親鸞会の邪義を正す

浄土真宗親鸞会の誤った教義を正しています

『仏説譬喩経』には”無常の虎の譬え”は説かれていない

『仏説譬喩経』

佛説譬喩經
大唐三藏法師義淨譯
如是我聞。一時薄伽梵。在室羅伐城逝多
林給孤獨園。爾時世尊於大衆中。告勝光王
曰。大王。我今爲王略説譬喩。諸有生死味
著過患。王今諦聽。善思念之。乃往過去。於
無量劫。時有一人。遊於曠野爲惡象所逐。怖
走無依。見一空井。傍有樹根。即尋根下。潜
身井中。有黒白二鼠。互齧樹根。於井四邊
有四毒蛇。欲螫其人。下有毒龍。心畏龍蛇
恐樹根斷。樹根蜂蜜。五滴墮口。樹搖蜂散。
下螫斯人。野火復來。燒然此樹。王曰。是人
云何。受無量苦。貪彼少味。爾時世尊告言。
大王。曠野者喩於無明長夜曠遠。言彼人者。
喩於異生。象喩無常。井喩生死。險岸樹根
喩命。黒白二鼠以喩晝夜。齧樹根者。喩念
念滅。其四毒蛇。喩於四大。蜜喩五欲。蜂喩
邪思。火喩老病。毒龍喩死。是故大王。當知
生老病死。甚可怖畏。常應思念。勿被五欲
之所呑迫。爾時世尊重説頌曰
    曠野無明路 人走喩凡夫
    大象比無常 井喩生死岸
    樹根喩於命 二鼠晝夜同
    齧根念念衰 四蛇同四大
    蜜滴喩五欲 蜂螫比邪思
    火同於老病 毒龍方死苦
    智者觀斯事 象可厭生津
    五欲心無著 方名解脱人
    鎭處無明海 常爲死王驅
    寧知戀聲色 不樂離凡夫
爾時勝光大王聞佛爲説生死過患。得未曾
有。深生厭離。合掌恭敬。一心瞻仰。白佛言。
世尊。如來大慈。爲説如是微妙法義。我今
頂戴。佛言。善哉善哉。大王。當如説行。勿
爲放逸。時勝光王及諸大衆。皆悉歡喜。信
受奉行
佛説譬喩經



『本願寺教学伝道研究所』「黒白二鼠の譬え」

昔、一人の旅人が広い野を歩いていると、後ろから悪ゾウが追いかけてきました。
周りを見まわしても、身を隠すところがありません。
木の根が垂れている、から井戸があるのを見つけました。
その木の根をつたってから井戸の中に身を潜めました。
ほっとするのも束の間、目の前に黒と白の二匹の鼠が出てきて、かわりがわりに木の根をかじっています。
下を見れば古井戸の底で、一匹の大きな毒龍が口をこちらに向けており、四匹の毒ヘビが井戸の四辺にいて、男の落ちてくるのを待ち受けているではないですか。このままでは確実に細い根はちぎれて、龍や蛇に食べられてしまいます。
男は恐怖に身を震わせていました。
木の根にはミツバチの巣がありました。その巣から甘い蜜が五滴、口のなかに堕ちてきました。そのなんとも言えない蜜の甘さに心が奪われ、もっと甘い蜜をなめたいと思って、いまにも切れそうな木の根をゆさゆさと揺すっています。その上さらに、野火がこの木を焼こうとしています。

ここに出てくる広い野とは私たちの永い迷いを喩えています。
ゾウとは無常、井戸は人生、木の根はいのちを喩えています。
黒白の二匹の鼠は昼と夜を喩え、私のいのちが徐々に終わりに近づいていることを示しています。
井戸の周りの四匹の蛇は地・水・火・風の四大を、五滴の蜜は色・声・香・味・所触の五欲を喩えています。
蜂はよこしまな思いを喩え、火は老病を喩えています。
そして龍は死を喩えています。
私たちは、このように知って、世間の楽に心奪われることなく、人生の無常に思いをいたして、苦悩の解決を求めていかなければならないのです。



高森顕徹著『会報』第1集「後生の一大事(三)」

『仏説譬喩経』の中に釈尊は給孤独園に於いて大衆の中で勝光王に向かって次のような説法をなされている。
「王よ、それは今から幾億年という昔のことである。ぼうぼうと草の生い茂った広々とした果てしのない昿野、しかも凩の吹きまくっているさびしい秋の夕暮れに、独りトボトボと歩いてゆく一人の旅人があった。ふと旅人は急ぐウス暗い野道に点々と散らばっている白い物を発見して立ち止った。これは一体何だろうと一つの白い物を拾い上げて旅人は驚いた。それはなんと人間の白骨ではないか、どうして、こんな処にしかも多くの人間の白骨があるのだろうかと不気味な不審をいだいて考えた。間もなく旅人は前方の闇の中から異様な唸り声と足音を聞いた。驚いた旅人は前方を凝視すると、はるか彼方から飢えに狂った見るからに獰猛な大虎が自分をめがけてまっしぐらに突進して来るではないか。旅人は瞬時に白骨の意味を知った。自分と同じくこの昿野を通った人達がこの虎の為に喰われていったのだ。そして自分もまたそれと同じ立場にいるのだ。これは大変、旅人は無我夢中で今来た道へと突走った。それから、どれ位たったであろうか。旅人が猛虎の吐くあの恐ろしい鼻息を身近に感じて、もう駄目だと思った時である。どう道を迷ったのか断崖絶壁の頂上でゆきづまってしまった。途方に暮れた彼は幸いにも断崖に一本の樹の根の方から一本の藤蔓が垂れ下がっているのに気が付いた。旅人は、その藤蔓を伝ってズルズルと下りたことは言うまでもない。文字通り九死に一生を得た旅人はホッとして頭上を仰ぐと猛虎はすでに断崖の上に立ちせっかくの獲物を逃したので如何にも無念そうな面持で吠えながらジーッと見下ろしているではないか、ヤレヤレこの藤蔓のおかげで助かった。一先ずは安心と目を足下に転じた時である。旅人は思わず口の中でアッと叫んだ。足下は底の知れない深海の怒涛が絶壁を洗っているではないか。それだけではない。その波間から三匹の毒龍が大きな口を開け紅い焔を吐いて自分の落ちるのを待ち受けているではないか、旅人は余りの恐ろしさに再び藤蔓を握りしめて身震いした。しかし旅人はやがて空腹を感じて周囲に食を求めて眺め廻した。その時である。旅人は今までよりも、もっともっと驚くべきことを発見したのである。
 見よ!!藤蔓の元の方に白と黒の二匹のネズミが現われ交々旅人の命の綱である藤蔓を一生懸命に齧っているではないか、旅人の顔は蒼ざめ歯はガタガタと震えて止まらない。
 だがそれは続かなかった。それは、この樹に巣を造っていた蜜蜂が甘い五つの蜜の滴りを彼の口におとしたからである。旅人は忽ち今までの恐ろしさを忘れて陶然と蜂蜜に心をうばわれてしまったのである」
(以下略)




(参考)トルストイ著、米川正夫訳『わが懺悔』

 古い東方の寓話にも、曠野の中で怒り狂う猛獣に襲われた旅人のことが語られている。猛獣をのがれようと思って、旅人は水のない古井戸へ飛び込んだ。ところが、見るとその井戸の底には一疋の龍が、たゞ一呑みと大きな口をあけて待っている。そこでこの不幸な旅人は、怒り狂える猛獣のために命を落としたくなかったが、外へ匍い出ることもできないし、それかといって、龍に食われたくもないので、井戸の底へ飛びこむこともできず、せんかたなく、中途の隙間に生えている野生の灌木の枝につかまって、宙に身を支えていた。そのうちに手が次第に弱ってきた。で、彼は間もなく、前後に自分を待っている死の手に身を委ねなければならぬと感じたが、それでも、宙にぶらさがっていた。そこへ、黒と白と二疋の鼠が現われて、彼のぶらさがっている灌木の幹の周囲を、ちょろちょろと同じ速度で廻りながら、じりじりと噛み耗らすのに気がついた。もう今にも灌木はぶつりと切れてたおれかゝり、彼は龍の口へ落ちてしまうにちがいない。旅人はそれを見て、我が滅亡の避け難いのを知った。しかも、彼はそこにぶらさがっている間、自分の周囲を物色して、灌木の葉に蜜の雫がついているのを発見すると、そこまで舌をのばして、嘗め味わうのであった。

会員との問答(後生の一大事について)

Q.親鸞聖人は「地獄は一定すみかぞかし」と仰っていますが、後生は無間地獄に堕ちることは必定ではないのですか?

A.これは『歎異抄』にある親鸞聖人が仰ったとされるお言葉ですが、親鸞聖人が御自身の罪悪観を述べられたものです。罪悪観については、以前にも詳しく述べました。

仏教でも真宗でも一般には、死後は六道輪廻と教えられ、我々のような悪凡夫は、三悪道に堕ちると書かれてあるものが多いです。
その中で、罪悪観を突き詰めていけば、三悪道とは言いながらも地獄しか行き場のないものという親鸞聖人のお言葉になる訳です。罪悪感とは、自己の内省です。自己を厳しく顧みられた時に、地獄に堕ちても文句の言えないものと親鸞聖人は、懺悔されたのですが、だからといって、死後に地獄に堕ちることが決まっているということではありません。あくまで、罪悪観であり、懺悔です。仏でもないのに、自分には未来を知る能力があると考えることがそもそもおかしいです。
しかもここで言われている罪業は、十悪のことであり、五逆謗法の無間業ではないことをよく知って頂かねばなりません。ですから「無間地獄に堕ちる」という言い方ではありません。

親鸞聖人の御著書の中で、我々が無間地獄も含めて、地獄に堕ちると教えられた箇所は全くありません。これまでにも、何度も何度も述べてきましたように、親鸞聖人は「一切衆生必堕無間」を完全に否定しておられます。
もし親鸞聖人が「一切衆生必堕無間」という意味のことを仰ったお言葉があれば、是非とも教えて下さい。

蓮如上人も、地獄に堕ちると仰った箇所は、異安心、邪義の者に対してという条件付きの場合が多いです。そうでない場合は、六道、三悪道という表現になっています。

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。(一帖目第十一通

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。(二帖目第十四通

されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。(一帖目第十一通

はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかいとしりながら、ただいま三途八難にしずまん事をば、つゆちりほども心にかけずして、(二帖目第一通

されば、五道六道といえる悪趣に、すでにおもむくべきみちを、弥陀如来の願力の不思議として、これをふさぎたまうなり。(二帖目第四通

総合的に考える能力が完全に欠落している高森会長、講師部員と偽装退会者は

この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(二帖目第二通

この1つの文章をもって、これに反する膨大な根拠をすべてを否定するという典型的な断章取義です。

なお、江戸時代に大谷派で地獄が強調されたことがありましたが、それもそのような学説があっただけのことで、それを紹介したところで、

それで何?

となるだけです。「念仏無間」と誰かが言っていたら、それに飛びつくのと同じ位愚かな思考です。そんなブログを書いていて虚しくならないのでしょうかね。

負け犬の遠吠え、論点ずらし、詭弁でしか語れないのが親鸞会です。

親鸞聖人の教えを語る前に、人間として、大人として恥ずかしくない主張を展開してほしいものです。

と何度言っても、改めることの絶対にしない親鸞会でした。


Q.仏教を聞く目的は、後生の一大事の解決のためと親鸞会では教えていますが、それも間違いということですか?

A.親鸞会の言っている意味では、間違いです。

後生の一大事とは、往生浄土の一大事、往生浄土できるかどうかの一大事、ということです。約30年前に紅楳英顕師が、そのことを『派外からの異説について』で指摘されています。

最近親鸞会では、後生の一大事には必堕無間と往生浄土という二つの意味がある、とこれまでの必堕無間一辺倒から転換して説明しているようです。紅楳師がこの指摘をした際に、高森会長が、往生浄土の一大事も一大事だが、信前は必堕無間の一大事のことをいうのだ、と30年近く前に説法で話をしていたことがありましたが、それ以来きいたことがありませんでした。嵐のような親鸞会への教義批判に対応する形で、また詭弁を使っているだけのことです。

浄土門において、仏教を聞く目的は、浄土往生して仏に成ることです。必堕無間から逃れるためではありません。無間地獄から逃れるためだけであれば、無間業を造らなければいいだけです。先にもいいましたが、親鸞会で教えているように神を拝めば蛇に生れる筈ですので、積極的に神を拝んでもよいと勧めてもよいことになってしまいます。もっとレベルを上げれば、化土往生ができれば万万歳です。

しかし、親鸞聖人は化土往生を願うことさえも誡めておられます。報土往生だけを願えとしか教えられていません。従って、必堕無間の解決のために仏教を聞くというのは、親鸞聖人の教えではありません。単なるカルトの教えです。

『涅槃経』には、「一切衆生悉有仏性」と説かれていて、親鸞会でいう「一切衆生必堕無間」の教えは、浄土真宗でも仏教でもないのです。


Q.「一切衆生悉有仏性」とはどういうことですか?

