三願転入は、『教行信証』化土巻にのみ書かれてあり、他では仰っていないことです。善知識方の膨大な御著書の中で、一箇所だけに書かれたことを、大々的に取り上げて、仏教の真髄にまで祭り上げるのが親鸞会の教義です。
三願転入が、『教行信証』化土巻に書かれてある背景について述べていきます。

法然上人は『選択本願念仏集』に、

おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための所以なり。初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。
次の義はすなはちこれ助正のために説く。いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。後の義はすなはちこれ傍正のために説く。いはく念仏・諸行の二門を説くといへども、念仏をもつて正となし、諸行をもつて傍となす。ゆゑに三輩通じてみな念仏といふ。ただしこれらの三義は殿最知りがたし。請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。
いまもし善導によらば、初め(廃立)をもつて正となすのみ。

(現代語訳)

およそこのような三義の別があるけれども、いずれもこれは一向に念仏するというわけをあらわすのである。初めの義は、これは廃立のために説く。すなわち諸行は廃するために説き、念仏は立てるために説かれたという意味である。次の義は、助正のために説く。すなわち念仏の正業を助けるために諸行の助業を説かれたという意味である。後の義は、傍正のために説く。すなわち念仏と諸行との二門を説かれるけれども、念仏をもって正とし諸行をもって傍とする。こういうわけで三輩に通じてみな念仏というのである。ただしこれらの三義の殿最は知りがたい。どうか学ぶ人たちは、おのおのの心にしたがって取捨せられよ。今もし善導に依れば、初めの廃立の義をもって正意とするのである。

と仰っています。「諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く」と廃立で説かれています。また、

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

(現代語訳)

また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。もし定散の諸行がなかったならば、どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。
例えば《法華経》が、それ以前の説、同時の説、それ以後の説の三説の上に秀でているようなものである。もし三説がなかったならば、どうして《法華経》が第一に秀でていることを顕わされようか。ゆえに今、定散の諸行はこれを廃するために説き、念仏三昧はそれを立てるために説かれるのである。

ともあります。『観無量寿経』で定散二善が説かれている理由は、念仏が定散二善よりも優れていることを顕すためと法然上人は仰っています。
それに加えて、

諸行は機にあらず時を失す。 念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。
まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。
一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

(現代語訳)

諸行は根機に適せず末法の今の時にあわないのである。念仏往生は根機に適し今の時にかなって、その承ける利益は決してむなしくない。そこでよく知るべきである、他に随って説く場合には、しばらく定散諸行の門を開かれるけれども、仏自らの本意を説かれた上は、かえって定散諸行の門は閉じられるのである。
一たび開かれて後、とこしえに閉じられないのは、ただ念仏の一門のみである。弥陀の本願や釈尊の付属の思し召しはここにある。行者はまさに知るべきである。

とまで仰り、末法にあっては、往生の為の諸行を否定されました。諸行を重んじ、念仏を「下劣根機」のための行と考え、阿弥陀仏の本願の中で19願を最も重んじていた聖道門の学僧達が、法然上人の教えに対して猛烈に反発したのは、いわば当然なことです。

法然上人の念仏往生の教えを、「下劣根機」に限定すれば、聖道門の学僧達は納得したと思いますが、自分たちを含めた「天下の諸人」にまで適応することは我慢のならないことでした。それは明恵高弁の『摧邪輪』にある

称名一行は下根の一類の為に授ずくる所也、汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎、無礼之至り称計す可からず

で判ります。『摧邪輪』は法然上人の教えを徹底的に攻撃した書ですが、内容的には根拠も論理もしっかりした論文でしたので、法然上人の亡くなられた後、法然上人の弟子でも『摧邪輪』に十分に反論することができず、諸行往生を肯定する人まで出てきました。
そんな中、親鸞聖人が『教行信証』を著されて、『摧邪輪』に反論されたのです。

親鸞会では善の勧めを正統化させるために、親鸞会批判者に対して

釈尊が一切経で説かれている善の勧めが無駄であったというのか

とよく言いますが、聖道門の学僧達も同じことを強烈に主張し続けました。この問いに答えるには、18願と聖道門、19願との関係についての説明が不可欠です。そこで親鸞聖人は、真実について『教行信証』真仏土巻までで一通り解釈をされた後に、聖道門、19願及び20願について仰ったのです。

