に集まって戴き
昼食を共にし 自分の現状を訴え 後期高齢者(85歳)の経験談を聞いて
頂きました。
自分を入れて10人の集いで 食事をしながらとは言え 話が飛び交い
楽しい2時間でした。
思いを昔に馳せると 元気に88歳を迎えることは 余程幸運に恵まれて
此処までやって来たと思います。
 このメンバーの集いはこれが最後に成ると思います。
自ら現状を振り返ると 90歳が終点の様に思えます。 

  額を頂きました。 内容は
 (い)  一生懸命 道のり歩み
 (と)  年月重ねた 88年
 (う)  器は大きく 優しさ溢れ
 (す)  筋の通った 人柄光る
 (す)  健やかな日々 笑顔と共に
 (む)  迎える米寿 慶び満ちて
      益々長寿の 未来へ続く       
                      平成30年吉日     馬友一同 
   やっぱり 92歳まで頑張るか!!


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September 20, 2018

平成30年9月20日    寿命100歳に思う


平成30年9月20日    寿命100歳に思う
敬老の日に 町内で開かれる 敬老会の催しは 一度も欠席した事は在りません
でしたが今年は歩行困難のため欠席しました。
右足の太ももの筋肉が 体重をかけると痛みを感じ 関節で”こりこり”と音がする
ようになって 歩行がままならず 外出を控えて居ます。
世間では100歳と言う声が あちこちで聞かれる様に成りました。 
努力しても100歳まで元気に生きられる保証はありませんし また努力しないと
100歳まで生きられないと思います。
よぼよぼの100歳は望みませんし 現在100歳までと言う希望も 持ち合わせ
ません。
じゃ!何歳までを希望するかと言うと 60歳の時は70まで 70歳の時には80
まで80歳の時には85歳まで 85歳の時には米寿まで 今日88歳を迎えようと
していますが オリンピックの90まで と次第に将来への希望が小さく成って来
ました。
社会の高齢化と共に 100歳社会が論じられますが 実感としては難しいと思
います。
体の老化教育を50〜60歳代に徹底すれば 何とか可能だと思いますが 老化
の意味を正確に把握する事は難しい事だと思います。
一言で例えると 自動車が年と共に おんぼろ化して行くのに 似た様におもい
ます。
エンジンを取り代えない限り 如何しようもな無いのが 老体だと思います。
自身は悟ったと思い 暗い気持ちはありません。


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September 05, 2018

平成30年9月5日    被災 被爆の経験


平成30年9月5日    被災 被爆の経験
88年の間に 色々な事態(爆撃  地震 火災 水害)で被災を経験し
ましたが これは映像を見たり話を聞いたりしても 見聞としての理解は
出来ますが 体験のような実感は 得られないと思います。
実際に落ちて来る爆弾を見た時 爆弾で破壊され死傷者がごろごろして
いるのを見た時 大型地震の余震で 夜中に押入れの戸がガタガタ鳴る
音を聞きながら 蒲団を被った時の気持ち 焼夷弾で街全体が燃え盛り
一夜明けた 見渡す限りの灰色の焼け跡  台風で堤防が切れ 海水が
自宅まで浸水し 満干潮を繰り返す生活(味噌も糞も一緒) 下水道が
完備されて居ない時代の話  これ等を解って貰おうとして 書いたり
話したりしても 実感は理解出来ないと思います。
おなじ体験をして 初めて理解出来るのでは?  




susumuito at 09:25|Permalink

August 31, 2018

平成30年8月31日     変形性股関節症


平成30年8月31日     変形性股関節症
下半身の筋肉衰退と共に 歩行困難が次第にひとく成って来た。
前立腺がんの転移を調べるために 全身をCT検査した結果
癌の転移は発見されなかったが また一つ新しい病が見つかり
老齢の厳しさを味わっています。
変形性股関節症の診断を受けました。
前立腺がんの指標値PSA値はじわじわと下がっています。
血圧値は降圧剤のお陰で落ち着いています。
癌から出る症状は 今の処皆無で苦痛など全くありません。
変形性股関節症は じっとしていれば何の苦痛も有りませんが
右足に体重を掛けると 痛みを感じ歩くのが苦痛です。
運動と痛みに挟まれて 右往左往して居ます。