A.親鸞聖人は『教行信証』信巻・信楽釈に引かれています。

『涅槃経』(師子吼品)にのたまはく、「善男子、大慈大悲を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、大慈大悲はつねに菩薩に随ふこと、影の形に随ふがごとし。一切衆生、つひにさだめてまさに大慈大悲を得べし。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大慈大悲は名づけて仏性とす。仏性は名づけて如来とす。

大喜大捨を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、菩薩摩訶薩は、もし二十五有を捨つるにあたはず、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を得ることあたはず。もろもろの衆生、つひにまさに得べきをもつてのゆゑなり。

このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といへるなり。大喜大捨はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり。仏性は大信心と名づく。なにをもつてのゆゑに、信心をもつてのゆゑに、菩薩摩訶薩はすなはちよく檀波羅蜜乃至般若波羅蜜を具足せり。一切衆生は、つひにさだめてまさに大信心を得べきをもつてのゆゑに。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大信心はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり。

仏性は一子地と名づく。なにをもつてのゆゑに、一子地の因縁をもつてのゆゑに、菩薩はすなはち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は、つひにさだめてまさに一子地を得べきがゆゑに、このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。一子地はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり」と。

(現代語訳)

『涅槃経』に説かれている。

「善良なものよ、大慈・大悲を仏性というのである。なぜかというと、大慈・大悲は、影が形にしたがうように、常に菩薩から離れないのである。すべての衆生は、ついには必ずこの大慈・大悲を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大慈・大悲を仏性といい、仏性を如来というのである。

また、大喜・大捨を仏性というのである。なぜかというと、菩薩が、もし迷いの世界を離れることができなければ、この上ないさとりを得ることはできない。あらゆる衆生は、ついには必ずこの大喜・大捨を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大喜・大捨は仏性であり、仏性はそのまま如来である。

また仏性を大信心というのである。なぜかというと、菩薩はこの信心によって、六波羅蜜の行を身にそなえることができるのである。すべての衆生は、ついには必ず大信心を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大信心は仏性であり、仏性はそのまま如来である。

また、仏性を一子地というのである。なぜかというと、菩薩は、その一子地の位にいたるから、すべての衆生をわけへだてなく平等にながめることができるのである。すべての衆生は、ついには必ずその位を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。この一子地は仏性であり、仏性はそのまま如来である」

一切衆生悉有仏性」というと、衆生の中に仏性があると理解しがちですが、そうではありません。衆生の側に仏性があるのではなく、阿弥陀仏から大慈大悲を具えた大信心を賜るから、一切衆生は悉く仏性が有ると説かれているのです。

これを『浄土和讃』では

平等心をうるときを
 一子地となづけたり
 一子地は仏性なり
 安養にいたりてさとるべし

(現代語訳)

煩悩の火が消えて、一切のとらわれがなくなり、 自他、 善悪、 その他すべてを平等に見る 「平等心」 を得るとき、直ちに如来の大悲心が起こる。
その大悲心は、 迷いの世界の一切の衆生を一人子のように愛する心なので、『涅槃経』では 「一子地」 と名づけられた。
一子地は、仏としての性質であるから 「仏性」 ともいわれる。
一子地といわれる仏の慈悲心は、 安養の浄土に往生して身に得ることができるのである。

如来すなはち涅槃なり
 涅槃を仏性となづけたり
 凡地にしてはさとられず
 安養にいたりて証すべし

(現代語訳)

すべてのものにとらわれるべき本性がないという真理そのものが法身の如来であり、またそれが涅槃の本質である。
涅槃の本質は、仏の本性という意味で、仏性とも名づけられる。
このような涅槃の境界は、凡夫の世界ではさとることはできない。
安養の浄土に往生してさとるはずである。

信心よろこぶそのひとを
 如来とひとしとときたまふ
 大信心は仏性なり
 仏性すなはち如来なり

(現代語訳)

『華厳経』にも、信心を得てよろこぶ人は諸仏と等しいと説かれている。
それは、 信を得たそのとき、往生成仏が約束されるので、もう仏となったようなものだという意味である。
また、『涅槃経』 には、 大信心は仏性なり、 仏性は即ち如来なりとある。
如来回向の大信心は、衆生の心にはたらく仏のはたらきである。この仏のはたらきである仏性を、如来ともいわれている。この信心によって、仏のさとりを得させていただくのである。

と仰っています。

仏性のないものが大信心を賜って報土往生し仏になるのですから、一大事なのです。無間業を造ったものが地獄に堕ちるのは、当たり前のことで一大事ではありません。親鸞会の教えは、極めて低いレベルの話をしているのです。

それと、衆生の側に仏性がないことと、闡提とを混乱しているお目出たい人がいますが、親鸞聖人の御著書を読んだことがないだけのことです。


Q.領解文の「一大事の後生」は地獄に堕ちる一大事ではありませんか?

A.前回紹介した紅楳英顕師の論文をよく読まれれば、以下の領解文の意味も判られると思います。

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。
この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。
このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。

後生の一大事とは、”地獄に堕ちる一大事”、という先入観があると、全ての御文がそういった意味だとしか思えなくなりますから、難しいかも知れませんが、一度その先入観をなくして読んでみて下さい。

ちなみに領解文の「御たすけ候へとたのみ」の意味は、本願寺出版社の教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』巻末註には、

衆生が阿弥陀如来に向かっておたすけを請求する意ではなく、許諾(先方の言い分を許し承諾する)の義で、「必ずたすける」という本願招喚の勅命を領納して、仰せの通りに信順している信相をあらわす。

とあります。すべて阿弥陀仏から回向してくださる訳ですので、こちらからお願いするものはありません。
従って、「御たすけ候へとたのみ」を「地獄に堕ちるのを助けてください、お願いします」、と解釈するのは自力を捨てて他力に帰すという捨自帰他が判っていないからです。お願いするのは自力です。どれだけお願いしても、自力は自力です。

親鸞会でも捨自帰他という言葉は使いますが、実際は自力と他力が逆になっています。何でも自分で準備して、「これだけ揃えましたので、助けて下さい」と自力回向しているのが親鸞会の教義です。

阿弥陀仏の救いとは、どんなものか全く判っていない証拠です。どう見ても異安心集団ですね。

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会員との問答(五逆・謗法・闡提と必堕無間)

Q.悪凡夫の我々は、後生は無間地獄に堕ちるということではないですか?


A.そんなことを親鸞聖人は仰っていません。
講師部員の作っているあるブログで、聖者も含めて、一切衆生必堕無間だと言っている愚かな主張がありますが、その件でコメント欄でやりとりされています。しかし、何人かの方が、コメントを拒否されたと聞きました。管理人がコメントをした人に質問をしておきながら、答えを拒否するとは、実に親鸞会らしい汚い手口です。

その拒否されたコメントが
「親鸞会ポータル・ナビ」
に出ていましたので、紹介しておきます。

コメントが拒否されました。卑怯者のブログに書きたかった内容は、以下のことです。

****************************************************

読解力に問題のある人には、機の深信と罪悪観の違いも
理解できないことでしょう。
一々説明するのも面倒なので、結論を言います。

親鸞聖人は涅槃経を引文された後、五逆罪についての解釈を
されています。

一つには三乗の五逆なり。いはく、
一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。
恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて
逆とす。この逆を執ずるものは、身壊れ命終へて、
必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦を
受けん、無間業と名づくと。

阿闍世を通して、三乗の五逆罪を説明されて、
故意に親を殺すことを指して、
必定して無間地獄」「無間業と名づく」と仰っています。

大乗の五逆罪でさえ、「無間業と名づく」とは仰ってません。
それを一切衆生が無間業を造っていると考える発想が、
根本的に間違っています。

御消息には、

弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまゐらせて、
仏恩を報じまゐらせんとこそおぼしめすべきに、
念仏をとどめらるることに沙汰しなされて候ふらんこそ、
かへすがへすこころえず候ふ。あさましきことに候ふ。
ひとびとのひがざまに御こころえどもの候ふゆゑ、
あるべくもなきことどもきこえ候ふ。申すばかりなく候ふ。
ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、
その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。
よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。

と仰って、最後の2文
その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。
よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。

で、「念仏をとどめらるること」をしている親鸞会の会長・
講師部員が、地獄に堕ちて、他の念仏者は地獄に堕ちる罪で
ないことを明示されています。

更には、

一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。
されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号を
となへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。
詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を
信ぜざらんは辺地に生るべし。

とまで仰っています。

三乗の五逆罪の解説も、御消息も嘘を仰っているということ
なのでしょうか。
もっといえば、涅槃経の中でお釈迦様が阿闍世に対して、
地獄に堕ちる罪ではないと、空の思想で教えられてますが、
解からないでしょうね。

簡単な話をすれば、われわれが直接目にする人間と畜生は、
存在しているのです。
破綻した話をいつまでしているの?

機の深信を地獄一定としか考えられないようでは、とても
理解できないできないことですよね。
コメントが拒否されました|1|2010-12-08 16:35

親鸞聖人が、地獄に堕ちる人の定義を仰った根拠を挙げられての、的確なコメントです。

判りやすくいえば、五逆罪、謗法罪を造った人は無間地獄に堕ちるのですが、全ての人が五逆罪、謗法罪を造っているのではありませんから、一般的には、六道を輪廻すると教えられるのです。




Q.親鸞会では、親を邪魔者と心の中で思っただけでも、五逆罪を造っているから必堕無間と教えられていますが?

A.今のコメントにもありましたように、

一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。
恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて
逆とす。この逆を執ずるものは、身壊れ命終へて、
必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦を
受けん、無間業と名づくと。

これが五逆罪です。「ことさらに思うて」殺すのですから、心の中で思っただけでは、五逆罪ではありません。
ただし、自分の心を見つめたときに、縁がきたら親を殺してしまうような心がある、と懺悔されることは構いません。それと無間業とは違うということです。
万引きをしたいとたとえ思ったとしても、実際に万引きをしなければ、罪に問われることはありませんが、それと同じです。




Q.『口伝鈔』で「もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずといふことなし」と教えられていますように、心で思っただけでも、五逆罪になるのではないですか?

A.これは『口伝鈔』第20条にあるお言葉ですが、断章取義しているから、意味が判らなくなっているのです。長いですが全文と現代語訳も載せておきます。

一 罪は五逆・謗法生るとしりて、しかも小罪もつくるべからずといふ事。

 おなじき聖人(親鸞)の仰せとて、先師信上人(如信)の仰せにいはく、世の人つねにおもへらく、小罪なりとも罪をおそれおもひて、とどめばやとおもはば、こころにまかせてとどめられ、善根は修し行ぜんとおもはば、たくはへられて、これをもつて大益をも得、出離の方法ともなりぬべしと。この条、真宗の肝要にそむき、先哲の口授に違せり。まづ逆罪等をつくること、まつたく諸宗の掟、仏法の本意にあらず。しかれども悪業の凡夫、過去の業因にひかれてこれらの重罪を犯す、これとどめがたく伏しがたし。また小罪なりとも犯すべからずといへば、凡夫こころにまかせて、罪をばとどめえつべしときこゆ。しかれども、もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずといふことなし。しかるに小罪も犯すべからずといへば、あやまつても犯さば、往生すべからざるなりと落居するか、この条、もつとも思択すべし。これもし抑止門のこころか。抑止は釈尊の方便なり、真宗の落居は弥陀の本願にきはまる。しかれば小罪も大罪も、罪の沙汰をしたたば、とどめてこそその詮はあれ、とどめえつべくもなき凡慮をもちながら、かくのごとくいへば、弥陀の本願に帰託する機、いかでかあらん。謗法罪はまた仏法を信ずるこころのなきよりおこるものなれば、もとよりそのうつはものにあらず。もし改悔せば、生るべきものなり。しかれば、「謗法闡提回心皆往」(法事讃・上)と釈せらるる、このゆゑなり。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞聖人全集 別冊』より)

一、罪は五逆・謗法を犯しても、浄土に生れることができると思って、しかもどんな小さな罪もつくってはならない、ということ。

同じ聖人の仰せであるといって、なくなられた師、如信上人が仰せられた。

世間のひとはつねに「どんな小さな罪でも、罪を恐ろしく思って、止めようと思えば心のままに止めることができ、善のたねは修め行おうと思えば蓄えることができて、これによって、阿弥陀仏の大きな恵みをうることもでき、またこれが迷いの世界を逃れる方法ともなるだろう」と思っている。しかしこの考えは、真宗の教えの根本にそむき、また先哲の口ずからお説きになったこととも違っている。まず、五逆罪などを造ることは、まったく諸宗の掟にふれるもので、仏法の本意ではない。しかしながら、悪を犯した愚かなひとは、その過去の宿業の原因にひかれて、これらの重罪をおかすのであって、これを止めることもおさえることも困難である。
また、「小さな罪であっても犯してはならない」と言うときは、愚かなひとでも思い通りに罪を犯さないでいることができる、とも受け取られる。しかしながら、もともと罪そのものを本性とする愚かものである以上、大・小の差別なく、身に行うこと、口に言うこと、心に思うこと、すべてが罪でないものはない。ところが、「小さな罪も犯してはならない」と言うときは、過って犯しても浄土に生れることはできない、と結着するものか。この点、よくよく考えをめぐらさなければならない。これは、仮に抑止する意味であろうか。抑止は釈尊の方便である。
しかし真宗の落ち着くところは阿弥陀仏の本願以外にはない。だから、小罪も大罪も、罪の詮索がしたいならば、どんな罪も犯さないでこそそのかいがあるので、犯さないでいることもできないあさはかな智慧を持ちながら、このように言うときは、阿弥陀仏の本願に帰して、身を託するものがはたしているだろうか。謗法の罪はまた仏法を信ずる心がないことからおこるものであるから、もともと浄土に生れる素質のあるものではない。しかし悔い改めるならば、生れることができるものである。だから、「謗法や闡提も回心すれば、みな浄土に生れる」と解釈されるのはこのためである。

ここで言われていることは、
まず、過去の宿業の原因にひかれて、五逆罪などの重罪を犯してしまうので、それを止めさせることは困難であることです。『口伝鈔』第4条にある

悪業をばおそれながらすなはちおこし

宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし

もし過去にそのたねあらば、たとひ殺生罪を犯すべからず、犯さばすなはち往生をとぐべからずといましむといふとも、たねにもよほされてかならず殺罪をつくるべきなり。

と言われていることと同じです。
ですから、凡夫は小罪を造らずに生きることができないが、小罪をも犯してはならないといわれるのは釈尊の抑止の方便であることを仰っています。
さらには、たとえ五逆罪、謗法罪を犯した悪人であってでも、阿弥陀仏は漏らさずに救ってくだされる摂取門を教えられています。

五逆罪を造る人もいれば、造らない人もいることがここでも判りますし、釈尊の廃悪修善の意味についても明らかにされています。
私たち悪凡夫は、五逆罪、謗法罪という大罪までは造っていませんが、小罪は造らずには生きていけないことを懺悔して、できるだけ慎むように努めましょうということです。

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会員との問答(機の深信と罪悪観との違いについて)

Q.善人も、機の深信で地獄一定と知らされるのですか?

