『仏説譬喩経』
佛説譬喩經
大唐三藏法師義淨譯
如是我聞。一時薄伽梵。在室羅伐城逝多
林給孤獨園。爾時世尊於大衆中。告勝光王
曰。大王。我今爲王略説譬喩。諸有生死味
著過患。王今諦聽。善思念之。乃往過去。於
無量劫。時有一人。遊於曠野爲惡象所逐。怖
走無依。見一空井。傍有樹根。即尋根下。潜
身井中。有黒白二鼠。互齧樹根。於井四邊
有四毒蛇。欲螫其人。下有毒龍。心畏龍蛇
恐樹根斷。樹根蜂蜜。五滴墮口。樹搖蜂散。
下螫斯人。野火復來。燒然此樹。王曰。是人
云何。受無量苦。貪彼少味。爾時世尊告言。
大王。曠野者喩於無明長夜曠遠。言彼人者。
喩於異生。象喩無常。井喩生死。險岸樹根
喩命。黒白二鼠以喩晝夜。齧樹根者。喩念
念滅。其四毒蛇。喩於四大。蜜喩五欲。蜂喩
邪思。火喩老病。毒龍喩死。是故大王。當知
生老病死。甚可怖畏。常應思念。勿被五欲
之所呑迫。爾時世尊重説頌曰
曠野無明路 人走喩凡夫
大象比無常 井喩生死岸
樹根喩於命 二鼠晝夜同
齧根念念衰 四蛇同四大
蜜滴喩五欲 蜂螫比邪思
火同於老病 毒龍方死苦
智者觀斯事 象可厭生津
五欲心無著 方名解脱人
鎭處無明海 常爲死王驅
寧知戀聲色 不樂離凡夫
爾時勝光大王聞佛爲説生死過患。得未曾
有。深生厭離。合掌恭敬。一心瞻仰。白佛言。
世尊。如來大慈。爲説如是微妙法義。我今
頂戴。佛言。善哉善哉。大王。當如説行。勿
爲放逸。時勝光王及諸大衆。皆悉歡喜。信
受奉行
佛説譬喩經
昔、一人の旅人が広い野を歩いていると、後ろから悪ゾウが追いかけてきました。
周りを見まわしても、身を隠すところがありません。
木の根が垂れている、から井戸があるのを見つけました。
その木の根をつたってから井戸の中に身を潜めました。
ほっとするのも束の間、目の前に黒と白の二匹の鼠が出てきて、かわりがわりに木の根をかじっています。
下を見れば古井戸の底で、一匹の大きな毒龍が口をこちらに向けており、四匹の毒ヘビが井戸の四辺にいて、男の落ちてくるのを待ち受けているではないですか。このままでは確実に細い根はちぎれて、龍や蛇に食べられてしまいます。
男は恐怖に身を震わせていました。
木の根にはミツバチの巣がありました。その巣から甘い蜜が五滴、口のなかに堕ちてきました。そのなんとも言えない蜜の甘さに心が奪われ、もっと甘い蜜をなめたいと思って、いまにも切れそうな木の根をゆさゆさと揺すっています。その上さらに、野火がこの木を焼こうとしています。ここに出てくる広い野とは私たちの永い迷いを喩えています。
ゾウとは無常、井戸は人生、木の根はいのちを喩えています。
黒白の二匹の鼠は昼と夜を喩え、私のいのちが徐々に終わりに近づいていることを示しています。
井戸の周りの四匹の蛇は地・水・火・風の四大を、五滴の蜜は色・声・香・味・所触の五欲を喩えています。
蜂はよこしまな思いを喩え、火は老病を喩えています。
そして龍は死を喩えています。
私たちは、このように知って、世間の楽に心奪われることなく、人生の無常に思いをいたして、苦悩の解決を求めていかなければならないのです。
高森顕徹著『会報』第1集「後生の一大事(三)」
『仏説譬喩経』の中に釈尊は給孤独園に於いて大衆の中で勝光王に向かって次のような説法をなされている。