susumuito at 10:10|Permalink

August 21, 2018

平成30年8月21日    死体


平成30年8月21日    死体
死体を見た時の気持ちは あまり良いものではありません。
戦争ともなると 見る機会が多く 次第に不感症になります。
焼夷弾被害で死体を見た事は1回だけあります。
熱田区の伝馬町一帯が 夜間焼夷弾攻撃を受け 港区から見て
赤々と燃え盛った時 母と妹と国道1号線を西へ避難した事がありました。
6番町で一服していると 火災の勢いも衰えたので 帰宅した記憶があります。
その翌日堀田の工場へ出勤するべく 伝馬町の焼け跡を通過する時に
防空壕から半焼けの頭を出していた(衣類は損傷なし)死体を見ました。
これが戦火を受けた死体の1号でした。
今その時の気持ちは?と問われても 思い出しません。 
愛知航空機が被弾した直後 帰路に白鳥橋を通った時 1トン爆弾で橋幅の
半分を削り取られ 残った半分に片脚の無い女性が 手招きしていました。
爆弾による半死体は 声が出ていませんでした。
橋の下に複数の うつ伏せに成って浮かんでいる死体を横目に 女性の傍へ行きました。
無残な声の出ない女性を見て 成す術も無く 放置して家路を急ぎました。
助けを呼ぶなどの仕草は 戦火のさなかには 無意味だった様に思います。
今思うに 緊張のあまり 無感覚だった様に記憶しています。
その帰り道 爆弾被害を受けた愛知航空機眺めながら行くと 泥んこ遊びで
泥をまぶしたような死体が(顔の判別が出来ない)無造作に転がって居ました。
何れにしろ戦争と言う大前提の前には 止むを得ん事で感情を殺して家路を急ぎました。
    


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August 20, 2018

平成30年8月20日   1トン爆弾


平成30年8月20日   1トン爆弾
軍需工場や基地に投下される爆弾は 破壊を目的とした1トン爆弾が殆どでした。
焼夷弾で民家を焼き尽くし 終戦間際には 1トン爆弾攻撃が多かった。
直接被弾した経験はありませんが その威力には驚かされました。
我が家の近くの千年郵便局の防空壕(すぐ裏側)に 正に直撃弾が破裂し
建物は勿論のこと 壕内に避難していた局員も 吹き飛ばされて跡形も無く
後には大きな穴が残され 地下水が湧き上がって居ました。
私が見た時には 誰が下したのか穴の中頃に消火用の 手押しポンプが据えてありました。
穴の大きさは20mは在ったと思います。
穴のふちは 何も残っておらず 隣家の建屋の有った処は 平地に成っていました。
この爆弾が落ちた時は 堀田の工場の防空壕の外で 地面に伏せていました。
そっと頭を上げると 我が家の方に映画で見るような黒煙が もくもくとあがっていました。
我が家の近くの愛知航空機が爆撃された時の事で 工場は全面破壊した様子でした。
 その時の 外れ爆弾が近隣に多数落ちました。
帰ってから父親に話を聞きました。
突然ドカンときて真っ暗になり 死んだのかと思っていたら 周囲の埃が沈殿して 
次第に明るくなり ”ああ生きていた” と実感したそうです。
破壊爆弾は焼夷弾の様に燃え上がらないから 直撃で無い限りは 家財は残りました。


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August 19, 2018

平成30年8月19日   破壊爆弾と焼夷弾


平成30年8月19日   破壊爆弾と焼夷弾
爆弾には火災目的の焼夷弾と 破壊目的のいわゆる爆弾とありました。
空襲で投下された爆弾は 当初は木造家屋を焼き払う目的で 無差別に
投下された焼夷弾が多かったようです。
エレクトロン焼夷弾と 油脂焼夷弾と2種類あった様で エレクトロン焼夷弾は
小型で弾頭に鉄の塊が装着されていて 屋根などを貫通して屋内に着弾しました。
北隣り(2階建ての空き家)に2発と 南隣の平屋に1発 道路には数発が着弾し
花火の様な様子でした。
北隣りは1発は二階で発火し 畳が燃え上がりましたが 父が駆け上がり 窓から
燃える畳を投げ捨てました。
もう1発は階段の3段目あたりを貫通し不発でした。
この時焼夷弾を初めて見ました。
南隣は後から聞いた話ですが すぐに消し止めたそうです。
道路に落ちてきた焼夷弾が 路上にいた女性にあたらり 血みどろで即死でした。
焼夷弾に油脂焼夷弾が有るそうですが 被弾の経験がありません。
破壊爆弾の経験は明日に。