A.機の深信ということを誤解しています。機の深信とは自力無功と知らされることです。

機の深信について善導大師は『散善義』

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

と仰っています。もう一つ『往生礼讃』にもあります。

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

自分の力では出離できないということであって、地獄一定と知らされるのではありません。『往生礼讃』の方では、「善根薄少」ですから、善人が善をしていても、その程度の善では出離はできないということであって、地獄一定という意味にはなりません。
機の深信を地獄一定と仰った善知識方はありません。

存覚上人は『六要鈔』の中で二種深信を

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

と解説されていますが、簡単にいえば、

機の深信=自力無功
法の深信=他力全託

です。これが今日の真宗学における二種深信の基本です。

親鸞会では罪悪観と機の深信の区別が全くついていませんので、こんな基本的な誤りを犯すのです。




Q.六道を出離した聖者はどうですか?

A.基本は同じです。聖者であっても、仏ではありません。聖者が地獄に堕ちることはありませんので、もちろん地獄一定などと知らされることはある筈がありません。

聖者ではあっても、自力では真実の報土に往生することはできませんので、

機の深信=自力無功

です。このことを山辺習學・赤沼智善著の『教行信證講義』で、判りやすく解説してあります。

 弥陀を信ずると云ふことが、単に、一心帰命と発表せられた場合には、起らなかった問題が、この機の深信の発表によって起った。夫は此の機の深信が、凡夫のみならず聖者にも通ずるのであるかと云ふ問題である。これを凡聖通局論と称す。
 この問題は、見方によりては、甚だ有益にして、興味のあるものである。即ち言葉を換へて云へば、他力宗教の於ける聖者の意義とでも云ふべきである。所が一方他力教それ自身に於ても、龍樹、天親の二祖を菩薩と称して聖者の部類に入れてあり、そして二祖の著書の上にも、この機の深信が明示されていないために、この問題は、内外の聖者に対する興味あるものとなったのである。
 従って問題の起因は、甚だ簡単である。即ち聖者の意義である。自力の修道によりて得たる證りは、果して真正なる證りであるかと云ふことである。所詮聖者と称せらるる人々は、卓越した能力を以つて、凡人以上の高尚なる精神生活をしてゐても、其中心に迷ひの根の断ち切れてをらぬかどうかと云ふのである。聖道の教へにありては、盛んに衆生も佛も同一であると談じて、道を修めてをるけれども、或は天に向ひて、バベルの塔を築いてゐるやうな愚を演じてをるのではなかろうか。素より漸次に努力すれば、凡人以上の高い立場の上に立つことが出来るけれども、上れば上るほど、哀心は益々絶対に対して取りつくことの出来ぬ悩みがあるのではないか。若しその悩みを感ぜずして、自己の現在の立場を楽しみ、夫を自負し、夫を固執するならば、知らず知らず驕慢の煩悩に捕へられてゐると云はねばならぬ。強く云へば、人間として生れた以上は、純善無漏の聖者と云はるる人は一人もなく、皆、中心には迷ひの根切れのしない所がありはせぬかと云ふのである。龍樹、天親二祖の如きも、善導大師の如く、明瞭に機相を打ち出されてはないけれども、一心に如来に乗託せられたことに依りて見れば、或は罪悪の根低たる自我の真相に触れて、自力無功を自覚して、他力に帰せられたことかも知れぬ。聖者と凡夫の間には、境遇や思想の相違から、等しく自力無功を自覚するにも、其感味は種々に異ることであらうが、其自己の真相に触れる點に至っては、同一であるかも知れぬ。或は聖者の方が、自力の高い山上から叩き落ちる點に於て、一層明瞭に此機相を自覚するかも知れぬ。我聖人の胸中には、御自身の實験上から、此凡聖是一の思想をもつてをられたことは明らかであるように思はれる。

この後も解説は続きますが、要するに自力無功ということが述べられているのです。

『高僧和讃』善導讃には

願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり

(現代語訳)

本願力で完成した浄土には、
自力の心や修行では至れないので、
大乗・小乗の聖人がみなともに、
阿弥陀如来の弘き誓いにおまかせするのである。

とあります。聖者の位にいる方々も、自力では報土に往生することができないので、報土に至るには他力18願に帰さなければなりません。

この次の御和讃で、機の深信について仰っています。

煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ

(現代語訳)

煩悩まみれであると信じて、
本願の済いにまかせるならば、
必ず迷いの身を捨てて、
さとりの自由を得させていただける。

煩悩具足と信知して」が機の深信です。「大小聖人」も「煩悩具足と信知して」ですから、ここは我々底下の凡夫と共通しているところです。

それが親鸞会でも有名な『教行信証』信巻

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。

です。
衆生には、仏に成れるような因である清浄心、真実心がないことを最初に仰っています。これを「機無」と言います。善が一切できないではなく、仏に成れるような善ができないです。
この「機無」を本として法蔵菩薩が衆生のために本願を建てて下され、清浄心、真実心をもって行を行じられ、名号を成就なされたことを仰ったのが第二・第三文で、「円成」と言います。
第四文は、不可思議功徳の名号を阿弥陀仏が衆生に向って等しく与えて下されることを仰ったもので、「回施」と言われます。
最後の二文は、他力回向の真実心を衆生は賜わるので、自力の一切混じるものではないことを仰っています。

悪人は悪しかできないことで六道から出離できず、聖者は真実の善ができないから真実の報土に往生できないことが知らされるのです。

これだけはっきり教えられているにも関わらず、機の深信を地獄一定と言い続けている哀れな人達が、高森会長と講師部員です。

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会員との問答(聖道門の19願に対する見解・宿善)

Q.聖道門と浄土門の違いについて詳しく教えてもらえますか。

A.聖道門では、阿弥陀仏の本願の中で19願を最も尊重します。

聖道門は、此土入聖といって、諸行によってこの世で聖者の位に入り、成仏を目指すものです。19願は、聖道門と同じ行を阿弥陀仏に回向することで、往生して成仏するというものです。ですから、聖道門の人にとりましては、19願は聖道門に近いものと考えてきました。

ところが、法然上人は往生のためには念仏1つと教えられ、諸善を捨てよ、18願だけが阿弥陀仏が選び取られた本意の願であると仰ったので、聖道門から激しい非難があったのです。
判りやすく言えば念仏弾圧の背景には、法然上人が、聖道門の尊重する19願と諸善とを排斥したことがあったのです。

承元の法難の直接の切っ掛けとなった『興福寺奏状』には、

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

とありまして、阿弥陀仏の本願は48あるのに、18願だけというのはおかしいと言っているのです。

また法然上人が亡くなられた後、明恵上人高弁が『摧邪輪』を著して、

解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし。これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

と具体的に19願を出しています。

一方18願、念仏に対しては、『興福寺奏状』に

善導一期の行ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。

とあり、また『摧邪輪』には、

往生宗所引の念仏の善の証文には称名の外に無量の余行あり、一一出すに邊あらず、若し彼を撥すれば念仏の深義また成ずべからず、若し汝の言う所の如く一文を守らば称名行は是れ下劣根機の為に説く所也。
(中略)
称名一行は下根の一類の為に授ずくる所也。汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎。無礼之至り称計す可からず、此の文証を引くに依りて称名行を執らずに非ず、唯是汝之一門、称名を以て無上殊勝の行と為し、余行を撥して下劣と為す。

とあるように、18願、念仏は悪人のための方便の願であるのに、それを万人にまで適応させるとは無礼ではないか、とまで激しく攻撃しているのです。

要するに、18願だけ、念仏一行を説かれた法然上人は間違っている、と非難している訳です。これは真実と方便が反対で、善人悪人の意味の違いはありますが、高森会長が本願寺を非難している論理と同じです。

逆に言えば、それほど法然上人は18願1つ、念仏だけを強調された方であったということです。実際に法然上人は19願については、言及さえほとんどありません。

この『摧邪輪』に反論されたのが、親鸞聖人の『教行信証』です。もちろん、親鸞聖人は、法然上人が18願念仏往生1つと仰ったことの正しさを、膨大な経論釈を引かれて証明されたのです。浄土真宗の常識中の常識です。

たとえ聖教を読んだことがなくても、日本の浄土仏教の歴史を少しでも学んでいれば、高森会長のような主張が、浄土門から大きく外れた、それどころか破壊するものであることがお判り頂けるのではないでしょうか。

 


Q.19願に「十方衆生」とあるから、19願は我々に関係がない筈がない、と親鸞会では教えていますが?

A.完全なトリックですね。

聖道門の人は、18願に「十方衆生」とあっても、自分たちが18願に関係あるとは思っていません。18願の「十方衆生」とは、下劣根機、つまり悪人のことだと思っています。19願の「十方衆生」とは、上根機、つまり善人のことだと思っています。

一方で、浄土門の善知識方は、19願に「十方衆生」とあるから、全ての人に関係があることだとは言われていません。
先に述べたように、法然上人は19願についてほとんど言及さえされていませんでしたので、聖道門から非難されたくらいです。蓮如上人の『御文章』を読んでも、19願について書かれたところはありません。

高森会長のたとえを使えば、ある国の大統領選挙に立候補した人が、「私が大統領に当選したら、所得税を撤廃します」と公約したとします。国民全員と約束したのですが、国民全員に直接関係があるのではありません。所得税を払っていない人には、関係のないことです。
これが、「国民全員に、定額給付金を出します」となれば、関係のない人はありません。国民全員との約束ではあっても、約束の内容によって、国民全員に関係があるかないかが分れるのです。

高森会長が、人集め金集めのために19願を利用する口実として、「十方衆生」を持ち出しただけのことです。

 


Q.三願転入は親鸞聖人の教えの根基といわれていますが?

A.高森会長が勝手に言っているだけです。高森会長は、親鸞会の35周年大会の際に、”三願転入の教え”を突如言い始めて、その直後から、「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」と言い出しました。つまり、そんな大事な「親鸞聖人の教えの根基」を今まで話をしてこなかったのです。いわば、秘密の法門です。

元々は大沼法竜師が、『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』という著書の中で、
大沼は三願転入を根基として布教して居るのだ
と書かれたのが最初です。大沼師は、本願寺の無帰命安心を批判するために、信前信後のあることを親鸞聖人の三願転入の文で説明しただけで、高森会長の言っている意味で、三願転入を使っていた訳ではありません。

 


Q.では、親鸞聖人には19願についての言及がありますが、どのようなものですか?

A.親鸞聖人も、19願の「十方衆生」については、聖道門の人と同じで、上根機と解釈されています。
それは、『大無量寿経』の異訳経からもいえますが、まとめると以下になります。

 

 大無量寿経19願の十方衆生
平等覚経諸佛國人民有作菩薩道者(諸々の仏国の菩薩道をなす者)
大阿弥陀経八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道(諸々の仏国の菩薩道をなす善男人善女人)
尊号真像銘文「唯除五逆誹謗正法」がないから、五逆・謗法の者は除かれている
化土巻・要門釈半満・権実の法門(聖道門)を断念した人
西方指南抄諸行の人
浄土和讃定散諸機

 

要するに、19願の「十方衆生」とは善人のことであるというのが、聖道門、浄土門共に共通した見解なのです。
従って、高森会長の解釈は、浄土門でないことはもちろんですが、聖道門とも違っているのです。

18願は悪人正機
19願は善人正機

ということです。このことを法然上人は判りやすく教えておられます。
『勅伝』に

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

とあります。善人に勧められた教えと、悪人に勧められた教えを区別されていることを知った上で、我々最下の凡夫は、悪人に勧められた教えを聞いていくことで、信心決定し、往生ができるのです。
高森会長の教えは、まさしく「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり」なのです。
まともに真宗の先生について仏教の勉強をしたことがないから、阿弥陀仏の本願を独自のデタラメ解釈に陥り、浄土門でも聖道門でもなくなった新興宗教と化しているのです。

 


Q.そうなると、善人には18願は関係ないということですか?