「王よ、それは今から幾億年という昔のことである。ぼうぼうと草の生い茂った広々とした果てしのない昿野、しかも凩の吹きまくっているさびしい秋の夕暮れに、独りトボトボと歩いてゆく一人の旅人があった。ふと旅人は急ぐウス暗い野道に点々と散らばっている白い物を発見して立ち止った。これは一体何だろうと一つの白い物を拾い上げて旅人は驚いた。それはなんと人間の白骨ではないか、どうして、こんな処にしかも多くの人間の白骨があるのだろうかと不気味な不審をいだいて考えた。間もなく旅人は前方の闇の中から異様な唸り声と足音を聞いた。驚いた旅人は前方を凝視すると、はるか彼方から飢えに狂った見るからに獰猛な大虎が自分をめがけてまっしぐらに突進して来るではないか。旅人は瞬時に白骨の意味を知った。自分と同じくこの昿野を通った人達がこの虎の為に喰われていったのだ。そして自分もまたそれと同じ立場にいるのだ。これは大変、旅人は無我夢中で今来た道へと突走った。それから、どれ位たったであろうか。旅人が猛虎の吐くあの恐ろしい鼻息を身近に感じて、もう駄目だと思った時である。どう道を迷ったのか断崖絶壁の頂上でゆきづまってしまった。途方に暮れた彼は幸いにも断崖に一本の樹の根の方から一本の藤蔓が垂れ下がっているのに気が付いた。旅人は、その藤蔓を伝ってズルズルと下りたことは言うまでもない。文字通り九死に一生を得た旅人はホッとして頭上を仰ぐと猛虎はすでに断崖の上に立ちせっかくの獲物を逃したので如何にも無念そうな面持で吠えながらジーッと見下ろしているではないか、ヤレヤレこの藤蔓のおかげで助かった。一先ずは安心と目を足下に転じた時である。旅人は思わず口の中でアッと叫んだ。足下は底の知れない深海の怒涛が絶壁を洗っているではないか。それだけではない。その波間から三匹の毒龍が大きな口を開け紅い焔を吐いて自分の落ちるのを待ち受けているではないか、旅人は余りの恐ろしさに再び藤蔓を握りしめて身震いした。しかし旅人はやがて空腹を感じて周囲に食を求めて眺め廻した。その時である。旅人は今までよりも、もっともっと驚くべきことを発見したのである。
見よ!!藤蔓の元の方に白と黒の二匹のネズミが現われ交々旅人の命の綱である藤蔓を一生懸命に齧っているではないか、旅人の顔は蒼ざめ歯はガタガタと震えて止まらない。
だがそれは続かなかった。それは、この樹に巣を造っていた蜜蜂が甘い五つの蜜の滴りを彼の口におとしたからである。旅人は忽ち今までの恐ろしさを忘れて陶然と蜂蜜に心をうばわれてしまったのである」
(以下略)
(参考)トルストイ著、米川正夫訳『わが懺悔』
古い東方の寓話にも、曠野の中で怒り狂う猛獣に襲われた旅人のことが語られている。猛獣をのがれようと思って、旅人は水のない古井戸へ飛び込んだ。ところが、見るとその井戸の底には一疋の龍が、たゞ一呑みと大きな口をあけて待っている。そこでこの不幸な旅人は、怒り狂える猛獣のために命を落としたくなかったが、外へ匍い出ることもできないし、それかといって、龍に食われたくもないので、井戸の底へ飛びこむこともできず、せんかたなく、中途の隙間に生えている野生の灌木の枝につかまって、宙に身を支えていた。そのうちに手が次第に弱ってきた。で、彼は間もなく、前後に自分を待っている死の手に身を委ねなければならぬと感じたが、それでも、宙にぶらさがっていた。そこへ、黒と白と二疋の鼠が現われて、彼のぶらさがっている灌木の幹の周囲を、ちょろちょろと同じ速度で廻りながら、じりじりと噛み耗らすのに気がついた。もう今にも灌木はぶつりと切れてたおれかゝり、彼は龍の口へ落ちてしまうにちがいない。旅人はそれを見て、我が滅亡の避け難いのを知った。しかも、彼はそこにぶらさがっている間、自分の周囲を物色して、灌木の葉に蜜の雫がついているのを発見すると、そこまで舌をのばして、嘗め味わうのであった。