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August 18, 2018

平成30年8月18日   爆弾の落ちてくる音


平成30年8月18日   爆弾の落ちてくる音
度々の爆撃に会って 爆弾落下の音によって 自分の処に落ちて来ない
確信を持つ事を覚えました。
”ひゅー!”とやや高い周波数の音がして 覆いかぶさる様な感じを受けると
思わず 地面に伏せていましたが この時は少し離れた所に落下して爆発
して居ました。
自分の処は地面が振動するのを感じますが 無傷でした。
何度も経験する中に ”ひゅー!”と聞くと ”大丈夫”と思ったものです。
この”ひゅー!”は爆弾が空気を切る音だと思います。
直接被弾する時は 爆弾の落下速度の方が 空気を切る音の速度より
速いので 何の前触れもなく いきなり "dokann!" と被弾するのです。
”ひゅー!”を聞いた時は すでに近くに着弾していて その後を追って
聞こえる様です。
少し離れた処に爆弾が落ちると  ”ひゅー! どどん!!”と聞こえます。
”ひゅー!”を聞くと ここは安全と確信したものです。
音の速さを実感することができます。


susumuito at 16:59|Permalink

August 16, 2018

平成30年8月16日    4等国?


平成30年8月16日    4等国?
戦後にマッカーサーが ”現在の日本は4等国だ!” と評価して話題に成った
事がありました。
子供心にも 何がしか侮辱を感じたものでした。
戦勝国が敗戦国を評価するのに 等級をつけるなど 聞いて心地の良いもの
では在りませんでした。
でも 何か ”頑張らなくっちゃ” と励みに成ったのも事実でした。
以後 3等国 2等国 の話は聞いた事がありません。
現在何等国なのかどうか 聞く術も無く 何となく1等国だろうと自負しています。



susumuito at 14:45|Permalink

August 14, 2018

平成30年8月14日  終戦記念日を明日に控えて


平成30年8月14日  終戦記念日を明日に控えて
14日には ”明日陛下の重大放送がある”と予告が出ていました。
きっと ”国民一致して本土決戦に備えよ” と励ましのお言葉が放送
されるのではと思っていました。
戦況は大本営がいくら隠しても 目の前に戦禍が迫っていましたから
本土決戦は当然行われると思っていました。
15歳の少年に 政治や戦争の何たるかを知る筈もなく 最後には
神国日本が勝つのだと信じていました。
時を経て 洗脳の恐ろしさを 知ることに成るのですが 当時は翌日を
楽しみにして居ました。
あけて15日は 晴れ上がった暑い日でした。
学徒動員で働いて居た工場の中庭に招集が掛かり 全員が古びた
音質の悪いラジオの前に汗を拭きながら 今や遅しと緊張しました。
”耐え難きを耐え 忍び難きを忍び?????”だけ 理解できた内容の
お言葉でした。
いよいよ耐え忍んで本土決戦だ!と思っていたら 先生の声
”戦争は終わった 負けたんです 皆家に帰りなさい”
日本の軍隊がこのまま引き下がる筈は無い きっと何がしか反乱が起きる
と同級生同士で話し合いながら 工具の片づけもそこそこに家路に付きました。
情報網が今ほど発達していませんので 当時の社会情勢を知る術もなく
そのままだらだらと終戦となりました。  


susumuito at 11:00|Permalink

August 13, 2018

8月13日  老体の生きざま 


8月13日  老体の生きざま 
 この猛暑で仕事が忙しく 私に代って孫娘も大奮闘 、
ひ孫を預かる老体も 休む間もなく大忙し
1ねん5ヶ月のひ孫は 日に日に成長し 体重は重くなり 自己主張が出て
その扱いが難しくなり 母親が引き取って呉れると ”ほ!”とします
自身の体調は 下半身の苦痛は次第に強くなり 今では歩くことは出来るが
右脚に体重を乗せると 太ももの筋肉が痛みます。
やや”びっこ”をひいて歩いています ジャンプが出来るので 縄跳び(縄なし)
50回を2回したら 痛みがひどくなり失敗でした。
鼻つまり 難聴 視力低下 むくみ(前立腺がんのホルモン療法の副作用) 高血圧 
など 廃車寸前の老車体に ややもてあまし気味
癌と血圧以外は 病院へ行く気に成れず 自己治療ですましたいます。



susumuito at 14:05|Permalink

July 07, 2018

平成30年7月7日   動物は性悪説と思う


平成30年7月7日   動物は性悪説と思う
ひ孫を見ていると 人は性悪説で生まれてきて そのままで教育をしないと
恥や外聞を気にすることも無く 勝手気ままな人が増え続けるのでは?
自由と権利のみが先走り その結果動物の弱肉強食の世界が 
そのまま人の世に蔓延るのでは?
教育暴力も暴力として否定され 悪のやりたい放題が起きるのでは?
悪は痛めつけられなければ 矛を納めないと思います。
尊敬 辛抱 恥 孝行 譲る など教育に頼らなければ 教育局長まで
恥ずかしい行為をする事になります。
18歳を超えてからの教育では 効果が薄いと思います。
知識と一緒に教えることが必要ではないでしょうか?。
 


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July 04, 2018

平成30年7月4日   今日は何曜日?