A.この疑問が、念仏弾圧の原因になったことは、先に説明した通りです。法然上人は、18願1つを説かれたのですが、聖道門の人たちの考えでは、18願は悪人に対してのことで、聖道門の修行をしている善人には19願や聖道門を勧めるのが筋ではないのか、という非難です。尤もな理屈です。
懐感禅師は『群疑論』に

『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

と書かれ、それを源信僧都が『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

と言い換えられています。それを親鸞聖人はそのまま承け継がれて『高僧和讃』

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と仰っているのですから、極重の悪人には18願しかないことは間違いないことですが、善人には関係ないように思うのもある意味しかたのないことです。

確かに、善人には聖道門や19願といった法門があるのですが、最終的には全ての人が18願に帰依しなければ真実の報土に往生できないと、聖道門からの非難に対して反論されたのが親鸞聖人の『教行信証』なのです。

化土巻・要門釈には、19願では化土往生しかできないことを仰った後、結論として

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

(現代語訳)

また 観無量寿経に説かれる定善・散善を修めるものについて、 きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。 五濁の世のものは、 出家のものも在家のものも、 よく自分の能力を考えよということである。 よく知るがよい。

と仰ったお言葉に、親鸞聖人の19願に対するお考えが集約されているでしょう。
『正像末和讃』にある

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ

と共通するものです。龍樹菩薩や天親菩薩のような方でさえも、18願に帰依されたのだから、自分の能力をよく知って、18願他力念仏を信じて下さい、というお言葉です。

このようなことを踏まえられて三願転入の文を読まれれば、三願転入が我々に関係があるのかないのかが、自ずとお判り頂けるでしょう。

もちろん聖道門自体に対しても

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の在世時代と正法のためのものであって、像法や末法や法滅の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊在世の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。

と仰っています。


Q.親鸞会では、過去世からたくさん善をしてきた宿善の厚い人が早く救われると教えていますが、これはどうですか?

A.間違いです。

それは善人が早く救われ、悪人が遅く救われるということを言っているのと同じです。もしそうであれば、今生で聖道門の修行を真面目にしている人は、過去世から善をしてきた善人ですから、直ちに18願で救われてもよい筈ですが、聖道門の修行をしている人は、18願を悪人のためのものと見下していますので、無宿善の機といえます。

一方で、『観無量寿経』には、五逆罪の下品下生のものが、平生に悪ばかりし続けてきて、仏法を聞くこともないのに、臨終に善知識に遇って、臨終の苦しみの中でやっとやっと念仏を称えて往生すると説かれています。
このことを『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

とありますし、『唯信鈔文意』でも解説をなされています。

「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。

「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』に「汝若不能念」と説かれているのは、五逆・十悪の罪を犯した人や、私利私欲のために教えを説いたものが、病の苦しみに阻まれて、心に阿弥陀仏を念じることができなければ、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。続いて「応称無量寿仏」と説かれているのは、この意味である。「応称」は、称えよということである。

『観無量寿経』に「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」と説かれているのは、五逆の罪を犯した人はその身に八十億劫の十倍の罪をもつことになるので、十回「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、このようにいわれているのである。「十念」というのは、ただ口に念仏を十回称えよというのである。このようなわけで、選択本願に「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と誓われていると『往生礼讃』にいわれているのは、阿弥陀仏の本願は、念仏するのがたとえ十回ほどであっても、みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、「十声」といわれているのである。「念」と「声」とは同じ意味であると心得なさいというのである。「念」を離れた「声」はなく、「声」を離れた「念」はないということである。

因果の道理を元に考えたならば、過去世の行いが現在世に影響するのですから、下品下生のものは、過去世から無善で、悪ばかり造ってきたことになり、親鸞会でいう無宿善のものとなる筈です。これでは無宿善のものが、往生することになり、矛盾でしかありません。

 

 

 


Q.ということは、今生で善を好んでいるかどうかという有様をもって、宿善の厚い人が早く救われ、宿善の薄い人が遅く救われるという親鸞会の宿善論はおかしいということですか?

A.全くその通りです。

親鸞会でも教えている実例をだせば、耳四郎は強盗、殺人、放火を平気でしてきた人でしたが、法然上人の御法話に盗みに忍び込んで、そこで法然上人の話をたまたま聞いて救われたとされています。ここでも矛盾がありますので、最近は耳四郎の話はなくなりました。

親鸞会の発想は、聖道門と同じです。天台大師智顗が著したとされる『浄土十疑論』では、臨終に善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げる五逆罪を犯した者は、宿世に善を行ってきた宿善業の強い人であったので往生できるのだ、と『観無量寿経』の下品下生を解釈しています。今生では、悪縁によって極悪人になってはいますが、元々は善人であるという苦しい解釈です。

しかし、浄土門の善知識方で、そのように解釈された方はありません。過去世からの極悪人がそのまま救われるのが18願です。

『口伝鈔』では、

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし

と教えています。過去現在の善悪は、往生とは関係ないのです。更には、

たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。

とまで仰っています。

一方、親鸞会では

今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自己の修した善をふりかえり、宿善と喜ぶことになります。
獲信と、よい関係にある、修善をすすめることは間違いでしょうか?

と教えており、浄土門とは相容れないのです。

聖道門と浄土門の違いは、善人正機と悪人正機の差です。親鸞会の宿善論は、善人正機の聖道門の発想です。

 

 

 


Q.そういえば、高森会長は盗作・浄財の私的流用を何十年もし続けていますし、講師部員も窃盗などの犯罪を行ったものがいると噂で聞いています。宿善が誰よりも厚い筈の高森会長と講師部員が悪を好む姿は、宿善論の破綻を教えてくれているような‥‥

A.親鸞会の宿善論は、完全に破綻しています。

会長や講師部員は、18願の救いは悪人正機なのだから善をしなくてもいいし、善をしていると嘘をついても構わないと思っているのではないですかね。
耳四郎は、信後も泥棒は止められなかったそうですから、会長や講師部員は耳四郎の真似をしているつもりかも知れません。しかし、耳四郎の場合は、泥棒を止めようと努力して止められなかったので、昔よりも益々嘘をつき通そうとする会長とは違います。

会長の目的は、会員に善を勧めて、献金と人集めを促して、私欲を満たすこととしか言えません。
三願転入論、宿善論、方便論、すべてが同じ理由で教えが故意にねじ曲げられています。

ちなみに、18願の救いと、善の有無を関係付ける心を自力の心というのです。
自力の心を捨てよ、ということは、親鸞会の三願転入論、宿善論、方便論を捨てよということです。親鸞会の間違った考え方を捨てない限り、他力に帰すことはありません。

それが『唯信鈔文意』

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず

(現代語訳)

自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。

です。経典にも、善知識方の御著書にも書かれてなく、そんな解釈を誰もしていないことを

これこそが誰も明らかにできなかった親鸞聖人の真意だ

などと言っていること自体が、「みづからが身をよしとおもふこころ」の典型です。

会員との問答(19願・諸善・方便)

Q.阿弥陀仏は19願をなぜ建てられたのですか?

A.聖道門の人を浄土門に誘引するためです。
『教行信証』化土巻・要門釈の最初に

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰っています。
前半は

外道の人が半字教(小乗仏教)、満字教(大乗仏教)、権教(四車家の立場から聖道門内の三乗)、実教(四車家の立場から聖道門内の一乗)、つまり聖道門に入るといえども、真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。

です。外道から聖道門に入っても、聖道門の教えを実践していける者が甚だ少ないことを仰ったお言葉です。

それを承けられて釈尊は、福徳蔵(観経の定散二善)を説かれた、と仰っています。聖道門の修行に堪えれない人のために観経を説かれたということです。その御心は阿弥陀仏の19願にあったというのです。

その元は、法然上人の『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)に

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とあることを受け継がれたものと言えるでしょう。
『浄土和讃』で19願の心を解説なされた

臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり

に仰っておられる通りです。「定散諸機」とは、親鸞会で教えているような「定散二善」の意味ではありません。定善の機、散善の機ということです。
『正信偈』の「矜哀定散与逆悪」『正信偈大意』の「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。」とあるように、「定散の機」と「五逆の機」は別であると仰っています。



Q.19願は十方衆生にとって必要な願ではないのでないか?

A.上記の通り、19願は善人にとっては必要な人もありますが、悪人には必要ありません。

『教行信証』行巻には『往生要集』をそのまま引用されて

『往生要集』にいはく、「『双巻経』の三輩の業、浅深ありといへども、しかるに通じてみな〈一向専念無量寿仏〉といへり。三つに四十八願のなかに、念仏門において別して一つの願を発してのたまはく、〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉と。四つに『観経』には〈極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得〉」と。

と仰り、また『高僧和讃』源信讃にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人は仰っています。

もちろん『正信偈』には、

極重悪人唯称仏

と書いておられます。

以上を承けられて蓮如上人は『正信偈大意』に

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。「極重の悪人」には、他力念仏以外の方便はないのです。

逆の言い方をすれば、善人には他の方便があるのです。他の方便とは、聖道門、19願、20願になります。



Q.しかし、釈尊は韋提希に善を勧められたのではないのですか?

A.勧められていません。
『観無量寿経』に

ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。

とあり、『玄義分』にも

問ひていはく、定散二善はたれの致請による。
答へていはく、定善の一門は韋提の致請にして、散善の一門はこれ仏の自説なり。

とあります。韋提希夫人が、自分は釈尊のお力で浄土を見ることができたけれども、仏滅後の衆生はどうすれば極楽浄土を見ることができるのですか、と問われて釈尊が説かれたのが定善です。また釈尊が定善を韋提希夫人に説かれたことと、定善を韋提希夫人にすすめられたこととの違いは御理解いただけますか。実際に、韋提希夫人は定善を実践しようともしていません。

参考までに『観無量寿経』の下品下生を見ると

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。

とあります。下品上生、下品中生も含めて、下輩には善の勧めはありません。もし韋提希に善を勧められているとすれば、韋提希は定善の機か上輩か中輩ということになります。

先ほどの問答でも書きましたように、「他の方便なし」なのです。



Q.釈尊が善を教えられているのは、勧められるためではないのですか?

A.基本は善のできる善人に説かれています。しかし、善のできない悪人には、往生のために善を勧められていません。できないことを勧められること自体が矛盾しています。
このことを法然上人は『選択本願念仏集』に

わたくしに問ひていはく、上輩の文のなかに、念仏のほかにまた捨家棄欲等の余行あり。中輩の文のなかに、また起立塔像等の余行あり。下輩の文のなかに、また菩提心等の余行あり。なんがゆゑぞただ念仏往生といふや。
答へていはく、善導和尚の『観念法門』にいはく、「またこの『経』(大経)の下巻の初めにのたまはく、〈仏(釈尊)、一切衆生の根性の不同を説きたまふに、上・中・下あり。
その根性に随ひて、仏、みなもつぱら無量寿仏の名を念ぜよと勧めたまふ。その人命終らんと欲する時、仏(阿弥陀仏)、聖衆とみづから来りて迎接したまひて、ことごとく往生を得しめたまふ〉」と。この釈の意によるに、三輩ともに念仏往生といふ。

問ひていはく、この釈いまだ前の難を遮せず。なんぞ余行を棄ててただ念仏といふや。
答へていはく、これに三の意あり。一には諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。

(中略)

一に、諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」といふ。

(現代語訳)

わたくしに問うていう。上輩の門の中に、念仏のほかにまた家を捨て欲を離れるなどの余行があり、中輩の文の中にもまた塔をたて仏像をつくるなどの余行があり、下輩の文の中にもまた菩提心などの余行がある。それにどういうわけでただ念仏往生というのか。
答えていう。善導和尚の《観念法門》に、
また、この経 (大経) の下巻の初めにいわれている。「釈迦仏が説かれる。『一切衆生の機根はまちまちで、上・中・下の三種がある。その機根に随って、わたしはみな無量寿仏のみ名をもっぱら称えることを勧める。その人が命終わろうとするときに、阿弥陀仏は聖衆と共にみずから来て迎えとり、ことごとく往生させてくださる。』」
といわれてある。この解釈の意によって三輩共に念仏往生というのである。

問うていう。この解釈ではまだ前の疑難をしりぞけていない。どうして余行を棄ててただ念仏というのか。
答えていう。これに三つの意がある。一つには諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説く。

(中略)

一つに、諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説くというのは、善導の《観経疏》の中に、
《観経》の初めから、定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども、阿弥陀仏の本願に望めてみると、世尊の思し召しは、人々をして一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあるのである。
といわれた釈の意に準じて、しばらくこれを解釈すると、上輩の中に菩提心などの余行を説かれているけれども、上の本願に望めてみると、世尊の思し召しはただ衆生をして専ら阿弥陀仏の名号を称えさせるにある。ところが、本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。

と仰り、また以下のことも仰っています。

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。


(現代語訳)

また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。もし定散の諸行がなかったならば、どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。例えば《法華経》が、それ以前の説、同時の説、それ以後の説の三説の上に秀でているようなものである。もし三説がなかったならば、どうして《法華経》が第一に秀でていることを顕わされようか。ゆえに今、定散の諸行はこれを廃するために説き、念仏三昧はそれを立てるために説かれるのである。

このように法然上人は、念仏が諸善と比較して超え勝れていることを明らかにするために釈尊が諸善を説かれていて、結果として諸善を廃して、念仏を立てるために諸善を説かれているのだと仰っています。
また『教行信証』行巻に念仏諸善比校対論として

勧無勧対

(現代語訳)

念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない

と親鸞聖人は仰っています。諸仏は我々に往生のための諸善を勧められていないとまで仰っています。
それと先ほどの『往生要集』の

極重の悪人は、他の方便なし

が浄土仏教の大原則です。「極重の悪人」は善のできないものと見抜いて阿弥陀仏は18願を建てられたのに、「極重の悪人」に善を勧められる道理がありません。

今溺れて苦しんでいる人を救うのが、阿弥陀仏の本心です。

『玄義分』に

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。 ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。
また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。

とある通りです。溺れて苦しんでいる人に、あれをしろ、これをしろと指示することは意味がありません。そんな無慈悲なことをいうのは、仏様ではありません。善ができずに苦しんでいる人に、善をせよと勧めることは、溺れて苦しんでいる人に、泳げといっているようなものです。溺れ苦しんでいる人を助けるには、水からそのまま引き上げることです。善のできない人を助けるには、善と無関係な救いでなければなりません。

一方で、善のできる善人には、聖道門、19願、定散二善を説かれていますが、その善人も、18願によらなければ真実の報土に往生することができませんので、そのことを龍樹菩薩、天親菩薩を例にだされて『正像末和讃』に

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ

と仰っているのです。



Q.親鸞会では方便よりしか真実に入れないと教えていますが?