真仏土巻の最後

しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。
選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり。
(中略)
仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。

(現代語訳)

ところで、如来の願に真実と方便とがある。だから、成就された仏と浄土にも真実と方便とがある。
第十八願を因として真実の仏と浄土が成就されたのである。
(中略)
方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」に示すので、そこで知るがよい。すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、報仏であり報土であると知ることができる。方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。如来の願に真実と方便とがあることを知らないから、如来の広大な恩徳を正しく受け取ることができないのである。

と18願が真実の願であり、19願・20願は方便の願であると断言されて、化土巻で方便の願と方便の浄土(化土)について解説されたのです。
化土巻・要門釈の最初

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰っています。現代語訳では細かいところが判りにくいと思いますので、以前にも紹介しました解説書を2つ出しておきます。

梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』

 浄土門内の方便教を明かすについて、まず第十九願要門の意を明かし、次いで三経の陰顕を顕わし。最後に第二十願の意を釈されるが、その最初に方便教を説かねばならなかった仏意を明らかにされる。すなわち、釈尊の導きによって、真実に背いた外道を離れて聖道門に入ることができた者も、なおその自力修行の厳しさゆえに、真実をさとり得た者は極めて少なく、せっかく一度は外道を離れて仏道に入りながら、内心は外道から離れることができず、再び邪道に退転してしまう偽の仏弟子も甚だ多かった。そのような状況を憐れんで、釈尊は聖道門から浄土門へと導くために権仮方便の法門を説かねばならなかったというのである。
(中略)
 そこで釈尊は浄土の教門を開いて行かれる。まず最初に開顕されたのが福徳蔵といわれる定善、散善によって往生を願う諸行往生の法門であった。その経典が『無量寿仏観経』であった。『観経』の散善顕行縁には、世、戒、行の三福散善を指して、「三世諸仏の浄業正因なり」といわれているように、諸仏の成仏道であった。また定善は、真身観に「無量寿仏を見たてまつれば、すなわち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏は現前に授記す」といわれているように、諸仏から成仏の授記を得るための「般舟三昧」の行であった。したがって定散諸善の行体は、聖道門の諸行と同じ此土入聖の行であった。そのような聖道門の行を浄土に往生するための行として転換する心がすでに述べたように「至心発願欲生」の三心であり、『観経』でいえば「至誠心、深心、回向発願心」の三心だったのである。こうして、聖道門の修行をそのまま往生の行に転換させ、浄土に生まれさせることによって、聖道門に行き詰まっている行者を浄土門へと誘引し救っていかれるのである。


山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』

然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し修道するようになっても、真に其の教へに入る者は甚だ得難く、如実の修道者は甚だ稀である。之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。

親鸞聖人は、『観無量寿経』の定散二善と19願とは、聖道門の人を浄土門に誘引するためのものと最初に明言された後、これは方便の行信であるから、方便の利益(化土往生)しか与えられないことを説明されて、結論として要門釈の結勧の文

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

(現代語訳)

以上のようなことから、源信和尚の解釈をうかがうと、『往生要集』の念仏証拠門の中に、第十八願について、四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。また『観無量寿経』に説かれる定善・散善を修めるものについて、きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。五濁の世のものは、出家のものも在家のものも、よく自分の能力を考えよということである。よく知るがよい。

と自分の能力をよく考えて、18願他力念仏1つを勧められているのです。
ここで「下劣根機」たる「極重悪人」だけではなく、「上機」を自負する「定散の諸機」も18願に依らなければ報土往生は遂げられないことを教えられているのです。

自力で初歓喜地まで到達された龍樹菩薩でも自分の力では仏になることができず、極重の悪人同様に18願に帰依されなければ報土往生は遂げられなかったのです。それを

『正像末和讃』

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ

(現代語訳)