平成30年7月4日   今日は何曜日?
最近 えー!と”今日は何曜日?” と思考を巡らす事が多くなった。
”昨日燃えるごみを出したから 今日は火曜日だ”と言った調子が多くなった。
好んで数独の問題に挑戦していますが だんだんと時間が掛るようになった。
Aの仕事をしていて 突然Bの仕事が発生してBの仕事をかたずけて そのまま
Aの仕事をすることをを忘れ 放置したままに成る事が 度々起きている。
お客さんの顔を覚えていても 名前が出ないことが多々起きている。
現金を操作しているとき 売上と両替と手元金の3っが 区別がつかなく成り
残高が合わず 何度も始めからやり直している。
と言ったような事で 脳の軟化を味わっています。






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June 14, 2018

平成30年6月14日  老衰者の会話


    老衰した体調を訴えると 老衰して居る人には理解が得られ
そうだ! そうだ!と話が弾みますが まだ老衰していない人には 
”ふーん” で終わり 話題が途切れてしまいます。
老衰を経験したお医者さん(現実には不可能だと思います)と会話
すれば 納得のいく話が聞けると思いますが 未経験のお医者さん
は ”お年だから こんなものですね”で終わってしまいます。
次第に医師不信に成りますが 与えられた薬を服用して
” 仕方がないわ!”で終わってしまう様な気がします。
と言うぐらい 老衰の実態は表現し難いものです。
最近 老衰の為のサプリメントの広告が非常に多く見られますが
悩める老衰者が多く成って来た 証拠でしょう。


susumuito at 11:58|Permalink

June 08, 2018

平成30年6月8日 老衰と人生観


  このブロッグを書く意欲を感じても 実際には文体がまとまらず中々書けない。
頭の中が この先何年生きて居られるか? 
傍に迷惑を掛けないように 老体を維持するには?
前立腺がん 高血圧 老衰による筋肉衰退など 防ぎようの無い変化を
薬に頼らず 外部的に対応するには?
などと頭の中は思考で満杯です。
早急に死ぬとは思えないので 90歳まで目標に生活してみよう!
90歳まで生きられたら 92歳を目標にしょう。
それ以上は常識的に無理だと思われる。
老いぼれて考える事は 人生観じゃ無くて 愚痴の一種だと思います。
哲学も失われ 思考も衰え 哀れな人生になりにけり。 



susumuito at 17:09|Permalink

May 15, 2018

平成30年5月15日  現在(88歳)の老衰


平成30年5月15日  現在(88歳)の老衰
1) 入れ歯70%  毎食入れ歯掃除
2) みぎ耳難聴  補聴器が手放せない
3) 前立腺がん8年同居  特に病状は無いが治療最優先
4) 高血圧要注意  絶えず血圧計のお世話になる
5) 鼻炎(鼻声)  生活に何の支障も無いのが絶えず鼻声
6) 筋肉衰弱  肺炎入院後特に太もも筋衰弱 歩行老人歩き
7) 微熱続く  36.6〜37.1 上下あるも続いている
8) 夜間頻尿  2〜4回日中は正常
9) 記憶  古い記憶は流れ出て来るが 新しく記憶した事は駄目
救い  気分普通 食欲あり 便通正常 体重55〜56kg維持
    時々鼻歌に気が付く
   訴えると薬が増えるので 成るべく無薬で体力を維持しようと努力している。
   



susumuito at 14:50|Permalink 回顧録 | 加齢

May 13, 2018

平成30年5月14日  老化は老衰

平成30年5月14日  老化は老衰
80歳を越える頃から 少しづつ衰えを感じ始めます。
聴力 視力の衰えに始まりますが 僅かですから無視
して日常を暮らします。
85歳に成ると 自ら脳の衰えを感じ始めます。
知っている筈の人の名前が出てこない。
車のエンジンを掛け 動き始め 走行を始めた瞬間に
何処へ行くのだったか? 
一瞬戸惑い 間を置かず行き先を思い出す。
カタカナ語が覚えられない。 
PC スマホ等が使いきれない。 筋肉の衰えを感じ始める。
物語 娯楽 等のテレビ放送を観なく成る。
時事ニュースやスポーツ放送を好んで観る。 
衰えを回復する事は不可能だと思います。
使い古した自動車は 新車の様に戻せないのに似て居ます。
老衰を防ぐには 70歳ぐらいから 心掛ける事が必要。



susumuito at 13:44|Permalink 回顧録 | 加齢

May 07, 2018

平成30年5月3日  明治150年(5)