A.方便の意味が根本的に間違っています。
方便といっても、善巧方便と権仮方便とがあります。教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註にあるものが判りやすいと思います。

 方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。
 権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。
 親鸞聖人は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向の行信によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎して方便化土に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。

これが理解できれば、『蓮如上人御一代記聞書』の以下のことも判ると思います。

一 蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。

少し解説しておきますと、「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の「方便」は「廃立の義」ですから、捨てるべき権仮方便のことです。方便を説くことで真実とはどういうことかを表されたので、方便を廃して、真実を立てよということです。最後の文は文字通り、「善巧方便」のことです。「真実の信」は、「善巧方便によりて」うるのであって、「権仮方便によりて」ではありません。
権仮方便は捨てるべきものなのです。
判りやすくいえば、権仮方便が真実と思い込んでいる人にとっては、それが権仮方便となるのです。権仮方便が捨てものと理解できて信じている人には、必要ありません。

 

 

Q.未信の人は、真実も方便も判らないのではないか?

A.貴方は、18願が真実で、聖道門、19願、20願が方便と知って理解し、そして信じているではないですか。
聖道門の人は、18願が真実だと浄土門で教えていることは知っていますが、18願が真実とは全く思っていません。聖道門こそが真実であり、18願は下劣の者を聖道門に導くための方便と思っています。
19願での往生を願っている人は、19願こそが真実であり、18願はやはり方便と思っています。
ところが貴方は、18願が真実であること、聖道門、19願、20願が方便であることを知って理解し、信じています。聖道門の人、19願での往生を願っている人と明らかに違います。未信だからといって、外道を信じている人、聖道門の人、19願での往生を願っている人も同じだという発想が、親鸞会のトリックです。

蓮如上人が『御文章』3帖目第12通で仰っている

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

宿善の機無宿善の機とは、まさにこのことです。18願が真実だと信じている未信の人が宿善の機であり、18願が真実とは思えずに、外道を信じている人、聖道門の人、19願での往生を願っている人のことを無宿善の機というのです。
18願が真実だと信じている未信の宿善の機に対して、親鸞聖人の教えを説きなさい。
18願が真実とは思えずに、外道を信じている人、聖道門の人、19願での往生を願っている無宿善の機には、親鸞聖人の教えを説いてはいけない、と蓮如上人は仰っているのです。明らかに区別されています。
貴方は
宿善の機です。

ですから、宿善の機には18願1つでよいのです。蓮如上人は19願について全く説かれていません。

 

 

Q.では宿善の機には方便はないのですか?

A.それが善巧方便です。
『教行信証』信巻・別序に

真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。

と仰っていまして、「権仮より顕彰せり」ではありません。善巧方便とは、真実の方便であり、随自意の法門です。
この善巧方便を具体的に描かれたのが、『教行信証』信巻末にある阿闍世の物語です。一見すれば、略されてもよいように思われる部分までも、事細かに引文されています。実に『教行信証』全体の1割も費やされて、親鸞聖人が伝えられたかったことは、衆生が善巧方便によって導かれることと、五逆罪を犯した極悪人をも洩らさず、普く救われることです。

『御文章』4帖目第3通にも

末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。

とある通りです。 これが善巧方便です。

 

Q.つまり、高森会長は方便の意味さえも理解していないということですか?

A.半分は当っているでしょう。しかし、半分は権仮方便が不要と思いながら、私利私欲のために権仮方便の19願諸善を利用している確信犯でもあります。

その証拠は、親鸞会結成の年である昭和33年に発行された高森顕徹著『顕正』にあります。

 然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
 勿論、機には未熟の者もあるから、いくら信心正因、称名報恩、信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧めても、直にその通りになれない人もあろうけれども、それは機の過失であって法門は常に信因称報の仏意を説き示さなければならない。
 喩えば、虎の手本をみて虎を描こうと思っても、どうしても最初の間は虎ではなく猫の絵になってしまうが、たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに本当の虎の絵がかけるようになるように、手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或は定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
 或る画家が弟子に虎を描かす為に虎の手本を渡した。ところが弟子のかいたものは、どうみても虎ではなく、猫の絵であった。画家は再三描かせてみたが、やはり猫しか書けなかった。そこで師匠は虎をかゝせることをあきらめて猫の手本をわたした。その弟子は一生猫より描くことが出来なくなったという。
 未熟な人に合せて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて信心を得る方法には称名せよなどと教えればあたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。故に教家は常に虎の説法をしなければならないのである。

とまで書いています。19願、20願を説く布教師のことを激しく非難しているのです。高森会長が親鸞会を作った時は、18願1つを説かなければならないと断言していたのです。
それが、会の運営資金にも苦労し、華光会、本願寺、創価学会に対抗するための組織拡大に心を奪われて、間もなく法を曲げ始めたのでしょう。

宿善の意味

聖道門の学僧にとりましては、『観無量寿経』に五逆罪を犯した下品下生の者が、臨終に十回の念仏を称えたことで往生できると説かれてあることが、信じがたいものであったと思います。

『観無量寿経』の下品下生

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

それで聖道門では様々に強引な解釈がなされました。五品の位までしか到達できなかった天台大師智顗も同様です。智顗が著したとされる『浄土十疑論』には、

能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

とあります。臨終に善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げる五逆罪を犯した者は、宿世に善を行ってきた宿善業の強い人であったので、往生できるのだと解釈したのです。ここに宿善という言葉が見られますが、単純に宿世の善根という意味で使われています。

これを承けて『往生要集』には

『華厳』の偈に、経を聞くものの、転生の時の益を説きてのたまふがごとし。
 「もし人、聞くに堪任せるものは、大海および、
 劫尽の火のなかにありといへども、かならずこの経を聞くことを得ん」と。
 「大海」とは、これ竜界なり。
釈していはく、「余の業によるがゆゑにかの難処に生る。 前の信によるがゆゑにこの根器を成ぜり」と。
『華厳』を信ずるもの、すでにかくのごとし。 念仏を信ずるもの、あにこの益なからんや。かの一生に悪業を作りて、臨終に善友に遇ひて、わづかに十たび仏を念じて、すなはち往生することを得。 かくのごとき等の類は、多くこれ前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜるものの、宿善うちに熟していま開発するのみ。 ゆゑに『十疑』にいはく、「臨終に善知識に遇ひて十念成就するものは、ならびにこれ宿善強くして、善知識を得て十念成就するなり」と。

(現代語訳)

《華厳経》の偈に、経を聞いた者が、生を変えた時の利益を説いていうとおりである。

もし経を聞くに堪えたものがあれば 大海に在っても
劫末の大火の中に在っても 必ずこの経を聞くことができる
「大海」というのは、竜のいる海である。

《華厳経》の釈にいわれている。その他の業に由るからかの難処に生まれ、前の信に由るから、この《華厳経》を聞きうる根機と成るのである。
《華厳経》を信ずる者であっても、すでにこのような利益がある。念仏を信ずる者に、どうして、この利益のないことがあろうか。かの一生涯の悪業を作ったものでも、臨終に善知識に遇い、わずかに十たび念仏して、ただちに往生することができる。このような人たちは、多くは前世に浄土を欣い求めて、かの阿弥陀仏を念じていた者で、その宿善が内に熟して、いま開発したのに外ならぬ。
それ故に《十疑論》にいわれている。
臨終に、善知識に遇うて、十念が成就する者は、みな宿善が強いので、始めて善知識に遇うことができて、十念が成就するのである。

と源信僧都は宿善の解説をなされています。『浄土十疑論』を引用しながら、『華厳経』を信じる人に倣って意味を変えられ、宿善を

前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜる

と定義されています。

これは『大無量寿経』

もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。

とあることや『定善義』

この人は過去にすでにかつてこの法を修習して、いまかさねて聞くことを得てすなはち歓喜を生じ、正念に修行してかならず生ずることを得

と説かれているのも同様のことです。

更にこれらを承けられて聖覚法印は『唯信鈔』

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

(現代語訳 「21世紀の浄土真宗を考える会」宿善の厚薄 唯信鈔の言葉より)

次にまたある人が言うには「五逆罪を犯したような罪の深いものでも、10回の念仏で浄土に往生するというのは宿善(過去世の善根)によるものだ。私の場合、過去世に善根を積んできたとは思えない。どうして往生することができましょうか」と。
これもまた愚かなはからいによって、いたずらに阿弥陀仏の本願を疑っているのです。それはどうしてかというと、過去世の善根の積み重ねが多かった人は、今生においても善根を修め悪業を造ることを恐れますし、過去世に善根を積み重ねることが少なかった人は、今生においても悪を好み善をしようとしません。その人の過去世に善をしてきたかどうかは、今生のありさまから、明らかに知られるのです。我が身を振り返ると、善い心がありません。宿善が少ないということが思い知らされます。しかし、そんな罪の深い者ですが五逆の重罪は犯していませんし、善根が少ないといっても、阿弥陀仏の本願を信じさせて頂いています。五逆の者の10回の念仏でさえも宿善のおかげです。ましてや一生涯念仏を称えさせて頂けるのは宿善(阿弥陀仏の方からのお手廻し)のおかげであり、有り難いことです。五逆の重罪を犯した者が10回の念仏を称えるのが宿善によるとし、私たちが念仏を称えるのは宿善が浅いと思うのはどういう訳でしょうか。浅薄な分別心が往生成仏の妨げになるというのはこういう考えのことでしょう。

と書かれています。聖道門の宿善の定義を

宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。

とされた上で、浄土門の宿善の定義は

われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。

とされています。聖道門での定義とは、明らかに異なっています。五逆の者は、聖道門では「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」の「宿善すくなきもの」になりますが、浄土門では「逆者の十念すら宿善によるなり」の人ですし、五逆罪を犯していない聖道門でいうところの「宿善すくなし」の念仏者は、浄土門では「宿善あさしとおもふべき」ではないのです。
親鸞会で教えている宿善とは、明らかに聖道門の宿善です。浄土門の宿善ではありません。

親鸞聖人は宿善という言葉をどこにも使っておられませんが、覚如上人、存覚上人、蓮如上人は宿善という言葉を、『往生要集』『唯信鈔』に倣って使われています。

『改邪鈔』には、

かつはまた宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり。宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれなれば、むつびらるるもとほざかるも、かつは知識の瑕瑾もあらはれしられぬべし。所化の運否、宿善の有無も、もつとも能・所ともに恥づべきものをや

宿善のある機」は善知識に遇えるし、「宿善なき機」は善知識から遠ざかって悪知識に近付くと教えられています。
更には存覚上人の『浄土見聞集』には

この法を信ぜずはこれ無宿善のひとなり。
(中略)
おぼろげの縁にては、たやすくききうべからず。もしききえてよろこぶこころあらば、これ宿善のひとなり。善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふごころのなきはこれすなはち摂取の心光行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。
光明は智慧なり。この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり。仏智よりすすめられたてまりてくちに名号はとなへらるるなり。

とあります。つまり、宿善とは、善知識に遇えるかどうか、正しい教えを聞けるかどうか、信じられるかどうかの問題なのです。
この『浄土見聞集』を承けられて蓮如上人は『御文章』2帖目第11通

そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。

と五重の義を立てられましたが、宿善がなければ善知識に遇えないという、往生できるかどうかの最初の条件が、宿善ということです。善知識に遇わなければ、阿弥陀仏の18願が聞けませんので、宿善が重要なのです。善知識に遇った後に宿善を厚くするとかいうような話ではありません。

以上のことを踏まえられて仰ったのが、『御文章』3帖目第12通

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

です。「宿善開発の機はおのづから信を決定すべし」ですから、善知識から阿弥陀仏の18願を聞ける「宿善の機」か聞けない「無宿善の機」かが問題になります。それで「いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり」なのです。
この御文を、