像法の時代の智慧ある人でも自力で励む仏道の教えを投げ捨てて、 時代と人間に適った仏の教えであるので、 他力念仏の教えに帰依なさいました。

と親鸞聖人は仰っているのです。

善導大師は、『玄義文』

弘願といふは、『大経』に説きたまふがごとし。「一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせざることなし」と。また仏の密意弘深なり、教門暁めがたし。 三賢・十聖も測りて闚ふところにあらず。 いはんやわれ信外の軽毛なり、あへて旨趣を知らんや。

(現代語訳)

弘願というのは、『無量寿経』に説かれている通りである。善人も悪人もすべての凡夫が往生できるのは、みな阿弥陀仏の大いなる本願のはたらきをもっともすぐれた力として、それによるからである。また仏の思し召しは広くて奥深いから、その教えは容易に知ることができない。三賢・十聖という位にある菩薩でさえはかり知ることはできないのである。ましてわたしは十信の位にも入ることのできない愚かな凡夫である。どうしてその思し召しを知ることができようか。

と仰っています。「三賢・十聖」でもはかり知ることのできない阿弥陀仏の救いを、「信外の軽毛」である善導大師もはかり知ることはできないと仰っています。「信外の軽毛」とは、十信位という説と、十信位よりも下という説がありますが、いずれにしても、善導大師は低い覚りではありますが、そこまでは自力で到達された方です。ですから龍樹菩薩や天親菩薩はもちろんのことですが、善導大師に対しても「下劣根気」「極重悪人」の方とは言い難いでしょう。もちろん善導大師も18願に帰しておられます。

そしてこの後の隠顕釈にて

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。
彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。
その彰とは、阿弥陀仏の弘願を彰すものであり、すべてのものが等しく往生する他力の一心を説きあらわしている。提婆達多や阿闍世のおこした悪事を縁として、浄土の教えを説くという、釈尊がこの世にお出ましになった本意を彰し、韋提希がとくに阿弥陀仏の浄土を選んだ真意を因として、阿弥陀仏の大いなる慈悲の本願を説き明かされたのである。これが『観無量寿経』の底に流れる隠彰の義である。

と法然上人の廃立に対して、親鸞聖人は隠顕で『観無量寿経』を解説されたのです。それは、法然上人は18願を信じて願い求める「宿善の機」に対して仰ったのと、親鸞聖人が18願を見下した聖道門の学僧達への反論との違いです。親鸞聖人は、聖道門の学僧達のために、『観無量寿経』は、聖道門から浄土門へ、そして最後は18願へと導かれることを説かれた経典であることを、善導大師の解釈から説明されているのです。

文証に加えて、御自身の体験を述べられた三願転入の文により、聖道門の人から浄土門、最後は18願へと導かれたことを証拠として出されたのです。

つまりは

釈尊が一切経に説かれている善の勧めが無駄であったというのか

この非難に対して、三願転入の文でまとめの答えとされたのです。
歴史的、社会的な背景を考えれば、聖道門の学僧達を意識して三願転入を説かれた親鸞聖人の御心が普通の思考の方は理解できると思います。

それは三願転入の文の直後に

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の財施時代と正法のためのものであって、像法や末法や法滅の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊財施の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。

と仰っていることからも聖道門の人に向けて言われていることは明白です。
自分は聖道門に長らく迷ってきたけれども、聖道門を信じている皆さんも、早く浄土門に入って、18願を願求して救われてください、とのお言葉です。

以上のように、法然上人の教えの正しさを仏教全体を通して証明されるために、親鸞聖人は従仮入真論を化土巻で展開され、御自身の体験として三願転入の文を添えられた訳です。従って、同行向けに書かれた御著書には、三願転入について触れられることもなく、親鸞聖人の御心を理解されていた覚如上人、蓮如上人も三願転入について言及されていないのです。もちろん、七高僧方も三願転入という概念を持っておられませんでした。

親鸞聖人の教えを信じて、18願他力念仏での救いを求めている「宿善の機」には、三願転入の概念は不要であるからです。

ところが、そんなことも全く理解できない邪義集団は、18願を信じて報土往生を願っている「宿善の機」に対して、19願から始めなければならないなどと教えているのです。「宿善の機」を18願から遠ざけて、平生業成を多生業成としながら、真実を説いている唯一の団体と公言しているのは、正気の沙汰とは思えません。