平成30年5月3日  明治150年(5)
今日は 憲法記念日 
明治22年に 大日本帝国憲法が施行され 敗戦で廃棄
明治80年(昭和23年)に アメリカの占領下で 
日本国憲法が制定され 今日改正が論じられています。
新憲法は初めの頃には マッカーサー憲法だと 揶揄した
意見をよく聞きましたが その声は次第に小さく成り
最近では 全く聞く事が有りません。
70年間守って来た 新憲法も矛盾を持ち始めました。
戦争放棄と 自衛隊の存在が 自己防衛の為とは言え
陸軍 海軍 空軍 と存在すると戦争をイメージします。
小学生に説明する事が出来 理解出来る憲法が望ましく
思います。
 



susumuito at 17:18|Permalink 回顧録 

May 03, 2018

平成30年5月3日  明治150年(5)


>平成30年5月3日  明治150年(5)
今日は 憲法記念日 
明治22年に 大日本帝国憲法が施行され 敗戦で
廃棄明治80年(昭和23年)に アメリカの占領下で 
日本国憲法が制定され 今日改正が論じられています。
新憲法は初めの頃には マッカーサー憲法だと 
揶揄した意見をよく聞きましたが その声は次第に
小さく成り最近では 全く聞く事が有りません。
70年間守って来た 新憲法も矛盾を持ち始めました。
戦争放棄と 自衛隊の存在が 自己防衛の為とは言え
陸軍 海軍 空軍 と存在すると戦争をイメージします。
小学生に説明する事が出来 理解出来る憲法が
望ましく思います。
 
  



susumuito at 10:34|Permalink 回顧録 

May 01, 2018

平成30年5月1日  明治150年(4)


平成30年5月1日  明治150年(4)
昭和30年(明治87年)頃に ラジオ テレビ 
の基礎と実技の勉強をしましたが 63年余を経た
今日では 殆ど役に立ちません。
何故なら 真空管工学の時代から 半導体工学の
時代に移ってしまったからです。
スマホを使いこなす現代の若者には 真空管って何?
LED照明が普及すれば 電球が忘れられ エジソンの
名も話題に成らなく成るのでは?。
コンピューターも思考能力を得るようになり 将棋や囲碁
を人と争うように成りました。
其の中に 感情を持つように成ると 人を排除したくなり
PCと人間の戦いが起きる事が 考えられます。
水素と酸素から出来ている水から 簡単に水素を取り出す
方法を見つければ エネルギー枯渇の心配も無くなり
クリーン社会が出来上がるのも 夢では無くなります。






susumuito at 14:39|Permalink 回顧録 

April 30, 2018

平成30年4月30日  明治150年(3)



平成30年4月30日  明治150年(3)
徳川幕府時代は265年に及んだけれど その間に
移動の速さは馬以上に早いものは生まれなかった。
薩摩の武士が上京するにも 徒歩だったようで
 通信も手立てが無く 今日では考えられない時代
だった様です。
処が明治元年から150年の間には 自動車 
飛行機 無線通信は 異常な速さで進歩し 
今日の便利社会に貢献して居ます。
最近の50年を振り返ると この先50年には 
想像も出来ない便利な社会が生まれるか 
人と人との争で破滅するか 自然現象で宇宙創造の
原点へ戻るのでは? と思います。
何時でも何処でも スマホをいじる時代は 
異常な現象です。




susumuito at 11:37|Permalink 回顧録 

April 28, 2018

平成30年4月28日  明治150年(2)


平成30年4月28日  明治150年(2)
明治150年を西暦を交えて改めて 昭和 平成に換算しとみる
明治元年は  西暦1868年 
昭和5年は  西暦1930年  明治62年  (誕生日)
平成18年は 西暦2018年  明治150年 (今年)
よく見ると 150−62=88 生きて来た88年は 
明治より永いのに気が着きました。
明治は遠い昔と思いこんで居ましたが 比較してみると
日清 日露の戦争も ほんの少し前に起きた事件だと
再認識せざるを得ません。
150年の前半は 肌で感じる事は何も有りませんが
後半はテンポも速く 科学 社会の進歩が速く 多くの事象が
記憶の中に残っています。 
生きて来た前半の時間は長く感じて居ますが 個後半は
変化が少なく 短じかく感じて居ます。