宿善の薄い人は宿善を厚くするように勧められた根拠

と理解しているのは、読解力や知能に問題があり、そのように教えている人は間違いなく悪知識です。
未だにその悪知識から離れることのできない人は、

宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべき

です。往生を願わず、サークル活動で満足しているような現会員は、残念ながら「宿善なき機」といわざるを得ません。

往生と諸善とは、宿善という言葉で繋がっていると考えているのが、親鸞会です。その間違いを、『口伝鈔』第2章では

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

と教えられています。

宿善あつきもの浄土教を信受する機
宿福なきもの信受せざる機

です。聖道門を信じている人は、我々よりも遥かに宿世の善根は厚い人ですが、「浄土教を信受する」ことができない「信受せざる機」、「宿福なきもの」です。宿世の善根のない下品下生の逆謗の機でも、善知識に遇って「浄土教を信受する」人は、「宿善あつきもの」になります。宿善を諸善で説明する親鸞会ではとても理解できない内容でしょう。
つまり宿善とは

浄土教(18願)を信受する善因縁
遇法の善因縁

ということです。これを、

獲信の善因縁
往生の善因縁

と勘違いしているのが親鸞会です。このことが判れば、善知識方が往生のため、獲信のために諸善を勧められていないのも、難なく理解できるのです。

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”三願転入の教え”の誤り2

三願転入は、『教行信証』化土巻にのみ書かれてあり、他では仰っていないことです。善知識方の膨大な御著書の中で、一箇所だけに書かれたことを、大々的に取り上げて、仏教の真髄にまで祭り上げるのが親鸞会の教義です。
三願転入が、『教行信証』化土巻に書かれてある背景について述べていきます。

法然上人は『選択本願念仏集』に、

おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための所以なり。初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。
次の義はすなはちこれ助正のために説く。いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。後の義はすなはちこれ傍正のために説く。いはく念仏・諸行の二門を説くといへども、念仏をもつて正となし、諸行をもつて傍となす。ゆゑに三輩通じてみな念仏といふ。ただしこれらの三義は殿最知りがたし。請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。
いまもし善導によらば、初め(廃立)をもつて正となすのみ。

(現代語訳)

およそこのような三義の別があるけれども、いずれもこれは一向に念仏するというわけをあらわすのである。初めの義は、これは廃立のために説く。すなわち諸行は廃するために説き、念仏は立てるために説かれたという意味である。次の義は、助正のために説く。すなわち念仏の正業を助けるために諸行の助業を説かれたという意味である。後の義は、傍正のために説く。すなわち念仏と諸行との二門を説かれるけれども、念仏をもって正とし諸行をもって傍とする。こういうわけで三輩に通じてみな念仏というのである。ただしこれらの三義の殿最は知りがたい。どうか学ぶ人たちは、おのおのの心にしたがって取捨せられよ。今もし善導に依れば、初めの廃立の義をもって正意とするのである。

と仰っています。「諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く」と廃立で説かれています。また、

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

(現代語訳)

また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。もし定散の諸行がなかったならば、どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。
例えば《法華経》が、それ以前の説、同時の説、それ以後の説の三説の上に秀でているようなものである。もし三説がなかったならば、どうして《法華経》が第一に秀でていることを顕わされようか。ゆえに今、定散の諸行はこれを廃するために説き、念仏三昧はそれを立てるために説かれるのである。

ともあります。『観無量寿経』で定散二善が説かれている理由は、念仏が定散二善よりも優れていることを顕すためと法然上人は仰っています。
それに加えて、

諸行は機にあらず時を失す。 念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。
まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。
一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

(現代語訳)

諸行は根機に適せず末法の今の時にあわないのである。念仏往生は根機に適し今の時にかなって、その承ける利益は決してむなしくない。そこでよく知るべきである、他に随って説く場合には、しばらく定散諸行の門を開かれるけれども、仏自らの本意を説かれた上は、かえって定散諸行の門は閉じられるのである。
一たび開かれて後、とこしえに閉じられないのは、ただ念仏の一門のみである。弥陀の本願や釈尊の付属の思し召しはここにある。行者はまさに知るべきである。

とまで仰り、末法にあっては、往生の為の諸行を否定されました。諸行を重んじ、念仏を「下劣根機」のための行と考え、阿弥陀仏の本願の中で19願を最も重んじていた聖道門の学僧達が、法然上人の教えに対して猛烈に反発したのは、いわば当然なことです。

法然上人の念仏往生の教えを、「下劣根機」に限定すれば、聖道門の学僧達は納得したと思いますが、自分たちを含めた「天下の諸人」にまで適応することは我慢のならないことでした。それは明恵高弁の『摧邪輪』にある

称名一行は下根の一類の為に授ずくる所也、汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎、無礼之至り称計す可からず

で判ります。『摧邪輪』は法然上人の教えを徹底的に攻撃した書ですが、内容的には根拠も論理もしっかりした論文でしたので、法然上人の亡くなられた後、法然上人の弟子でも『摧邪輪』に十分に反論することができず、諸行往生を肯定する人まで出てきました。
そんな中、親鸞聖人が『教行信証』を著されて、『摧邪輪』に反論されたのです。

親鸞会では善の勧めを正統化させるために、親鸞会批判者に対して

釈尊が一切経で説かれている善の勧めが無駄であったというのか

とよく言いますが、聖道門の学僧達も同じことを強烈に主張し続けました。この問いに答えるには、18願と聖道門、19願との関係についての説明が不可欠です。そこで親鸞聖人は、真実について『教行信証』真仏土巻までで一通り解釈をされた後に、聖道門、19願及び20願について仰ったのです。

真仏土巻の最後

しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。
選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり。
(中略)
仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。

(現代語訳)

ところで、如来の願に真実と方便とがある。だから、成就された仏と浄土にも真実と方便とがある。
第十八願を因として真実の仏と浄土が成就されたのである。
(中略)
方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」に示すので、そこで知るがよい。すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、報仏であり報土であると知ることができる。方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。如来の願に真実と方便とがあることを知らないから、如来の広大な恩徳を正しく受け取ることができないのである。

と18願が真実の願であり、19願・20願は方便の願であると断言されて、化土巻で方便の願と方便の浄土(化土)について解説されたのです。
化土巻・要門釈の最初

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰っています。現代語訳では細かいところが判りにくいと思いますので、以前にも紹介しました解説書を2つ出しておきます。

梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』

 浄土門内の方便教を明かすについて、まず第十九願要門の意を明かし、次いで三経の陰顕を顕わし。最後に第二十願の意を釈されるが、その最初に方便教を説かねばならなかった仏意を明らかにされる。すなわち、釈尊の導きによって、真実に背いた外道を離れて聖道門に入ることができた者も、なおその自力修行の厳しさゆえに、真実をさとり得た者は極めて少なく、せっかく一度は外道を離れて仏道に入りながら、内心は外道から離れることができず、再び邪道に退転してしまう偽の仏弟子も甚だ多かった。そのような状況を憐れんで、釈尊は聖道門から浄土門へと導くために権仮方便の法門を説かねばならなかったというのである。
(中略)
 そこで釈尊は浄土の教門を開いて行かれる。まず最初に開顕されたのが福徳蔵といわれる定善、散善によって往生を願う諸行往生の法門であった。その経典が『無量寿仏観経』であった。『観経』の散善顕行縁には、世、戒、行の三福散善を指して、「三世諸仏の浄業正因なり」といわれているように、諸仏の成仏道であった。また定善は、真身観に「無量寿仏を見たてまつれば、すなわち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏は現前に授記す」といわれているように、諸仏から成仏の授記を得るための「般舟三昧」の行であった。したがって定散諸善の行体は、聖道門の諸行と同じ此土入聖の行であった。そのような聖道門の行を浄土に往生するための行として転換する心がすでに述べたように「至心発願欲生」の三心であり、『観経』でいえば「至誠心、深心、回向発願心」の三心だったのである。こうして、聖道門の修行をそのまま往生の行に転換させ、浄土に生まれさせることによって、聖道門に行き詰まっている行者を浄土門へと誘引し救っていかれるのである。


山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』

然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し修道するようになっても、真に其の教へに入る者は甚だ得難く、如実の修道者は甚だ稀である。之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。

親鸞聖人は、『観無量寿経』の定散二善と19願とは、聖道門の人を浄土門に誘引するためのものと最初に明言された後、これは方便の行信であるから、方便の利益(化土往生)しか与えられないことを説明されて、結論として要門釈の結勧の文

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

(現代語訳)

以上のようなことから、源信和尚の解釈をうかがうと、『往生要集』の念仏証拠門の中に、第十八願について、四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。また『観無量寿経』に説かれる定善・散善を修めるものについて、きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。五濁の世のものは、出家のものも在家のものも、よく自分の能力を考えよということである。よく知るがよい。

と自分の能力をよく考えて、18願他力念仏1つを勧められているのです。
ここで「下劣根機」たる「極重悪人」だけではなく、「上機」を自負する「定散の諸機」も18願に依らなければ報土往生は遂げられないことを教えられているのです。

自力で初歓喜地まで到達された龍樹菩薩でも自分の力では仏になることができず、極重の悪人同様に18願に帰依されなければ報土往生は遂げられなかったのです。それを

『正像末和讃』

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ

(現代語訳)

像法の時代の智慧ある人でも自力で励む仏道の教えを投げ捨てて、 時代と人間に適った仏の教えであるので、 他力念仏の教えに帰依なさいました。

と親鸞聖人は仰っているのです。

善導大師は、『玄義文』

弘願といふは、『大経』に説きたまふがごとし。「一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせざることなし」と。また仏の密意弘深なり、教門暁めがたし。 三賢・十聖も測りて闚ふところにあらず。 いはんやわれ信外の軽毛なり、あへて旨趣を知らんや。

(現代語訳)

弘願というのは、『無量寿経』に説かれている通りである。善人も悪人もすべての凡夫が往生できるのは、みな阿弥陀仏の大いなる本願のはたらきをもっともすぐれた力として、それによるからである。また仏の思し召しは広くて奥深いから、その教えは容易に知ることができない。三賢・十聖という位にある菩薩でさえはかり知ることはできないのである。ましてわたしは十信の位にも入ることのできない愚かな凡夫である。どうしてその思し召しを知ることができようか。

と仰っています。「三賢・十聖」でもはかり知ることのできない阿弥陀仏の救いを、「信外の軽毛」である善導大師もはかり知ることはできないと仰っています。「信外の軽毛」とは、十信位という説と、十信位よりも下という説がありますが、いずれにしても、善導大師は低い覚りではありますが、そこまでは自力で到達された方です。ですから龍樹菩薩や天親菩薩はもちろんのことですが、善導大師に対しても「下劣根気」「極重悪人」の方とは言い難いでしょう。もちろん善導大師も18願に帰しておられます。

そしてこの後の隠顕釈にて

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。
彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。
その彰とは、阿弥陀仏の弘願を彰すものであり、すべてのものが等しく往生する他力の一心を説きあらわしている。提婆達多や阿闍世のおこした悪事を縁として、浄土の教えを説くという、釈尊がこの世にお出ましになった本意を彰し、韋提希がとくに阿弥陀仏の浄土を選んだ真意を因として、阿弥陀仏の大いなる慈悲の本願を説き明かされたのである。これが『観無量寿経』の底に流れる隠彰の義である。

と法然上人の廃立に対して、親鸞聖人は隠顕で『観無量寿経』を解説されたのです。それは、法然上人は18願を信じて願い求める「宿善の機」に対して仰ったのと、親鸞聖人が18願を見下した聖道門の学僧達への反論との違いです。親鸞聖人は、聖道門の学僧達のために、『観無量寿経』は、聖道門から浄土門へ、そして最後は18願へと導かれることを説かれた経典であることを、善導大師の解釈から説明されているのです。

文証に加えて、御自身の体験を述べられた三願転入の文により、聖道門の人から浄土門、最後は18願へと導かれたことを証拠として出されたのです。

つまりは

釈尊が一切経に説かれている善の勧めが無駄であったというのか

この非難に対して、三願転入の文でまとめの答えとされたのです。
歴史的、社会的な背景を考えれば、聖道門の学僧達を意識して三願転入を説かれた親鸞聖人の御心が普通の思考の方は理解できると思います。

それは三願転入の文の直後に

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の財施時代と正法のためのものであって、像法や末法や法滅の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊財施の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。

と仰っていることからも聖道門の人に向けて言われていることは明白です。
自分は聖道門に長らく迷ってきたけれども、聖道門を信じている皆さんも、早く浄土門に入って、18願を願求して救われてください、とのお言葉です。

以上のように、法然上人の教えの正しさを仏教全体を通して証明されるために、親鸞聖人は従仮入真論を化土巻で展開され、御自身の体験として三願転入の文を添えられた訳です。従って、同行向けに書かれた御著書には、三願転入について触れられることもなく、親鸞聖人の御心を理解されていた覚如上人、蓮如上人も三願転入について言及されていないのです。もちろん、七高僧方も三願転入という概念を持っておられませんでした。

親鸞聖人の教えを信じて、18願他力念仏での救いを求めている「宿善の機」には、三願転入の概念は不要であるからです。

ところが、そんなことも全く理解できない邪義集団は、18願を信じて報土往生を願っている「宿善の機」に対して、19願から始めなければならないなどと教えているのです。「宿善の機」を18願から遠ざけて、平生業成を多生業成としながら、真実を説いている唯一の団体と公言しているのは、正気の沙汰とは思えません。

十方衆生≠極重の悪人

超エリートには聖道門、聖道門についていけないエリートには19願、19願も無理な人には20願、どうしようもない落ちこぼれである十悪五逆の極重の悪人には最初から18願が説かれたのです。