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April 17, 2018

平成30年4月16日  明治150年(1)


平成30年4月16日  明治150年(1)
新聞 雑誌に明治150年と言う活字を見て 思う事。
明治と言うと 遠い昔と思って居ました。
しかし 150年の中 88年を生きてきたと思うと
俺は近代史の中を生きて来たのだと 遠く思いを馳せます。
子供の頃に聞いた“爆弾3勇士”の話
歩兵と歩兵の戦いの頃は 鉄条網が敵の侵入を防ぐ手段でした。
攻撃するには これを破壊すべく 3人の兵士が爆弾を抱えて
鉄条網の中で自爆した話です。
戦争美談として聞かされました。




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April 15, 2018

平成30年4月平15日  記憶を紐解く(36)


平成30年4月平15日  記憶を紐解く(36)
  あなたと呼べば あなたと答える
 山のこだまの 楽しさよ
 あなた なんだい 空は青空 二人は若い
 これも母親の歌うのを 聞き覚えたと思います
 戦時中にこのような歌を 流す筈が有りません
 戦前の流行歌のはしりだと思います
 こうして見ると 門前の小僧のように 
良し悪し 内容に関係なく 幼稚な脳に吸収せれるようです



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April 14, 2018

平成30年4月平14日  記憶を紐解く(35)


平成30年4月平14日  記憶を紐解く(35)
空にゃ今日もアドバルン さぞかし会社じゃ今頃は
お忙しいと思うだに ああそれなのに それなのに
ねえ!怒るのは 怒るのはあったり前でしょう
あなた! なんだい 空は青空2人は若い
若い母親が 仕立て仕事をしながら よく唄った歌です
どこか間違いがあるかも知れませんが 何故か時々
鼻歌として 声になります。
大正から昭和に掛けて 会社勤めが普及し始めた頃の
サラリーマンを歌ったものだと思います。
放送で聞いた事がありません。



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April 13, 2018

平成30年4月平13日  記憶を紐解く(34)


平成30年4月平13日  記憶を紐解く(34)
海行かば 水漬く屍 山行かば 草むす屍
大君の辺にこそ死なめ かえり見わせじ
国の為に 身を犠牲にした人が出る度に
厳かに歌われました。
ラジオ 映画では 負けた場面で流されたようです
勝った場面では 軍艦マーチが景気良く流れました。
何度も聞いたり歌ったりした“海ゆかば”です。



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平成30年4月平12日   記憶を紐解く(33)


平成30年4月平12日   記憶を紐解く(33)
9軍神と言う言葉は 何の疑問も無く 報道されるまま
記憶の中に残っています。
日米開戦の火蓋を開いた ハワイの真珠湾内の艦船の攻撃
は飛行機による攻撃と共に 特殊潜航艇でも攻撃しました。
2人乗りの5艘に 夫々2発の魚雷を積んで 真珠湾に潜航し
任務を果たしたと聞いています。
この艇は 電池で動き帰還する事は考えて居ない特攻艇でした。
発表された9軍神は1人足りませんが 当時は何の疑問も
感じませんでしたが 戦後の噂では 1人は捕虜に成っていた
のです。  戦争が終わり無事日本に帰国したと聞いています。
戦中は捕虜と言う言葉は禁句でした。
戦後ハワイへ行く機会があり 展示された特殊潜航艇を見に
行きました。
私以外はだ誰も居ませんでした。 
あまり興味が無いようでした。



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April 11, 2018

成30年4月平11日   記憶を紐解く(32)


成30年4月平11日   記憶を紐解く(32)
旅順開場約成りて 敵の将軍ステッセル 
乃木大将と会見の 処は何処スイシエイ
この後 長い歌で 後は記憶にありませんが
日露戦争で乃木将軍が 旅順を攻撃 占領した時の歌
将軍は自身の2人の息子を 戦線に送り2人共戦死しました。
もう一つの海軍の戦いは ソ連のバルチック艦隊と
日本海で戦いました。 
東郷元帥が総指揮官でしたが 歌としては 何も聞いた事がありません
ただ 戦闘開始の時 旗艦三笠の艦橋に Z旗を揚げた
その意味は 
“皇国の興廃この1戦にあり 各員一層努力せよ”
だと。聞いています。
戦後は忘れ去られた 将軍たちです。



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April 09, 2018

平成30年4月9日   記憶を紐解く(31)


平成30年4月9日   記憶を紐解く(31)
追跡した攻撃戦闘機が撃墜されて 暫くしてから又空襲があり
通過して行くB−29を眺めていると 驚いた事に日本の戦闘機
が 反対方向からB-29に向って突き進み 体当たりをしました。
さすがのB-29も 高度を落とし墜落して行きました。
戦闘機はばらばらに成って 落ちて行きました。
後ほどの噂では B-29は 萩山公園に落ちたと聞いています。
当時は空襲警報が出ても 殆どが名古屋を通過して行くので
見送るように眺めていました。

  



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April 08, 2018

平成30年4月8日   記憶を紐解く(30)


平成30年4月8日   記憶を紐解く(30)
名古屋の上空で 空中戦が在ったのを記憶して居ます。
空襲警報のサイレンが鳴り ラジオから“東海軍管区情報”
“敵機B-29数機が志摩半島を北上中”と放送され 暫くすると
ぶん ぶん とB-29特有の飛行音が聞こえ 先頭の1機が
見えて来ました。
真上あたりに来た時に 日本の戦闘機が追跡してくるのが
見えました。 
攻撃すると思っ見ていたら 次の瞬間B-29から銃撃され
機体が2つに分解して 木の葉のようにひらひらと墜落し行き
その間隙に 人影が落ちて行くのが見えました。
パラシュートが開かずに 人の重さで長く伸び “あ!”と
声を揚げた時には 見えなく成りました。
結果がどうなったかは 知りませんが 見たくて見れるものでは
無いものを見た瞬間でした。 




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平成30年4月7日   記憶を紐解く(29)


平成30年4月7日   記憶を紐解く(29)
昨日 富士フィルムが白黒フィルムの生産を止めると言う 
ニュースが流れました。
子供の頃には“カメラ”と言う言葉は無かった様に思います。
写真機で写したものを 写真と呼んでいた様に思います。
写真機を持っている人は お金持ちか知識人で 一般には
あまり普及して居ませんでした。
従って自分の写真も 子供のころは殆ど残っていません。
4歳の時に亡くなった父親の写真も たった1枚残っているだ
けです。
戦後には カメラを買い入れ 写して居ましたが 費用の
大きく成らない程度の数でした。
カラー写真は 殆ど写した事がありません。
半導体CCDの開発が進み 最近ではスマホに内蔵され
自由に撮影し 気に入ったのを プリンターで印刷する事
が多いようです。
新しく生まれるものあれば 消えて行くものもある
世の常と言うべきか? 




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April 06, 2018

平成30年4月6日   記憶を紐解く(28)


平成30年4月6日   記憶を紐解く(28)
最近の市バスは運転手1人で 車掌が居ませんが
当初は車掌が同乗して居て 乗車切符を販売したり 
安全走行に配慮したりして居ました。
我が家の近くにJRの踏切があり ここでは一旦停車し
車掌が降りて 安全を確認して運転手に知らせ 手招きで
誘導して居ました。
ある日私がこの踏切を通過しようと 市バスの後ろに居ました。
女性の車掌さんが降りて 安全を確認しバスを誘導しました。
バスは踏切を渡り終えたら 停止して車掌を拾う筈ですが
どうした事か 車掌を置き去りにして 走り去りました。
車掌は走りながら 声をあげ手を振って居ましたが バスはその 
まま走り続けて行きました。
私は後ろからその様子を見て居ましたが 後続車と共にバスに続
きました。
追い越し車線に入ったバスは そのまま走って行きました。
最後の結末はどうなったか知りません。
この踏切を通る度に 手を挙げて走る車掌さんの姿が浮かびます。





susumuito at 17:10|Permalink 回顧録 

April 05, 2018

平成30年4月5日   記憶を紐解く(27)


平成30年4月5日   記憶を紐解く(27)
終戦前後の喜劇タレントは 今ではその名前を聞く事は
ありません。
エノケン(榎本けんいち)ロッパ(古川ロッパ)
シミキン(清水金一)高瀬みのる(あのね おっさん)
エノケンはテレビの無い時代でしたが 映画にラジオに
その顔と声で 小柄ながら人気を得て居ました。
ロッパは大柄でふくよかで 声と話し方に特徴がありました。
シミキンは 歌で人気を得ていました。
日が暮れてたどるは 我が家の細道 xxxxxとその後は
記憶から出て来ませんが “はつ倒すぞ!”等の流行語を生んだ。
高瀬みのるは その容貌と話し方が注目されていました。
“あのね おっさん”と垂れた長ひげが記憶に残っています。
遠い昔の話です。