正しい三願転入

には図入りで説明してありますので、そちらも御覧下さい。

このことを踏まえておかなければ、経典や善知識方の御著書を読んでも理解できません。
親鸞会のように、十方衆生は「唯除五逆誹謗正法」の者と考えていたら、聖道門など全く無意味な教えになってしまいます。

しかし、善知識方は聖道門を否定されたことはありません。

『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

超エリートの方々は、聖者の位を証してゆかれました。しかし、我々凡夫は落ちこぼれですので、これまで出離の縁のない者であったのです。
それが同じく『散善義』で機の深信に

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

と仰ったのですが、『往生礼讃』では言葉を変えられて

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

と仰っています。親鸞聖人も『教行信証』信巻に引かれています。「善根薄少」とはありますが、「無善根」ではありません。善根が少ないので、自分の力では出離できないということであって、悪しかできないということではありません。

法然上人は『選択本願念仏集』に

諸行は機にあらず時を失す。 念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。
まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

(現代語訳)

このゆえに知られる、諸行は根機に適せず末法の今の時にあわないのである。念仏往生は根機に適し今の時にかなって、その承ける利益は決してむなしくない。そこでよく知るべきである、他に随って説く場合には、しばらく定散諸行の門を開かれるけれども、仏自らの本意を説かれた上は、かえって定散諸行の門は閉じられるのである。一たび開かれて後、とこしえに閉じられないのは、ただ念仏の一門のみである。弥陀の本願や釈尊の付属の思し召しはここにある。行者はまさに知るべきである。

と仰っています。
諸行は「時を失す」なのです。末法にはあわない、ということは正法・像法の時期には、あう人もあるということです。
親鸞会でも教えていますが、聖道門は、正法では教行証が揃っていますが、像法では教行はあっても証はない、末法では教だけしか残らないのです。行体が同じ19願も同様です。

また『勅伝 第六』には、

聖道門の修行は、正像の時の、教えなるが故に、上根上智の輩にあらざれば、証し難し。(中略)
浄土門の修行は、末法濁乱の時の教えなるが故に、下根下智の輩を器とす。
(中略)
大原にして、聖道浄土の、論談有りしに、法門は牛角の論なりしかども、気根比べには、源空勝ちたりき。
聖道門は深しといえども、時過ぎぬれば、今の機に適わず。浄土門は浅きに似たれども、当根に適い易しと、云いし時、末法万年、余経悉滅、弥陀一経、利物偏増の道理に、折れて、人みな、信伏しきとぞ、仰せられける。

ともあります。
聖道門は、正法・像法の時期の教えであり、浄土門は、末法の時期の教えです。大原問答での争点は、聖道門と浄土門の教えの優劣ではなく、我々の根機にあっているかどうかであったことを法然上人が仰ったものです。聖道門にしても、19願にしても、如実に修行できる人が正法・像法の時期にはあったから説かれた教えであって、誰も修行のできない教えではないのです。当たり前のことです。

親鸞聖人は『教行信証』化土巻に

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の在世時代と正法のためのものであって、像法や末法や法滅の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊財施の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。

とあります。像法の時期は、証がありませんので、親鸞聖人は、釈尊在世自体と正法の時期に限定され、像法は除いておられます。

例を挙げれば、像法の時期の龍樹菩薩は、大変な修行をされて、初歓喜地まで覚られましたが、仏の覚まで至ることは無理であると18願に帰依されたのです。龍樹菩薩は、行体が聖道門と同じ定散二善を行じることのできる方です。行はあっても証はない、その代表です。正法・像法の時期には、19願の対機である「定散諸機」と呼べる方は他にも多くおられたでしょう。

しかし、末法の極重の悪人である我々は、時も機も聖道門、19願の教えは不相応なのです。『観無量寿経』を説かれた時でも、韋提希や下々品の者に対して、善を勧めておられません。念仏1つです。『観無量寿経』を読めば明らかです。

だから、

『往生要集』には、

『観経』に、極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得

と仰り、
『高僧和讃』では

 極悪深重の衆生は
  他の方便さらになし
  ひとへに弥陀を称してぞ
  浄土にうまるとのべたまふ

と教えられ、『正信偈大意』には

 「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と同じことを善知識方が仰っているのです。
善人に対しては、聖道門、19願、20願が説かれたのです。

『観無量寿経』『観無量寿経疏』も読まずして、「極重の悪人は、他の方便なし」の意味など理解できる筈もありません。

化土往生について

化土の根拠は、『大無量寿経』胎化段です。

もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。

(現代語訳)

さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。

これを承けられて龍樹菩薩は『十住毘婆沙論』

もし人善根を種うるも、疑へばすなはち華開けず。
信心清浄なれば、華開けてすなはち仏を見たてまつる。

(現代語訳)

もし善根を積んで生れようとする 疑心の行者であれば華は開けず
本願を信ずる心の清浄な者は 華が開けて仏を見たてまつる。

と仰り、善導大師は『定善義』

因を修すること正念にして、疑を雑ふることを得ざれといふことを明かす。往生を得といへども、華に含まれていまだ出でず。あるいは辺界に生じ、あるいは宮胎に堕す。

(現代語訳)

因を治めるについて正念に修行して、疑いを雑まじえてはいけないことを明かす。もし疑いを雑じえるならば、たとい浄土に往生できても、華にふくまれて出られない。あるいは辺地に生まれ、あるいは胎生となる。

と解釈をされています。
化土について、明確に教えられた方が、源信僧都です。
親鸞聖人が『正信偈』

専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり

と褒め讃えておられることは常識です。
『往生要集』信毀因縁には、

問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』(大経・下)にのたまふがごとし、
「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。
仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。『清浄覚経』(平等覚経・三)に、この胎生をもつて中輩・下輩の人となせり。

(現代語訳)

問う。もし深心がなくて、疑念を生ずる者は、結局往生できないのであるか。

答える。
もし、全く信ぜず、往生の業を修めず、浄土を願い求めない者は、道理として往生するはずがない。しかしながら、もし仏智を疑うけれども、それでもやはり、かの浄土に生まれたいと願い、往生の業を修める者は、これもまた往生することができるのである。
『無量寿経』に説かれているとおりである。
もし、人々の中で、疑いの心を持ちながら、いろいろの功徳を修めて、かの国に生まれたいと願い、仏智、思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、はかり知られぬ智慧、すべての者を救う智慧、ならびなくすぐれた智慧を知らず、いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、しかもなお罪の報を恐れ、おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、これらの人は、かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、五百年のあいだ、少しも仏を拝むことができず、教法を聞くことができず、菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。それゆえ、これをたとえて胎生というのである。
仏の智慧を疑うのは、悪道に堕ちる罪に相当する。けれども、その願いにしたがって往生するというのは、仏の大悲の願力によるのである。『平等覚経』には、この胎生を中輩や下輩の人としている。

さて、この意味が分かるでしょうか?

もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。

さらに『往生要集』報化得失

雑修のものは執心不牢の人となすなり。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらにしてこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}また報の浄土に生るるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生るるもの少なからず。ゆゑに経に別に説けり。実には相違せず。

これを『教行信証』化土巻に親鸞聖人は引いておられます。

また『高僧和讃』源信讃

報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり

と仰り、更には『末灯鈔』2

「行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ往生せらるることにてあるべき」とぞ、うけたまはりたりし。
(中略)
仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。

『末灯鈔』12

念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

『正信偈大意』

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。『和讃』にいはく、「報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土に生るる衆生をば すくなからずとをしへたり」といへるはこのこころなりとしるべし。

『三経往生文類』

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。

これらがすべて机上の空論であると親鸞会では否定している訳です。だから念仏誹謗なのです。

20願の自力念仏については、浄土門の人の大半がこれです。親鸞聖人が化土往生について仰っているのは、自力念仏についてばかりです。親鸞会のようなことを言っているのは、誡疑讃を読んだことがない証拠です。
誡疑讃23首の中で、19願自力修善について明らかに仰ったのは1首だけで、後は20願自力念仏についてです。

23首で、化土往生を誡められています。誡める理由は、化土往生する人が多いからです。

『正像末和讃』誡疑讃23首と現代語訳を挙げておきますので、よく読んで下さい。

不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり

(訳)
仏の智慧を明らかにさとらない証拠として、 如来のいろいろな智慧を疑い、
善悪の因果のみを信じ、 自力念仏の功徳を頼みにするので、 浄土の片隅の方便化土に止まるのです。

仏智の不思議をうたがひて 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて 仏恩報ずるこころなし

(訳)
仏の智慧の想いや言葉に尽くせない不思議の本願を疑って、 自力の念仏を好む者は、
浄土の片隅や慢心の世界に止まって、 仏のご恩を報謝する心がおこらないのです。

罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる

(訳)
善悪の因果を信じる行者は、 仏の智慧の言葉に尽くせないほど不思議の本願を疑って
疑城胎宮に止まるので、 真実報土の仏・法・僧から離れてしまうのです。

仏智疑惑のつみにより 懈慢辺地にとまるなり
 疑惑のつみのふかきゆゑ 年歳劫数をふるととく

(訳)
仏の智慧や本願を疑う罪により、 懈慢界や浄土の辺地に止まるのです。
疑う罪の深さにより、 この場所で長い長い間むなしく過ごすのだと、 釈尊はお説きなさったのです。

転輪皇の王子の 皇につみをうるゆゑに
 金鎖をもちてつなぎつつ 牢獄にいるがごとくなり

(訳)
自力の念仏の行者が化土に止まるのは、 まるで転輪聖王の王子が聖王に背そむいた罪により、
金の鎖でつながれて牢獄に閉じこめられるようなものなのです。

自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ 七宝の獄にぞいましむる

(訳)
自分をたのんで称名する人は、 如来の本願を信じないので、
その疑いの罪が深いから、 七宝で飾られた疑城胎宮に閉じこめられるのです。

信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし

(訳)
仏智を疑う自力の念仏の行者でも、 他力信心の人に劣らないように救おうとしてくださる
如来の大悲のご恩を思い知って、 他力の称名念仏に励みましょう。

自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける

(訳)
自分の力で善行を積み浄土往生を願う人はみんな、 言葉に尽くせない仏智の本願を疑うので、
善悪因果の道理に従って自分が作った原因を身に受けて、 七宝で飾られた疑城胎宮に止められるのです。

仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり

(訳)
仏智不思議の本願を疑って、 念仏する功徳によって浄土に往生しようとする自力の人は、
浄土の片隅や懈慢界に生まれるので、 阿弥陀如来の救いの大慈もいただけないのです。

本願疑惑の行者には 含花未出のひともあり
 或生辺地ときらひつつ 或堕宮胎とすてらるる

(訳)
本願を疑う行者には、 化土の蓮華の花に包まれて出られない人もいます。
あるいは浄土の片隅に生まれる者と嫌われ、 あるいは疑城胎宮に堕ちる者として捨てられるのです。

如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり

(訳)
如来のいろいろな智慧を疑って、 他力の念仏を信じることができないまま、
やはり善悪因果の道理のみを信じ、 自力念仏がすぐれていると励んでいる者がいるのです。

仏智を疑惑するゆゑに 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを 牢獄にいるとたとへたり

(訳)
仏の智慧の本願を疑うので、 母の体内のような方便化土に生まれる者は、 智慧をいただくこともありません。 疑城胎宮に生まれることを牢獄に閉じこめられていると譬えたのです。

七宝の宮殿にうまれては 五百歳のとしをへて
 三宝を見聞せざるゆゑ 有情利益はさらになし

(訳)
七宝で飾られた疑城胎宮に生まれると、 五百年もの間閉じこめられて
真実報土の三宝を見聞きすることがないので、 この世に還相して人びとを救うことは全くできないのです。

辺地七宝の宮殿に 五百歳までいでずして
 みづから過咎をなさしめて もろもろの厄をうくるなり

(訳)
浄土の片隅の七宝で飾られた疑城胎宮にいて、 五百年もの間そこから出られないで、
自分がおこした疑いなどのとがや罪によっていろいろな厄を受け、 不安で危険な状態にいるのです。

罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり

(訳)
善悪因果の道理を深く信じて、 自力念仏に励んでいる人は、
本願を疑う善人なので、 真実の浄土ではなく、 方便化土に止まるのです。

弥陀の本願信ぜねば 疑惑を帯してうまれつつ
 はなはすなはちひらけねば 胎に処するにたとへたり

(訳)
阿弥陀如来の本願を信じないので、 心に疑いを持ち続けたまま往生はしますが、
往生した所の蓮華の花のつぼみはすぐには開かないので、 母の体内にまだいるのと同じだと譬えたのです。

ときに慈氏菩薩の 世尊にまうしたまひけり
 何因何縁いかなれば 胎生・化生となづけたる

(訳)
ある時弥勒菩薩は釈尊に
「どのような因縁によって、 往生を胎生・化生と区別して名付けられたのですか」 と申し上げました。

如来慈氏にのたまはく 疑惑の心をもちながら
 善本修するをたのみにて 胎生辺地にとどまれり

(訳)
釈尊は弥勒菩薩に、 「本願を疑う心を持ったまま
自力の念仏を励んで、 その功徳で往生しようとするために胎生するのであり、 方便化土の辺地に止まっているのだ」 とお答えになった。