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April 04, 2018

平成30年4月4日   記憶を紐解く(27)


平成30年4月4日   記憶を紐解く(27)
2度目に就職した H商工KKに3年半勤めました。
その間に得た知識は 学問で無く実地で学んだもので
その後の人生に大きく寄与しました。
人の雇用 資本の投入 手形取引 当座取引 社員教育等
更には 東京支店設置の経験と 東京を見聞し 日本を
再認識する事が出来ました。
T無線KKでは ラビットスクーターに乗って居ましたが
H商工KKでは 250ccのバイクをあてがわれ 通勤と
営業に乗っていました。
社長の夜遊びに同行する事もあり 夜の歓楽街も見る事が出来
全く知らない世界を知る機会もありました。
まだ日本のテレビが無い頃に アメリカのRCAテレビや
冷蔵庫を輸入し店頭展示していました。
当時 最先端の商品でした。




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平成30年4月3日   記憶を紐解く(26)


平成30年4月3日   記憶を紐解く(26)
同時通話式インターフォンは 最初の中好調に売れだして
社員も増やし 工場も新設し(出資者が在ったようでした)
順調な滑り出しでした。
音声を拾うマイクロフォンに欠陥が生まれ 会社が倒産して
しまいました。
この時点で 商売の難しさを知り もう一度学校に入り
商業の勉強をしようと志し 出来て2年目の短期大学の
商学部へ入学しました。
卒業間際に担任の先生から 電気関連の会社を始めて間がない
事業所が社員を募集して居るが どうだ!
早速会社訪問し入社しました。
東京芝浦電気KKの代理店で 社員が3人居ました。 




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April 02, 2018

平成30年4月2日   記憶を紐解く(25)


平成30年4月2日   記憶を紐解く(25)
T無線KKでは 中日球場が完成した時の拡声器を製作納入した。
設置に携わり 球場内を走り周った記憶があります。
装置の大きさは 金属製のBOXで高さが1,5mほどでした。
中日の杉下投手が全盛の頃でした。
続けて名古屋駅前の映画館にも納入しました。
今は有りませんが 希望会館と言ったように記憶して居ます。
この中日球場も 今は2軍の練習場に成り ナゴヤドームが
本拠地に成っています。 






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April 01, 2018

平成30年4月1日   記憶を紐解く(24)


平成30年4月1日   記憶を紐解く(24)
新制高校第一回生として卒業し 夏休みにアルバイトをした
T無線KK へ就職しました。 
社長 専務(兄弟)社員2名でしたが 1年も経った頃には
先輩2人が退職し 自分1人社員に成りました。
仕事は 毎日ラジオを組み立てる事でした。
戦後間もない当時は 未だメーカーが発売して居なかったので
良く売れました。
1日1台のペースで製作しても 展示する余裕が無い程
良く売れました。
ラジオの原理と 物を造る事の面白さを会得しました。
メーカーの進出で売り上げが低調に成って来たので
社長が同時通話インターフォンの開発を始めました。
相手が話している時 此方の機器の増幅度を 電気的に小さく
する実験を繰り返しましたが 上手くいかず 難儀しました。
最後にはスピーカーを横向きにして 自分のマイクに還流する
事を ある程度防ぎ 何とか実用出来るように成りました。




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March 31, 2018

平成30年3月30日     記憶を紐解く(23)


平成30年3月30日     記憶を紐解く(23)
今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るぞと
思う間もなくトンネルの 闇を通って広野原
未だ電気機関車が無い頃 蒸気機関車でトンネルに入ると
窓が開いていたら 大変なことに成りました
窓から石炭の燃えた煙が入り込み 咳こむやら
お互いの顔がすすで 黒くなり 眺め合って笑ったものです
現在では考えられない状況でした。




susumuito at 11:21|Permalink 回顧録 

March 29, 2018

平成30年3月29日     記憶を紐解く(22)


平成30年3月29日     記憶を紐解く(22)
タバコふかして 口笛吹いて
あての無い夜の 今日の宿
人は見返る 我が身は細る
泣けて涙の枯れ果てた
こんな女に誰がした
“こんな女に誰がした”と言うタイトルの映画だった
女優の轟ゆきこが演じた ぐずれゆく女
何故かこの映画の一場面が 脳裏に残っている



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