仏智疑惑のつみゆゑに 五百歳まで牢獄に
 かたくいましめおはします これを胎生とときたまふ

(訳)
釈尊は、 「仏の智慧の本願を疑う罪により、 五百年もの間、 牢獄に
厳しく捕らえられている。 これを胎生というのだ」 とお説きなさったのです。

仏智不思議をうたがひて 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば 胎生のものとときたまふ

(訳)
仏智不思議の本願を疑って、 念仏する功徳によって浄土に往生しようとする自力の人は、
浄土の片隅や懈慢界に生まれるので、 阿弥陀如来の救いの大慈もいただけないのです。

自力の心をむねとして 不思議の仏智をたのまねば
 胎宮にうまれて五百歳 三宝の慈悲にはなれたり

(訳)
自力往生の心を最高のよりどころとして、 想いや言葉に尽くせない仏の智慧の本願のはたらきを信じないので、
方便化土の疑城胎宮に生まれて五百年もの間、 阿弥陀如来の三宝の慈悲から離れ、 閉ざされているのです。

仏智の不思議を疑惑して 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば 胎生といふとときたまふ

(訳)
釈尊は、 「仏智不思議の本願を疑って、 善悪因果の道理を信じて、 自力の称名によって
浄土に生まれたいと願う者を、 胎生の者というのだ」 とお説きなさったのです。

仏智うたがふつみふかし この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし

(訳)
仏の智慧の本願を疑う罪はたいへん深い。 疑う心の罪の深さを思い知るならば、
それを悔いる心でもって、 仏の智慧の想いや言葉に尽くせない不思議の本願におまかせしましょう。

”三願転入の教え”の誤り1

『大無量寿経』には異訳本がいくつかありますが、阿弥陀仏の本願についての表現がそれぞれ違っています。『大無量寿経』での18願と19願の対機は、共に「十方衆生」と表現されていますが、『平等覚経』『大阿弥陀経』では、救いの対象、対機が明らかに異なっています。

『大無量寿経』18願の「十方衆生
=『平等覚経』17願の「諸天人民蠕動之類者
=『大阿弥陀経』4願の「諸天人民蜎飛蠕動之類
諸々の神々や人々や虫の類

『大無量寿経』19願の「十方衆生
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

つまり、『大無量寿経』18願は、すべての生物です。漏れているものはいません。一方、『大無量寿経』19願は、菩薩の行を行える人と限定されています。虫も入っていませんし、人間でも菩薩の行を行えない悪人は入りません。ですから同じ「十方衆生」でも『大無量寿経』の18願と19願とでは対機が大きく異なるのです。

では、『大無量寿経』上では18願と19願とで対機の違いがないのかと言えば、違いが表現されています。それが「唯除五逆誹謗正法」です。

『尊号真像銘文』には、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

とありますように、「唯除五逆誹謗正法」のある18願は、漏れるものがないが、「唯除五逆誹謗正法」のない19願では、漏れているものがあると親鸞聖人は仰っています。また「唯除五逆誹謗正法」に相当するお言葉は、『平等覚経』『大阿弥陀経』にはありません。つまり18願の「十方衆生」と「唯除五逆誹謗正法」はセットになっているのです。ただし、親鸞会で言っているような「十方衆生」=「唯除五逆誹謗正法」ということではありません。「十方衆生」の中に「唯除五逆誹謗正法」のものも含まれるということです。

経典は、訳者や原本によっても表現は変わっていますが、意味は同じです。『大無量寿経』の18願と19願の中で、「十方衆生」のところだけを取り出して同じと考えるのは、断章取義です。「十方衆生」に込められた御心を他のお言葉から読み取れなければ、正しく理解できません。

『大無量寿経』19願については、菩薩行を行える善人が対機であることを踏まえられた上で、『教行信証』化土巻の要門釈の最初に、

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰ったのです。
直訳をすれば、

さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教のさまざまな法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。
このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。

です。
親鸞会では、後半の部分を断章取義して、要門19願は一切衆生のための願と主張しましたが、前半を読まれれば判る通り、半満・権実の法門(聖道門)の修行に行き詰まった人を導くのが19願だと親鸞聖人ははっきり仰っています。
菩薩行を行える善人が対機の19願ですから、親鸞聖人の解釈は極めて自然なものです。

これは親鸞聖人独自の解釈ではなく、法然上人の『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)には

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とあります。聖道門の人を18願に帰せしめるための願と仰っています。
また親鸞聖人が間違いない人と尊敬されていた隆寛律師は

先師律師つねにのたまはく、隆寛こそ十九願の機よ。其故は、本と円宗の菩提心を発して、聖道の出離を期せしほどに、末法に生をうけたる身、涯分をしる故に、聖道の出離の叶ふまじきいはれを心得て、浄土門に入れるなり。

と言われていたと弟子の記した『広疑瑞決集』にあります。隆寛律師御自身の体験から、聖道門から浄土門に入ることができたのは、19願の権仮方便によるものと味わわれたのです。隆寛律師のこの告白に影響を受けられて、親鸞聖人は三願転入の文を書かれたといわれています。

聖道門の人を浄土門に誘引する願と法然上人、隆寛律師は解釈されたのですが、親鸞聖人も同様のことを仰ったのが要門釈の最初のお言葉です。

また『高僧和讃』には、

釈迦は要門ひらきつつ
 定散諸機をこしらえて
 正雑二行方便し
 ひとえに専修をすすめしむ

と仰っていますが、訳せば、

釈尊は要門を開いて、 定善・散善の人々を浄土門に誘い、 正行と雑行とを手立てとして、 ひとえにもっぱら念仏を修することを勧められた。

19願意から「定散諸機」に対して釈尊が要門を開かれたのです。ただし、ここでの「要門」とは、『観無量寿経疏 玄義分』の

その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。

で、19願のことではありません。

こしらえて」は誘うということです。

ですから、

定散諸機」≠すべての人

です。『正信偈』には、

矜哀定散与逆悪

と「定散」と「逆悪」と分けられています。
蓮如上人の『正信偈大意』では、

されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。

と解説があります。

同様に、某会で善の勧めの根拠とする『浄土和讃』大経讃で、「十九の願のこころ、諸行往生なり」と頭註のある三首を見てみましょう。

至心・発願・欲生と 十方衆生を方便し
 衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける

(現代語訳)

第十九願には、 自力をたよりに自分の心を真実にして、 往生を願い、 浄土に生まれたいと思えと、 十方衆生を方便誘引し、
どのような善を修めてでも浄土往生を願えと、 諸善万行によって往生を願う方便仮門を開き、 この人々の臨終にはその人の前に来迎すると誓われた。

 
臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり

(現代語訳)

阿弥陀如来の第十九願の意をうけて、 釈尊は聖道自力の人を誘引するため、 諸善万行はみな浄土往生に導く善根であるとして、
『観経』一部に定善の行、 散善の行を説き、 定善に縁のある人、 散善に縁のある人に、 それぞれに自力の行による往生をお勧めくださった。

 
諸善万行ことごとく 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり

(現代語訳)

諸善万行は、 本来、 聖道門の行である。 けれども、 この行によって浄土往生を願わせたいと、 阿弥陀如来が至心発願の誓いをお立てくださったので、
浄土往生のための方便の善とならないものはなかったのである。

第1首目は19願の直訳に近い解説、第2首目は19願から釈尊が『観無量寿経』を説かれて「定散諸機」を浄土門へ誘引されたことの解説、第3首目は欣慕浄土の善の解説です。

逆悪の機」に対して、定散二善を勧められたとは、どこにもありません。

先の高僧和讃1首とこの3首を通して読まれれば、

(19願の)「十方衆生」=「定散諸機

と釈尊が19願意を明らかにされ、それを親鸞聖人が教えておられることが判ります。

浄土門の人にも19願が必要であるという根拠として親鸞会が出しているのが、『一念多念証文』の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

です。現代語訳は

総じて八万四千といわれる釈尊の教えは、みな浄土の教えに導く方便としての善なのである。これを要門といい、これを仮門と名づけるのである。この要門・仮門というのは、すなわち『観無量寿経』にお説きになっている定善・散善の教えである。定善とは、心を一つに定めて修める十三の観察の行であり、散善とは、散漫な心のまま修める三福の行であり、九品のものの修めるさまざまな善である。これらはみな浄土の教えに導く方便としての要門であり、これを仮門ともいうのである。この要門・仮門により、さまざまな衆生を導き育んで、阿弥陀仏の本願すなわち一乗円融無礙の真実功徳の大宝海に導き入れてくださるのであるから、すべての自力の善は、これを方便の教えというのである。

です。
権仮方便ということが少しでも判れば、何も難しい御文ではありません。釈尊がそれぞれの機に応じて説かれた教えを「八万四千の法門」といいます。その「八万四千の法門」で説かれた善は、浄土門へ導くための「方便の善」であるということです。聖道門の人を浄土門へ、そして18願へという流れを仰ったものであって、浄土門の人を要門に導くという意味になる筈がありません。読解力が少しでもあれば判ることです。
つまり、上記の要門釈と同じことを親鸞聖人は教えられているだけのことです。

浄土の方便の善」が、18願に入るために必ず要る善ではなく、その前の、聖道門の人が浄土門に入るための「方便の善」ということです。

浄土の方便の善」は、『教行信証』化土巻には、善導大師の釈を承けて、「如来の異の方便、欣慕浄土の善根」と仰っています。阿弥陀仏の18願とは異なる方便、浄土を欣い慕わせる善根ということです。

浄土の方便の善」とは、聖道門から浄土門へ導く善

親鸞聖人の教えは、一貫してこのことを仰っています。

 

『観無量寿経』で、三福の後に、

この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり

と説かれています。

(現代語訳)

この三種の行いは、過去・現在・未来のすべての仏がたがなさる清らかな行いであり、さとりを得る正しい因なのである

『観無量寿経』に説かれている三福は、もともと「三世の諸仏の浄業の正因」である聖道門の行ということを教えられているのです。聖道門と『観無量寿経』の定善・散善とは、此土入聖と彼土得証の違いはあっても、行は同じなのです。ですから、聖道の「八万四千の法門」で説かれている善は、『観無量寿経』に収まるのです。

それを、

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。

と仰り、更には

これを要門といふ。これを仮門となづけたり。

と聖道門を要門に収められているのです。

このことを『教行信証』化土巻・隠顕釈には、

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって 観無量寿経をうかがうと、 顕彰隠密の義がある。その顕とは、 定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、 往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、 至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。 しかし、 定善・散善の二善、 世福・戒福・行福の三福は、 報土に生れるまことの因ではない。 三輩のそれぞれがおこす三心は、 それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、 他力の一心ではない。 これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、 浄土往生を願わせるために示された善である。 これが観無量寿経の表に説かれている意味であり、 すなわち顕の義である。

です。これは、善導大師の『散善義』深信釈を指して仰ったものです。

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

(現代語訳)

また釈迦仏がこの《観経》に、阿弥陀仏の依正二報を讃嘆せられて、三福・九品・定散二善の行を説かれてあるのは、衆生を誘引したもう方便の善である、と決定して深く信ずる。

『観無量寿経』に説かれている善は、「欣慕浄土の善根」、浄土往生を願わせるために示された善なのです。

以上のことがよく理解できれば、親鸞聖人の教えを信じて、18願での往生を願っている人にとって、必ず19願を通らなければならないという考えは、邪義とお判りになられるのではないでしょうか。

ついでに、「捨自帰他」したならば、

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

となります。つまり、善知識方の教えと明らかに異なる親鸞会の考えが邪義であったと知らされるのです。それを親鸞聖人は『唯信鈔文意』で、

自力のこころをすつといふは、(中略)みづからが身をよしとおもふこころをすて

と仰っているのです。

『教行信証』化土巻には、

仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

(現代語訳)

阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはないのである。第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

ともあります。
19願についての総括をされたお言葉です。
19願では化土往生になると繰り返し仰ってきて、最後に、自力の行をまじえているものは、報土往生はできないと断言なされているのです。それで19願は方便の願と結論付けられるのです。
19願について親鸞聖人は、要門釈の最初に、「修諸功徳の願」「臨終現前の願」「現前導生の願」「来迎引接の願」「至心発願の願」と仰っています。
しかしここでは「仮令の誓願」と、19願文の「仮令」のお言葉を使われて、19願のことを仰っています。「仮令」の意味は、もともとは「たとえ」「もしも」ですが、親鸞聖人はここでは「かりに」「方便」という意味に変えられて仰っています。つまり、19願は権仮方便として、それが必要な機に対して「かりに」建てられたものであるということを19願文のお言葉を使って、説明をされているのです。それ故に、

仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり

なのです。
『観無量寿経』及び19願は、聖道門の人に、浄土を願い慕わせ、誘引するためのものと明らかであると親鸞聖人は明言なされました。
従って、浄土門に入っている人は、すでに浄土を願い慕っているのですから、19願の役割は、浄土門に入っていない聖道門の人を浄土門に導くためなのです。

同様のことは『三経往生文類』でも仰っています。

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。

19願は、「浄土を欣慕せしむる」のであって、善のできないことを知らせるために善をさせる願ではありません。

救われたか否かは、二種深信で判定されると親鸞会では教えています。

二種深信とは、『散善義』にある七深信の最初の2つです。
親鸞聖人は『愚禿鈔』に七深信について簡単に説明されています。

七深信とは、
第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』(観経)によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。

この第三が先の

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

です。
第三深信を否定するような人があれば、救われたか否か、判定されてしまいます。

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